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「いのち」(1)



 *****


 明治38年が明ける頃には、満州の荒野における日本とロシアの戦争に一筋の光が見え始めていた。
 極東の小国が、超大国の白熊を倒すかもしれないという機運が各国に広がっていた。それは欧州の日本に対する認識の変化であり、アメリカの仲裁への動きであり、アジア各国の黄色人種の未来への明るい展望であったに違いない。
 前年八月から二度にわたる旅順への総攻撃と、遼陽、沙可の大会戦を経て、日本は旅順を開城した。同時に、長期戦は慣れぬ荒野の厳冬をも相手にせねばならなかった。塹壕を掘ってその中に何もせずにじっとしていると、手先から寒気が蝕み、やがて凍傷に至る。先立つこと3年前、陸軍は青森第八師団歩兵第五連隊第二大隊が厳冬の八甲田山の冬季訓練中に遭難し、参加者二百十名中百九十九名の死傷者を出している。そのときの生存者の言をもとに、足に唐辛子を擦り付けて体温を保ったり、食糧に油紙を巻いて凍結を防止したりしている。それをもってしても、大陸の寒波は日露多くの将兵たちを苦しめた。当初の計画よりも長く続いた戦争は、前線の兵士ばかりでなく、それを後方で支える国家財政、もしくは戦争を遂行した国家権力への不満となって国内の民力がすべて戦争につぎ込まれないような状況と化してきている。




「今日は吹雪くわね」

 晴子は降り始めた雪から家の中を閉ざすように雨戸をがたがたと閉めていた。桔華は、囲炉裏の前で綿入れを被ってぼんやりとしていた。臨月を迎えた桔華の腹は誰が見ても妊婦とわかる大きさとなっている。二月に入ったあたりからは腹の重さと吐き気に体の自由が思うように効かなくなり、今はもうほとんど一日そこから動けないような状態が続いていた。

 病は気からとよく言ったもので、桔華の中にはなにか黒いものが蠢くような、スッキリしない靄のようなものが始終心を満たしていた。晴子は桔華から聞き及んだ仙台での出来事を彼女なりに理解し、桔華の気持ちに寄り添おうとしてくれる。晴子のそんな優しい労りをその身に重々感じながらも、桔華は自らの罪悪感に苛まれ、腹が膨れるほどにその思いを強くしていった。すっかり憔悴しきった桔華の表情を見て、晴子が気晴らしにとおもしろい話などをしてくれるのだけれど、最近ではもう、それに頷くことも困難な心理状況に陥りつつあった。

「母親に何か懸念事項があるのなら、それを解決してやるのが一番いいのだけれど」

 と医者は晴子に言ったそうだが、晴子にもその方法は皆目見当がつかない。母親の心理状況がわるければ、それは直接こどもの命に関わることだからと理解してはいるものの、桔華が己の中に妥協点を見つけようとすればするほど、己の身の軽率さを恥じ、不貞操を悔やみ、大切な者たちへの懺悔となって桔華の心を蝕んでいく。死ぬのは一瞬の苦痛、生きることでこの苦しみを背負い続けると決めたのもまた自分であったが、それにしてもこの数カ月で桔華はげっそりと痩せこけ、その顔から生気を失ってしまっている。

 あの夜を後悔しないと決めた。
 古月を一生愛し抜くと決めた。
 私自身はそれで納得したとして、この子にはなんと説明してやればいい。
 
 この子は自分に父親がいないことを恨むかもしれない。
 父親が自分たちを捨てたのだと思うかもしれない。

 そうではない、俊承にはどうしてもやらねばならぬことがあるのだとこの子に告げるのか。
 ならばなぜ、あの時かれの後を追わなかったのかと問われたら?

