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大陸の覇者(1)

 堅い混疑土の冷たさも、いつしか感じることも無くなった。

 湿気の多い半地下の牢屋は、四面が混疑土に守られ、正面が鉄格子となっている。水分が滴り落ち、鼡や蟑螂が翔の食べ残しに群がっていた。夏は湿気の相乗効果で蒸し熱く、冬は混疑土の冷たさに加え、唯一外につながる格子窓から雪が入ってきた。東北の地の雪は水分を含んで重く、溶けても水分が冷気で固まり、氷を張った。その氷が、さらに空間の温度の熱を奪った。何度目の冬になるのか、その雪を冷気をはらんだ混疑土さえ、翔には何の感触も何の感情も与えることはできない。

 伊藤翔は、村の罪人として捕らわれていた。
 翔は、この村の指導者を殺した。その妻を、子どもを殺した。そうして翔自身の、大切な人も殺した。おのれの所業に気が付いたときには、翔の周りには見知った人間の亡骸がいくつも転がっていて、それを翔自身がやったのだと聞かされたのは、ここにこうして繋がれる直前のことだった。自分は何もしていない、覚えていないと牢獄から叫んでいたのもはじめのうちで、相手にされないとわかっていても叫び続けていたのだが、いつしか声が出なくなり、いつしか体を動かすこともできなくなり、いつしか何が起こっているのかを考えることもできなくなり、いつしか何も見えなくなり、聞こえなくなった。眠りにおちようとすると、自分が手にかけた女が、翔の体にすがりついてきた。翔は恐ろしくなってその幻影を払いのけようとした。女の名前も思い出すことはできなかった。女を振り払えば、なんにんもの男に取り囲まれた。それを振り払うと、ようく見知った顔がこちらを見つめている。やはり名前を思い出すことはできない。意識の中で翔は狂乱し、何事からも逃げ出そうとし、やがて暗い闇におち、現実に戻り、そうしてまたなにがしの亡霊に取りつかれた。こうして、まともに寝ることもできず、獄中生活の3年目を迎えようとしていた。


***


「なぜあれを生かしておくのです」

 梁当家が翔の手に掛かったあと、村の統率を引き継いだのは前当家の長男、生高であった。彼自身も、翔の叛乱によって右手を喪失している。かつて、父親たる前当家の名参謀として、生高と肩を並べてきたのは次妻の長男、文秀。容貌や言動から冷徹とみられがちな生高と、有能であり人間性も豊かな文秀はよきパートナーでもあった。しかし、文秀は翔の剣によって命を落とした。本来なら翔を庇った筈のかれが、翔本人のかかることとなってしまったのだ。
 その問いはもう何度も聞いた、と生高は思った。そのたびに今は無い右手が疼くような気もするし、父を、母を、そして兄弟を殺されたあの情景を思い出して、収めたはずの憎しみが蘇りそうになる。そうして、それを止められなかったのはおのれの非力だと思考を注入してなんとか感情を抑制し、そうして義弟、文秀のことを思い出す。技能に優れ、頭の回転もはやく、そして誰にでも好かれたあの男こそ、当家の正統なる後継となるべき男であったと生高は思う。後継となれない理由が、正妻の子でないことなど、この村のための何の不利益になろう。その愛すべき義弟が自らの身を挺して訴えたのだ。「文山を殺さないでくれ」と。

「攬把」

と、生高は呼ばれている。攬把とはその地方の馬賊集団を束ねるものの総称で、各地の当家を傘下に置いている。生高の父であり、村の長であった梁続山は「当家」、つまり生高は父亡き後、各地の馬賊集団を隷属させ、大陸の一地方政権を担うに匹敵する武力を保持している。
 現在のこの集落は、前当家が統括したあの村ではない。あのあと、当家不在を察知した周辺の勢力が村に攻め込み、指導者のいない松河村はほぼ壊滅に近い形となった。残った住民は生高の回復を待って勢力を立て直し、居場所を探すべく放浪して、ようやくこの場所にたどり着いた。北京市街のやや南側に位置し、市街地まで早馬で半日。四方は深い森に囲われていて、軍事守備にも有益な土地であった。この地を拠点に据え、生高は村の若い連中を再編成し、村の守備隊としての軍事力を持とうとした。その点は父と同じ思想だった。しかし時代は、大陸の中央集権が倒れ、各地で有力者が覇を競うために勢力を伸ばしており、例外なく生高の村も、侵攻の憂き目にあった。そのたびに撃退を繰り返したが、やがて後手に回るより先手を打った方が損害も少なくて済むと判断し、戦闘で下した馬賊を吸収しながら、騎馬隊の規模を拡大していった。前当家死去からわずか3年足らずで、生高は北京郊外の馬賊をその幕下に収めたのだ。
 しかし、最近になって脅威が目の前に現れた。東北王、張作霖。一馬賊の棟梁から成り上がったこの小柄で色白の青年が、今や袁世凱さえも凌ぎ落とす勢いで、長城の外の勢力をまとめあげている。各地の集落を接収した後は、その生活基盤たるインフラを最低限整備しつつ、住民の好感を買っていることも勢力拡大の一因であるだろう。いまの中央政権に、そんな余裕はない。張攬把は長城を超え、大陸を制そうとしている。中央の袁世凱の北洋新軍をはじめ、各地の地方政権と干戈を交えることになるだろう。そうすれば村人の重税は免れないし、村の若い労働力まで奪われてしまう。生高は村を総べる長として、張の幕下に下るわけにはいかないと考えている。自分の持ちうる力とは、最低限この村を危険にさらさない程度保持できていればいい、と。

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田園都市、春(18)

 
 障子越しに入室を許された。
 古巻は桜花の自室の障子戸を開けた。桜花は机に向かっていた。古巻はその少し後ろに坐した。
 古巻は、ここは自分から切り出すところではないと考えていた。スヨンは無事だった。しかしスヨンの居場所がわかっていながら桜花が手を出せなかったのは、彼女自身の問題ではなく、歌人としての桜花を取り囲む人たちがいるからであり、少なくとも仙内もその一人であり、その仙内と桜花を慕う歌人たちとの今後も考えていたことにほぼ間違えは無い。もしかすれば、自分や千鶴への風当たりなども考慮に入れたのかもしれない。だからこそ古巻は、今朝の朝食でのこのこの話題において、桜花の微妙な立場に思い至れなかった自分のことを浅はかだと思ったし、彼女の内心を考えてやれるだけの思慮が自分にはなかったのだ、至らなかったと思った。だからこの一件に関して、スヨンを確保できた以上の何かを、古巻は桜花に求めるつもりは毛頭なかった。

「スヨンの様子は」

先に口を開いたのは桜花だった。桜花は、相変わらず机上で筆を走らせていて、古巻に振り向くこともしなかった。古巻は桜花の背中を壁だと思った。壁に向かって古巻は話をした。

