「めらんこりあ」(1)


***

 明恵の祖父は、40年前の維新で大きな功績を上げた人物だった。
祖父は今の帝国陸軍の創設に深く関わり、西南の役から台湾出兵、日清戦争と兵を率いた。その後は日本の国家体制が整備されていく中で、国会や官僚制度にも一家言を持っていたし、内閣総理大臣を経験した後も、軍人として現場で兵を鼓舞する、そんな人物だった。
 
 祖父の名は、山方有信という。有信には息子がなかった。だから有信の姉の息子を養子に迎えた。朝重はその兄三人からなる長女に当たる。が、3番目の兄から、明恵は年齢が十離れている。年の離れた女孫は、日々多忙に過ごす祖父にこれ以上ないほど愛された。

 祖父は文化人でもあった。和歌、漢詩をし、茶を嗜み、そのため庭も作った。また、それらのためによく書を読んだから、私邸には豊かに書があった。朝重の兄たちが手習いをしているのを真似て、明恵は3歳で孔子を諳んじて見せた。5歳で新聞を読んだ。7歳で時勢を祖父らと語った。

 が、その弁があまりに闊達ゆえに、近くの大人たちが論破されるようになると、7歳の少女の可愛げは、苛立ち以外の何物でもなくなった。世間は社会や国政に敏感な時期であった。社会主義だ国家論だと常日頃飛び回る中、情報と価値観を獲得し、己の心情としている人間は、大人といえどそう多くは無かったからだ。そういう人間に、朝重の言論は的を射たように見えた。大人たちは、苦笑いした。

 10歳を超えてもこのようなままであった。白い肌に黒い髪はつややかで、目鼻立ちもはっきりとしている明恵は口を開かねば見目麗しい令嬢なのである。が、他人にも人にも厳しい朝重自身の「正しさ」は、もはや祖父以外受け止める人間はいなくなっていた。父も母も、兄たちも、そして女学校の同級生たちも、明恵から距離を置いた。
 自分が孤立していく様子は、理解できていた。しかし、自分の言動や考えが間違っているとは思わなかったし、嘘やおべっかを使うという「処世術」など、自分には必要がないと思っていた。明恵の話を唯一真向から聞いてくれる祖父は、「お前が男だったらなあ」とよく言った。祖父の膝に乗り、新聞を一緒に読みながら軍人勅諭を教わったりした。士官学校に進む若い士官が必ず覚えなければならないこの訓辞をつくったのは自分なのだと、祖父は教えてくれた。

 祖父と同じ場所で、生きていけたら。

どんなにいいだろうと思った。私の言葉を、私の思いを。全力に全力で議論ができる、そんな場所。祖父がいる場所がそういうところなら、私もそこで働きたい、そう思った。

 男に生まれたかった。
 女は不自由だ。誰かに望まれる人間にならなければならないから。そこに自分の意思は介在しないから。

 明恵、7歳の5月だったと覚えている。
 祖父が、陸軍士官学校の教官と生徒を自宅に招いた。士官学校の若い教官が一人、砲兵課の生徒が2名と、騎兵課が1名、そして歩兵課の2年としてここに招聘されたのが、当時17歳の舎人耕三郎だった。

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「めらんこりあ」(2)


明恵は応接間につながる廊下から、障子に身を隠して部屋をのぞいていた。

その青年は非道く不機嫌な顔をしていた。
招いたのは時の陸軍元帥、内務卿である。普段から懇意の教官はともかく、耕三郎でないもう一人は、明恵から見てもその緊張が理解できた。単純に動きが硬かった。祖父は偉いのだから、その反応は間違いではないと思った。

だから余計、耕三郎を注視した。

祖父が来るまでの間に、教官が二人の生徒を導き、席に着き、祖父のことを二、三、述べた。確か人となりがどうだとか、その気性の荒さに昔は苦労したものだが、とか、そのような内容だったと思う。
「舎人」と呼ばれた青年がしかめっ面を指摘されたので、明恵はその名を知った。とねり。へんな名前。教官ともう一人の名前は、忘れた。

