「いのち」(2)

 


 イギリスにいるという古月からの連絡は、八月以降無い。
 こちらから返していないのだから当然と言えば当然であるが、もう三年も顔を見ていない従兄の、いや、今でも愛しているかれの身の上が気になる。
 
 そうして何か得体のしれないおおきなものと戦うことを自ら選び取った俊承は、今頃北京だろうか。
 それすらも定かでない今、この身重の体をしてかれの後を追うこともできない。

 いったい自分は何をしているのか。
 これから何がしたいのか。
 
 答えに行き詰ると脳が熱を持ち、そうしてそれは体中の神経を伝わって自分を、そして血を分けた俊承のこどもを苦しめている。自分が苦しむことは同時に腹のこどもにも少なからず影響を与えているのだ。頭では分かっていても、決着を付けられない自分自身の心の弱さに絶望し、そうしてまた、桔華の脳は熱を持ち始め、それは重度の倦怠感と吐き気となって身体に現われる。

 桔華が囲炉裏の前で裂き織りの上着の端を掴み、背中を丸めて蹲っているところに、晴子が湯呑にお茶を二つ持ってきて、桔華の隣に腰を下ろした。がたがたと震え、顔面が蒼白となっている桔華に寄り添うように肩を抱くと、優しく背中を撫でてくれた。晴子は何も言わなかった。

 この人はいつもそうだった。桔華がこの家に来た時も、自分が苦しくて悩んでいるときも、自分から言い出さなければその理由を問おうとはしないのだ。どんな理由があったっていい、理由なんてなくてもいい、話したくないのなら、その辛さに、その感情に寄り添い、そうして桔華に「ひとりではない」と自覚させてくれる。そんな晴子の優しさにこの半年、ずっと甘え続けてきたわけだが、今回もその例に洩れず、こうして何も言わずに背中をさすってくれている。

 ねえ晴子さん、あなたの目にわたしはどんなふうに写っているの?
 
 もしかしたらそれは、好意的な感情とは限らないのではないか――。酷い悪阻に咽こみながら、桔華はなおも身体を屈める。もう母体は安定している時期だというのに、桔華の身体はまるでそれまでの自分の生き方に罰を与えるかのように、自らの体調の安定を拒み、そして苦しめ続けている。

「晴子さんは――」

 桔華は青白い顔をかすかに上げながら晴子の名を呼んだ。唇も血色を失い、幾分も歳を取ったように衰弱している。

「わたしのことが、お嫌い?」

「まあどうして? こうして親しくお話しできる同年代の女性と同居できるなんて、そうそうあるものではないわ。私は、桔華さんとこうして暮らしているのがとても楽しいの」

 だがそれも和葉が満州から帰ってくるまでの話だ。
 こどもを産み、そして容体が落ち着いたら、桔華はここを出ねばならない。

「もし、あなたがそれを望んでくださるのなら、桔華さんと、赤ちゃんもずっとここで一緒に暮らしたらどうかしら。和葉さんには私からお話しするわ。あの人も、にぎやかなのは大好きなのだし、もちろんこどもだって大好きだから、きっと大賛成してくれます。もちろん、桔華さんはおばあさまのお申し付けもあるから、日本中のいろいろなところにいかなければならないのよね。こども連れはきっと大変だから、そのときは私が預かるわ。その子が大きくなったら、母娘二人で出かけるというのはどうかしら――」

 そうして晴子は、伊勢と熊野、鎌倉といった有名どころの観光名所の名前を上げた後、「祇園なんて素敵ね。あらやだ、そこは桔華さんはご実家のご近所ね。旅行にはなりませんね」と言って一人で残念がり、そうしてふふっと笑った。晴子はいつもの調子のまま、その感情に曇りを見せなかった。この半年、一度も晴子の辛い顔を見たことがなかった。桔華とは本当に対照的に。

