桜花往生

kanayano版日本近代史。

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2011/12/05(Mon)

吉岡輝也の憂鬱(1)

吉岡輝也は、いたって不機嫌である。


 季節は正月を迎えようとしていた。退屈な国語――それはかれにとって必ずしも母国語とは限らない――の授業を適当に聞き流しながら、教室の窓にちらちらと舞う雪を眺めている。
 陸軍の幼年学校は、この年に改編があり、元来全国に五つある地方幼年学校を経て、ここ東京の中央学校に至る流れになっていたが、いわゆる中央校は「陸軍士官学校予科」として再編されることとなった。輝也は東京の幼年学校を経て、先だって二か月前、晴れて予科の学徒となった。士官学校の生徒は、いわゆる地方のエリートが寄り集まっていることに加え、普通中学から抜きんでた人間がこちらに進路を変えてくるものもいる。要するに、この時代における日本の頭脳の中枢が集まっているのだ――と幹部連中は宣いたいところであろうが、東京の地方幼年学校在学中から卒業までを完璧なまでに「優等」を貫いた輝也に、幹部らが求める大日本帝国への忠義とか、士官たる心意気というものが微塵もないというのはなかなか面白い。そんなわけで周囲の期待はいざ知らず、白河川に「まあ、その辺は適当に」と仰せつかっている輝也としては、つかず離れず、人並みに物事をこなしているに過ぎないのではあるが。

 東京の地方幼年学校に入学するまで、輝也は目が見えなかった。ある日突然、光を得た。
 文字というものを掌の感触でしか知らなかった輝也はまず、弟、拓真とともに文字を視覚として覚えることから始めなければならなかった。仮名、カタカナ、算用数字に加えて小学卒業四年の間に覚えねばならぬ漢字の量は、およそ千。輝也はそれを、三カ月もすればあらかたをマスターした。それは彼自身の才能というより、盲目時代より外界の刺激を体内で映像化する技術にたけており、輝也にとって漢字は「絵」であり、文章は「風景」であったたことにも拠る。拓真が読み聞かせる古今東西の蔵書はあらかた頭に入っていたし、あとは輝也の中にあった心象風景と現実のズレをすり合わせる作業を行うのみであった。難儀したのは色であった。輝也が体内にイメージとして持っていたのは「黒」と「白」。物事はその濃淡で表現されていた。光を得てから、拓真が輝也の手を取り、「これがあか」「これがあお」と一つずつ指差して口にするのだが、当の拓真自身、一年以上前の記憶を失い、知識指数で言えば三歳児に等しい状態。二人してコガネムシの羽色の形容に困っていると、山城眞子が例のむっつりとした顔をぶら下げてやってきて、「それは黄金色です」と言って去っていく。そのままじゃないか、そんな色があるのかと拓真が騒ぎ出せば、すっかりかれの手垢で汚れた図録をひっぱり出してきて、輝也にこがねいろのなんたるかを語って聞かせるのだ。互いの足りぬ部分を補いあいながら、二人は世界を少しずつ広げていった。

 輝也が士官学校の予科に入学すると、拓真も東京の幼年学校に通い始めた。二人とも白河川の自宅のある蒲田から通っていたが、輝也が予科に入学すると同時に市ヶ谷に下宿をするようになり、拓真と離れて暮らすことになった。好奇心ばかり旺盛で、10年分の経験値がすっぽり抜けている拓真が学友と上手くやっていけているのか初めは心配したものだが、拓真の無垢な振る舞いは学友たちにも個性として好意的に捉えられているらしく、兄の心配も杞憂に終わった。父親代わりであるはずの、当の帝国元帥白河川修は陽の当たる部屋のソファーに深く腰掛けて穏やかに微笑んでおり、「まあ、その辺は適当に」と言っている。拓真はかれなりの「適当」にあっちこっち飛び回っているようで、週末に輝也が蒲田に顔を見せれば、飼い犬の様に飛びついてきては、一週間のありのままを口上する。カマキリの卵を見つけたのだとか、友達と川がどこまで続いているのかさかのぼってみたとか、昨日読み終わった「進化論」の話だとか。輝也はそれらを聞き流すような素振りをしつつ、脳内では拓真の目を通じた世界を透視していて、予科での退屈な国語や修身の授業よりもよっぽど充実した時間を過ごすのだった。帝国陸軍の士官たる者、常に天皇の忠臣であり、優秀な指導者であらねばならぬというのが一般の常。中でも幼年、中央を経て士官、陸大と進むことは、日本男児の誉れであるという時代の中に、「軍人勅諭というものがくだらなくて覚えられぬ」と、当の作成者に近い陸軍元帥、白河川にぐだを巻いているのが輝也という人物である。


 その輝也が、中央校入学以来不機嫌なのは、ある同期生(クラスメイト)の存在である。


「では舎人、45頁8行から精読せよ」


 はい、と慄然として立ち上がった青年は、成長期を迎えている17,8の他のクラスメイトの中では一際小さく、ほっそりとした体は頑強が理想とされる士官学校においてはいささか頼りなさげ。立襟からのぞく喉元から、刈り上げられた耳元のあたりにかけて妙に艶めいていて、こうして授業中に立ち上がった彼を見て、俄かにクラスの空気が弛む。それは教官にも同じことが言えるようで、この空気を叱咤しようものなら、彼の色気を教官も認めたということになるから、だれもその役を負おうとしないのだ。

 当然、本人がそれに気が付かないわけがない。
 その空気を打ち払うかの如く、まだ声変わりもしていないような細い声を懸命に張り上げて、堂々と一節を読み終える。教官が「よし」というと、雄一郎はぴしゃりと席に着いた。軍人勅諭を絵にかいたような立ち振る舞い。品性良好で礼儀正しく、清廉潔白、実直剛健、士官たる自覚を(この年で!)深々と胸に刻んでいるような人間、それが輝也の見る舎人雄一郎という同期であった。


 だがこの同期、輝也にすれば大分訳有りなのである。
 
 輝也の目に光が戻ったその瞬間、その瞳が初めて写した彼――舎人雄一郎は男ではなかった。

 記憶を無くした舎人 拓真の実の姉、それが舎人雄一郎の真実の姿、つまり彼は「彼女」なのだ。


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2011/12/07(Wed)

吉岡輝也の憂鬱(2)

*「彼女」もまた、不機嫌であった。

 
 入学から2ケ月が経とうとしているが、一向にその身をまとう堅固な鎧のような空気を解く気配はない。同期たちが「彼女」を前に悉く玉砕していくのを、輝也もまた一度と無く目にしている。その女子のような(女子なのだが)見目麗しい容姿を持ち、弁は立ち、成績も上々のいわばクラスの花形は、自らに取り入らんとする同期を一喝し、身辺から遠ざけ、ますます孤立を深めている。クラスの纏め役とやらを教官に任されている輝也は、「彼女」の鉄壁の防御に打ちのめされた同期を適当に庇いつつ、一体どうしたものかと心中に溜息を付いている。輝也自身が「彼女」と打ち解けるとかそうでないかという話ではない。これではクラスの協調性とやらを保持することができないからだ。

 雄一郎は京都の幼年学校での二年間も、どうやらそのスタイルを貫いたらしい。同窓だった男からその話を聞いて、輝也はその据えかねた根性の凄まじさというよりむしろ、「そこまでしてなぜ男にならねばならんのだ」と心中を図りかねた。ただ、男装して世の中を生きるのとはわけが違う。一国を背負い、数万という部下の命を背負い、そうして冷酷な判断を下せる人間を養成する機関、それが陸軍学校だ。その身を挺してまで助けようとした弟が自分のことをすっかり忘れてしまっているショックが、こういう随分と殊勝な形で「彼女」に発露しているのだとしたら、それはただひたすらに悲惨であった。どんなに選りすぐりの人間が集められた組織といえ、ここは純粋なる男社会。見目麗しい男子は、そうではない年頃の男子の、恰好の好機の対象とされることが往々としてあるものだが(実際、輝也もその対象に万遍なく該当している)、地方学校在学中の二年間をああやって人を遠ざけることで過ごして来たのは、自分の正体が女であると感付かれないようにするためであり、その体力測定以外の筆記科目を抜群の成績で勝ち抜いてきたのも、見かけ以外のもので自分の存在を周囲に認めさせたいという「彼女」の意地だったに違いない。輝也には理解できない意地である。


