大陸の覇者(5)

子杏が覚悟を決めるより早く翔が子杏の体を庇い、刹那、目の前の銃口がその体もろとも視界の右方へ吹っ飛んだ。状況を理解しようと思考を巡らす前に、聞きなじんだ声がした。爛華だ。

「無事か!」

子杏を庇っている翔の体は、先ほどの落馬で背中を強打している。うまく動けないの、と子杏は爛華に懇願するように言った。爛華が気遣うように翔を見やると、翔はもう自分で体を起こしており、立ち上がろうとして、倒れた。

「当たり前だ、3年も牢獄に繋がれたままだったんだそ、体中の筋肉が使い物にならないことくらい自覚しろ」

このときようやく子杏は気が付いた。そうだ、日も当たらない堅い石塀の牢獄で長く暮らしてきた翔が、なぜここまで自分を連れてこられたのだろう。自分を引く手、乗馬、ここにくるまでに、自分たちを殺そうとする敵を何人も倒してきたのだ。

「今部下を呼ぶ。先導させるから、先に逃げろ」

翔はなおも立ち上がろうとした。爛華の手を払って、その時初めて、翔は目の前の人間と意思を通じようとした。

「生高は」
「自宅だ。ここを片付けたら、俺は攬把のところに戻る」
「数は」
「敵先遣隊が千、現状我々は三百前後。村の人間を逃がす方に兵を裂いてる。向こうは張攬把の軍だ。本隊の数はおそらく……」

 それを聞くと、翔は手近な馬の手綱をとり、跨った。先ほどまで立つことすら難しかった男の身のこなしでは無い。

「子杏」

 翔が子杏の名前を呼んだ。子杏はそのことに驚いて肩を竦めた。

「ここを離れろ。お前は生きろ。必ず生きろ」

 そうして翔は馬の腹を蹴った。爛華はそれを制すべく翔の名前を呼んだが、馬上の後ろ姿は、燃え盛る民家の煙にまかれ、すぐに見えなくなってしまった。


 ***


 生高は椅子に座り、村内の諍いの音を聞いていた。
 爆音がするたびに壁が揺れた。生高の自宅兼軍議所は2階、先ほどの爆撃で窓ガラスが割れ、直接月の光が部屋を刺していた。兵士の声が聞こえる。生きる力の漲る怒声と、消えゆく命の断末魔。ようやく気付いた、村の人間の安息がことごとく踏み荒らされていく。やはり自分には、ひとつの集団を収めるほどの力はなかったのだ。初めから理解していた。だが仕方なかったのだ。

 父である先代、梁続山は武に秀でた男だった。小さな村から身を立て、やがて一代で村一つを守護するようになった。やがて村の女との間に生まれたのが生高。女は生高を生んですぐ亡くなり、上海の料亭の女将を自分の妾にした。その女との間に生まれたのが二男文秀。やがて隣村から新しく正妻を迎え、三男と四男が生まれた。妾との間にもう一人女の子。その他に、敵地から文秀が拾ってきた孤児が、兄弟に加わった。孤児は「文山(ウェンシャン)」と名付けられた。

 すぐ下の弟、文秀は文武ともに優れた人物だった。父の軍の参謀も務めた。生高もまた非凡ではなかったために同じく参謀職を奉じていたが、文秀は当家の長男である生高を立てるように、自ら進言することも無く、人知れず生高と次の作戦を話し込み、立案はあくまで生高のものであると皆に知らしめた。戦場においても現場指揮を執るのは文秀。かれは天性の才で人心を集めた。文秀の指揮に、軍の指揮は上がった。生高自身は、次の当家は文秀だと思っていた。文秀はそのつもりは無いといった。

「日本人に、その任は務まらない」

 当家の妾は日本人だった。
 そしてその文秀が拾ってきた孤児も、純粋なる日本人だった。
 その日本人に、血のつながらない末弟に、生高は右手を奪われた。
 文秀も、先代も殺された。
 齢十八の少年を相手に、先代一族は成す術もなかったのだ。



 ぎし、ぎし、と、階段を上がる靴の音が聞こえた。
 家の前を守る兵もいたはずだが、それをまた、儚くなったということか。

 さて、ここに至るものが将のクラスであってほしいものだ。少しでも話ができれば、逃げるものどもの力になることもできるのだが。

 鼻で自嘲した。文秀、貴様ならこの局面、どう乗り切る。自らの兵をこれだけ殺して、せいぜいできることが時間稼ぎ程度とは。
 張攬把は襲撃した村の人間を根こそぎ殺害するのだという。禍根を残せば、その人間が張攬把の命を狙いに来るからだ。その非情さがかの強さを形成し、一方私は、この程度の戦術しか見いだせぬ。ここで時間を稼いだとて、足の遅い女子供、老人は取って返したかの軍に皆殺しにされるだろう。せめてもの護衛に兵力を裂いた。なんと中途半端な。
 非情になりきれぬ将は、いずれ淘汰されよう。その時が来たのだ。

 靴の音が扉の前で止まった。
 生高が意を決して眼前を見据える。

 来訪者は足元もおぼつかず、壁に手をついて歩いていた。肩で深い息をしている。衣類に血液が付着しているが、右肩以外は彼のモノではないらしい。

 生高は記憶をゆっくりと底から引き揚げた。
 忘れるはずもない、だがまさか、いまここで目にするとは露程もも思わなかった。

 来訪者がゆっくりと顔を上げた。その顔が、生高を捉えた。
 
 あの日、以来だ。
 あの日、父を殺し、義理の母と弟たちを殺し、生高の右腕を奪い、
 そして、文秀を殺したあの日。

「文山」

 翔は生高の部屋に不自由な足を踏み入れた。
 割れたガラスの向こうで、いまだに砲撃は続いている。
  
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大陸の覇者(4)

***


爛華は馬上である。
軍議解散の後、攬把生高を席上に残して孤軍奮闘している。爛華軍、数八十。すでに張軍の先遣団が村の中に入り始めている。逃げ遅れたものを見つけては部下を附けて外を逃がしてやり、敵とぶつかれば果敢に銃剣を取った。村への初弾から約2時間、爛華の軍の損耗率は1割に満たない。

馬上で一人切り倒し、首筋に流れている名も知らぬ敵の返り血を袖で拭った。ぐるりと村を見渡す。方々から火が上がり、敵味方双方の剣戟だのモーゼルが銃撃音を響かせている。爛華の軍にも弾装填の効率のいいかの銃を使い始めていたが、張軍のような潤沢な資金の無いこの村の重火器の装備で、敵の火力には遠く及ばない。
爛華は耳を澄ませた。熱く荒んだ空気の中に、女子供の声は聞こえない。部下が伝令に来た。非戦闘員の避難はほぼ完了、わが軍の損害戦死8、負傷10、敵軍本陣は半刻以内に到達せんと予測せり。爛華は自分よりも年上の部下に「明白(わかった)」と呟いた。

「連中が来る前に撤退する。攬把をお連れしろ」
「当家、残るおつもりですか」
「ばか、しんがりを務める。伝令次第おれに付き添え」

 部下は微かに顔に喜色を浮かべて、馬の腹を蹴った。かの男、名を呉風(ウーフェン)という。齢30。爛華は今年25になる。戦闘時は爛華の立場が上であるが、人生の経験は呉風が上である。平時では、爛華は呉風を兄として慕っている。呉風は爛華の気質を理解し、上のような気を使った。
 