「やあ、待たせた」

祖父は明恵の背中から現れて、ぽんと頭に手を置くと、部屋に入るよう促した。明恵は多少抵抗したが、祖父の大きな手はその背中を押して、三人の前に対面し、明恵をその横に座らせた。祖父は最近、明恵が膝に乗るのを嫌がることを知っていた。

 用ということも無い、ただの雑談のようだった。祖父と面識のある教官が、無作為に教え子を引き抜いてきたという感じで、耕三郎をのぞいた三人で、昨今の社会情勢や、軍内の空気や、祖父の若いころの話などをしていた。

「舎人は、出奔してきたんですよ」

教官に話を振られ、陸軍元帥たる祖父の視線を受けても、「はあ」と言ったきりで、特段取り繕うこともしなかった。

「出奔とはいうものだな。どうした。両親と喧嘩でもしたのか」
「喧嘩ということではありませんが、家の考え方と、自分の考え方が大きく違ったもので」
「それで、家を出たのかい」
「軍人ならば、金もかからないかと」

明恵は呆れた。そのような不純な動機で、崇高なる帝国軍の将校になるというのか!恥を知れ!
まさにそう叫ばんとすると、隣で祖父が膝を打ちながら笑った。

「ああその通りだ、そういうことなんだよ。だれが好き好んで戦場へいくもんか。金の無い、働き口の無い連中に、無償で働き口を、住む場所を与えてやっているのが軍隊だ。貴様はまさに我々の意を汲んでいるというわけだな」

教官ともう一人の生徒は隣ではらはらとしていた。耕三郎は特段意に介することも無く祖父のことを眺めていた。そのときふと、明恵は耕三郎と目が合い、驚いて目をそらした。なぜそうしてしまったのか、下を向いて必死で考えた。体がかっと熱くなった。

「問おう、舎人耕三郎。貴様、今の陸軍をどう思う。ご一新以来、国内の内乱を意識して創設された陸海軍は、今や大陸へ進出するための先兵となりつつある。今度はどうやらどこか大きな国といくさをするらしい。この国は勝てるのか。この陸軍は国に勝利をもたらすことができるのか」

祖父はえらく楽しそうだった。今は内閣の閣僚である祖父は、政財界の連中とこの家で喧々諤々としているが、そのときの何かを諦めたような空気ではなく、この目の前の、えらく不機嫌な青年の次の言葉を、童心のように心待ちにしているようだった。
 耕三郎はちょっと困ったように小首傾げ、改めて祖父に対面すると、こんなことを言った。

「軍は国の一組織。組織は意思を持つべきではない。その意味において私が意見すべきことは何もないが、今後、ただの組織の意見がまかり通ることになるとすれば」

 耕三郎がふと顔を上げた。

「わが帝国陸軍は、根本から勘違いの組織となる。それが、国を滅ぼすことが無ければよいと、今はそう思います」


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「めらんこりあ」(3)





 目が覚めた。ここが北条と名乗る男の家であること、隣で寝ている母娘はその妻子であることを思い出し、ため息をついた。すっかり厄介になってしまった。容易にこの家を出られない。明恵は義理深い。風呂と寝所の面倒を見てくれた篠と、朝重の袖をひいた由枝を思うと、無責任にここを離れられないと思った。朝重を引き留める理由の中に、古月の存在は皆無である。
 
 まだ薄暗い。時間でいうと、6時より前であろう。上着を羽織り、二人を起こさぬよう、そろりと寝所を抜け、廊下を渡り、玄関へ出た。そういえば、亭主たる古月の姿が無い。

 外に出ると、日差しが真横から刺してきた。春の空気の匂いがした。肌寒いが、心地いい。下町の長屋街がずっと続いていて、すでにいくつかの家で人間が今日の営みを開始していた。明恵はそれをじっと見ていた。
 どうすれば、篠へ一飯一宿の礼ができるだろうか。己の力量を逡巡してみる。正直、料理には自信が無い。当たり前だが金もない。この家を出ていこうにも、次に当てもない。どう考えても、一向に答えが得られなかった。こういう問答は嫌いだ。明恵は自分の未熟さを突き付けられて、酷く恥ずかしくなった。