 女というものは、凄まじいな。


 輝也は頑なな雄一郎の振る舞いを前にして、そう胸中に呟いている自分自身に驚嘆する。どうやらおれ自身は、自分を女以外のものであると自覚しているらしい。輝也は来日する前、母親の経営する上海の料亭で、男に身体を売る商売をしていた。ずいぶんと小さい自分からそういうことをしていたせいか、いつの間にか自分は男の慰めモノ――すなわち女なのだと自己認識していた。白河川に引き取られ、来日してからもしばらくはそういうふうに思っていたはずだが、そういえばいつからであろう。自分が男であること、女であることの性別の矛盾に疑問を感じなくなったのは。

 輝也の顔を、曇り無き眼で見上げる拓真の顔が浮かぶ。

 あの天衣無縫な弟は、家族の記憶も言葉も失った状態で、白河川に「兄」を与えられたのだ。兄とは、家族。親の次に自分に近い存在。拓真は、輝也のことを「たくまとおんなじ」と形容した。まだ、長い髪を切っておらず、女物の着物を着せられていた時分にである。あれの直感が、おれの本質を見ぬいたのだ、と輝也は思っている。何も知らぬ弟だというのに、そういう動物的直感だけは周りの人間よりも恐ろしく冴えている。自分以外の人間は基本的に信用しない輝也が、唯一信用する人間がいるとすれば、それは義理の弟、拓真なのである。

 その拓真が記憶の上で失った「姉」が、その美しい睫を書物に向け、立襟の軍服に身を包み、頭を丸刈りにして軍人然として輝也の前に座っている。休み時間だというのに旧友と無駄口を叩くこともせず、大正改元の年に明治帝に殉じた乃木将軍による独逸留学時のレポートをもくもくと読み進めている。最近では、クラスの同好連中も舎人を相手にするようなものもおらず、本人はいたって平和に厳しい目を書物に向けているのであるが、クラスの雰囲気は正直に言って居心地がいいとは言えぬ状況。名目上は輝也がクラスリーダーであるが、実質のムードメーカー役を買って出ている出雲という京都からの雄一郎の同期が「智慧を貸してくれないか」と輝也に話を振ってくる。

「何の」

「決まっている。このままでいいわけがない。京都ではあのままを貫けても、これから予科を出て任官して士官学校に入るんだぞ、連隊を率いる隊長があれでは、部下もついては来るまい。したがって、あれの協調性をもうちっとマシにしてやるべきと思うが、どう思う」

「どう思うも何も、落第したい奴は早々に落第してくれれば出世の好敵手が減る。素晴らしいことじゃないか」

 繰り返すが、輝也には大日本帝国や陸軍に対する忠義も顕示欲も、わずかたりとも持ち合わせてはいない。口から出たのは同期に対する単なる皮肉。

「吉岡。われわれに落第者など出させはしない。舎人自身、何か問題を抱えているなら、皆でそれを解決してやりたいんだ。同期の桜とは、そういうものだろう」

 こういう物事に素直な男は、上官の覚えめでたく、先陣切って出世をしていくのだろうなと毒付きながら、輝也も眺めていた書物を閉じて出雲に向き直った。不愉快な感情を隠さない輝也だが、この出雲という男もまた、どこか天然なところが抜け切れず、率先してクラスの面倒をよく見たがるのだ。そういうものに自分を巻き込んでほしくはないと、眼鏡の奥で出雲に訴えるのだが、こういう男に限ってそういうマイナスの感情には鈍感で、こちらの意図を汲み取ってもらえないことも輝也は承知している。

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2011/12/10(Sat)

吉岡輝也の憂鬱(3)

******


 結局、その面倒事を輝也が引き受けることになった。
 というのも、下宿先では同期四人が一つの部屋をあてがわれていて、輝也と雄一郎は半端数として定員四人の部屋を二人で利用している。
 要するにルームメイトなのだ。

 入校式の日に雄一郎を一目見て、「あのときの彼女」であると直感した輝也は、それと同時にあえてその事実には深く踏み入らない様にしていた。それこそ、面倒なことになる。あのとき、「彼女」は輝也を見て、「あなたが拓真の新しいお姉さんね」と言った。向こうは、輝也のことをそう認識したらしい。実際、輝也もあの時点では、雄一郎のことを「拓真の実の姉」と認識しているのだ。ここで雄一郎を拓真の姉であると指摘することは、いろいろとやっかいなことになるのだ。そのようなことは、極力避けたい。
 そんなわけで入宿する日に二、三言言葉を交わして以降は、ろくに会話をした記憶がない。雄一郎は前述のとおり極力人との接触を避けているようであったし、輝也もでき得る限りでは煩わしい人付き合いなどはご辞退申し上げたいところなのだ。週末に蒲田の白河川邸に戻るとき、おそらくこのことを知らないわけのない当の本人に目で訴えたりもするのだけど、御大はその輝也の意図を汲み取ったうえで、笑顔で黙秘を貫いている。輝也から雄一郎の話題を切り出させることで、「彼女」への関心を抱いている確信につなげるつもりなのだろう。輝也はそれが面白くないので、とりあえず今まで、自分からその話を白河川に振っていない。


「舎人、少しいいか」

 
 金曜は夕食後すぐに点呼があり、そののちは月曜日の起床まで自由行動が許されている。夕食を腹におさめて一度部屋に戻り、舎人も帰宅の準備をしているようだった。輝也はそこで声をかけた。


「何か」


 相変わらず素っ気のない声が飛んできただけだった。輝也は特に意に介せず、「話がしたいんだが、時間を取ってもらえるか」と事務的に返した。


「軍務に関係のあることですか」


 これまた事務的な返答が帰ってきた。2ケ月も共に寝起きしているというのに、他の同期と同様、輝也もまた雄一郎にとっては油断すべからざる人間には変わりないのかもしれない。


「まあ、あるといえば」

「具体的には」

「お前の今後の周囲との関係性について」

「最低限は保てていると自覚しています。何か問題でも」

「任務に置いては機械的な人間関係を築けるからまだいいが、とりあえず今のお前の態度が、クラスに波風を立てていることは事実なんだ。何か気に入らないことでもあるのか。こちらとしてはできうる限りお前の望むような形にしたいと思うのだが」

「別に何も。これは私の問題です。クラスへ悪影響をもたらしているというのであれば、今後は態度を改めましょう。皆に気を使ってもらうなど無用。迷惑です」


 では、と言って部屋を出ようとする雄一郎を輝也は引き留めた。けったいそうな顔が「まだ何か」といって輝也を向いた。


「あ、いや、別に」


 雄一郎は輝也の手を払うようにして部屋を出ると、それとわかるような音を立てて扉を閉めた。輝也はいささか呆然としている。
 本当は、雄一郎を女だと直感はしていても、その確信は持てずにいたところだったのだ。さきほど掴んだ手首が、驚くほど華奢であったことに気が付き、雄一郎は女なのだ、と妙に得心がいったような気がしたのだ。それで、思わず声をかけそびれた。

 しまった、これでは何も解決していないじゃないか。

 呆然とその場に立ち尽くしていたが、はっと我に返り、輝也も荷物をまとめ始める。今日蒲田に帰って、もしあのタヌキ親爺がいたなら、今日は「彼女」のことを聞いてやろう。これはおれ自身の「彼女」への関心ではない。拓真の実の姉のことであり、クラスの協調性にも関わる重要な案件だ――。


 
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2011/12/11(Sun)

