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 少年は、息をしていた。


 少年という形容は、今の彼には相応しくない。黄色人のものではないその白い肌を覗かせた手足はすらりと伸び、微かに上下する細い喉が艶めかしい。着ているというよりは纏っているだけのパオには袖も襟もなく、少年の息衝く鼓動に呼応して、わずかに衣擦れの音をさせている。少年はただそこにいて、息をしている。焦点の定まらぬ視線を落として、弛緩しきった体中の筋肉を投げ出して、少年は生きるでも死ぬでもなく、ただそこで息をしていた。

 もうどれくらいになるだろうか。
 10歳まで彼を育んだ村を焼き捨ててから。

 lived――と脳内で単語を思い浮かべて、少年は笑止した。強いて言えばstaied。ただそこにいたに過ぎない。日本に宣教師として来日していた父親はオランダ人。母親はその父に見初められた村の娘だった。エホバの教えを布教するというのは口実で、少年がstayしていた村に阿片を栽培させ、清国を経由して欧州各地に密輸し、莫大な富を築いていた父は、少年が物心がつくころにはすでにその村を離れて各地に販売ルートを開拓して歩いていた。飢饉が続き、畑作稲作に壊滅的な打撃を受けていた村の住民は、肌の色の違う宣教師に言われるがまま阿片を栽培し、「それ」がもたらす利益と快楽に溺れていく。年に数回、村の教会に彼が現れれば、それはもう形式でしかない異国の神の姿を男に投影し、「神よ」「父なる人よ」と涙を流してその導きを乞うた。父なる男は優しげな微笑を口元に湛えながら、襤褸をまとい、手足に土がこびり付いたこ汚い哀れなる「羊たち」に敬意を表し、「光あれ」と呟く。小さくともとりどりのステンドグラスに照らされた祈りの部屋に、怒号の様に響き渡る歓喜、涙落の声。充満する芥子の煙は、人間たちの思考力を奪う。狂乱と化している祭壇の後ろには、少年と少女が蹲っていた。

 少年は、父親のような白い肌と赤い髪、瞳の色は銀色。少女をその胸に抱き、ぎりりと父と、群れる群衆たちを見据えていた。
 少女は、少年と同じ肌と、髪と、瞳の色をしていた。しっかりと少年の胸をつかみ、「I'm afraid」と時折こぼしていた。


 少年と少女は、一人だった。一対の翼があって飛び立てる鳥の如き存在だった。


 荒みきった村の中で、少年と少女だけが真面だった。たとえば、この村が世界なのだとして、狂乱が真実であるのなら、少年と少女は虚構なのかもしれない。
 だが、この少年と少女にとって、己が心情が真実であった。それで十分だった。

 
 少女が、狂乱した村の住人を殴り殺した10歳の時、少年は村を焼き払い、少女の手を取って走り出した。


 何人が死んだかわからない。母親もその中にいたのだろうか。そんなことを、気にしたこともない。母親の顔すら覚えていない。
 ともかく少年は、唯一の真実の手を取って、世界から脱出した。少女は、血まみれの手を少年に引かれながら、懸命についてきた。そうして、二人だけの生活が始まった。毛色の違う少年を快く受け入れてくれるところなどどこにもなかった。当てもなくさまざまな世界を目にしながら、時には盗みをしたり、自分を夜鷹に売り込んだりして、少年は少女とともに生きていた。傍目からすれば凄惨な光景かもしれないが、少年はそれで満足だった。

 少女は唐突にいなくなった。
 その夜相手をした男が少年の後ろを付けていたらしく、刃物を突き付けられ、報酬を奪い取られ、殺されかけた。それを庇ったのが少女だった。
 
 少女は痣だらけの身体を横たえる少年の前に立って、「弟を助けてほしい」と言った。男は少女を嘗め回すようにじっとりと観察した後、強引に少女の手を引いてその場を引き上げていった。少年は殴られた衝撃から動くことができなかった。少女は悲鳴一つ上げることもなく、去り際に「さよなら」の視線を一つ寄越して、そうして少年の前からいなくなった。生きる意味を無くした少年は、起き上がることもなく数日をそこで過ごした。数日たったある日、急に光が差し込んできて、船員と思われる男に叩き起こされ、倉庫を追い出された。数日ぶりにみた世界は、また新しいものになっていた。少年は心身ともに切り刻まれ、自分が生きているのか死んでいるのかという自覚すら失いつつあった。ただ、死にたくても死ぬことができない。自分が死ねば、片翼の彼女も死ぬ。見つけなければ。己の半身を。連なる枝を。

