桜花往生

kanayano版日本近代史。

2011/03/02(Wed)

陸奥湾を抱く街(2)

「弘前の第8師団は、後備に配されて辞命を待っているそうだから、今はまだ戦場には出ていないそうよ。前線で戦ってくれている兵隊さんには申し訳ないけれど、このまま何事もなく、帰って来てくれればいいなって思うのだけれど」

 晴子は自分の夫の戦場での様子を、新聞で見聞しているといった。実際、そのような理由で新聞を購読し始めた家が多くあると晴子はたえに聞いたという。桔華もちらりと承俊のことを思い出した。四月、まだ仙台にいた頃、留学生たちが意気を上げていたことを思い出す。『日本がロシアとの初戦に勝った!アジアの小国が欧米の大国を破った!』街道にばら撒かれる号外。国威高揚に熱狂する人々の明るい顔――。

「ごめんなさいね。銃後を守る務めの私が、こんなことを言ってはいけないわね」

 晴子が俯いた。そんなことはない、と桔華は言った。

「大切な人が無事に戻ってきて欲しいと願うのは自然なことです。大丈夫。日本は今、快進撃を続けているそうよ。私たちも頑張りましょう」

 気休めでしかない、と桔華は思ったが、晴子はにっこりと笑ってくれた。本当は心配でたまらないのだ。その笑顔が桔華には辛かった。 二人して手を合わせて「ごちそうさまでした」と言う。晴子がやはりにこにこしながら「ほんだの。私もがんばらねばの!」といいながら勢いよく腕まくりをして、二人分のお膳を下げた。



 それから一週間ほど、桔華は床の中で過ごした。
 起きるのは三度の飯時と風呂の時のみ。晴子がほぼ付きっ切りで桔華の世話を焼いた。
 川内に唯一のひとという佐々木という医者が来て、「様態は落ち着いたようだ」と言った。桔華が頭を下げるより早く、晴子が「ありがとうございます、ああ、よかった、本当に」と佐々木医師の手を取ってぶんぶんと振った。
 
 晴子のこういう、人を拒まない雰囲気が、町の人々の好感につながっているようだった。
 
 実際、晴子の店には、絶えず人が足を運んだ。反物を買いに来るというよりは、晴子と世間話をしに来る。

「晴子さん、昨日な、旦那が裏の八幡宮で酔っ払ってな、石段に頭をぶつけて血まみれになって帰ってきたの」

 昨日見た変の形の雲のことでも、夫婦間の小さな諍いも、晴子に聞いてもらいたいと町のひとは思うのである。陳列棚の奥の、上がり場に腰掛けて、晴子もちっとも嫌な顔をせずに、「あらあ、まあまあ」と何度も深々と頷いている。

 日が傾き、横日が差し込んでくる。
 晴子の店は街道に面しているので、役場帰りの勤め人や、大工、畑帰りの男たちの、俯き加減の背中が往来する。
 街の中心から内陸に向かう街道があって、巨大な銀杏の木を境に西向かうと、安倍城というところがあって、炭鉱がある。
 この炭鉱は、江戸末期に発掘されて以来、尽きることなく炭を供給し続けている。夏も気温が上がらず、土地のやせた下北半島の西通り地区は農作に適さず、古来より狩猟と漁業とそれらを船の往来によって交易することで地域の経済を保ってきた。しかしこの炭鉱が発見されてから、石炭が主要な川内の産業になった。近隣の集落などから、三百人ほどが働きに来ている。
 彼らの中にも、檜山や蠣崎から通っている連中が居て、十人くらいの団体でがやがやと歩いてくる。煤だらけの顔に体格のいい偉丈夫が揃い踏んでいるので、その時刻の名物のようになっている。
 その偉丈夫の中に、体が一つ小さな、少年のような男が居る。
 菊池兵衛という。年は三十になる。年齢よりもずっと幼い顔に肌は赤焼けていて、煤に塗れて顔はいつも黒く、ぼろぼろの股引を履いている。出身は畑という山奥だが、二十歳のときに海沿いの宿野部という地区の女と結婚して移り住んだ。子供も、居る。

「いるかの」
「はあい」

 兵衛はいつも、炭鉱作業の帰り道に、偉丈夫の一団から離れて、晴子の店に立ち寄る。
 晴子もそれを分かって、濡らした手ぬぐいを用意している。「いるかの」とのんびりした声が聞こえると、「はあい」と手ぬぐいを片手に店先へぱたぱたと掛けていく。
 桔華は無粋と承知しつつ、この二人の会話に耳を欹てている。

「新聞見たかの」
「見ましたよ。川代さんとこのおじいさん、亡ぐなったって。通夜さいがねばの」
「行ぐんだば、寄るして」
「したばって、その日牛滝に仕入れに行がねばならなくて。香典お願いするがの」

 近隣住民の動静が大半である。
 それにしても毎日である。炭鉱は日曜日が休みだから、午前で終わる土曜日にも、帰り際に晴子に顔を見せている。
 とうとう、桔華は晴子に聞いてみた。

