わたしの祖国(11)

――天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも


「仲麻呂?」
「はい、日本の和歌を勉強しました。桔華さんは、和歌を詠まれるそうで」

 まだ修行中の身です、と桔華が謙遜すると、承俊は身を乗り出してきた。

「阿倍仲麻呂は、中国でもとても有名で」

 すると承俊は、記憶を一つずつ手繰るように、仲麻呂の長安までの道のりや、唐の有名な詩人たちとの交流、玄宗皇帝のこと、長安では晁衡を名乗ったこと、そして安禄山の乱に際しては日本への帰国を認められなかった彼の生涯を語った。

「彼も祖国を思ったのかなあ」
「生まれた土地を思わぬものはいない」

 才人が感想を述べた。もう三年も祖国を離れているのだ。同じ年月を実家から離れて暮らしている桔華だが、海を越えて文化も言葉も違う国に来ている彼らと、望郷の思いを等しく考えることは出来ない、と思った。まして、仲麻呂の時代であれば尚更で、今よりも航海術も交通機関も発達していないかの時代、日本と長安はそれこそ天と地ほども遠い場所であったに違いない。
 
 祖国、か。

 日本から出たことのない桔華には、「祖国」という言葉は、帰るべき場所という意味の「故郷」以外の意味を持ち得ない。自分が思っている以上の言葉の重みに、承俊や才人と自分の決定的な距離を感じている。今自分の目の前で仲麻呂を省みた承俊、先ほどから酒をたしなんでいる才人、そして眼前のすべての留学生に、日本ではない彼らの「祖国」での顔と、そこで営んでいた暮らしがある。
 ふと、先日の新聞記事を思い出す。日本は今、ロシアと交戦している。戦場の舞台は、他でもない、彼らの祖国の土地である。彼らは自分たち日本人を、その日本に留学している自分たちを、桔華が考える以上に複雑に思っているのかもしれない。

「桔華さん」

 名前を呼ばれて、桔華は夢想から引き戻された。「何」と聞けば、「仲麻呂と同時代の唐の詩人に、王維というひとがいます」と承俊。

 君自故來、
 應知故事。
 來日綺窗前、
 寒梅著花未。

(ジュンチーグゥシアンライ)
 
 「君は私の故郷から来たのだから、故郷の今を知っているはずだね」。
 承俊がゆるりと語りだす。聞きなれた和音の音ではなく、漢詩の穏やかな抑揚が桔華の耳にも心地よい。

(インチーグゥシャンシィ)
(ライリィチィチュアンチアン)

 転部で声のトーンが上がり、空気の振動を伝わって聞くものの心をざわざわと揺さぶった。「私の家の窓辺の梅」を、どう結ぶのだろう。

(ハンメイ、チュオ、ホア、ウェイ)

 包み込むように「ウェイ」を発音して、揺さぶった心に安堵をもたらす。「私の家の窓辺の梅は、もう咲いていただろうか」。ああそうか、彼は美しい故郷を思い出すのに、庭先の梅で十分だったんだ。

「きっとね、作者には故郷に恋人がいて」

 ふと、そんなことを承俊が語りだした。才人はまた、ゆるりと杯を口元に運んだ。承俊は体を揺らしながら、ふわふわと言葉をつなげた。

「梅を見るたびに、彼女のことを思い出して、くじけそうになる自分を励ましていたんだ。旅先にも美しい梅の名所などあるけれど、その梅の咲き誇るところを眺めては、故郷にいる彼女の美しい姿を思い出し、でも心のどこかで会えない寂しさを募らせている」

 愁眉。承俊には似合わないその陰りに、桔華は胸中のざわめきを覚えている。

『あなたにも、梅を眺めて思い出す人がいるの?』
 
 ここまで出かかっている言葉を、桔華はついに飲み込んだ。代わりに「大陸の梅の花も、綺麗なのでしょうね」と言った。

「わたしは、日本に来て、本当によかったと思っています。この国はとても大きい。そりゃあ、国土の大きさは中国に及ぶべくもないけれど、そういう物質的なものではなくて、もっと、心の寛容さみたいなものを感じます。自分と違う何かを拒絶するのではなくて、それを価値観として受け入れる。それが自分の世界を広げることにもつながる。中国も韓国も日本にそれを学んで、きっと追いつく。だからその為に、私たちはもっともっと日本に学ばなければならないんだ」

 隣で、才人の口元が緩んだのが分かった。自分の名前を呼ばれたと、へべれけの女将がこちらに大声を一つよこしたが、「美人だと言ったのです!」と承俊が返してやると、まわりからどっ、と歓声が沸いた。承俊もそれを見て笑った。桔華はその横顔を眩しく見つめている。

「春陽を連れてきてあげたいな」

 ふと漏らした承俊の一言が、桔華の心に小さなしこりを残す。
 承俊、チュニャンって、才人の妹さんなのよね。その子のこと、大切に思っているのよね。川で溺れてまで、喜ばせてあげたかった大切な人。あなたはあと一年もしたら、祖国に帰ってしまう。そうしたらもう、私のことなんて忘れてしまうのかしら。

「ねえ承俊」

 なんでしょう、と応えてくる承俊の無邪気な瞳。ぎゅっと心がつまり、苦しい。この瞳を日本という国が曇らせているような気がしてならない。世界の趨勢に遅れまいとする、国家の意思。自分ではどうしようもない巨大な何かが、自分と彼の間に立ちはだかっているような気がする。そんな不安を、あの日以来、胸に抱いていた。
 
「あなたの祖国は、どこ?」

 承俊は一度、驚いたような顔をして、桔華の顔を見つめた。その後、ゆっくりと表情を緩め、不安を募らせる桔華の胸中を察するかのようにやわらかく微笑み、そして応えた。

「そんなの」

 ふわりと花を舞い散らすつむじ風が立った。髪が靡き、桔華は顔の横のほつれ髪を軽く抑えた。

「いうまでもありません」



 柔らかな春の風が吹いている。
 彼の祖国の名前を、桔華はまだ、知らない。

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2011/02/24(木)
2、わたしの祖国

| ホーム |
Page Top↑
▲ Page Top