 燃え尽きた家屋が音を立てて崩れた。その陰から騎馬兵が二人向かってきたので、モーゼルを左手に持ち替え、剣を抜きがけに一頭を切り倒した。もう一人は、爛華の別の部下が相手をした。その決着を見ぬ間に、月を背にして馬を走らせた。村はずれの牢獄。友人が長く、そこで暮らしている。語弊を許せば、そこに存在し、ただ息をしているのだ。
 
 飾り気もない混凝土の建物が、友人が捕えられている牢獄であったのだが、そこはすでに砲弾によって壁も屋根も粉々に吹き飛ばされていた。爛華はゾッとして馬を降り、混凝土の瓦礫をかき分けたものの、それらしき人影はなかった。安堵の溜息。すぐに息を吸い込み、馬に飛び乗った。3年も牢獄につながれたままの友人が、この混乱の中を逃げ切ることなどできるわけがない。
 部下たちは引き上げを始めている。遭遇した敵をなぎ倒しながら見方を叱咤し、一方で友人を探した。友人は先代当家の一家を殺害した犯罪人である。本人の事情を酌量したとしても、到底許される罪ではない。とはいえ、ここで見捨てられたまま死んでいい理由もない。

***

 月光が味方している、と子杏は思った。先ほどまでほとんど息をする粘土のような存在であった翔が、子杏の手を引いて全力で走っていた。子杏の手を握る力は信じられない程強く、この状況でなければ痛いと主張したいほどだった。目指す先はおそらく、子杏の家だ。ただし、人の足で全速力で走ったとしても、ここからでは半刻はかかる。
 子杏は翔に安全な場所に逃げよう、とは言わなかった。頭上では弾丸は飛び交っているし、行く手にもすでに何度か、敵の襲撃を受けた。馬上から銃口を向けられると、まるで弾丸を見切れているかのように体を逸らし、子杏を守った。建物が崩れ落ちた残骸から木材を掴みだし、馬上の兵を叩き落とした。翔は表情を変えず、次々と目の前の脅威を排除していく。まるで鬼神だ、と子杏は思った。しかし、自分が命の危険にさらされるような状況であるというような恐怖は、嘘のように感じなかった。ただ、翔に掴まれた左手首が、熱を持ったように熱かった。

 子杏がふと家のことを考えた瞬間、どおっと爆風に巻き込まれ、翔とともに吹っ飛んだ。翔は子杏の腕を引いて抱きかかえ、衝撃から彼女をかばい、背中を強打した。子杏がそれを気遣おうとするより速く、二人を目がけてきた敵兵を翔は殴り倒した。その敵兵が持っていた青竜刀をまだ煙のたちこめる場に投げ込むと、男の悲鳴が聞こえた。子杏はまた手を強く引かれ、そうして翔は、青竜刀を胸に食らって転倒した男の乗っていた馬をいなし、先に子杏を乗せ、自分も乗り、馬の腹を蹴った。たずなを握ると、馬は始め抵抗したが、すぐに翔のいうことを聞いた。そういえば、翔は昔からよく馬に好かれていたな、と子杏は思った。

 馬の足で、10分もしないうちに子杏の家についた。人の姿は無く、建物は無残にも炎に包まれ、なじみの壁がガラガラと崩れ落ちていた。

「妈妈!」

 子杏は馬上から叫んだが、反応は無かった。祖母と、妹の名前を呼んだ。同時に、家の支柱が折れ、翔は馬を引いた。その瞬間銃声がして、子杏が自分が被弾したと思った。痛みが来ないので翔に振り向くと、子杏をかばう形で、翔が右肩に被弾していた。

 翔の体が一瞬、後方へ揺らいだ。子杏は翔が落馬しないよう、その体を抱きとめようとしたが、一瞬間に合わず、二人で地面に体をたたきつけた。

 ようやく子杏が顔を上げると、目の前に銃口を見た。なんとか翔だけでも助けたい、動かない翔を庇うように、子杏は身を乗り出した。

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大陸の覇者(3)


***

 翔の獄舎は、村のはずれにある。
 中心から南西、切り立った崖を眼前に、掘っ建てた小屋は半地下の状態で風通しも悪い。混疑土で固めた床と、鉄格子が翔を拘束している。
 もうほとんど自発的な行動をとろうとしない翔は、寝ることにも食べることにも興味を失っている。さまざまな体の不調にも意識が回らず、ただ薄らぼんやりと鉄格子の外を見やるだけだ。普段は小屋の扉も閉まっていて何が見えるわけでもない。が、彼女がやってくるときだけその扉が開かれる。特に朝。彼女が「早好!」と声をかけながら扉を勢いよくあけると、季節に応じた新しい空気とともに、差し込む陽の光が、翔への唯一の刺激となる。まぶしくて目を閉じると、鉄格子をがちゃりとあけた彼女が、あらためて「おはよう」と翔に声をかけ、抱き起す。陽の光によって強制覚醒された翔は、ようやく瞼をあけて彼女のことを思い出そうとする。

 楊和(ヤン・フー)。

子杏(シーチュアン)と呼ばれている。翔がここに幽閉されてよりずっと、彼女が翔の面倒を見ている。朝はこうして朝餉を運び、小屋の掃除をして翔の排泄物もかたずける。昼飯の後は子杏は鉄格子の前で縫い物など家内作業をしていて、思いついたように翔に話を振ったりする。翔は何も答えない。それでも子杏は会話をする。やがて夜になる前に翔の体を拭いてやり、夜飯を用意し、そうして家に帰る。
 子杏は翔よりも2つ年上で、齢23。翔がチウのもとで暮らしていた時からの知り合いで、翔の叛乱の前に村の男と結婚。しかし、旦那はここにいたるまでの戦闘で死んだ。その後は結婚もせず、幼馴染である翔の面倒をせっせと見ているのである。
 3年たっても翔の状態は良くならなかった。子杏は知っている。カケルは苦しみ続けているのだ。おのれの所業を。大切な人を自ら手にかけてしまったことを。かれが彼自身を呪い続ける限り、翔が立ち上がることは無い。だけどこの子は、あの文秀が守ろうとしたんだ。生高攬把も、彼を生かしている。カケルは生きなければならないんだ。それに、早く気が付いてほしい――。

「カケル!」

 夜半、子杏が翔の幽閉されている扉を勢いよくあけた。月明かりが暗い小屋に入る。翔に特に反応は無い。それでも子杏は鉄格子にすがりついて状況を伝えようとした。

「大変なの、村が馬賊に襲われてる。チャンの軍だとみんなは言っているわ。ここは危ない、早く逃げましょう」

 切迫を告げても、翔の表情に変化はない。子杏は鉄格子を空け、腕をつかみ、翔をそこから引きづり出そうとした。翔は起き上がろうとしなかった。

「今ならだれも咎めはしないわ。攬把にだってあたしが掛けあうから」

 小屋の外でドオンと音がした。たくさんの馬の蹄の音、そして男たちの声が聞こえる。銃声が重なり、それらは地面を振るわして翔と子杏にも伝わった。子杏は様子を見に外に出て、すぐに引き返してきた。小屋の壁にも銃弾が当たり始めている。
 その時初めて、翔の手が動いた。焦点の定まらぬ目は、子杏を見てはいなかった。長く自分の意思を持たなかった腕は、ゆっくりと子杏の手に触れて、そして自らの腕をつかむ子杏の腕を引きはがした。
 カケルがおのれの意思を見せた――!そのことに子杏は驚き、そして嬉しく思い、しかし事の急をすぐに思い出して、素早く強く翔の腕をつかみ、先ほどよりも本気で、翔をそこから引き出そうとした。それよりも強い力で子杏は振り払われ、後ろに吹っ飛んで壁に背中を打った。ほぼ同時に、子杏のよく知る女が、真っ青な顔で飛び込んできた。