吉岡輝也の憂鬱(4)

******

 
「そういうわけなのだ」

「なるほど。輝也君、君はあくまでこれは君自身の興味ではなくて、クラスのためだというわけだね」

「そもそも、なんで女を士官学校なんぞに入れたのだ。あれにとっても、周囲にとっても互いにこういう反応になるだろうことは予想もついたであろうに」

 そういって輝也は目の前のティーカップに口を付けた。週末、白河川邸の、元帥の執務室。本人の仕事机の隣に、小さな応接用の机とソファがあり、その客席に輝也は腰かけている。
 白河川は資料に目を通しつつ、輝也の話を聞いている。白河川の本棚に背を預け、ベルヌを読んでいるのが拓真。

「なんでって」

 そういって白河川はふと顔を上げた。

「おもしろいから」

 臆面も無くそういってのける陸軍の元帥に、輝也は不快感を全力で体現して深く溜息を付く。このタヌキ親爺には何を言っても暖簾に腕押しということか。まあ、そんなことは初めから解りきっていたことではあるが。

「君はどう思うんだい、かれのこと」

「かれとは」

「決まっているじゃないか、彼女のことだよ」

 話の筋が合わない。おれがしたいのはそういう色めいた話ではなくて、雄一郎の入学におそらく一枚噛んでいるであろうこのタヌキ親爺の方から、雄一郎に諫言してほしいということなのだが。

「優秀な同期だ。それ以上でもそれ以下でもない」

「いまのところ、成績は君の方が上のようだね。彼女は常に君の次点だ」

「あれに主席を譲ってやればいいというのか」

「そんなことをしたら却って彼女のプライドに傷をつけてしまうよ。今のままでいい」

 白河川はそう言って手に持っていた資料をテーブルに置き、一息付いた。窓の外は晴天。真冬の晴天は、カラッとしていてひどく涼やかだ。

「だいたい、京都での二年間をどうやって過ごしたのだ。身体検査の類はお前が差配したのだとして、日常生活やらなにやら不都合が出るだろう」

「ご想像にお任せしますよ。ところで輝也君、彼女は君と、そう大差無いのだとは思わないか。かたや、女児として生を受け、その性を捨て、男として生きることを選んだ雄一郎君。かたや、女児として育てられ、その容姿もほとんど女子であり、しかし最近男としての自覚の発露を覚え始めた君。どうだい、互いによき理解者になれると思わないか」

「つまらない冗談はよせ。そもそも、生まれついた瞬間から肉体的の違いがある。おれはあれの気持ちなんて解らぬし、おれの心情など誰に理解されてたまるものか」

「ああそうだね、忘れていたよ。君には初花の経験なんてなかったものね。すまないすまない」

 「はっ……!」と言って面食らった輝也に、白河川はにこにことしながら席を立った。
 出ていこうとする元帥の背中を、拓真が視線で追った。輝也はというと勢い立ち上がり、「おい、まだ話は」と言いかける。

「彼女を助けてやってくれ。気の強い子だが、彼女一人の力ではどうにもできないこともこれからは出てくるだろう。そのときにきっと、君は彼女の力になってやることができる」

 「もっとも、両性の合意の上での交際なら歓迎するよ」と言い残して元帥は執務室を出た。輝也は「だれがあんな!」と声を張り上げて手元の帳面をドアに投げつけた。それを黙ってみていた拓真がびっくりしている。腹が立ったもので肩で息をしているが、落ち着け、と自分に言い聞かせて、ようやく息を整えた。

 
 助けてやれだと?俺が?
 あんな強情なやつと何を分かち合えというんだ。

 
 脳裏に、あのときの邂逅がよぎる。「弟を頼む」とのたもうた、凛とした佇まいの少女。触れがたい高貴さをその身に纏いながらも、ふわりと風になびく黒髪が少女の可憐さを思わせ、そのほっそりとしたからだに似合わぬ強い決意を込めた瞳を、輝也はあの時確かに、美しいと感じたのだ。

 いつの間にか拓真がそばに寄ってきて、輝也をのぞきこんでいる。「どうしたの?」という顔をしている。
 それの頭を撫でてやり、輝也はきっ、と顔を上げる。

 結論は出ていない。
 とりあえず、過去の回想は過去のもの。今のヤツは根本的に気に食わん。


 ***


 日曜の夜に市ヶ谷の宿舎に戻る途上、輝也は道場の方で物音がした気がして、ふとそちらに足を向けた。
 広い道場に、一つだけ明かりをともして、ひたすらに打ち込みを続けているものがいる。

 こんな時間に?
 ずいぶんと殊勝な奴がいたものだな。

 いつもの輝也であれば対して興味も抱かずに、そのまま部屋に帰ったかもしれない。しかしこの日はなぜだか、そんな殊勝な奴の顔を拝んでみたくなった。
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2011/12/12(Mon)

吉岡輝也の憂鬱(5)

殊勝な人間は、輝也の気配に気が付く様子もなく、気合とともに何度も竹刀を力強く振り下ろしていた。
 17にもなって声変わりをした様子もないアルトボイス。華奢な体つき。
 もう2カ月も生活を共にしている。防具の面を外さぬともその主がすぐに脳裏に浮かんだ。


「打ち込みの手伝いをしてやろうか」


 雄一郎が膝をつき、面を外したところで、輝也は声をかけた。蒸気する熱を帯びた「彼女」の白い肌に玉の汗が線と流れ、呼吸を整えるのと荒げた息で肩を大きく揺すっている。雄一郎は輝也の方を見ることもせずに、「結構」と言い放った。


「おれでは不足か?」
「ええ」

 
 壁にもたれて雄一郎を見下ろしている形になっている輝也を、雄一郎が初めて向き直った。


「あなたでは私の相手にはなりませんから」


 それについては輝也も異論はない。どうやら学校以外でも剣を学んでいたらしく、その足捌き、相手との距離感、打ち込みの速さ、同期の中では申し分のないセンスの持ち主だ。こうして人知れず努力を欠かさないことにも起因するのだろうが、おそらくもっと小さなころから竹刀を握り、相手と対面して打ち合っていたのだろう。ちなみに武術からきしな輝也は、たまに眞子から拳銃の打ち方や簡単な体術を教わった程度で、あとは幼年学校以来の体術の基礎に万遍なく準拠している。輝也も決して体格頑強とは言えぬ体つきではあるが同期の中でも優秀の部類に属していられるのは、対面する相手の感情をいち早く察知できるからだ。次の行動を読むことができれば、早々にそれに備える動きをすればいい。とはいっても、雄一郎のクラスになると先読みの前に打ち込まれてしまうから、剣術体術に関して、輝也は雄一郎から勝ち星を奪ったことがない。


「大した自信だな」
「ご謙遜を。東京の幼年学校では他を寄せ付けぬ優等で卒業され、将来の参謀長を嘱望されているあなたのお言葉か」
「ご挨拶だな。お前も京都を優等で出てきた身だろう」
「ええ、ここに来るまでは」


 ちらりと伺い見た雄一郎の目は笑っていない。明らかな自分への敵愾心。こうにも露骨に向けられるとなかなか居心地が悪いものだなと思いつつ、輝也のほうもまた、皮肉の一つでも返してやらねば気が済まぬというような気持ちになった。


「お父上はかの陸軍参謀、舎人耕三郎大佐だったか。その薫陶を受けているのだから息子が優秀であるのもまた必然か」


 輝也は自分でその言葉を口にしながら、喉に引っかかるような違和感を覚えた。舎人耕三郎。その息子。


「父は父、私は私です。それに、父は身寄りのない私を引き取ってくれた。その御恩に報いねばならぬ」


 ああ、そうだった――と輝也は思った。舎人耕三郎は、不慮の事故で二人の子息を失い、代わりに遠縁の雄一郎を養子に迎え入れた、ということになっていたのだった。本当に血のつながった親子であるというのに、それを否定せねばならぬというのは、通常はどういった心情であることが正解なのだろうか。輝也は自分の父親の顔というものを思い浮かべて、今は大学校の教官として教鞭を振るう陸軍少佐の父の顔を思い浮かべてみる。名字の違うあの男の輪郭はおぼろげにしか思い出せず、対した感慨もない。やはり、「彼女」の心中を慮ることはできない。


