桜花往生

kanayano版日本近代史。

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2013/03/04(Mon)

田園都市、春(17)

先ほどまで古巻の腕の中で抵抗していたスヨンが大人しくなった。

このまま病院に連れて行くことも考えたが、先ほどの光景が思い出されたのでやめた。要するに、スヨンの出自をうまく思わない連中と新たな騒ぎになることは避けたいと思った。

電車を乗り継ぎ、桜花宅の最寄駅からはスヨンを背負った。決して頑強ではない古巻では、抱きかかえたまま歩行するのが体力的に難しかったからだ。前に抱きかかえるよりも楽だといっても、スヨンの体を何度も落としそうになり、そのたびに背負いなおして、一路、家路を急いだ。町医者に診せることはできなくても、家には千鶴がいる。飯も食わしてやれる。風呂にも入れてやらねば。そうして思考を巡らせていて、ふと、肩口で寝息を立てていたスヨンが覚醒する気配がした。

「起きたか」
「どこ、いくの」
「うちに帰るんだ」
「うちって、どこ」
「調布。そうか、お前は初めてか」
「日本に、あたしたちの帰るところなんて、無いよ」

力なく、ぽつりとスヨンはそう言った。古巻はすぐにそれに答えなかった。

「あのね、母さんも、アボジも、朝鮮から来たんだよ。日本でうまくいかなくても、二人は、朝鮮に帰ればいいんだ。でもね、あたしは日本で生まれたから、向こうに行っても知ってる人も頼るところもない、日本にいても、日本人じゃないから相手にしてもらえない。ねえ、あたし、どこにいけばいいのかな。アボジがいなくなって、旦那様にも会えなくなって、母さんも死んじゃった。どこに行けばいいんだろう、あたし、もう疲れちゃった。だからもういい、お願い、あたしをここで捨てて行って。そうすれば明日にはもう、動くこともできなくなっているよ。三日もしないうちに母さんに会いに行ける。会いたい、会いたい――」

オモニ、とスヨンは言った。ミヨンのことは、古巻たちの前では決してオモニとは言わなかった。これまでスヨンは古巻に対し、施しは受けぬとその手を振り払ってきた。それが彼女の精一杯の強がりであることは古巻にもよくわかっていた。頼るところの無い孤独。信じたものに裏切られる辛い思い。それが彼女を追い込み、辛辣な環境が彼女の反面教師となり、頑なな態度をとらせたのであろう。まだ10歳を超えたばかりの少女である。異国での決して順風でなかったであろう体験は、彼女には耐えるに忍びないものであったに違いない。

「おば……ちゃんは」

 おばちゃんと言ったのかおばあちゃんといったのか、古巻には聞き取れなかったが、桜花のことであろうと古巻は思った。

「信じたいって、思った。旦那様のところにいるときも、日本語、教えてくれたり、歌聞かせてくれたり、優しくて、綺麗で、あそこから追い出された後も、あたしたちを探しだしてくれた。でも怖かったの。大好きだから、また裏切られるんじゃないかって、また、捨てられるんじゃないかって、だったら、あたしから縁を切ってしまおうって。持ってきてくれるごはんや薬、突き返したりして、もう来るなって、何度も言ったりして、あたし、ほんとうにおばあちゃんに嫌なこといっぱいして」

 まるで独り言のようなスヨンの繰り言を、古巻は小さく頷きながら聞いていた。顔も上げずに呟いているから、スヨンの言葉は古巻の肩口の皮膚から直接、脳髄に響いてくるようであった。

「なのに、毎日きてくれるんだ。あたしが会いたくないから家にいても、おばあちゃんの長屋街での振る舞いを誰かが持ってきてくれた。オモニが死んだときも、近くにいてくれた。でもあたしはそれが嫌で逃げ出して、旦那様の家に監禁された時もすぐに見つけ出してくれた。毎日、奥様にあたしを解放してほしいってお願いに来てくれたんだ。どうしてそこまでしてくれるのかな。あたしたちは、日本人から嫌われてるんだよね?あたしたちと関わっているなんて人が知ったら、おばあちゃんもみんなに嫌われちゃう。千鶴姉ちゃんも、あんた、も」
「知るか。言いたい奴には言わせておけばいい」
「旦那様にオモニのこと伝えられなかったな」
「先生に言っておく。安心しろ、ああ見えて約束は守る人だ」
「そう、だね。きっと、おばあちゃんなら、だいじょ、ぶ……」

 スヨンが次に目を覚ました時、この独白の多くを覚えていないだろう。これはあくまで彼女の心の中の声なのであり、古巻が聞くべきものではなかったに違いない。
 少女の寝息が再び聞こえ始めた。スヨンの強がりは、朝鮮人と関わることで自分たちへいらぬ害が及ぶことを考えた上での行動でもあったのだと理解した。こどもにそんな気遣いをさせた自分に憤り、しかしその憤りの根源がこの時代の空気であることに思い至り、煮え切らなくなった。
 どうかしている、と思う。自国民でなければ人間でないといわんばかりのこの現状を。さもなくば自らが指導民族であり後進の近隣諸国をまつろわせねばならぬというお節介な義務感を。
 いや、それは自分のような一般臣民の思い至るべきモノではない。政治家や軍人や、外国と貿易しているような連中が描いている妄執に、わざわざ付きあってやることもないのだ。