「なんや、早いのう」

 声の主は、北条古月だった。近頃の「さらりいめん」よろしく、黒のスーツに帽子、革靴を履いて、シャツの襟もとのボタンは二つ外していた。風体はくたびれていたが、本人はいたって元気なようだった。

「朝帰りですか」
「なんや、『おはようさん』の一つも言えへんのか。おはようさん、明恵」

 気軽に名前を呼ばれ、しかも自分の問いを無視され、果ては自分の存在すらないかのように自宅に入ろうとする古月に腹が立ち、明恵が一喝してやろうとしたところに、古月の人差し指が飛んできて、その唇を封じた。古月はにっと笑った。

「まあ待てや。顔洗って、篠の朝飯食うたら、次の作戦会議、しよう」

 家に入ると、篠がたすき掛けで台所に立っていた。古月が声をかけると、前掛けでを手を拭き、深々とお辞儀をした。篠が荷物を預かる旨を申し出たが、朝食の準備を優先するようにともうしつかり、また小さく頭を下げた。古月は宣言通り顔を洗いに向かったようだった。明恵はその様子を見ながら、これが古来より日本の美徳とされる空気なのか、と思った。
 
 由枝が起きてきた。篠と明恵に立派に朝の挨拶をして、配膳の手伝いを始めた。そうしているうちに古月が戻ってきた。調達してきたらしい朝刊を手に、準備の進む膳の前前に腰を下ろした。朝恵も、篠に手伝ってもらいながら自分のものは自分で用意した。由枝は、毎日そうしているらしい。ようやくみな席について、朝食が始まった。篠はごはんを配膳した。

「そういえば、由枝、お前今日誕生日やんな。いくつになったん」
「はい、4つになりました」

 明恵が篠に目線を送ると、穏やかな眼差しが帰ってきた。

「何か、ほしいものあるか」
「ありません。お父さんに今日も早く帰ってきてほしいです」

 古月は茶碗をおいて由枝を抱き寄せて頭をぐりぐりとかき回した。由枝は、心からから喜んでいるようだった。これもそういうものなのか、と思った。もし自分が由枝なら、反応に困るところだ。

 朝食が終り、篠や由枝とともに台所に立とうとした明恵を古月が引き止めた。明恵は古月を一瞥したが、篠は明恵を見て微笑み、よろしくとばかりに頭を下げた。明恵は篠に恩義を感じている。彼女の異存を拒めない。

「さて、舎人雄一郎を引っ張り出す方法やが……」
「一応検めておきたいのですが、あなたは耕三郎様のなんなんです」
「なんや、馴れ初めから話さなあかんか。あれは10年前、日清の戦役でな」
「それは結構、友人、知人、顧客、商売敵、関係性は多様にありますでしょう」
「友人や」
「それは自称ですか」
「なんや、わかっとるやないか」
「寂しい男」
「おれはな、あいつを通じて、陸軍にこの会社の販路を開拓したいと思ってるんよ。あの男は若いが、おそらくこれから組織内で力を持つようになる。これから大陸と戦争するんやろ?そこに勝機があるとおもっとる」

 明恵は深くため息をついた。結局は商売のことか。国家の一大事に己が会社の利権を最優先し、しかもあまつさえ件の若い将校にどんな期待を抱いているやら。

「さすがの将校様でも、あの若さでは望みは薄いのでは。しかもあの場で「誰だ」とのたまわれたあなたですから、彼に拘らずに考えた方が効率的ではありませんか」

 私を巻き込まないでくれ、と心の中で毒付きながらあくまで彼女の正論を述べた。

「勘や」
「は?」
「せやから、勘なんやて」

 明恵は絶句した。今時女が男に惚れる際も、そんな突拍子の無い感情の冒険はしないだろう。

「惚れとるんよ、おれは、あの男に」

 ああなんだ。女が男に惚れる、あれと同じなのか。

「なんやその顔。お前もあの男に惚れてるんと違うんか?」


 
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めらんこりあ(4)

