桜花往生

kanayano版日本近代史。

2018/02/07(Wed)

「めらんこりあ」(8)


 士官学校の同期の多くは、任官と時を同じくして結婚し、家族を持った。
 もし自分もそのような人生を送っていたら、このくらいの子供がいてもおかしくない。
 実家を勘当同然で出てきた耕三郎に、親戚の付き合いはほとんどない。結婚を勧めてくれた上官や先輩の話も断り、30歳手前の現在も独り身のままである。
 「家」を顧みることもないと思えば、誰かと家族を持つ必要を感じなかった。同じ時間を過ごす女がいたこともあるが、耕三郎から将来の話をすることはなく、そのまま立ち消えることばかりだった。
 耕三郎が団子を食べ終わるまで、由枝は大人しく横に座っていた。だいぶ日も傾いてきた。母親と離れ、この子も心細かろう。

「あっ」

 由枝が声を上げた。走り出したその先に、母親がいた。その足にしっかりと抱きついて、わんわんと泣いた。母親も娘をあやすように、背中に手を触れた。
 母親は耕三郎を見止めると、淑やかに頭を下げた。二十前後だろうか、色白で細身の小柄な女だ。耕三郎も会釈を返した。
 由枝の手を引いて、母親は耕三郎に歩み寄った。

「この子がお世話になりました。東京に不慣れなもので、地理もわからず、途方に暮れておりました」
「『ともえさん』は見つかりましたか」

 あら、と母親は小首をかしげて、「残念ながら」と苦笑した。

「よろしければ、お礼をさせていただけませんか?」

 驚いたのは耕三郎だった。
 篠はにっこりと笑い、耕三郎の手を引いた。





 連れてこられたのは、長屋街の一角にある、篠の自宅だった。
 夕暮れ時、仕事帰りの男たちの姿も見える。篠と由枝に連れられ、その自宅の玄関の敷居をまたいだ。家の中はきれいに片付いてる。
 居間に、男物の外套がかけられていた。予想していなかったわけではないが、ここで一応、くぎを刺す。

「あの、ご亭主がおかえりになっては、いろいろと面倒でしょう。私はこれで」
「そのことならお気になさらないでくださいな。主人が帰るのは、明朝ですから」

 とはいえ、主の居ぬ間に若い男が家に上がりこんだということになれば、厄介であろう。篠の細い手を振り払うこともできず、ここまでついてきてしまったが、ふと我に返ると、今後のいろいろな問題が脳裏を巡った。自分が間男か。なるほど、これは己の人生において新しい展開だ。悪いがそういうことは御免蒙りたい。
 そういう耕三郎の心を知ってか知らずか、篠は居間の座布団をすすめ、耕三郎をそこに座らせた。由枝も耕三郎の隣に並んだ。そうして篠も耕三郎に向き合って座ると、例の穏やかな笑顔でこう言った。

「どうぞ、お脱ぎになって」
「え?」

 と、耕三郎は思わず出た自分の間抜けな声を聴いた。何を言っているのだ、亭主の留守に男を連れ込み、しかも子供のいる前でなんてことだ。目の前の、なんとも貞淑な女性が自分に何を期待しているのかなどと、下世話な考えが耕三郎の脳内に巡った。

「どうされました?早く、お脱ぎになってください」
「いや、そんなこと言われても」
「由枝、手伝って差し上げなさい」

 と、由枝は元気に立ち上がると、耕三郎のシャツに手をかけた。振り払うこともできないのでこどもの胴を抱き上げると由枝はきゃっきゃと笑い声をあげた。そのまま膝へ卸すと、「冷たい」と言った。

「替えをご用意いたしました。お風邪を召しますよ。どうぞお着換えくださいませ」

 耕三郎はそこでようやく思い出した。昼間、喫茶店で紅茶を浴びせられ、シャツに染みが付いている。
 篠はにっこりと笑い、アイロンの利いたシャツを耕三郎の前に差し出し、由枝を引き取ってお茶を下げた。部屋を辞去している間に、着替えろということらしい。
 これは、彼女の旦那のものだろうか。耕三郎は背丈はあるが細身である。着られないことはないが、通した右腕の手首が隠れない。
 あの親子の好意でもあるし、断るわけにもいかない。

「あら、少し小さかったでしょうか?」
「あ、いえ…」

 耕三郎は適当に笑ってごまかそうとしたが、先方には仏頂面のぎこちない男の顔のゆがみが見えただけであったのではないだろうか。情けなくなって思わず目をつぶり、息を吸って目を開ければ、目の前には耕三郎を覗き込んでいる由枝の顔。篠は席を立った後だった。洗濯場にでも行ったのだろうか。
 由枝は耕三郎の前にちょこんと座り、「お茶でものみますか?」といって母のまねごとをしていた。殻の湯飲みを耕三郎の前に差し出して、「どうぞ」と言った。耕三郎はどうも、といって殻の湯飲みを口元に運んだ。

「あらあら、ご迷惑をおかけしてはいけませんよ」

 篠が手ぬぐいで手を拭きながら戻ってきた。由枝を抱き上げ、自分の横に座らせた。

「ごめんなさい、シャツを水につけてみたのですが、すぐに落ちないようです。少し時間をかけて洗ってみますので、仕上がりましたらお持ちさせていただきますね。よろしければお名前と、お住まいを教えていただけませんか」
「いえいえ、とんでもありません。お気持ちだけで充分です」

