田園都市、春(1)

 
 上野駅を降り、駅前の大通りを南に向かう。

 四月、新年度が始まるまでの数日は、こうして人通りも多いだろう。昼下がりの商店街は賑やかであった。北条古巻の前には、壮年の女が先立っている。藤色の物静かな着物にコートを靡かせ、足取りも軽いらしい。古巻はこの女のところに居候を始めて10年になる。主の名前は最上桜花。大正9年というのこの時代に、文壇では一応名の通った女流歌人である。が、本人はいつもにこにこと穏やかに笑っており、ざっくりを束ねた後ろ髪は飾り気を知らず、40も半ばを過ぎた貫録というものを普段表に出さないゆえか、こうして後ろを付いて歩いていても、傑人という空気をまったく感じさせない。春の陽気に誘われた少女のように道端の草花に話しかけ、商店街の客引きに呼び止められ、馴染みの八百屋で季節の野菜を大量に買い込む文壇の寵児の気ままに、古巻は付き合わされている。

 桜花の住まいは調布である。目黒線を利用し、歌会や出版社との打ち合わせのために東京市内に出てきているのだ。
 今日は、女性の社会進出が云々という講演会に、桜花が呼ばれたのだった。古巻は、中学校が春休みなのでついてきている。講演会の会場は講堂のようなところで行われたが、立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。つい先日、新婦人協会が発足したと新聞の紙面が伝えていた。昨今の女性の地位獲得を求める運動は、ひとつのブームのようでもあると古巻は思っている。

 そんなわけで帰り道である。桜花が買い込んだ大量の野菜や米は、後ろを歩く古巻が携えている。古巻は体格が良い方ではないから正直かなりシンドイ。日ごろから時間があれば本を読んでいることが多く、あまり外を出歩かないせいもある。家に帰れば学校の宿題をし、桜花宅の家事全般をこなし、主の帰りを待つ。桜花にそう望まれたわけではなかったが、厄介になってる以上は家のことはやらねばならぬという思いが古巻にはあった。古巻が京都の実家を離れて桜花と過ごすようになったのは、6歳になった秋のことだった。母親が死んだすぐ後の話だった。

「先生、重いです」
「情けない。男子なれば弱音を吐かずに仕事をこなしなさいな」
「……鬼」
「おや、なにも聞こえませんねえ」

 古巻は大きなため息をついた。この天邪鬼は、こうして古巻が困るのを見て喜んでいる節がある。古巻にしてみれば暖簾に腕押しである。10年も寝食を共にしていれば、それが悪気のない悪戯のようなものであることも理解はしている。納得しているわけではないけれど。
 
 最上桜花、本名を桔華という。古巻の父親と3つ離れているので、今年42になるはずである。
 古巻と桜花は、いとこである。桜花の祖母と、古巻の曾祖母が同じ。この曾祖母が、先代、北条桜花である。
 短歌の血脈である「桜花流」は、始祖を平安時代の歌人として、門下の弟子がその名前を受け継ぐことで時代をつないできた。血脈と言っても、直接的な血の繋がりがあるわけではない。当代が自分の門下、もしくは近い人間関係の中から創作の実力のみならず、その人柄や行いをみつつ指名してきたのだという。何が基準かと問われれば定かではない。強いて応えるとすれば、それは当代の「目」であった。桔華も、祖母廉の目で、新しい「桜花」を襲名することになった。そろそろ10年になる。

 最上桜花の実力は、先代の見込んだ通りだった。そもそも、室町期以降、桜花流の継承者は水面下に潜ってしまったような状態であったのだが、明治に入って、先代北条桜花が歌壇にて再評価の流れを作った。著しい西洋化の時代の中で、古来の日本文化が再評価されるという背景も大いに絡んでいたことにも由来する。それを受け継いだのが、最上桜花だ。正岡子規以来、俳句が歌よみの主流であり、短歌は上流階級のたしなみものという印象が持たれた時期もあったのだが、桜花とちょうど同じころ、与謝野某という女流歌人が色艶のある歌集を発表したりして話題となった。文明開化の波は封建社会の中に抑圧されて生きてきた女性の「解放」にも及び始める。桜花は、若くして家を出て女一人で日本中を歩き、当時男社会とされた歌壇会でも異彩を放つような作品を発表したし、また、社会の構造に対しても臆せずにものを言えるような女性であった。桜花が世間に認知されるのは、その言葉の含蓄にあるのだと古巻は思っている。今の生活を壊せというでない、過去を否定しろというのではない、「あなた自身が変わりなさい」と穏やかに自立を促す語りかけ。そしてそれは、彼女自身の経験に裏打ちされているからこそ、説得力を持つのだろう。それが彼女自身のどんな過去からきた話なのかはわからないが、まあそれでも、文壇だけではなくて、今を生きる女性たちの羨望ともなりつつあるこの不思議な主のことは、名実ともに兼ね備えた実力ある人間なのだと古巻は考えている。しかしそれはあくまで客観的な話であって、古巻個人の感情とはまた別のところにある話ではあるのだが。

 さて、そんな主は、表通りを一つ裏手に入って、バラック街を進み、その中央に開かれた小さな広場のようなところに歩みついた。
 古巻を促し、荷物を降ろさせる。表通りと違い、小さな長屋がいくつも連なって日の当たりも悪く、何よりも異臭がする。いったいここはなんだというのか。 

「선생님(ソンセンニム)」
「선생님이 왔다 (ソンセンニムが来た)」

 家とも小屋ともつかぬ建物から、ぞろぞろと人が集まってきた。
 身なりは、よくない。皆、辛うじて衣住を保持しているという状態だ。
 古巻は状況が理解できずに身構え、息を飲んだ。それにしても目の前の桜花は何やら腕まくりをしている。

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2012/07/02(月)
4、田園都市、春

田園都市、春(2)

 住民たちが運んできた打ちっぱなしの木の台に、風呂敷を広げる。古巻が運んでいた大根やほうれん草などの食糧はその隣の籠に入れるよう指示を受けた。すると、普段家ではほとんど包丁を持たない桜花が、慣れた手さばきで包丁を振るい始めた。広場の真ん中では急ごしらえの竈に女が三人して火を拵え、大きな鍋をいかけていた。

