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裏切りの祖国(7)

 


 俊承は蹲ったままだ。桔華も憲兵の問いにどう応えたものか、考えを巡らせているところだった。

「何をしていると聞いている!」

 痺れを切らした憲兵が銃剣を桔華の喉元に突き付けてくる。切っ先がひやりとして桔華は思わず息を呑んだ。だけどここを退くわけにはいかない。かといって、二人で逃げ出せるような状況でも無い。
 万事休す、せめて俊承だけでもここから逃がすことはできないか。かれが話せば、俊承が日本人でないことはすぐにばれてしまうだろう。さあ、どうする。どうする桔華――。

「返して下さい」

 亡羊に放たれた俊承の言葉は、そこにいた誰もの耳に届いたはずである。

「返して、才人を返して下さい!」

 そう叫ぶなり才人が処刑された河縁へ走り出そうとする俊承。当然、屈強な憲兵二人がかりで抑えられたが、それでもその間を割って、俊承は才人のもとへ駆け寄ろうとした。

「放せ!放してください!放掉!」

 もう無茶苦茶だった。俊承の荒ぶりに業を煮やした別の憲兵が銃剣を構えた。桔華はとっさにその憲兵にとりついて銃口を俊承から外した。「ぱぁん!」と甲高い銃声が響いた。銃弾は俊承の耳を掠ったが、かれが抵抗を止めることは無かった。
 桔華もあっという間に憲兵に取り押さえられた。「かれは無実です、関係ありませんから!」と自分でも意味不明瞭なことを叫んでいるとは思ったけれど、ここで俊承を失うわけにはいかなかった。俊承は相変わらず「放せ!」「才人!」を繰り返しており、一向に興奮が収まる気配もない。憲兵隊が改めて小銃を構えた。隊長らしき憲兵が、撃ての合図をしようと右手を上げた。
 
 だめ、誰か、誰か俊承を――。


「何事だ」

 意識は一斉に声の主にそれた。二種軍装姿の陸軍将校だった。その後ろに黒澤が控えている。将校は明かりの照らす範囲のギリギリに揃え足で立ち止まると、役者と見間違うばかりの整った顔を桔華に、続いて俊承に向けた。俊承は抑えられていた憲兵に強引に押し戻され、勢い余って将校の足元に倒れこんだ。憲兵隊が一斉に捧げ筒をし、姿勢を正した。

「久坂少佐、ご報告いたします!国家転覆の恐れあるもの、及び清国より特令を下されしもの、十名の処刑を完了いたしました。これより死体の処分に入る所存であります!」

 後ろの黒澤は、二人の姿を見ても表情を変えなかった。一体何のつもりだ、桔華は胸中でそうつぶやいたが、黒澤はこちらに視線を寄こすこともしなかった。

 久坂と呼ばれた将校は「お勤め御苦労」と敬礼を返して「ふうむ」と小首を傾げた。再び桔華にその美しい顔を向けたが、軍人には程遠い、能面のような微笑を浮かばせていた。

「極秘裏に、と厳命したはずだが?」

 久坂は起き上がろうとした俊承の頭を蹴り飛ばした。その容姿に適わぬ行動に桔華も息を呑んだ。俊承はそのまま後方にふっとび、「ぐぅ」と唸り声を上げた。

「どうした、質問に応えろ、三井連隊長」
 
 途端に、三井と呼ばれた憲兵は顔を真っ青にしてがたがたと震えだした。まるで全身に鋭利なナイフを突き付けられているような感覚だった。久坂のその美しい容姿と、相手に容赦ない行動力が、従うものに必要以上の緊張を強いているのだろうと桔華は思った。

「なんで殺した」

 むっくりとおきあがった俊承が二、三度せき込みながら久坂を見据えていた。

「なんでかれらを殺した」
「ふうむ。どうやら日本人ではないようだけれど。生まれはどこかな」
「漢城」
「連中は清国政府からの極秘の要求もあって処刑が決まったんだ。朝鮮の人間には関係のないはずだが?」
「わたしは北京で育ちました。才人の幼馴染です」

 久坂が黒澤に視線をやった。黒澤が一言、「周一樹。容疑者9号です」と簡潔に囁いた。

「そうか、幼馴染か。それは残念だった。だがこれから日本がアジア各国と結んで形成しようとしている恒久平和に、かれの思想は危険だと清国政府が判断した。同盟国として、わが国はそれを受け入れたんだ。かれがどんなことを考えていたのか、君もかれの幼馴染なら、それが、分かるな?」

 この男、もしかしたら才人と俊承の関係を知っているのかもしれないと桔華は思った。だからわざと、俊承を煽るような言い分を申し立てているのではないか。
 そしてその関係を直近で知っているとしたら、いま久坂の後ろに控えている黒澤以外にあり得ない。
 俊承にこの久坂の言葉は体への暴力以上に効いているはずだった。事が起こってから知った才人の想い。春陽のためとはいえ、才人が命をかけた行動に同行させてもらえなかった悔しさ。俊承はふらりと立ち上がって、正面から久坂を捉えた。何をしようと言うのか、桔華は後ろ手に拘束されて動けないまま抵抗を試みたが、芳しい結果は得られない。