「大変だよ子杏!」
「何しているの、早く逃げて、ここは危ない」
「あんたの妈妈(母さん)が逃げ遅れて」

 子杏の背筋に冷たいものが走った。奥歯を噛みしめ、女が共に来るよう促すのを見ていた。底知れぬ絶望感。今行ったら間に合うだろうか。行かねばならないだろう、しかし、子杏は腰が抜けてその場から動けなくなった。外では銃弾の音が絶えず響き、その跳弾が女の頬を掠めた。女は短く悲鳴を上げてその場に尻もちをついた。
 女はすぐに立ち上がって子杏の腕を引いたが、子杏は立ち上がることができなかった。先ほどまで一緒だった母親のすがたが脳裏に浮かんでいた。祖母と祖父はどうしただろうか。10歳になる妹は、無事に逃げられただろうか。そのすべてが、自分の理想の状況に結びつかなかった。 

「帮助(助けて)」

 掠れた声で、子杏は呟いた。

「帮助妈妈(お母さんを助けて)」

 子杏は涙を流しながらそうつぶやいた。その瞬間、大きな爆風が小屋の壁を吹っ飛ばした。子杏も女も、したたかに体を打ちながら、かすり傷で済んだ。子杏ははっとして鉄格子を振り返った。カケルは大丈夫か。鉄格子はその上半分が吹っ飛んでいた。屋根ごともぎ取られた小屋を、月光が照らした。
 ガラガラと瓦礫を落としながら、翔が上半身を起こした。隣で女が恐ろしいものを見たように、息をのんだ。子杏は翔に駆け寄ろうとしたが、どうやら足を深く傷つけたらしく、動くことができなかった。

 その時、喉から空気が漏れ出るような言葉で、翔は子杏を呼んだ。子杏は聞き違いかと思った。翔の目は、いまだ光を映していない。子杏は「什么?(なに?)」と聞き返した。翔は再び口を開いたが、子杏には聞こえない。動かない足を引きずり、ようやく翔にたどり着くと、翔の上半身がぐらりと揺れた。子杏はそれを抱きとめた。

「カケル」
「――。」

――生高に会わせてほしい。

 子杏の腕の中で、翔はそう、呟いた。

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大陸の覇者(2)

伝令は、張軍の侵攻を伝えている。

夜半過ぎに、この村は射程範囲に入るだろう。張軍は、斥候という名目で1度に百に近い騎馬隊を送り込むことを連日行っており、その対応に生高の軍の戦力は徐々にすり減っていた。もと5千超あった生高の軍だが、今から近隣の有効戦力を集めてもせいぜい1千騎馬。対する張軍は8千と伝令は伝えている。戦場の摂理は数でなく戦略とは言うが、さすがに村の女子供を守りつつ、奇跡の逆転を願うことはできない。先手を打つことも、守りに徹するのも、今の生高の理解では、この村に勝ち目はない。張軍は、その後の報復を根絶するため、村の女子供も根絶やしにするという。凄惨な情景だが、生高には理解できる。自分らに家族を殺された少年が、生高の家族を討ち果たした。しかも、たった一人の少年が、だ。

「攬把、南西の角然の一軍は、張の幕下に下りました。数150。進軍を開始しています。張の本軍とほぼ同時刻に村の境界にいたりましょう」
「角然が寝返っただと!?あれは先日、春節の祝賀と称して、攬把に貢物を献上したばかりではないか!」
「許平兵に続いて3例目か。この情勢においては、想定できない事態ではなかったが」
「攬把、打って出ましょう。現時点において後手に回ることは、もっとも攻勢に出にくく、陣形も組めません」

 生高の周りにいるのは6人。それぞれが当家と呼ばれる部隊長で、同時に生高の軍の参謀でもある。彼らが、張軍に対する対抗策を議論している間にも、生高は口を閉ざし、村を中心とした地形図を眺めている。生高の指示で当家たちが3年をかけて作り上げた、軍用地図である。地元の人間しか知り得ぬ抜け道や、散会後の集合場所、奇襲の際の陣形配置などがこまかに記されている。伝令によると、張軍は北西の方角からやってくる。崖下に広がる生高の村の、唯一の入口である。生高を裏切った角・許の軍は、おそらく東南からくる。ここは崖のもっとも傾斜の甘い地域であり、熟練の騎馬隊であれば下ることは可能。この村の地形を理解している人間にしかとり得ない進路である。
 兵を分散させるわけにはいかない、と生高は考える。張本軍を迎え撃つには、現勢力のすべてをぶつけても勝機は望み薄なのだ。死ぬための戦はしたくない。

「非戦闘員を避難させろ。地点は分散。5人程度の家族に1人、騎馬の護衛を付ける。その際、村正面、そして後方「登亀壁」からの脱出を避けること。半時で完了しろ。出たあとも、張本陣からの早駆が索敵していることも考えられる。注意を怠るな。戦闘終了後、『亞』の地点にて合流する」

 馬と呼ばれる当家が力強く返事をし、部屋を出て行った。張軍侵攻まであと3時間程度。守りながらの戦闘は圧倒的に不利だ。守る側、守られる側双方に被害が出る。
 さあ、ここからどう出る。

「攬把、われわれも逃げましょう」

 残った4人の当家も、そして生高も思わず顔を上げた。それは当家の中でも最も若い、李爛華(ランホア)であった。生高が下した馬賊の頭領がここの当家となることが多い中で、爛華は生まれも育ちもこの村で、まだ先代が生きていたころから生高を共に馬を並べていた人物である。
 その爛華が逃げるという。あるものは落胆し、あるものは怒号を上げた。爛華、貴様の武勇は見かけ倒しか。窮地に陥った今、本性を現したな!
 爛華はじっと生高の顔を見ていた。周囲の怒号は、爛華の耳には入っていないらしい。生高は「聞こう」と応えた。

「勝つことは無理です。特攻して守備隊が全滅すれば、散会した村の人たちが指定地区にたどり着く前に索敵に捕まります。どちらにしろ全滅です。張軍はおそらく、真正面からこの村を落としに来ます。いずれにしろ、この土地は連中の手に渡ります。ならばいっそ、この村を、この土地を、囮に使います。われわれは少人数、ここに残り、時間を稼ぎます。みなさんは、脱出した村人を一人でも多く、遠くに逃がしてあげてください。私たちは、張軍を少しでもここに留めます」
「爛華、あれだけの敵勢を前に、戦いもせずに逃げろというのか。馬賊にも、われわれにも貫くべき道というものがあるのだぞ」
「あなたがたは攬把の幕下に下った時点で、馬賊でも匪賊でもない。はき違えるな。貴様らを統率するのは、梁生高攬把、その人だ」

 なにやら呑み込めぬ当家たちを意に介することなく、爛華は生高の反応を待った。この村が武力を持つ根拠は、外敵から村人の生活を守ることであり、領地争いではない。この土地がなければ、また新たな場所で村を構成すればいいのだ。その大元をたどるなら、今回の戦争に勝たなければならない理由は無い。ならばこの村の持ちうる武力は、村人を一人でも多く生き残らせることに目標を変更すべきだ、爛華はそう言ったのである。

