スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

--/--/--(--)
スポンサー広告

「こつる」の太夫(5)


 
 俄かには信じがたい光景だった。
 あの日本嫌いの楽弥が、ここにいる。そして、自分へ日本語で語りかけている。
 楽弥は、日本人の客の前では、かれらが理解できるように輝也に日本語で指示することはあったが、それ以外は彼女の母国語である上海語を使用していた。久坂は客であると同時にいささか掘り下げた関係であるので、彼の前で楽弥は特に、気を使うようなことはしないのだが。

「4年ぶりの母娘の対面だろう。もっと素直に喜んでみたらどうだ」

 久坂が杯を口に運びながらそう言った。輝也はずいと久坂に近寄り、その胸倉をつかんだ。

「説明しろ、どういうことだ」
「どうもこうもない。見たままが真実だ。どうだ。想定外の出来事というものは、随分おもしろいものだろう?」

 口元には余裕すら浮かべながら、切迫した様子で詰め寄る輝也にそう言って返す久坂。後ろでは「おやめなさい輝也。仮にも彼は客人ですよ」と楽弥が言った。衰えを知らぬ、四〇前の女の艶のある声だった。

 深く息を吸い込んで、輝也は母親に向き直った。
 正座のまま息子に向き合った母親は、すっかり男の体となった息子の足先から頭までを眺めて、そうして穏やかな微笑を浮かべたまま、その顔を見上げた。

「すっかり、男になってしまったわね」

 輝也は、返す言葉が見つからない。
 当時は事情もよくわからぬまま、上海の親元から引き離されて日本にやってきた。その理由も、あの日黒澤修吾が店を訪れた真意も知らぬまま、ようやく日本の生活にもなじんできたこの時期に、なぜ楽弥がここにいるのか。問いただしたいことは次から次へとあふれ出てくるのに、その一つも輝也の口をついて出てくることがない。何度も息をのみこみながら、輝也もじっと、その美しい母親の顔を見ていた。

「日本にも出店することにしたのよ。久坂さんに手配をお願いしたら、こんなに素敵なところを見つけてくださったわ。感謝しております」
「あなたのお望みですから。ご希望に添えてよかった」

 母親と久坂の会話。輝也の心はざわざわと不審を抱いていく。

 母親――楽弥が日本を嫌いなのは、自分の元夫、黒澤修吾の出身国であるからだ。自らは上海の生まれで、幼くして日本人夫婦に引き取られ、来日した。新橋で芸者をしているときに黒澤と出会い、結婚した。
 しかし同時に、黒澤の上司である舎人雄一郎に恋い焦がれるあまりに、黒澤に添い遂げようとする「吉岡らく」と、耕三郎を慕い続ける「仙楽弥」の二つの人格が誕生した。輝也が来日する際は、もうほとんど「楽弥」が表にいたから、今目の前にいるのが「らく」でない限り、日本にいる、日本語を話すということは不可思議なのだ。ならば「らく」か?いや違う。彼女はこんな、自信を身に纏うような表情はできない。やはり彼女は「楽弥」なのだ。

 久坂廣枝は、そんな楽弥が愛する舎人耕三郎の士官学校からの同期だ。周囲からは耕三郎も久坂も、士官、大学校を優等で卒業した次代のホープと認識されている。しかし、久坂自身は学生時代、耕三郎よりも成績で優位に立てなかったを執拗にねたんでおり、表では優秀な陸軍士官を演じながら、心の奥底では今でも耕三郎のことを恨んでいるのだ。幼いころより久坂と寝屋を共にしてきた輝也は、久坂自身からその話を聞いている。

 だからおかしいのだ。この組み合わせが。
 確かに久坂は湖南楼でも常連客で、楽弥がじきじきに出向いて相手をし、輝也を与えるような関係であった。しかし、楽弥が日本嫌いであることを久坂は知っていたはずで、そのうえで彼が楽弥を日本に誘ったということは、どんな意図があるというのだろう。いや、その逆も考えうる。楽弥が何らかの理由で来日を希望し、日本人の中では比較的大陸に理解のある久坂に協力を依頼した――。

「楽弥」

 輝也はこの場で初めて、母親の名前を呼んだ。その美しい顔が微笑んで、「なあに」と言った。

「あんたは、楽弥なんだな」

 声が震えない様にするのが精いっぱいだった。なぜだろう。以前はこうして、母娘でいつも一緒でいることが当たり前であったはずなのに、今この場で、輝也の中には、不安と今の日常が侵されていく未来が渦巻いていたのだ。

「そうよ」
「向こうの店は」
「人に任せているわ。こちらを軌道に乗せたら、私も向こうとここを行ったり来たりすることになるとおもうけれど」
「おれは」

 と言いかけて、輝也は言葉をとどめた。輝也にとって、その人生の大半を「楽弥」とともに過ごしてきた。ほとんどといっていい。だが確かに、彼女のなかに「らく」が存在していることも承知している。そして彼女自身が望むのは、心穏やかに暮らしたい「らく」の人格であるということも。

「お役御免だろう。ユアンは死に、タンが今、大陸の実権を握っている。実権と言っても、北京周辺の話、民国は今や、地方の有力者連中に国土を分割された軍閥割拠の時代。革命直後の官僚の御用聞きなぞもう何の役にも立たない。そうだろう?」

「もともと、そんなものを期待などしていないわ。ユアンも、白河川修も、そういうつもりは一切なかったのよ。ユアンはただ、自分の愛玩を、その密使に贈っただけ」

「それなら猶更、おれに何の用だ」

 心中にわだかまりがある。なぜ実の母親に、ここまで疑心暗鬼にならねばならぬのだろう。後ろに久坂廣枝という人物が控えているからか、それとも、「楽弥」が今さら、自分の息子に会いたいなどという人並みな理由で、大嫌いなこの地に根を据えようというのだろうか。

 下手の襖が音もなく開いた。
 傍のものが下がると、芸妓の正装をした少女が三つ指をついており、すらりとその顔を上げた。
 
 肌は、白い。
 髪の色が、僅かに赤い。
 そして何より、瞳の色が銀色をしていた。
 
「宿禰 緑子。ここでの呼び名は『桜花(おはな)』よ。そうね、うちの太夫にでもしようと思っているの」

 日本人の容貌ではなかった。
 輝也は少女と目があった。その瞳は、その意志の強さが体を貫くような力を持っていた。

「輝也、あなたの胡舞をこの子に伝えてやって頂戴。唱と、詩と、そうね、あなたがあの店で培ったことをこの子にすべて仕込んでくれるのが理想だわ。お願いできるわね」

 緑子は、じっと輝也を見詰めていた。
 そうして輝也は自覚したのだ。自分は、母にとってすでに戦力ではなくなったのだと。新たな戦力を生み出すために、ここに召還されたのだと。

 それでも、もしかしたら輝也は、「家族」という幻想を今でも抱いていたのかもしれない。
 いつの間にか、突然目の前に現れた母親を、「平凡な日常を乱すもの」と決めつけていたことに気が付き、それでも自分は、母親に何がしかの感情を期待していたのだと自覚して、それを無残に打ち砕かれたのだと悟った。

 自分の意志とはかけ離れたところで、「わかりました」という己の声を聴いていた。

 そのときすら、少女の銀色の瞳だけが、ただ輝也をとらえている。
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2012/02/09(木)
3、吉岡輝也の憂鬱

| ホーム |
Page Top↑
▲ Page Top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。