「だいぶ落ち着いたようです。千鶴さんが、命に別状はないと言っていました」
「そうですか」
「先生、あの」

そう言いかけた途端、古巻は左頬を強打された。あまりにも不意打ちだったので思わず態勢を崩し、右手で体を支え、転倒だけは免れた。一瞬、何が起こったのかわからず、思考が宙を彷徨ったが、そのうちにこちらを向き直った桜花の言葉が、矢継ぎ早に放たれた。

「なんて馬鹿なことをしたのです。あなた一人で乗り込んで、もしかしたら、昨今のことで家を守るために仙内さんのところで屈強な男でも雇ったりなんかしていたら、あなたなんか簡単にとらわれて、どんなことをされるかわかったもんじゃない。あなたが日本人の家に押し入って朝鮮人を連れ出したと、誰かが噂するかもしれない。そうしたらあなた、昨今の新聞に出ているみたいに、猛烈な国粋信者に、後ろから刺されてしまうかもしれないのですよ。これから大学に行こうという時に、あらぬ噂があなたの将来を悲観的なものにしてしまいかねないのですよ」

「お言葉ですが先生、おれは間違ったことをしたとは思っていません。そうですね、住居侵入については罪を問われるかもしれませんけれど、そうなったら罰を受けるつもりでいます。でも、スヨンを無事に連れて帰ってこられたことに関しては、だれに恥じることもありません。噂がたとうが、おれの気が変わることはありません。ところで、今回のことは、今朝方の先生の諫止を聞き入れることなく、勝手に飛び出したことに関しては反省しています。先生にも立場がおありですから、慎重に事を運ぼうとしていたのだと思いますが、そのような社会的機微に思い至れず、自分の感情に任せてあの場を後にしたのは事実です。未熟でした。申し訳ありませんでした」

 古巻は正直、内心非道く動揺していた。がたがたと振動する心臓の血流を感じながら、震える呼吸を自覚して、なお冷静であろうとした。自惚れていたわけではない。だが少なくとも、桜花なら理解ってくれると心のどこかで信じていたのだ。ところが、いざ相対してみれば、世間体だの、過激派だの、まるで小心なところを論う。桜花のことは好きではないが、長年かけて築いてきたある種の尊崇の念が崩れ落ちそうで、この瞬間、古巻にはそれがどうしようもなく耐え難かったのだ。

「あなたはどうなんです」
「はあ、ですから、その一点については反省していると」
「そうではなく!」

 古巻の目の前には相変わらず壁があった。桜花とこうしてまともに向きあったのはいつ振りだろう。幼いころ、障子を破って以来だろうか。彼女の仕事場で墨をぶちまけて以来だろうか。そういえば随分とこうして怒られたものだった。壁はそこにあった。圧倒的存在。超えることのできない存在。好意的な感情を抱いたことなど一度もないのに、逆らうことをしてはいけないのだと、少年の心は本能で理解していた。それはこの年になって、漸く薄ぼんやりと輪郭を持ってきた。この人の言うことには彼女自身の経験や知識からくる絶対的な裏付けがあって、それに従えば行き先を見失うことがないのだ。
 それが壁なのだ。突き破ることも、乗り越えることもできない壁。桜花の胸の内に秘められたこれまでの人生を、感情を、思考を、こんなに近くにいながら古巻は何一つ知らないのだ。自分は桜花にとって、それを打ち明けるだけの存在には今だ不足なのかもしれない。
 古巻はふと惨めな気持ちになって、頭を垂れた。そのとき、強く腕を引かれた。何が何やら解らぬまま、気が付けば、桜花の腕の中にいた。押し付けられた胸のあたりから心臓の音が聞こえるようだった。桜花の腕に込められた力のあまりの強さに、痩身の古巻の背中は折れてしまいそうだった。まるで掬い取られるように引き寄せられたので、自分の体重をすべて桜花に預ける形となっている。
 そのうちに、なんだかいたたまれない様な心地がしているのも、次第に薄れてきた。時計の針がこちこちと動いている。古巻は、目を閉じた。おのれの気持ちに決着はついていないのに、なぜだか、そうなぜか、安心できた。

「あなたは無事ですね」
「当たり前です。ミイラ取りがミイラになっては格好悪いでしょう」
「世間体など気にせず、己の信念を貫けとあなたに教授したのはわたしです。でもそれがあなたを傷つける結果になりかねないのだと、今朝、あなたが出て行った後に気が付いて愕然としました。
もっと早く、わたしがスヨンを助け出せていたら、わたしに、もっと力があれば、あなたにこんなことさせずに済んだのに。でも、心のどこかで、あなたがスヨンを受け入れてくれたこと、あなた自身の意思で行動してくれたことを誇りに思ったんです。本当は、あなたをバラック街に連れて行かなければ今回のことは起きなかったのかもしれない。でもわたしは、あなたが時代の風評に捉われず、己の意思を貫ける人間に育ってくれたことを心の底から嬉しいと思ったのです」
「こんなこと言いたくありませんが、もう長く、あなたの背中を見てきましたから」
「あなたを守らねばならぬ立場の私が、あなたの命に係わるかもしれない行動を称賛するなど、あってはいけないっことなのかもしれません。自分を棚に上げて、あなたにばかり負担をかけてきた。わたしはやはり、あなたの庇護者には相応しくないかもしれません。きっとこれからそうして悩み続けるでしょう。ですから古巻さん、どうかあなたの望むものが見つかるまでここにいてください。あなたが認めてくださらなければ、桔華はいつまでたっても、桜花にはなれないのですから」

 頼ってばかりいたのはおれだ、と古巻は思う。
 頼ってくれていたのか、と思った。流水に突き刺さる竿が、一つ抜けたような心地だった。

 焦っていたのだろうか。自分が大人になれなことを。桜花と対等になれないことを。
 何も話してくれない桜花に焦れる想いを抱いていたのは、無意識のうちに彼女を理解したい気持ちがあったのかもしれない。だがおそらくそうではないのだ。古巻が自分で思ってるほど、桜花は遠いところにいるわけではない。

 いつか話してくれるだろうか。「桜花」の歩んできた人生を。

 桜花が誇りだと称してくれた自分を、誇りたい気持ちだった。
 桜花の胸の中で眠りに落ちる瞬間、古巻が大好きだった祖母の顔が浮かんだ。その笑顔は、今自分を包む温もりのそれと同じものであった。


*****


 明くる朝。
 割と早朝。

 
「あー!!待って待って千鶴ねえちゃんまだ鍋に大根入れちゃダメー!!」
「え、あ」

 入れちゃったらしい。

「ちょ、そっちそっち、ふきこぼれてる!!わー!魚焦げてる!煙ーー!!」

 台所であたふたする千鶴と、右手が折れているので、賄の粗相に気がついても思うように手を出せないスヨンが、さながら早朝の鶏のように忙しく立ち回っていた。
 その光景を前に呆気にとられ、手も口も出さずにぼさっと突っ立ってるのが古巻。本日寝坊。