 篠はにっこりと笑って、肯定も否定もしなかった。じっと耕三郎の目を見て、「そんなにお時間は頂きませんから」と言った。
 女性とは、美しくおしとやかなだけではない。ここ数日はとみに強く認識している。

「舎人と申します」

 と、名乗ると、篠が少し意外そうな顔をしたのが分かった。しかしすぐあとに「かしこまりました」と頭を下げたので、気のせいか、と思った。
 時計は、午後6時を告げた。「夕食でも」と篠が勧めてきたが、さすがに気が引けたので席を立った。

 そのとき、外から居間の襖が開いた。
 何時間か前、唐突に現れ、唐突にいなくなった女が、そこにいた。

「な、な、な……」

 耕三郎の姿を見つけた明恵は、その光景を目に、反射的に叫んだ。

「何をしている、貴様!!!」  
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作者


Author:kanayano
16歳の時に書いた脚本のエチュードを書き連ねています。
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最新記事

目次

※カテゴリは話数降順に並べておりますので、こちらから入っていただければスクロールでご覧いただけます。

■1、発芽―grow out― (65)
1、最後の恋人 (4)
2、北条古巻 (16)
3、少年と少女 (1)
4、はじまりの業火 (15)
5、月下の惨劇 (1)
6、「傾城傾国」 (28)
■2、着蕾―The bud― (54)
1、孝子、決別 (8)
2、青 (1)
3、吉岡輝也の憂鬱 (20)
4、田園都市、春 (18)
5、大陸の覇者※連載中 (7)
■ 番外『陸奥湾を抱く街』 (59)
1、明治37年、最上桔華 (8)
2、わたしの祖国 (11)
3、陸奥湾を抱く街 (9)
4、祭りのあとに (12)
5、裏切りの祖国 (13)
6、「いのち」 (6)
■番外『仮宿の楔』 (16)
1、奇人二人 (7)
2、「めらんこりあ」※連載中 (9)
読者様から頂いたイラスト (11)
from kanayano (9)

「本編」これまでのお話


<「5、大陸の覇者」登場人物>

伊藤 翔
21歳。幼いころに大陸に移住し、10歳の時に馬賊に家族を殺され、連れ去られた。18歳の時に家族の敵の一族を惨殺。現在は牢屋に投獄されている。支那名は梁文山(リャンウェンシャン)。
梁 生高(リャン シャンカオ)
38歳。父親は馬賊の統率者である「当家」梁続山。3年前、翔に父、母、弟を殺された。現在は周辺の「当家」を束ねる「攬把」。
李 爛華(リ ランホア)
23歳。村の青年。当家の一人。翔が村に連れてこられたころからの友人。
楊 和(ヤン フー)
18歳。字は子杏。爛華と同じく、翔を幼いころから知っており、獄中の彼の世話をしている。未亡人。

■「2、着蕾
大正4(1916)年。火事の中で記憶を失った弟・拓真の力になりたいと、自らも陸軍士官となることを決意した舎人孝子。日清両国の裏取引の対価として来日した吉岡輝也もまた、自らの庇護者である陸軍大将白河川修の計らいで、士官学校に入学する。奇しくも、士官学校予科では性別を偽って入学した孝子――雄一郎と名乗る――と同期であった。(1、孝子、決別
大陸進出を目論む帝国陸軍大佐久坂廣枝と、上海で裏を取り仕切る輝也の母親・仙楽弥が手を組んだ。楽弥の店で働く芸妓、宿禰緑子は、拓真と出会う。緑子は拓真に「また会いましょう」と告げて、その場を後にする。(3、吉岡輝也の憂鬱
大正9(1920)年。当代の人気歌人である最上桜花の下で暮らしている北条古巻。父親の愛人でもある桜花に、素直になれずとも平穏な日々を暮していた。身一つで転がり込んできた朝倉千鶴、桜花が朝鮮人街で助けた孫秀英。桜花と古巻の暮らしにも、新たな仲間が加わった。(4、田園都市、春

「番外」これまでのおはなし


2、「めらんこりあ」 登場人物>

舎人 耕三郎
陸軍大尉。27歳。
北条 古月
会社社長。26歳。会社の規模を大きくすべく、奔走している。
山方 明恵
16歳。美人だがめっぽう弁が立ち、家族から「奇人」と呼ばれている。そのせいで家を出た。
北条 篠
古月の妻。21歳。
北条 由枝
古月・篠の娘。4歳。

■「番外『仮宿の楔』
明治34年、東京。近衛師団に所属する舎人耕三郎大尉は、師団長・白河川修の来訪とともに、自分を訪ねる女の存在を知る。耕三郎を出せと叫ぶ女。そこに、耕三郎を知る商人、北条古月が通りかかる。女に帰れと宣う耕三郎。古月は女――山方朝重を連れて、一先ずその場を退いた。(1、奇人二人

おことわり

※当作品は物語のモチーフを実在の事件、人物に依拠していますが、事実関係は一切ございません。

※一部に暴力、流血、性的表現を伴う記事がございます。記事冒頭に注意書きを添えてありますので、閲覧の際にはご注意ください。

※本文中で中国語、ハングル、英語等の表現がありますが、作者の過小な語学力で作成しているため、ネイティブのものとは大きく異なる場合があります。ご了承ください。

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皇国の黒鷲

黒澤修吾の孫であり、吉岡輝也の甥にあたる、黒澤一臣総理が担う平成日本のかたちとは。緒方順様と共同制作です。