めらんこりあ(4)

 

そこに背中の時計が9時を告げた。古月ははあ、と大きな息を吐くと、どっこらせと立ち上がった。
 その姿を、ふくれっ面の明恵が目で追った。

「すまんのう、今日は大事な商談があるんや。続きはまた後で」

古月はにやりと笑って見せた。その余裕が、明恵の神経を逆なでする。
だれが惚れているだと。恥を知れ。
奥歯をかみしめると、悔しさがこみ上げてきた。あの男より早く、舎人耕三郎に会わねばならない。そう心に言い聞かせ、明恵は襖戸を勢いよく開けた。


***


 ところ変わって、新橋。
 橋の欄干に腕を預け、汐留川を眺めているのは舎人耕三郎である。
 軍人はいかなる時でも軍服を着用しなければならない、洋行帰りの少佐がそう宣ったそうだが、耕三郎は意に介していない。自分はそこまで忠実な国僕だとも思っていないし、同僚に不忠義を咎められようと大した感慨はなかった。時代は、耕三郎のそんな感情を許している。

 さあて、これからどうしようか。

 自らの身の振りである。勘当同然で家を出て、しかし一端学問は納めねばと官費の士官学校へ入学した。そのまま連隊に所属し、日清の役に従軍して、陸大へ行って、そうして近衛連隊に配属となった。見事な昇進ぶりだ。はたしてそれは耕三郎の望むものであったろうか。いや、望む以前に、望みなどなかった。一般常識程度学ぶことができればよかった。それ以降のことは、特段考えたことなどなかった。

 ここにきて、改めて溜息などする。
 この組織の空気が合わない。
 戦場における緊張感の事ではない。確かに、8年前は大陸で人を殺した。正確には、人を殺す命令を出した。これは自分の役割で仕方のないことだと思っている。しかし、そのことで陸大へ推薦されたことや、若くして参謀本部に出仕したことが諸先輩方の嫉妬を買い、よく思わないものが陰口をたたいたり、そのたびに耕三郎を庇おうとしてくれる仲間たちがいじらしく、仲間の気持ちはありがたくとも、その構図に嫌気がさしていたことも確かだった。昇進を望んだわけではないのだ、と弁解したところで、帰って連中の神経を逆なでするだけだろう。なら自分がいなくなってしまえば万事解決。潮時だ。
 そうして、相談相手として浮かんだのは、かの奇人、近衛師団長白河川修だった。あの食えない顔が、耕三郎の悩みをまともに聞いてくれるだろうか。にこにこと相槌を打ちながら、さらに窮地に追い込むのではないだろうか。それ以前に、あんなのでも師団長閣下だった。自分ごときが、親しくできる相手ではない。耕三郎は再び肩を落とす。先など考えてもいなかった耕三郎が唯一明確に出した答えがある。陸軍を辞める、ということだった。

 辞めてどうしようか、そこまでの考えには至っていない。
 陸軍という内輪で、官費を糧に生きてきた自分が、ここにきて職を得ようとは虫のいい話だと思う。その気持ちがある限り、どんな職についても長くは続かないだろう。いや、そんなことを言っている場合ではないか。とにかく職を得て、自分ひとりくらい生きていけるくらいは稼がなくては。

 耕三郎の丸い背中の後ろを、さまざまな人が往来している。自分はその中の一人にも成りえぬと、耕三郎は本日3度目の溜息をついた。

 そんな自分を見つめる強烈な視線を感じ、ぞくりとした。上官だろうか。普段着のままでいる自分を見咎めて、この往来で怒鳴りつけるつもりだろうか。
 そんなことをされては困るので、一応弁解しようと、視線に向き合った。するとそこにいたのは、先日麹町の門前で取りつかれたように耕三郎の名前を叫んでいた女だった。

「将校ともあろうものが、私用であろうと、軍服を着用せず出歩くなど……!!」

 まさかこの少女からそのような罵声を浴びようとは。二人の緊張状態に気が付き始めた聴衆が、こちらを向きつつ、声を潜めてなにかを話している。これはまずい。上官に怒鳴られるよりずっとまずい。
 第2声を発しようと息をすった明恵の口を押え、半ば抱きかかえるようにしてその場を後にする。背中に好奇の視線を感じながら、とりあえず新橋駅広場までやってきた。

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