奇人二人(1)

 
 それを非道く端的に表現するとすれば、「この環境は性に合わない」ということなのかもしれない。


 目の前の机に、紙面からはみ出している大量の付箋を咥えた書物が散在し、書きかけの帳面紙に万年筆が転がっている。報告事項に多少の裏付けを加えるべく探り出した戦史叢書は、時代と国境の垣根を越え、長篠の合戦から八卦の陣、サラミスの海戦に至るまで縦横無尽に思考が拡散し、もはやその興味の収集を付ける目途すら見当たらない。舎人耕三郎近衛中佐は大きく息を吸って天井を仰いだ。夜が明けたらしい、というよりも、もう昼ドンの時間も近いらしい。

 天井を見詰めたまま、耕三郎は探究心に支配された思考に、徐々に冷や水を注いでいく。そうしてようやく、肩だの腕だの眼球だのが悲鳴を上げ始め、さあどこから相手をしてやろうかなどと考え、それよりも今日は一体いつだっただろうかと考え、ようやく体にため込んでいた濁る空気を吐き出した。

 日清戦争に従軍したのが八年前。士官学校を卒業し、戦時特別昇進により、歩兵連隊の中隊長として出征した。終戦の後は、宇都宮連隊区に所属し、そこの所属長の推薦をもらって、赤坂の陸軍大学校に入学し、改めて兵学を学んだ。参謀本部への出仕もわずか半年でイギリス留学を命じられ、王立陸軍士官学校に在学した。2年の研修を経て内地へ戻ってみれば、今度は近衛師団付を命じられて今に至っている。尤も、耕三郎の近衛入営は、それを強く望む人間の希望であったらしい。士官陸大を経て参謀府と英国留学とまるで絵に描いたような出世街道を歩まされている耕三郎を、ここまで引っ張ってこられるだけの人間。


「おやおや、これはまた随分、いやに楽しくなさそうじゃないか」


 ノックもそこそこに、その御大尽が姿を見せた。白河川修。御年52。昨年近衛師団長を拝命した、間違う事無き宮城兵団の事実上の長である。


「帰らなかったのかい」


 憮然とした空気を纏い捨てることも無く、椅子から立ち上がり、踵を鳴らして敬礼を返した。「そこ、いいかな」と白河川は先に応接用のソファーに腰を沈めた。客席ならば、今白河川が落ち着いている向かい側である。この御大尽は、そういうことにあまり、頓着しない。


「コーヒーでよろしいでありますか」

「そうしてくれると有難い。わたしも昨日、資料を広げたまま眠ってしまったみたいでな、まだ体がようよう起きてこないんだ」


 普段、耕三郎を訪ねてくる客には、言うまでもなく湯呑に茶を注いだものを下士官が運んでくるのであるが、白河川がここを訪ねるときには、部下の方も白河川に断られるのを知って、口出しをしてこないのだ。どういうわけか、この御大尽は耕三郎の入れた無糖の煎り豆を味わいたいという。

 耕三郎が部屋に戻ると、案の定、白河川は耕三郎の机上の書物を捲っていて、何やら思索を深めているようだった。このひとは、前線よりも学者向きなのだと耕三郎は思う。前線というよりも、軍人という職業がそもそもこの男には向いていないのだとも思う。しかし、時代と国家がかれを必要としたために、白河川は天職までたどり着くことができなかったのか。かれの器用さが――それが最大の彼の不幸であるかもしれないが――結局この歳になるまで、そうしてかれの大半の生涯を、「軍人」という肩書たらしめてしまったのだ。悲しいほどの皮肉。

 耕三郎は、二人分のコーヒーカップを応接机に置いて、そ知らぬふりで先ほど白河川が掛けていた席に座った。戻ってきたら、上座を勧めたい算段なのだ。まだ湯気の上る黒い液をずずっと啜ると、一晩中緊張していたらしい身体の臓器が一斉に休息を始めたような心地になった。イギリス留学中に知り合った知人から送ってもらっている特別な豆で、確かに日本製のものよりは旨いのかもしれない。
 
 白河川はまだ、耕三郎の机上の本を眺めては、次の書物に手を伸ばしている。しばらくはこのままだろう。いつものように、適当に思索に耽ることにする。
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2012/02/27(月)
1、奇人二人

奇人二人(2)

 あれは明快なる横槍だったのだ、と耕三郎は思う。


 清国との戦争のことである。義和団の一件の後、列強が中国大陸の領土を毟りあい、日本はその領土合戦に少々出遅れた――いや、同じアジアの一国である以上、列強の領土侵略においそれと乗ることには抵抗があったのかもしれない。北京に出兵はしたものの、北京政府に対しては朝鮮ほどの干渉を見せなかったし、もとより、まだこのころ、日本にとって「中国」とは、兄貴分的意識であったような気もする。