 振る舞いでもするのか。
 朝鮮人街(ここ)で。

 10年前に、日本が韓国を併合して後、かの国からの入植者は格段と増加した。閉塞した韓国国内の状況から脱しようとしたもの、日本人によって連れてこられたもの、渡航の理由はそれぞれが持ち合わせているのであるが、それにしても、日本にわたってきた「朝鮮半島出身者」はほとんど例外無く、日本国内では厳しい対応を迫られているのであった。それは帝国主義との対外戦争を経て、欧米諸国を意識した、アジア諸国への日本人の「認識」というものに他ならない。その中でも台湾に続いて属国となった朝鮮半島については、日本がかつて経験したこともないような血と、国民の忍耐力を持って勝ち取った領土とあって、それは盟主国として被支配国に持ちうるべき尊敬や民族へのまなざしからかけ離れたものとなりつつある。それはいままで抑圧されていたもの――それは瓦解以前の封建的社会制度にも大きく起因している――から解放された、人間の心理としてもっとも素直なものであるのだろう、と古巻は思っている。古巻自身は特段、「半島出身者(かれら)」に対して抱いている感情は、無い。あるとすれば「悲愴だな」と、対象から至極遠い場所から眺めているような感想のみである。
 新聞や雑誌でも、「日韓同胞」などと宣伝されているのを見るが、時代の空気は日本人が朝鮮人に親しく声をかけることを許していない。支配国民と被支配国民は明確に区別され、かつそれらしい振る舞いをすることが求められているのである。生かされず、殺されずの状態でこのようなバラック街に押し込められている彼らに、桜花はこれから豚汁でも振舞おうというのだろうか。古巻が手を出そうか悩んでいるうちに、桜花はてきぱきと大根とほうれん草、シイタケ、人参を捌き、鍋に流し込んだ。豚肉の包を広げた若い女たちが歓声を上げていた。彼女たちは桜花に笑顔を向けると、それに包丁をいれ、一口分の大きさにしてこれも鍋に入れた。大きな鍋は蓋をされた。しばらくすると湯気が蓋をぼこぼこと叩き始めた。

「ほらほら、なに突っ立ているんです。お味噌の用意をしてくださいな」

 鍋番をしている桜花が、おたまでびしっと古巻を指した。古巻はちょっと面食らいながら、先ほど購入してきた味噌を適量とって、桜花の元へともっていった。煮干し出汁に味噌がふうわり溶けると、バラックの街中から茶碗をもった住人達が集まり始めた。30人はいるだろうか。
 桜花本人の口からはなにも聞かされぬまま、古巻はそうして住民たちへ豚汁を配ることを手伝わされた。古巻は勝手に、ありあわせの自分の知識を縫い合わせながら、「日本に来て仕事などでも不遇の扱いを受けているのだろう彼らに、桜花なりの慈善行為をしているのか」などと推察してみた。だがなぜわざわざ、上野までくる必要があるのだろうか。住民たちの反応からすれば、桜花はたぶんここにくるのが初めてではないのだろうし、そもそもなぜ、朝鮮人への貢献などと考えたのだろう。メディアを賑わせているのは昨日今日の話ではないし、そもそも、かれらへの支援がもし周囲に知れれば、桜花自身への風当たりはおそらく強くなるだろう。少し前に上流階級に貴婦人らに好まれた「ボランティア」とは、どうにも趣が違う気がする。
 などと思考を巡らせている間に、桜花に茶碗が二つ乗った盆を付き出された。自分は追加分を作らねばならぬから、あるところに届けてほしいという。

「いらぬと言っても、必ず食べるよう申し付けてきてください。特にオモニの方。あ、これ薬です。くれぐれも、お願いしますよ」

 桜花と鍋を取り囲む熱からぽいと放り出されたような形になり、古巻は桜花からの言伝をもう一度反芻した。この盆の行く先はバラック街の中でもさらに裏手の小さな小屋に住む母娘だということ。母親は重い病気で動けず、娘が世話をしているがその娘はここまで食事を取りに来ないのだという。なので、古巻が桜花の名代として、食事と薬をそこまで届けなければならない。
 
 ただ食事を届けるだけなのに、桜花が「くれぐれも」と念を押したことが古巻の中では引っかかっている。母親は病気で食が進まないということなのだろうか、それとも別の問題なのか。たいして深く考えることもせず、古巻は支持された母娘の住む小屋へと向かった。

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2012/09/05(水)
4、田園都市、春

田園都市、春(3)

 *

 そうだ、おれに料理を仕込んでくれたのは、先生だったといまさらのように思い出した。古巻が5歳のころに桜花の元に引き取られ、それからしばらくは彼女のつくる飯を食った。まだ名前も売れ始めのころの桜花は、今よりも仕事を効率よくこなすことができずに、慣れぬ育児と、出版社とのやり取りなどに毎日精神力を費やしているように見えた。ある日突然母を失い、それとほぼ同時に父の従兄妹である桜花の元に引き取られ、実家のある京都から東京に越してきた古巻もそれは同じことで、桜花とまともに向き合うこともせず、不機嫌を丸出しで、聞き分けもせずによく大声で泣いていたりした。その古巻の扱いが分からぬ若い桜花は、締め切り直前の原稿を手元に引き寄せながら、おろおろとしながらも古巻にさまざまと声をかけ続けていた。その多くに、幼い古巻は応えることもしなかった。ただそうして二人で強情を張りあって飯の時間が近づいて、「さあ今夜はおそばでも打ちましょうか」などと、桜花は一人ごちて台所に向かう。ばったんばったんという音を聞いているうちに、そば好きな古巻は泣きっ面を引っ提げてその様子をのぞきに行くのだ。桜花は家の料理には必ず、京都の醤油を使う。これは古巻の実家でも使用しているものだ。だしを取り、この醤油で味を調えるころには、古巻はもう意地の張り合いのことなど忘れている。桜花によって手際よく切りそろえられたそばがどんぶりに入れられ、だし汁がかけられると、そこに大根おろしを乗せて分葱をまぶすのだ。それを、桜花とそろって啜った。どうしようもなく、旨かった。
 今にして思えば、締め切りがあれだけ迫っているのにそばを打つとか、もし今現在の桜花がそのようなことをしようものなら古巻が悪態の一つでもついているような場合なのであるが、それが桜花なりの古巻への「仲直り」宣言だったのだと思うと、昔から変わらず不器用なひとなんだな、と思う。京都の最上の実家では、当主の娘でありながら妾腹だった桜花は、使用人同然の扱いを受けていたと聞いている。当然、古巻が実家に戻るたびに最上家のその空気を感じていたし、桜花が京都へ帰りたがらないのもそれが大きな要因であるのだ、ということも古巻は理解していた。今のように桜花が名声を得ても最上家の対応が依然のままで、むしろ年を経るごとに埋めがたい溝となっているような気さえする。それは桜花の生まれが妾腹という以上に、公にはなっていない古巻の父親と桜花の、親密な関係のあるのだろうということにも古巻は感付いている。

 古巻の母親は、古巻が5歳の時に自ら首を括った。
 当時の古巻は、それが父親と、この従兄妹にあると思っていた。

 だから頑なに桜花を拒んだのだ。それに、先代桜花は古巻の祖母にあたる人であり、誰よりも敬愛していた祖母の名を、母を殺した女が名乗るのはおかしいと、幼い心に感じていたのだ。古巻は桜花をその名で呼ばない。今となっては当時のような頑なな感情はさまざまな人間関係を知るごとに薄れてきているのであるが、彼女を「桜花」と呼ばぬことに関しては、それがまるで破ることの許されぬ願い事のように、今日まで続いている。