「あなたこそ、日ごろの態度言動からは帝国への献身も陛下への忠信も微塵も感じられないのに、どうしてああにも、教科の成績だけはよいのだろうといつも感心しております。さぞかし本を眺めているのかと思えば、昼休みはただぼんやりと外を眺めているだけ。いったいどうして、こんなにももの覚えがいいのかしら?あなたこそ、想像を逸するようなご家庭に恵まれてお育ち遊ばされたのでしょうね」


 これは驚いた。他人には関心がないと思っていたが、輝也の休み時間などに興味を向けるような趣向があったとは。
 しかし、このようにいちいち言葉尻にトゲを刺されたのでは、輝也の中の「輝煌」が黙ってはいない。輝也は奥歯で何かを噛みしめるようにして、言葉を捩り出す。


「おい」
「はい?」


 ふと声をかけた瞬間に、雄一郎の空気が弛む。その一瞬を、輝也は見逃さなかった。
 雄一郎が異変に気付いて竹刀を握るより早く、輝也の方がその体重を雄一郎に預け、その襟足を掴み、その腕で喉元を固定するようにしてどおんと床に叩き付けた。輝也の方が反応が早かったせいか受け身を取ることのできなかった雄一郎は後頭部に衝撃を受けたらしく、一瞬その可憐な表情を歪めたが、大した抵抗もせず、目だけは輝也から逸らさずにいる。組み伏せたままの輝也は体重を雄一郎に預けてその動きを完全に封じると、鼻先が触れ合うような位置で「お前」と言った。


「怖くないのか」
「何がです」
「俺が」
「誰が」
「強がるなよ、俺とお前は、根本的に違うんだ」


 輝也がそれを望めば、雄一郎をそのままどうにでもできたかもしれない。が、輝也はそのまましばらく雄一郎を睨みつけて(そして同じように睨み返されて)、そうして輝也の方からぱっと雄一郎から離れると、ろくに挨拶をすることもなく道場を出た。雄一郎の表情は見えなかった。


『おれはお前の見方だ、何か困っていることがあればいつでも相談に乗ってやるから』


 なんて言える空気は微塵もなかった。少なくとも、蒲田からの帰路、そういうシチュエーションを描いていた自分が恥ずかしくなった。
 内心、一体どうしたものやらと大きく項垂れている輝也がいる。
 ついかっとなって粋がってしまったものの、あれは同期でルームメイトだぞ、これからも明日からも少なくともあと四年は顔を合わせ続けねばならぬといのに。

 組み伏せたときに、雄一郎の細い首元に巻かれた包帯から覗く、赤く爛れた皮膚を見た。

 そうして白河川から伝え聞いた舎人邸の火事の話や拓真の顔などを頭に浮かべているうちに、さっきの醜態とごちゃまぜになって「ああああ」と情けない声など出してみる。

 

 ……やはりあれには深入れしないほうがおれのためでもあるらしい。だがここはひとつ――


 顔を洗おう。
 そう心に割り切って輝也は共用の洗面所へ向かった。



 ***



「輝也君はうまくやってくれますよ」


 夜、白河川邸の執務室。自らの退役関係の書類を一通りまとめた白河川修は、コーヒーを淹れに来た山城眞子に声をかけた。


「それよりも、私は孝子さんにはやく自分の限界を理解してほしいところです。女には女の役割があると」
「おや、あなたの口からそんな言葉を聞くことがあろうとは」


 輝也はこの男をタヌキと形容するが、それもあらかた間違っていないと眞子は思っている。
 維新前は10代にして官軍士官。幕府軍につき従っていた眞子は、維新後、夫とともにこの男に拾われるまでどんなに恐ろしい容貌の男なのだろうと思っていた。

 眞子たちを迎えた白河川はまだ三十路を前にした、背だけがひょろっと高いどこかもの頼りなさげな総髪の若者だった。

 気が付けば、この男の妻はすでに亡く、眞子の夫も大正改元早々に他界した。
 目的のためならば、人間を機械の様に切り捨てることのできる男。それが眞子の、白河川修という人間だ。
 一度は幕府とともに散った命、もはや亡き者と自覚して、この男の機械として立ち振る舞ってきた。
 だけど眞子は考えることがある。白河川修が、組織を機械化できたわけじゃない。
 おそらくそれにつき従う人間たちが、機械として白河川に組織されることを望んだのだ。

 それが明治という立憲君主の空気にうまく適合し、折よく大戦があり、軍備が拡張され、図らずとも力を持ちえたのがこの男だ。
 男は、力など望んでいなかったに違いない。
 維新のころ、この男の妻であった女に聞いたことがある。

 女は、日本人には見られない青い目をしていて、肌は雪のように白く、栗色の淡く波打ったような髪を後ろに一つ束ねていた。

「どうして私は、日本人に生まれなかったのかな」

 修ちゃんは、争い事が苦手なの。早く、みんなが平和に暮らせるといいね。

 彼女は、そんな白河川の目的の途上に、自ら死んだ。
 それはこの国のためではあったが、ただ一人それを望まない人間がいるとすれば、それはほかならぬ白河川であった。

「吉岡輝也をこのままにさせておいていいのですか。順調にいけば確実に陸軍の中枢に食い込みますよ。そうすれば大陸への情報流出は」

「眞子さん、帝国陸軍の仮想敵国は支那とは限らないのですよ。それに、あれには」

 そういって白河川は大きく息を吸った。膝の上に組まれた手に皺がよる。あれから40年互いに寄る波を重ねた。 真冬の真空が目に見えるようだった。

「人間の血が通っている。私たちの間違いに気が付いてくれる。孝子さんや、輝也君や、拓真君が、この帝国という装置の何かがおかしいと、きっと思ってくれる。そうしたときに、かれらには、何かを変えることができる力を今から準備しておいてあげたいと思うんですよ」


 白河川を機械のような人間にしてしまったのは、かれを取り囲んだ人間だったのだろうと眞子は思う。
 強い指導者を。崇高な理想を。
 そして、それを実行できるだけの戦歴と実行力を持つ男という虚像。

 取り囲んだ人間の中に、眞子は自分の顔を見る。
 人間の堅牢に取り囲まれた帝国陸軍元帥、白河川修がぼんやりと見据える先を、今の眞子には、共に見通すことができないでいる。 

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2011/12/15(Thu)

吉岡輝也の憂鬱(6)

******


 事件は唐突に起きた。


 ここは予科一学年の教室、時は週末、金曜日の放課後。
 帰りの支度などを始める同期たちの中、舎人雄一郎が輝也の席までやって、

「私と勝負してください」

 といった。着席の姿勢のまま教科書などをカバンに入れようとする姿勢のまま見下ろされる形となった輝也。そして一斉に、教室中の視線が二人に集中した。 


「は?」

「聞こえなかったんですか。勝負しろといっているのです、私と」


 雄一郎を見上げて、迂闊にも輝也は唖然としている。刹那、しんと静まり返った教室が俄かに湧いて、二人を取り巻き始める。入学以来、自分から周囲に接触を持とうとしなかった雄一郎が、初めて声をかけた相手。それが校内でも噂の白皙の美青年ともなれば、同期ならずとも好奇を抱いて興味をそそられるというものだろう。「勝負とはなんだ」「確か貴様ら、同室だったよな。何かあったのか」「なぜ吉岡なんだ」と周囲は興味半分、真意半分、要するにこれを雄一郎という人間を知る絶好の好機と見ているようだった。雄一郎は周囲の雑音には一切耳を傾ける様子もなく、美しい睫を下向かせて、輝也に強い視線を送っている。
 一方の輝也はといえば突然のことに一旦停止してしまった思考回路を稼働させて、「さては日曜の夜のことか」とようやく一つの結論にたどりつく。だがなぜわざわざ公然と宣言せねばならない。そうでなくともこの状態、すでに教室中の衆目を集めているのだぞ。


