田園都市、春(1)

 
 上野駅を降り、駅前の大通りを南に向かう。

 四月、新年度が始まるまでの数日は、こうして人通りも多いだろう。昼下がりの商店街は賑やかであった。北条古巻の前には、壮年の女が先立っている。藤色の物静かな着物にコートを靡かせ、足取りも軽いらしい。古巻はこの女のところに居候を始めて10年になる。主の名前は最上桜花。大正9年というのこの時代に、文壇では一応名の通った女流歌人である。が、本人はいつもにこにこと穏やかに笑っており、ざっくりを束ねた後ろ髪は飾り気を知らず、40も半ばを過ぎた貫録というものを普段表に出さないゆえか、こうして後ろを付いて歩いていても、傑人という空気をまったく感じさせない。春の陽気に誘われた少女のように道端の草花に話しかけ、商店街の客引きに呼び止められ、馴染みの八百屋で季節の野菜を大量に買い込む文壇の寵児の気ままに、古巻は付き合わされている。

 桜花の住まいは調布である。目黒線を利用し、歌会や出版社との打ち合わせのために東京市内に出てきているのだ。
 今日は、女性の社会進出が云々という講演会に、桜花が呼ばれたのだった。古巻は、中学校が春休みなのでついてきている。講演会の会場は講堂のようなところで行われたが、立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。つい先日、新婦人協会が発足したと新聞の紙面が伝えていた。昨今の女性の地位獲得を求める運動は、ひとつのブームのようでもあると古巻は思っている。

 そんなわけで帰り道である。桜花が買い込んだ大量の野菜や米は、後ろを歩く古巻が携えている。古巻は体格が良い方ではないから正直かなりシンドイ。日ごろから時間があれば本を読んでいることが多く、あまり外を出歩かないせいもある。家に帰れば学校の宿題をし、桜花宅の家事全般をこなし、主の帰りを待つ。桜花にそう望まれたわけではなかったが、厄介になってる以上は家のことはやらねばならぬという思いが古巻にはあった。古巻が京都の実家を離れて桜花と過ごすようになったのは、6歳になった秋のことだった。母親が死んだすぐ後の話だった。

「先生、重いです」
「情けない。男子なれば弱音を吐かずに仕事をこなしなさいな」
「……鬼」
「おや、なにも聞こえませんねえ」

 古巻は大きなため息をついた。この天邪鬼は、こうして古巻が困るのを見て喜んでいる節がある。古巻にしてみれば暖簾に腕押しである。10年も寝食を共にしていれば、それが悪気のない悪戯のようなものであることも理解はしている。納得しているわけではないけれど。
 
 最上桜花、本名を桔華という。古巻の父親と3つ離れているので、今年42になるはずである。
 古巻と桜花は、いとこである。桜花の祖母と、古巻の曾祖母が同じ。この曾祖母が、先代、北条桜花である。
 短歌の血脈である「桜花流」は、始祖を平安時代の歌人として、門下の弟子がその名前を受け継ぐことで時代をつないできた。血脈と言っても、直接的な血の繋がりがあるわけではない。当代が自分の門下、もしくは近い人間関係の中から創作の実力のみならず、その人柄や行いをみつつ指名してきたのだという。何が基準かと問われれば定かではない。強いて応えるとすれば、それは当代の「目」であった。桔華も、祖母廉の目で、新しい「桜花」を襲名することになった。そろそろ10年になる。

 最上桜花の実力は、先代の見込んだ通りだった。そもそも、室町期以降、桜花流の継承者は水面下に潜ってしまったような状態であったのだが、明治に入って、先代北条桜花が歌壇にて再評価の流れを作った。著しい西洋化の時代の中で、古来の日本文化が再評価されるという背景も大いに絡んでいたことにも由来する。それを受け継いだのが、最上桜花だ。正岡子規以来、俳句が歌よみの主流であり、短歌は上流階級のたしなみものという印象が持たれた時期もあったのだが、桜花とちょうど同じころ、与謝野某という女流歌人が色艶のある歌集を発表したりして話題となった。文明開化の波は封建社会の中に抑圧されて生きてきた女性の「解放」にも及び始める。桜花は、若くして家を出て女一人で日本中を歩き、当時男社会とされた歌壇会でも異彩を放つような作品を発表したし、また、社会の構造に対しても臆せずにものを言えるような女性であった。桜花が世間に認知されるのは、その言葉の含蓄にあるのだと古巻は思っている。今の生活を壊せというでない、過去を否定しろというのではない、「あなた自身が変わりなさい」と穏やかに自立を促す語りかけ。そしてそれは、彼女自身の経験に裏打ちされているからこそ、説得力を持つのだろう。それが彼女自身のどんな過去からきた話なのかはわからないが、まあそれでも、文壇だけではなくて、今を生きる女性たちの羨望ともなりつつあるこの不思議な主のことは、名実ともに兼ね備えた実力ある人間なのだと古巻は考えている。しかしそれはあくまで客観的な話であって、古巻個人の感情とはまた別のところにある話ではあるのだが。

 さて、そんな主は、表通りを一つ裏手に入って、バラック街を進み、その中央に開かれた小さな広場のようなところに歩みついた。
 古巻を促し、荷物を降ろさせる。表通りと違い、小さな長屋がいくつも連なって日の当たりも悪く、何よりも異臭がする。いったいここはなんだというのか。 

「선생님(ソンセンニム)」
「선생님이 왔다 (ソンセンニムが来た)」

 家とも小屋ともつかぬ建物から、ぞろぞろと人が集まってきた。
 身なりは、よくない。皆、辛うじて衣住を保持しているという状態だ。
 古巻は状況が理解できずに身構え、息を飲んだ。それにしても目の前の桜花は何やら腕まくりをしている。

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2012/07/02(月)
4、田園都市、春

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