 自己満足ではないとなぜ言い切れる。

 黒澤の言葉が脳裏によぎる。自己満足でも構わない、私一人の問題なら、それでも構わないと思ったのだ。
 生まれてくるこの子は、いったい何を拠り所に生きていくのだろう。
 私に、母親になる資格などあるのだろうか。

「はい桔華さん」

 そういって差し出されたお椀に、ゴボウやニンジン、こおり豆腐の汁物に白玉が二つ入って、旨そうな湯気を上げていた。
 桔華は無言で受け取った。食欲がなく、膝に乗せたまま箸を付けなかった。晴子は「これは品川汁というのよ」とにこやかに話しだした。

「太平洋側を回って江戸の商人さんと交流のあった商家さんが川内に伝えたのですって。品川宿で聞いたから『品川汁』。でも今、当の品川にはあつものに白玉を入れる習慣はないそうよ。なんだかおかしな話ですよねえ」

 晴子はそう言って笑った。桔華もそれに同調するつもりで笑おうとするのだが、息がはき出ただけでなんとも情けない顔のままだった。
 晴子はそれを意に介しないように、今朝方、兵衛と何を話したのだとか、たえさんが新しい着物を買ったのだとか、そういうたわいもない話をしてはころころと一人で笑っていた。桔華は、晴子のその振る舞いにありがたいとは感じながらも、その話に同調して気分を高まらせることはできなかった。

 この半年間、晴子さんに世話をかけっぱなしだというのに、自分はこの有様。
 望んでも子供のできない晴子さんに、今の自分はどんなふうに写っているのだろう。

 私は、望まない結婚をさせられたわけでもない。
 大切な人のことを思い続ける自由もある。
 家族に縛られているわけでも無く、自由気ままに全国を放浪している。

 晴子とはすべて真逆の自分。何もわからぬまま脇野沢に嫁ぎ、石女として家族や近所に忌まれ、自殺しようとしたところを、唯一の理解者である旦那に命を救われた晴子。その愛する人の子供を産めないまま、大切な人は今、戦地にいる。そうして一人、愛した人の帰りを待っている。愛した人は、戦争が終われば、必ず晴子のところに返ってくる。

「そのくらいは食べなければだめよ、桔華さん。朝だってごはん半分も食べられなかったんだから」

 そういうと、先に食事を済ませた晴子は台所へと立った。桔華はお椀に盛られた白玉を眺めながら、猛烈な吐き気と、得体のしれない憔悴感に苛まれている。


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2011/09/06(火)
6、「いのち」

「いのち」(2)

 


 イギリスにいるという古月からの連絡は、八月以降無い。
 こちらから返していないのだから当然と言えば当然であるが、もう三年も顔を見ていない従兄の、いや、今でも愛しているかれの身の上が気になる。
 
 そうして何か得体のしれないおおきなものと戦うことを自ら選び取った俊承は、今頃北京だろうか。
 それすらも定かでない今、この身重の体をしてかれの後を追うこともできない。

 いったい自分は何をしているのか。
 これから何がしたいのか。
 
 答えに行き詰ると脳が熱を持ち、そうしてそれは体中の神経を伝わって自分を、そして血を分けた俊承のこどもを苦しめている。自分が苦しむことは同時に腹のこどもにも少なからず影響を与えているのだ。頭では分かっていても、決着を付けられない自分自身の心の弱さに絶望し、そうしてまた、桔華の脳は熱を持ち始め、それは重度の倦怠感と吐き気となって身体に現われる。

 桔華が囲炉裏の前で裂き織りの上着の端を掴み、背中を丸めて蹲っているところに、晴子が湯呑にお茶を二つ持ってきて、桔華の隣に腰を下ろした。がたがたと震え、顔面が蒼白となっている桔華に寄り添うように肩を抱くと、優しく背中を撫でてくれた。晴子は何も言わなかった。

 この人はいつもそうだった。桔華がこの家に来た時も、自分が苦しくて悩んでいるときも、自分から言い出さなければその理由を問おうとはしないのだ。どんな理由があったっていい、理由なんてなくてもいい、話したくないのなら、その辛さに、その感情に寄り添い、そうして桔華に「ひとりではない」と自覚させてくれる。そんな晴子の優しさにこの半年、ずっと甘え続けてきたわけだが、今回もその例に洩れず、こうして何も言わずに背中をさすってくれている。

 ねえ晴子さん、あなたの目にわたしはどんなふうに写っているの?
 