 *

 そんなこともあったなあ、というのが、今の古巻の本心である。10年共に過ごせば、同居人は敵というより親というより、「生きていくための共謀者」という感じがする。今さら京都の実家に戻るつもりもないし、学生であるうちは食わせてもらわねばなるまい。毎日、あちこちに飛び回って講演をしたり歌会を主宰したり自らの創作に傾倒しなければならない桜花も、家の中のことを古巻に任せることで、その職務に邁進できている。結局のところ、古巻は桜花のあのそばにやり込められたのだ、と思う。日々の食事を古巻が用意するようになった今でさえ、あの味を再現することはできない。目の前の盆に並ぶ二つのどんぶりから、旨そうな湯気が立ち上っている。口にせずとも、まだ自分はこの味には到底、及ばないのであろう。それは悔しいので口には出さない。今はまったく料理をせぬというのに、ここでこれだけの腕前を披露されてちょっと腹が立つので、今夜は自分の得意料理でこの苦手意識を払拭したいと、献立を巡らせている。

 と、その瞬間に、たらい桶が古巻の額を直撃した。
 反動で、盆の上の豚汁が波打ち、とっさに盆を持ちかえて、全滅だけは免れた。訳も分からぬまま体制を立て直すと、体中が怒り心頭の少女が、まさに桶を投げ終わった姿勢のまま古巻を睨み付けていた。

「性懲りもなくまた来たのか!日本人め!」

 今にも噛みつかんとする勢いで、少女は古巻にまくし立てた。
 桜花のお使いの先とは、どうやらこの娘の家であるらしい。

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2012/09/06(木)
4、田園都市、春

田園都市、春(4)

 先ほど桶が直撃したこめかみのあたりが、今さらずきずきと主張を始めた。
 なるほど状況を理解し始めたことで、脳が冷静な判断を行えるようになったということなのか。

「ええと、ここはソンさんの家で間違いないですか」
「間違いはないけれど、あんたに用はないから!帰って!」
「あんたが用がなくとも、おれにはあるんだ。先生が、これをあんたたちに食ってほしいそうだ」

 ここに置いておくからと盆を下げたところで、少女がそれを蹴り飛ばしそうな勢いで向かってきたので断念した。つかつかと古巻の近くまで来た少女は、古巻の肩ほどまでしかない身長ではあるが臆することもなく顔を上げて、古巻と対峙した。

「いらない。帰って」
「人の親切は有難く受け取るものだぞ」
「日本人の施しなんていらない。そんなものにあたしは騙されない」

 見た目は10歳を出たあたりの少女である。少なくとも彼女よりは年上に見えるであろう古巻に対して、遠慮をするというふうもない。この時代において、半島出身者が日本人に不審を抱くことは致し方がなかろう。しかしこうにも面と向かって嫌悪感をあらわされると、それはそれで心に響くものがあった。国中の空気は、こんなこどもにも不安を与えているのか。それは気に留めておかねばなるまいな。

「そうかい。じゃああんたは食わなくてもいいから、あんたの母親に食べさせてやってくれ。これ、先生から預かった薬だ。頼んだぞ」

 少女は差し出された薬を盆ごと払いのけた。どんぶりがひっくり返り、煮汁が土にすわれていく。
 これには古巻も少々頭に来た。事情はあれど、桜花の好意を無下にしたことには、一言言っておきたいと思った。

「言っておくがな、確かにあの人はちょっと抜けてるところもあるし、おれの失敗をこっそり笑ってるようないやなとこもあるけれど、人を見る目とやっていることは確かなんだ。なんで先生が朝鮮人と関わろうとするのかおれには解らんが、少なくとも見栄だの偽善的な慈善行為ではない。あんたが先生の何を知っているかは知らんが、先生が日本人だという理由で根拠なくつっぱねているんならな、直接先生の顔見て、食事も薬もいらぬといったらどうだ。あんたが今やったことは、あんたが嫌いな日本人がしていることと何も変わらんのだぞ」
「うるさい、日本人があたしに指図するな!」

 大人げないと自覚しながらも、つい声を荒げてしまい古巻の方も感情の引っ込みがつかなくなっている。先ほど強打されたこめかみは痛いし、わけもわからぬまま少女に罵声は浴びせられるし、何よりも平穏に過ごしたい古巻の春の昼下がりは台無しだ。あげく、桜花のお使いもこのままでは遂行できない状態になってしまう。少女と取っ組み合いのけんかを始めたい衝動を必死でこらえて、古巻は奥歯を食いしばった。相手はこども。相手は女の子!ここで自ら引くのが大人というもので――。

「スヨン」

 小屋の奥からか細い女の声がした。向こうの言葉のようで古巻には何を言っているのか正確なところが分からなかったが、どうやら少女に来いと言っているらしい。ごほごほと咳き込んでいる様子である。
 少女は去り際に古巻に視線をひとつ送ってよこした。まだ話は終わっておらず、おそらく彼女自身も訴えたいことはあったはずで、それを中途半端に幕引きすることへ後ろ髪をひかれているようだった。しかし例の声が重ねて少女の名前を呼ぶと、年相応の明るい声で返事をして、くるりと身を翻し、小屋の中へ入っていった。

 地面にぶちまけられた豚汁。
 あの様子では、おそらく食べることもままならない生活が続いているはずだ。強がってはいるが、病床の母親を抱えて満足に暮らしているとも思えない。古巻は体中の空気を入れ替えるつもりで大きく深呼吸をし、今度はやかんでも飛んでくるかもしれないと心積りをして、小屋の入口をくぐった。

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2012/09/07(金)
4、田園都市、春

田園都市、春(5)

 やかんは飛んでこなかった。
 家の中は光り取りの窓も無かった。うちっぱなしのトタンからはクギも飛び出しているところがある。床はない。土間のような地面に、草履のまま入る。6畳ほどの広さに、壁の隙間から辛うじて光がさしていて、その奥に人影が見えた。地面に藁を敷き、その上に布団をひいて、少女の母親は横たわっていた。

 古巻に気が付いたスヨンが立ち上がろうとしたところを、後ろから母親が引き留めた。古巻はちょっと身構えて、「勝手に入ったことは謝る」と言った。母親の制止があるので、スヨンは古巻を睨み付けたまま動かなかった。
 古巻が枕元に膝をつくと、スヨンの母親は起き上がろうとした。古巻が遠慮する前に「だめだ、寝ていなければ!」というようなことを、向こうの言葉で叫んだのはスヨンだった。おそらく母親は「かまわない」ということを口にしたのだろう。スヨンもそれ以上は強く言わず、その空気を察した古巻は母親に手を貸してやった。これだけでも、本人が無理をしているだろうことは古巻にも見て取れた。