 その兄貴分は、ことここに及んでも朝鮮にとって確固たるものであったのかもしれない。
 かの国らにとって、日本とは末弟という意識にあるのだろう。要領のよい末弟は、若い世代が世界的勃興を機敏に読み取り、陋習を一掃して新しい国づくりを始めた。西欧の進んだ文化を取り入れる一方で、文明の先端――それは必ずしも帝国主義を否定するものではない――から取り残される兄弟たちに、少なからず危機感を覚えたのは確かだった。これはアジアを一つの家族として捉えるならば、その存続にかかわる大きな危機であったに違いない。ならばその一家の兄貴分たる中国に、確固たる態度を取ってもらわねばならぬはずであった。

 しかし、二世紀ほども続くこの巨大な老獪は、新風の脅威を脅威として捉えることができず、その身を蝕まれてようやく、事態の深刻さを自覚したのであった。それでなお、かの弟分たちは兄貴の後ろ盾を必要としたのだ。アジア全体が、古い気質を抜け出せずにいたのだ。末弟日本は、そのことを非常に危惧した。

 その危惧の仕方が、どうにも極端に出てしまった。
 まずは年の近い兄弟から、自分の文明の水準にしてしまおうということになった。これもまた西欧の先例に倣い、小さな民事事件を引き合いに外交問題まで昇華させ、やがて一つの島を日本のものとした。台湾である。世界規模で、侵略行為が正当化される時代である。極東の小国らによる島侵略の一つや二つ、誰の目にも止まらなかったに違いない。

 続いて日本は、もっとも近しい兄弟に手を伸ばした。朝鮮王朝である。
 大陸進出への足かけ――旅順や大連の先例を見るに、当時の施政者がそう見たのか否かを判断する術は耕三郎にはないが、少なくとも、文化を知り、歴史を共有し、人間の気質を多少見知っている隣国は、その戦略企画立案に土地勘を持ちやすかったのかもしれない。
 日本は、手始めに内政干渉から始めた。諸外国のアジアに対する認識を改めさせ、近代化の必要を迫り、そのために日本が力を貸そうという話にした。やがて、自国の軍隊を駐留させたあたりから、朝鮮も日本の行為を領土的野心として捉えるようになった。
 その「横槍」が、アジアに進出してきた西欧諸国には、あからさまな領土野心に写ってしまった。まさか弟からこのような態度に出られると思いもしなかった朝鮮は、隣国中国に援助を求めた。弟の悪行を、兄に訴えた形になる。
 しかし弟は兄に屈しなかった。「昨今のアジアにおける列強の侵略は、偏に清朝政府の徹底した封建主義に大きく起因するものである」として、弟なりに中国への進言をしたつもりであったのかもしれない。しかし兄はそうは受け取らなかった。家族である朝鮮を侵略し、兄である中国を批判した一族のはみ出し者。領土も資源もさほどではない。少し凄んで見せれば、すぐにもとのアジアの均衡を保ちなおせる。

 しかし、開国以来、持ち前の若干人並みを外れた勤勉さで近代化を推し進めていた日本は、中国の物量的な脅しに易々と屈しなかったのが、清朝にはひどく遺憾であった。それのみならず、自国防衛よりも、外交的な意味合いの強い出来合いの海軍では、将校らを欧米に見聞に向かわせ、軍を育成している国の連合艦隊に太刀打ちできるはずもなかった。

 

 耕三郎は、この戦争に分隊長として参戦している。
 朝鮮から清国――満州の一帯に侵入せんとするとき、その国境には見張りの兵もなく、野放しの馬賊が跋扈し、耕三郎らの一団はそれらを払いながら進軍を進めた。

 もはや、内側からぼろぼろと崩れゆくような有様であるのかもしれない。
 しかし、それでもかの国がアジア帝国の盟主であった時期は遥かであり、かの王朝の皇帝の権威は、その周辺諸国にとって覆すことのできない「絶対」であった。それは今もなお、盲目的に継続されている。日本がいち早くその呪縛から離れられたのは、やはり、海という要塞に守られた島国であったからだと耕三郎は思っている。

 それが幸か不幸か、判断する術はない。
 先の戦争は賠償金を取るところまでこぎつけたが、おかげで今度は、いままで目標としていた西欧列強を敵に回す羽目になった。
 目下、大陸進出にロシアが大きく動き始めている。かの国も、その足掛かりに朝鮮半島がどうしても欲しい。
 
 現状はここである。
 近い将来、日本は中国をも上回る領土を持つ超大国を、敵に回さねばならぬかもしれない。



「ところで舎人、それは戦術的な意味も含めて、女が一国を滅ぼし、または勃興させることがあるのだとわたしは思うんだ。とても興味深い見解だと思うよ。日本を含め、古来より国家というものは特定の一族による支配に対して、男女の婚姻をもって家通しのつながりを以て、政界に進出し、やがて一国の盟主になったものもある。女が君主を産んだためだ。または、女が君主を惑わし、側近に首を取られた例もあるね。一つの国を背負うものが、その責を放棄して一人の女に入れ込むということに、わたしは非道く、人間臭さというか、国家という機能がいかに一人の人間の気質に頼られて作られていたのかということに思いを巡らして、途方もない気持ちになるよ。近代民主制は、一人の人間に権力を集中させないという点で、それよりも一歩進んだのかもしれないけれど、やはり、男というものは女の魅力に惑わされずにはいられない。いや、いつだって美しい女が自分に微笑んでくれているということに幸福を見出すのだよ。極端な話をするとするならば、昔は、そんな頼りない男が一人で国を背負わねばならなくなったけれど、今はそんな頼りない男が100人で国を背負っているということにならないか?単純に結論を導くなら、近代国家の方が君主一人が国家に果たす責任が、1/100に軽減されたことになる。男は、随分と貧弱になったものだけど、それを支える女は、今も昔も1/1だ。底知れぬ恐怖すら感じることがあるよ」