 

そこに背中の時計が9時を告げた。古月ははあ、と大きな息を吐くと、どっこらせと立ち上がった。
 その姿を、ふくれっ面の明恵が目で追った。

「すまんのう、今日は大事な商談があるんや。続きはまた後で」

古月はにやりと笑って見せた。その余裕が、明恵の神経を逆なでする。
だれが惚れているだと。恥を知れ。
奥歯をかみしめると、悔しさがこみ上げてきた。あの男より早く、舎人耕三郎に会わねばならない。そう心に言い聞かせ、明恵は襖戸を勢いよく開けた。


***


 ところ変わって、新橋。
 橋の欄干に腕を預け、汐留川を眺めているのは舎人耕三郎である。
 軍人はいかなる時でも軍服を着用しなければならない、洋行帰りの少佐がそう宣ったそうだが、耕三郎は意に介していない。自分はそこまで忠実な国僕だとも思っていないし、同僚に不忠義を咎められようと大した感慨はなかった。時代は、耕三郎のそんな感情を許している。

 さあて、これからどうしようか。

 自らの身の振りである。勘当同然で家を出て、しかし一端学問は納めねばと官費の士官学校へ入学した。そのまま連隊に所属し、日清の役に従軍して、陸大へ行って、そうして近衛連隊に配属となった。見事な昇進ぶりだ。はたしてそれは耕三郎の望むものであったろうか。いや、望む以前に、望みなどなかった。一般常識程度学ぶことができればよかった。それ以降のことは、特段考えたことなどなかった。

 ここにきて、改めて溜息などする。
 この組織の空気が合わない。
 戦場における緊張感の事ではない。確かに、8年前は大陸で人を殺した。正確には、人を殺す命令を出した。これは自分の役割で仕方のないことだと思っている。しかし、そのことで陸大へ推薦されたことや、若くして参謀本部に出仕したことが諸先輩方の嫉妬を買い、よく思わないものが陰口をたたいたり、そのたびに耕三郎を庇おうとしてくれる仲間たちがいじらしく、仲間の気持ちはありがたくとも、その構図に嫌気がさしていたことも確かだった。昇進を望んだわけではないのだ、と弁解したところで、帰って連中の神経を逆なでするだけだろう。なら自分がいなくなってしまえば万事解決。潮時だ。
 そうして、相談相手として浮かんだのは、かの奇人、近衛師団長白河川修だった。あの食えない顔が、耕三郎の悩みをまともに聞いてくれるだろうか。にこにこと相槌を打ちながら、さらに窮地に追い込むのではないだろうか。それ以前に、あんなのでも師団長閣下だった。自分ごときが、親しくできる相手ではない。耕三郎は再び肩を落とす。先など考えてもいなかった耕三郎が唯一明確に出した答えがある。陸軍を辞める、ということだった。

 辞めてどうしようか、そこまでの考えには至っていない。
 陸軍という内輪で、官費を糧に生きてきた自分が、ここにきて職を得ようとは虫のいい話だと思う。その気持ちがある限り、どんな職についても長くは続かないだろう。いや、そんなことを言っている場合ではないか。とにかく職を得て、自分ひとりくらい生きていけるくらいは稼がなくては。

 耕三郎の丸い背中の後ろを、さまざまな人が往来している。自分はその中の一人にも成りえぬと、耕三郎は本日3度目の溜息をついた。

 そんな自分を見つめる強烈な視線を感じ、ぞくりとした。上官だろうか。普段着のままでいる自分を見咎めて、この往来で怒鳴りつけるつもりだろうか。
 そんなことをされては困るので、一応弁解しようと、視線に向き合った。するとそこにいたのは、先日麹町の門前で取りつかれたように耕三郎の名前を叫んでいた女だった。