 もしかしたらそれは、好意的な感情とは限らないのではないか――。酷い悪阻に咽こみながら、桔華はなおも身体を屈める。もう母体は安定している時期だというのに、桔華の身体はまるでそれまでの自分の生き方に罰を与えるかのように、自らの体調の安定を拒み、そして苦しめ続けている。

「晴子さんは――」

 桔華は青白い顔をかすかに上げながら晴子の名を呼んだ。唇も血色を失い、幾分も歳を取ったように衰弱している。

「わたしのことが、お嫌い?」

「まあどうして? こうして親しくお話しできる同年代の女性と同居できるなんて、そうそうあるものではないわ。私は、桔華さんとこうして暮らしているのがとても楽しいの」

 だがそれも和葉が満州から帰ってくるまでの話だ。
 こどもを産み、そして容体が落ち着いたら、桔華はここを出ねばならない。

「もし、あなたがそれを望んでくださるのなら、桔華さんと、赤ちゃんもずっとここで一緒に暮らしたらどうかしら。和葉さんには私からお話しするわ。あの人も、にぎやかなのは大好きなのだし、もちろんこどもだって大好きだから、きっと大賛成してくれます。もちろん、桔華さんはおばあさまのお申し付けもあるから、日本中のいろいろなところにいかなければならないのよね。こども連れはきっと大変だから、そのときは私が預かるわ。その子が大きくなったら、母娘二人で出かけるというのはどうかしら――」

 そうして晴子は、伊勢と熊野、鎌倉といった有名どころの観光名所の名前を上げた後、「祇園なんて素敵ね。あらやだ、そこは桔華さんはご実家のご近所ね。旅行にはなりませんね」と言って一人で残念がり、そうしてふふっと笑った。晴子はいつもの調子のまま、その感情に曇りを見せなかった。この半年、一度も晴子の辛い顔を見たことがなかった。桔華とは本当に対照的に。

 桔華は微かに口を開いた。うまく聞き取れない、と晴子はもう一度聞きたい仕草をした。

「……めて」

 外は吹雪きだしたらしく、がたがたと雨戸が鳴った。連日の大雪で二米ほども積雪がある。それに更に降るのだ。北国の雪とは、そこに住むものに容赦しない。

「……やめて、ください。同情なんか」

「桔華さん?」

 少し怪訝な顔をしたあとに、軽口でも言おうと口を開きかけた晴子に、桔華は畳み掛けるように叫んだ。

「わたしの、こと、惨めな女だと思っているのでしょ。この歳になって結婚もしないで、初恋の従兄のことばかり意固地に想いつづけて、あげく旅先で知り合った男に身体を許して、『それも自分の道だ』と言い聞かせてここまで来た私のこと……! そうよ、私は情けない女なの、大切なものを何度も天秤にかけて、そうしてそれを自分で選び取ることもせずに時流に身を任せて、されるがままここまで流れ着いた……! そうして今は、自分が母親になることにすら覚悟を決められず、生まれてきた子供に、なんて言い訳をしたらいいのかも分からず、古月さんや俊承にどんな顔して会えばいいのか見当もつかないで、いっそ死んでしまえば楽になれると思うのにその勇気もないこんな私……!!! 晴子さん、あなたは和葉さんという大切な人との間にこどもが欲しかったのでしょう? それが適わないと、己を死に追い込むまで苦しみぬいたのでしょう? きっと……、きっとわたしなんかとは比べ物にならないような苦しみだったのでしょうね……。私は、この身が憎くても、死ぬこともできない、それでもこの子を、俊承のこどもを産んであげたい、でも、私はこの子の母親にはなれない、父親のいないこの子は、産まれても幸せになれない……、そう思うと、辛くて、苦しくて、何もかも投げ出してしまいたくて――」