「明後日夜九時、道場で待っています。得物は竹刀。なにか要望は」
「ちょっと待て。おれはその勝負を受けるとは言っていない。第一、なんでわざわざ」
「逃げるんですか」


 ひたと静まり返る教室。これは嫌とは言えぬ空気だ。輝也が返答に窮していると、


「日曜日、待ってますから」


 と行って、踵を返した。群がっていた連中はその空気に気圧されるような形で、雄一郎に退路を明け渡した。輝也も同期たちも、身体は膠着した状態で視線だけで「彼女」を追っている。
 そうしてその視界から雄一郎が消えると、またさっきの元気が噴出した。政治家に群がる記者たちの様に、次々と輝也に質疑が投げられる。


「貴様、舎人に何かしたのか」

「宿舎での様子はどうなんだ、舎人は、どんなことを貴様に話すのだ」

「あいつ、女はいるのか?いや、あの顔ならば、男の一人や二人いてもおかしくはないぞ……」

「やはり、筆記科目では貴様に勝てぬとみて、得意の剣術で好敵手を討ち果たそうという算段か」


 勝手にワイワイと騒ぎ出す同期たち。輝也はいろいろと感情に任せたい気持ちをぐっと堪えて教科書をしまうと、がたんと立ち上がった。途端に、一人が「貴様、舎人の決闘を受けるよな?」と聞いてきた。


「受けない」


 広がるどよめき。歩みを進めようとしても、先ほどの雄一郎のように彼らは道をあけてくれなかった。


「負けると分かっている勝負に、わざわざ出向く必要はない。あれが何を考えているかは知らんが、面倒は御免だ。おれは行かない。誰かあれに適当に何か言っておいてくれ」

「貴様、同期の面目を潰そうというのか!」

「それでも士官を志す同志か!」


 同期たちは雄一郎との勝負を受けるよう口上しながら、輝也を取り囲んで追い詰めていく。いよいよかれが身動きを取れないような状況になったところで「まあ落ち着け皆」と出雲が大きな声を上げた。


「吉岡、これはわれわれ54期生に一つの光明を与えるかもしれない。舎人を本当の同期として迎えたい。皆そう思っているんだ」


 同意の声が端々からとんだ。「うそつけ、半分楽しんでやがるんだろうが」と輝也は内心に毒づいた。


「是非、この勝負を受けてもらいたい。54期一同、心の底から二人の健闘を応援しよう!」


 教室中がわああっと盛り上がった。この空気にうんざりしている輝也の目の前に、己の言動に嘘偽りはないと妙に得心している出雲。誂え向きに腕組みまでしてうんうんと頷いている。「負けるなよ吉岡!」「あいつの鼻っ柱を折ってしまえ!」「いやでも顔は狙うな、あのキレイな顔に傷がつくのは見たくない」等々。相変わらず好き勝手に言ってくれる連中である。

 鼻っ柱を折られるのは俺だ。
 衆目されることは嫌いではないが、今回ばかりは条件が悪すぎる。

 白河川に雄一郎のことをよろしく頼むと言われてはいるものの、心を許しあう仲になれとまで言明されたわけではない。要は女としては都合の悪いというときに手を貸してやればいいんだろう。それで結構。大陸の人間であるおれが、わざわざ日本の学校に通っているのも、もとはといえば楽弥の命であるからであって――

 
 ……などと懸命に退避の理由を考えていた輝也は、雄一郎指定の夜に同期らによって半ば拉致され、道場に引きづりこまれた。


 そこには、白い道着姿に身を包み、竹刀を傍らに置いて心静かに座している雄一郎と、群ひとつが好奇の塊ともいうような連中が外野にいて、道場に姿を見せた輝也に、そして雄一郎に思い思いの声援を送っていた。
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2011/12/17(Sat)

吉岡輝也の憂鬱(7)

ざっと30人はいるだろうか。
 明日も早朝から講義があるというのに、よく見れば上級生も混じっていたりする。
放り出されるように道場の中央に進み出た輝也は、ようやくゆっくりと顔を上げた。雄一郎は周りの喧騒とはまた違う次元にいて、そこには己と輝也しかいないような気がしているのではないかと思われるほど、静かな目をこちらに向けている。


「始めましょうか」


 竹刀を手にすらりと立ち上がり、正眼に構えた。


「ちょ、ちょっと待て。本当にやるのか。日曜のことなら、ついかっとなってしまった自分にも否がある。謝るから、この場を収めよう、な?」

「日曜?」


 雄一郎は少し意外そうに目を丸くして、「ああ、あのことですか」と何か思い出したようにそう言った。


「それが何か」


 日曜のこととはなんだ!と場外から声が飛んでいる。雄一郎は相変わらず外野には耳を傾けていないらしいが、そこかしこで輝也と雄一郎の勝敗についてどちらに幾ら掛けるとか、詳細な戦力分析とか、二人の関係だとか、はたまたこの後の宴会の予定まで組まれているらしい。厳しい規律に縛られた軍宿舎でのイレギュラーとあって、連中は輝也の憂鬱を尻目にお祭り騒ぎであった。


「日曜のことではないなら、なぜこんなことを仕掛けた。おれは面倒事に巻き込まれるのは御免だ」

「私には恩師がいます」


 いきなり何の話を始めるのだ、と思ったのは輝也だけではなかったらしい。場内の喧騒が静まり、雄一郎の次の言葉を待っているようだった。


「その恩師に、私は『士官学校を首席で卒業する』と約束をしました。だけどこのままでは、私はあなたに勝てない。だから、あなたから何か一つでも勝ち星をもらっておきたい」

「まだ予科入校二カ月だぞ。先週も言ったが、お前は充分に優秀だ。これから奮励すれば主席なんて」

「あなたに何が分かるんです!」


 その科白には、確かな怒気が宿っていた。普段、感情を表にしない雄一郎が、周囲に見せた初めての想いだった。


「あなたは、きっとこれからも、その容姿端麗な姿と論理明快な頭脳を持って軍首脳への道を進むのでしょう。私などが、どれだけ努力をしてもあなたの生まれ持った才に勝てるはずもなく、私はあなたの生まれ持った素質にいつも歯ぎしりをしながらその背中を眺めながら生きていくのは御免なのです! 竹刀を取りなさい吉岡輝也! 守るべきものもないあなた如きに、私は負けるわけにはいかない!!」


 いつの間にか場が静まり返っている。雄一郎の偽りのない本心だと、皆が認めたからであろう。
 だが、何がそこまで雄一郎を追い詰めているのか、この場で理解しているものが一人でもいたであろうか。それは輝也も同じことだった。恩師とはおそらく、輝也にとっても日本でも庇護者である白河川修のことだろう。守りたいものとは言うまでもなく、「彼女」の弟、拓真。そこまで知る輝也ですら、雄一郎の真意を推し量ることはできない。何がそこまで「彼女」を追い詰めているのだろう。


「舎人」

「はい」

「お前の、守るべきものが何なのかおれには見当もつかないが」


 真意。そう、真意が知りたいのだ、と輝也は思った。
 あのとき、勝呂の病院ですれ違った「俺」に、「彼女」は、「逆らえない時流のなかで与えられた人生を歩む他無い」と言った。ならばなぜ、今お前は、自らの性を偽り、こうして自らの身を危険に晒してまで陸軍の士官になりたいと願ったのだ。しかもただ願うのではなく、最優等にこだわる理由はなんなのだ。
 命に代えても守りたいはずだったお前の弟は、もうお前のことを何も覚えていないのだぞ。


