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「いのち」(4)




 ***


 耳の底で、晴子の声が聞こえている。
 

 声は聞こえるが、言葉を認識できない。逃れようのない体の違和感と自分の中に蓄積された憤怒とも悲哀ともいえぬ何か。その何かが今まさに、桔華の身体から剥がれ落ちようとしているのかもしれないとそう思った。
 古月への懺悔も、俊承への悔恨も、己が生きていることに対する罪悪も、そのすべてが今こうして、体中のくぐもった空気の塊となって、桔華の下半身に注がれていく。どろどろの血液を内包する子宮は、身を引き裂くような激痛を伴って腹の中でうごめいていた。得体の知れぬ鈍痛が、一定の時間を置きながら桔華の身体と精神を苛んだ。何度も意識をもぎ取られそうになりながら、そのたびに晴子の声がどこか意識の上の方を飛び交い、くもの糸でも掴むような心地で辛うじてその声を聞き分けていた。そうして晴子や産婆の息に合わせて息み、悲鳴を上げ、何度も誰かの名前を呼んだ。もうそれにも疲れ果て、やがて身体が急に弛緩したと思った刹那、赤ん坊がぎゃあと鳴いた。桔華の身体の中のどろどろが体外に排出され、その中から命が生まれた。女の子だった。

「桔華さん、桔華さん」

 生まれ落ちた赤子は文字通り真っ赤なまま、外界の空気のわけがわからぬというように泣き続けていた。小さな口をいっぱいにあけて。小さな手足をばばたばたとさせて。
 産婆が臍の緒と後産の処理を終え、晴子が赤ん坊を桔華の枕元に寄越してくれた。桔華は心身ともに疲れ果て、赤ん坊に手を伸ばすこともままならなかったが、晴子が手を貸してくれ、己が身を分けた新たな命をその腕に抱いた。泣き出したのは晴子だった。「よがったのう」「ほにのう」と言いながら、赤子を抱く桔華を抱いてくれた。桔華は己の腕の中でぎゃあと泣きながら伸ばしてくる小さな掌に触れた。その掌は、ぎこちなげに桔華の指を掴んだ。


 光だ。
 光が見える。

 
 胸の奥底から、何か清らかなものが湧き出てくるような感覚。どろどろの意識の中に、細く強く貫く一筋の光。
 ああ、そうか。お前が私を助けてくれたのか。
 わたしは、ここにいてもいいのか。


 わたしは、生きていてもいいのだな。


 桔華の頬に無意識に涙が伝った。赤ん坊はいつの間にか泣き止んでいて、桔華の指を掴んだまま小さく息を吸っていた。まだ体の自由がきかない桔華に代わって、晴子が赤子を産湯に入れてくれた。産婆は、「えなを殺す」といって外に出て行った。川内では、後産の排出物を「えな」といって、縁起の良くないものとして早々に地中に埋めるのだと後で晴子が教えてくれた。「えな」はときに、それが赤子の首に巻きついて、殺してしまうことがあるのだそうだ。

 桔華はまる一晩かけて出産したので、赤ん坊の声を聴いたのはほとんど夜明けと同時であった。桔華を捜索に出た男たちも、何人かが様子を見に来てくれたが、出産のときは兵衛が家にいて、晴子とともに桔華に寄り添ってくれた。桔華は体中がだるく、しばらく動けずにいたが、晴子が産婆とともに立ち回ってくれた。赤ん坊の後は、桔華の身体を湯で清めてくれた。極寒に身をさらし、さらに大量に出血した後で桔華の身体は冷え切っており、湯で絞った手ぬぐいは本当に体の芯まで染み渡った。そうしているうちに河野のたえが朝刊を届けに来て、桔華に顔を見せた。たえが「えんつこ」に入っている赤ん坊を抱きあげたら、びっくりしたらしい赤ん坊はぎゃんぎゃんと泣き出した。桔華はどうにも申し訳ないような心地であったが、晴子もたえもそんなことを意に介する様子もなく、「元気な子でえがったの!」と笑った。その声にさらにびっくりしたのか、赤ん坊はさらにがんと泣いた。

 三月二日の早朝のことだった。
 この日、桔華は母親になった。


 ***


 産前の不安定な感情がうそのように、体が軽かった。
 三日もすれば桔華は日常生活など晴子の手を借りなくてもよくなり、赤ん坊を背に家の掃除をしたり店番をしたり、赤ん坊の世話を焼いたりした。晴子はまだ大事を取ってゆっくりしていたらと気を使ってくれたのだけど、もともと、幼いころから家事などを自然とこなしてきているので、桔華にとってはそのほうが自然であった。赤ん坊が泣けば、居間のえんつこまで走って行って母乳をやった。まだ目も明けないこどもが、桔華の乳房を探り当ててそれを吸い始めるとき、自分の中の「どろどろとした何か」をこの吾子にも分け与えてしまうのではないかと不安がよぎる。しかし赤ん坊の方はそれを解することもせずに、きっかのどろどろを吸いだして、己が中で浄化する。それは光となって母の心を照らした。母はその光に導かれるように、子を守らねばならぬという自覚を己が中で育んでいく。

 赤ん坊は昼夜を問わずぐずったが、桔華とともに晴子も赤子をあやすのに手を貸してくれた。晴子が赤ん坊を抱く姿は、ありがたいと思うより「申し訳ない」を桔華に強く想起させるのだ。自らのこどもを抱くことの適わなかった晴子。こうして流れ者の桔華を引き取り、ここまで面倒を見てくれた晴子に、どうしたら感謝の気持ちをお返しすることができるだろうか。赤ん坊はまるで二人目の母をもったというように、晴子の腕の中で静かな寝息を立てている。晴子は、どんな想いでこの子を抱いているのだろう。そう思えば、どんな謝辞の言葉よりも、こうしてわが子を抱いてもらうことが何よりの晴子への感謝の気持ちではないのかとも思えてくる。それもまた、ずいぶん手前勝手な話だと思う。

「名前はもう決めたのですか?」

 もう五日にもなる。産前もちらほらと候補を考えてはいたのだけれど、桔華はまだ、赤ん坊の名前を決められずにいた。

「この子はきっと、新しい時代を切り開く力を持った子になるわ。お父様のように優しくて強く。お母様のようにしなやかに美しく。そう思うの」

 晴子は、そういって赤ん坊に顔を寄せた。
 まだ呼ばれる名を持たぬ赤子は、無垢な寝顔を晴子に向けている。


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2011/10/31(月)
6、「いのち」

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