「あ、遅い!なにしてんの早く手伝ってよ、ただでさえ食材少ないんだから魚一匹だって無駄にできないんだよ!」

 そんな古巻を見つけて、スヨンが姦しく古巻を呼んだ。

「何台所仕切ってんだよ」
「別に仕切りたくて仕切ってるわけじゃ……、あああ、千鶴ねえちゃん後ろ七輪!!」
「お前怪我は。もう起きても大丈夫なのか」
「いつまでも寝てるは性に合わないんだ。千鶴ねえちゃんもね、ちゃんとお薬を飲んでいれば、少しくらいは動いてもいいんだって言ってて」

 といったそばで、七輪からこんがりと焼き目のついためざしが落ちた。千鶴が急いで拾おうとして素手を出して、当然熱くて拾うことはできなかった。

「少しくらいは、ねえ」
「おかしいねえ、千鶴ねえちゃん、お医者さんみたいだし薬の調合とかもすごくできるのに、どうして料理はできないんだろ」

 やれやれ、と古巻は立ち上がった。まだ顔も洗っていない。中庭の井戸に向かおうと廊下に出ると、スヨンが後ろから呼び止めた。

「ありがとう、助けてくれて」

 スヨンに素直に礼を言われるとは思わなかった。古巻は返す言葉を見失って、言葉に詰まっていると、

「ま、古巻なんかいなくても、おばあちゃんが助けてくれたかもしんないし?」

 と捨て台詞とともに台所へ戻っていった。
 古巻は自分の一時的な感情を撤回し、

「おいせめて敬称つけろ!年上だぞ!」

 と怒鳴った。すると台所から

「だって男なのに背小っちゃいし痩せっぽちだし後ろ髪結ってるし、年上って感じしないんだもん!」

 と、こんな調子で二人の応酬が始まった。

 朝から賑やかなことである。ほんの数日前までは、古巻と二人だけの、静かな朝ばかりだったのに。

 桜花は文机に向かい、遠くの喧噪を愛おしく聞いている。
 開け放った障子戸から春の風が書斎に吹き込んだ。いくつか半紙が飛んだ。
 桜花は筆を執った。何枚か書いて、書き直して、そうして書き上げたころ、朝食ができたとスヨンの声が飛んできた。桜花は自室を後にした。

 薄氷砕く草芽土中の牛若に きよもりなりて何語るらん

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2013/05/19(日)
4、田園都市、春

田園都市、春(17)

先ほどまで古巻の腕の中で抵抗していたスヨンが大人しくなった。

このまま病院に連れて行くことも考えたが、先ほどの光景が思い出されたのでやめた。要するに、スヨンの出自をうまく思わない連中と新たな騒ぎになることは避けたいと思った。

電車を乗り継ぎ、桜花宅の最寄駅からはスヨンを背負った。決して頑強ではない古巻では、抱きかかえたまま歩行するのが体力的に難しかったからだ。前に抱きかかえるよりも楽だといっても、スヨンの体を何度も落としそうになり、そのたびに背負いなおして、一路、家路を急いだ。町医者に診せることはできなくても、家には千鶴がいる。飯も食わしてやれる。風呂にも入れてやらねば。そうして思考を巡らせていて、ふと、肩口で寝息を立てていたスヨンが覚醒する気配がした。

「起きたか」
「どこ、いくの」
「うちに帰るんだ」
「うちって、どこ」
「調布。そうか、お前は初めてか」
「日本に、あたしたちの帰るところなんて、無いよ」

力なく、ぽつりとスヨンはそう言った。古巻はすぐにそれに答えなかった。

「あのね、母さんも、アボジも、朝鮮から来たんだよ。日本でうまくいかなくても、二人は、朝鮮に帰ればいいんだ。でもね、あたしは日本で生まれたから、向こうに行っても知ってる人も頼るところもない、日本にいても、日本人じゃないから相手にしてもらえない。ねえ、あたし、どこにいけばいいのかな。アボジがいなくなって、旦那様にも会えなくなって、母さんも死んじゃった。どこに行けばいいんだろう、あたし、もう疲れちゃった。だからもういい、お願い、あたしをここで捨てて行って。そうすれば明日にはもう、動くこともできなくなっているよ。三日もしないうちに母さんに会いに行ける。会いたい、会いたい――」

オモニ、とスヨンは言った。ミヨンのことは、古巻たちの前では決してオモニとは言わなかった。これまでスヨンは古巻に対し、施しは受けぬとその手を振り払ってきた。それが彼女の精一杯の強がりであることは古巻にもよくわかっていた。頼るところの無い孤独。信じたものに裏切られる辛い思い。それが彼女を追い込み、辛辣な環境が彼女の反面教師となり、頑なな態度をとらせたのであろう。まだ10歳を超えたばかりの少女である。異国での決して順風でなかったであろう体験は、彼女には耐えるに忍びないものであったに違いない。

「おば……ちゃんは」

 おばちゃんと言ったのかおばあちゃんといったのか、古巻には聞き取れなかったが、桜花のことであろうと古巻は思った。

「信じたいって、思った。旦那様のところにいるときも、日本語、教えてくれたり、歌聞かせてくれたり、優しくて、綺麗で、あそこから追い出された後も、あたしたちを探しだしてくれた。でも怖かったの。大好きだから、また裏切られるんじゃないかって、また、捨てられるんじゃないかって、だったら、あたしから縁を切ってしまおうって。持ってきてくれるごはんや薬、突き返したりして、もう来るなって、何度も言ったりして、あたし、ほんとうにおばあちゃんに嫌なこといっぱいして」

 まるで独り言のようなスヨンの繰り言を、古巻は小さく頷きながら聞いていた。顔も上げずに呟いているから、スヨンの言葉は古巻の肩口の皮膚から直接、脳髄に響いてくるようであった。

「なのに、毎日きてくれるんだ。あたしが会いたくないから家にいても、おばあちゃんの長屋街での振る舞いを誰かが持ってきてくれた。オモニが死んだときも、近くにいてくれた。でもあたしはそれが嫌で逃げ出して、旦那様の家に監禁された時もすぐに見つけ出してくれた。毎日、奥様にあたしを解放してほしいってお願いに来てくれたんだ。どうしてそこまでしてくれるのかな。あたしたちは、日本人から嫌われてるんだよね?あたしたちと関わっているなんて人が知ったら、おばあちゃんもみんなに嫌われちゃう。千鶴姉ちゃんも、あんた、も」
「知るか。言いたい奴には言わせておけばいい」
「旦那様にオモニのこと伝えられなかったな」
「先生に言っておく。安心しろ、ああ見えて約束は守る人だ」
「そう、だね。きっと、おばあちゃんなら、だいじょ、ぶ……」

