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田園都市、春(18)

 
 障子越しに入室を許された。
 古巻は桜花の自室の障子戸を開けた。桜花は机に向かっていた。古巻はその少し後ろに坐した。
 古巻は、ここは自分から切り出すところではないと考えていた。スヨンは無事だった。しかしスヨンの居場所がわかっていながら桜花が手を出せなかったのは、彼女自身の問題ではなく、歌人としての桜花を取り囲む人たちがいるからであり、少なくとも仙内もその一人であり、その仙内と桜花を慕う歌人たちとの今後も考えていたことにほぼ間違えは無い。もしかすれば、自分や千鶴への風当たりなども考慮に入れたのかもしれない。だからこそ古巻は、今朝の朝食でのこのこの話題において、桜花の微妙な立場に思い至れなかった自分のことを浅はかだと思ったし、彼女の内心を考えてやれるだけの思慮が自分にはなかったのだ、至らなかったと思った。だからこの一件に関して、スヨンを確保できた以上の何かを、古巻は桜花に求めるつもりは毛頭なかった。

「スヨンの様子は」

先に口を開いたのは桜花だった。桜花は、相変わらず机上で筆を走らせていて、古巻に振り向くこともしなかった。古巻は桜花の背中を壁だと思った。壁に向かって古巻は話をした。

「だいぶ落ち着いたようです。千鶴さんが、命に別状はないと言っていました」
「そうですか」
「先生、あの」

そう言いかけた途端、古巻は左頬を強打された。あまりにも不意打ちだったので思わず態勢を崩し、右手で体を支え、転倒だけは免れた。一瞬、何が起こったのかわからず、思考が宙を彷徨ったが、そのうちにこちらを向き直った桜花の言葉が、矢継ぎ早に放たれた。

「なんて馬鹿なことをしたのです。あなた一人で乗り込んで、もしかしたら、昨今のことで家を守るために仙内さんのところで屈強な男でも雇ったりなんかしていたら、あなたなんか簡単にとらわれて、どんなことをされるかわかったもんじゃない。あなたが日本人の家に押し入って朝鮮人を連れ出したと、誰かが噂するかもしれない。そうしたらあなた、昨今の新聞に出ているみたいに、猛烈な国粋信者に、後ろから刺されてしまうかもしれないのですよ。これから大学に行こうという時に、あらぬ噂があなたの将来を悲観的なものにしてしまいかねないのですよ」

「お言葉ですが先生、おれは間違ったことをしたとは思っていません。そうですね、住居侵入については罪を問われるかもしれませんけれど、そうなったら罰を受けるつもりでいます。でも、スヨンを無事に連れて帰ってこられたことに関しては、だれに恥じることもありません。噂がたとうが、おれの気が変わることはありません。ところで、今回のことは、今朝方の先生の諫止を聞き入れることなく、勝手に飛び出したことに関しては反省しています。先生にも立場がおありですから、慎重に事を運ぼうとしていたのだと思いますが、そのような社会的機微に思い至れず、自分の感情に任せてあの場を後にしたのは事実です。未熟でした。申し訳ありませんでした」

 古巻は正直、内心非道く動揺していた。がたがたと振動する心臓の血流を感じながら、震える呼吸を自覚して、なお冷静であろうとした。自惚れていたわけではない。だが少なくとも、桜花なら理解ってくれると心のどこかで信じていたのだ。ところが、いざ相対してみれば、世間体だの、過激派だの、まるで小心なところを論う。桜花のことは好きではないが、長年かけて築いてきたある種の尊崇の念が崩れ落ちそうで、この瞬間、古巻にはそれがどうしようもなく耐え難かったのだ。

「あなたはどうなんです」
「はあ、ですから、その一点については反省していると」
「そうではなく!」

 古巻の目の前には相変わらず壁があった。桜花とこうしてまともに向きあったのはいつ振りだろう。幼いころ、障子を破って以来だろうか。彼女の仕事場で墨をぶちまけて以来だろうか。そういえば随分とこうして怒られたものだった。壁はそこにあった。圧倒的存在。超えることのできない存在。好意的な感情を抱いたことなど一度もないのに、逆らうことをしてはいけないのだと、少年の心は本能で理解していた。それはこの年になって、漸く薄ぼんやりと輪郭を持ってきた。この人の言うことには彼女自身の経験や知識からくる絶対的な裏付けがあって、それに従えば行き先を見失うことがないのだ。
 それが壁なのだ。突き破ることも、乗り越えることもできない壁。桜花の胸の内に秘められたこれまでの人生を、感情を、思考を、こんなに近くにいながら古巻は何一つ知らないのだ。自分は桜花にとって、それを打ち明けるだけの存在には今だ不足なのかもしれない。
 古巻はふと惨めな気持ちになって、頭を垂れた。そのとき、強く腕を引かれた。何が何やら解らぬまま、気が付けば、桜花の腕の中にいた。押し付けられた胸のあたりから心臓の音が聞こえるようだった。桜花の腕に込められた力のあまりの強さに、痩身の古巻の背中は折れてしまいそうだった。まるで掬い取られるように引き寄せられたので、自分の体重をすべて桜花に預ける形となっている。
 そのうちに、なんだかいたたまれない様な心地がしているのも、次第に薄れてきた。時計の針がこちこちと動いている。古巻は、目を閉じた。おのれの気持ちに決着はついていないのに、なぜだか、そうなぜか、安心できた。