「例えばそれが本当に大切なものだというのなら、こんなところで、こんなバカげたことをするよりも、少しでも長い時間、それの近くにいてやる道もあるのではないか?」


 輝也は、何も知らぬことになっている。無論、雄一郎も輝也の来歴を知るはずもない。そうだ、俺は白河川から伝え聞いて、知っているつもりだった。「彼女」がどんな人生を歩んできたのかということ。女というもの。拓真を何よりも大切に思っているということ。しかし、拓真の状態や命を狙われる可能性を否定しえぬという理由から姉弟は引き離され、拓真は輝也の新しい弟となったのだ。その弟が、どんな人間にも愛される器であることは、今や拓真の一番近い存在である輝也が、よく理解している。


「その返答は、この勝負に関係ありません」

「お前が勝手に仕掛けてきたんだろう。勝負を受けるも受けないもおれの心積もりにある。納得のいく答えをもらえないのなら、おれもこの勝負を引き受ける理由は無い」


 雄一郎は少しだけ押し黙った。


「強くならねばならないのです。大切なものを守るために。私は、あの子が士官になるというのなら、あの子の分まで軍の力にならねばならない。あの子を前線に出すわけにはいかない。そのために、私は軍の中央に意見できるだけの根拠を、今から持ちえていなくてはならない」

 
 輝也は竹刀を同期から受け取ると、雄一郎に向き直り、一礼をして正眼に構えた。
 外野連中はうまく事態が呑み込めていないらしい。だが輝也には、それが「彼女」の真意なのだとようやく得心がいったのだ。


 おれに家族を教えてくれたのは拓真だ。
 あれが人殺しをするところを見たくないということだけは、俺にも心当たりがある。



「一本だ」


 そう言って、輝也は審判役の同期に目配せをした。
 上げられた右手が、「始め!」の声とともに振り下ろされる。
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2011/12/19(Mon)

吉岡輝也の憂鬱(8)

先に仕掛けてきたのは雄一郎だった。同期への合図も舎人にとっては不意打ちであっただろうにも関わらず、状況を即座に判断し、攻撃体制に入ったのだろう。反射神経まで抜群に良いとなると、いよいよ輝也に勝機は無い。

「!」

剣線を先読みしても竹刀で上段を弾きつつ、体を直線上から外すので精一杯だった。これが強力の使い手なら命とりであったが、おそらくこれは、雄一郎にとっては快心の一撃であったとしても、体重の軽い雄一郎では相手に致命傷を負わすことはできない。よって、輝也にもこれを受けつつ、とりあえず一撃目を凌ぐことができた。そうして予想通り、間髪入れずに左横薙ぎに竹刀がうねる。輝也はその剣撃より先に雄一郎の身体を追い越すようにして前に踏み込み、空振りさせた。雄一郎の背中が見えたところで輝也も竹刀を振りかぶってみたが、雄一郎は輝也の振り下ろしよりも早く竹刀を逆掛けし、その剣線ごと輝也を後方に吹っ飛ばす。輝也は右足を軸にようやく踏みとどまったころには、雄一郎がすでに目前に迫っていた。

 再び振り下ろされる一閃。
 力では勝てると確信した輝也は、竹刀鍔元でその一撃を受け止める。バシィンと竹刀の撃ち合う音が響いた。
 雄一郎は引かない。
 輝也もこれをかわせない。
 態勢は、雄一郎が押している形になっている。優位な姿勢をぐいぐい押しこまれてくれば、男と女の力の差でもさすがに辛い。しかも相手は剣道については強豪、対する輝也は数年前までほとんど女のような生活をしていたのだ。この力押しの場面で拮抗しているというだけでも、輝也は自分を褒めてやりたい。

 外野はやれ舎人だ、やれ輝也だ。いけ、そこだと相変わらず好き勝手に歓声を上げていた。その声が聴こえて、輝也はようやく、自分の心中に余裕を取り戻しつつあることを確信する。相変わらず剣を裁こうとしない雄一郎に、輝也は少しだけ不敵に微笑んで見せた。

「終わりか?」

 言い終えるより早く、ガンと力押しされ、雄一郎が輝也の間合いの外に出た。引いた。輝也はそう思った。雄一郎へ剣先を向けつつ、輝也は「彼女」向かって左方円を描く様にゆっくりと歩きだす。雄一郎も、右足を軸にしながら、剣先を輝也から外そうとしない。

「おれでは相手にならないのではなかったか。ずいぶん時間がかかっているようだが」

 途端、雄一郎がその場から弾けるように床を蹴り、輝也に突進してきた。右袈裟。躱して。そこからの胴抜き。輝也の読み通りに雄一郎は竹刀を打ち払い、輝也も先立つ読みと防御でそれらを凌ぎ、再び雄一郎の間合いの外に出た。

「なぜ仕掛けてこないんです」

「お前も言ったろう。この勝負おれに勝ち目はない。だがおれも、衆目にむざむざ敗北を晒すような醜態はしたくない。よって、おれは『負けない』」

 雄一郎は、少し間があって、ようやく「卑怯な……!」と言った。外野も、輝也の思惑に気が付き始めている。それよりも先に輝也が出雲の名前を呼んだ。

「五分だ。それまでにおれがお前から一本取られなければ、お前の負け。いいな」

「下らない!面目のため、神聖なる決闘のルールを捻じ曲げようというのか!」

「簡単なことだ。お前は、おれから一本を取ればいい。造作もない。そうだろう」

 出雲は審判と示し合せ、左手首の腕時計を見て「始め!」と声を張り上げた。今度も仕掛けてきたのは雄一郎だ。輝也はそれを捌いて間合いの外に出る。雄一郎が突っ込んでくる。またかわす。打ち込んでくる。さばいて身を引く。打ち込み。振りかぶると見せかけて再び身を引く――。

 雄一郎が肩で息をし始めた。輝也も、盲目時代の「感情の色」の読み取りを主に剣戟回避に精神力を廻しているため、体力的には相当しんどいところだ。だがこれを。雄一郎に悟られてはいけない。輝也はまた雄一郎の間合いの外に出ると、わざと大きくふう、と息を吐いて、まっすぐと雄一郎に向き合った。

「そうだな。ではこうしよう。おれがもしお前に『負けなかった』ら、これからお前は、おれの言うことをなんでもきく。どうだ?」

「何をバカな!これはそういう勝負ではない!」

「お前の面目を立てるために、おれはここで無様に負けねばならぬというのか?それこそ、神聖な決闘が聞いてあきれる。一応おれには、54期生をまとめ上げる義務が課せられているのでな。お前がおれに勝てなかったあかつきには、おれの指示のもと、お前にはクラスの連中と仲良くやってもらう」

 会場からどっと歓声が湧いた。同期連中は、雄一郎と上手くやる云々というより、「鉄壁ガードで貞操を守ってきた雄一郎が、誰かの指示に従わざるを得ない」という状況に、何がしかの興奮を覚えているのかもしれない。雄一郎は奥歯を食いしばりながら「ふざけるな」とようやく言った。輝也は、やはり少し微笑を浮かべて、竹刀を雄一郎に向け、「来い」とばかりに切っ先を振った。

「それとも、お前ともあろうやつが、俺に勝てる気がしないか?」

 雄一郎が竹刀を振り下ろしたまま輝也に向かってきた。さあ、次はどう来るか。
 先ほどまでと雄一郎の空気が変わっていることには気が付いていた。もしかしたら、「彼女」も心の平静を取り戻しつつあるのかもしれない。実は、あらかたの雄一郎との会話は、すべて輝也によって巧妙に仕組まれたブラフだった。相手を逆上させ、感情的なまま攻撃に転じさせる。人間も本能で動くときは、その行動をいたってショートカットに抑え込んでくるから、至極、思考を読みやすい。雄一郎は、女。女とは、ときに男よりも感情的に動くものだ。それが精神的なものであろうと、生死に関わろうとも、その感情を抑制することは女には難しい。輝也はそう、読んだ。