 スヨンが次に目を覚ました時、この独白の多くを覚えていないだろう。これはあくまで彼女の心の中の声なのであり、古巻が聞くべきものではなかったに違いない。
 少女の寝息が再び聞こえ始めた。スヨンの強がりは、朝鮮人と関わることで自分たちへいらぬ害が及ぶことを考えた上での行動でもあったのだと理解した。こどもにそんな気遣いをさせた自分に憤り、しかしその憤りの根源がこの時代の空気であることに思い至り、煮え切らなくなった。
 どうかしている、と思う。自国民でなければ人間でないといわんばかりのこの現状を。さもなくば自らが指導民族であり後進の近隣諸国をまつろわせねばならぬというお節介な義務感を。
 いや、それは自分のような一般臣民の思い至るべきモノではない。政治家や軍人や、外国と貿易しているような連中が描いている妄執に、わざわざ付きあってやることもないのだ。

 家の前には桜花と千鶴がおり、スヨンを背負った古巻を認めると、今にも泣きだしそうな顔をした千鶴が駆け寄ってきた。千鶴の指示の下、スヨンを寝かしつけて体をぬぐってやり、点滴ができぬからと起きたら食わせる滋養剤を作るよう古巻は申しつかり、台所に立った。古巻にすれば得体のしれぬ黒い濁り汁を千鶴に預けると、顔も綺麗になったスヨンは先ほどまでの苦しそうな表情もなく、穏やかな寝息を立てていた。とりあえず、命に別状はないという。千鶴に礼を行って部屋を出ると、すでに日が暮れていた。廊下を渡り、古巻は灯りの灯っている桜花の自室の、障子越しに声をかけた。


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2013/03/04(月)
4、田園都市、春

田園都市、春(16)

使用人たちの腕を振り切るようにして、かたっぱしから部屋の扉を開けていく。4つ目の部屋は障子で、取っ手に手をかけたところで中に人の気配がした。古巻はその腕に力を込めるとためらいなく開け放った。

6畳ほどの和室に、スヨンがいた。
ぼろぼろの服のままで。畳に横たわり、ようやく顔だけ上げて、古巻の顔を見た。
食ってない。古巻は直感的にそう思った。
スヨンはそのまま意識を失うようにまた顔を伏せた。古巻が駆け寄り、抱き起した。しばらく風呂にも入っていないらしい。ひどく異臭がした。

「大丈夫か。帰ったらなんか食わせてやる」

古巻はスヨンを抱き上げようとした。するとさっきまで体を動かすことすらできなかったスヨンが、古巻の腕を拒んだ。

「なにしに 来たの」
「何ってお前、バラックからいなくなったというから、先生たちが心配して探しているんだぞ。お前が来るところといったらここしかないだろう。だから連れ戻しに来たんだ」
「頼んでない」
「そんな状況で何いいやがる」
「頼んでない!」

 古巻の腕から逃れて、体が畳に落ちたスヨンは、ようやく上半身を起こした。

「旦那様に母さんのこと、伝えるんだ」
「お前らを捨てた男だぞ。今更なにを義理立てする必要がある」
「捨てられたんじゃない。あんたたちがそう勝手に判断しているだけだ。旦那様はいくところのない母さんとあたしを助けてくれたんだ。母さんは最後まで旦那様に感謝していた。そのことを伝えなくちゃ。あたし、それまでここを動かない」
「バカかお前!仙内はいつ戻ってくるかわからぬ、その前にそんな状態ではお前が先に死んでしまう」

 古巻は改めてスヨンの手を引いた。痣だらけの細い腕。顔には大きなけがはないようだが、着物の襟もとから除く肌にも、大きな赤い痣があった。
 仙内の細君は先ほどから、使用人を後ろに控えさせて、二人の様子を眺めている。

「丁重に持て成しているのではなかったのか」
「持て成しておりますわ。わざわざ部屋まで用意してやったのですよ。迷い込んできた犬に、こうして人間と同じ屋根の下で暮らさせてやっているのです。格別の扱いではなくて?」
「犬?」
「犬ですわ。帝国臣民の飼い犬。そうでしょう?」

 古巻はもはや、この女と話す気も失っていた。頭の中の深いところで、なにかがぐつぐつと燃え滾るような思い。それを体内に押しとどめながらスヨンに振り返り、抵抗する少女に一切構わず、抱き上げた。スヨンはさらに抵抗し、なにやら叫んでいたが、古巻はそれすら聞き入れなかった。

 スヨンを抱えて仙内邸を進むと、それを蔑むような視線を痛いほど浴びたが、門を出ても二人を追ってくるものはいなかった。警察に通報するといっていたが、まあいいだろう。先生には少し頭を下げてもらうことになるかもしれぬが、スヨンを確保できたことは何よりの成果だった。

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2013/01/27(日)
4、田園都市、春

田園都市、春(15)

「どういうことです、スヨンがいなくなったってことは、ミヨンさんはどうしたんです」
「あそこに、あの二人が住んでいた小屋はもうありません。あの一角はすでに取り壊されています」
「一体なんで」

そこまで言いかけて、古巻も察しがついた。千鶴もすでに気が付いているようだった。

「取り壊しになったのは、ミヨンさんが亡くなってすぐのことだったそうです。私が3日前にバラック街に行ったときは、すでにその一角は無くなっておりましたし、ミヨンさんやスヨンの姿もありませんでした。近くの住民に顛末を聞いたら、以前より開発のためにかの一角を区画整備する話が上がっていて、彼女たちが最後の住民だったのだそうです。ですから、ミヨンさんの逝去と同時に、その一角を府に売ったのだとか」
「そんな、じゃあスヨンは」

そういいかけて古巻は立ち上がり、駆け出そうとする。当然ながら桜花から静止の声が掛かった。

「ですから、今人をやって探させているのです。あなたは大人しくしていなさい」
「あんたもずいぶん冷血だな。あの親子に関わっていったのはあんたじゃないか」
「わたしは、私がするべきことを優先します。それに、この広い東京で人ひとりを探すのにかけられる人手も限られている以上、効率的に探さねばならない。今あなた一人が捜索に関わったところで、その効率が上がるわけでもない。弁えなさい」
「悪いが、あんな小さな子供一人、3日も探して見つからないような連中にまかしておける気がしない。先生、あんたも人が良すぎるんだよ。手遅れにならないうちに、おれは行かせてもらいます。では、また後で」

 古巻は再度の桜花の静止を聞き止めることなく、その場を後にした。
 直感的に、スヨンの行先に見当がついたのだった。ミヨンとともに長く住み込んでいた仙内邸。最終的にスヨン親子は仙内に裏切られる形となったが、数年間親子の面倒を見てくれたことも確かで、スヨンはおそらく、ミヨンの死を仙内に伝えようとするだろうと古巻は考えたのだった。しかしおそらく、かの家は夫婦仲も睦まじくなく、仙内は長く家をあけているのだろうし、それでも仙内邸を訪ねたスヨンを留守宅のご内儀が見止め、屋敷内にとどめ置く可能性がある。ミヨンの顔に痣を拵えるような扱いをする女なのだ。それは夫婦間の不仲を他人に八つ当たりすることで解消しようとする性なのかもしれないし、それが世間的に被支配民族と言われている半島出身者のスヨンであれば、なおのこと罪の意識も感じないことであろう。彼女が仙内に会わせてほしいと懇願に来たとしたら、それを留め置く可能性は十分に考え得る。新潟に出稼ぎに行っているという父親のもとに行くというパターンもあり得るが、そもそも5年前から音信不通であるという。現実的には考え難い。

