田園都市、春(7)

 若い女だった。
 淡い桜色の色無地も、まだ幼さの残る顔にも土がついていた。朝、家を出るときにはいなかったはずだ。どこかから流れ着いたのだろうか。
 桜花が抱え起こそうとするのを手伝って、古巻もその女に肩を貸した。辛うじて意識はあるようだった。とりあえず家の中に運ぼうというとき、腹の虫が鳴った。古巻と桜花は顔を見合わせたが、虫の主は女のようだった。うっかり、肩から女を落としそうになった。

 客間に布団をひいて、そこに女を寝かせてやった。桶に水と手ぬぐいを運んできたのは古巻だったが、女の体をふいてやったのは桜花だった。今は、女はよく眠っていた。古巻は、自分と同じくらいの年ごろだと思った。

「医者を呼びますか」
「必要ないでしょう。落ち着いたようですから」

 女の傍らに座す桜花の横に、古巻も落ち着いた。少女とも女ともつかない、それでいて艶のある顔立ちをしている。古巻はどぎまぎしている心中を恥じらい、ふと目を逸らした。もちろん桜花は、それを見逃さない。

「高ぶる気持ちは察しますが、彼女の同意があるまで手を出してはいけませんよ」
「どーしてそこまで話が飛躍するんです!」

 真顔でそう言った桜花に、心中を悟られ心穏やかにはいられずに古巻は身を乗り出してしまった。桜花のしてやったりという顔を認めたので、古巻はぐっと気持ちを抑え、話を逸らした。

「今日は人との縁があるようだ。バラック街と、この娘と」
「そうですね、そういう日もあるでしょう」
「先生、差し出がましいことは承知ですが、昼のこと、スヨンの母親は助かりますか」
「まあ無理でしょうね。今月を越えられるかどうか」
「ではなんで気に掛けるんです。本人ももう来ないでほしいと言っているんですよ。それとも、先生には直接そんなことはいわないのですか」
「スヨンが住んでいる家の一角、あそこは、朝鮮人街の中でも隔離地帯です。ミヨンさんの他にも、結核、ハンセン病、その他伝染力の強いウィルスを持った病人たちが住んでいるところ。住民たちもそこへは近寄りたがりません。では、動く力すら失った彼らは、あとは死を待つだけしかできないのかしら。せめて人間らしく食事をして、だれかとお話をして、自分の気持ちを表現する場所を提供するべきではないかしら」
「それで先生まで病気をうつされてはたまりません。先生にとってスヨンとその母親は旧知なのかもしれませんが、おれにとってあの二人は今日一度言葉を交わしたに過ぎない人間です。それに、先生はあのバラック街の他の住民や、東京での歌会や、先生の作品のファンの人にその存在を望まれているのですよ。それを知っているからおれは猶更、これ以上あの家族に関わることを推奨したくない」

 桜花は少し意外な顔をして、古巻の顔を見詰めた後、ふわりと笑った。「おやおや、わたしもあなたにこんなに愛してもらえるようになったのね」と冗談めいていい、それはそれ、これはこれなのだと古巻に一刀両断されて、そこでもやはり少し困ったように微笑んで見せた。

「なんで先生があのバラック街に拘るのかおれにはわかりませんが、それでもいくというのなら今度はおれが行きます。少なくとも、自力で飯を食えない人に飯を食わせる人がいないのは人間として不幸ですから」

 桜花は少し押し黙り、寝ている女の顔を見つめながら、「気がかりなのはスヨンのことです」と言った。

「ずいぶん日本人を毛嫌いしているようでしたが」
「前はそんな子ではなかったのですが」

 半年ほど前のことです、と言って桜花はスヨンとその母親のことを語り出した。

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2012/09/15(土)
4、田園都市、春

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