吉岡輝也の憂鬱(5)

殊勝な人間は、輝也の気配に気が付く様子もなく、気合とともに何度も竹刀を力強く振り下ろしていた。
 17にもなって声変わりをした様子もないアルトボイス。華奢な体つき。
 もう2カ月も生活を共にしている。防具の面を外さぬともその主がすぐに脳裏に浮かんだ。


「打ち込みの手伝いをしてやろうか」


 雄一郎が膝をつき、面を外したところで、輝也は声をかけた。蒸気する熱を帯びた「彼女」の白い肌に玉の汗が線と流れ、呼吸を整えるのと荒げた息で肩を大きく揺すっている。雄一郎は輝也の方を見ることもせずに、「結構」と言い放った。


「おれでは不足か?」
「ええ」

 
 壁にもたれて雄一郎を見下ろしている形になっている輝也を、雄一郎が初めて向き直った。


「あなたでは私の相手にはなりませんから」


 それについては輝也も異論はない。どうやら学校以外でも剣を学んでいたらしく、その足捌き、相手との距離感、打ち込みの速さ、同期の中では申し分のないセンスの持ち主だ。こうして人知れず努力を欠かさないことにも起因するのだろうが、おそらくもっと小さなころから竹刀を握り、相手と対面して打ち合っていたのだろう。ちなみに武術からきしな輝也は、たまに眞子から拳銃の打ち方や簡単な体術を教わった程度で、あとは幼年学校以来の体術の基礎に万遍なく準拠している。輝也も決して体格頑強とは言えぬ体つきではあるが同期の中でも優秀の部類に属していられるのは、対面する相手の感情をいち早く察知できるからだ。次の行動を読むことができれば、早々にそれに備える動きをすればいい。とはいっても、雄一郎のクラスになると先読みの前に打ち込まれてしまうから、剣術体術に関して、輝也は雄一郎から勝ち星を奪ったことがない。


「大した自信だな」
「ご謙遜を。東京の幼年学校では他を寄せ付けぬ優等で卒業され、将来の参謀長を嘱望されているあなたのお言葉か」
「ご挨拶だな。お前も京都を優等で出てきた身だろう」
「ええ、ここに来るまでは」


 ちらりと伺い見た雄一郎の目は笑っていない。明らかな自分への敵愾心。こうにも露骨に向けられるとなかなか居心地が悪いものだなと思いつつ、輝也のほうもまた、皮肉の一つでも返してやらねば気が済まぬというような気持ちになった。


「お父上はかの陸軍参謀、舎人耕三郎大佐だったか。その薫陶を受けているのだから息子が優秀であるのもまた必然か」


 輝也は自分でその言葉を口にしながら、喉に引っかかるような違和感を覚えた。舎人耕三郎。その息子。


「父は父、私は私です。それに、父は身寄りのない私を引き取ってくれた。その御恩に報いねばならぬ」


 ああ、そうだった――と輝也は思った。舎人耕三郎は、不慮の事故で二人の子息を失い、代わりに遠縁の雄一郎を養子に迎え入れた、ということになっていたのだった。本当に血のつながった親子であるというのに、それを否定せねばならぬというのは、通常はどういった心情であることが正解なのだろうか。輝也は自分の父親の顔というものを思い浮かべて、今は大学校の教官として教鞭を振るう陸軍少佐の父の顔を思い浮かべてみる。名字の違うあの男の輪郭はおぼろげにしか思い出せず、対した感慨もない。やはり、「彼女」の心中を慮ることはできない。


「あなたこそ、日ごろの態度言動からは帝国への献身も陛下への忠信も微塵も感じられないのに、どうしてああにも、教科の成績だけはよいのだろうといつも感心しております。さぞかし本を眺めているのかと思えば、昼休みはただぼんやりと外を眺めているだけ。いったいどうして、こんなにももの覚えがいいのかしら?あなたこそ、想像を逸するようなご家庭に恵まれてお育ち遊ばされたのでしょうね」


 これは驚いた。他人には関心がないと思っていたが、輝也の休み時間などに興味を向けるような趣向があったとは。
 しかし、このようにいちいち言葉尻にトゲを刺されたのでは、輝也の中の「輝煌」が黙ってはいない。輝也は奥歯で何かを噛みしめるようにして、言葉を捩り出す。


「おい」
「はい?」


 ふと声をかけた瞬間に、雄一郎の空気が弛む。その一瞬を、輝也は見逃さなかった。
 雄一郎が異変に気付いて竹刀を握るより早く、輝也の方がその体重を雄一郎に預け、その襟足を掴み、その腕で喉元を固定するようにしてどおんと床に叩き付けた。輝也の方が反応が早かったせいか受け身を取ることのできなかった雄一郎は後頭部に衝撃を受けたらしく、一瞬その可憐な表情を歪めたが、大した抵抗もせず、目だけは輝也から逸らさずにいる。組み伏せたままの輝也は体重を雄一郎に預けてその動きを完全に封じると、鼻先が触れ合うような位置で「お前」と言った。