「あなたは無事ですね」
「当たり前です。ミイラ取りがミイラになっては格好悪いでしょう」
「世間体など気にせず、己の信念を貫けとあなたに教授したのはわたしです。でもそれがあなたを傷つける結果になりかねないのだと、今朝、あなたが出て行った後に気が付いて愕然としました。
もっと早く、わたしがスヨンを助け出せていたら、わたしに、もっと力があれば、あなたにこんなことさせずに済んだのに。でも、心のどこかで、あなたがスヨンを受け入れてくれたこと、あなた自身の意思で行動してくれたことを誇りに思ったんです。本当は、あなたをバラック街に連れて行かなければ今回のことは起きなかったのかもしれない。でもわたしは、あなたが時代の風評に捉われず、己の意思を貫ける人間に育ってくれたことを心の底から嬉しいと思ったのです」
「こんなこと言いたくありませんが、もう長く、あなたの背中を見てきましたから」
「あなたを守らねばならぬ立場の私が、あなたの命に係わるかもしれない行動を称賛するなど、あってはいけないっことなのかもしれません。自分を棚に上げて、あなたにばかり負担をかけてきた。わたしはやはり、あなたの庇護者には相応しくないかもしれません。きっとこれからそうして悩み続けるでしょう。ですから古巻さん、どうかあなたの望むものが見つかるまでここにいてください。あなたが認めてくださらなければ、桔華はいつまでたっても、桜花にはなれないのですから」

 頼ってばかりいたのはおれだ、と古巻は思う。
 頼ってくれていたのか、と思った。流水に突き刺さる竿が、一つ抜けたような心地だった。

 焦っていたのだろうか。自分が大人になれなことを。桜花と対等になれないことを。
 何も話してくれない桜花に焦れる想いを抱いていたのは、無意識のうちに彼女を理解したい気持ちがあったのかもしれない。だがおそらくそうではないのだ。古巻が自分で思ってるほど、桜花は遠いところにいるわけではない。

 いつか話してくれるだろうか。「桜花」の歩んできた人生を。

 桜花が誇りだと称してくれた自分を、誇りたい気持ちだった。
 桜花の胸の中で眠りに落ちる瞬間、古巻が大好きだった祖母の顔が浮かんだ。その笑顔は、今自分を包む温もりのそれと同じものであった。


*****


 明くる朝。
 割と早朝。

 
「あー!!待って待って千鶴ねえちゃんまだ鍋に大根入れちゃダメー!!」
「え、あ」

 入れちゃったらしい。

「ちょ、そっちそっち、ふきこぼれてる!!わー!魚焦げてる!煙ーー!!」

 台所であたふたする千鶴と、右手が折れているので、賄の粗相に気がついても思うように手を出せないスヨンが、さながら早朝の鶏のように忙しく立ち回っていた。
 その光景を前に呆気にとられ、手も口も出さずにぼさっと突っ立ってるのが古巻。本日寝坊。

「あ、遅い!なにしてんの早く手伝ってよ、ただでさえ食材少ないんだから魚一匹だって無駄にできないんだよ!」

 そんな古巻を見つけて、スヨンが姦しく古巻を呼んだ。

「何台所仕切ってんだよ」
「別に仕切りたくて仕切ってるわけじゃ……、あああ、千鶴ねえちゃん後ろ七輪!!」
「お前怪我は。もう起きても大丈夫なのか」
「いつまでも寝てるは性に合わないんだ。千鶴ねえちゃんもね、ちゃんとお薬を飲んでいれば、少しくらいは動いてもいいんだって言ってて」

 といったそばで、七輪からこんがりと焼き目のついためざしが落ちた。千鶴が急いで拾おうとして素手を出して、当然熱くて拾うことはできなかった。

「少しくらいは、ねえ」
「おかしいねえ、千鶴ねえちゃん、お医者さんみたいだし薬の調合とかもすごくできるのに、どうして料理はできないんだろ」

 やれやれ、と古巻は立ち上がった。まだ顔も洗っていない。中庭の井戸に向かおうと廊下に出ると、スヨンが後ろから呼び止めた。

「ありがとう、助けてくれて」

 スヨンに素直に礼を言われるとは思わなかった。古巻は返す言葉を見失って、言葉に詰まっていると、

「ま、古巻なんかいなくても、おばあちゃんが助けてくれたかもしんないし?」

 と捨て台詞とともに台所へ戻っていった。
 古巻は自分の一時的な感情を撤回し、

「おいせめて敬称つけろ!年上だぞ!」

 と怒鳴った。すると台所から

「だって男なのに背小っちゃいし痩せっぽちだし後ろ髪結ってるし、年上って感じしないんだもん!」

 と、こんな調子で二人の応酬が始まった。

 朝から賑やかなことである。ほんの数日前までは、古巻と二人だけの、静かな朝ばかりだったのに。

 桜花は文机に向かい、遠くの喧噪を愛おしく聞いている。
 開け放った障子戸から春の風が書斎に吹き込んだ。いくつか半紙が飛んだ。
 桜花は筆を執った。何枚か書いて、書き直して、そうして書き上げたころ、朝食ができたとスヨンの声が飛んできた。桜花は自室を後にした。

 薄氷砕く草芽土中の牛若に きよもりなりて何語るらん

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2013/05/19(日)
4、田園都市、春

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