「なんだ、その眼は……」

 久坂は幾分か顎を上げて、俊承を見下すようにそう言った。俊承は何も答えなかった。連隊長をはじめ、周りの空気が研ぎ澄まされるように凍りつくのを桔華は感じていた

。遠くの空で夜の空が白み始めていた。

「才人は何も悪いことをしていません。悪いことをしていない人を殺してくれと頼んだのがわたしの育った国で、そうしてそれを鵜呑みにしたのがわたしにたくさんの新しいことを教えてくれたこの国なんですね。自分の大切な国をいまよりもよりよくしたいと考えることの何が悪なのですか。才人は、日本の事だって第二の故郷の様に思っていた。あなたたち軍人は、ロシアと戦争をするのだって、自分の領土を主戦場としようとしない、『アジアの恒久平和』とやらのために、朝鮮を、そして満州を焼け野原にしてなにが作り出されるというのですか!あなたたちは、そのアジアの中で他国に先んじてたくさんの血を流し、そうして列強の侵攻から自立を勝ち取ってきたのでしょう!ならばなぜそれを、列強と同じことを、同じアジアの国であるあなたたちが、わたしたちに仕向けるのですか!」

 桔華は、体中に鳥肌が立つのを感じていた。ああそうか、かれらはやはり、広い海を越えてやってきた、異国の人なのだ、と思った。国家だとか列強だとか、それはどこか、自分の遥か遠いところで起こってるできごとなのだと思っていた。「開国した日本は、アジアの先兵となって欧州列強と渡り合う」ということ、そうして朝鮮や清国はその日本の隷下にあって指導を受けること、それはどの国にとっても有りがたいことなのだと思っていた。アメリカやアフリカの様な植民地となった清国や朝鮮を思い描いたことなどなかった。だが彼等にとって日本とは、アメリカやアフリカにおけるイギリスやフランスと何ら変わりのないものとなりつつあり、それはかつてアジアでいち早く開国した極東の島国という羨望から、侵略国日本としての失望にかわりつつあったのだ。

 ふらふらと久坂に近づいてきた俊承を再び殴り飛ばしたのは黒澤だった。軍刀を脇に抱えたまま久坂の一歩前に踏み出し、そうして渾身の一撃を俊承のみぞおちにお見舞いした。流石の俊承もその場に蹲ったまま、何度もせき込み、立ち上がれずにいた。

「日本が朝鮮と満州を侵略するだと?ふざけるな。貴様ら朝鮮人やシナの連中が不甲斐ないから、こうして海を越えて大国ロシアと戦ってやっているのだそ。そのようなことも理解せずに、よくぞ知った口を叩けたものだな。貴様、あの才人とかいう男の幼馴染とか言ったな。馬鹿を言うな。あの革新派のインテリが貴様のような世間知らずと共に育ったというのか?そんな妄言をわれわれが信じるとでもいうのか!大方貴様が、今夜の宿代もないのであの情婦をこんな人気のないところに連れ込んで楽しんでいたところなんだろう。今夜見聞きしたことをすべて忘れるなら、あの情婦もろとも釈放してやってもいい。ええ、おら、聞いているのか朝鮮人!」

 先ほどまでのかれとはまるで別人のような振る舞いの黒澤に、桔華はとっさに、黒澤がこの場を逃れる口実をくれたのだと気がついた。後ろの拘束がゆるんだところを桔華は抜け出し、俊承の肩を抱き、背中をさすった。

「ああ、お前さん、いったい何がどうしたっていうんだい。いきなり憲兵さんに取り囲まれちまって、あたしはもう、なにがなにやらだよ。昨日あんなにお酒を飲んだから、お前さんもなにがなんだかよく分からなくなっちまってるみたいだけど、ああ怖い。こんなに怖い思いをしたせいですっかり酔いが覚めちまったよ。軍人さん、あたしたちはおっしゃる通りの宿無しです。どうかその銃剣をおさめて、許してはもらえませんか」

「ふん、異国の地まで来て女に助けられるとは情けない。いいか。これきりだぞ。外部に情報が漏れたとなればまず貴様らを殺す」

 黒澤は膝をついて二人に視線を合わせ、そう凄んだ。そうして久坂のもとに戻ると簡単に状況説明を繰り返し、憲兵隊と連隊長には夜明けまでに川辺の死体の処理を申しつけた。久坂は相変わらず俊承を見下ろしていたが、かれの肩を抱きつつ、今度は桔華が彼を睨みかえしてやった。
 黒澤が促したので久坂は何も言わずにその場を立ち去った。彼らの姿が完全になくなったことを確認して桔華はその場を動かない俊承の顔を上げさせ、頬を叩いた。

「俊承、生きている?大丈夫?」

 反応の無い俊承の腕を肩に抱きかかえて、桔華は立ち上がった。朝日が水平線上にあった。長い夜が明けた。
 その時、着物の袂に何か紙切れが挟まっていることに気がついた。



『下宿には戻るな。早朝に憲兵隊が一斉検挙に動く。お前たちは下の住所に来い。ただし、人目には付くな
 黒澤修吾』



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2011/08/24(水)
5、裏切りの祖国

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