桜花往生

kanayano版日本近代史。

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2011/10/12(Wed)

「いのち」(3)


 *****


 もうどれだけ時間が経過したのか、分からなかった。
 猛烈な吹雪は、視界どころか行く手そのものを強烈に阻んだ。こんなに荒々しい雪の中を歩くのは初めてだった。ほとんど道知れぬ土地で、そうして雪にすっぽりと頭まで浸かっているような今の川内村の、今どのあたりを歩いているのか桔華には見当もつかなかった。腰まである積雪を漕ぐようにして強引に歩を進めていた。外套も羽織らず、寝間着のままの桔華の皮膚は、極寒の境地を感じているはずであるのだが、当の本人は熱を持った思考回路が完全に麻痺してしまっており、現状を的確に判断できないような精神状態にある。

 海はだめ。海を越えれば、俊承や古月さんに見止められてしまうから。

 意味不明な結論が、方向感覚も完全に喪失したこの嵐の中の唯一の指針となっている。桔華の頭の中には、桜花や古月、篠、俊承、才人、そして晴子らへの、想像を絶するような懺悔と、強烈な自己嫌悪が渦巻いていた。体が埋まるような豪雪を一心不乱に漕ぎ進み、進めずとも進まねばならぬこの情動。自らを痛めつけることで、自分に深くかかわってくれたすべてのものに対する後ろめたさ、己への失望、そして自分がこの世に存在したということへの抑えることのできない嫌悪から、少しでも逃れられるのだと思ったのかもしれない。理性を失った桔華の身体は、そんな感情や思考すら肯定することをせず、自らを死中に追いやることのみを求め続けた。何度も雪の海の中に嵌まり込んだ。それでもなお、桔華の身体は道とも山とも知れぬ内陸――自分を取り囲むすべての何かから逃れること――へと進み続けた。

 もはや視界はほぼ、皆無だった。胸までもある積雪は地面もあぜ道も分け隔てなく、ただ木の幹と枝だけが寒風にその身を晒していた。差し込むような鋭い雪に、防寒もろくに身につけていない桔華の下半身は、すでに熱いだの寒いだの、そんなものを感じることも無くなっていた。


 ただ頭だけは熱が持っていた。


 噴出しそうなほど、感情が出ては消え、また噴出した別の感情に絡め撮られ、新たな感情を生み出していく。悲しいのか悔しいのか、泣きたいのか辛いのか、桔華にはもはや判断することも不可能だった。わんわんと大声で叫びながら、ずぶずぶと雪道を漕いでいた。右足を前に引っ張り出せず、そのまま転倒した。大きく出張った腹から落ちたが、柔らかい雪が緩衝材となった。火照りきったむき出しの顔が、冷たい雪に触れた。頭の中は相変わらず混乱していたが、一つだけ、確かに心に浮かんだことがあった。


 腹の子は、無事だろうか。


 桔華は、はっとした。人間として未熟な自分に、人の親など、まして母親など務まる訳が無いと思っていた、そんな弱弱しい自分とは裏腹に、「承俊の子を産まねばならぬ」「生まれてきた父無し子を守らねばならぬ」と固く心に決めて譲らぬ、強く、そして自らの足で地を踏みしめている自分が居る。体が半分雪に埋まった状態で、桔華はどこかあたたかい光の溢れる場所にいた。そこは無音で、遮るものがなくて、倒れた桔華の目の前に、誰か人がいるようだった。桔華は、ぼろぼろな顔を上げ、その女を見上げた。女は腕に幼子を抱いていて、そして桔華を見下ろしていた。強い意志を秘めた瞳。小さな迷いや、自らの煩悩をかなぐり捨て、「母親」としての自覚に溢れるその華奢な体。幼子は、彼女の腕の中で、たわいも無い声を上げていた。女が桔華を見下ろすその瞳とは対照的に、子は何者にも犯されぬ、自愛に満ちたその腕に抱かれ、女に手を伸ばしている。

