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田園都市、春(17)

先ほどまで古巻の腕の中で抵抗していたスヨンが大人しくなった。

このまま病院に連れて行くことも考えたが、先ほどの光景が思い出されたのでやめた。要するに、スヨンの出自をうまく思わない連中と新たな騒ぎになることは避けたいと思った。

電車を乗り継ぎ、桜花宅の最寄駅からはスヨンを背負った。決して頑強ではない古巻では、抱きかかえたまま歩行するのが体力的に難しかったからだ。前に抱きかかえるよりも楽だといっても、スヨンの体を何度も落としそうになり、そのたびに背負いなおして、一路、家路を急いだ。町医者に診せることはできなくても、家には千鶴がいる。飯も食わしてやれる。風呂にも入れてやらねば。そうして思考を巡らせていて、ふと、肩口で寝息を立てていたスヨンが覚醒する気配がした。

「起きたか」
「どこ、いくの」
「うちに帰るんだ」
「うちって、どこ」
「調布。そうか、お前は初めてか」
「日本に、あたしたちの帰るところなんて、無いよ」

力なく、ぽつりとスヨンはそう言った。古巻はすぐにそれに答えなかった。

「あのね、母さんも、アボジも、朝鮮から来たんだよ。日本でうまくいかなくても、二人は、朝鮮に帰ればいいんだ。でもね、あたしは日本で生まれたから、向こうに行っても知ってる人も頼るところもない、日本にいても、日本人じゃないから相手にしてもらえない。ねえ、あたし、どこにいけばいいのかな。アボジがいなくなって、旦那様にも会えなくなって、母さんも死んじゃった。どこに行けばいいんだろう、あたし、もう疲れちゃった。だからもういい、お願い、あたしをここで捨てて行って。そうすれば明日にはもう、動くこともできなくなっているよ。三日もしないうちに母さんに会いに行ける。会いたい、会いたい――」

オモニ、とスヨンは言った。ミヨンのことは、古巻たちの前では決してオモニとは言わなかった。これまでスヨンは古巻に対し、施しは受けぬとその手を振り払ってきた。それが彼女の精一杯の強がりであることは古巻にもよくわかっていた。頼るところの無い孤独。信じたものに裏切られる辛い思い。それが彼女を追い込み、辛辣な環境が彼女の反面教師となり、頑なな態度をとらせたのであろう。まだ10歳を超えたばかりの少女である。異国での決して順風でなかったであろう体験は、彼女には耐えるに忍びないものであったに違いない。

「おば……ちゃんは」

 おばちゃんと言ったのかおばあちゃんといったのか、古巻には聞き取れなかったが、桜花のことであろうと古巻は思った。

「信じたいって、思った。旦那様のところにいるときも、日本語、教えてくれたり、歌聞かせてくれたり、優しくて、綺麗で、あそこから追い出された後も、あたしたちを探しだしてくれた。でも怖かったの。大好きだから、また裏切られるんじゃないかって、また、捨てられるんじゃないかって、だったら、あたしから縁を切ってしまおうって。持ってきてくれるごはんや薬、突き返したりして、もう来るなって、何度も言ったりして、あたし、ほんとうにおばあちゃんに嫌なこといっぱいして」

 まるで独り言のようなスヨンの繰り言を、古巻は小さく頷きながら聞いていた。顔も上げずに呟いているから、スヨンの言葉は古巻の肩口の皮膚から直接、脳髄に響いてくるようであった。

「なのに、毎日きてくれるんだ。あたしが会いたくないから家にいても、おばあちゃんの長屋街での振る舞いを誰かが持ってきてくれた。オモニが死んだときも、近くにいてくれた。でもあたしはそれが嫌で逃げ出して、旦那様の家に監禁された時もすぐに見つけ出してくれた。毎日、奥様にあたしを解放してほしいってお願いに来てくれたんだ。どうしてそこまでしてくれるのかな。あたしたちは、日本人から嫌われてるんだよね?あたしたちと関わっているなんて人が知ったら、おばあちゃんもみんなに嫌われちゃう。千鶴姉ちゃんも、あんた、も」
「知るか。言いたい奴には言わせておけばいい」
「旦那様にオモニのこと伝えられなかったな」
「先生に言っておく。安心しろ、ああ見えて約束は守る人だ」
「そう、だね。きっと、おばあちゃんなら、だいじょ、ぶ……」

 スヨンが次に目を覚ました時、この独白の多くを覚えていないだろう。これはあくまで彼女の心の中の声なのであり、古巻が聞くべきものではなかったに違いない。
 少女の寝息が再び聞こえ始めた。スヨンの強がりは、朝鮮人と関わることで自分たちへいらぬ害が及ぶことを考えた上での行動でもあったのだと理解した。こどもにそんな気遣いをさせた自分に憤り、しかしその憤りの根源がこの時代の空気であることに思い至り、煮え切らなくなった。
 どうかしている、と思う。自国民でなければ人間でないといわんばかりのこの現状を。さもなくば自らが指導民族であり後進の近隣諸国をまつろわせねばならぬというお節介な義務感を。
 いや、それは自分のような一般臣民の思い至るべきモノではない。政治家や軍人や、外国と貿易しているような連中が描いている妄執に、わざわざ付きあってやることもないのだ。

 家の前には桜花と千鶴がおり、スヨンを背負った古巻を認めると、今にも泣きだしそうな顔をした千鶴が駆け寄ってきた。千鶴の指示の下、スヨンを寝かしつけて体をぬぐってやり、点滴ができぬからと起きたら食わせる滋養剤を作るよう古巻は申しつかり、台所に立った。古巻にすれば得体のしれぬ黒い濁り汁を千鶴に預けると、顔も綺麗になったスヨンは先ほどまでの苦しそうな表情もなく、穏やかな寝息を立てていた。とりあえず、命に別状はないという。千鶴に礼を行って部屋を出ると、すでに日が暮れていた。廊下を渡り、古巻は灯りの灯っている桜花の自室の、障子越しに声をかけた。


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2013/03/04(月)
4、田園都市、春

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