田園都市、春(10)

食事が終わった後は千鶴とともに炊事場に立った。皿を二枚割られたところで、彼女には今日のところは自分の仕事を見ているようにと申し付けて、炊事場の片付けを終え、庭の菜園からかぶを抜いてきて漬け込んだ。今晩の仕込みだ。
 続いて廊下に雑巾をかけ、洗濯ものを片づけ、朝の一件のまま放置していた桜花の書斎を整理した。雑多と広がっているように見えるが、桜花なりにどこに何があるのか把握しているらしく、勝手に整頓したりすると面倒なことになったりする。作業スペースと通路を確保し、資料の位置をあまり変えない様に本を寄せた。それによってできた通路の乾拭きをした。

 昼前に、家を出た。古巻は4人分の握り飯と大根の漬物を持参した。
 目的地は、例のスヨンの住むバラック街である。おいていくわけにもいかないので、本人の承諾を得て連れだった。千鶴は古巻の一歩後ろを控えてあるいている。

 どうにも表情が暗い。自分の不出来を責めているのかもしれない。古巻としてはたいして問題にはしていないのであるが、彼女を諌める自分の言葉にも非があるのかもしれない、と自省してみる。

 汽車を乗り継いで、上野駅で降りた。平日の昼ではあるが、公園近くの横丁は多くの人で賑わっていた。
 活発な店頭でのやり取りや観光客の往来が珍しいのか、千鶴は伏せていた顔を上げて、遠慮がちにそれらを眺めているようだった。古巻がそれに気が付いて「少し見ていきますか」というのだけど「いいえ、とんでもありません!」と反射的に返されてしまう。まだ警戒されているのか、そうでなければ、本人のこの気の張りつめようは正直痛々しい。自分に対してそこまで引け目を感じる必要もないと思うのだけど、そういえばまだ千鶴と顔を合わせて半日しか経っていないのだ。いらぬ気を使うより、もう少し慣れてもらった方が下手に刺激せず双方にとっていいのかもしれない。

「ええと、これから知り合いを訪ねるんですが、彼女はどうやら労咳のようで、あまり人と会いたがりません。おれはこの握り飯を届けてくるので、外で待っていていただけますか」

 歩みを進めつつ、とりあえず古巻は要件を伝えた。

「労咳……」
「ああ、ここです」

 家とも小屋ともつかない粗末な建物だ。バラック街の中でも、この一角は人通りが少ない。
 古巻にとって意外だったのは、朝鮮人たちが住むバラックの大通りでも、千鶴が大した動揺を見せなかったことだった。先ほどの横丁は物珍しさがあったように思えたが、明らかに空気の違うこの一角は、もしかしたら千鶴には酷ではないかと古巻は考えていた。古巻に対する遠慮はここにきても変わらないが、世間に対する認識や度胸はあるのかもしれない。
 
 千鶴をここにとどめて、小屋に入ろうとしたところで、中から酷い咳き込みが響いてきた。それを案じるように、少女の母を呼ぶ声がする。スヨンだろう。古巻は藁の仕切をひらいた。そこには大量に喀血しているミヨンと、母の背を支えながら声をかけ続けるスヨンの姿があった。

「おい、大丈夫か」
「おまえ昨日の……!何で」
「その話はあとだ。ミヨンさんの咳が止まらない、とりあえず水を飲ませよう。代えの服と、布団はあるか」
「う、うん」

 古巻はスヨンからミヨンの身体を預かり、喉に詰まっている血塊を取り除こうとした。すると、後ろからその手を止められた。ひんやりとした細い手だった。驚いて後ろを向けば、そこにいたのは千鶴だった。

「血液に直接触れてはいけません。たらいを用意してもらってください。水は飲み水ではなく、環境を清潔にするために桶に水と、雑巾を。こちらの小屋の窓はすべて開けて、古巻さんは、どこからか氷をいただいてきていただけますか」

 先ほどまでのとおり、発する言葉そのものに力はないのであるが、淀みなく適切に単語を発する千鶴に、古巻は素直に「わかった」と返事をした。昨日豚汁を一緒に作った女が路地を歩いていたので、そこで氷を用意してもらうことになった。言づけて小屋に戻ると、千鶴は着物をの袖をたすき掛けて右腕でミヨンの汚れた身体を支え、血塊をたらいに吐き出させていた。人間の体のつくりにのっとった、効率的な方法なのだと素人目の古巻にも分かった。
 スヨンも支持された通り桶に水と手ぬぐいを用意しており、千鶴のそばで不安げに母親を見つめていた。ミヨンは落ち着いては来たものの、意識も朦朧とした中で、たまに思い出したように大きな溜めを必要とするような咳をした。たらいには黒い血塊が広がっていたが、それ以上吐血することはなかった。古巻が勝手に一息つくと、千鶴はミヨンの様子をみつつ、彼女の身体をゆっくりと布団に横たえていた。ミヨンの汚れた上掛けを取り、寝間着の腰ひもを外し始めたので古巻はどうしようか一瞬判断が遅れてしまったのだが、

「あんたちょっと外に出てなさいよ!」

とスヨンによって小屋の外に追い出されてしまった。今は力になれることはないなあと思いつつ、小屋の前に腰を下ろしてぼんやりと虚空を眺めている。

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2012/09/27(木)
4、田園都市、春

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