 古巻は自らの直感を信じ、日暮里へ向かった。
 桜花はもしかしたら、そのことには気が付いているのかもしれない。しかし仙内へ手前、強硬に手を出せずにいるという状態なのかもしれないと古巻は思った。
 
 だったらなんだというのだ。
 人ひとりの命がかかっているのだぞ。

 もしかしたら、自分の推測は外れているかもしれないが、少なくともこれ以外で、直接スヨンの命にかかわることは考えにくい。仮に新潟に向かったのだとしても3日では飢えることもないだろう。電車賃があるとも思えないから、仙内邸を覗いた後に追いかければ十分間に合うはずだ。少なくとも今考え得る最悪を潰すのが先だと、古巻は仙内邸の門の前に立った。西洋風の門構えをもつ立派な屋敷だった。大きく深呼吸をしてから、古巻はその敷地に足を踏み入れた。

 声を掛けると使用人と思われる中年の女性が対応した。まっすぐと要件を述べていいものか思案した挙句に、古巻が出した結論は、「ここに10歳くらいの女の子が訪ねてきていないか」と素直に尋ねることだった。女性はまず古巻の足先か頭頂を一通り眺めてから訝しげに首をかしげた。どうやらこの人は本当に心当たりがないらしいと古巻は判断するやいなや、女性を押しのけて家の中に侵入した。あわてた女性が引き止めるような声をかけたが、古巻は意に介さなかった。

 さすがに対応に困り果てた使用人が大声を上げると、古巻の突き進む廊下の前方に、若い女が立ちふさがった。彼女は半分暴漢じみた古巻に怯える様子もなく、屹然として古巻を検分した後、「何か御用かしら」と言い放った。古巻はこれが仙内の後家なのだと思った。ミヨンを虐待するような女なのだ、狂気じみているのかとも考えていたこともあってか、この対応には正直内心で関心した。

「スヨンが来ているはずだ。引き取りに来た」
「来ておりましてよ。ところであなたは何者?招き入れてもいないのに、不躾な」
「スヨンはどこにいる」
「主人の来客ですもの。丁重に持て成しておりますわ」

話をしていても埒が明かぬと古巻が歩を進めようとすると何人もの使用人たちが古巻を取り囲むようにして行く手を阻んだ。

「あなたのことは警察に通報させていただきますわ。人の家に勝手に上り込んで一体何様ですの」
「待て、スヨンがここにいるんだろう!いないのかスヨン!返事をしろ!」


『古巻おにいちゃん!』


 微かに聞こえたのみだった。しかし古巻には確かに聞こえた。
 確証を得た古巻は、使用人たちの手を押しのけ、目の前の後家を押し切って屋敷の奥へと急いだ。どこだスヨン。いま、助けに行くから。待っていろ。
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2013/01/05(土)
4、田園都市、春

田園都市、春(14)

***


 それから、古巻も中学の新学期が始まり、教室での新しい顔ぶれと来年の進学・就職を視野に入れた今年一年の行事、授業内容に関するオリエンテーリングをこなしながらあわただしい一週間をすごし、気が付けばまた土曜日を迎えた。日頃、最上家では古巻が朝いちばんに起きだして台所に立つのが常であったのだが、千鶴が来てからは彼女が先だって台所の拭き掃除などをこなすようになっている。料理などはやはり危なっかしくて任せることができず、なれば古巻よりも早く起きてきて何かできないかと、彼女なりに考えた結果らしかった。当初は床が水浸しになることも多かったが、最近では千鶴も要領を得てきたらしく、古巻が起きてくることには一通り拭き作業は終わっているという状態にまでなった。

 朝食の用意なども、古巻は千鶴に指示をしながら行う。古巻がまな板や鍋に向かい、千鶴が配膳を行う役回りだ。同時に3人分の昼飯の準備なども行うが、それでも古巻が一人で準備していたころの、2/3の時間で終了する。桜花が起き掛けの気怠さを引っ提げて茶の間に顔を出すころには、3人分の食膳が並び、古巻は主人よりも先に今朝の朝刊を広げているし、千鶴はお茶の用意などしている。今朝はそれがずいぶん顕著に整い、朝の挨拶そこそこに大きなあくびを終えた桜花が一言、

「いつからここは若い夫婦の住まいになったのでしょう」

と言って、姑たる自分の振る舞いや如何などと宣ったところで、千鶴が赤面したまま硬直した。古巻には黙殺され、早々に着席する旨のみ告げられた。

 庭には小さな桜の木が一本だけ植わっている。古巻が十歳のときに桜花がどこからかもらってきたもので、もともとは田町の住居に植わっていたものであったが、主人の引越にも付き合ってもらった。身長がなく、こじんまりと咲く。その小さな花つぼみが、先日から開花を始めていた。上野や飛鳥山に比べるべくもないが、花びらの一枚二枚と舞い散るさまを眺めながら、休日の気忙しさのない朝飯を取るのも悪くない。家の主人が歌人として「桜花」を名乗っているので、それに肖ったのかと聞いたことがあるが、とくに意味は無いと一蹴された。そうしてそのとき十歳の古巻の印象に残ったのは、今しがた植えたばかりの小さな苗木を見下ろして、己の心の中に何かを強く戒めているような強い視線を向けていたことだった。その胸中を打ち明けてもらえるには、自分はまだ未熟なのだと古巻は思った。
 庭の桜を、桜花が愛でたのを見たことがない。千鶴が庭の桜に気が付き、その風雅を称えたが、案の定桜花の反応はその桜そのものからうまく身をかわして返答したため、古巻が適当にフォローを入れた。そうして改めて、古巻は「そろそろその理由をお聞かせ願いたい」という猜疑の目を桜花に向けるのだけど、その視線を黙殺して白米を口に運んでいる。

「今日は10時から出版社の編集の方と歌集についての打ち合わせでしたね。午後は同人『のはら』の集まりが駒込で。終了予定の18時にはお迎えに上がりますから、駒込までお送りした後にお時間をいただいてもよろしいですか」
「スヨンのところにいくのですか」
「ええ、そのつもりです」
「今日は、歌の読み合わせなどもありますので、古巻さんには口述筆記をお願いしたいのですが」
「ミヨンさんの様子も気になるので、今日は辞退願いたいんですが」
「古巻さん」

 千鶴がふと箸を止めた。桜花は古巻と向き直って改めて自分に同行してほしい旨を告げた。

「はあ、では、先生にはご足労ですが、駒込の集会が終わりましたら上野に寄ってもよろしいですか」
「スヨンに会うためなのでしたら、必要ありません」
「なんでそんなこと言うんですか。だったら明日にでも行ってきます。本当なら、今からでも様子を見に行きたいくらいなんです。先生だって、ミヨンさんの容体が芳しくないことくらい承知しているでしょう!」
「あそこにはもう、スヨンはいません」
「は?」

 3日ほど前より、バラック街でスヨンの姿を見なくなったと桜花は言った。
 今、スヨンを知る桜花の歌仲間らが彼女の行方を捜しているところだという。

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2012/12/08(土)
4、田園都市、春

ゆささまより古巻祭りをいただきました。

括目せよ!
あの大人気イラストレーターゆささまより、kanayanoは性懲りもなく美麗イラストをいただいちゃいましたよ!

