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裏切りの祖国(11)



 ***


 桔華が黒澤の部屋に戻ったのは昼過ぎだった。
 当の部屋の主はいなかった。俊承は起きていて、黒澤所有の書物に目を通しているようだった。

「おかえりなさい」

 桔華はただいまも言わずに戸を引いたというのに、俊承は少し元気はないものの、いつもの柔らかな笑顔を桔華に向けてよこした。

「起きたのね。調子はどう?」

「黒澤さんに入れられた一発がだいぶ響いていますけれど、そのほかは問題ありません。さっき本人にも演技とはいえかなり本気でぶち込んで申し訳ないと言われました」

 そういって笑う俊承の、ビン底眼鏡は割れていた。もしかしたら夢かもしれない昨夜の出来事が、全部本当のことだったという証だ。

「その、黒澤中尉殿は?」

「ええ、官舎の様子を見てくるとかで、先ほど出ていきましたよ。わたしたちは憲兵に目をつけられているから、できるだけここを動かない方がいいと言われました。夜には帰ってくるそうです」

 親切なのやら、自分たちに何をやらせようとしているのか。
 結局黒澤の真意は分からぬまま、桔華は一つ溜息を付き、そうして土間を上がった。
 今晩帰ってくるなら晩飯ぐらい用意してやろう思ったが、この部屋には食糧がまるでない。煤けた鍋が一つあるだけで、口に入りそうなものといえば『薩摩の赤いも』とかいう焼酎くらいのものである。
 堪能な中国語やあの才人を「革新派のインテリ」と形容できるほどの知識人でもあるようなので、給料の大半は書物につぎ込んでいるらしかった。

 陸軍中尉の安月給というものは随分深刻なのだな、とそのときはじめて桔華は黒澤に同情した。


 ***


 それから三日は、黒澤の言いつけ通り、俊承も桔華もほとんど家を出ずに過ごした。
 黒澤はほとんど家にいなかったが、外出の前には水とある程度の食糧を用意してくれた。桔華もせめて居候させてもらうのだから掃除洗濯ぐらいでもと申し出たのだが、人がいると見つからない方がいいだろうと丁重に辞退された。
 俊承は一日中、黒澤所有の書物に目を通していた。ワグナー、ブリューゲル、ニーチェに始まり、論語、墨子、孫子と、古今東西のあらゆる言語の書物があるようで、俊承はそれらを食い入るように読みこみ、そうして「面白い」「すごい」とその話を桔華に聞かせたりした。あの軍人がどんな顔でダンテを読むのだろうと思いつつ、俊承の笑顔が今の桔華の唯一の救いのような気がして、黙ってそれを聞いていた。桔華は、俊承にあの手紙をまだ渡せずにいた。俊承も、下宿の人間のこと、才人のことを話題にしようとはしなかった。

「あんた、北条桜花の孫なんだってな」

 才人の一件から三日目の夜更け、俊承は銭湯へ行っていて、一人で留守番をしていたところに黒澤が帰ってきた。

「ええ、そうですけれど」

「なるほど。それで分かった。久坂少佐のことは、北条古月に聞いたんだな」

 桔華は黒澤から軍帽と軍刀を預かった。始め本人は「別にそういうことを求めていない」と断ったが、せめてやれることをやらせてほしいと桔華が押し切ったのだった。

「社長をご存じなんですね」

「まだ直接は知らない。だが今回の戦争には民間の海運会社も大きくかかわっていて、『北条』もその例にもれないということだ。もっとも北条社長は、イギリスで高橋蔵相にユダヤ人実業家を会合させて日本への戦債確保に尽力したと言われている。社長の友人が、俺の上官だ」

 桔華は胸のすく思いで古月の名前を聞いていた。目をとじると、かれの大きな手が、桔華を求めてくるような気がする。そうするうちに桔華の中にふんわりとやさしい何かが浮き上がって、堪らなくなる。会いたい、声を聴きたい、その気持ちが頂点に達するより早く、「後悔しないで」とのたまった、篠の辛い顔が浮かぶ。

 ふと、唇をぎゅっと噛んだ桔華い黒澤はちらりと見、それには気が付かぬというように「そういえば」と話を切り出した。

「あんたたち、これからどうするつもりだ。ここにいるのは構わないが、このとおり、いろいろと不便な思いをさせてしまうだろう。しばらくは官憲の目も煩いだろうから、いっそ二人で仙台を離れるのが得策だと思うのだが」

 仙台を出る。それは桔華の中にもあった答えだった。
 だが出てどこに行こう。京都にはまだ戻れない。
 桔華が黙っていると、着替えを終えた黒澤がいつもの焼酎を片手に桔華の前にあぐらをかく。
 三日ほど過ごしてみてわかったことだが、この男、別に酒に強いというわけではないらしい。強い酒を煽ることで、入眠を促しているようだった。

「ま、あんたと柳君が一緒に行動するという義理はないのかもしれないな」

 桔華ははっとして即答する。

「バカなこと言わないで!私が、私が俊承のそばにいてあげなくちゃ、かれはもうどこにも帰るところなんてないのよ!かれがどこかに行こうというのなら、私はそれについていきます。それがどこであってもです」

 黒澤はその桔華の言動を見逃さない。

「それは、北京にいるという柳君の家族に何かあったということですか」

 桔華は言葉に詰まった。才人の残した新聞記事にそうあっただけだ。それが事実である確証などどこにもない。
 悩んだ末、桔華は才人からの手紙と記事の切り抜きを黒澤に手渡した。黒澤はその内容を一通り確認すると、それを丁寧に現状に戻し、そうして桔華に返してきた。

「手紙、なんて書いてあるんですか」
「知ってどうする。周君は柳君に渡してほしいといったんだろう」
「迷っているの。この手紙を、かれに渡していいものか」

 もし手紙の内容が、清国の革命のために自分の志を継いでほしいというものだったら?
 家族を清国の人間に殺された俊承が、その発端となった日本や、家族を見殺しにした中国を心から恨んでしまったら?
 たくさんのことに絶望した俊承が、日本や中国を、そして自分を嫌いになってしまったら?

 俊承が遠くへ行ってしまう。
 私の手の届かない、どこか遠くへ行ってしまうような気がして。

「惚れていない、ということではなかったのか」

「惚れている、と言ったはずよ。人間として尊敬しているの。だからこそ、私は彼の見方であり続けたいの。だからこの手紙が、今の彼を否定するものならば、それがたとえ才人の頼みであっても私は受けることはできない」

 古月の顔が浮かんで消えた。かれに言えなかったたった一言を、こんなにも容易く口にできる自分が怖かった。
 偽りのない事実。これからを俊承を助けて生きていかねばならない。桔華はそう心に固く、決めていたのだ。

「本人がそれを望まないかもしれない」

「そんな、だって」

「あんたは自分の独りよがりな妄想で、柳君を弱者にしてしまっているんじゃないのか。自分がいなければあの男が一人ぼっちで、頼るべきものもないのだとなぜ言い切れる。あんたは目の前で見せつけられた大陸民に対する日本人の優越感を否定し、自らかれらを保護しようとすることで自分だけはこの国の熱狂の外にいると自覚したいだけなんじゃないのか。そういうあんた自身が、周君や他の活動員たちの啓発運動のきっかけとなっていたのだと考えたことはないのか」

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2011/09/02(金)
5、裏切りの祖国

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