裏切りの祖国(8)

 

*****


 正直、桔華はここまできて、黒澤を信用できるかどうか決めかねている。

 黒澤のメモの住所は、広瀬通りを一つ越えた先の、長屋街の中の一つだった。維新前の江戸の街並みを遺したといえば聞こえは良いが、風が吹けば戸板がガタガタ鳴り、隣人の会話の聞こえるような薄い壁。気を失った俊承を抱えつつ、いまさらどこにいこうという先も思い浮かばずに、意を決して黒澤指定の家の戸に手をかけた。鍵は掛かっていなかった。

 早朝六時前。まだあたりも人の動きだした様子もなく、カラカラと戸を閉じるとそこにしんと沈黙が落ちた。6畳ほどの部屋に文机が一つ。本棚にはぎっしり本が積まれており、読みかけのものが数冊机横に重ねられている。蒲団は綺麗にたたまれてしゃんと奥に納められており、シャツが一枚掛けられているほかは家具らしいものも見当たらない。

 とりあえず土間を上がり、奥の布団を借りて俊承を寝かしつける。押入れを開けたら風呂道具のようなものを見つけたので、共同の水くみ場で水を汲んできて手ぬぐいを絞り、俊承の体をふいてやった。瓶底の眼鏡は割れていたので外した。憲兵にやられたらしい痣が体中に残っていたが、黒澤にやられた鳩尾は赤黒く変色していて桔華はぎょっとした。演技にしろ、そこまでやる必要があったのか。とりあえずもう一度洗った手ぬぐいを絞り、患部に当ててやった。そうして布団を掛けてやる。

 ようやく桔華も膝を崩し、大きく深く息を吐いた。たった一晩の出来事ではあったが、親しい友人が死に、自分らも殺されそうになり、その窮地を脱してきた。急激な疲労感とともに、先ほどまでの出来事がまるで夢だったのではないかと思えてくる。才人のことも夢だったのではないか。きっとひと眠りすれば、またむっつりとしたあの顔をぶら下げて、ひょっこりと帰ってくるのではないか。

 下宿の女将やみんなはどうなっただろう、黒澤は本当に信用できるのだろうか、これから私たちはどうしようか……そんなことを考えているうちに、桔華もうとうとと意識を虚ろにし始めていた。まあいい。私たちが落ちついたところに、憲兵たちがここを襲撃するかもしれない、いやだが、眠い……

 そのとき、ガラっと戸が開いた。とはいえ桔華は反射的に身構え、俊承を庇うように身を乗り出す。

 帰ってきたのは黒澤だった。そんな様子の桔華を見ても大した反応もせずに静かに戸を閉めると、軍帽と外套を脱ぎ、軍刀を外して土間を上がった。桔華の視線は黒澤をずっと追っているが、当の本人はそれを気にした様子もなく通り過ぎ、軍服の上着を脱ぎだした。そのときになって桔華はようやくはっとして、慌てて後ろを向いた。なんとなく気まずい思いをしているのは、桔華だけのようだった。

「き、着替えるなら先に言ってください!」

 その空気に耐えきれなくなった桔華が、隣の部屋に感付かれないよう声を殺しつつ、黒澤に文句を言う。黒澤はやはり意にすることは無いようでシャツを脱ぎ軍袴を脱ぎ、単衣を羽織り、きゅっと腰帯を締めた。押入れから酒瓶と銚子を取り出して、俊承の寝ている布団の横にどんと座って胡坐をかいた。そうして手酌で一杯ひっかけると、桔華にも杯をすすめた。

「なんですか」

「薩摩の紅いも。旨いですよ」

「そーではなくて!あなたはなんなんですか!私たちを殺したいの、それとも生かしたいの!そしてここはどこなんですか」

 桔華ははっとして語尾の声をひそめた。つっこみどころが多すぎる。
 勢い立ち上がった桔華を見上げる黒澤は、やはり大した反応もないまま再び手酌で飲み始めた。

「以前話したでしょう。俺は陸軍の中尉、一昨年士官学校を卒業したばかりの新米です。女房と子供が出て行ってからはここに一人で住んでいます。よって、ここは俺の家。あんたたちをどうしたいのかは、正直俺もよくわからない」

