田園都市、春(4)

 先ほど桶が直撃したこめかみのあたりが、今さらずきずきと主張を始めた。
 なるほど状況を理解し始めたことで、脳が冷静な判断を行えるようになったということなのか。

「ええと、ここはソンさんの家で間違いないですか」
「間違いはないけれど、あんたに用はないから!帰って!」
「あんたが用がなくとも、おれにはあるんだ。先生が、これをあんたたちに食ってほしいそうだ」

 ここに置いておくからと盆を下げたところで、少女がそれを蹴り飛ばしそうな勢いで向かってきたので断念した。つかつかと古巻の近くまで来た少女は、古巻の肩ほどまでしかない身長ではあるが臆することもなく顔を上げて、古巻と対峙した。

「いらない。帰って」
「人の親切は有難く受け取るものだぞ」
「日本人の施しなんていらない。そんなものにあたしは騙されない」

 見た目は10歳を出たあたりの少女である。少なくとも彼女よりは年上に見えるであろう古巻に対して、遠慮をするというふうもない。この時代において、半島出身者が日本人に不審を抱くことは致し方がなかろう。しかしこうにも面と向かって嫌悪感をあらわされると、それはそれで心に響くものがあった。国中の空気は、こんなこどもにも不安を与えているのか。それは気に留めておかねばなるまいな。

「そうかい。じゃああんたは食わなくてもいいから、あんたの母親に食べさせてやってくれ。これ、先生から預かった薬だ。頼んだぞ」

 少女は差し出された薬を盆ごと払いのけた。どんぶりがひっくり返り、煮汁が土にすわれていく。
 これには古巻も少々頭に来た。事情はあれど、桜花の好意を無下にしたことには、一言言っておきたいと思った。

「言っておくがな、確かにあの人はちょっと抜けてるところもあるし、おれの失敗をこっそり笑ってるようないやなとこもあるけれど、人を見る目とやっていることは確かなんだ。なんで先生が朝鮮人と関わろうとするのかおれには解らんが、少なくとも見栄だの偽善的な慈善行為ではない。あんたが先生の何を知っているかは知らんが、先生が日本人だという理由で根拠なくつっぱねているんならな、直接先生の顔見て、食事も薬もいらぬといったらどうだ。あんたが今やったことは、あんたが嫌いな日本人がしていることと何も変わらんのだぞ」
「うるさい、日本人があたしに指図するな!」

 大人げないと自覚しながらも、つい声を荒げてしまい古巻の方も感情の引っ込みがつかなくなっている。先ほど強打されたこめかみは痛いし、わけもわからぬまま少女に罵声は浴びせられるし、何よりも平穏に過ごしたい古巻の春の昼下がりは台無しだ。あげく、桜花のお使いもこのままでは遂行できない状態になってしまう。少女と取っ組み合いのけんかを始めたい衝動を必死でこらえて、古巻は奥歯を食いしばった。相手はこども。相手は女の子!ここで自ら引くのが大人というもので――。

「スヨン」

 小屋の奥からか細い女の声がした。向こうの言葉のようで古巻には何を言っているのか正確なところが分からなかったが、どうやら少女に来いと言っているらしい。ごほごほと咳き込んでいる様子である。
 少女は去り際に古巻に視線をひとつ送ってよこした。まだ話は終わっておらず、おそらく彼女自身も訴えたいことはあったはずで、それを中途半端に幕引きすることへ後ろ髪をひかれているようだった。しかし例の声が重ねて少女の名前を呼ぶと、年相応の明るい声で返事をして、くるりと身を翻し、小屋の中へ入っていった。

 地面にぶちまけられた豚汁。
 あの様子では、おそらく食べることもままならない生活が続いているはずだ。強がってはいるが、病床の母親を抱えて満足に暮らしているとも思えない。古巻は体中の空気を入れ替えるつもりで大きく深呼吸をし、今度はやかんでも飛んでくるかもしれないと心積りをして、小屋の入口をくぐった。

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2012/09/07(金)
4、田園都市、春

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