「あなたが産むのだもの。きっとその瞬間から、その子にとってあなたは母親なのだわ。あなた自身がそれを認めなくても、こどもにとって母親はあなたしかいないのだもの」

 桔華はその背中に触れていた晴子の手を払いのけるようにして身を引いた。
 奥歯がぎりぎり言っていた。がたがたと震えながら、その蒼白な顔を晴子に向ける。桔華の着物の襟もとを掴む手首、投げ出された2本の両脚は、半年前よりも明らかにやせ細っており、そうしてその痩せた体に腹帯を付けた腹だけが大きく出張っているのだった。

「知ったような口を利かないで! あなたにわたしの気持ちが分かる訳がない!! 大切な人と、心から結ばれることのない痛みを、その人の忘れ形見を一人で産まねばならぬ辛さも、帰るところのない悲しみを! あなたにはそのすべてがある。戦争が終われば、和葉さんは帰ってくる! あなたのところに帰ってくる……!!」

 古月。
 俊承。

 いつ会えるとも、互いに寄せ合った愛おしい感情を成就させることも無い、最愛の二人。その二人とも、桔華のところに帰ってくることは無い。
 古月には家族がある。
 俊承と、結婚の約束をしたわけでもない。

 そこには、ただ一方的な愛情があるだけなのかもしれない。それがさまざまな事由と結びついて、貫かねばならなくなった感情が絡まりすぎて、今の桔華にはそれが言ったなんだったのか、自分が一体何で苦しんでいるのか、今自分が何をしゃべっているのかまったく解らなくなってしまった。
 熱。そう、熱だ。脳に熱気が溜まり始める。

 かっとなって晴子にそう叫び、再び我に返る。晴子は返す言葉もなく桔華を見つめるばかりで、しかしその視線を逸らすことはしなかった。自分はなんてことを言ってしまったんだろう、そう思うや否や、桔華は立ち上がり、玄関へ向かった。

 晴子もはっとしてすぐその後を追い、桔華の名前を呼んだ。掴まれた腕を必死で振り払うと、その勢いで晴子は後ろに吹っ飛び、商品陳列棚の角に頭をぶつけ、動かなくなった。



 桔華はそれに気付くことなく、視界も不明瞭な暴風雪の暗闇に、呑まれていった。


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2011/09/23(金)
6、「いのち」

「いのち」(3)


 *****


 もうどれだけ時間が経過したのか、分からなかった。
 猛烈な吹雪は、視界どころか行く手そのものを強烈に阻んだ。こんなに荒々しい雪の中を歩くのは初めてだった。ほとんど道知れぬ土地で、そうして雪にすっぽりと頭まで浸かっているような今の川内村の、今どのあたりを歩いているのか桔華には見当もつかなかった。腰まである積雪を漕ぐようにして強引に歩を進めていた。外套も羽織らず、寝間着のままの桔華の皮膚は、極寒の境地を感じているはずであるのだが、当の本人は熱を持った思考回路が完全に麻痺してしまっており、現状を的確に判断できないような精神状態にある。

 海はだめ。海を越えれば、俊承や古月さんに見止められてしまうから。

 意味不明な結論が、方向感覚も完全に喪失したこの嵐の中の唯一の指針となっている。桔華の頭の中には、桜花や古月、篠、俊承、才人、そして晴子らへの、想像を絶するような懺悔と、強烈な自己嫌悪が渦巻いていた。体が埋まるような豪雪を一心不乱に漕ぎ進み、進めずとも進まねばならぬこの情動。自らを痛めつけることで、自分に深くかかわってくれたすべてのものに対する後ろめたさ、己への失望、そして自分がこの世に存在したということへの抑えることのできない嫌悪から、少しでも逃れられるのだと思ったのかもしれない。理性を失った桔華の身体は、そんな感情や思考すら肯定することをせず、自らを死中に追いやることのみを求め続けた。何度も雪の海の中に嵌まり込んだ。それでもなお、桔華の身体は道とも山とも知れぬ内陸――自分を取り囲むすべての何かから逃れること――へと進み続けた。