 そういうと黒澤はまたぐっと杯をあけた。焼酎だが、随分いける口のようだ。

「将校さんって、もっと立派な家に住んでいると思っていました」

「中尉の月給は世間のさらりいめんよりずっと安いですよ。戦費を国民に借金するような国に雇われているんだから当然です」

 釈然としないが桔華はとりあえず座る。俊承は規則的な寝息を立てていて、ぐっすりと眠っているようだった。それを確認して桔華はほっと胸をなでおろす。

「私たちの住んでいる下宿、どうなるんですか」

「とりあえず、今日処刑された10人の関係者は、今日の行幸が終わるまで憲兵の監視下に置かれることになっている。一応事情聴取はすると思うが、事前に素行調査など行っています。すでに白黒はついているはず」

「じゃあ、またさっきのようなことが起こるということ?」

「さあ。昨晩中に始末しろというのは久坂中佐の指示です。中佐は在京近衛隊の参謀。今日の春日宮殿下の仙台入りの全権を任されて着任した。三月まではイギリスにいた人です」


――イギリスで、耕三郎と士官・陸大が同期の久坂廣枝という男に出会った。


「久坂……廣枝?」

 そうして初めて黒澤が感情をあらわにした。

「驚いたな。知っているんですか」

「今イギリスにいる知人からの手紙に、その名前を見ました」

「最短で陸大を出て、そのまま在英駐在員として数年を過ごし、参謀本部へ出仕している、超エリートですよ。あの年で皇族の出御を任されるのは前例もない。お上には随分覚え目出度いらしい」

「尊敬しているのね」

 ふと黒澤の手が止まった。

「まあ、そうですね」

 ところで、と黒澤は切り出した。

「あんたさっき、俺がその男に惚れているのかと聞いた時、そうだと答えた。それは本当ですか?」

 ずいぶんと引っ張ってくる男だ、と半ば訝しげになりながら、桔華は少し、考えた。

「まあ、そうかもしれませんね。確かにさっき、この人のためなら死んでもいい、そう思いましたから」

 黒澤は何も言わずにまた杯を口に運んだ。奇妙な間が生まれて桔華はまた居心地が悪くなった。

「それは同情ではなくて?」

 黒澤の会話の意図がまったくつかめない桔華は、「どういう意味です!」と食ってかかる。黒澤は杯をすとんと置くと背筋を伸ばして桔華に対峙した。

「初めにあんたたちに会った時、最上さん、あんたが一方的に柳君を追いかけているように見えた。男女の中に生じる感情なのかとも思ったが、どうやら違うらしい。それとはちがう、もっと穏やかで優しい何か――それが何なのかは俺にもよく分からないがとにかく、そう感じたんだ。
 あんたたちを返した後に、周君と話をした。彼もまた、柳君にたいして友情とひとくくりにできないような、素晴らしく単純なようでいかんとも説明しがたい感情を持っていた。家族や恋人、自分の命よりも大切に思える存在、それが周君や最上さんにとっての柳君だ。
 だがわからない。なぜ皆そこまで彼に拘る。何が君たちをそこまでさせる。俺は軍の学校や大陸での演習で何人もの思想家や知識人を見てきたが、どんな賢人も技術者も、それだけではことを起こすことができない。ことを起こすためには何が必要か。それは多くの人を引き付けることのできる人間の存在だ。それには博学の知識も、端麗な容姿も、理想的な思想も必要ない。ただそこにあるだけで、人々の興味を引き付けることのできる人間が、世に大きなことを起こすことができる」

「何が言いたいの」

 黒澤は視線を落とし、俊承の寝顔を眺めていた。俊承の方は先ほどの喧騒が嘘のように穏やかな寝息を立てていた。桔華は黒澤の言わんとしていることは分かるような気もしたし、分からないような気もした。俊承がもし、何かを成し遂げようとするのなら、それをすることができる素質を持っているのであり、そうして黒澤は、これから俊承をどうしたいということなのだろう。ほんの一週間ほどの付き合いではあるが、この男には何度も危機を救われている。はじめからその目的のために、俊承に恩を売ったということか。

「少なくとも、日本軍のために働けと言っても、無駄ですよ。才人のことだって納得できていないんです。むしろ、俊承は日本を憎んでいるかもしれない」

「そうでしょうね」

「私が彼に抱いている感情は確かに男性に抱く恋心とは違うものかもしれません。それでもわたしは俊承や才人のことがとても大切です。人間として、尊敬もしている。だからこんな形で、『国家』なんてモンが勝手に私たちの仲を裂こうとしていることが許せない。黒澤中尉、この一週間、確かに貴方に助けられました。だけどこれとそれとは話が別。俊承を、俊承の意に沿わない形で使おうなんてこと、私が許さない」




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2011/08/26(金)
5、裏切りの祖国

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