「将校ともあろうものが、私用であろうと、軍服を着用せず出歩くなど……!!」

 まさかこの少女からそのような罵声を浴びようとは。二人の緊張状態に気が付き始めた聴衆が、こちらを向きつつ、声を潜めてなにかを話している。これはまずい。上官に怒鳴られるよりずっとまずい。
 第2声を発しようと息をすった明恵の口を押え、半ば抱きかかえるようにしてその場を後にする。背中に好奇の視線を感じながら、とりあえず新橋駅広場までやってきた。

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めらんこりあ(5)

 

わき腹でばたばたしている明恵を下ろすと、即座に眼下に詰め寄られた。

「わ、わかった、話をしよう。そこのカフェに入ろうか」
「給仕だあ?年かさのいかぬ女をカフェなどと、公衆の面前でなんたる恥知らずが!」

 なんなんだこの娘は。これでは、頭の固い上官どもと同じではないか。
 いや、とにかくこの窮地を脱したい。が、この娘から逃れることは難しいようだ。娘はどうやら話がしたいとのことなので、それが果たされれば解放されるだろう。とにかく、ゆっくり話ができるところに場所を移動したいところなのだが……

「別にやましいこともなにもなかろう、君、カフェに入ったことはあるのかな」
「あるわけがない!そんないかがわしいところなど」
「そうではない、いたって健全な飲食店だよ。そうだ君、のどが渇いただろう、コーヒーを飲んでみないか」
「苦いものは好かない。ヒギンスの紅茶なら付き合ってもいい」

 そういえばこの娘、山方卿の孫娘だったな……。
 ヒギンスがなにものかは知らぬが、取り合えずこの場を収めてくれたことに、感謝などすることにする。





 からんとドアの鈴がなって、女給がいらっしゃいませと出迎えた。
 店内は、大きな窓からの光もあって明るい。カウンターテーブルにに5名、大きな丸テーブルや、ボックス席などもある。店内には20名くらいの客がいた。有閑マダムや学生が多い。コーヒーとたばこの匂いが店内を漂う。
 耕三郎と明恵はボックス席に案内された。メニューを預かり、先に明恵に案内をしようとした。が、その眼は「先ほど具申しただろうが」という気迫に圧倒されたため、特段改めることもなく、コーヒーと紅茶を注文した。紅茶がヒンギスかどうかを聞いてみたが、女給は知らないと答えた。
 
「さて、何から話せばいいのかな」
「今日は非番なのですか。あそこで何をしていたのですか」
「非番だよ。ただ、考え事をしていた」
「考え事?来るべき欧州戦争への備えについて?」

 耕三郎はやれやれとひとつ大きなため息をついた。そこにコーヒーが運ばれてきた。
 耕三郎にとってコーヒーは、英国留学の成果である。短い連隊勤務のあと、イギリス王立軍学校へ留学し、戦術や組織を学んだ。そこでできた人脈とコーヒーの味が、耕三郎にとって留学の「成果」であった。

「まずすまないが、ええと……、明恵さんでいいなかな。明恵さん、いつか、お会いしたことがあったろうか」

 明恵はがん、と机をたたいた。いれたての紅茶の水面が揺れた。  

「会ったことがあるとか、無いとか、そういう問題ではないのです!あなたほどの将校が、なぜ!新橋の欄干でひなびた顔で水面をにらむ必要があるのですか!しかもこんな真昼間から!いいですか、清国との戦いから10年、中原への進出をもくろむ列強といよいよ一戦交えるか否かというこの大切な時に!あなたは!いったい!何を!考えていたというのですか!!」