 もはや視界はほぼ、皆無だった。胸までもある積雪は地面もあぜ道も分け隔てなく、ただ木の幹と枝だけが寒風にその身を晒していた。差し込むような鋭い雪に、防寒もろくに身につけていない桔華の下半身は、すでに熱いだの寒いだの、そんなものを感じることも無くなっていた。


 ただ頭だけは熱が持っていた。


 噴出しそうなほど、感情が出ては消え、また噴出した別の感情に絡め撮られ、新たな感情を生み出していく。悲しいのか悔しいのか、泣きたいのか辛いのか、桔華にはもはや判断することも不可能だった。わんわんと大声で叫びながら、ずぶずぶと雪道を漕いでいた。右足を前に引っ張り出せず、そのまま転倒した。大きく出張った腹から落ちたが、柔らかい雪が緩衝材となった。火照りきったむき出しの顔が、冷たい雪に触れた。頭の中は相変わらず混乱していたが、一つだけ、確かに心に浮かんだことがあった。


 腹の子は、無事だろうか。


 桔華は、はっとした。人間として未熟な自分に、人の親など、まして母親など務まる訳が無いと思っていた、そんな弱弱しい自分とは裏腹に、「承俊の子を産まねばならぬ」「生まれてきた父無し子を守らねばならぬ」と固く心に決めて譲らぬ、強く、そして自らの足で地を踏みしめている自分が居る。体が半分雪に埋まった状態で、桔華はどこかあたたかい光の溢れる場所にいた。そこは無音で、遮るものがなくて、倒れた桔華の目の前に、誰か人がいるようだった。桔華は、ぼろぼろな顔を上げ、その女を見上げた。女は腕に幼子を抱いていて、そして桔華を見下ろしていた。強い意志を秘めた瞳。小さな迷いや、自らの煩悩をかなぐり捨て、「母親」としての自覚に溢れるその華奢な体。幼子は、彼女の腕の中で、たわいも無い声を上げていた。女が桔華を見下ろすその瞳とは対照的に、子は何者にも犯されぬ、自愛に満ちたその腕に抱かれ、女に手を伸ばしている。

 誰かに似ている。
 そうか、これは、おばあさま。

 強く、揺ぎ無い意思をその小さな体に満ち占めている、北条桜花。桔華の憧憬であり、そして人生の目標。
 しかし、桔華の脳が否定する。今まで認めてはいけないと思っていた、紛れのない事実。

 途端、桔華の熱を持った頭の中でなにかが爆発するような感覚が全身を覆った。淡い光の中、桔華は意識を覚醒させた。
 目の前にいる女は、よく見知った顔をしていた。
 
 その顔が大嫌いだった。
 いなくなってしまえばどんなにいいだろう、そうして何度もなんども、殺したいと思った。
 だけどできなかった。そんな勇気もなかった。

 大切な人が、こんな彼女をあいしていると言ってくれた。
 その気持ちが、ほんものだと知っているから。

 そうして桔華は覚醒した意識の中で、目の前の女に声をかけた。



 桔華。
 お前は、母親になったのだね。





 *****




 途端、体中の痛覚が悲鳴を上げた。
 猛吹雪は先ほどよりもさらに勢いをまし、呼吸することもままならない。
 雪の深みに前のめるようにして嵌まり込んだ身重の桔華は、そこから身動きを取ることができない。