 誰かに似ている。
 そうか、これは、おばあさま。

 強く、揺ぎ無い意思をその小さな体に満ち占めている、北条桜花。桔華の憧憬であり、そして人生の目標。
 しかし、桔華の脳が否定する。今まで認めてはいけないと思っていた、紛れのない事実。

 途端、桔華の熱を持った頭の中でなにかが爆発するような感覚が全身を覆った。淡い光の中、桔華は意識を覚醒させた。
 目の前にいる女は、よく見知った顔をしていた。
 
 その顔が大嫌いだった。
 いなくなってしまえばどんなにいいだろう、そうして何度もなんども、殺したいと思った。
 だけどできなかった。そんな勇気もなかった。

 大切な人が、こんな彼女をあいしていると言ってくれた。
 その気持ちが、ほんものだと知っているから。

 そうして桔華は覚醒した意識の中で、目の前の女に声をかけた。



 桔華。
 お前は、母親になったのだね。





 *****




 途端、体中の痛覚が悲鳴を上げた。
 猛吹雪は先ほどよりもさらに勢いをまし、呼吸することもままならない。
 雪の深みに前のめるようにして嵌まり込んだ身重の桔華は、そこから身動きを取ることができない。

 体中の皮膚という皮膚が感覚を麻痺させるか否かの混乱の中で、明らかに異質な下腹部の激痛を自覚している。
 それは新たな命が、自らの出生を桔華に願っている証だった。

 
「桔華さん!!!」


 遠くなり始めた意識の向こうに、晴子の声が響いた。
 藁で編んだ防寒着を身に纏った数名の男たちと、そのなかに乱れた髪をまとめることも無くそのまま防寒着をかぶっただけの晴子が、ほとんど視界のない吹雪の中に倒れこんでいる桔華を発見した。
 男たちが止めるのも聞かず、晴子は彼らも驚くような力で掻き分けるようにして桔華の元に辿り着くと、むんずと桔華の体を抱き起こして、何度も頬を叩いた。

「桔華さん、桔華さん、返事しへ!桔華!」

「……はるこ、さん」

 晴子の額に無造作に貼られたガーゼに血が滲んでいた。桔華はその傷に気が付きながらも、それを労わる声を出す力も失っていた。次の瞬間に再び下半身に激痛にが走り、悲痛な叫び声を上げた。
 
 晴子はハッとして桔華の腹を見た。体が硬直し、苦痛に顔を歪めながら歯を食いしばる桔華。
 晴子は自らも歯を食いしばって、桔華の頬を叩いた。何度も何度も、桔華の名を呼んで、意識を保たせようとした。


「あんだ、こったどごで寝ればわがんねえよ!家に帰るから、連れて帰るから、それまでしっかり気張っての!」


 桔華に声をかけ続ける晴子の後方で、村の男たちが声を掛け合い、集まり始める。
 桔華は、極寒と陣痛の激痛に意識を消失するところだった。
 晴子の声が聞こえた。
 

 桔華は晴子に何かを言いかけ、そうしてそこで、意識が途切れた――。


 
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作者


Author:kanayano
16歳の時に書いた脚本のエチュードを書き連ねています。
かなやのぶ太名義、私生活ブログはこちら

最新記事

目次

※カテゴリは話数降順に並べておりますので、こちらから入っていただければスクロールでご覧いただけます。

■1、発芽―grow out― (65)
1、最後の恋人 (4)
2、北条古巻 (16)
3、少年と少女 (1)
4、はじまりの業火 (15)
5、月下の惨劇 (1)
6、「傾城傾国」 (28)
■2、着蕾―The bud― (54)
1、孝子、決別 (8)
2、青 (1)
3、吉岡輝也の憂鬱 (20)
4、田園都市、春 (18)
5、大陸の覇者※連載中 (7)
■ 番外『陸奥湾を抱く街』 (59)
1、明治37年、最上桔華 (8)
2、わたしの祖国 (11)
3、陸奥湾を抱く街 (9)
4、祭りのあとに (12)
5、裏切りの祖国 (13)
6、「いのち」 (6)
■番外『仮宿の楔』 (16)
1、奇人二人 (7)
2、「めらんこりあ」※連載中 (9)
読者様から頂いたイラスト (11)
from kanayano (9)

