祭りのあとに(4)

 舎人耕三郎は、古月を振り返ることすらしなかった。
 ただ暗闇が落ちる山道に、耕三郎の地面を踏みしめる音だけが響いていた。
 引っ込みの付かない古月は、関西人なら適当に返してくるはずの人間同士の他愛の無いやりとりにすら興味を示さないこの若い将校――それは彼が「軍人」という特権階級であるということも含めて――の背中にあらん限りのこの場における古月への気遣い、非礼といったものに対する非難を浴びせたい衝動を必死に押し込めて、前を歩く耕三郎の足音を頼りに駆け上がった。視界が開けると、日本側の軍営地を左翼に、先ほどまで眺めていた鴨緑江を挟んだ清国軍の宿営地とは「反対側」を見渡せる崖に出た。

「さんざ、月の光りよる夜で、雲ひとつ無い夜空にはその濃藍の布地に無数の針穴を開けたような鋭い星たちが散らばっておった。わいと耕三郎が山道を抜けた先は宿営地も無いので、夜空ばかりが舞台の主役を張り合っておる。おれは先ほどの羞恥心や耕三郎のこともすっかり忘れて、その空を見上げてばかりおった。上を見上げれば無数の星、下を見れば際限を知らない山肌。果てしなく人間の作りよる『もの』の無い世界を、おれはその時はじめて眼前にしておった」

「挟まれたな」

 耕三郎がポツリと言った。山道を抜けると月を真上に迎えたので、耕三郎の筋の通った高い鼻がくっきりと見えた。

「なんやて」
「今夜中に決着をつけねばなるまい。おい、貴様――」

 そのときはじめて耕三郎は古月の顔を正面から捉えた。古月も、この若い将校とこのように間近で顔を合わせたのははじめてだった。揺ぎ無い耕三郎の視線が古月を捉えると、普段物怖じしない古月ですら、このときばかりは心臓が大きく打つのを自覚した。
 
「自信、自負、そういうもんやない。おれの知っている軍人がよく張る虚勢でもない。あれはあの男が持つ人間の、もっと本質的な、根っこのところが持っている強さとでもいうのだろうか。とにかく、その瞳には、見るものを屈服させる何かが潜んでおった。おれは、普段ならそういうものには、特に反発して食いかかるところなのだが、その時ばかりはどういうわけか、素直にはい、と返事をしてしまったんや」

「上官と話をつけてくる。この暗闇ではもう一度ここに戻るのは至難であるから、貴様がここで待て。連中に動きがあったら、この小銃を空に向けて二秒間隔で二発撃て。三十分以内で戻る」
「ま、待ちぃや、挟まれたって、敵軍がこの、原野のどこにいるっていうんや。清国軍の宿営地なら、さっき川の対岸に赤々と見えとったぞ」

 耕三郎は腰元から自分の短銃の弾をばらばらと抜き、2つだけ弾込めしたものを古月に手渡した。古月はその手を掴み返して耕三郎の行く手を制した。彼は表情を変えなかった。
 耕三郎は例の見るものをねじ伏せるような視線を古月に向け続けていた。耕三郎の反応を待つ古月も黙り込んだ。耕三郎は古月の手を払いのけることも無く、やはりじっと古月を見据えていた。
 そのとき、微かだが地の唸るような音がした。それは地割れのようなくぐもった音で、古月の脳の深いところにずしんと響くような感覚だった。

「馬の蹄の音だ。数は約五百。華北一帯を縄張りとしている匪賊の一団だ」
「わいは戦は『どしろうと』やが、日本軍はその兵の数が二万と聞いておる。舎人少尉、匪賊やろうがものの数やあらへんと違いますか?」
「連中は真っ向から我々とやりあっても勝ち目が無いことを弁えている。故に、今夜中に奇襲を掛けるか、清国との戦闘中に後配備の手薄なところを狙って攻撃を仕掛ける可能性がある。交戦が始まれば兵力が前線にある以上、後方守備は至極、難しい」
「清国軍も考えおったな。前線にあれだけの大兵力をちらつかせて、本命はこっちか」
「連中が清国軍に加担しているとは考えにくい。目的はこの戦場に散らばる武器弾薬、食料と考えるのが妥当だろう。いずれにしろ、自軍の末端配備は指揮官の目が直接届きにくい分慎重に取り計らう必要がある。理解してもらえただろうか」

「帝国陸軍における上官の命令は絶対や。連中が火に飛び込めといえば、従卒は死んでも火に飛び込まなければならん。だが、先頭の真っ最中に、彼らの見えぬ先で背中から攻撃されたら。『火に飛び込め』という掛け声の聞こえぬ先で後方がばらばらと崩れだしたら。流れる水を食い止めることが出来ないように軍の部隊がぼろぼろと崩れていく。耕三郎はそういうことを、軍人でもないおれに必要最低限の言葉のみを簡潔にまとめてそうのたまった。頭でどうこう考えるより早く、おれの理性が『こいつの言うことに従え』というとったんや。
 おれは短く『分かった』と言った。耕三郎は『直ぐに奇襲ということは無いと判断するが、身の危険を感じたら直ぐにこの場を離れろ』と言い残し、陸軍の黒い外套を翻して走り去りおった。いま思い返してみれば、そんな重篤な危機が迫りつつある状況に、軍属でもない商人が一人、日本軍二万の命を背合わされたんやから、たまったものではない。だがそのときのおれは、そんな重責の自覚は露も無く、今夜のおれは本当についている、とあいも変わらず心の中で咆哮していた。桔華と、耕三郎。おれの中でこんなにも大きく、そしておそらく今後も互いに影響しあうであろうお前や耕三郎という存在の放つ強烈な光を真っ向からぶつけられて、おれの行く先が強引に開かれたようなそんな感覚やった。
 
 話したいことがある。桔華、今おまえに、会いたい。」

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2011/05/20(金)
4、祭りのあとに

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