 体中の皮膚という皮膚が感覚を麻痺させるか否かの混乱の中で、明らかに異質な下腹部の激痛を自覚している。
 それは新たな命が、自らの出生を桔華に願っている証だった。

 
「桔華さん!!!」


 遠くなり始めた意識の向こうに、晴子の声が響いた。
 藁で編んだ防寒着を身に纏った数名の男たちと、そのなかに乱れた髪をまとめることも無くそのまま防寒着をかぶっただけの晴子が、ほとんど視界のない吹雪の中に倒れこんでいる桔華を発見した。
 男たちが止めるのも聞かず、晴子は彼らも驚くような力で掻き分けるようにして桔華の元に辿り着くと、むんずと桔華の体を抱き起こして、何度も頬を叩いた。

「桔華さん、桔華さん、返事しへ!桔華!」

「……はるこ、さん」

 晴子の額に無造作に貼られたガーゼに血が滲んでいた。桔華はその傷に気が付きながらも、それを労わる声を出す力も失っていた。次の瞬間に再び下半身に激痛にが走り、悲痛な叫び声を上げた。
 
 晴子はハッとして桔華の腹を見た。体が硬直し、苦痛に顔を歪めながら歯を食いしばる桔華。
 晴子は自らも歯を食いしばって、桔華の頬を叩いた。何度も何度も、桔華の名を呼んで、意識を保たせようとした。


「あんだ、こったどごで寝ればわがんねえよ!家に帰るから、連れて帰るから、それまでしっかり気張っての!」


 桔華に声をかけ続ける晴子の後方で、村の男たちが声を掛け合い、集まり始める。
 桔華は、極寒と陣痛の激痛に意識を消失するところだった。
 晴子の声が聞こえた。
 

 桔華は晴子に何かを言いかけ、そうしてそこで、意識が途切れた――。


 
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2011/10/12(水)
6、「いのち」

「いのち」(4)




 ***


 耳の底で、晴子の声が聞こえている。
 

 声は聞こえるが、言葉を認識できない。逃れようのない体の違和感と自分の中に蓄積された憤怒とも悲哀ともいえぬ何か。その何かが今まさに、桔華の身体から剥がれ落ちようとしているのかもしれないとそう思った。
 古月への懺悔も、俊承への悔恨も、己が生きていることに対する罪悪も、そのすべてが今こうして、体中のくぐもった空気の塊となって、桔華の下半身に注がれていく。どろどろの血液を内包する子宮は、身を引き裂くような激痛を伴って腹の中でうごめいていた。得体の知れぬ鈍痛が、一定の時間を置きながら桔華の身体と精神を苛んだ。何度も意識をもぎ取られそうになりながら、そのたびに晴子の声がどこか意識の上の方を飛び交い、くもの糸でも掴むような心地で辛うじてその声を聞き分けていた。そうして晴子や産婆の息に合わせて息み、悲鳴を上げ、何度も誰かの名前を呼んだ。もうそれにも疲れ果て、やがて身体が急に弛緩したと思った刹那、赤ん坊がぎゃあと鳴いた。桔華の身体の中のどろどろが体外に排出され、その中から命が生まれた。女の子だった。

「桔華さん、桔華さん」

 生まれ落ちた赤子は文字通り真っ赤なまま、外界の空気のわけがわからぬというように泣き続けていた。小さな口をいっぱいにあけて。小さな手足をばばたばたとさせて。
 産婆が臍の緒と後産の処理を終え、晴子が赤ん坊を桔華の枕元に寄越してくれた。桔華は心身ともに疲れ果て、赤ん坊に手を伸ばすこともままならなかったが、晴子が手を貸してくれ、己が身を分けた新たな命をその腕に抱いた。泣き出したのは晴子だった。「よがったのう」「ほにのう」と言いながら、赤子を抱く桔華を抱いてくれた。桔華は己の腕の中でぎゃあと泣きながら伸ばしてくる小さな掌に触れた。その掌は、ぎこちなげに桔華の指を掴んだ。