 近衛師団長白河川修が手にしているのは、耕三郎がイギリスから持ち帰ったドイツ騎士団勃興の概論書である。そのどこに、国家と女に関する記述があっただろうか。耕三郎はずずずとコーヒーをすすりながら、一の事象に対して瞬時に十まで考えが及び、その先を語り出す白河川修の思考の癖を理解している。したがって、現在目の前にある事象と、白河川の脳裏に広がる空間には、外部には理解できないような複雑な複線が張られ、大きく枝を広げているようなものであり、即座に理解できるような代物では無いと、耕三郎も自覚している。

 この現師団長の妻は、蒼い目をしていたのだという。白河川の副官は名として舎人の上官が務めているが、身の回りの世話等、細かいところは山城という女が面倒を見ている。
 白河川の妻は、夭折したと、山城から聞いた。
 理由は知らない。


「ところで、ここに来るときにに一つ、とても興味深いものを見たよ」


 相手の反応を待つというよりも、自分の心境を訥々と語りたい性質の白河川は、耕三郎の淹れたコーヒーカップに口を付けながら、五歳児のような無邪気な笑顔を耕三郎に寄越した。還暦を前に、思索を深めた脳内はいたってシンプルになり、なんでもないものにまで心を動かされるようになるのかもしれない。ただ、幼少期と決定的に違うのは、そういうシンプルな脳と、経験と感情で構成された複雑な思考の大木のような脳を併用できるという点。今の耕三郎には、そのどちらも持ち合わせている自覚はない。故にやはり、目の前でコーヒーをすする好々爺には心から感服するところがあるのである。


「『舎人耕三郎に会わせてくれ』と叫んでいる女がいたよ。聞けば、もう本部に三日も通い詰めているらしいじゃないか。しばらく見ないうちに、麹町も随分と楽しいところになったね。やれやれ、たまにはこちらに出仕してきてよかった。それで舎人、彼女はいったい何者だい?」


――まったく、身に覚えがない。


 というのが正直な感想だ。
 しかし先ほどの白河川の話を否定することにも為りかねぬので、耕三郎はコーヒーカップに口を付けながら、どう反応したものかと思案に明け暮れている。
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2012/03/05(月)
1、奇人二人

奇人二人(3)

「ところで閣下、兵たちの食のことですが、主食を麦飯からパンに変更するというのは、本当でありますか。諸連隊に先駆けて、なんでも先立って近衛師団で試すのは立場上致し方ないことと推察しますが、連中の評判は頗る悪い。あれでは、腹に納めた気がしないということです。どうかご検討を」

「ははは、英国帰りの君の言葉では全く説得力がないじゃないか。まるで向こうの小麦文化を堪能した君が、東洋の米の飯を懐かしんだと見える。そもそも舎人、米というものは兵糧には向かないのだよ。まず荷物になる。水と飯盒がなければならぬ。兵站の負担になる。戦地に望むならもっと効率の良い食い物を模索するべきだね」

 白河川はにっこりと笑って耕三郎に向き直った。「それで彼女は?」と、口にした。話題転換も、見事に徒労となった。しかし、耕三郎も諦めない。

「清国との戦いは、わが帝国陸軍の歴史において初めての対外戦争でありました。列島を横断するに等しい行軍でありましたが、兵たちの働きもあって相当分の兵糧を運ぶことができたのであります。米が水と飯盒がなければ食えぬというのであれば、パンの製造過程においても水と窯が必要であります。同じ運搬量であるなら、日本人にはなじみの良い米にすべきと考えます」

 先の戦いでは、麦飯を主食に据えた。そのことが、兵たちの脚気につながったという見解が出ていた。したがってここで耕三郎のいう米とは、白米――それは兵舎の中では畏敬を込めて「銀舎利」と呼ばれているもののことである。

「あと、飯の容器をアルミにするのはやめてください。あの鉄臭さが米の味を侵します」

「鉄鍋を担ぐよりマシだろう。それにそれは君の個人的見解ではないのかい?」

「総員の意見と自認します」

 生真面目な顔で具申した耕三郎の前で、白河川は声をあげて笑った。嫌味のある笑いではないので、耕三郎も特段嫌な気がするわけでもないが、それにしてもこの御大尽は、いったいこんな自分の何が面白くて、こうしてたまに顔を見せるのだろうか。耕三郎にはそれが不思議でならない。