 耕三郎は目の前に実に見目麗しい娘の発する強烈なセリフの数々に圧倒されながら、これはなんだろう、と考えた。
 この娘は自分に一体何を求めているのだろう。ここで気の利いた国策の理想や愛国心を鼓舞するような言葉を並べたら、彼女は満足するのだろうか。
 いや、と耕三郎は考えた。まだ数回、会話を交わした程度だが、彼女の利発さは確かなようだ。気が狂っているわけではなく、彼女はいたって彼女自身の静かな海から、その熱情を迸らせている。
 ということは理解できても、やはりこの娘の主張に、自らの感情を寄せることはできない。

「何を考えていようと、私の勝手だろう。君こそ、人に勝手な理想を押し付けようとするの、やめて貰えないか。君に私がどう見えているかは知らぬが、私は君が思っているような奇特な人間ではない」

「いいえ、そんなことはありません。あなたは、この国に必要な人材です」

「一体何を言っている」

「耕三郎様。あなたは仰いました。意志を持つ組織の危うさを。新たに台頭しうる近代国家のあるべき姿を。互いを食い合う帝国主義の列強に習わず、私たちは新たな秩序を作り上げねばならないのです。烏合なる組織の中ただ一人、あなただけは、その熱の外で、大局を見据え、そして正しい道へ導くことができる。こっちを見て、耕三郎様。私は、それを成すのはあなただと思っている」

 いったいおれに何を見ているというんだ、この娘は。
 ずいぶんと美辞麗句を並びたてられたようだが、それらもいまいち耕三郎には響かなかった。自分とは最も遠いところにあるような世界だった。
 
「おや、これはこれは」

 思考停止に追い込まれている耕三郎と、ふくれっ面の明恵の席に、青年が一人寄ってきた。
 気が付いた明恵が、驚き、身を引いた。どうやら知り合いのようだ。

「ごきげんよう、明恵嬢。こんなところでお会いするなんて奇遇ですね」
「ごきげんよう」

 さきほどまでの勢いが嘘のように、唇をぴったりと締めて、そっぽを向いてしまった。

「相席、いいかな?」

 青年は周りに目を配し、座る席がないことを主張した。耕三郎としては願ったりだ。これで明恵も少しは静かになるだろう。早いところ場を落ち着けて、この場を離れたいところだ。
 あとから一人、トレーに紅茶を運んできて、青年の前においた。彼は「君も掛けたまえ」と勧めたが、丁寧に辞去し、その場を去った。

「失礼。私の事は『クルス』と呼んでくれ。君にとっては、はじめましてかな?」

 明恵が驚いたように顔を上げた。
 『クルス』はそれを制して、耕三郎に握手を求めた。

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めらんこりあ(6)



 訝しがりつつ、耕三郎は握手に応じた。

「まあそう睨むなよ。せっかくの男前が台無しだぞ?」

 明恵は離席したそうにむずむずとしてる。が、クルスが通路側から体を入れ込んでおり、それはかなわない。
 
 クルスと名乗ったその男。年の頃は耕三郎とそう変わらないか。20代後半から30代前半といったところ。薄い鼠色のツーピースのスーツをそろえていて、握手の前に帽子を外し、ステッキは控えの男に預けている。控えの男はいまいち印象に残っていない。年は取っていないと思う、この男のお付きだろうか。その程度。
 昨日の商人といい、昨日から得体の知れない人間に付きまとわれている。何なのだ。厄年か。
 まあいい。適当に切り上げよう。

「待ちたまえよ耕三郎。ここに明恵がいるのは、いったいどういうことか、貴様は分かっているのかな」
 
 ふいに名前を呼ばれ、気持ちが上ずった。
 その問いかけの答えは、耕三郎が一番知りたいことだ。

「お待ちになって。貴殿には何の関わりのないことですわ」
「正気で言っているのかね、愛しい姫君。君が山方さんの家を出て五日、私は君をずっと探していたんだよ。頭のいい君の事だ。理由は分かるね」

 恋人か、許嫁か。どっちにしろ、耕三郎には関係の無いことだ。明恵にいたっては、自分には罵詈雑言ぶつけていた言葉とは打って変わり、クルスとは女性らしい受け答えをしている。

