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裏切りの祖国(10)



 ***


 下宿を前に桔華はあたりの様子を陰から見渡している。
 今日は休日。街道に面するこのあたりは普段はもう少し人出があるのだが、皇族の行幸が幸いしてか、あたりは閑散としていた。

 憲兵隊もいない。桔華は小走りで下宿の裏口に回り、戸に手をかけた。開いた。
 
 できるだけ物音を立てぬよう慎重に戸を閉めた。すると人の気配に気が付いたらしい女将がやはり静かに降りてきて桔華の顔を改めるなり、驚き、安堵といった感情を交互に顔に表しつつ、声を低くして桔華に声をかけた。

「無事だったのね、よかった」

「女将さん、憲兵隊は来たのですか」

「ええそうよ、あなたたちが出て行ったそのすぐあとくらいかしら。十人くらいの憲兵さんたちが急にここにきて、今から名前を読み上げるものを引き渡せというのよ。才人の関係かとも思ったから、なんとなく言葉を濁していたら、騒ぎを聞きつけた留学生の子達の方から出てきてしまって、そうして連行されていったわ。あの子たち、『自分たちは何も悪いことをしていない、ここに迷惑をかけるわけにはいかないから』なんてことを言っていたけれど、才人だって戻ってきていないし、それに……」

 桔華は先だって二階の俊承と才人の部屋の戸を引いた。おそらく憲兵隊がさまざまに物色していたのであろう。部屋は書物や生活用具が入り乱れて雑多としていた。
 女将は桔華の後ろからついてきている。この部屋を見て溜息を付く。

「引き渡せという名簿の中に、あなたや俊承の名前もあったわ。あなたのことは実家に帰るから昨日で辞めたということにして、俊承には申し訳ないけれど昨日から出かけていて居場所はわからないと言っておいたわ。ところで俊承は無事なの?」

 才人が下宿の人間と自分の行動には何の関係もないと最後まで言い張ったのだと黒澤は言っていた。
 だとするとあの日、才人に面会を求めに行ったときに名乗ったことが、関係者と見なされることになったというわけか。
 女将の問いに桔華は頷いて見せて、雑多となっている部屋をかき分けるように進み、いつもは整然と整理されていた才人の文机の一番下の引き出しを引いた。エンゲルスの全集も数冊が抜き去られた後だったが、その一番手前にある全集の裏表紙を外すと、茶色い封筒が出てきた。念のため、桔華はその封筒の中を確かめる。

 一枚は中国語で書かれた俊承への手紙らしかった。
 そうしてもう一枚は先月の日付のある新聞記事の切り抜きだった。
 10行ほどのベタ記事ではあったが、それを見て桔華は絶句した。

「桔華さん」

 後ろで女将が自分の名前を呼んでいることにも気が付かなかった。桔華はその記事を見つめたまま、全ての思考が停止してしまうような気さえした。
 才人との約束は果たさねばならない。しかし大切な友人を失ったばかりの俊承に、この事実はあまりにも残酷だ。

「桔華さん」

 ようやく我に返った桔華が振り返ると、女将が風呂敷に二人分の手荷物を簡単にまとめたものをよこしてきた。

「才人がどうなったか、知らない?」

 桔華は少し押し黙った後、首を横に振った。

「女将さん、私、才人にこれを俊承に渡すよう言われているんです。でも、今の彼にこれを渡していいものか、正直迷っています」

 桔華から切り抜き記事を受け取った女将は、それを改めると沈痛な面持ちで黙って返してよこした。
 
「それが才人の気持ちなら渡すべきよ」

 桔華が荷物を受け取り、立ち上がっても、女将はそこに膝を折ったまま、顔を上げることをしなかった。

「長い間お世話になりました。こんな形でここを離れることになってしまうのはとても辛いけれど、騒ぎが落ち着いたら必ずまた戻ってきます。女将さん、憲兵隊に何を聞かれても、自分は彼らには何の関係もないのだと言い通してください。それが、ここでともに暮らした留学生たちの願いでもあるのです」

「私は、あの子たちは無実なのだと証言する。自分たちの暮らしをよりよくしたいと思うことの何が罪だというのかしら」

「女将さん!」

 悲痛な心地で振り返った桔華に、女将は立ち上がっていつものように優しげに笑うと、桔華の肩を抱いた。

「心配しないで。私にできることをするだけ。捕まったりなんかしてやらないわ。それより桔華さん、俊承の事……」

 才人が俊承に残した手紙と、新聞記事。
 記事には、ガリ版の小さな文字が、北京近くの村で起こった馬賊の襲撃事件を伝えていた。

『過日、北京郊外李甲屯にて馬賊の横暴あり。村人の多くは日系・朝鮮系の移民であり、反日の意思昂じた梁続山率ゐる一派数十名による虐殺行為が行われたるとの報告。
 漢城にて蘭学を学びたる由にて高名な柳 隆盛氏(53)の一家もその被害に遭遇、本人とその家族の死亡が確認されたり。柳氏は親日派として内外に知られ……』

「辛いのはあの子ね。信じていた祖国のすべてに裏切られたのだから……」

 桔華はその女将の言葉に応えることなく、荷物を抱えなおすと深く一礼してその場を後にした。
 俊承はひとりだ。たった一晩で、帰るべき祖国も、敬うべき祖国も、大切な友人も、家族も、そのすべてを失ってしまった。

 いいえ、絶望なんかさせない。
 わたしが、あなたの傍にいる限り。

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2011/09/01(木)
5、裏切りの祖国

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