 白河川は、耕三郎が陸大の時の、軍事学の教官であった。
 他の教官に比べて、体格がいいわけでもなく背ばかりがひょろりと伸びて、まるで女のようだと思った。士官たる者の心得なるもの(いや、この男に限ってはそうとも限らないのかもしれないけれど)を生徒たちにレクチャーするときも、「ああそうそう、年上の部下を無下に怒鳴りつけてはいけない。若い君たちよりも、兵たちはかれに親近感を抱いている場合が多いからね。そういうところは、勅諭に従わず、空気を読みたまえ」などと、正直、将官としては気が触れているのではないかというようなことをさらっと授業で話したりする。
 帝国陸軍の士官たる者、軍人勅諭と規律が最重要視されるべきものなのだ。
 それを教授する立場であるはずの白河川大佐は、へらへらと笑顔を浮かべながら、ぼんやりとした口調で「そうですねえ」なんて言ったりする。

「そもそも、君たちのような優秀な人材が軍人になるべきではなかったのかもしれないね」

 なんてことを言った日には、強直な学生から「それでも大佐は、帝国陸軍の厳粛なる教官なのでありますか!!」とやじが飛んだりする。白河川はのらりくらりとそんな意見を適当に流しながら、

「まあ、心の隅にでも留めておいておくれよ」

 などと、愚にもつかぬような返答でその場を閉める。
 
 しかし、なのである。この男は、明治維新の以前より、長州藩士として戊辰戦争を戦い、維新後は山方卿の女房役として、若くから陸軍の創建に関わり、西南の役を指揮官として迎え、そうして今や、陸軍の長老格と対等に話のできる唯一の「若手」なのである。彼の人となりについては、以前より「奇人」扱いであった。こうして、つかみどころがないような素振りを見せる一方で、日清戦争時は作戦参謀としてその第一線を担ったという。約束事に縛られることが嫌いらしく、軍人然とした振る舞いも、マナーの最低限。言葉使いも、任務でなければ砕けたまま。長老たちに見られる徴収訛りはなく、50に近いという年齢を感じさせることのないその表情。まさしく、将校たらんものの反面教師。白河川修はそういう人物だった。

 ある日、耕三郎は、校舎の隅で隠れて煙草を吸っていた。
 連隊に支給されるものを、数本分けてもらっていたのである。もちろん校舎内で吸ってはいけないことになっているから、こうして人目に付かないところに来ていたわけであったのだが、

「やあ、舎人」

 と、例の笑顔を引っ提げて、優男の教官が窓から顔を覗かせた。
 耕三郎の方も、心中随分驚いたが、いまさら隠し立てすることもないと、適当に頭を下げた。

「私も、そっちに行っていいかな」

 耕三郎の返事も聞かず、白河川は少年のように身を翻し、窓を離れた。
 さわりと風が薙いだ。
 いったい、なにがどうなっているんだ。

 若い耕三郎はひとり、頭を悩ませる。
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2012/03/12(月)
1、奇人二人

奇人二人(4)

 おいおいやってきた教官は、耕三郎の横に腰をおろして、煙草を所望した。
 断る理由もないので、咥え煙草に火をつけてやった。

「げほっ!げほっ」

 大仰に、教官は咳き込んだ。苦い顔をして「いやあ、やっぱり美味しくないなあ」と言った。一体何事だというのだ。

「周りでは一服すれば荒れた気分も収まるというのだけれど、そういう手段をもたないわたしたちはどうすればいいと思う?煙草の味を知る人間は、気軽に息抜きが出来、またそこに集まった人間たち関係もできる。うーん、しかしやはり、わたしはこの味が分からなくてなあ」

 と、言われれば、耕三郎も煙草を消すしかない。持っていた携帯用の灰皿に吸滓をねじ込んだ。
 耕三郎は立ち上がって、脱帽し、九十度で勢いよく頭を下げた。

「申し訳ありませんでした!」

 とりあえず、耕三郎は今考えられる生徒として推奨されるべき行動をとってみた。本意ではない。

「ああよしたまえ。誰かに見られたら面倒だよ。君も腰かけたまえ」

 白河川は例の様に手をひらひらと振って、笑顔で着席を勧めた。男二人、校舎の壁に背を預け、地面に尻をついている。

「いい天気だねえ」
「そうでありますね」
「午後からの講義とか出たくないよねえ」
「はあ」
「これから、新橋にでも行って遊んでこようか」
「まだ昼だからどこも開いていないと思いますよ」
「それはそうだね。さあて、困ったなあ」

相変わらずこの教官はにこにこと空を眺めていて、こんな調子でのらりくらりと耕三郎と会話を楽しんだ後、結局午後の講義には顔を出した。

 その何がよかったのか耕三郎には見当もつかないが、これ以来、白河川修に何かと気にかけてもらっているのは確かだった。




「それでは、質問を変えてみようか」

と白河川近衛師団長は言った。

「門前で悶着を起こしている彼女は、山形卿の孫娘、明恵さんだ。数あるお孫さんの中でも、その才気は同じ血脈の男子もかなわず、女児のなかでも抜きんでた器量良しと言う。しかし一つ聞いたことがあってね。どうにも、気難しい性格だというのだよ。家族の中にも、彼女の言い分を理解できるものは少なく、愛想笑いの一つもしない彼女は、親族の中でもどうにも扱いに手を焼いているらしい。家の中では、早々に嫁にでも出してしまおうという話に何度もなったらしいのだけど、これがまた、彼女が相手を言い負かしてしまうもんだから、どこにも引き取り手がいないときた。彼女自身が他の男に懸想しているという話も、生まれてこの方十七年、頭尻にも出たことがないのだそうだ。どうだい、いよいよ話が面白くなってきたと思わないか」