古巻祭り①

ええもう、ゆささまに書いていただけるなら、古巻手前ご神体にでもなんにでもなりやがれ!( ゚Д゚)
という気持ちです。古巻がいっぱい~ どことなく今の話では残念感漂う彼ですが、ゆささんのイラストだとめちゃくちゃ和む。

現在連載中の「田園都市、春」で、狂言回しになっております北条古巻の一挙動を、ゆささまにたくさん描いていただきました☆
簡単に略歴を説明しますと、大正9年現在16歳、歌人最上桜花の書生として、東京で暮らしております。
財閥会長の息子だけど、本人はあんまり興味なし、読書が趣味、特技は家事という一般的なヒッキーであります。
「桜花往生」の主人公の一人。舞台版でも文句なく人気ナンバーワンだった古巻です。
ゆささまにこんなに美しく書いていただいて作者は嬉しい。

古巻祭り②

偶然、メールでお絵かきしている旨のご連絡をいただき、ぶしつけにも「そ れ、く だ さ い」(←濁りの無い眼)と申し出たところ、お送りいただきました。いつもいつもありがとうございますしかも2枚!!
あいかわらず更新遅めのわたしに次の更新のHPを回復させてくれる、まさにハイポーションのような2枚でありました…。

わたしの文章は荒削りなところが多いので、読みにくいだろうなという自覚はあるのですけれど、
こうして小さなシーンの一つずつを拾ってくださって、描き起こしてくださって本当に嬉しいです。

ありきたりな言葉でしか謝辞を表すことができませんが、ゆささんいつも本当にありがとうございます。

「田園都市、春」は、大正12年編につながるお話で、桜花、古巻、千鶴、スヨンと、実際友人に演じてもらったキャラたちを動かしています。もちろん、当時の脚本を書いたのは私なんだけど、彼らはわたしの子であってそうではないというか、どこか2次創作的な気持ちで話を進めています。
もし、劇部のだれかがここを見ていたら、「桜花はこんなじゃねえ!」というかもしれない(苦笑)
それも10年分の、kanayanoの経験値と思考の変化なのだと、どうかご寛恕くださいませ。

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田園都市、春(13)

 
***


雨の音が聞こえる。
靴の中に雨が侵入し、水の冷たさを直に感じている。いきなり降り出した雨を避けるような建造物も無く、ここまで走ってきたのだ。服も水を吸って重たい。膝を抱えるようにして身を縮こめているけれど、近くの農民が拵えたものであるだろう薪置きの粗末な納屋では、降ってくる雨を完全に避けることはできない。

古巻はぶるっと身を震わせた。
ここにくるまで何度も転んだ。手も顔も泥だらけである。

「母さん」

鼻をすすった。涙が溢れてきた。

「おうかさま、たくま」

今一番会いたい人たちの名前を呼んだ。数日前まではすぐ近くにいたのに、今このとき、この場所で、彼らに古巻の言葉は届かない。

母が死んだ。
竹やぶで首を吊ったのだ。

そして、それを発見したのは古巻だった。もう一週間も行方が知れぬ母を、関係者が総出で探していた。古巻は夢を見た。母が古巻の手を引く夢だった。そして自分が死んだことを、誰のせいにもしてはいけないと言った。夢の中で、母に呼ばれた気がした。
そうして幼馴染の拓真を連れて、声のする方へ走った。母はそこに、居た。
古巻の父親は、普段から留守がちでなかなか家には帰ってこなかった。母は、それだけ責任あるお仕事をしているからと言っていたけれど、帰ってきても母親に素っ気ない父がどうしても好きになれなかった。そんなある日、父は帰ってくるなり珍しく笑顔で、出かけようといった。古巻は嬉しかった。こうして家族で出かけるなどということは、これまでにないことであったからだ。

しかし、その喜びはすぐに失望に変わった。父は意気揚々と京都駅のプラットフォームに立つと、「今日は桔華が帰ってくるんや」と言った。古巻は、それが誰なのかわからなかった。姉、ゆゑは嬉しそうな顔をした。母も心底ほっとしたような顔をしていたが、古巻はその表情になにか影のようなものを感じた。それはなんの根拠もないものであったが、その幼い心がなにか嫌なものを感じたのは確かだったのだ。

滑り込んだ電車から降りてきたのは、母と歳の変わらない女だった。父親は満面の笑顔だし、姉も笑顔だった。母も、どこかほっとしたような表情をしていたが、古巻はその女に酷い嫌悪感を抱いた。しかも、古巻の尊敬する曾祖母、桜花の名前をこの女がもらうという。ますます意味が分からない。なぜこんな見ず知らずの女が、いきなり自分の世界を壊していくのだろう。父はなぜ、母ではなくこの女にだけ笑顔を見せるのだろう。古巻は、桔華に差し出された手を全力で払った。この女だけはどうしても許せなかった。絶対に許すことはできなかった。

母の葬式が終わる頃、「桔華」は京都を去った。
夏の終わり、秋の風が混じる早朝、古巻は父親に手を引かれていた。朝、いきなり叩き起こされ、何も聞かされずにここまで引っ張ってこられたのだ。父は、「桔華」に古巻を預けたいと言った。そして古巻と桔華を抱いて、泣いた。母の葬式でも一度も涙を見せなかった父が、桔華の前では泣けるのだと古巻は思った。古巻は、今度は桔華に手を引かれた。別に寂しいとは思わなかった。ただ、ずっと仲の良かった友人にさよならが言えないのはつらいと思った。

それから、「桔華」とは口を利かなかった。
彼女が桜花と呼ばれていることは知っていたけれど、古巻はそれを絶対に認めたくなかったし、この女には父親と同じくらい嫌悪感を持っていた。母がずっとつらい思いをしてきたのはこの女のせいなんだ。東京について三日ほど、出された飯にもほとんど手を付けずに強情を貫いてのち、古巻はとうとう「桔華」の東京の自宅を出た。京都の実家への道など全く分からなかった。また、草履もはかずに来た。途中で雨が降ってきた。小振りのうちは我慢していたが、やがて本降りになってくると、とうとう前に進めなくなり、ようやくみつけた納屋でひとり、ぼんやりと懐かしい人たちの名前を思い出していた。