「きょうは、もがみ先生は、いらっしゃらないのですね」

娘よりもたどたどしい日本語で、母親は古巻に笑いかけた。

「いえ、そこまでは来ているんですけれど。ちょっと手を離せないからと今日は名代を言使いました」
「では、あなたがこまきさんですね」
「はあ、どうも」

見ず知らずの人間に名前を呼ばれると、何か気恥ずかしい。無意識に視線を逸らしたのだが「なに照れてんだよ」とスヨンにくぎを刺された。

「うちにはゆうしゅうな家政婦さんがいるのだと、先生はいっていましたよ」
「家政婦……」
「そうだ、スヨン、そこのものを」

 この家に唯一ある家具は小さな三段の箪笥で、母親はそこを指差した。するとスヨンはかっと気持ちを上気させて、「필요는 없다 (必要は無い)!!」と叫んだ。

「どうしてそんなことするんだよ!こいつらが勝手にやっていることだろう!?これは明日、オモニに薬を買ってくるお金なんだ!」

「いつもいただいているお薬のお代、本当はもっとお支払しなければならないものなのよ。それを最上先生のご厚意でこれだけにしてもらっているの。その上、お食事まで用意していただいて。きちんとお礼をしなければいけないわ」

「いやだ、これはアボジが送ってくれた最後のお金なんだ!なんで日本人に差し出さなくちゃいけないんだ!」

「聞き分けなさい、スヨン!」

 びくりと身体をすくませたスヨンは、言い返すこともなく母親を見詰めていた。古巻は、言葉は分からなかったがなんとなく内容の見当はついた。二人のやり取りを黙って眺めていたが、やがてスヨンは、何事かを言い残して外に飛び出していった。やれやれと思う間に、母親がごほごほと咳き込みだした。

「大丈夫ですか」
「こまきさん、あそこに、お金が入っていますから、どうか、とってください。本当は、わたしが直接、おわたしするけど、今は、あそこまで」
「薬の代金か何かですか。先生にはそのようなこと申し付かっていません。本人が来たときにでも話をしてください」

 母親の言葉は胸の奥からこみ上げてくる咳によって何度も遮られた。母親の背中をさすりながら、古巻はそんなふうなことを言った。部屋のすみに水かめがあったので柄杓を取り、ふたを開けた。おそらく、共同井戸からスヨンが今朝運んできたのだろう、かめの容量の半分ほどの水が水面を打っていた。
 豚汁はスヨンに叩き落されたが、薬の方は紙包装で、少し土を払えばまだ使用できそうだった。用法を確認し、柄杓で水を運んで母親の口に含ませてやった。少しすると、大分落ち着いてきた。そこで改めて引き出しの金を進められたが、古巻は丁重に辞退した。かわりに、さきほどこぼした豚汁の代わりを持ってくるからと、その場を辞去しようとした。

「わたしはいいです。スヨンにあげてください」

 自分はもう長くありませんから、と母親は言った。

「そんなこというものではありませんよ。たぶんまだありますから少し待っていてください」
「いいえ、ここへはもう来ないでください。もがみ先生にもそう伝えてください」
「はあ、しかし」
「薬、ありがとう」

 カムサハムニダ、と言って母親は手を合わせた。古巻も軽く頭を下げた。顔を上げると、母親の足元に洗濯前の衣類が溜まっているのが目についた。大量の血液で汚染されていた。
 古巻の視線に気が付いたらしい母親は、古巻の推論を肯定するように一つ頷いて、「出て行ってください。これ以上、わたしをくるしめないでください」と力なく呟いた。古巻は、自分に絡みつく感情を断ち切るようにしてその場を後にした。足元には、ぶちまけられた豚汁が広がったままだ。

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2012/09/08(土)
4、田園都市、春

田園都市、春(6)

 古巻が中央の広場へ戻ると、桜花は調理道具の片づけに入っているようだった。
 先ほどの事情を話すと、特段驚いた様子もなく「そうですか」といい、たすき掛けをとり、結わえていた紐と洗っていない鍋を古巻に押し付けた。

「おれの話きいてましたか、あの母親は自分が労咳だって知ってて、先生に来るなって言ったんですよ」
「ええ分かっていますよ。それでは、この場はお願いしますね」

 あの顔は絶対に分かっていない。
 引き留めはしたが、古巻は追いかけることはしなかった。桜花は、一度言い出したら譲らないことを古巻は良く知っている。


 ***


 調理道具の片付けが終わる頃、桜花は戻ってきた。
 片付けは、住民の女たちが手伝ってくれた。言葉は分からなかったが、彼女たちはにこにこと始終笑顔だった。桜花が帰ってくるのを見ると、今度はこどもたちが帳面のようなものを持って駆け寄ってきた。桜花はここで日本語を教えているようだった。

 日が暮れるころ、桜花に教えを乞うていたこどもたちと数人の大人たちと分かれた。こどもたちは元気に手を振っていた。桜花はそれに機嫌よく応えていた。
 古巻の荷物は、桜花の数冊の本と矢立のみである。大根だの米袋を抱えていた先ほどより、ずいぶんと気楽になった。あれだけの大荷物を抱えて国鉄に乗るのは、正直気恥ずかしかった。しかし家の僅かしかない食糧を思い出し、それであと三日過ごさねばならぬことを思うと、また気が重くなってきた。あれだけ食糧を買い込んだなら、少しくらい家の分を取り分けてくれてもよかったのではないのか。
 当の家の主は夕日に向かってううんと背伸びをしていた。本人にとっては、今日もとても充実していたのだろう。古巻の中には、さまざまな疑念疑問がうっ積しているというのに。

「ああ今日もたくさん働きました。今晩の御夕食はなんでしょうか」
「めざしです。一人一本。だれかさんがさっき食材全部使っちゃうから」
「わたしは、めざし好きですよ?」
「三日ほど続きますけど」

 精一杯の皮肉を込めているのだけれど、桜花は聞いているのかいないのか、精神的にダメージを与えられているとは思えない。古巻は一つ溜息をついて、その背中を追っている。桜花と、さっきのバラック街の住民との関係のこと。スヨンと、その母親のこと。聞きたいことは山ほどあるが、今聞いたところではぐらかされるのだろう。この人と一緒に住むようになって、10年になる。この人が、古巻に対してどんな人間なのかを知っていても、この人自身のことを古巻は何も知らない。知りたいと考えたこともなかった。父親の愛人。母親の敵。そして、祖母の名を語る当代桜花。そのすべてが好意とはかけ離れたところから始まっている。この、得体のしれない歌人について何かを知りたいと思ったのは、これが初めてかもしれなかった。彼女が、なぜ朝鮮人と関わろうとするのか。なぜ、かれらを援助しようとするのか。なぜ、今日は自分を同伴したのか。
 