山方有信は、実質、現在の陸軍のトップに居る政治家で、長州閥の白河川の兄貴分にあたる。
年は12ほど違うと聞いている。明治創設期の陸軍の顔としてトップに君臨し続けてきたのが山方であるが、その裏方の調整をしてきたのが同じ長州閥の白河川である。ゆえに、こうした昼行燈も兄に引っ張り上げられてここまで来たということだ。どうやら当人はあまりそれを望んでいなかった節があるようであるが。

ゆえに、かの山方卿の孫娘やその親族の様子を見聞していたとして、何の不思議もない。ここで虚実を語る意味もないので、山方卿の孫娘とやらの奇行は真実なのだろう。もっとも、この時点で耕三郎は彼女の振る舞いに多少の憐憫を感じているのかもしれない。彼女はおそらく、自分の意見をすっぱりと述べているだけなのだ。それが周囲には、手なづけられぬ狂犬のようにでも映っているのだろう。男子であれば高い志とでも言われたのであろうに、その点で、女として生まれた彼女は哀れだと思った。

「それで面白いというのはだね、ここからはわたしの勝手な考察なのだけれど、わたしはこの二人の奇妙な縁を『奇人二人』と名づけようと思っている。山方さんの手にも余る妙齢の少女は、先だって自ら家を勘当したそうだ。勘当?おや、どこかできいたことがあるね。家の方針が自分の気性に合わず、適応しようとするよりもむしろ縁を断ち切って自らの力で立ち上がろうとする若人。舎人、まさに君とは奇縁としか申しようのない。君がその気が無いといっても、なんとも面白くてたまらないから、わたしが彼女をここに連れてこようと思うが、どうだろう?」

耕三郎は「奇人」に奇人扱いされてしまった。

「やめてください。まったく覚えがありません」
「君に覚えが無くても、彼女は君を覚えているようだから、言い分を聞いてやってはどうかな。そのまま突っぱねておくと、かえって連隊の噂の的になってしまうかもしれない。『あの堅物の舎人耕三郎が、どうやら女を捨てたらしい』」

 ばかばかしい!と(あくまで個人的に)一喝したところで、白河川はやはり声を出して笑っていた。本当に悪気はないのだろう。彼なりの人を見る目と観察をもって、二人の仲を取り持とうというのだ。耕三郎も今年28になる。妙齢というには、彼もふさわしい。

「とにかく、せっかく閣下のお申し出ではありますが、そんな訳のわからない女と話すことは何もありません。これから出向いて追い払いますから、どうかそのように御心積もりください」
「血も涙もない男だのう。わたしは上官として悲しいよ」
「なれば閣下が彼女を妻にしたらいかがです」
「ははは、わたしは二人も妻はいらないよ」

 気持ち、白河川を包む和やかな空気に緊張が走るような気がした。
 秘書役の山城から聞いたことがある。白河川の妻が死んだのは、旦那であるかれに大きな原因がある、少なくとも山城はそう思っているようだった。
 山城は白河川の妻の友人、いや、知人であったのだという。友人と言ってから、わざわざ「知人」と言い換えた。
 白河川は長州派の維新志士として明治を迎えた。山城は幕軍にいたそうだ。

「それじゃあ、わたしから一応、伝えたからね。あとはうまくやりなさい」

 例の様にひらひらと手を振って、白河川は出て行った。
 「わたしから」とあえて彼は言い残したのだ。「師団長発令である」、と。

 こういうことはことごとく苦手なのだ、と耕三郎は思っている。
 とにかく今日のところはお引き取り願おう、そう思って、執務室のドアを開けた。

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2012/03/19(月)
1、奇人二人

奇人二人(5)


***


 北条古月は、海軍省への挨拶の後、帰宅の途上であった。
 
 戦争が、おこるかもしれない。
 これは商人にとっては、好機である。

 古月は、豆腐屋の奉公から、その製造、貯蔵、運搬を整理して会社を立ち上げた。今では日本の主要な港、あと大陸にもいくつか航路を開き、各地で買い付けも行う流通卸問屋としての地位を確立しつつある。
 とはいえども、三菱、古川というような古参の財閥は政財軍に顔も聞くし、なによりもその知名度と財力をもって国内外の主要なモノの流れを支配している。この構造に一石を投じる機会となったのが先の戦争であった。軍需物資需要の激増に伴う鉄鋼業の拡大、炭鉱、銅山の開発、そしてそれらを運ぶ流通制度の改革、大国清との戦争に向けて、日本という国が一斉に動き出したのだった。古月もその流れに乗った。会社の軌道をのせ、自分は国内外を飛び回り、要人とのつながりを作ろうとした。日清戦争にも従軍した。従軍記者の一団に紛れる形で戦争に参加して、戦地における物資輸送の問題や需要を見極め、そしてあわよくば高級軍人とお近づきになりたいという理由だった。そうして当時見聞きした非常時のノウハウを、近い将来に必要となるような戦争が起こるかもしれない。そんなわけで古月は、知り合いの海軍省の士官に顔を出しに来たのだ。古月、齢27。ひとあたりのよい士官ではあったが、三菱に比べれば生れたばかりの赤ん坊のような古月の会社へ、軍事物資は任せられぬという態度だった。まだ数度、足を運んだだけである。三菱ほども大きくない古月の会社は、その小回りの良さを売りものにできる。もしかしたら敵側に回るかもしれぬロシアは日本にとってはとてつもなく巨大な相手であり、それは世界でも同じ認識で、極東の小国に借款しようなどという物好きは、そう多くないに違いない。ともすれば経費は少なければ少ないほどいいわけで、そのあたりに古月は、自らの勝算を見出している。決して絶望的ではないと思っている。

