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田園都市、春(3)

 *

 そうだ、おれに料理を仕込んでくれたのは、先生だったといまさらのように思い出した。古巻が5歳のころに桜花の元に引き取られ、それからしばらくは彼女のつくる飯を食った。まだ名前も売れ始めのころの桜花は、今よりも仕事を効率よくこなすことができずに、慣れぬ育児と、出版社とのやり取りなどに毎日精神力を費やしているように見えた。ある日突然母を失い、それとほぼ同時に父の従兄妹である桜花の元に引き取られ、実家のある京都から東京に越してきた古巻もそれは同じことで、桜花とまともに向き合うこともせず、不機嫌を丸出しで、聞き分けもせずによく大声で泣いていたりした。その古巻の扱いが分からぬ若い桜花は、締め切り直前の原稿を手元に引き寄せながら、おろおろとしながらも古巻にさまざまと声をかけ続けていた。その多くに、幼い古巻は応えることもしなかった。ただそうして二人で強情を張りあって飯の時間が近づいて、「さあ今夜はおそばでも打ちましょうか」などと、桜花は一人ごちて台所に向かう。ばったんばったんという音を聞いているうちに、そば好きな古巻は泣きっ面を引っ提げてその様子をのぞきに行くのだ。桜花は家の料理には必ず、京都の醤油を使う。これは古巻の実家でも使用しているものだ。だしを取り、この醤油で味を調えるころには、古巻はもう意地の張り合いのことなど忘れている。桜花によって手際よく切りそろえられたそばがどんぶりに入れられ、だし汁がかけられると、そこに大根おろしを乗せて分葱をまぶすのだ。それを、桜花とそろって啜った。どうしようもなく、旨かった。
 今にして思えば、締め切りがあれだけ迫っているのにそばを打つとか、もし今現在の桜花がそのようなことをしようものなら古巻が悪態の一つでもついているような場合なのであるが、それが桜花なりの古巻への「仲直り」宣言だったのだと思うと、昔から変わらず不器用なひとなんだな、と思う。京都の最上の実家では、当主の娘でありながら妾腹だった桜花は、使用人同然の扱いを受けていたと聞いている。当然、古巻が実家に戻るたびに最上家のその空気を感じていたし、桜花が京都へ帰りたがらないのもそれが大きな要因であるのだ、ということも古巻は理解していた。今のように桜花が名声を得ても最上家の対応が依然のままで、むしろ年を経るごとに埋めがたい溝となっているような気さえする。それは桜花の生まれが妾腹という以上に、公にはなっていない古巻の父親と桜花の、親密な関係のあるのだろうということにも古巻は感付いている。

 古巻の母親は、古巻が5歳の時に自ら首を括った。
 当時の古巻は、それが父親と、この従兄妹にあると思っていた。

 だから頑なに桜花を拒んだのだ。それに、先代桜花は古巻の祖母にあたる人であり、誰よりも敬愛していた祖母の名を、母を殺した女が名乗るのはおかしいと、幼い心に感じていたのだ。古巻は桜花をその名で呼ばない。今となっては当時のような頑なな感情はさまざまな人間関係を知るごとに薄れてきているのであるが、彼女を「桜花」と呼ばぬことに関しては、それがまるで破ることの許されぬ願い事のように、今日まで続いている。

 *

 そんなこともあったなあ、というのが、今の古巻の本心である。10年共に過ごせば、同居人は敵というより親というより、「生きていくための共謀者」という感じがする。今さら京都の実家に戻るつもりもないし、学生であるうちは食わせてもらわねばなるまい。毎日、あちこちに飛び回って講演をしたり歌会を主宰したり自らの創作に傾倒しなければならない桜花も、家の中のことを古巻に任せることで、その職務に邁進できている。結局のところ、古巻は桜花のあのそばにやり込められたのだ、と思う。日々の食事を古巻が用意するようになった今でさえ、あの味を再現することはできない。目の前の盆に並ぶ二つのどんぶりから、旨そうな湯気が立ち上っている。口にせずとも、まだ自分はこの味には到底、及ばないのであろう。それは悔しいので口には出さない。今はまったく料理をせぬというのに、ここでこれだけの腕前を披露されてちょっと腹が立つので、今夜は自分の得意料理でこの苦手意識を払拭したいと、献立を巡らせている。

 と、その瞬間に、たらい桶が古巻の額を直撃した。
 反動で、盆の上の豚汁が波打ち、とっさに盆を持ちかえて、全滅だけは免れた。訳も分からぬまま体制を立て直すと、体中が怒り心頭の少女が、まさに桶を投げ終わった姿勢のまま古巻を睨み付けていた。

「性懲りもなくまた来たのか!日本人め!」

 今にも噛みつかんとする勢いで、少女は古巻にまくし立てた。
 桜花のお使いの先とは、どうやらこの娘の家であるらしい。

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2012/09/06(木)
4、田園都市、春

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