田園都市、春(9)


 ***

 翌朝。
 まな板をたたく包丁の音で、古巻は目を覚ました。
 時計を確認するが6時前。毎朝の定刻とほぼ変わらない。桜花の起床まで通常であればあと30分はある。はて、今日は早く出かける用事などあったろうかと、早朝の動きの鈍い頭を廻しつつ、台所に向かった。
 たすき掛けで味噌汁の味見をしていたのは、やはり桜花だった。

「申し訳ありません、早出の用があるなら、言っていただけたら準備しましたのに」
「あらおはようございます。いいんですよ、今日は早く目が覚めたものですから」

 竈ではもうすぐ飯が炊ける。桜花は味噌を溶かして鍋に流し込んでいるし、古巻が付け込んでいる白菜は小皿に取り分けられて盆に載せられていた。七輪にはアジが三匹。昨日の時点ではなかったから、もしかしたら早朝、桜花がどこからか仕入れてきたのかもしれない。
 
……アジが3匹。そういえば小皿も用意された茶碗も3つずつ。

 がしゃーんと大きな音がしてほどなく女の叫び声が聞こえた。春の穏やかな朝陽に、庭に遊ぶ雀が驚いて空に飛び立った。古巻は何も言わずに音のした方を振り返る。桜花はにこにことその背中に声をかけた。

「あらまあ大変。古巻さん、ちょっと様子を見てきてくださるかしら。たぶん私の書斎です」

 古巻は半ば異議を込めて桜花に目をやった。が、それを気にする様子もなく、「いってらっしゃい」とばかりに、桜花の目は微笑んでいる。

***

 桜花の書斎。入口まで来ると、女の後姿が見えた。
 臙脂色の着物に黒い帯を巻いている。そのどちらにも見覚えがある。桜花の私物だろう。髪は束髪に束ねられていて、両耳の上からほつれ髪が細く落ちていた。
 文机をひっくり返してしまったらしい。桜花の書斎は机のまわりにさまざまな資料が散らばっているから、文机のうえの筆記用具や小物がそこに混じってさらにその状況が悪化した。女はそちらの本を取り、こちらの筆を寄せとしているが、なんとも要領が悪く、一向に環境が改善されない。そうこうしているうちに、横に陳列してある花瓶を倒してしまった。女がそれに気付いて今度は散らばった花に手をかけようとするんだけど、古巻はそれよりも早く、水に沈没しそうな書物を救い、素早く手ぬぐいで浸水部分を処置した。

「あ、あの」
「すいませんが替えの手ぬぐい持って来てもらえませんか。台所にあります。分かんなかったら先生がいますから、適当に聞いてください」

 女は古巻の言葉を聞いてはいたのだけど、それよりも申し訳ない気持ちの方が先行しているらしくなにやら訴えたそうな顔をしていたが「早くしてください、畳に水がしみこむとあとが面倒なんです!」と古巻が苛立ちげに声を荒げると、泣きそうな顔で台所の方へ走って行った。女が行ってしまった後、水没地点を手で押さえているので身動きが取れないまま、そういえば桜花も替えの手ぬぐいの位置など解らないだろうなと思った。桜花が台所に立ったのを見るのは、本当に久しぶりなのだ。そんなことを危惧していたら、女が手ぬぐいと桶を抱えて戻ってきた。

「お持ちしました…、あっ」

 女は、書斎入口の段差に躓いて転んだ。
 桜花の資料に頭から突っ込み、手ぬぐいは中空を舞い、そのうちの一枚は古巻の頭の上に落ちた。

***

 一同朝食。
 上座に桜花、下手に古巻と女が並んでいる。
 
 書斎は、あのあと手ぬぐいを変えて浸水部分を処理し、水気から資料を遠ざけて重ねておいた。てきぱきとモノを片づける古巻の様子を、後ろから女は見ていた。手伝いたいという彼女の申し出に「後にしてください」とぴしゃりと断った。そうこうしているうちに、桜花から朝食の準備が出来たとお呼びがかかった。女は俯いたまま膳の前に座った。

「あらどうしたんです千鶴さん、なんだか浮かない顔をされて。さては古巻さんに何か言われましたか」

 心外だ、と古巻は思ったが、あからさまに表情には出したもののアジと飯を口の中にほうりこんで噛みしめながら、何も言わなかった。

「いえ、あの、わたしが」
「ああそうだ。忘れていました。お二人を紹介しなくてはいけませんね。こちら、北条古巻さん。この春から中学4年の16歳です。ちょっと口は悪いですが、うちでは腕利きの家政婦さん……ああ、失礼、書生さんですね。うちの中のことで何か困ったことがあったら、彼に聞いてください」
「先生今わざと言ったろ」
「そしてこちらは、千鶴さんです。今日からしばらくこちらに滞在することになりました」
「おれに比べて情報開示が随分少ないんじゃありませんか」
「デリカシーがありませんね、女性に過去を聞くのですかあなたは」

 千鶴は古巻の言葉に何か口を開こうとしたようだが、桜花に止められた。

「古巻さん、千鶴さんはこの土地には不慣れだと思うから、いろいろ教えてあげてくださいね。あ、男女交際の際は両性の同意に基づき、健全な関係を」
「先生、打ち合わせの時間に間に合うようご出立ください。おれそこまで責任持ちません」

 時計を見るなり桜花は心の底から驚いたようで、これは大変と味噌汁をかき込み、後片付けを頼むと言って廊下を渡っていった。原稿の草稿はどこだと声がしたので、玄関に用意してあると古巻は叫び返した。行って参りますと声がして玄関が閉まる音が聞こえた。それを確認して古巻はやれやれと再びアジに箸を付けたが、千鶴はぼんやりとしたまま、箸が進まない。古巻は意に介せぬように2,3口に運んだが、やはりこう気まずいのもよくないだろうと思い直して、「食べ終わったら、片付け手伝っていただけますか」と言った。

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2012/09/23(日)
4、田園都市、春

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