「ここには私が残ります。攬把、今のうちに」

 爛華のまなざしに迷いはない。残り4人も、この場ではそれが最善と納得するものもいる。納得がいかぬ血の気の多い当家の一人は、「俎上之鱼!(どうにでもなれ!)」といってタバコをふかし始めた。態度に差こそあれ、大方爛華の進言が妥当だと、皆理解したのだろう。当家たちも一軍を率いる統率者なのだ。戦の引き際を理解している。
 村内に残る爛華の隊は約2百。先の指示で村人の護衛に出たのが150。村外に出る生高軍の主力は650となる。
 方針が決まった。張軍の予想侵攻時刻まで2時間。あとは村内に張軍を迎え撃つ準備をするだけだ。

 そのとき、轟音と共に猛烈な風圧が部屋のガラスを内側に吹っ飛ばした。事態をすぐに呑み込んだ当家らは自らの持ち場に走り出す。爛華はひしゃげた窓枠から外の様子をうかがった。村人はいない。馬の蹄の音が聞こえる。距離は千。砲弾を撃ち込まれる可能性は否定できないが、急げば準備も間に合うかもしれない。

「攬把、行きましょう!」

爛華ははっとして振り向いた。生高はまだそこにいた。当家の一人が、腕を引こうとしている。だが生高はそこを動こうとしない。

「予定よりずいぶん早かったな」
「ええそうです。これから連中を迎え撃つ準備に入ります。攬把、あなたも劉当家とともに、脱出を」
「悪いが残らせてもらう。劉、貴様は先に行って本隊と合流、村の連中を援護しろ。爛華」

 爛華は名前をよばれ、背筋を伸ばした。生高はこの想定外の非常事態においても動揺している様子はなかった。
 ふと、先代当家を思い出した。そうだ、こうして、物言わず人を従わせる力を持った人だった。
 その先代を殺したのは、無二の友人だった。咎を犯した友人をかばったのが自分で、そうして先代は友人に殺されたのだ。
 先代の幻影に、爛華は反射的に「到(はい)」と返事をした。

「いざという時に俺を使え。足止めくらいにはなる」

 爛華は劉当家に行け、と指示をした。まだ躊躇っている劉に「こちらは任せろ」と言ってやった。劉も爛華も同じ当家である。同じ戦場を駆けた誼、それ以上の後腐れは無用だった。
 この村の指導者を戦場に残すという判断は、決して肯定されるべきものではないと、爛華も自覚している。だがこの場において、もっとも優先されるべきものを顧みたときに、生高自身の判断は、確かに妥当であるのかもしれない。

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大陸の覇者(1)

 堅い混疑土の冷たさも、いつしか感じることも無くなった。

 湿気の多い半地下の牢屋は、四面が混疑土に守られ、正面が鉄格子となっている。水分が滴り落ち、鼡や蟑螂が翔の食べ残しに群がっていた。夏は湿気の相乗効果で蒸し熱く、冬は混疑土の冷たさに加え、唯一外につながる格子窓から雪が入ってきた。東北の地の雪は水分を含んで重く、溶けても水分が冷気で固まり、氷を張った。その氷が、さらに空間の温度の熱を奪った。何度目の冬になるのか、その雪を冷気をはらんだ混疑土さえ、翔には何の感触も何の感情も与えることはできない。

 伊藤翔は、村の罪人として捕らわれていた。
 翔は、この村の指導者を殺した。その妻を、子どもを殺した。そうして翔自身の、大切な人も殺した。おのれの所業に気が付いたときには、翔の周りには見知った人間の亡骸がいくつも転がっていて、それを翔自身がやったのだと聞かされたのは、ここにこうして繋がれる直前のことだった。自分は何もしていない、覚えていないと牢獄から叫んでいたのもはじめのうちで、相手にされないとわかっていても叫び続けていたのだが、いつしか声が出なくなり、いつしか体を動かすこともできなくなり、いつしか何が起こっているのかを考えることもできなくなり、いつしか何も見えなくなり、聞こえなくなった。眠りにおちようとすると、自分が手にかけた女が、翔の体にすがりついてきた。翔は恐ろしくなってその幻影を払いのけようとした。女の名前も思い出すことはできなかった。女を振り払えば、なんにんもの男に取り囲まれた。それを振り払うと、ようく見知った顔がこちらを見つめている。やはり名前を思い出すことはできない。意識の中で翔は狂乱し、何事からも逃げ出そうとし、やがて暗い闇におち、現実に戻り、そうしてまたなにがしの亡霊に取りつかれた。こうして、まともに寝ることもできず、獄中生活の3年目を迎えようとしていた。


***


「なぜあれを生かしておくのです」

 梁当家が翔の手に掛かったあと、村の統率を引き継いだのは前当家の長男、生高であった。彼自身も、翔の叛乱によって右手を喪失している。かつて、父親たる前当家の名参謀として、生高と肩を並べてきたのは次妻の長男、文秀。容貌や言動から冷徹とみられがちな生高と、有能であり人間性も豊かな文秀はよきパートナーでもあった。しかし、文秀は翔の剣によって命を落とした。本来なら翔を庇った筈のかれが、翔本人のかかることとなってしまったのだ。
 その問いはもう何度も聞いた、と生高は思った。そのたびに今は無い右手が疼くような気もするし、父を、母を、そして兄弟を殺されたあの情景を思い出して、収めたはずの憎しみが蘇りそうになる。そうして、それを止められなかったのはおのれの非力だと思考を注入してなんとか感情を抑制し、そうして義弟、文秀のことを思い出す。技能に優れ、頭の回転もはやく、そして誰にでも好かれたあの男こそ、当家の正統なる後継となるべき男であったと生高は思う。後継となれない理由が、正妻の子でないことなど、この村のための何の不利益になろう。その愛すべき義弟が自らの身を挺して訴えたのだ。「文山を殺さないでくれ」と。

「攬把」

と、生高は呼ばれている。攬把とはその地方の馬賊集団を束ねるものの総称で、各地の当家を傘下に置いている。生高の父であり、村の長であった梁続山は「当家」、つまり生高は父亡き後、各地の馬賊集団を隷属させ、大陸の一地方政権を担うに匹敵する武力を保持している。
 現在のこの集落は、前当家が統括したあの村ではない。あのあと、当家不在を察知した周辺の勢力が村に攻め込み、指導者のいない松河村はほぼ壊滅に近い形となった。残った住民は生高の回復を待って勢力を立て直し、居場所を探すべく放浪して、ようやくこの場所にたどり着いた。北京市街のやや南側に位置し、市街地まで早馬で半日。四方は深い森に囲われていて、軍事守備にも有益な土地であった。この地を拠点に据え、生高は村の若い連中を再編成し、村の守備隊としての軍事力を持とうとした。その点は父と同じ思想だった。しかし時代は、大陸の中央集権が倒れ、各地で有力者が覇を競うために勢力を伸ばしており、例外なく生高の村も、侵攻の憂き目にあった。そのたびに撃退を繰り返したが、やがて後手に回るより先手を打った方が損害も少なくて済むと判断し、戦闘で下した馬賊を吸収しながら、騎馬隊の規模を拡大していった。前当家死去からわずか3年足らずで、生高は北京郊外の馬賊をその幕下に収めたのだ。
 しかし、最近になって脅威が目の前に現れた。東北王、張作霖。一馬賊の棟梁から成り上がったこの小柄で色白の青年が、今や袁世凱さえも凌ぎ落とす勢いで、長城の外の勢力をまとめあげている。各地の集落を接収した後は、その生活基盤たるインフラを最低限整備しつつ、住民の好感を買っていることも勢力拡大の一因であるだろう。いまの中央政権に、そんな余裕はない。張攬把は長城を超え、大陸を制そうとしている。中央の袁世凱の北洋新軍をはじめ、各地の地方政権と干戈を交えることになるだろう。そうすれば村人の重税は免れないし、村の若い労働力まで奪われてしまう。生高は村を総べる長として、張の幕下に下るわけにはいかないと考えている。自分の持ちうる力とは、最低限この村を危険にさらさない程度保持できていればいい、と。