 電車を乗り継ぎ、最寄で降りた。ここ調布へは、2年ほど前に田町から越してきた。「田畑を眺めて暮らしたい」と、桜花が引っ越しを決めたのだ。先だって線路も開通していたため、東京市内へのアクセスも悪くない。市街地ほど建物が密集しておらず、いくぶんか時間も穏やかに流れているような気がする。が、この調布から目黒にかけて、大規模な開削と分譲が始まっていた。郊外に居住地を作り、東京市の人口密集を解消しようと、関西から技師が呼ばれているという話だ。新聞にも連日、今日はどこ、昨日はどこと、この近辺に線路敷設の認可が出たと報じられている。欧米にならい、ここ東京の郊外にも「田園都市」が形成されようとしていた。
 よって、桜花と古巻がここに移住してきたころよりも、人の数が増えた。電車を降りて、プラットフォームに人波ができるようになり、古巻もそれを肌で感じるようになった。とくに、中学に通う朝のラッシュは、低血圧の古巻には相当辛い。電車の中で安息の通学時間を過ごしていた日々が懐かしい。今は席に座ることもできず、電車のドアが開くとそこに人波が流し込まれ、ビンの蓋のように車内に押し込まれる。無言のサラリーマンたちが、えも知れぬ空気を形成している。自分も将来こんなふうになるのだろうかと思い、ならぬためにはどうしたらいいだろうかと考える。自分は気楽に文筆屋にでもなりたいと思うが、桜花を見ているとそう気楽に自分の中に籠ってもいられなそうで、思考はだいたい振出しに戻る。
 気楽ではない。むしろ、桜花は何かを背負い込むようにして仕事をこなしているように見えることがある。創作稼業は、本来自分の中に溢れることばの泉を、人の目に触れるよう形にする作業だ。それは良作を作り出すという意味で自分に負荷を与えることはあるのであろうが、心の深部では、創作そのものを厭ってはいない。好きだからその道をすすんでいけるのであって、それが他人の目に留まることがあるのだ。だが、桜花は自分を常に窮地に追い込むことによって作品を生み出しているような気がする。自らが幸せであることを是とせず、苦境の中から一筋の細い糸を手繰るようにして作品を紡ぐ。普段古巻や、周囲の人に見せる顔はあっけらかんとしていても、自分の心の中では、決して自分を認めぬようなそんな「不幸」を抱え込み、自らの許しを請うようにつらい立場に自分の精神を追い込んでいく。古巻にはそれが、自分への罪滅ぼしでもしているのかと思うことがある。父親との関係。母への悔恨。そしてその二人の息子を預かることで、償いきれぬ罪科を背負い続けていくのだという桜花の呵責。自分自身が、桜花の罪悪感を煽る存在なのだとしたら、それはとても辛辣だ、と思った。そして自分をかつての愛人に預けた父の無神経さを思い、それを承諾した桜花の軽薄さを思い、しかしそれはおそらく、そんな単純な話ではなかったのだと思い至れるような年齢に古巻は至っている。結局思考の落としどころを失って、今晩の夕飯のめざしを楽しみにしている当の本人の小さな背中を眺めながら、強制的にそれまでの思考を排除した。
 
 そんなことより、今日の夕飯だ。このままでは本当にめざし一本になってしまう。

 自宅の門まで来ると、ふと桜花の足が止まった。ぼんやりと考え事をしていた古巻は、それにぶつかりそうになった。


「どうしたんです」


 状況を把握しきれていない古巻が声をかけるより早く、桜花が動いた。植え込みのあたりに、女が倒れている。


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2012/09/14(金)
4、田園都市、春

田園都市、春(7)

 若い女だった。
 淡い桜色の色無地も、まだ幼さの残る顔にも土がついていた。朝、家を出るときにはいなかったはずだ。どこかから流れ着いたのだろうか。
 桜花が抱え起こそうとするのを手伝って、古巻もその女に肩を貸した。辛うじて意識はあるようだった。とりあえず家の中に運ぼうというとき、腹の虫が鳴った。古巻と桜花は顔を見合わせたが、虫の主は女のようだった。うっかり、肩から女を落としそうになった。

 客間に布団をひいて、そこに女を寝かせてやった。桶に水と手ぬぐいを運んできたのは古巻だったが、女の体をふいてやったのは桜花だった。今は、女はよく眠っていた。古巻は、自分と同じくらいの年ごろだと思った。

「医者を呼びますか」
「必要ないでしょう。落ち着いたようですから」

 女の傍らに座す桜花の横に、古巻も落ち着いた。少女とも女ともつかない、それでいて艶のある顔立ちをしている。古巻はどぎまぎしている心中を恥じらい、ふと目を逸らした。もちろん桜花は、それを見逃さない。

「高ぶる気持ちは察しますが、彼女の同意があるまで手を出してはいけませんよ」
「どーしてそこまで話が飛躍するんです!」

 真顔でそう言った桜花に、心中を悟られ心穏やかにはいられずに古巻は身を乗り出してしまった。桜花のしてやったりという顔を認めたので、古巻はぐっと気持ちを抑え、話を逸らした。

「今日は人との縁があるようだ。バラック街と、この娘と」
「そうですね、そういう日もあるでしょう」
「先生、差し出がましいことは承知ですが、昼のこと、スヨンの母親は助かりますか」
「まあ無理でしょうね。今月を越えられるかどうか」
「ではなんで気に掛けるんです。本人ももう来ないでほしいと言っているんですよ。それとも、先生には直接そんなことはいわないのですか」
「スヨンが住んでいる家の一角、あそこは、朝鮮人街の中でも隔離地帯です。ミヨンさんの他にも、結核、ハンセン病、その他伝染力の強いウィルスを持った病人たちが住んでいるところ。住民たちもそこへは近寄りたがりません。では、動く力すら失った彼らは、あとは死を待つだけしかできないのかしら。せめて人間らしく食事をして、だれかとお話をして、自分の気持ちを表現する場所を提供するべきではないかしら」
「それで先生まで病気をうつされてはたまりません。先生にとってスヨンとその母親は旧知なのかもしれませんが、おれにとってあの二人は今日一度言葉を交わしたに過ぎない人間です。それに、先生はあのバラック街の他の住民や、東京での歌会や、先生の作品のファンの人にその存在を望まれているのですよ。それを知っているからおれは猶更、これ以上あの家族に関わることを推奨したくない」

 桜花は少し意外な顔をして、古巻の顔を見詰めた後、ふわりと笑った。「おやおや、わたしもあなたにこんなに愛してもらえるようになったのね」と冗談めいていい、それはそれ、これはこれなのだと古巻に一刀両断されて、そこでもやはり少し困ったように微笑んで見せた。