「怖くないのか」
「何がです」
「俺が」
「誰が」
「強がるなよ、俺とお前は、根本的に違うんだ」


 輝也がそれを望めば、雄一郎をそのままどうにでもできたかもしれない。が、輝也はそのまましばらく雄一郎を睨みつけて(そして同じように睨み返されて)、そうして輝也の方からぱっと雄一郎から離れると、ろくに挨拶をすることもなく道場を出た。雄一郎の表情は見えなかった。


『おれはお前の見方だ、何か困っていることがあればいつでも相談に乗ってやるから』


 なんて言える空気は微塵もなかった。少なくとも、蒲田からの帰路、そういうシチュエーションを描いていた自分が恥ずかしくなった。
 内心、一体どうしたものやらと大きく項垂れている輝也がいる。
 ついかっとなって粋がってしまったものの、あれは同期でルームメイトだぞ、これからも明日からも少なくともあと四年は顔を合わせ続けねばならぬといのに。

 組み伏せたときに、雄一郎の細い首元に巻かれた包帯から覗く、赤く爛れた皮膚を見た。

 そうして白河川から伝え聞いた舎人邸の火事の話や拓真の顔などを頭に浮かべているうちに、さっきの醜態とごちゃまぜになって「ああああ」と情けない声など出してみる。

 

 ……やはりあれには深入れしないほうがおれのためでもあるらしい。だがここはひとつ――


 顔を洗おう。
 そう心に割り切って輝也は共用の洗面所へ向かった。



 ***



「輝也君はうまくやってくれますよ」


 夜、白河川邸の執務室。自らの退役関係の書類を一通りまとめた白河川修は、コーヒーを淹れに来た山城眞子に声をかけた。


「それよりも、私は孝子さんにはやく自分の限界を理解してほしいところです。女には女の役割があると」
「おや、あなたの口からそんな言葉を聞くことがあろうとは」


 輝也はこの男をタヌキと形容するが、それもあらかた間違っていないと眞子は思っている。
 維新前は10代にして官軍士官。幕府軍につき従っていた眞子は、維新後、夫とともにこの男に拾われるまでどんなに恐ろしい容貌の男なのだろうと思っていた。

 眞子たちを迎えた白河川はまだ三十路を前にした、背だけがひょろっと高いどこかもの頼りなさげな総髪の若者だった。

 気が付けば、この男の妻はすでに亡く、眞子の夫も大正改元早々に他界した。
 目的のためならば、人間を機械の様に切り捨てることのできる男。それが眞子の、白河川修という人間だ。
 一度は幕府とともに散った命、もはや亡き者と自覚して、この男の機械として立ち振る舞ってきた。
 だけど眞子は考えることがある。白河川修が、組織を機械化できたわけじゃない。
 おそらくそれにつき従う人間たちが、機械として白河川に組織されることを望んだのだ。

 それが明治という立憲君主の空気にうまく適合し、折よく大戦があり、軍備が拡張され、図らずとも力を持ちえたのがこの男だ。
 男は、力など望んでいなかったに違いない。
 維新のころ、この男の妻であった女に聞いたことがある。

 女は、日本人には見られない青い目をしていて、肌は雪のように白く、栗色の淡く波打ったような髪を後ろに一つ束ねていた。

「どうして私は、日本人に生まれなかったのかな」

 修ちゃんは、争い事が苦手なの。早く、みんなが平和に暮らせるといいね。

 彼女は、そんな白河川の目的の途上に、自ら死んだ。
 それはこの国のためではあったが、ただ一人それを望まない人間がいるとすれば、それはほかならぬ白河川であった。

「吉岡輝也をこのままにさせておいていいのですか。順調にいけば確実に陸軍の中枢に食い込みますよ。そうすれば大陸への情報流出は」

「眞子さん、帝国陸軍の仮想敵国は支那とは限らないのですよ。それに、あれには」

 そういって白河川は大きく息を吸った。膝の上に組まれた手に皺がよる。あれから40年互いに寄る波を重ねた。 真冬の真空が目に見えるようだった。

「人間の血が通っている。私たちの間違いに気が付いてくれる。孝子さんや、輝也君や、拓真君が、この帝国という装置の何かがおかしいと、きっと思ってくれる。そうしたときに、かれらには、何かを変えることができる力を今から準備しておいてあげたいと思うんですよ」


 白河川を機械のような人間にしてしまったのは、かれを取り囲んだ人間だったのだろうと眞子は思う。
 強い指導者を。崇高な理想を。
 そして、それを実行できるだけの戦歴と実行力を持つ男という虚像。

 取り囲んだ人間の中に、眞子は自分の顔を見る。
 人間の堅牢に取り囲まれた帝国陸軍元帥、白河川修がぼんやりと見据える先を、今の眞子には、共に見通すことができないでいる。 

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2011/12/12(月)
3、吉岡輝也の憂鬱

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