やがて日が暮れた。
人通りも少ないらしいこの界隈は、雨のせいもあってか、古巻が雨宿りを始めてから通りかかるものもいなかった。古巻は冷え切った身体を抱えて、ぶるぶると震えていた。母が居なくなってしまった。大切な友人とも離れてしまった。尊敬する祖母には、「彼女を桜花として認めなさい」と言われている。なにもかもが古巻の心のままにならず、ぐしゃぐしゃに握りつぶされているような気持ちだった。せめて会いたい。桜花様や、拓真に会いたい。そんな気持ちで家を出てきたのに、どうやらそれも適いそうにない。古巻はとうとう泣き出してしまった。どうしてだれもぼくを見てくれないのだろう。ぼくはいらない子なのかな。母もいない。父もいない。祖母にも、友人にも会うこともできない。あいつを認めたくない。もういやだ。こんなのもう、全部いやだ――。

 ふわりとあらわれた人影は、古巻もよく知るものだと思った。
 桜花様だ。この世で一番尊敬している祖母が、いまここに、たいへんな思いをしている古巻を助けに来てくれたのだと思った。古巻は顔を上げた。そうして、どろどろの顔と着物のまま「祖母」に抱きついて、大声で泣いた。わんわんと泣いた。「祖母」はただ黙って古巻の頭を抱いていた。泣きつかれた古巻は、やがて意識が朦朧としてきた。そうしてやっと気が付いた。この女は祖母ではなかった。あの女だった。あの女の中に、古巻ははじめて祖母を見た。彼女の着物も、雨と泥でぐしゃぐしゃだった。ああそうか、少しならこの人を信じられるかもしれない、古巻はこのとき、初めてそう思った。

 古巻は、桔華の背中に背負われていた。
 静かな夜だった。雨は上がった。うとうとしながら、背中から伝わる彼女の体温を感じていた。

「ねえ古巻さん、わたしは、あなたに認められてこそ、本当の桜花になるのかもしれません」

 だから決して、古巻は彼女を桜花とは呼ばない。
 彼女が本当に桜花たる器なのかを、見極めねばならぬのだ。

 それがいま、おれがここに在る意義なのだ。

 だから知らねばならぬと思う。京都に戻ってくるまでの10年に、彼女が一体何をしたのか。何を見てきたのか。


*****


 古巻は寝所に身体を起こした。
 あの時の夢を見るのは久しぶりだった。

 時計は、夜半過ぎを示していた。思えばこの10年、桜花は決して、自らの過去を晒すことはなかったように思える。今なぜこうしてスヨンの母娘に関わろうとするのか。もしかしたら、それはいままで触れることができなかった桜花の過去に何か関係があるのかもしれない。

 
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2012/10/28(日)
4、田園都市、春

田園都市、春(12)

***

用意した握り飯をスヨンと千鶴の3人で平らげ、残りは母親にとスヨンに預けて、本日のところはバラックを離れた。古巻は、自分にも桜花のような振る舞いはできるだろうかと考えて、真似事のようなことはできるかもしれないという結論を出した。来週には学校も始まるから毎日というわけにはいかぬが、週末に昼飯を振舞うくらいならできるかもしれない。

帰路、千鶴はやはり俯き加減に、古巻の一歩後ろを歩んでいた。ミヨンへの振る舞いは、到底素人のものではなかったが、それをカサに着るということも無い。朝と同じ、古巻になんらかの引け目を感じているかのごとく、不安げにその背中を追っていた。

調布の駅に降りたころには、すでに日は傾きかけていた。仕事帰りのサラリーマンが、無言でプラットフォームを流れていく。
駅から桜花の自宅まで、徒歩で10分程。駅前の喧騒を抜けると、静かな住宅地を抜ける路地に入る。ここまでほとんど口を開かなかったが、いままで散々考え抜いていた問うべきか問わぬべきかを超越して、ごく自然に千鶴へ話題を振った。

「医学の心得があるのですね」

千鶴はびくりと身を震わせて、視線を上げた。返事ともつかぬような声を発し、そしてまた押し黙ってしまった。

「南部盛岡藩には、元禄のころに活躍した朝倉長兵衛という医者の末裔がいて、徳川瓦解の後も政府から侯爵の身分を与えられ、東京へ召還を請われるほどの高名な医者の一族がいるのだと聞いたことがあります。おれの勘違いでしたら、すみません」

千鶴は、古巻の言葉を聞き終えて、そうしてやっぱり、こみ上げる感情を堪えるように体をこわばらせていた。顔を上げずに「ご推察に相違ありません」と答えた。

「そうでしたか。助かりました。おれ一人では、今日のミヨンさんの急変をあそこまで介抱してやることはできなかったでしょう。ありがとうございました」

古巻はそれだけ言ってまた歩き出した。もっと突っ込んだ話をされるのだろうと身構えていたらしい千鶴は、あわててその背中を追った。

「あの……」
「なんですか」
「いえ、その」

「古巻さんは」とそこまで言って、千鶴ははっとして口をつぐんだ。恥じらうように顔を背ける。古巻はそういう反応にあまり慣れておらず、正直とても動揺した。

「かまいません、おれも、千鶴さんとお呼びしますから」

どんな顔でこんなことを言ったんだろうと思うと、顔面が延焼するような思いがした。
顔を上げた千鶴は、今日一番、驚いたような目をしていた。咎めごとを許された子どものようだった。

「なにか」
「古巻さんは、将来、北条の会社をお継ぎになるのですか」
「はあ、いや、なんというか」

 前触れもない質問に、古巻は首を傾げて頭を掻いた。

「『北条』の会社を知らぬ者は、今の日本にはおりません。三井や古河に並ぶ巨大なコンツェルンです。その会長の名前は、北条古月さまです。珍しいお名前ですから、初めてお伺いしたときにもしかして、と思ったのです」

 普段は控えめにしてはいるが、世の中の動きを理解しているし、洞察力もある。頭のいい人なのだろうと古巻は思った。それにしても、それと会社の将来が、千鶴の中でどう結びついているのかは分からなかった。そこまでは追及すべき時宜ではないかもしれない。

「ええ、こちらもご推察のとおり、北条古月はおれの父親ではありますけれど、おれは京都の実家を離れて長いし、あまりつながりも強くありませんから、おれ自身は会社を継ぐつもりもないし、会長も考えてはいないでしょう。会長は、血縁とか縁故とか、そういうものには恐ろしく無頓着な男なんで」
「そのことを、お辛く考えたことはありませんか」
「辛い?何がです」
「自分の意志とはかけ離れたところで、名前ばかりが先行していく。あそこの血縁なのだろう、さぞかし立派なご子息なのだろうと、好奇と期待の溢れる視線を向けられるわが身を顧みて、先人の行いに比してわが身のなんと卑小なこと。わたしの存在が、朝倉の名前に傷をつけてしまうのではないか。そう思うと、身も心もずたずたと引き裂かれてしまうような心地がする。そういうことは、ありませんか?」