「なんで先生があのバラック街に拘るのかおれにはわかりませんが、それでもいくというのなら今度はおれが行きます。少なくとも、自力で飯を食えない人に飯を食わせる人がいないのは人間として不幸ですから」

 桜花は少し押し黙り、寝ている女の顔を見つめながら、「気がかりなのはスヨンのことです」と言った。

「ずいぶん日本人を毛嫌いしているようでしたが」
「前はそんな子ではなかったのですが」

 半年ほど前のことです、と言って桜花はスヨンとその母親のことを語り出した。

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2012/09/15(土)
4、田園都市、春

田園都市、春(8)

 桜花は、5年ほど前から月定例の歌会を主催している。
 雑誌「のはら」の同人や、桜花を慕う素人や学生ら20名ほどが集まって、ようするに趣味を楽しむ会である。歌会というほど改まったものでは無い。
 「のはら」同人の一人で、仙内美知女という男がいる。年のころは50代半ば、実業家であるが歌詠みが趣味で桜花と意気投合した。その仙内の家は日暮里にあって、この東京市下にあって庭があり、和洋折衷の豪邸である。その一室を、桜花の歌会のために解放してくれた。ときには小さな中庭の見える和室で、ときには短い芝生のオープンテラスで、歌会という名のお茶会は開かれた。そのお茶会の給仕をしていたのがミヨンだった。

「仙内さんは8年前に若くして奥さまをご病気で亡くしていらっしゃって、お子さんもいらっしゃらなかったから、あの広いお屋敷にほとんど一人で住んでいたのです。そしてある日、日本での仕事を探していたミヨンさんに出会った。ミヨンさんにはスヨンという娘がいたけれど、仙内さんはスヨンごと、ミヨンさんをお屋敷に引き取った。初めは、給仕として雇っているつもりだったのかもしれないけれど、仲間内では、仙内さんはおそらく、ミヨンさんと再婚するだろうと噂をしていました。ミヨンさんはご主人とスヨンの3人で日本に来たのだそうです。でも、まだスヨンが3つだった時に、新潟で出稼ぎをしていたスヨンの父親から、ぱったり連絡が来なくなった。そこでミヨンさんは日本で働き口を探していて、仙内さんと出会ったのです。
ミヨンさんは日本語はうまくなかったけれど、気が優しくて少し抜けていて、歌会のメンバーからも愛されていました。スヨンも、小さいころから母親の手伝いを良くしていました。歌会にも顔を出していたから、皆から娘のように思われていましたよ。もちろん、仙内さんもスヨンを娘のように思っていたでしょうし、実際、わたしたちからみる仙内さんとミヨンさん、そしてスヨンは本当の親子のように見えました。
スヨンは、日本語も上手でしょう。わたしたちの話にも彼女なりの考えを持って挑んでくるものだから、こちらも大人げなく、向きになって返すこともありました。そのくらい、スヨンは頭のいい子なんです」

 それゆえに、今のようにこじれてしまったのだ、と桜花は言った。

「このご時世、朝鮮の女性をもらうということに世間体もあるから籍を入れないのだろうと私たちは思っていたのです。仲間たちは、そういうことはなんともナンセンスだという連中でした。しかし、仙内さんは政財界とのお付き合いもあるようでしたから、本人が気にしなくとも、会社に影響があることを恐れたのかもしれません。そんなある日のこと、仙内さんが一人の女性を連れてきました。それはそれは美しい人で、まだお若いのに若紫の縮緬地のお着物を見事に着こなしていらしゃいました。仙内さんの娘さんくらいの年のころでしたから、ご親族の方かしらと思ったのです。すると仙内さんは『彼女と結婚することになった』というのです。わたしたちはミヨンさんと一緒になるのだとばかり思っていたのだけど、先ほどの事情もあるから、これも致し方ないのかしらと思ったものです。ミヨンさんには残念ですけれど、それでも、これからも仲良くやっていけることには変わりないと、若奥さまとのご結婚を祝福したのです」

 その若奥方が、ミヨンとスヨンの存在を認めなかった。
 彼女は、ミヨンが朝鮮人だと分かるや否や、彼女を屋敷から追い出してほしいと仙内に懇願したそうだ。父親が大の朝鮮人嫌いで、娘おその例に洩れないらしかった。家の中のことはすべてミヨンに任せているから、追い出すことはできないというと、若奥方が実家から女中を3人連れてくるから問題ないという。ならばせめて仕事の引継ぎをさせるからと仙内も食い下がったらしいが、若奥方は同じ屋根の下で寝ることはできないから外で寝せろという。仙内は仕方なく近くのホテルの一室を、ミヨン母娘に取ってやった。理由を話し、仙内としてはできる限り面倒を見てほしいという希望を伝え、同時に新しい妻がこういう状態で、今あなたたちにしてあげられることはこれが精いっぱいなのだ、と言った。

「それでも、自分を必要としてくれる仙内さんのことを、ミヨンさんは嬉しく思ったのだそうよ。だから若奥さまの連れてきた新しい女中にもきっちりと仕事を覚えてもらって、自分は身を引くつもりでいたようです。でもそれも適わなかった」

 ミヨンは体を壊した。引継ぎのためとはいえ、仙内の家に行くたびに若奥方や女中たちに彼女の人間性を否定され、存在を否定され、理由もなく毛嫌いされた。それでも、世話になった仙内への最後の奉公と言い聞かせ、彼女は体中に痣を作りながら仙内の屋敷へ通った。歌会で、顔じゅう痣だらけのミヨンの姿をみて、一同で絶句した。半月ほど前から、仙内は仕事のためにヨーロッパへ旅立ったということで姿は見えなかった。それから四日後、ミヨンはスヨンを連れて仙内の家から姿を消した。歌会の仲間内でその行方を知るものはいなかった。

「手がかりはない。でも、彼女たちが頼れる場所があるとも思えない。ずっと気に掛けておりましたら、上野でスヨンを見かけたのです。声をかけたのですが、逃げられてしまいました。追いかけて、あのバラック街にたどり着きました。そこで、痩せ衰えたミヨンさんを見つけた」

『いまさら何しに来たんだ!』

「スヨンは、裏切られたと思っているのかもしれません。父親のように思っていた仙内さんも、苦労する母親の力にはなってくれなかった。母親が人間としての尊厳さえ否定されるのは、彼女自身の能力などには一切根拠がなく、ただ母が『朝鮮人』であり、奥さまはその支配国である『日本人』であるという理由だけでこのような振る舞いが許される。彼らだけではない、この国にいる多くの朝鮮人がこのような理不尽を感じているはずです。あの子は頭のいい子ですから、バラック街で大人たちが話をしているのを耳にしたりすることで、ますます日本人への不信感を強めていったのかもしれませんね」

