陸奥湾を抱く街(8)

 声の主は菊池兵衛だった。
 
 もうそんな時間かと桔華は時計を振り返り、下駄をつっかけて表に出ると、日焼けた顔が炭鉱の炭で真っ黒になった、あどけない顔が一つ、そこにあった。

「おかえりなさいまし、いま晴子さんからの頼まれものをお持ちしますから、どうぞ中へ」

 兵衛は愛想いい顔で頭を下げると、背中の荷物を降ろし、店の中に入った。
 桔華は冷たい麦茶と、晴子がいつもそうするように水で濡らした手ぬぐいを持って、上がり場に腰掛けている兵衛の隣に座った。桔華が手ぬぐいを渡すと兵衛は照れくさそうにはにかみながら、礼を言い、顔と首、それから手と足の裏などを拭いた。よく日焼けした肌だったが、華奢な体つきである。晴子に妻子持ちといわれなければ、少年と見間違うほど、歳を取らない顔をしていた。

「これ、晴子さんから川代のおじいさんのところのお香典です」

 兵衛は「確かに受け取りました」と言って、桔華から香典を受け取った。水引の下には「和泉 和葉」と流麗な文字。晴子の手によるものだ。

「先方にくれぐれもよろしくと申しておりました」
「ご丁寧にありがとうございます。川代のじいさまには、オラも和葉も、ずっぱど叱られだものでした」

 脇野沢村のの小沢という地区に住んでいた兵衛は、幼い頃から身体が弱く、よく近所の子どもらに苛められていた。和葉は、脇野沢の尋常小学校に田名部から転校してきたばかりで友達も居らず、学級のなかでも身なりも小奇麗で本ばかり読んでいるような優等生。なかなか友達も出来なかった。
 ある日、兵衛が浜で子どもら五、六人に囲まれ、木の棒で殴るだの蹴るだのされていると、そこに和葉が通りかかった。相変わらず本など読みながら歩いているので、兵衛らの取り巻きに気が付かなかったのか、その中の一人にぶつかってしまった。大将格は激怒した。和葉をやっちまえ、ということになった。

「本を置いてくる。待っていてくれ」

 といって和葉は本当に本を置いてきた。本人はさあやれと声を上げるのだが、悪ガキ連中はどうにも納得がいかないというような顔で、それぞれ悪態をつきながら帰っていった。残された兵衛は何がなにやらわからないままぽかんとしていたし、和葉は「なんだ、やらないのか」とこちらも納得がいかないような有様であった。
 
 お互いにはぐれものという共通項があったからだろうか、その日を境に二人で行動することが多くなった。和葉は田名部から来た『都会もの』であり、その読書量もあってものをよく知っていたが、なんでも自分の目で確かめないと気がすまない性分のようだった。あるとき、近所でおっかないと評判の川代のオヤジが、どれだけおっかないのか確かめに行こうということになった。川代のオヤジは、その父親も祖父も漁師で、本人も十三歳になる頃から海に出て漁を手伝うようになった。そのころは一つの漁協を仕切るようになっていたから、歳の頃は五十を少し出たくらいの、脂の乗り切った男盛りだった。三十年以上の長きにわたって陸奥湾に晒した肌は頭皮から足の裏まで赤黒く日焼けており、愛飲した煙草のやにが白い歯に黄色くこびりついていた。  
 悪ガキ連中が、陸に干されているオヤジの舟を遊び場にしていたらしく、天地が割れんばかりの怒号で叱りつけられ、丁寧にそれぞれに大きな拳骨もいただいてしまった。それ以来、脇野沢の子どもたちの間では川代のオヤジはおっかないということで知れ広がった。子どもたちが喧嘩すると「したら、川代のオヤジさ言いつけるど!」という具合に。 
 
 怖いものとは知りながらも、怖いものを知らない和葉はどんどんとオヤジのいる小浜の浜辺へ向かう。兵衛は何度も、「やめようよ」と止めるのだけれど、和葉は「ならばおれ一人で行く」「オヤジがどんなものか確かめたら、お前にも知らせてやるから」と言って聞かない。和葉は言い出したらそれを曲げることも止めることもしない。転ぼうが邪魔が入ろうが真直ぐに突き進んで行って、後はなるようにしかならないのだ、と子どもながらにそう言ってのけるようなところがあった。
 浜辺には漁船や商船が船着場として利用している河口があって、そこは大人の介添え無しで子どもだけでは近づいてはならないという事になっている。しかし、そこを通り抜けて船着場でオヤジが漁から帰ってくるのを待っていないと、今度はいつオヤジを捕まえられるか分からない。

「和葉ちゃん、ここは危ないよ、オヤジの家の近くで待ってようよ」
「いやだめだ。ここで捕まえないと、オヤジはいつも大人たちに囲まれていて話しかける機会が無くなってしまう」

 すっかりその気の和葉に、取り付くしまも無い。兵衛はおっかないのと心細いので何度も心が折れそうになりながら、ただひたすらに海を見据え、オヤジの舟の帰りをまつ、和葉の強い瞳をじっと見入っていた。


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2011/03/23(水)
3、陸奥湾を抱く街

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