 さて。
 千代田坂を上れば巨大な敷地に背筋の伸びた憲兵が二人並んでいるのが陸軍省であるが、今日は少々趣が違う。
 まず、ちらほらであるが物見がいる。
 かれらの視線の先には、門前で憲兵に何度も押し戻され、それでも敷地に入らんとする人影。
 どうやら女のようだった。

「どいてください!わたしは舎人様にお話があるのです!」
「部外者の立ち入りは認められていない!帰れ!」
「今日はこちらにいらっしゃるんでしょう!?会わせてください!これは日本の存続にかかわる重要な問題なのです!」

 物騒なことをおっしゃる、と心中呟きつつ、戦争が起こってくれた方が儲かるんやけどなあ、と思ったことも事実だった。近づくにつれて、女はまだ少女のような年頃なのだということに気が付いた。女学校を出たばかりであろうか。身なりはそれなりにこぎれいであったし、顔にはうっすらとおしろいも施してあるようであった。先日、長女を出産した古月の妻よりも若いかもしれない。小さな顔に、細い眉毛をきりりと吊り上げて、彼女はそれでも、小さな体で何度も憲兵に体当たりをして、「そこを開けて」と叫んでいる。

「お願いします、耕三郎様とお話をさせてください!」

 おや、と古月は思った。いま、この女は舎人耕三郎の名前を呼んだか。
 古月が日清戦役に従軍したとき、そこの部隊長を務めていたのが、士官学校をでたばかりのかの男であった。まったくに無愛想な男で、普通ならば、関西人の古月にはそのクソ優等生面をしている若い士官を快くは思わないのだが、あるいは自分は男でありながら男に懸想してしまったのかと思うほどに、古月のこころの中にとどまり続けている名前であった。
 歳は、幾分も変わらないであろう。大義名分を振りかざすでなく、自己顕示欲をひた隠す出なく、小さな部隊をまとめ、率いていく力に、そして状況を冷静に見極めることができるその真眼に、古月は本能で敬服してしまったのだ。
 
 軍人は好かん。せやけど、こんなやつもおったんやな。

 一言二言、言葉を交わしただけであった。
 その名前を、6年ぶりに耳にしたのだ。



 もう何度目になるのか、女は憲兵に押し返され、勢いづいてそのまま尻もちをついた。
 物見たちはひそひそと何かを話すだけで、彼女に手を差し伸べることもしない。「気の触れた女」とでも写っているのであろう。古月も、耕三郎の名前を聞かねば、ただそこを通り過ぎたのだと思う。しかし、「もしかしたら」という興味本位な直感で、女を抱え起こした。女の方は随分驚いたようだった。

「えらいすんまへんなあ。これは、わいの知り合いのなんやけど、先日、日清戦役のときの舎人はんのご活躍ぶりのお話を聞かせたよって、その武勇たるや大陸にも名を馳せたる!ゆうてわいが吹き込んださかい、寝ても醒めても耕三郎様の名前を口にするほど入れ込んでしもうて、わいがちょっと目を離したすきにこっちにまで追いかけてきよったんです。いやはや、人伝手の話だけでここまで女を惚れさせてしまう舎人大尉はんも、罪はお人やなあ。一目会うたらこれも気が収まると思いますさかい、取り次いでいただけまへんやろか」

 女が異議を申し立てようとするのを無理やり抑え込んで、へらへらとにやけ顔を作りながら古月はあくまで憲兵の下手に出た。目的のためならいくらでも話をでっちあげられるのは、商人としての性が自分に合っているからなのだと古月は思っている。

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2012/04/02(月)
1、奇人二人

奇人二人(6)