「なるほど、それでバラック街で炊事をすることで、ミヨンさんとスヨンのところに行く口実を作ろうとしていたんですね」

「ええ、まあ、そんなところです」

 歯切れの悪い返事だと古巻は思った。これが核心ではない様に聞こえたのだ。
 それを改めようとしたところで、桜花も古巻に何かを問いかけようとしてるところだった。同時に話し始め、同時に互いに譲った。が、古巻のほうが簡単に譲るのを諦めた。

「今日はなんでおれを連れて行ったんですか」

 普段の桜花なら、こう考えるのではないか。
 多くの日本人が被支配感情を持っている朝鮮人に関わらせるなど、後々のためによくない。桜花自身はそのようなことに頓着しないといっても、古巻の父親から息子を頼むと託されたのであって、それを危険に近づけることはできるだけ避けたい、と。

「あなたなら」

 桜花は少しだけ言葉を選ぶようにして、押し黙った。

「きっと、だいじょうぶだと思ったのです」

 その返答は、古巻の疑問を悉く解消するものでは無かったが、「さあ今日はもうおやすみなさい、夜遅くまで女性の部屋に入り浸るものではありませんよ!」とせっつかれたので、部屋を後にした。さきほどの女は、深い、静かな寝息を立てている。桜花が言うとおり、大事はなさそうだ。

 廊下に出ると、軒下から春の星が見えた。
 おおぐま座の尾は北斗七星。その向かい側のこぐま座に、北極星が見える。今は亡き人々が住まうのだと友人が言っていた。


ーーなんでだろうな、おれはおまえがそこにいるとはどうしても思えないんだ。


 心が曇ると、夜空を見上げては「友人」に話しかける。なんの科学的根拠もないが、古巻にとっては恒常的な精神の浄化作用のようなものとなっている。
 信じられるものが何もなくなる辛さを、自分は知っているかもしれないと古巻は思う。自分の感情を他人に投影して憐れむほどの相手への無礼も無いかもしれぬ。

 ぽりぽりと頭を掻いて、溜息を付く。大した方法も見つからない。 たらいをぶつけられたところがこぶになっていた。昼間のスヨンとのやり取りを思い出したらまたイラッとした。

 もう一度スヨンに会わねばなるまい、と思った。特に根拠は、無い。

 

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2012/09/20(木)
4、田園都市、春

田園都市、春(9)


 ***

 翌朝。
 まな板をたたく包丁の音で、古巻は目を覚ました。
 時計を確認するが6時前。毎朝の定刻とほぼ変わらない。桜花の起床まで通常であればあと30分はある。はて、今日は早く出かける用事などあったろうかと、早朝の動きの鈍い頭を廻しつつ、台所に向かった。
 たすき掛けで味噌汁の味見をしていたのは、やはり桜花だった。

「申し訳ありません、早出の用があるなら、言っていただけたら準備しましたのに」
「あらおはようございます。いいんですよ、今日は早く目が覚めたものですから」

 竈ではもうすぐ飯が炊ける。桜花は味噌を溶かして鍋に流し込んでいるし、古巻が付け込んでいる白菜は小皿に取り分けられて盆に載せられていた。七輪にはアジが三匹。昨日の時点ではなかったから、もしかしたら早朝、桜花がどこからか仕入れてきたのかもしれない。
 
……アジが3匹。そういえば小皿も用意された茶碗も3つずつ。

 がしゃーんと大きな音がしてほどなく女の叫び声が聞こえた。春の穏やかな朝陽に、庭に遊ぶ雀が驚いて空に飛び立った。古巻は何も言わずに音のした方を振り返る。桜花はにこにことその背中に声をかけた。

「あらまあ大変。古巻さん、ちょっと様子を見てきてくださるかしら。たぶん私の書斎です」

 古巻は半ば異議を込めて桜花に目をやった。が、それを気にする様子もなく、「いってらっしゃい」とばかりに、桜花の目は微笑んでいる。

***

 桜花の書斎。入口まで来ると、女の後姿が見えた。
 臙脂色の着物に黒い帯を巻いている。そのどちらにも見覚えがある。桜花の私物だろう。髪は束髪に束ねられていて、両耳の上からほつれ髪が細く落ちていた。
 文机をひっくり返してしまったらしい。桜花の書斎は机のまわりにさまざまな資料が散らばっているから、文机のうえの筆記用具や小物がそこに混じってさらにその状況が悪化した。女はそちらの本を取り、こちらの筆を寄せとしているが、なんとも要領が悪く、一向に環境が改善されない。そうこうしているうちに、横に陳列してある花瓶を倒してしまった。女がそれに気付いて今度は散らばった花に手をかけようとするんだけど、古巻はそれよりも早く、水に沈没しそうな書物を救い、素早く手ぬぐいで浸水部分を処置した。

「あ、あの」
「すいませんが替えの手ぬぐい持って来てもらえませんか。台所にあります。分かんなかったら先生がいますから、適当に聞いてください」

 女は古巻の言葉を聞いてはいたのだけど、それよりも申し訳ない気持ちの方が先行しているらしくなにやら訴えたそうな顔をしていたが「早くしてください、畳に水がしみこむとあとが面倒なんです!」と古巻が苛立ちげに声を荒げると、泣きそうな顔で台所の方へ走って行った。女が行ってしまった後、水没地点を手で押さえているので身動きが取れないまま、そういえば桜花も替えの手ぬぐいの位置など解らないだろうなと思った。桜花が台所に立ったのを見るのは、本当に久しぶりなのだ。そんなことを危惧していたら、女が手ぬぐいと桶を抱えて戻ってきた。

「お持ちしました…、あっ」

 女は、書斎入口の段差に躓いて転んだ。
 桜花の資料に頭から突っ込み、手ぬぐいは中空を舞い、そのうちの一枚は古巻の頭の上に落ちた。

***

 一同朝食。
 上座に桜花、下手に古巻と女が並んでいる。
 
 書斎は、あのあと手ぬぐいを変えて浸水部分を処理し、水気から資料を遠ざけて重ねておいた。てきぱきとモノを片づける古巻の様子を、後ろから女は見ていた。手伝いたいという彼女の申し出に「後にしてください」とぴしゃりと断った。そうこうしているうちに、桜花から朝食の準備が出来たとお呼びがかかった。女は俯いたまま膳の前に座った。