 が、どういうわけだろう。今、輝也に向かってくる雄一郎の感情の色を読み切ることができない。輝也は竹刀を正眼に構え直し、少しだけ体を引いて、どちらからの攻撃にも瞬時に対応できるよう神経を尖らせた。いかに先読みができずとも、行動するには動作を発動せねばなるまい。その発動の瞬間なら、思考を推察することができるだろう。問題は輝也の推理と雄一郎の剣戟の、どちらが早さで優るかであった。その刹那まで、輝也は雄一郎の攻撃を見極めようとした。

 舎人が、左肩に担ぐような形で、竹刀を振りかぶる。
 見たことのない形ではあったが、左に担いだのであれば、輝也の上段右方から入る攻撃の型になるはず。
 輝也は右方からの攻撃に備えた。
 次の瞬間。
 
 竹刀の柄尻が直接輝也の喉元に向けられた。


「!?」


――……よけ、られない……!
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2011/12/21(Wed)

吉岡輝也の憂鬱(9)

*「貴様らあ――!!!こんな時間になにをやっちょる!!!」


 雄一郎の振るった柄尻が、輝也の首元すんででぴたりと止まった。雄一郎も輝也も、すぐさま何事が起ったのかを理解できず、やがて外野が「見つかった」「逃げろ」と騒ぎ始めるから、ようようと事態を理解した。消灯後の見回りに、上官殿がやってきたのだ。わっと外野は逃げ出したが、上官は三人の郎党連れで、輝也と雄一郎を含む十人程度が捕まった。一列に並べられ、小一時間ほど説教を食らったのち、竹刀で一撃ずつ鉄槌を食らってその場は解散。明日は朝一で始末書を提出する羽目になった。


 *****


 輝也にとってはただの災難である。
 何しろ、望んでもいない決闘を無理やり受ける羽目になり、揚句上官から「×(ペケ)」を一つ付けられてしまった。醜態を晒したくないがための雄一郎へのハッタリも、結局無駄骨に終わってしまった。上官に怒鳴られ、ケツに竹刀をぶち込まれる姿を、何人もの同期に見られてしまったのだから。

 部屋で始末書を書き終えて、輝也は先に布団に入った。いつも、輝也が先に布団に入る。着替えするところを見られたくないだろうと気を使っているのだ。
 「彼女」は――おそらく晒の意味合いもあるのだろうが――上半身を包帯でぐるぐる巻きにしている。その細身の体の、赤く焼け爛れた皮膚を隠しているのだろう。肌が一度溶け、再び凝固すると、常人のそれよりも薄く皮が乗ったところは赤く、熱く乗ったところは白くなる。唇と、腹の脂肪のような違いだと思えばいい。それが上半身右側から上腕部、首筋にかけていびつに皮が浸り付いており、思わず目を背けてしまうような状態なのだ。輝也が布団に入ると、雄一郎は晒をといて新しいものに変える。そうして寝間着を着て、布団に入るのだ。その間、二人に会話はない。無論、これ以外にも特に、無い。

 予科の制服を着ていても、首元からは晒が見えている。隠しきれない顎の下のあたりの火傷の後は、クラスの連中なら一度は目にしているだろう。それだけでもその凄惨さに息をのむ思いなのである。雄一郎は、裸体を人前にさらさない。それは女であることを隠しているというよりも、その上半身の火傷を衆目に晒さないための配慮なのだ、と皆思っているのだろう。もっとも、それにも気が付かぬ上級生や他のクラスの連中なんかが、「雄一郎は輝也にしか裸を見せないのだ」などと面白半分の噂を立てていることは、輝也も承知している。雄一郎はどうであろうか。おそらく「彼女」にとっては、それもどうでもいいことなのであろうが。


「なあ」


 と、この夜は珍しく、輝也が声をかけた。互いに、背を向けあって布団をかぶっている状況である。返事はない。輝也の声が届いているかどうかも微妙であった。


「お前、人を殺したこと、あるか」


 返事はなかった。輝也もあまり期待はしていなかった。「まあ、おれの独り言だと思ってくれ」と適当に自分をフォローした。


「おれはあるよ。人の膳に毒を盛ったこともある。口の中に薬を含ませて、おれの唇を吸わせたこともある。殺し損ねて、逆におれが殺されそうになったこともある。気が付いたらそんなことをやってきたから、自然、常に自分の身を守るために最善を尽くすようになった。おれにも、弟がいてな。その弟はそういうものとはどうやら無縁でこれまで生きてきたみたいだから、できれば、これからもそのままでいてもらいたいと思う。まあ、どういう生き方をするかは弟が決めることで、おれがどうこうというのもおかしな話ではあるんだがな。生きるとか死ぬとか、そういうものは案外単純にできている。だけど、存外にその一線を越えるのと越えないのとでは、雲泥の差があるとおれは思っている。舎人、お前の最後の一撃、あれは道場剣じゃない。人を殺すための技だった。お前も、そういうところで生きてきたのか」


 雄一郎が、白河川の秘書役をしている山城眞子のもとにいることは知っていた。眞子が女だてらに武道に長けているということ、武器火薬にも通じているということを輝也も耳にしている。それは彼女が女だてらに、維新を幕府軍として戦い抜いた勲功でもあるのだが、もしかしたら「彼女」も、眞子に何かしらの教えを受けたのかもしれない。実際、雄一郎と直接対峙して、それがただの型にはまった技でないことぐらいは分かる。あれは、人を殺す剣だ。輝也はそう、直感した。


「……勝てなかった」


 口早に、雄一郎は呟いた。それは輝也への解答というよりも、やはり独り言の類に等しかった。


「勝てなかった、勝てなかった。あなたに勝てなかった……」


 泣いているのだろうか。語尾が掠れていく。一度鼻をすする音がした。輝也は、何も言わずにその独り言に耳を傾けた。


「ブラフだと分かっていたのに。挑発だって分かっていたのに。悔しい、悔しい。自分の愚かさが、悔しい……」


 どうして、そんなにしてまで自分を追い詰めるのか。
 答えは拓真の存在にある。あれを軍人にしないため。雄一郎の行動原理はすべてそこに収束される。

 だがいつものお前なら、「士官の道こそ男児としての誉れ」とでもいうのではないのか?

 軍人を人殺しだと解釈するのは、この時代この日本でも俺を含めてほんのわずかなものであろう。
 
 自分に人殺しを許容してでも守りたいものがある。
 たとえそれが、自分のことを覚えてさえいなくても。

 拓真に、兵を率いて突撃を命令させるのが忍びないという気持ちを、今なら理解できる気がする。
 雄一郎が何を考えているか、そんなものは輝也の知るところではないが、こと拓真に関してだけは気持ちを共有してやれる、気がする。


「再戦ならいつでも受けてやる。ただし今度はあまり人目につかないよう、気を使ってほしいところなんだが」


 雄一郎は返事をしなかった。
 もとより輝也も、そんなものを期待していない。

 他人の心情になんて深入りするもんじゃない。
 期待するだけ、裏切られる。俺は俺に与えられた仕事を、適当に熟すだけだ。

 期待などしていない。

 俺だけは、おまえの心情を少しでも理解してやれるなんてこと。
 そんなこと、これまでもこれからも、あり得ないんだ。

 言い聞かせることで、己の気持ちを納得させようとしていることに、輝也は気が付いていない。
 寝て起きれば朝が来る。またいつもの明日が始まる。
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2012/01/09(Mon)

「こつる」の太夫(1)

****


まただ。
またここだ。


孝子は立ち止まり、そうして振り返った。
視界はない。敢えて言わば、闇ともいえぬ不気味な黒が広がっているだけ。己の姿も見えない。存在がない。何も存在しない世界。そうしてやはり、いつものようにここにたどりつく。


存在している。
私という意識だ。


その瞬間に孝子は拓真の腕の中にいる。
体中から力が抜け、拓真を見上げる瞼も重い。ようやく開けた視界に写る弟の顔は、炎に巻かれて炭だらけで、あげく涙でぐしゃぐしゃと来ている。