「あの、退席してもよろしいでしょうか」
「そんな許可をだした覚えはないよ。ここにいたまえ」
「あんたになんの権限があって……」

 途端、明恵は手元のカップを耕三郎の顔面に向け振りかざした。
 ばしゃり、と水音が店内に響き、ずぶぬれの耕三郎に視線が集まった。

「この方を誰だと思っているの、慎みなさい」

 耕三郎はますますわけがわからない。
 思考が追いつかず、熱を持った液体を顔からぬぐうこともなく、明恵の顔を見ていたのだった。
 明恵はというと自分の行動に戸惑っているのかカップを持ったまま動かなくなった。顔がほのかに上気している。耕三郎に謝らなければならない状況だとうことは理解しているらしいが、うまく言葉が出てこないようだ。
 女給が慌てて布巾を持ってくるし、さすがにクルスも、呆然とする耕三郎に声をかけようと席を立った。席が空いたのをいいことに、明恵はカップをテーブルに乱暴に置くと、店を出て行った。からんからんとドアベルが忙しくなった。ちょうど入ってきた客が驚いているようだった。
 女給が替えの布巾を持ってくるためその場を離れると、先ほどの控えの男がどこからか手ぬぐいを持ってきた。
 脱いでいた上着は大丈夫のようだ。湿ったシャツを手ぬぐいでぬぐった。

「大丈夫か」
「はあ、いや、なんというか」

 確かに、初対面の相手に「あんた」というのはよくなかったかもしれない。それにしても、紅茶を浴びせられるほどの失態であっただろうか。それとも、この目の前の痩身の男が、いとやんごとなきご身分のお方だということなのだろうか。
 自分にはあまり感傷がないが、あの自分にも社会にも厳しい彼女なら、それだけの意味を持つということなのか。

「すまんな、そういう年頃なんだ」

 クルスは控えの男に新しいコーヒーを二つ注文するように指示をした。
 なんとなく席を立つタイミングを逃し、シャツが濡れたままクルスの話を聞くことになった。

「昨日、麹町で貴様の名前を叫んでいたそうだな」

 俺もみたかったな、とクルスはおもしろそうに笑った。

「私にはなにがなにやら、わけがわかりません。彼女も」

 あなたも、と言おうとして、クルスの顔を覗き込むにとどまった。クルスはその視線に気づいてなお、自分の素性に触れることはせず、

「なあに、簡単なことさ。彼女は貴様に惚れているんだよ」
「先日より、なにやら過度の期待を受けているのですが」
「かわいいじゃないか。あれは自分でもそのことに気が付いていないんだよ。こうして貴様に会う口実を国家論に求めるというのも、いかにも彼女らしい」

 クルスはコーヒーを一口すすり、その長い脚を組んで耕三郎に正面から向き合った。

「どうかね、あれは」
「はあ」
「嫁にする勇気はあるか」

 耕三郎は心中溜息をついた。

「あんたは、彼女の恋人か何かじゃないのか。そんなことを見ず知らずの男に聞くのか」

 クルスはわからないといった体で肩をすくめ、ふ、と口元を緩めた。

「白河川卿は、貴様のことも気にかけているようだ。俺としても看過できんのでな」
「人の恋路を遮る趣味はありません。どうぞお幸せに」

 それだけ言うと、耕三郎は2杯分のコーヒー代を控えの男に渡し席を立った。クルスは特に引き留めなかった。

「三崎」

 クルスは、控えていた男の名前を呼んだ。
 三崎と呼ばれた男は一歩下がって辞去し、会計を済ませると、来栖よりも先に店を出て行った。

 
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「めらんこりあ」(7)