「そのような理由でここを通すわけにはいかぬ!」
「まあまあ、そこをなんとか」

 適当に執成そうとする古月の言葉をほとんど無視するように、女が叫ぶ。

「あなたはこの国難をいかに乗り切るお考えなのか!欧米列強が絶大なる武力を持ってアジアへ侵攻を始めた!文明の近代化に大きく出遅れているわたしたちアジア人は、のらりくらりしていてはこのまま連中に住むべき場所と日本人としての尊厳を、あらゆる自由を奪われてしまうのかもしれないのですよ!頼るべきか、中国大陸の政府は、日本との戦争に負けた後もずるずると巨体を引きずったまま起き上がろうとしない。なればこのような極東の島国であっても、われわれ日本人が、帝国陸海軍とその国民が国難に立ち向かわなくてだれが「ここ」を守るのですか!あなたたち軍人は、たかだか清国に勝利しただけで、何か勘違いしていらっしゃるのではなくて!?あれは旧時代と旧時代の戦いなのです。そこに勝利したことに、列強は我が国の軍事力を認めたことにはなりえないのですよ!日本人の特性ともいうべき勤勉性は、列強にとっては将来的な脅威であって、現状、歯牙にもかからぬ小国という認識には変わりない。なれば!今日明日にでも大国は大陸から日本海を越えてこの国を侵略しようと試みてもおかしくはない状況なのです!越王勾践は何年かけて夫差を撃ち、大石内蔵助が吉良義央を撃ったことがどれだけ偉いかなど私には理解できない。なぜ!即日にでも討ち果たさない!こちらが戦力を充填している時間は、同じように相手にもそれだけの時間を与えるということ。呉王も吉良も、それは慢心からくる準備不足であって、撃った側ばかりが必ずしも優れていたわけではないというのに!」

 女は言葉を詰まらせるでなく、その自らの口上に一切の迷いを見せることもなく、平然と言い放った。
 門兵を始め、取り巻きもその女の迫力に目を奪われている。古月はというと、何度も門兵に飛びかかろうとする女の腕をゆるりと羽交い絞めにして、周囲の空気とはまた違う空間に思考を持っていた。これはまた、随分な「奇貨」を掴んだのかもしれない。
 
 その時、内側から陸軍省の門が開いた。若い将校が副官を一人と、面を被ったような無表情をぶら下げて、古月と女の前に立った。

「悪いが、斬りっぱなしの刀を研ぎに出すことも量産することもせずに、勝算もないまま敵陣に突っ込むような無茶をするわけにはいかないんだ。なにせ兵隊が死んだだけでは終わらない。我々がそこで倒れたら、国民が蹂躙されるのだ」

 舎人耕三郎だった。門兵二人がそろって敬礼をした。古月は、6年ぶりに見る顔だった。青年のような線の細さが消えた、と思った。ナイフの切っ先のようだ、と当時は思っていたが、今はもっと鈍い痛みを伴うような、ずんとした重みがあった。古月の心もどくんといった。
 女は、ちょっと驚いたような目をしたが、すぐにさっきまでの厳しい顔に戻ると「ですから、その間にもロシアは朝鮮半島以南への進出の機会を狙っているのです!」と淀みなく言い放った。

「かの大国が、呉王夫差のような失態を演じることはない。なれば帝国陸海軍は今すぐにでも先手を打たねばならぬ!違いますか舎人様!」

「数日前よりわたしを名指しで門前破りを試みているようだが、すまんがわたしは一切、あなたを知らない。以前どこかでお会いしたときにでも、わたしがあなたに無礼を働いたというのでしたらここでお詫びをしましょう。お引き取りを」

「覚えていない……!?そんな、あなたは言ったではありませんか、『今の帝国陸軍は、根本から間違っているのだ』と。こんなことを公言し、しかもそれを正すことのできる人物は、そう多くはない、あなたは紛れもないその一人なのです!どうか話を聞いてください!これは現在の陸軍卿、及び軍首脳部にもできぬ、国家の行く末を担う大切な方向性なのです!」

 女は、舎人耕三郎を褒め称えたいのか貶めたいのか。仮に本人がそのようなことを本当に言っていたのだとしたら、この場でそれを公言してしまったのは失敗である。少なくとも耕三郎の副官は眉を顰めているようだったし、門兵や取り巻きもさまざまに憶測した目で耕三郎を見詰めていた。古月はというと、6年前の自分の慧眼は間違っていなかったんや、と確信を持った。耕三郎は、熱狂の中でも一人、水を被っていられる人間なのだ。征服思想に塗れた侵略をするでなく、組織内の個人的な名誉を欲するでなく、この男が持っている何がしかの「信念」に基づいて行動をしている。そしてそれは古月の直観であるが、耕三郎の信念は古月にとっては好ましいものに違いない。

 せや。だからこんなに心が躍っているんや。

 青年将校とそれに食って掛かろうとする若い女。取り巻く群衆は数を増してきた。騒然とする空間を切り裂くように、古月はあははと笑い出したいような気分だった。息巻く女を押し込めて、古月はずいと、耕三郎の前に出た。大きな目で、将校の目を捉えた。

「久しぶりやな!」
「誰だ貴様」

 耕三郎の返事は、想定内のことであった。

「あんたが覚えとらんでも、わいはしっかり、脳みそに刻み込んでいるんよ、舎人耕三郎。なあ、わいは六年前、鴨緑江であんたに出会うて以来、あんたに恋い焦がれてきたんや。覚えておきや。あんたは、そういう男や。わいもこの女も、あんたがそう自覚せんとも人生が狂うほどにあんたに惚れとるんや。今日はちょっとした挨拶。また来るさかい、あんたもよう、わいらのことを覚えとき」

