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「いのち」(6)



 黒溝台会戦は、一月二十七日に開戦。
 度重なる日本軍参謀の「判断ミス」を、弘前第八師団という本来後備配置であった「虎の子」を前線に投入することで辛くも勝利を得た。

 この会戦で弘前第八師団では多数の犠牲が出た。これは日露戦争における特筆事項には値しないかもしれない。黄海、旅順、奉天、璽霊山……幾多の戦場で多くの人が死んだ。日本人もたくさん死んだ。当然、ロシア人も死んだ。多くの家族が肉親の死を悲しむより、大国ロシアを満州の地にて打ち破りつつある、アジアの独立を、日本が勝ち取りつつあるといういわば国家意識レヴェルの熱に支配されつつある。大切な人の死は、声を荒げて悼むべきものではない。かれは、国家と、アジアの真の独立のために名誉ある戦死を遂げたのだ。残されたものはそう強く思うことで、その悲しみを乗り越えようとするのかもしれない。
 そういう空気が許されるのが、「戦時」である。


 ***


 桔華は兵衛の声を聴くや否や、娘を兵衛に預けて走り出した。
 幸い、夜半より小振りになっていた雪が、微かに晴子の進んだ道を残していて、雲間から除いた太陽がきらきらと足跡を照らしていた。

 降り積もった雪は、早朝から人々が手分けして除雪していた。往来の両端に、自分の背丈よりも高い雪が壁を作り、門のところだけ人が出入りできるように除雪されている。何人かの顔なじみに晴子の行方を聞いたが、誰もがかぶりを振った。新聞を購読している住民が、晴子の名前を聞いて心中を慮った。しかし、死亡通知が来たのは、川内でも晴子の家だけでは無いらしい。先ほど兵衛に見せてもらった「東奥日報」にも、第八師団で戦死した青森県人の死亡判明リストが一段にも連なっていた。ここ下北の地からも多数の犠牲者が出ている。それだというのに、人々はいつもと何も変わらぬといったふうに表情もないまま、もくもくと除雪を行い、そうして仕事に行くものは行く。家のことをする者はする。近隣で葬式が出ると段取りが組まれる。それは実に機械的で、実に人間らしい行動なのかもしれないと桔華は思った。そうしなければ、生きていくことができないからだ。

 当然のことなのかもしれない。
 誰かの死はそれは生き物である以上当たり前のことで。

 いつまでもそれに胸を痛めていたのでは前に進めない。
 そんなの。
 
 そんなの――。


 ***



 晴子は、誰もいない船着き場にいた。
 そこはまだ除雪が入っておらず、晴子の足跡だけが残った薄積の雪は、きらきらときらめいて。
 昨日まで鈍色だった波間も、久しく顔を見せなかった太陽の光を寿ぐように穏やかに押し寄せている。

 晴子はじっと海の向こうを見ていた。
 ただずっと。ずうっと向こう。

 風が冷たい。晴子は上着も着ていなかった。

「風邪を召しますよ」

 桔華はようやくその言葉を選んで、晴子に声をかけた。
 晴子は答えなかった。桔華は持ってきた晴子の裂織の綿入れを、背中からかけてやった。
 晴子の心中を思い図ることができない。
 才人のときと同じだ。自分は、何をしてやればよいのだろう。なんと、声をかけてやればいいのだろう。
 波は変わらず、穏やかな音を伴って眼前に広がる。
 桔華が何も言えずにいると、晴子がぽつりと言った。

「この海の向こうには、青森があるだけ。内海(うぢうみ)だもの。大陸には届かない」

 俊承は太平洋を臨んで、桔華の背中を見ていたのかもしれない。
 海の向こう。それはかれにとって、見たことのないすべてのもの。必ずしも絶望ではなかった。
 しかし晴子は違う。
 かつてこの海に自らの命を沈めることをし、この海を見ながら自らのこどもを無くし、そうして今度はこの海の向こうで、かけがえのない、ただ一つの大切なものを失った。
 晴子にとって、海とは母なるものではなく、それは同意義であり真逆の、絶望的なものであるのかもしれなかった。

 晴子は言った。
 昨夜遅く、在郷軍人会より和葉の戦死を伝えられたのだと。
 遺品もなく、和葉の名前と所属、死亡日時と、何人かの朱印が押された半紙を一枚、渡されたのだと。

「仕方ないのよ。何万という人が広大な大地の中に命を落として、戦争はまだ続いているから、遺体をすべて収容することができないのですって。仕方がないわ。仕方が無い。仕方が……」