「あらいやだ、そんなんじゃありませんよ」

 あの人懐こい笑顔で桔華に手を振りながら、晴子は言った。兵衛は和葉の友人で、彼の出征以降、自分を気に掛けてくれているのだ、と。

「そんなに落ち込んでいるかしらね、私」

 あの人の目がそう言っているのよ、と晴子は俯いた。力無くうな垂れた彼女の首筋の健康そうな肌色が覗く。桔華は晴子の気持ちによりそうようにその手を取り、「無理しないで」と言った。晴子はやはり例の力ない笑顔で、「ありがとう」と言った。桔華はそれ以上何も言わなかった。


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作者


Author:kanayano
16歳の時に書いた脚本のエチュードを書き連ねています。
かなやのぶ太名義、私生活ブログはこちら

最新記事

目次

※カテゴリは話数降順に並べておりますので、こちらから入っていただければスクロールでご覧いただけます。

■1、発芽―grow out― (65)
1、最後の恋人 (4)
2、北条古巻 (16)
3、少年と少女 (1)
4、はじまりの業火 (15)
5、月下の惨劇 (1)
6、「傾城傾国」 (28)
■2、着蕾―The bud― (54)
1、孝子、決別 (8)
2、青 (1)
3、吉岡輝也の憂鬱 (20)
4、田園都市、春 (18)
5、大陸の覇者※連載中 (7)
■ 番外『陸奥湾を抱く街』 (59)
1、明治37年、最上桔華 (8)
2、わたしの祖国 (11)
3、陸奥湾を抱く街 (9)
4、祭りのあとに (12)
5、裏切りの祖国 (13)
6、「いのち」 (6)
■番外『仮宿の楔』 (16)
1、奇人二人 (7)
2、「めらんこりあ」※連載中 (9)
読者様から頂いたイラスト (11)
from kanayano (9)

「本編」これまでのお話


<「5、大陸の覇者」登場人物>

伊藤 翔
21歳。幼いころに大陸に移住し、10歳の時に馬賊に家族を殺され、連れ去られた。18歳の時に家族の敵の一族を惨殺。現在は牢屋に投獄されている。支那名は梁文山(リャンウェンシャン)。
梁 生高(リャン シャンカオ)
38歳。父親は馬賊の統率者である「当家」梁続山。3年前、翔に父、母、弟を殺された。現在は周辺の「当家」を束ねる「攬把」。
李 爛華(リ ランホア)
23歳。村の青年。当家の一人。翔が村に連れてこられたころからの友人。
楊 和(ヤン フー)
18歳。字は子杏。爛華と同じく、翔を幼いころから知っており、獄中の彼の世話をしている。未亡人。

■「2、着蕾
大正4(1916)年。火事の中で記憶を失った弟・拓真の力になりたいと、自らも陸軍士官となることを決意した舎人孝子。日清両国の裏取引の対価として来日した吉岡輝也もまた、自らの庇護者である陸軍大将白河川修の計らいで、士官学校に入学する。奇しくも、士官学校予科では性別を偽って入学した孝子――雄一郎と名乗る――と同期であった。(1、孝子、決別
大陸進出を目論む帝国陸軍大佐久坂廣枝と、上海で裏を取り仕切る輝也の母親・仙楽弥が手を組んだ。楽弥の店で働く芸妓、宿禰緑子は、拓真と出会う。緑子は拓真に「また会いましょう」と告げて、その場を後にする。(3、吉岡輝也の憂鬱
大正9(1920)年。当代の人気歌人である最上桜花の下で暮らしている北条古巻。父親の愛人でもある桜花に、素直になれずとも平穏な日々を暮していた。身一つで転がり込んできた朝倉千鶴、桜花が朝鮮人街で助けた孫秀英。桜花と古巻の暮らしにも、新たな仲間が加わった。(4、田園都市、春

「番外」これまでのおはなし


2、「めらんこりあ」 登場人物>

舎人 耕三郎
陸軍大尉。27歳。
北条 古月
会社社長。26歳。会社の規模を大きくすべく、奔走している。
山方 明恵
16歳。美人だがめっぽう弁が立ち、家族から「奇人」と呼ばれている。そのせいで家を出た。
北条 篠
古月の妻。21歳。
北条 由枝
古月・篠の娘。4歳。

■「番外『仮宿の楔』
明治34年、東京。近衛師団に所属する舎人耕三郎大尉は、師団長・白河川修の来訪とともに、自分を訪ねる女の存在を知る。耕三郎を出せと叫ぶ女。そこに、耕三郎を知る商人、北条古月が通りかかる。女に帰れと宣う耕三郎。古月は女――山方朝重を連れて、一先ずその場を退いた。(1、奇人二人

おことわり

※当作品は物語のモチーフを実在の事件、人物に依拠していますが、事実関係は一切ございません。

※一部に暴力、流血、性的表現を伴う記事がございます。記事冒頭に注意書きを添えてありますので、閲覧の際にはご注意ください。

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皇国の黒鷲

黒澤修吾の孫であり、吉岡輝也の甥にあたる、黒澤一臣総理が担う平成日本のかたちとは。緒方順様と共同制作です。