 桔華は微かに口を開いた。うまく聞き取れない、と晴子はもう一度聞きたい仕草をした。

「……めて」

 外は吹雪きだしたらしく、がたがたと雨戸が鳴った。連日の大雪で二米ほども積雪がある。それに更に降るのだ。北国の雪とは、そこに住むものに容赦しない。

「……やめて、ください。同情なんか」

「桔華さん?」

 少し怪訝な顔をしたあとに、軽口でも言おうと口を開きかけた晴子に、桔華は畳み掛けるように叫んだ。

「わたしの、こと、惨めな女だと思っているのでしょ。この歳になって結婚もしないで、初恋の従兄のことばかり意固地に想いつづけて、あげく旅先で知り合った男に身体を許して、『それも自分の道だ』と言い聞かせてここまで来た私のこと……! そうよ、私は情けない女なの、大切なものを何度も天秤にかけて、そうしてそれを自分で選び取ることもせずに時流に身を任せて、されるがままここまで流れ着いた……! そうして今は、自分が母親になることにすら覚悟を決められず、生まれてきた子供に、なんて言い訳をしたらいいのかも分からず、古月さんや俊承にどんな顔して会えばいいのか見当もつかないで、いっそ死んでしまえば楽になれると思うのにその勇気もないこんな私……!!! 晴子さん、あなたは和葉さんという大切な人との間にこどもが欲しかったのでしょう? それが適わないと、己を死に追い込むまで苦しみぬいたのでしょう? きっと……、きっとわたしなんかとは比べ物にならないような苦しみだったのでしょうね……。私は、この身が憎くても、死ぬこともできない、それでもこの子を、俊承のこどもを産んであげたい、でも、私はこの子の母親にはなれない、父親のいないこの子は、産まれても幸せになれない……、そう思うと、辛くて、苦しくて、何もかも投げ出してしまいたくて――」

「あなたが産むのだもの。きっとその瞬間から、その子にとってあなたは母親なのだわ。あなた自身がそれを認めなくても、こどもにとって母親はあなたしかいないのだもの」

 桔華はその背中に触れていた晴子の手を払いのけるようにして身を引いた。
 奥歯がぎりぎり言っていた。がたがたと震えながら、その蒼白な顔を晴子に向ける。桔華の着物の襟もとを掴む手首、投げ出された2本の両脚は、半年前よりも明らかにやせ細っており、そうしてその痩せた体に腹帯を付けた腹だけが大きく出張っているのだった。

「知ったような口を利かないで! あなたにわたしの気持ちが分かる訳がない!! 大切な人と、心から結ばれることのない痛みを、その人の忘れ形見を一人で産まねばならぬ辛さも、帰るところのない悲しみを! あなたにはそのすべてがある。戦争が終われば、和葉さんは帰ってくる! あなたのところに帰ってくる……!!」

 古月。
 俊承。

 いつ会えるとも、互いに寄せ合った愛おしい感情を成就させることも無い、最愛の二人。その二人とも、桔華のところに帰ってくることは無い。
 古月には家族がある。
 俊承と、結婚の約束をしたわけでもない。

 そこには、ただ一方的な愛情があるだけなのかもしれない。それがさまざまな事由と結びついて、貫かねばならなくなった感情が絡まりすぎて、今の桔華にはそれが言ったなんだったのか、自分が一体何で苦しんでいるのか、今自分が何をしゃべっているのかまったく解らなくなってしまった。
 熱。そう、熱だ。脳に熱気が溜まり始める。

 かっとなって晴子にそう叫び、再び我に返る。晴子は返す言葉もなく桔華を見つめるばかりで、しかしその視線を逸らすことはしなかった。自分はなんてことを言ってしまったんだろう、そう思うや否や、桔華は立ち上がり、玄関へ向かった。

 晴子もはっとしてすぐその後を追い、桔華の名前を呼んだ。掴まれた腕を必死で振り払うと、その勢いで晴子は後ろに吹っ飛び、商品陳列棚の角に頭をぶつけ、動かなくなった。



 桔華はそれに気付くことなく、視界も不明瞭な暴風雪の暗闇に、呑まれていった。


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2011/09/23(金)
6、「いのち」

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