「あらどうしたんです千鶴さん、なんだか浮かない顔をされて。さては古巻さんに何か言われましたか」

 心外だ、と古巻は思ったが、あからさまに表情には出したもののアジと飯を口の中にほうりこんで噛みしめながら、何も言わなかった。

「いえ、あの、わたしが」
「ああそうだ。忘れていました。お二人を紹介しなくてはいけませんね。こちら、北条古巻さん。この春から中学4年の16歳です。ちょっと口は悪いですが、うちでは腕利きの家政婦さん……ああ、失礼、書生さんですね。うちの中のことで何か困ったことがあったら、彼に聞いてください」
「先生今わざと言ったろ」
「そしてこちらは、千鶴さんです。今日からしばらくこちらに滞在することになりました」
「おれに比べて情報開示が随分少ないんじゃありませんか」
「デリカシーがありませんね、女性に過去を聞くのですかあなたは」

 千鶴は古巻の言葉に何か口を開こうとしたようだが、桜花に止められた。

「古巻さん、千鶴さんはこの土地には不慣れだと思うから、いろいろ教えてあげてくださいね。あ、男女交際の際は両性の同意に基づき、健全な関係を」
「先生、打ち合わせの時間に間に合うようご出立ください。おれそこまで責任持ちません」

 時計を見るなり桜花は心の底から驚いたようで、これは大変と味噌汁をかき込み、後片付けを頼むと言って廊下を渡っていった。原稿の草稿はどこだと声がしたので、玄関に用意してあると古巻は叫び返した。行って参りますと声がして玄関が閉まる音が聞こえた。それを確認して古巻はやれやれと再びアジに箸を付けたが、千鶴はぼんやりとしたまま、箸が進まない。古巻は意に介せぬように2,3口に運んだが、やはりこう気まずいのもよくないだろうと思い直して、「食べ終わったら、片付け手伝っていただけますか」と言った。

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2012/09/23(日)
4、田園都市、春

田園都市、春(10)

食事が終わった後は千鶴とともに炊事場に立った。皿を二枚割られたところで、彼女には今日のところは自分の仕事を見ているようにと申し付けて、炊事場の片付けを終え、庭の菜園からかぶを抜いてきて漬け込んだ。今晩の仕込みだ。
 続いて廊下に雑巾をかけ、洗濯ものを片づけ、朝の一件のまま放置していた桜花の書斎を整理した。雑多と広がっているように見えるが、桜花なりにどこに何があるのか把握しているらしく、勝手に整頓したりすると面倒なことになったりする。作業スペースと通路を確保し、資料の位置をあまり変えない様に本を寄せた。それによってできた通路の乾拭きをした。

 昼前に、家を出た。古巻は4人分の握り飯と大根の漬物を持参した。
 目的地は、例のスヨンの住むバラック街である。おいていくわけにもいかないので、本人の承諾を得て連れだった。千鶴は古巻の一歩後ろを控えてあるいている。

 どうにも表情が暗い。自分の不出来を責めているのかもしれない。古巻としてはたいして問題にはしていないのであるが、彼女を諌める自分の言葉にも非があるのかもしれない、と自省してみる。

 汽車を乗り継いで、上野駅で降りた。平日の昼ではあるが、公園近くの横丁は多くの人で賑わっていた。
 活発な店頭でのやり取りや観光客の往来が珍しいのか、千鶴は伏せていた顔を上げて、遠慮がちにそれらを眺めているようだった。古巻がそれに気が付いて「少し見ていきますか」というのだけど「いいえ、とんでもありません!」と反射的に返されてしまう。まだ警戒されているのか、そうでなければ、本人のこの気の張りつめようは正直痛々しい。自分に対してそこまで引け目を感じる必要もないと思うのだけど、そういえばまだ千鶴と顔を合わせて半日しか経っていないのだ。いらぬ気を使うより、もう少し慣れてもらった方が下手に刺激せず双方にとっていいのかもしれない。

「ええと、これから知り合いを訪ねるんですが、彼女はどうやら労咳のようで、あまり人と会いたがりません。おれはこの握り飯を届けてくるので、外で待っていていただけますか」

 歩みを進めつつ、とりあえず古巻は要件を伝えた。

「労咳……」
「ああ、ここです」

 家とも小屋ともつかない粗末な建物だ。バラック街の中でも、この一角は人通りが少ない。
 古巻にとって意外だったのは、朝鮮人たちが住むバラックの大通りでも、千鶴が大した動揺を見せなかったことだった。先ほどの横丁は物珍しさがあったように思えたが、明らかに空気の違うこの一角は、もしかしたら千鶴には酷ではないかと古巻は考えていた。古巻に対する遠慮はここにきても変わらないが、世間に対する認識や度胸はあるのかもしれない。
 
 千鶴をここにとどめて、小屋に入ろうとしたところで、中から酷い咳き込みが響いてきた。それを案じるように、少女の母を呼ぶ声がする。スヨンだろう。古巻は藁の仕切をひらいた。そこには大量に喀血しているミヨンと、母の背を支えながら声をかけ続けるスヨンの姿があった。

「おい、大丈夫か」
「おまえ昨日の……!何で」
「その話はあとだ。ミヨンさんの咳が止まらない、とりあえず水を飲ませよう。代えの服と、布団はあるか」
「う、うん」

 古巻はスヨンからミヨンの身体を預かり、喉に詰まっている血塊を取り除こうとした。すると、後ろからその手を止められた。ひんやりとした細い手だった。驚いて後ろを向けば、そこにいたのは千鶴だった。

「血液に直接触れてはいけません。たらいを用意してもらってください。水は飲み水ではなく、環境を清潔にするために桶に水と、雑巾を。こちらの小屋の窓はすべて開けて、古巻さんは、どこからか氷をいただいてきていただけますか」

 先ほどまでのとおり、発する言葉そのものに力はないのであるが、淀みなく適切に単語を発する千鶴に、古巻は素直に「わかった」と返事をした。昨日豚汁を一緒に作った女が路地を歩いていたので、そこで氷を用意してもらうことになった。言づけて小屋に戻ると、千鶴は着物をの袖をたすき掛けて右腕でミヨンの汚れた身体を支え、血塊をたらいに吐き出させていた。人間の体のつくりにのっとった、効率的な方法なのだと素人目の古巻にも分かった。
 スヨンも支持された通り桶に水と手ぬぐいを用意しており、千鶴のそばで不安げに母親を見つめていた。ミヨンは落ち着いては来たものの、意識も朦朧とした中で、たまに思い出したように大きな溜めを必要とするような咳をした。たらいには黒い血塊が広がっていたが、それ以上吐血することはなかった。古巻が勝手に一息つくと、千鶴はミヨンの様子をみつつ、彼女の身体をゆっくりと布団に横たえていた。ミヨンの汚れた上掛けを取り、寝間着の腰ひもを外し始めたので古巻はどうしようか一瞬判断が遅れてしまったのだが、

「あんたちょっと外に出てなさいよ!」

とスヨンによって小屋の外に追い出されてしまった。今は力になれることはないなあと思いつつ、小屋の前に腰を下ろしてぼんやりと虚空を眺めている。

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2012/09/27(木)
4、田園都市、春

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