「誰が惚れているだと!?」

 と、女が叫ぶ前に、古月はその女の身体をひょいと抱えて歩きだした。集まってきた群衆はどよめきつつも、「離せ」とばかりに暴れる女を抱えた古月に道をあけた。門兵たちは特に追ってこなかった。

 等しく仕事をするなら、面白い方がいいに決まっている。
 ビジネスチャンスにあの男を絡ませることができたなら、これ以上に楽しいことはない。
 
 難しい話はようわからん。
 この女が何者なのかも興味はあらへん。
 せやけどこの女がおれば、うまく耕三郎に食いつくことができるかもしれへん。
 
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2012/06/24(日)
1、奇人二人

奇人二人(7)

***

古月の会社は、その基盤を関西においている。
現在は関東への足掛かりを作るべく、社長自らが東京を駆け回っているという状態。
「北条商会」の関東支店などというものはない。下町のボロ長屋に等しい貸家で、妻と娘の3人で暮らしている。

陸軍省の前で拾った女を抱えたまま、長屋の戸を引いた。
その音を聞き付けた妻と娘が、父親の帰りを出迎えた。
古月は、玄関にようやく女を降ろした。

「おかえりなさいまし」
「おう」

 妻・篠は旦那の連れ帰った若い女――朝重にも丁寧に会釈した。朝重もなんとも居心地の悪いような気がしていたが、辛うじて会釈を返した。
 が、顔を上げた明恵は、激しい眩暈を覚えて顔を臥せった。それを特段気にする様子もなく、古月はその横をすり抜けながら篠に言づけた。

「しばらくなんも食ってへんようやから、適当になんか食わして、ついでに風呂にでも連れてったれ。宿無しや」
「判りました」

 篠は相変わらず穏やかな表情のまま、三つ指ついて古月に頭を下げた。隣にいる娘のゆゑも、母親と同じようにぺこりと頭を下げた。
 
 古月の言いつけどおり、篠は明恵を銭湯に連れて行き、汚れた着物を洗濯し、自らの着物を与えた。そうして家に帰ってくると、白米に味噌汁、それに一品のおかずを提供してくれた。暮らしぶりは、質素なものだ。贅沢ができる環境ではないらしい。

「お聞きしてもよろしいですか」

 と、明恵はにこりともせずに言った。

「なんなりと」

 と、篠は相変わらずの穏やかさで答えた。

「あの男は一体何を考えているのですか。だいたい、あなたもあなたです。旦那がいきなり、わけのわからぬ女を家に連れ込んで、なんの断りもせずにその世話を言いつけるなんて!文句の一つでも言ったらどうです。この女は何者か、こんな昼間から帰ってくるなんざ、貴様仕事はどうしたのか、と」

「あの方がなさることですから、きっとなにか意味があるのでございましょう」

 明恵がカッとして、膳を両手で叩きながら篠に詰め寄る。

「それでいいのですか!?たとえば私があの人の情婦なのかもしれませんよ!?」
「ご心配なく。あなたは、古月さんの情婦にはなりえませんから」

 にっこりとほほ笑み、倒れた湯呑の片づけを始める篠。朝重はなんだか力が抜けて、その場にストンと尻を付いた。まるで暖簾に腕押しだ。
 なんとなく収まりのつかないが、米を書き込んでいる最中にもぐううと腹が鳴った。篠もそれに気が付いたらしく、明恵を見てくすっと笑った。

「お疲れのようですね」
「面目もありません。空腹に耐えかねてここまで甘えてしまいました。この礼は何れ必ず。それではここで失礼いたします」

 そういって食べかけの茶碗をおいて立ち上がろうとした明恵を、幼い手が留めた。

「行ってしまうのですか?」

 明恵は、こどもにどう接していいのか解らない。

「こら由枝」

 客人の行く手を遮った娘を諌めながら、篠が顔を上げた。

「お名前を伺っても?」
「……明恵(ともえ)と申します」
「帰る家はあるのですか?」
「あなたには関係のないことです」
「もし頼るところがないのなら、しばらくここにいてはどうかしら。私たちは、先日東京に来たばかりで、由枝もほら、話し相手が欲しいころなのです。どうかしら」
「お気持ち、有難く頂戴いたします。しかし私はこどものあやし方も知りません。きっとお役には立てません」
「そんなことあらへんよ。お前はようよう役に立つ」

 寝間着に着替えた古月が、襖をあけた。
 
「意味が解りませんが、別にあなたと何かをしようということはありません。先ほどはよくも邪魔をしてくださいましたね。ようやく舎人様に会うことができたというのに」
「お前が耕三郎のなんなのか興味はあらへんが、お前がいればまた耕三郎に会うことができるかもしれへん。しばらくここにいてもらうからそのつもりでいいや」
「こうして食事をいただいたことには感謝いたします。しかし奥方になにも告げずに連れ込んだ女を押し付けるとか、あげく拾い物の女に役に立てだの、あなたの人間性には大いに疑問があります。したがって、これ以上あなたに所縁を持ちたくはありません。わたしはここで失礼します」

 と、立ち上がると途端に眩暈を起こし、明恵はそこに倒れこんでしまった。
 不本意ではあるが、彼女は北条家で介抱されることになった。

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2012/07/28(土)
1、奇人二人

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