「本編」これまでのお話


<「5、大陸の覇者」登場人物>

伊藤 翔
21歳。幼いころに大陸に移住し、10歳の時に馬賊に家族を殺され、連れ去られた。18歳の時に家族の敵の一族を惨殺。現在は牢屋に投獄されている。支那名は梁文山(リャンウェンシャン)。
梁 生高(リャン シャンカオ)
38歳。父親は馬賊の統率者である「当家」梁続山。3年前、翔に父、母、弟を殺された。現在は周辺の「当家」を束ねる「攬把」。
李 爛華(リ ランホア)
23歳。村の青年。当家の一人。翔が村に連れてこられたころからの友人。
楊 和(ヤン フー)
18歳。字は子杏。爛華と同じく、翔を幼いころから知っており、獄中の彼の世話をしている。未亡人。

■「2、着蕾
大正4(1916)年。火事の中で記憶を失った弟・拓真の力になりたいと、自らも陸軍士官となることを決意した舎人孝子。日清両国の裏取引の対価として来日した吉岡輝也もまた、自らの庇護者である陸軍大将白河川修の計らいで、士官学校に入学する。奇しくも、士官学校予科では性別を偽って入学した孝子――雄一郎と名乗る――と同期であった。(1、孝子、決別
大陸進出を目論む帝国陸軍大佐久坂廣枝と、上海で裏を取り仕切る輝也の母親・仙楽弥が手を組んだ。楽弥の店で働く芸妓、宿禰緑子は、拓真と出会う。緑子は拓真に「また会いましょう」と告げて、その場を後にする。(3、吉岡輝也の憂鬱
大正9(1920)年。当代の人気歌人である最上桜花の下で暮らしている北条古巻。父親の愛人でもある桜花に、素直になれずとも平穏な日々を暮していた。身一つで転がり込んできた朝倉千鶴、桜花が朝鮮人街で助けた孫秀英。桜花と古巻の暮らしにも、新たな仲間が加わった。(4、田園都市、春

「番外」これまでのおはなし


2、「めらんこりあ」 登場人物>

舎人 耕三郎
陸軍大尉。27歳。
北条 古月
会社社長。26歳。会社の規模を大きくすべく、奔走している。
山方 明恵
16歳。美人だがめっぽう弁が立ち、家族から「奇人」と呼ばれている。そのせいで家を出た。
北条 篠
古月の妻。21歳。
北条 由枝
古月・篠の娘。4歳。

■「番外『仮宿の楔』
明治34年、東京。近衛師団に所属する舎人耕三郎大尉は、師団長・白河川修の来訪とともに、自分を訪ねる女の存在を知る。耕三郎を出せと叫ぶ女。そこに、耕三郎を知る商人、北条古月が通りかかる。女に帰れと宣う耕三郎。古月は女――山方朝重を連れて、一先ずその場を退いた。(1、奇人二人

おことわり

※当作品は物語のモチーフを実在の事件、人物に依拠していますが、事実関係は一切ございません。

※一部に暴力、流血、性的表現を伴う記事がございます。記事冒頭に注意書きを添えてありますので、閲覧の際にはご注意ください。

※本文中で中国語、ハングル、英語等の表現がありますが、作者の過小な語学力で作成しているため、ネイティブのものとは大きく異なる場合があります。ご了承ください。

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皇国の黒鷲

黒澤修吾の孫であり、吉岡輝也の甥にあたる、黒澤一臣総理が担う平成日本のかたちとは。緒方順様と共同制作です。


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