拭ってやりたい。


そう思うのだけど、体が言うことを聞かないのだ。だが薄れゆく意識の中、孝子は確かに、安らかであった。弟を死なせずに済んだのだ。向こうに行っても、母に申し開きもできよう。


***


第2場。
意識が戻ると、目の前には先ほど命を助けた弟がいた。

その顔は自分を見つめて、ただがたがたと震えていた。今度は体を動かすことはできても、拓真に触れることができない。
怖いのだ。
守り抜いたものに拒絶されることが。
そうして、かつての弟は自分よりもきれいな顔をした新しい「姉」の、背中に隠れる。
「姉」は、かつて自分がそうしたように拓真を庇うようにして立ち上がり、孝子を見据えた。


『お前は結局のところ、弟を救えなかったではないか』


その光無い瞳が、孝子の心に問いかけた――ような気がした。
ああそうか。わたしは、あの子を救えなかった――。


***


第3場。

京都の幼年学校。
白河川に直談判をしてようやく入れてもらった陸軍の士官学校。当然、女であることを隠しての入学だった。

今度こそ、あの子の力になりたい。
拓真を、軍人になんてさせない。
そんな一心だった。

同期といえど、必要以上に付け込まれるわけにはいかない。成績も品行態度も、神経が擦り切れるほど努力をして、優等を貫いた。
卒業間近になり、士官学校の先輩に呼び出された。
一人では行きたくないので、同期数名に一緒に来てもらった。
そこはお茶屋で、先輩と同期たちはわいわいと楽しむ中で、孝子は一人、静かに時が過ぎ去るのを待っていた。
やがて、みな勢いに任せてその場で雑魚寝を始めた。この状態なら退席してもよかろうと、孝子は軍帽を取り、立ち上がった。
廊下に出た途端、暗闇からぐいと腕を引かれた。
先ごろ自分に声をかけてきた、士官学校の先輩だった。
そのまま壁に押しやられ、身動きが取れないまま、強引に唇を奪われ、体中をまさぐられた。
必死で声を上げようとするのだけど、執拗な接吻は息も詰まるほどで、壁と男に挟まれた孝子の身体はやはり自由がきかない。
体中が総毛だっていた。どんなに頑張っても、努力しても、こんなことでわたしは終わってしまうのか。

また、拓真の力になれないのか。

悔しくて辛くて、涙が出てきた。孝子の身体が弛緩したのをいいことに、男はさらに、孝子の上着を脱がせ始めた。

きもちわるい。
男なんて、気持ち悪い。


『なら、男よりも男らしくなればいい。そうだろう? 舎人雄一郎』


***


 暗闇の中がばっと起き上がった。
 恐ろしさを悪寒と、あのときのフラッシュバックが、雄一郎の息を荒くしている。
 汗もかいているようだった。
 同居人に感付かれてはいけないと、息を整えて隣を見れば、同室の吉岡輝也の姿はなかった。

 そうか、今日は金曜日だったな。

 ひとまず安心をして、時計を見ると23:00。そろそろ時間だと起き上がり、寝間着を脱ぎ、シャツを着て軍袴をつけ、上着を羽織った。

 ノックもなく、静かにドアが開かれる。
 雄一郎はそれに応えるように、静かに部屋を後にした。
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作者


Author:kanayano
16歳の時に書いた脚本のエチュードを書き連ねています。
かなやのぶ太名義、私生活ブログはこちら

最新記事

目次

※カテゴリは話数降順に並べておりますので、こちらから入っていただければスクロールでご覧いただけます。

■1、発芽―grow out― (65)
1、最後の恋人 (4)
2、北条古巻 (16)
3、少年と少女 (1)
4、はじまりの業火 (15)
5、月下の惨劇 (1)
6、「傾城傾国」 (28)
■2、着蕾―The bud― (54)
1、孝子、決別 (8)
2、青 (1)
3、吉岡輝也の憂鬱 (20)
4、田園都市、春 (18)
5、大陸の覇者※連載中 (7)
■ 番外『陸奥湾を抱く街』 (59)
1、明治37年、最上桔華 (8)
2、わたしの祖国 (11)
3、陸奥湾を抱く街 (9)
4、祭りのあとに (12)
5、裏切りの祖国 (13)
6、「いのち」 (6)
■番外『仮宿の楔』 (16)
1、奇人二人 (7)
2、「めらんこりあ」※連載中 (9)
読者様から頂いたイラスト (11)
from kanayano (9)

「本編」これまでのお話


<「5、大陸の覇者」登場人物>

伊藤 翔
21歳。幼いころに大陸に移住し、10歳の時に馬賊に家族を殺され、連れ去られた。18歳の時に家族の敵の一族を惨殺。現在は牢屋に投獄されている。支那名は梁文山(リャンウェンシャン)。
梁 生高(リャン シャンカオ)
38歳。父親は馬賊の統率者である「当家」梁続山。3年前、翔に父、母、弟を殺された。現在は周辺の「当家」を束ねる「攬把」。
李 爛華(リ ランホア)
23歳。村の青年。当家の一人。翔が村に連れてこられたころからの友人。
楊 和(ヤン フー)
18歳。字は子杏。爛華と同じく、翔を幼いころから知っており、獄中の彼の世話をしている。未亡人。

■「2、着蕾
大正4(1916)年。火事の中で記憶を失った弟・拓真の力になりたいと、自らも陸軍士官となることを決意した舎人孝子。日清両国の裏取引の対価として来日した吉岡輝也もまた、自らの庇護者である陸軍大将白河川修の計らいで、士官学校に入学する。奇しくも、士官学校予科では性別を偽って入学した孝子――雄一郎と名乗る――と同期であった。(1、孝子、決別
大陸進出を目論む帝国陸軍大佐久坂廣枝と、上海で裏を取り仕切る輝也の母親・仙楽弥が手を組んだ。楽弥の店で働く芸妓、宿禰緑子は、拓真と出会う。緑子は拓真に「また会いましょう」と告げて、その場を後にする。(3、吉岡輝也の憂鬱
大正9(1920)年。当代の人気歌人である最上桜花の下で暮らしている北条古巻。父親の愛人でもある桜花に、素直になれずとも平穏な日々を暮していた。身一つで転がり込んできた朝倉千鶴、桜花が朝鮮人街で助けた孫秀英。桜花と古巻の暮らしにも、新たな仲間が加わった。(4、田園都市、春

「番外」これまでのおはなし


2、「めらんこりあ」 登場人物>

舎人 耕三郎
陸軍大尉。27歳。
北条 古月
会社社長。26歳。会社の規模を大きくすべく、奔走している。
山方 明恵
16歳。美人だがめっぽう弁が立ち、家族から「奇人」と呼ばれている。そのせいで家を出た。
北条 篠
古月の妻。21歳。
北条 由枝
古月・篠の娘。4歳。

■「番外『仮宿の楔』
明治34年、東京。近衛師団に所属する舎人耕三郎大尉は、師団長・白河川修の来訪とともに、自分を訪ねる女の存在を知る。耕三郎を出せと叫ぶ女。そこに、耕三郎を知る商人、北条古月が通りかかる。女に帰れと宣う耕三郎。古月は女――山方朝重を連れて、一先ずその場を退いた。(1、奇人二人

おことわり

※当作品は物語のモチーフを実在の事件、人物に依拠していますが、事実関係は一切ございません。

※一部に暴力、流血、性的表現を伴う記事がございます。記事冒頭に注意書きを添えてありますので、閲覧の際にはご注意ください。

※本文中で中国語、ハングル、英語等の表現がありますが、作者の過小な語学力で作成しているため、ネイティブのものとは大きく異なる場合があります。ご了承ください。

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皇国の黒鷲

黒澤修吾の孫であり、吉岡輝也の甥にあたる、黒澤一臣総理が担う平成日本のかたちとは。緒方順様と共同制作です。


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