 新たな世界は、言葉も通じなかった。亡霊のような容貌の少年は、発育途上の臭気を漂わせて、世界の暗黒を彷徨った。腹が減れば、人を殺して奪うこともあった。雇われたバイヤーに泥饅頭を食わされ、あんなに嫌いだった阿片の密売を担がされ、数知れぬ女に抱かれ、物好きな男に輪姦される。少年はもはやそこに存在するだけの存在となりつつあり、ただ、深い雪のなかに灯る一縷の淡いlightのような「少女」を夢想しながら、その路地の裏で息をしていた。


 ***


 さらさらと、細い雨が降っていた。
 上海の薄暗い路地裏には、少年のほかにも、死体同然の人間が幾人も転がっていた。

 人の気配がした。

 気配は、その死体らと大差無い少年に向かって、まっすぐに歩みを進めてきた。カッ、と木靴を鳴らしたそれは、少年の前で立ち止まると、息をしているだけの少年の細い顎を引き寄せた。襤褸が頭からずれ落ち、少年はその白い肌と赤い髪を晒した。

 若い女だった。
 木綿のパオを身に纏い、うりざね顔には化粧、唇には紅、眉毛が細く描かれている。後ろできれいに纏められた髪に、大きな瑪瑙を配した髪飾り。少なくとも、こんな裏路地で家畜同前の人間の相手をするような身分の女ではない。
 
 道楽か。
 そんなことも、少年にとってはどうでもいい話だった。女は少年の顎を掴んでこちらに向けたまま表情も無く見つめていた。少年の感情は動かない。腐敗した臓器が少年を内側から蝕んでいるような不快。不快。不快。


「Kill me」


 表情の無い少年は、なんの感情を伴うこともなく言葉を吐いた。


「Killing me,please」

「Freely,If you would like to die. だがな、手前で死ねねえくせに一丁前にほざくな」


 女は少年の脳に言葉を直接ぶち込むような乱暴さでそう吐き捨てると、ふいに乾いた少年の唇に自分の唇を重ねた。女はしばし少年の唇の感触を味わった後、少年の胸倉をつかんで手前に引き寄せ、そうして今度は少年の口腔を舌で犯し始める。胸倉をつかむ女の手にも、少年の投げ出された手足も、それ以上に興奮しない。少年は求められなければ応じない。女も、それを望まない。ただ女は、息を切らしながら少年の唇を吸い、そうして吐いてはまた柔らかに噛んだ。女の長い睫をただぼんやりと眺めながら、少年は執拗に口腔ばかりを侵され続けた。

 狭い路地に、女の吐息と粘膜の吸着する音が響いている。顔を上げるものもいるが、多くは気にも留めていない。

「Please……」

「生きる方が残酷だ」

「リョク、I wanna meet my sister」

 感情を失った少年の頬に一筋、涙が流れた。女は、両手でしっかりと少年の顔を抑えたまま、鼻と鼻が触れ合うようなところで、何も写していない少年の瞳を見つめた。


「お前、名前は」

「スクネ アオイ」


 女は、嗚咽を始めた少年の頭を抱くようにして耳元で囁いた。


「この国で生きるための名前をやろう。シン、お前は今日から、私の慰みになれ」


 少年は息をしている。
 雨は止まない。時代は、新たな民主政府の行き先に陰りを見せ始めている頃。
 
 薄汚れた上海の路地裏、王時蘭(ワン ツーラン)の胸に抱かれて、「シン」は確かに息をした。
 青い空は見えない。
 そういえば、青い空がどんなものか、忘れてしまった。
 リョクは、青い空を覚えているだろうか。

 会いたい、リョク――。


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2011/12/01(木)
2、青

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