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田園都市、春(18)

 
 障子越しに入室を許された。
 古巻は桜花の自室の障子戸を開けた。桜花は机に向かっていた。古巻はその少し後ろに坐した。
 古巻は、ここは自分から切り出すところではないと考えていた。スヨンは無事だった。しかしスヨンの居場所がわかっていながら桜花が手を出せなかったのは、彼女自身の問題ではなく、歌人としての桜花を取り囲む人たちがいるからであり、少なくとも仙内もその一人であり、その仙内と桜花を慕う歌人たちとの今後も考えていたことにほぼ間違えは無い。もしかすれば、自分や千鶴への風当たりなども考慮に入れたのかもしれない。だからこそ古巻は、今朝の朝食でのこのこの話題において、桜花の微妙な立場に思い至れなかった自分のことを浅はかだと思ったし、彼女の内心を考えてやれるだけの思慮が自分にはなかったのだ、至らなかったと思った。だからこの一件に関して、スヨンを確保できた以上の何かを、古巻は桜花に求めるつもりは毛頭なかった。

「スヨンの様子は」

先に口を開いたのは桜花だった。桜花は、相変わらず机上で筆を走らせていて、古巻に振り向くこともしなかった。古巻は桜花の背中を壁だと思った。壁に向かって古巻は話をした。

「だいぶ落ち着いたようです。千鶴さんが、命に別状はないと言っていました」
「そうですか」
「先生、あの」

そう言いかけた途端、古巻は左頬を強打された。あまりにも不意打ちだったので思わず態勢を崩し、右手で体を支え、転倒だけは免れた。一瞬、何が起こったのかわからず、思考が宙を彷徨ったが、そのうちにこちらを向き直った桜花の言葉が、矢継ぎ早に放たれた。

「なんて馬鹿なことをしたのです。あなた一人で乗り込んで、もしかしたら、昨今のことで家を守るために仙内さんのところで屈強な男でも雇ったりなんかしていたら、あなたなんか簡単にとらわれて、どんなことをされるかわかったもんじゃない。あなたが日本人の家に押し入って朝鮮人を連れ出したと、誰かが噂するかもしれない。そうしたらあなた、昨今の新聞に出ているみたいに、猛烈な国粋信者に、後ろから刺されてしまうかもしれないのですよ。これから大学に行こうという時に、あらぬ噂があなたの将来を悲観的なものにしてしまいかねないのですよ」

「お言葉ですが先生、おれは間違ったことをしたとは思っていません。そうですね、住居侵入については罪を問われるかもしれませんけれど、そうなったら罰を受けるつもりでいます。でも、スヨンを無事に連れて帰ってこられたことに関しては、だれに恥じることもありません。噂がたとうが、おれの気が変わることはありません。ところで、今回のことは、今朝方の先生の諫止を聞き入れることなく、勝手に飛び出したことに関しては反省しています。先生にも立場がおありですから、慎重に事を運ぼうとしていたのだと思いますが、そのような社会的機微に思い至れず、自分の感情に任せてあの場を後にしたのは事実です。未熟でした。申し訳ありませんでした」

 古巻は正直、内心非道く動揺していた。がたがたと振動する心臓の血流を感じながら、震える呼吸を自覚して、なお冷静であろうとした。自惚れていたわけではない。だが少なくとも、桜花なら理解ってくれると心のどこかで信じていたのだ。ところが、いざ相対してみれば、世間体だの、過激派だの、まるで小心なところを論う。桜花のことは好きではないが、長年かけて築いてきたある種の尊崇の念が崩れ落ちそうで、この瞬間、古巻にはそれがどうしようもなく耐え難かったのだ。

「あなたはどうなんです」
「はあ、ですから、その一点については反省していると」
「そうではなく!」

 古巻の目の前には相変わらず壁があった。桜花とこうしてまともに向きあったのはいつ振りだろう。幼いころ、障子を破って以来だろうか。彼女の仕事場で墨をぶちまけて以来だろうか。そういえば随分とこうして怒られたものだった。壁はそこにあった。圧倒的存在。超えることのできない存在。好意的な感情を抱いたことなど一度もないのに、逆らうことをしてはいけないのだと、少年の心は本能で理解していた。それはこの年になって、漸く薄ぼんやりと輪郭を持ってきた。この人の言うことには彼女自身の経験や知識からくる絶対的な裏付けがあって、それに従えば行き先を見失うことがないのだ。
 それが壁なのだ。突き破ることも、乗り越えることもできない壁。桜花の胸の内に秘められたこれまでの人生を、感情を、思考を、こんなに近くにいながら古巻は何一つ知らないのだ。自分は桜花にとって、それを打ち明けるだけの存在には今だ不足なのかもしれない。
 古巻はふと惨めな気持ちになって、頭を垂れた。そのとき、強く腕を引かれた。何が何やら解らぬまま、気が付けば、桜花の腕の中にいた。押し付けられた胸のあたりから心臓の音が聞こえるようだった。桜花の腕に込められた力のあまりの強さに、痩身の古巻の背中は折れてしまいそうだった。まるで掬い取られるように引き寄せられたので、自分の体重をすべて桜花に預ける形となっている。
 そのうちに、なんだかいたたまれない様な心地がしているのも、次第に薄れてきた。時計の針がこちこちと動いている。古巻は、目を閉じた。おのれの気持ちに決着はついていないのに、なぜだか、そうなぜか、安心できた。

「あなたは無事ですね」
「当たり前です。ミイラ取りがミイラになっては格好悪いでしょう」
「世間体など気にせず、己の信念を貫けとあなたに教授したのはわたしです。でもそれがあなたを傷つける結果になりかねないのだと、今朝、あなたが出て行った後に気が付いて愕然としました。
もっと早く、わたしがスヨンを助け出せていたら、わたしに、もっと力があれば、あなたにこんなことさせずに済んだのに。でも、心のどこかで、あなたがスヨンを受け入れてくれたこと、あなた自身の意思で行動してくれたことを誇りに思ったんです。本当は、あなたをバラック街に連れて行かなければ今回のことは起きなかったのかもしれない。でもわたしは、あなたが時代の風評に捉われず、己の意思を貫ける人間に育ってくれたことを心の底から嬉しいと思ったのです」
「こんなこと言いたくありませんが、もう長く、あなたの背中を見てきましたから」
「あなたを守らねばならぬ立場の私が、あなたの命に係わるかもしれない行動を称賛するなど、あってはいけないっことなのかもしれません。自分を棚に上げて、あなたにばかり負担をかけてきた。わたしはやはり、あなたの庇護者には相応しくないかもしれません。きっとこれからそうして悩み続けるでしょう。ですから古巻さん、どうかあなたの望むものが見つかるまでここにいてください。あなたが認めてくださらなければ、桔華はいつまでたっても、桜花にはなれないのですから」

 頼ってばかりいたのはおれだ、と古巻は思う。
 頼ってくれていたのか、と思った。流水に突き刺さる竿が、一つ抜けたような心地だった。

 焦っていたのだろうか。自分が大人になれなことを。桜花と対等になれないことを。
 何も話してくれない桜花に焦れる想いを抱いていたのは、無意識のうちに彼女を理解したい気持ちがあったのかもしれない。だがおそらくそうではないのだ。古巻が自分で思ってるほど、桜花は遠いところにいるわけではない。