「晴子さんもう」

「ねえ、もしかしたらこれは何かの手違いで、和葉さんが明日ひょっこり帰ってくるなんてことがあるのかもしれないと思わない?そうしたらね、私、桔華さんと娘さんのことを自慢するのよ。あなたがお留守にしている間、私はこんな素敵な友人ができたの。その出産に立ち会うこともできたのよ。こんなに素敵なことはあるかしらって。あなたが戦争で大変な思いをしているのを知っていたから、自分が、誰かのためにできることを必ずやり遂げたいという人だから、私も、自分のできる範囲で桔華さんのことを助けたいと思ったのよ。彼に恥じない妻になりたかったの。でもね、桔華さん。だから私はあなたを助けたのかもしれない。和葉さんの志につりあいたくて、彼に認めてもらいたくて、あなたを利用したのかもしれない。あなたを助けることで、私自身が救われようとしていたかもしれないなんて――。あなたは失望するかしら。でも、それすら意味が無くなってしまったわ。和葉さんはもう、ここに帰ってくることはない。それは私だけが特別なのではなくて、世界中の兵士の家族がそうであることのうちの一つでしかないのに、私は、私自身の悲しさに、どうすることもできないの。なんて利己主義なのかしら。結局、自分のことしか考えていないのよ。ねえ、桔華さん。私は、どうしてこんなに惨めなのかしら。ごめんなさい、桔華さん、ごめんなさい――」

 晴子は顔を上げたままぼろぼろと泣き出した。それを拭うこともせず、しかし必死で何かを堪えるようにして、体を震わせていた。桔華は、まるで金縛りにあったように動けなかった。その行動が誰かのためにと銘打っていても、それは自分が救われることに帰納する。黒澤も同じことを言っていた。そうしてそれは、桔華自身もよく理解していることであった。
 
 桔華にとって、晴子は、自分にないすべてのものを持っていた。
 帰るべき場所、愛する人。それを羨ましいと思っていた。
 それに比べて、私は自分で自認できる家族も、帰るべきところも女としての幸せもなく、決して口外することを許されぬ恋に身を焦がし、やがて北の果てにたどりつき、女の身一つで女児を産んだ。その父親は、かつて密やかな恋を誓い合った従兄ではなく、旅先で出会った朝鮮人。かれは桔華とともに生きる道ではなく、ただ一人、苦難の道を歩みゆく。桔華もまた、己が使命と半ば強引に自らに言い聞かせ、祖母のいいつけを全うする。

「あなたには、私にないすべてがある。愛すべき人がいて、それはどんな形であるとはいえ、命ある限り再びめぐり合うことができるわ。その愛した人との間に愛らしい女の子も生まれた。女性だというのに、歌道で将来を嘱望されていて、家や地元に縛られることなく自由にどこにでもいくことができるのよね。ねえ、どうしてあなたはそんなご自分を哀れだと思うの。あなたが望めば、日本中の女性が手に入れることのできないたくさんのものを手に入れることができるのよ。家に縛られ、家庭に縛られ、そうして女として生きるべき道徳にがんじがらめにされている私たちは、どんなに望んでもあなたのような生き方を選ぶことはできない。ねえ、なのにあなたは、どうしてなにを悩んでいるの。どうしてあなたなの。あなたは、わたしの――」

 そこまで言って、晴子の言葉は途切れた。
 兵衛に預けてきた赤ん坊のことが頭をよぎった。
 桔華は、正面から晴子の肩を抱いた。細っそりとした肩幅。その身はまだ微かに震えていた。

 海猫がみゃあ、と鋭い声を上げて泣いた。さっと桔華と晴子の視界に影を作り、風を切るように飛び立った。

 三月、陸奥湾には春陽が差し込んでいる。
 ロシアとの戦争も終わる。維新に続く、日本の第二の開国が始まる。
 それは、終わりに向かう始まりなのかもしれない。

 古月も俊承も、黒澤も晴子も、それぞれの立場で国を背負って立つ日が来るのだろう。
 あるいは母として。
 あるいは一企業を背負って。
 あるいは国防を担う軍人として。
 そうしてあるいは――。

 なればわたしも、何を迷うこともあるまい。
 私は私として生きることを決めたのだ。そのほかを選ぶことは許されぬ。


 ***


 翌日、晴子は赤ん坊の泣き声で目を覚ました。
 早朝の空気の冴えわたる中、赤ん坊はえんつこで無邪気に泣き声を上げていて。
 その傍らにいつもいたはずの、母親、桔華の姿がない。代わりにきれいに畳まれた布団と、彼女が発句の際に利用していた雑記帳が一冊、そこに置かれていた。



 陸奥湾を抱く街のなかひとり 吾子の手や君を求めん



 晴子は、何も知らぬ赤子を抱きあげた。
 赤ん坊は晴子の腕のぬくもりを感じてか、すぐに大人しくなった。

「あなたはひとりなんかじゃない、そうでしょう、桔華」



 ***



 明治三十八年三月、こうして最上桔華は、晴子のもとから姿を消した。
 桔華と晴子、こののち二人が生きて再会することは、無い。
 
 ただそこには、二人が確かに邂逅したという証――無垢な赤子が、「母親」に向かって小さな手を虚空に伸ばしている姿があるだけである――。


 
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2011/11/05(土)
6、「いのち」

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