 謎の少女に謎の青年(とその付き人)、そういえば昨日は謎の商人。いったい何がどうしてしまったというのか。これまで、煩わしい人間づきあいを避けてきたというのに、ここに来て、まるで事故のように引きずられているような気がする。何がきっかけだったろうか、彼女はなぜ自分の名前を知っていたのだろうか、やはり思い出せない。クルスという男も、自分の名前を知っていたな。あの二人はなにやら関係があるようだが、それは俺に何の関係もない。思考は振出しに戻る。自分は一体何をしたというのだ……。

 早く帰ろうと足先を帰路に向けると、3歳くらいの少女がぐずぐずしているのが見えた。どうやら一人だ。よくある光景ではあるのだが、少女の身の上を考えている最中、思わず視線を向けてしまった。とすると、ぐずっている少女と目が合ってしまった。慌てて目をそらして、家路を急ごうとする。
 少女の前を通り過ぎようとすると、ぐずり出す声が直接聞こえてきた。少女は、目が合った耕三郎にすがるように視線を向けてきて、背中にそれを痛いほど感じてしまい、素通りができなくなってしまった。観念して後ろを向けば、少女は泣きはらした真っ赤な目をこちらに向けていた。

「どうかしたのか」

 耕三郎の問いかけを聞き終わる前に、少女は「うわー」と泣き出した。耕三郎は子供の扱いに慣れておらず、これはどうしたものかとおどおどとしてみたりしたが、周囲の目もあるからと、とりあえず抱き上げてみた。人生経験の中の、数少ない子供とのふれあいの知識を引きずりだして、とりあえず抱っこのまま体を揺らしてみたり、「大丈夫だ」と声をかけたりしてみた。我ながら、何も大丈夫なような空気にはならなかった。
 少女はまた泣き始めた。これは困った。ここから離れては人攫いになりかねないし、とはいえここで少女を泣きやませる方法も持ち合わせてはいない。本日何度目かわからない「なぜ俺が」と心中呟いたところで、目の前の少女はますます泣いている。往来の人目が辛い。

「一人か?」

 少女は鼻をすすりながら頷き、また「うわー」となった。抱っこしている体をゆらしたり、控えめに大丈夫、大丈夫と声をかけてみる。

「ここまで一人で来たのか?誰と一緒だった」

 おかあさーん、と叫んでまた泣き出した。迷子か。これは母親を探してやらねばならないか。
 耕三郎は少女を下におろし、頭を撫でた。少女が涙をぬぐいながら顔を上げた。

「お母さんが、どこに行ったか分かるか?」

 しゃくりあげながら、少女は答えた。

「探しに行った」
「何を」
「ともえさん」

 ともえさん。ええと、本日どこかで聞いたような。

「ともえさんを探しているの」
「その『ともえさん』はどこにいるんだ」

 少女は「うわー」となった。聞き方が悪かったろうか。女の子を相手に、どんなテンションで話しかけたらいいのだろう。

「お母さんを探しに行こうか」

 耕三郎は少女の手を取った。少女は袖でごしごしと目元をふいて、おとなしく耕三郎に従った。「名前は」と聞くと、「ゆえ」と答えた。

「ゆえは、『ともえさん』を知っているのか」
「知っています。朝ごはんを一緒に食べました」
「そうか。姉か、友達か。背格好はどんなだ」

 由枝は、泣き腫らした目で耕三郎を見上げた。また、言葉尻がきつかったろうか。二の句を継ごうか悩んでいると、由枝がつながれている手をぎゅっと握った。

「ともえさんは、昨日、うちにきたよ。昨日は、一緒に寝て、今日は、一緒にあさごはんを食べて、そして、人を探すっていって、出て行ったんだよ」

 適当な店に声をかけ、『ともえさん』なる人物の行方を聞いたが、5件ほど断られたところで、茶屋でだんごを食べた。往来に面した椅子に由枝と二人腰掛け、串にささった三色の団子をほおばっている。
 由枝はすっかり泣き止んで、その口には大きい団子をほおばっていた。べったりと口回りについた団子を、先ほどの手ぬぐいでぬぐってやった。由枝は大人しく、耕三郎に顔を向けた。
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