田園都市、春(12)

***

用意した握り飯をスヨンと千鶴の3人で平らげ、残りは母親にとスヨンに預けて、本日のところはバラックを離れた。古巻は、自分にも桜花のような振る舞いはできるだろうかと考えて、真似事のようなことはできるかもしれないという結論を出した。来週には学校も始まるから毎日というわけにはいかぬが、週末に昼飯を振舞うくらいならできるかもしれない。

帰路、千鶴はやはり俯き加減に、古巻の一歩後ろを歩んでいた。ミヨンへの振る舞いは、到底素人のものではなかったが、それをカサに着るということも無い。朝と同じ、古巻になんらかの引け目を感じているかのごとく、不安げにその背中を追っていた。

調布の駅に降りたころには、すでに日は傾きかけていた。仕事帰りのサラリーマンが、無言でプラットフォームを流れていく。
駅から桜花の自宅まで、徒歩で10分程。駅前の喧騒を抜けると、静かな住宅地を抜ける路地に入る。ここまでほとんど口を開かなかったが、いままで散々考え抜いていた問うべきか問わぬべきかを超越して、ごく自然に千鶴へ話題を振った。

「医学の心得があるのですね」

千鶴はびくりと身を震わせて、視線を上げた。返事ともつかぬような声を発し、そしてまた押し黙ってしまった。

「南部盛岡藩には、元禄のころに活躍した朝倉長兵衛という医者の末裔がいて、徳川瓦解の後も政府から侯爵の身分を与えられ、東京へ召還を請われるほどの高名な医者の一族がいるのだと聞いたことがあります。おれの勘違いでしたら、すみません」

千鶴は、古巻の言葉を聞き終えて、そうしてやっぱり、こみ上げる感情を堪えるように体をこわばらせていた。顔を上げずに「ご推察に相違ありません」と答えた。

「そうでしたか。助かりました。おれ一人では、今日のミヨンさんの急変をあそこまで介抱してやることはできなかったでしょう。ありがとうございました」

古巻はそれだけ言ってまた歩き出した。もっと突っ込んだ話をされるのだろうと身構えていたらしい千鶴は、あわててその背中を追った。

「あの……」
「なんですか」
「いえ、その」

「古巻さんは」とそこまで言って、千鶴ははっとして口をつぐんだ。恥じらうように顔を背ける。古巻はそういう反応にあまり慣れておらず、正直とても動揺した。

「かまいません、おれも、千鶴さんとお呼びしますから」

どんな顔でこんなことを言ったんだろうと思うと、顔面が延焼するような思いがした。
顔を上げた千鶴は、今日一番、驚いたような目をしていた。咎めごとを許された子どものようだった。

「なにか」
「古巻さんは、将来、北条の会社をお継ぎになるのですか」
「はあ、いや、なんというか」

 前触れもない質問に、古巻は首を傾げて頭を掻いた。

「『北条』の会社を知らぬ者は、今の日本にはおりません。三井や古河に並ぶ巨大なコンツェルンです。その会長の名前は、北条古月さまです。珍しいお名前ですから、初めてお伺いしたときにもしかして、と思ったのです」

 普段は控えめにしてはいるが、世の中の動きを理解しているし、洞察力もある。頭のいい人なのだろうと古巻は思った。それにしても、それと会社の将来が、千鶴の中でどう結びついているのかは分からなかった。そこまでは追及すべき時宜ではないかもしれない。

「ええ、こちらもご推察のとおり、北条古月はおれの父親ではありますけれど、おれは京都の実家を離れて長いし、あまりつながりも強くありませんから、おれ自身は会社を継ぐつもりもないし、会長も考えてはいないでしょう。会長は、血縁とか縁故とか、そういうものには恐ろしく無頓着な男なんで」
「そのことを、お辛く考えたことはありませんか」
「辛い?何がです」
「自分の意志とはかけ離れたところで、名前ばかりが先行していく。あそこの血縁なのだろう、さぞかし立派なご子息なのだろうと、好奇と期待の溢れる視線を向けられるわが身を顧みて、先人の行いに比してわが身のなんと卑小なこと。わたしの存在が、朝倉の名前に傷をつけてしまうのではないか。そう思うと、身も心もずたずたと引き裂かれてしまうような心地がする。そういうことは、ありませんか?」

 なぜ、おれは北条の家を出されてしまったのだろう、と考えていたことがあった。
 古巻は桜花の下に預けられたが、実家には姉のゆゑがいる。家には使用人もいる。母親は居なくとも、北条の家で暮らしていくことはできた。しかしそれでも家を出されたのは、もしかしたら自分が北条の家にとって「不要なもの」と判断されたのだと、思うことがった。幸いにして、古巻は会社を息子の自分が引き継ぐことを重要視したことはなかったし、母親がいなくなってからは、普段不在がちの父親と顔を合わせることも少なく、実家への思慕はおそらく人よりも薄かった。だから、実家にとって「不要」とされたと自分で気が付いたときに、それは決定的な古巻自身の自我喪失の原因とはならなかった。今となれば、北条家にとって自分は「不要」であるとかそうでないとか、そういう問題ではないのだと思い至っている。そういう意味で、自分はそこに大きく躓かなかったが、自分の価値を肯定できないという不幸は、そこを抜け出すまでは精神を苛まれるような苦痛であろうことは、古巻にも想像がついた。

「あなたは苦しかったんですね」
「わたしよりも、苦しんでいる人がいました」

 それだけいって千鶴はなんとも力なく笑って、「お忘れください」と言った。胸の荷物を抱えなおして、古巻を追い抜いて家の方に小走りに去っていった。
 
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2012/10/20(土)
4、田園都市、春

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