 いつか話してくれるだろうか。「桜花」の歩んできた人生を。

 桜花が誇りだと称してくれた自分を、誇りたい気持ちだった。
 桜花の胸の中で眠りに落ちる瞬間、古巻が大好きだった祖母の顔が浮かんだ。その笑顔は、今自分を包む温もりのそれと同じものであった。


*****


 明くる朝。
 割と早朝。

 
「あー!!待って待って千鶴ねえちゃんまだ鍋に大根入れちゃダメー!!」
「え、あ」

 入れちゃったらしい。

「ちょ、そっちそっち、ふきこぼれてる!!わー!魚焦げてる!煙ーー!!」

 台所であたふたする千鶴と、右手が折れているので、賄の粗相に気がついても思うように手を出せないスヨンが、さながら早朝の鶏のように忙しく立ち回っていた。
 その光景を前に呆気にとられ、手も口も出さずにぼさっと突っ立ってるのが古巻。本日寝坊。

「あ、遅い!なにしてんの早く手伝ってよ、ただでさえ食材少ないんだから魚一匹だって無駄にできないんだよ!」

 そんな古巻を見つけて、スヨンが姦しく古巻を呼んだ。

「何台所仕切ってんだよ」
「別に仕切りたくて仕切ってるわけじゃ……、あああ、千鶴ねえちゃん後ろ七輪!!」
「お前怪我は。もう起きても大丈夫なのか」
「いつまでも寝てるは性に合わないんだ。千鶴ねえちゃんもね、ちゃんとお薬を飲んでいれば、少しくらいは動いてもいいんだって言ってて」

 といったそばで、七輪からこんがりと焼き目のついためざしが落ちた。千鶴が急いで拾おうとして素手を出して、当然熱くて拾うことはできなかった。

「少しくらいは、ねえ」
「おかしいねえ、千鶴ねえちゃん、お医者さんみたいだし薬の調合とかもすごくできるのに、どうして料理はできないんだろ」

 やれやれ、と古巻は立ち上がった。まだ顔も洗っていない。中庭の井戸に向かおうと廊下に出ると、スヨンが後ろから呼び止めた。

「ありがとう、助けてくれて」

 スヨンに素直に礼を言われるとは思わなかった。古巻は返す言葉を見失って、言葉に詰まっていると、

「ま、古巻なんかいなくても、おばあちゃんが助けてくれたかもしんないし?」

 と捨て台詞とともに台所へ戻っていった。
 古巻は自分の一時的な感情を撤回し、

「おいせめて敬称つけろ!年上だぞ!」

 と怒鳴った。すると台所から

「だって男なのに背小っちゃいし痩せっぽちだし後ろ髪結ってるし、年上って感じしないんだもん!」

 と、こんな調子で二人の応酬が始まった。

 朝から賑やかなことである。ほんの数日前までは、古巻と二人だけの、静かな朝ばかりだったのに。

 桜花は文机に向かい、遠くの喧噪を愛おしく聞いている。
 開け放った障子戸から春の風が書斎に吹き込んだ。いくつか半紙が飛んだ。
 桜花は筆を執った。何枚か書いて、書き直して、そうして書き上げたころ、朝食ができたとスヨンの声が飛んできた。桜花は自室を後にした。

 薄氷砕く草芽土中の牛若に きよもりなりて何語るらん

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2013/05/19(日)
4、田園都市、春

田園都市、春(17)

先ほどまで古巻の腕の中で抵抗していたスヨンが大人しくなった。

このまま病院に連れて行くことも考えたが、先ほどの光景が思い出されたのでやめた。要するに、スヨンの出自をうまく思わない連中と新たな騒ぎになることは避けたいと思った。

電車を乗り継ぎ、桜花宅の最寄駅からはスヨンを背負った。決して頑強ではない古巻では、抱きかかえたまま歩行するのが体力的に難しかったからだ。前に抱きかかえるよりも楽だといっても、スヨンの体を何度も落としそうになり、そのたびに背負いなおして、一路、家路を急いだ。町医者に診せることはできなくても、家には千鶴がいる。飯も食わしてやれる。風呂にも入れてやらねば。そうして思考を巡らせていて、ふと、肩口で寝息を立てていたスヨンが覚醒する気配がした。

「起きたか」
「どこ、いくの」
「うちに帰るんだ」
「うちって、どこ」
「調布。そうか、お前は初めてか」
「日本に、あたしたちの帰るところなんて、無いよ」

力なく、ぽつりとスヨンはそう言った。古巻はすぐにそれに答えなかった。

「あのね、母さんも、アボジも、朝鮮から来たんだよ。日本でうまくいかなくても、二人は、朝鮮に帰ればいいんだ。でもね、あたしは日本で生まれたから、向こうに行っても知ってる人も頼るところもない、日本にいても、日本人じゃないから相手にしてもらえない。ねえ、あたし、どこにいけばいいのかな。アボジがいなくなって、旦那様にも会えなくなって、母さんも死んじゃった。どこに行けばいいんだろう、あたし、もう疲れちゃった。だからもういい、お願い、あたしをここで捨てて行って。そうすれば明日にはもう、動くこともできなくなっているよ。三日もしないうちに母さんに会いに行ける。会いたい、会いたい――」

オモニ、とスヨンは言った。ミヨンのことは、古巻たちの前では決してオモニとは言わなかった。これまでスヨンは古巻に対し、施しは受けぬとその手を振り払ってきた。それが彼女の精一杯の強がりであることは古巻にもよくわかっていた。頼るところの無い孤独。信じたものに裏切られる辛い思い。それが彼女を追い込み、辛辣な環境が彼女の反面教師となり、頑なな態度をとらせたのであろう。まだ10歳を超えたばかりの少女である。異国での決して順風でなかったであろう体験は、彼女には耐えるに忍びないものであったに違いない。

「おば……ちゃんは」

 おばちゃんと言ったのかおばあちゃんといったのか、古巻には聞き取れなかったが、桜花のことであろうと古巻は思った。

「信じたいって、思った。旦那様のところにいるときも、日本語、教えてくれたり、歌聞かせてくれたり、優しくて、綺麗で、あそこから追い出された後も、あたしたちを探しだしてくれた。でも怖かったの。大好きだから、また裏切られるんじゃないかって、また、捨てられるんじゃないかって、だったら、あたしから縁を切ってしまおうって。持ってきてくれるごはんや薬、突き返したりして、もう来るなって、何度も言ったりして、あたし、ほんとうにおばあちゃんに嫌なこといっぱいして」

 まるで独り言のようなスヨンの繰り言を、古巻は小さく頷きながら聞いていた。顔も上げずに呟いているから、スヨンの言葉は古巻の肩口の皮膚から直接、脳髄に響いてくるようであった。

「なのに、毎日きてくれるんだ。あたしが会いたくないから家にいても、おばあちゃんの長屋街での振る舞いを誰かが持ってきてくれた。オモニが死んだときも、近くにいてくれた。でもあたしはそれが嫌で逃げ出して、旦那様の家に監禁された時もすぐに見つけ出してくれた。毎日、奥様にあたしを解放してほしいってお願いに来てくれたんだ。どうしてそこまでしてくれるのかな。あたしたちは、日本人から嫌われてるんだよね?あたしたちと関わっているなんて人が知ったら、おばあちゃんもみんなに嫌われちゃう。千鶴姉ちゃんも、あんた、も」
「知るか。言いたい奴には言わせておけばいい」
「旦那様にオモニのこと伝えられなかったな」
「先生に言っておく。安心しろ、ああ見えて約束は守る人だ」
「そう、だね。きっと、おばあちゃんなら、だいじょ、ぶ……」

