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田園都市、春(5)

 やかんは飛んでこなかった。
 家の中は光り取りの窓も無かった。うちっぱなしのトタンからはクギも飛び出しているところがある。床はない。土間のような地面に、草履のまま入る。6畳ほどの広さに、壁の隙間から辛うじて光がさしていて、その奥に人影が見えた。地面に藁を敷き、その上に布団をひいて、少女の母親は横たわっていた。

 古巻に気が付いたスヨンが立ち上がろうとしたところを、後ろから母親が引き留めた。古巻はちょっと身構えて、「勝手に入ったことは謝る」と言った。母親の制止があるので、スヨンは古巻を睨み付けたまま動かなかった。
 古巻が枕元に膝をつくと、スヨンの母親は起き上がろうとした。古巻が遠慮する前に「だめだ、寝ていなければ!」というようなことを、向こうの言葉で叫んだのはスヨンだった。おそらく母親は「かまわない」ということを口にしたのだろう。スヨンもそれ以上は強く言わず、その空気を察した古巻は母親に手を貸してやった。これだけでも、本人が無理をしているだろうことは古巻にも見て取れた。

「きょうは、もがみ先生は、いらっしゃらないのですね」

娘よりもたどたどしい日本語で、母親は古巻に笑いかけた。

「いえ、そこまでは来ているんですけれど。ちょっと手を離せないからと今日は名代を言使いました」
「では、あなたがこまきさんですね」
「はあ、どうも」

見ず知らずの人間に名前を呼ばれると、何か気恥ずかしい。無意識に視線を逸らしたのだが「なに照れてんだよ」とスヨンにくぎを刺された。

「うちにはゆうしゅうな家政婦さんがいるのだと、先生はいっていましたよ」
「家政婦……」
「そうだ、スヨン、そこのものを」

 この家に唯一ある家具は小さな三段の箪笥で、母親はそこを指差した。するとスヨンはかっと気持ちを上気させて、「필요는 없다 (必要は無い)!!」と叫んだ。

「どうしてそんなことするんだよ!こいつらが勝手にやっていることだろう!?これは明日、オモニに薬を買ってくるお金なんだ!」

「いつもいただいているお薬のお代、本当はもっとお支払しなければならないものなのよ。それを最上先生のご厚意でこれだけにしてもらっているの。その上、お食事まで用意していただいて。きちんとお礼をしなければいけないわ」

「いやだ、これはアボジが送ってくれた最後のお金なんだ!なんで日本人に差し出さなくちゃいけないんだ!」

「聞き分けなさい、スヨン!」

 びくりと身体をすくませたスヨンは、言い返すこともなく母親を見詰めていた。古巻は、言葉は分からなかったがなんとなく内容の見当はついた。二人のやり取りを黙って眺めていたが、やがてスヨンは、何事かを言い残して外に飛び出していった。やれやれと思う間に、母親がごほごほと咳き込みだした。

「大丈夫ですか」
「こまきさん、あそこに、お金が入っていますから、どうか、とってください。本当は、わたしが直接、おわたしするけど、今は、あそこまで」
「薬の代金か何かですか。先生にはそのようなこと申し付かっていません。本人が来たときにでも話をしてください」

 母親の言葉は胸の奥からこみ上げてくる咳によって何度も遮られた。母親の背中をさすりながら、古巻はそんなふうなことを言った。部屋のすみに水かめがあったので柄杓を取り、ふたを開けた。おそらく、共同井戸からスヨンが今朝運んできたのだろう、かめの容量の半分ほどの水が水面を打っていた。
 豚汁はスヨンに叩き落されたが、薬の方は紙包装で、少し土を払えばまだ使用できそうだった。用法を確認し、柄杓で水を運んで母親の口に含ませてやった。少しすると、大分落ち着いてきた。そこで改めて引き出しの金を進められたが、古巻は丁重に辞退した。かわりに、さきほどこぼした豚汁の代わりを持ってくるからと、その場を辞去しようとした。

「わたしはいいです。スヨンにあげてください」

 自分はもう長くありませんから、と母親は言った。

「そんなこというものではありませんよ。たぶんまだありますから少し待っていてください」
「いいえ、ここへはもう来ないでください。もがみ先生にもそう伝えてください」
「はあ、しかし」
「薬、ありがとう」

 カムサハムニダ、と言って母親は手を合わせた。古巻も軽く頭を下げた。顔を上げると、母親の足元に洗濯前の衣類が溜まっているのが目についた。大量の血液で汚染されていた。
 古巻の視線に気が付いたらしい母親は、古巻の推論を肯定するように一つ頷いて、「出て行ってください。これ以上、わたしをくるしめないでください」と力なく呟いた。古巻は、自分に絡みつく感情を断ち切るようにしてその場を後にした。足元には、ぶちまけられた豚汁が広がったままだ。

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2012/09/08(土)
4、田園都市、春

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