陸奥湾を抱く町(7)

「無理をしたのね。追い詰められた晴子ちゃんは、海に身を投げようとした。間一髪、和葉さんが引き止めたのだけど、千船の家では、晴子ちゃんを離縁するという話になったわ」

 しかし、和葉はそれを許さなかった。自分は、一生を晴子とともに生きると決めて夫婦になった。彼女を家から出すのであれば、自分もこの千船を出て行く。
 千船の両親と和葉はさんざん揉めた挙句、和葉は晴子を連れて千船の家を出ることになった。晴子は、世話になった両親を見捨てることはできないからと随分和葉を引き止めたが、和葉の心は揺るがなかった。明治二十九年、二人は脇野沢を出て、川内に移り住んだ。上方貿易の関係で幼い頃から和葉を見知っていた河野金衛門が住むところを世話し、資金を与えて、各地の布地を扱う織物屋を始めさせた。

 「あれはね」と言って、神棚に並ぶ二つのこけしをたえは指示した。それは桔華がこの家に来たときから気になっていた、まあるい頭部に赤と黒の墨で顔を描かれた、こけしだった。

「二人が川内に移ってきて、このお店を始める前に、ゆっくり二人で旅にでも出て、温泉にでもいってらっしゃいって言って、そのときにおみやげで買って来たものなのよ。津軽の大鰐温泉で買ってきたものなのだとかで、古くは口減らしで殺した子どもを供養するためのよりしろなんですって。その帰りに、田名部の恐山に巡礼して、イタコに口寄せをしてもらったら、生まれてくるはずだったのは男の子と女の子だと言われたそうよ。それ以来晴子ちゃんはあのこけしを自分の子どものように大事にしていて、毎朝手ぬぐいで拭いてあげて、ご飯をとりかえてあげているの」

 笑顔を絶やさない晴子の健気で華奢な身体が桔華の中で揺らめいている。弱い自分を勇気付け、励ましてくれる晴子の半生を、いたわしいなどと思う資格など桔華にはない。彼女はおそらくそれすらも不幸と思わずに、その苦労を誰のせいにすることも無く、何を恨むのでなく、そのときに自分のできることを精一杯やろうとしてきたのだろう。

「じゃあ、脇野沢のご両親にあいさつをしてくるというのは」
「はぁら!そったごど言ってだの!」

 たえは大きくため息をついた。自分が知っていたら止めていたのに、とこぼした。

「脇野沢に商船が就航するときは、いつも和葉さんが仕入れに行っていたんですよ。もちろん、脇野沢の村ではよく思われていませんから、お仕事で行くだけ。もう千船の家ともほとんど関わりは無いはずですよ。でも晴ちゃんのことだから、向こうの両親とも上手くやっていきたいと思っているのでしょうね。わたしらに言えば反対されることが分かっているから、何も言わずに行ったのね」

 昨日、晴子と話をしているときにも、脇野沢の両親について、何か感情を異にするということも無かった。本当に自然に、千船の両親とも和解したいという思いでいるのだろう。胸が締め付けられるような思いがする。

 たえはそろそろ午後の仕込が始まるから、と言って出て行った。その背中を見送りながら桔華は思う。自分は、晴子と一ヵ月も一緒にいながら、彼女のことを何も知らないのだと。晴子はおそらく、桔華と桔華の腹の中にいる子どもを、桔華が思う以上に大切に思っているのだろう。自分が出来なかったことだからこそ、桔華には成し得てもらいたい、その為の手助けがしたい。今ならその気持ちが、辛いほどに分かる気がする。
 しかし同時に、桔華の胸中には疼くものがあり、それを払拭できずにいる。自分はこれからも歌道を続けるつもりだ。子連れで旅を続けられるのか。父無し子として生まれてくるこの子は幸せなのか。自分は母親として、この子を立派に育てることが出来るのか。子どもを待ち望んだはずの晴子ではなく、なぜ自分なのか――。

 悶々と思考を巡らしながら、公募の歌を眺めている。午後は数人と挨拶程度の会話を交わした以外はお客も来なかった。上がり場に腰掛け、肩肘をついて歌を眺めつつ、ぼんやりと晴子のことを考えている。なんとなく注意散漫で、今日はもうやめようと上がり場に広げてある応募作と雑誌を片付け始めた。ふとした一句が目に留まる。


 阿子を抱き やはらかき肌 伝わりし 生きる鼓動の 音ぞ逞し


 まだ若い母親の作だろうか。あたたかく柔らかで、儚い姿をした幼い我が子を抱くと、自分となんら変わらない命の鼓動を感じたのだ。ああこの子も、必死で生きようとしているのだ、そう作者は感じたのだろう。その短歌に目を奪われながらも、無意識に腹に手を当てる。まだ何も感じない。しかし、この中で命は確実に息づいているのだ。桔華の迷いとは裏腹に、自分の中の小さな命は、必死で生きようとしているのかもしれない。
 桔華の中に、この小さな奇跡をいとおしむ気持ちが生まれたことに気がつく。大切な人と、自分の子ども。自分の中の、もう一人の自分。それを守ってやれるのは自分だけなのだという使命感。幸福感。ゆるゆると打ち寄せる波が次第に大きくなり、これほどまでに大切なものがかつてあっただろうかというところにまで達する。しかしそれは一瞬で、同時に喪失に対する恐怖が助長する。生まれてこなかったらどうしよう。自分のせいでこの子を死なせてしまったら、どうしよう――。

「ごめんくださあい」

 桔華ははっと我に返った。ほんのわずかな時間であったと思うが、大きな浮遊感と強烈な絶望感に感情が押し乱れ、気がつくと肩で息をしていた。ようやく意識を現実に戻して、桔華は声の主に向かって「はあい」と返事をした。 


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2011/03/21(月)
3、陸奥湾を抱く街

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