「いのち」(1)



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 明治38年が明ける頃には、満州の荒野における日本とロシアの戦争に一筋の光が見え始めていた。
 極東の小国が、超大国の白熊を倒すかもしれないという機運が各国に広がっていた。それは欧州の日本に対する認識の変化であり、アメリカの仲裁への動きであり、アジア各国の黄色人種の未来への明るい展望であったに違いない。
 前年八月から二度にわたる旅順への総攻撃と、遼陽、沙可の大会戦を経て、日本は旅順を開城した。同時に、長期戦は慣れぬ荒野の厳冬をも相手にせねばならなかった。塹壕を掘ってその中に何もせずにじっとしていると、手先から寒気が蝕み、やがて凍傷に至る。先立つこと3年前、陸軍は青森第八師団歩兵第五連隊第二大隊が厳冬の八甲田山の冬季訓練中に遭難し、参加者二百十名中百九十九名の死傷者を出している。そのときの生存者の言をもとに、足に唐辛子を擦り付けて体温を保ったり、食糧に油紙を巻いて凍結を防止したりしている。それをもってしても、大陸の寒波は日露多くの将兵たちを苦しめた。当初の計画よりも長く続いた戦争は、前線の兵士ばかりでなく、それを後方で支える国家財政、もしくは戦争を遂行した国家権力への不満となって国内の民力がすべて戦争につぎ込まれないような状況と化してきている。




「今日は吹雪くわね」

 晴子は降り始めた雪から家の中を閉ざすように雨戸をがたがたと閉めていた。桔華は、囲炉裏の前で綿入れを被ってぼんやりとしていた。臨月を迎えた桔華の腹は誰が見ても妊婦とわかる大きさとなっている。二月に入ったあたりからは腹の重さと吐き気に体の自由が思うように効かなくなり、今はもうほとんど一日そこから動けないような状態が続いていた。

 病は気からとよく言ったもので、桔華の中にはなにか黒いものが蠢くような、スッキリしない靄のようなものが始終心を満たしていた。晴子は桔華から聞き及んだ仙台での出来事を彼女なりに理解し、桔華の気持ちに寄り添おうとしてくれる。晴子のそんな優しい労りをその身に重々感じながらも、桔華は自らの罪悪感に苛まれ、腹が膨れるほどにその思いを強くしていった。すっかり憔悴しきった桔華の表情を見て、晴子が気晴らしにとおもしろい話などをしてくれるのだけれど、最近ではもう、それに頷くことも困難な心理状況に陥りつつあった。

「母親に何か懸念事項があるのなら、それを解決してやるのが一番いいのだけれど」

 と医者は晴子に言ったそうだが、晴子にもその方法は皆目見当がつかない。母親の心理状況がわるければ、それは直接こどもの命に関わることだからと理解してはいるものの、桔華が己の中に妥協点を見つけようとすればするほど、己の身の軽率さを恥じ、不貞操を悔やみ、大切な者たちへの懺悔となって桔華の心を蝕んでいく。死ぬのは一瞬の苦痛、生きることでこの苦しみを背負い続けると決めたのもまた自分であったが、それにしてもこの数カ月で桔華はげっそりと痩せこけ、その顔から生気を失ってしまっている。

 あの夜を後悔しないと決めた。
 古月を一生愛し抜くと決めた。
 私自身はそれで納得したとして、この子にはなんと説明してやればいい。
 
 この子は自分に父親がいないことを恨むかもしれない。
 父親が自分たちを捨てたのだと思うかもしれない。

 そうではない、俊承にはどうしてもやらねばならぬことがあるのだとこの子に告げるのか。
 ならばなぜ、あの時かれの後を追わなかったのかと問われたら?

 自己満足ではないとなぜ言い切れる。

 黒澤の言葉が脳裏によぎる。自己満足でも構わない、私一人の問題なら、それでも構わないと思ったのだ。
 生まれてくるこの子は、いったい何を拠り所に生きていくのだろう。
 私に、母親になる資格などあるのだろうか。

「はい桔華さん」

 そういって差し出されたお椀に、ゴボウやニンジン、こおり豆腐の汁物に白玉が二つ入って、旨そうな湯気を上げていた。
 桔華は無言で受け取った。食欲がなく、膝に乗せたまま箸を付けなかった。晴子は「これは品川汁というのよ」とにこやかに話しだした。

「太平洋側を回って江戸の商人さんと交流のあった商家さんが川内に伝えたのですって。品川宿で聞いたから『品川汁』。でも今、当の品川にはあつものに白玉を入れる習慣はないそうよ。なんだかおかしな話ですよねえ」

 晴子はそう言って笑った。桔華もそれに同調するつもりで笑おうとするのだが、息がはき出ただけでなんとも情けない顔のままだった。
 晴子はそれを意に介しないように、今朝方、兵衛と何を話したのだとか、たえさんが新しい着物を買ったのだとか、そういうたわいもない話をしてはころころと一人で笑っていた。桔華は、晴子のその振る舞いにありがたいとは感じながらも、その話に同調して気分を高まらせることはできなかった。

 この半年間、晴子さんに世話をかけっぱなしだというのに、自分はこの有様。
 望んでも子供のできない晴子さんに、今の自分はどんなふうに写っているのだろう。

 私は、望まない結婚をさせられたわけでもない。
 大切な人のことを思い続ける自由もある。
 家族に縛られているわけでも無く、自由気ままに全国を放浪している。

 晴子とはすべて真逆の自分。何もわからぬまま脇野沢に嫁ぎ、石女として家族や近所に忌まれ、自殺しようとしたところを、唯一の理解者である旦那に命を救われた晴子。その愛する人の子供を産めないまま、大切な人は今、戦地にいる。そうして一人、愛した人の帰りを待っている。愛した人は、戦争が終われば、必ず晴子のところに返ってくる。

「そのくらいは食べなければだめよ、桔華さん。朝だってごはん半分も食べられなかったんだから」

 そういうと、先に食事を済ませた晴子は台所へと立った。桔華はお椀に盛られた白玉を眺めながら、猛烈な吐き気と、得体のしれない憔悴感に苛まれている。


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2011/09/06(火)
6、「いのち」

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