 家の前には桜花と千鶴がおり、スヨンを背負った古巻を認めると、今にも泣きだしそうな顔をした千鶴が駆け寄ってきた。千鶴の指示の下、スヨンを寝かしつけて体をぬぐってやり、点滴ができぬからと起きたら食わせる滋養剤を作るよう古巻は申しつかり、台所に立った。古巻にすれば得体のしれぬ黒い濁り汁を千鶴に預けると、顔も綺麗になったスヨンは先ほどまでの苦しそうな表情もなく、穏やかな寝息を立てていた。とりあえず、命に別状はないという。千鶴に礼を行って部屋を出ると、すでに日が暮れていた。廊下を渡り、古巻は灯りの灯っている桜花の自室の、障子越しに声をかけた。


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作者


Author:kanayano
16歳の時に書いた脚本のエチュードを書き連ねています。
かなやのぶ太名義、私生活ブログはこちら

最新記事

目次

※カテゴリは話数降順に並べておりますので、こちらから入っていただければスクロールでご覧いただけます。

■1、発芽―grow out― (65)
1、最後の恋人 (4)
2、北条古巻 (16)
3、少年と少女 (1)
4、はじまりの業火 (15)
5、月下の惨劇 (1)
6、「傾城傾国」 (28)
■2、着蕾―The bud― (54)
1、孝子、決別 (8)
2、青 (1)
3、吉岡輝也の憂鬱 (20)
4、田園都市、春 (18)
5、大陸の覇者※連載中 (7)
■ 番外『陸奥湾を抱く街』 (59)
1、明治37年、最上桔華 (8)
2、わたしの祖国 (11)
3、陸奥湾を抱く街 (9)
4、祭りのあとに (12)
5、裏切りの祖国 (13)
6、「いのち」 (6)
■番外『仮宿の楔』 (16)
1、奇人二人 (7)
2、「めらんこりあ」※連載中 (9)
読者様から頂いたイラスト (11)
from kanayano (9)

「本編」これまでのお話


<「5、大陸の覇者」登場人物>

伊藤 翔
21歳。幼いころに大陸に移住し、10歳の時に馬賊に家族を殺され、連れ去られた。18歳の時に家族の敵の一族を惨殺。現在は牢屋に投獄されている。支那名は梁文山(リャンウェンシャン)。
梁 生高(リャン シャンカオ)
38歳。父親は馬賊の統率者である「当家」梁続山。3年前、翔に父、母、弟を殺された。現在は周辺の「当家」を束ねる「攬把」。
李 爛華(リ ランホア)
23歳。村の青年。当家の一人。翔が村に連れてこられたころからの友人。
楊 和(ヤン フー)
18歳。字は子杏。爛華と同じく、翔を幼いころから知っており、獄中の彼の世話をしている。未亡人。

■「2、着蕾
大正4(1916)年。火事の中で記憶を失った弟・拓真の力になりたいと、自らも陸軍士官となることを決意した舎人孝子。日清両国の裏取引の対価として来日した吉岡輝也もまた、自らの庇護者である陸軍大将白河川修の計らいで、士官学校に入学する。奇しくも、士官学校予科では性別を偽って入学した孝子――雄一郎と名乗る――と同期であった。(1、孝子、決別
大陸進出を目論む帝国陸軍大佐久坂廣枝と、上海で裏を取り仕切る輝也の母親・仙楽弥が手を組んだ。楽弥の店で働く芸妓、宿禰緑子は、拓真と出会う。緑子は拓真に「また会いましょう」と告げて、その場を後にする。(3、吉岡輝也の憂鬱
大正9(1920)年。当代の人気歌人である最上桜花の下で暮らしている北条古巻。父親の愛人でもある桜花に、素直になれずとも平穏な日々を暮していた。身一つで転がり込んできた朝倉千鶴、桜花が朝鮮人街で助けた孫秀英。桜花と古巻の暮らしにも、新たな仲間が加わった。(4、田園都市、春

「番外」これまでのおはなし


2、「めらんこりあ」 登場人物>

舎人 耕三郎
陸軍大尉。27歳。
北条 古月
会社社長。26歳。会社の規模を大きくすべく、奔走している。
山方 明恵
16歳。美人だがめっぽう弁が立ち、家族から「奇人」と呼ばれている。そのせいで家を出た。
北条 篠
古月の妻。21歳。
北条 由枝
古月・篠の娘。4歳。

■「番外『仮宿の楔』
明治34年、東京。近衛師団に所属する舎人耕三郎大尉は、師団長・白河川修の来訪とともに、自分を訪ねる女の存在を知る。耕三郎を出せと叫ぶ女。そこに、耕三郎を知る商人、北条古月が通りかかる。女に帰れと宣う耕三郎。古月は女――山方朝重を連れて、一先ずその場を退いた。(1、奇人二人

おことわり

※当作品は物語のモチーフを実在の事件、人物に依拠していますが、事実関係は一切ございません。

※一部に暴力、流血、性的表現を伴う記事がございます。記事冒頭に注意書きを添えてありますので、閲覧の際にはご注意ください。

※本文中で中国語、ハングル、英語等の表現がありますが、作者の過小な語学力で作成しているため、ネイティブのものとは大きく異なる場合があります。ご了承ください。

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皇国の黒鷲

黒澤修吾の孫であり、吉岡輝也の甥にあたる、黒澤一臣総理が担う平成日本のかたちとは。緒方順様と共同制作です。


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