 スヨンが次に目を覚ました時、この独白の多くを覚えていないだろう。これはあくまで彼女の心の中の声なのであり、古巻が聞くべきものではなかったに違いない。
 少女の寝息が再び聞こえ始めた。スヨンの強がりは、朝鮮人と関わることで自分たちへいらぬ害が及ぶことを考えた上での行動でもあったのだと理解した。こどもにそんな気遣いをさせた自分に憤り、しかしその憤りの根源がこの時代の空気であることに思い至り、煮え切らなくなった。
 どうかしている、と思う。自国民でなければ人間でないといわんばかりのこの現状を。さもなくば自らが指導民族であり後進の近隣諸国をまつろわせねばならぬというお節介な義務感を。
 いや、それは自分のような一般臣民の思い至るべきモノではない。政治家や軍人や、外国と貿易しているような連中が描いている妄執に、わざわざ付きあってやることもないのだ。

 家の前には桜花と千鶴がおり、スヨンを背負った古巻を認めると、今にも泣きだしそうな顔をした千鶴が駆け寄ってきた。千鶴の指示の下、スヨンを寝かしつけて体をぬぐってやり、点滴ができぬからと起きたら食わせる滋養剤を作るよう古巻は申しつかり、台所に立った。古巻にすれば得体のしれぬ黒い濁り汁を千鶴に預けると、顔も綺麗になったスヨンは先ほどまでの苦しそうな表情もなく、穏やかな寝息を立てていた。とりあえず、命に別状はないという。千鶴に礼を行って部屋を出ると、すでに日が暮れていた。廊下を渡り、古巻は灯りの灯っている桜花の自室の、障子越しに声をかけた。


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2013/03/04(月)
4、田園都市、春

田園都市、春(16)

使用人たちの腕を振り切るようにして、かたっぱしから部屋の扉を開けていく。4つ目の部屋は障子で、取っ手に手をかけたところで中に人の気配がした。古巻はその腕に力を込めるとためらいなく開け放った。

6畳ほどの和室に、スヨンがいた。
ぼろぼろの服のままで。畳に横たわり、ようやく顔だけ上げて、古巻の顔を見た。
食ってない。古巻は直感的にそう思った。
スヨンはそのまま意識を失うようにまた顔を伏せた。古巻が駆け寄り、抱き起した。しばらく風呂にも入っていないらしい。ひどく異臭がした。

「大丈夫か。帰ったらなんか食わせてやる」

古巻はスヨンを抱き上げようとした。するとさっきまで体を動かすことすらできなかったスヨンが、古巻の腕を拒んだ。

「なにしに 来たの」
「何ってお前、バラックからいなくなったというから、先生たちが心配して探しているんだぞ。お前が来るところといったらここしかないだろう。だから連れ戻しに来たんだ」
「頼んでない」
「そんな状況で何いいやがる」
「頼んでない!」

 古巻の腕から逃れて、体が畳に落ちたスヨンは、ようやく上半身を起こした。

「旦那様に母さんのこと、伝えるんだ」
「お前らを捨てた男だぞ。今更なにを義理立てする必要がある」
「捨てられたんじゃない。あんたたちがそう勝手に判断しているだけだ。旦那様はいくところのない母さんとあたしを助けてくれたんだ。母さんは最後まで旦那様に感謝していた。そのことを伝えなくちゃ。あたし、それまでここを動かない」
「バカかお前!仙内はいつ戻ってくるかわからぬ、その前にそんな状態ではお前が先に死んでしまう」

 古巻は改めてスヨンの手を引いた。痣だらけの細い腕。顔には大きなけがはないようだが、着物の襟もとから除く肌にも、大きな赤い痣があった。
 仙内の細君は先ほどから、使用人を後ろに控えさせて、二人の様子を眺めている。

「丁重に持て成しているのではなかったのか」
「持て成しておりますわ。わざわざ部屋まで用意してやったのですよ。迷い込んできた犬に、こうして人間と同じ屋根の下で暮らさせてやっているのです。格別の扱いではなくて?」
「犬?」
「犬ですわ。帝国臣民の飼い犬。そうでしょう?」

 古巻はもはや、この女と話す気も失っていた。頭の中の深いところで、なにかがぐつぐつと燃え滾るような思い。それを体内に押しとどめながらスヨンに振り返り、抵抗する少女に一切構わず、抱き上げた。スヨンはさらに抵抗し、なにやら叫んでいたが、古巻はそれすら聞き入れなかった。

 スヨンを抱えて仙内邸を進むと、それを蔑むような視線を痛いほど浴びたが、門を出ても二人を追ってくるものはいなかった。警察に通報するといっていたが、まあいいだろう。先生には少し頭を下げてもらうことになるかもしれぬが、スヨンを確保できたことは何よりの成果だった。

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2013/01/27(日)
4、田園都市、春

田園都市、春(15)

「どういうことです、スヨンがいなくなったってことは、ミヨンさんはどうしたんです」
「あそこに、あの二人が住んでいた小屋はもうありません。あの一角はすでに取り壊されています」
「一体なんで」

そこまで言いかけて、古巻も察しがついた。千鶴もすでに気が付いているようだった。

「取り壊しになったのは、ミヨンさんが亡くなってすぐのことだったそうです。私が3日前にバラック街に行ったときは、すでにその一角は無くなっておりましたし、ミヨンさんやスヨンの姿もありませんでした。近くの住民に顛末を聞いたら、以前より開発のためにかの一角を区画整備する話が上がっていて、彼女たちが最後の住民だったのだそうです。ですから、ミヨンさんの逝去と同時に、その一角を府に売ったのだとか」
「そんな、じゃあスヨンは」

そういいかけて古巻は立ち上がり、駆け出そうとする。当然ながら桜花から静止の声が掛かった。

「ですから、今人をやって探させているのです。あなたは大人しくしていなさい」
「あんたもずいぶん冷血だな。あの親子に関わっていったのはあんたじゃないか」
「わたしは、私がするべきことを優先します。それに、この広い東京で人ひとりを探すのにかけられる人手も限られている以上、効率的に探さねばならない。今あなた一人が捜索に関わったところで、その効率が上がるわけでもない。弁えなさい」
「悪いが、あんな小さな子供一人、3日も探して見つからないような連中にまかしておける気がしない。先生、あんたも人が良すぎるんだよ。手遅れにならないうちに、おれは行かせてもらいます。では、また後で」

 古巻は再度の桜花の静止を聞き止めることなく、その場を後にした。
 直感的に、スヨンの行先に見当がついたのだった。ミヨンとともに長く住み込んでいた仙内邸。最終的にスヨン親子は仙内に裏切られる形となったが、数年間親子の面倒を見てくれたことも確かで、スヨンはおそらく、ミヨンの死を仙内に伝えようとするだろうと古巻は考えたのだった。しかしおそらく、かの家は夫婦仲も睦まじくなく、仙内は長く家をあけているのだろうし、それでも仙内邸を訪ねたスヨンを留守宅のご内儀が見止め、屋敷内にとどめ置く可能性がある。ミヨンの顔に痣を拵えるような扱いをする女なのだ。それは夫婦間の不仲を他人に八つ当たりすることで解消しようとする性なのかもしれないし、それが世間的に被支配民族と言われている半島出身者のスヨンであれば、なおのこと罪の意識も感じないことであろう。彼女が仙内に会わせてほしいと懇願に来たとしたら、それを留め置く可能性は十分に考え得る。新潟に出稼ぎに行っているという父親のもとに行くというパターンもあり得るが、そもそも5年前から音信不通であるという。現実的には考え難い。