 なぜ、おれは北条の家を出されてしまったのだろう、と考えていたことがあった。
 古巻は桜花の下に預けられたが、実家には姉のゆゑがいる。家には使用人もいる。母親は居なくとも、北条の家で暮らしていくことはできた。しかしそれでも家を出されたのは、もしかしたら自分が北条の家にとって「不要なもの」と判断されたのだと、思うことがった。幸いにして、古巻は会社を息子の自分が引き継ぐことを重要視したことはなかったし、母親がいなくなってからは、普段不在がちの父親と顔を合わせることも少なく、実家への思慕はおそらく人よりも薄かった。だから、実家にとって「不要」とされたと自分で気が付いたときに、それは決定的な古巻自身の自我喪失の原因とはならなかった。今となれば、北条家にとって自分は「不要」であるとかそうでないとか、そういう問題ではないのだと思い至っている。そういう意味で、自分はそこに大きく躓かなかったが、自分の価値を肯定できないという不幸は、そこを抜け出すまでは精神を苛まれるような苦痛であろうことは、古巻にも想像がついた。

「あなたは苦しかったんですね」
「わたしよりも、苦しんでいる人がいました」

 それだけいって千鶴はなんとも力なく笑って、「お忘れください」と言った。胸の荷物を抱えなおして、古巻を追い抜いて家の方に小走りに去っていった。
 
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2012/10/20(土)
4、田園都市、春

田園都市、春(11)

 そのうちに頼んでおいた氷が来たので玄関先の古巻が受け取った。
 持ってきた本人は、そそくさとその場を去って行った。この一角には立ち入りたくないということらしい。同じ朝鮮人街でも、ここは病に侵された末期の人間の住むところ。そういう汚れの意識なのだろう。満足に生きることもままならぬ今、同胞とはいえ他人に手を貸す余裕などないのかもしれない。
 それはそれで悲惨なコミュニティの現状だ、と古巻は思った。同時に同情もした。同情は立派な侮蔑だ、とも思った。

 古巻は、スヨンの家の入口をくぐった。
 汚れた衣類と寝具を交換し、ミヨンは所在無く寝息を立てていた。先ほどのような咳き込みもなく落ち着いていた。
 それをいまだ緊張感を持った目で見詰めている千鶴。そんな千鶴と、落ち着いた母親の顔を観ながら、ホッとした顔をしたり、また気を張り詰めたような表情をしているのがスヨンだった。
 氷を持ってきた旨を伝えると、千鶴からそれを適度に砕く様にと指示があり、それらをゴム袋にいれて入口を縛った。市販されている氷枕のゴムではなかった。スヨンは町の工場で拾ってきたものだと言った。
 できた簡易型氷枕をミヨンの後頸にあてがい、そこで千鶴もようやく小さく安堵したようだった。大きく息をつかないところが、千鶴らしい。ぴょんとスヨンが千鶴の首に抱きついて「ありがとう」と言った。何度も言った。

「もうだめかと思ったの、でも、誰に助けを求めたらいいかわかんなくて」

 ここに来た当初は、母親の容体について近所にも声をかけたことがあるのかもしれない。しかしこの様子では、住民からもこの母娘がよく思われていないだろうことは明白だった。

「ひとりでお母様のお世話をしていたのね。よく、頑張りましたね」

 千鶴は呼ぶ名前を見つけられずに躊躇った。

「スヨンだよ。漢字だと、『秀英』って書くの。お姉ちゃんは?」
「朝倉千鶴です」

 古巻はおや、と思った。聞いたことのある氏名(うじな)だった。

「千鶴おねえちゃん、ねえ、どうしたら母さんの病気を治してあげられるかな。やっぱり、いいお薬が必要?ならさ、あたしすっごく働くよ。大丈夫、母さん一人くらいあたしが養っていける。ねえ、どんなお薬が必要かな」

 千鶴は首を振った。そしてスヨンに優しく語りかけた。

「必要ありません。高いお薬よりも必要なことがあるの」
「必要なこと?なあに、教えて、あたしなんでもするよ」

 スヨンは身を乗り出してそう言った。

「まずは、窓を開けること。いつも新鮮な空気を、この部屋に入れてあげてください。次に、お母様の身の回りは、常に清潔に保つことです。お布団はもちろんですが、可能であれば来ているものも一日に一回は交換してあげて。人間は寝ているときにたくさん汗をかくものだから、身体を拭いてあげることも大切なのです。そのときに、皮膚に異常がないか確かめてあげてくださいね。長く寝たきりでいると、床ずれが起きていることがあります。ここから細菌が入ると、患者さんにもっと苦しい思いをさせてしまうことになります」

「う、うん、わかった。でも、そんなのでいいの…?」

 特別な医療行為や薬を一切使用しない千鶴の指示に、スヨンは拍子抜けしたような声で聞き返した。千鶴はやはり優しく微笑んで、目で一つ、頷いた。

「お食事は、どうしていますか」
「おにぎりをもらってくるんだ。それを母さんに食べさせてる」
「1日3回?」
「2回。朝と夜。昼は、仕事くれるとこ探してあたし家を離れているから」
「あなたはちゃんと食べているのですか」

 スヨンはまるで咎めごとを指摘された子供のように、千鶴の顔を見た。

「でも、母さんは病気だから、いっぱい食べて、体力付けなくちゃいけなくて」
「スヨン、わたしと約束してください。まず、病人を看護するとき、看護する側の健康は絶対条件です。あなたが倒れたりしたら、お母様ともども命が尽きてしまいます」
「でも……」

 千鶴は、後ろで黙って二人のやり取りを見ていた古巻に視線を投げた。
 古巻はそれに頷いて見せた。

「それと、お母様のお食事は、おにぎりのままではなくて、それを湯に溶いて、柔らかくしてあげてください。食べ物のかさも増すし、本人も呑み込みやすいはずです」

 そういって、千鶴はスヨンの肩に手を置いた。

「毎日これをこなすのは、大変なことです。でもスヨンならきっとできますね」
「もちろんだよ。ありがと、千鶴ねえちゃん。あたし、がんばる!」

 ぱっと千鶴に抱きつくスヨンは、やはり年相応の少女だった。こんな笑顔もできるのだな、と古巻は思った。やはり同性の方が気を許しやすいのかもしれない。

「それにしても、お前役に立たないな!ここに何しに来たんだよ」

 千鶴に身体を預けたままで、顔だけ古巻に向けて古巻に毒づいた。前言撤回。やっぱりかわいくはない。

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2012/10/02(火)
4、田園都市、春

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