 古巻は自らの直感を信じ、日暮里へ向かった。
 桜花はもしかしたら、そのことには気が付いているのかもしれない。しかし仙内へ手前、強硬に手を出せずにいるという状態なのかもしれないと古巻は思った。
 
 だったらなんだというのだ。
 人ひとりの命がかかっているのだぞ。

 もしかしたら、自分の推測は外れているかもしれないが、少なくともこれ以外で、直接スヨンの命にかかわることは考えにくい。仮に新潟に向かったのだとしても3日では飢えることもないだろう。電車賃があるとも思えないから、仙内邸を覗いた後に追いかければ十分間に合うはずだ。少なくとも今考え得る最悪を潰すのが先だと、古巻は仙内邸の門の前に立った。西洋風の門構えをもつ立派な屋敷だった。大きく深呼吸をしてから、古巻はその敷地に足を踏み入れた。

 声を掛けると使用人と思われる中年の女性が対応した。まっすぐと要件を述べていいものか思案した挙句に、古巻が出した結論は、「ここに10歳くらいの女の子が訪ねてきていないか」と素直に尋ねることだった。女性はまず古巻の足先か頭頂を一通り眺めてから訝しげに首をかしげた。どうやらこの人は本当に心当たりがないらしいと古巻は判断するやいなや、女性を押しのけて家の中に侵入した。あわてた女性が引き止めるような声をかけたが、古巻は意に介さなかった。

 さすがに対応に困り果てた使用人が大声を上げると、古巻の突き進む廊下の前方に、若い女が立ちふさがった。彼女は半分暴漢じみた古巻に怯える様子もなく、屹然として古巻を検分した後、「何か御用かしら」と言い放った。古巻はこれが仙内の後家なのだと思った。ミヨンを虐待するような女なのだ、狂気じみているのかとも考えていたこともあってか、この対応には正直内心で関心した。

「スヨンが来ているはずだ。引き取りに来た」
「来ておりましてよ。ところであなたは何者?招き入れてもいないのに、不躾な」
「スヨンはどこにいる」
「主人の来客ですもの。丁重に持て成しておりますわ」

話をしていても埒が明かぬと古巻が歩を進めようとすると何人もの使用人たちが古巻を取り囲むようにして行く手を阻んだ。

「あなたのことは警察に通報させていただきますわ。人の家に勝手に上り込んで一体何様ですの」
「待て、スヨンがここにいるんだろう!いないのかスヨン!返事をしろ!」


『古巻おにいちゃん!』


 微かに聞こえたのみだった。しかし古巻には確かに聞こえた。
 確証を得た古巻は、使用人たちの手を押しのけ、目の前の後家を押し切って屋敷の奥へと急いだ。どこだスヨン。いま、助けに行くから。待っていろ。
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2013/01/05(土)
4、田園都市、春

田園都市、春(14)

***


 それから、古巻も中学の新学期が始まり、教室での新しい顔ぶれと来年の進学・就職を視野に入れた今年一年の行事、授業内容に関するオリエンテーリングをこなしながらあわただしい一週間をすごし、気が付けばまた土曜日を迎えた。日頃、最上家では古巻が朝いちばんに起きだして台所に立つのが常であったのだが、千鶴が来てからは彼女が先だって台所の拭き掃除などをこなすようになっている。料理などはやはり危なっかしくて任せることができず、なれば古巻よりも早く起きてきて何かできないかと、彼女なりに考えた結果らしかった。当初は床が水浸しになることも多かったが、最近では千鶴も要領を得てきたらしく、古巻が起きてくることには一通り拭き作業は終わっているという状態にまでなった。

 朝食の用意なども、古巻は千鶴に指示をしながら行う。古巻がまな板や鍋に向かい、千鶴が配膳を行う役回りだ。同時に3人分の昼飯の準備なども行うが、それでも古巻が一人で準備していたころの、2/3の時間で終了する。桜花が起き掛けの気怠さを引っ提げて茶の間に顔を出すころには、3人分の食膳が並び、古巻は主人よりも先に今朝の朝刊を広げているし、千鶴はお茶の用意などしている。今朝はそれがずいぶん顕著に整い、朝の挨拶そこそこに大きなあくびを終えた桜花が一言、

「いつからここは若い夫婦の住まいになったのでしょう」

と言って、姑たる自分の振る舞いや如何などと宣ったところで、千鶴が赤面したまま硬直した。古巻には黙殺され、早々に着席する旨のみ告げられた。

 庭には小さな桜の木が一本だけ植わっている。古巻が十歳のときに桜花がどこからかもらってきたもので、もともとは田町の住居に植わっていたものであったが、主人の引越にも付き合ってもらった。身長がなく、こじんまりと咲く。その小さな花つぼみが、先日から開花を始めていた。上野や飛鳥山に比べるべくもないが、花びらの一枚二枚と舞い散るさまを眺めながら、休日の気忙しさのない朝飯を取るのも悪くない。家の主人が歌人として「桜花」を名乗っているので、それに肖ったのかと聞いたことがあるが、とくに意味は無いと一蹴された。そうしてそのとき十歳の古巻の印象に残ったのは、今しがた植えたばかりの小さな苗木を見下ろして、己の心の中に何かを強く戒めているような強い視線を向けていたことだった。その胸中を打ち明けてもらえるには、自分はまだ未熟なのだと古巻は思った。
 庭の桜を、桜花が愛でたのを見たことがない。千鶴が庭の桜に気が付き、その風雅を称えたが、案の定桜花の反応はその桜そのものからうまく身をかわして返答したため、古巻が適当にフォローを入れた。そうして改めて、古巻は「そろそろその理由をお聞かせ願いたい」という猜疑の目を桜花に向けるのだけど、その視線を黙殺して白米を口に運んでいる。

「今日は10時から出版社の編集の方と歌集についての打ち合わせでしたね。午後は同人『のはら』の集まりが駒込で。終了予定の18時にはお迎えに上がりますから、駒込までお送りした後にお時間をいただいてもよろしいですか」
「スヨンのところにいくのですか」
「ええ、そのつもりです」
「今日は、歌の読み合わせなどもありますので、古巻さんには口述筆記をお願いしたいのですが」
「ミヨンさんの様子も気になるので、今日は辞退願いたいんですが」
「古巻さん」

 千鶴がふと箸を止めた。桜花は古巻と向き直って改めて自分に同行してほしい旨を告げた。

「はあ、では、先生にはご足労ですが、駒込の集会が終わりましたら上野に寄ってもよろしいですか」
「スヨンに会うためなのでしたら、必要ありません」
「なんでそんなこと言うんですか。だったら明日にでも行ってきます。本当なら、今からでも様子を見に行きたいくらいなんです。先生だって、ミヨンさんの容体が芳しくないことくらい承知しているでしょう!」
「あそこにはもう、スヨンはいません」
「は?」

 3日ほど前より、バラック街でスヨンの姿を見なくなったと桜花は言った。
 今、スヨンを知る桜花の歌仲間らが彼女の行方を捜しているところだという。

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2012/12/08(土)
4、田園都市、春

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