 光だ。
 光が見える。

 
 胸の奥底から、何か清らかなものが湧き出てくるような感覚。どろどろの意識の中に、細く強く貫く一筋の光。
 ああ、そうか。お前が私を助けてくれたのか。
 わたしは、ここにいてもいいのか。


 わたしは、生きていてもいいのだな。


 桔華の頬に無意識に涙が伝った。赤ん坊はいつの間にか泣き止んでいて、桔華の指を掴んだまま小さく息を吸っていた。まだ体の自由がきかない桔華に代わって、晴子が赤子を産湯に入れてくれた。産婆は、「えなを殺す」といって外に出て行った。川内では、後産の排出物を「えな」といって、縁起の良くないものとして早々に地中に埋めるのだと後で晴子が教えてくれた。「えな」はときに、それが赤子の首に巻きついて、殺してしまうことがあるのだそうだ。

 桔華はまる一晩かけて出産したので、赤ん坊の声を聴いたのはほとんど夜明けと同時であった。桔華を捜索に出た男たちも、何人かが様子を見に来てくれたが、出産のときは兵衛が家にいて、晴子とともに桔華に寄り添ってくれた。桔華は体中がだるく、しばらく動けずにいたが、晴子が産婆とともに立ち回ってくれた。赤ん坊の後は、桔華の身体を湯で清めてくれた。極寒に身をさらし、さらに大量に出血した後で桔華の身体は冷え切っており、湯で絞った手ぬぐいは本当に体の芯まで染み渡った。そうしているうちに河野のたえが朝刊を届けに来て、桔華に顔を見せた。たえが「えんつこ」に入っている赤ん坊を抱きあげたら、びっくりしたらしい赤ん坊はぎゃんぎゃんと泣き出した。桔華はどうにも申し訳ないような心地であったが、晴子もたえもそんなことを意に介する様子もなく、「元気な子でえがったの!」と笑った。その声にさらにびっくりしたのか、赤ん坊はさらにがんと泣いた。

 三月二日の早朝のことだった。
 この日、桔華は母親になった。


 ***


 産前の不安定な感情がうそのように、体が軽かった。
 三日もすれば桔華は日常生活など晴子の手を借りなくてもよくなり、赤ん坊を背に家の掃除をしたり店番をしたり、赤ん坊の世話を焼いたりした。晴子はまだ大事を取ってゆっくりしていたらと気を使ってくれたのだけど、もともと、幼いころから家事などを自然とこなしてきているので、桔華にとってはそのほうが自然であった。赤ん坊が泣けば、居間のえんつこまで走って行って母乳をやった。まだ目も明けないこどもが、桔華の乳房を探り当ててそれを吸い始めるとき、自分の中の「どろどろとした何か」をこの吾子にも分け与えてしまうのではないかと不安がよぎる。しかし赤ん坊の方はそれを解することもせずに、きっかのどろどろを吸いだして、己が中で浄化する。それは光となって母の心を照らした。母はその光に導かれるように、子を守らねばならぬという自覚を己が中で育んでいく。

 赤ん坊は昼夜を問わずぐずったが、桔華とともに晴子も赤子をあやすのに手を貸してくれた。晴子が赤ん坊を抱く姿は、ありがたいと思うより「申し訳ない」を桔華に強く想起させるのだ。自らのこどもを抱くことの適わなかった晴子。こうして流れ者の桔華を引き取り、ここまで面倒を見てくれた晴子に、どうしたら感謝の気持ちをお返しすることができるだろうか。赤ん坊はまるで二人目の母をもったというように、晴子の腕の中で静かな寝息を立てている。晴子は、どんな想いでこの子を抱いているのだろう。そう思えば、どんな謝辞の言葉よりも、こうしてわが子を抱いてもらうことが何よりの晴子への感謝の気持ちではないのかとも思えてくる。それもまた、ずいぶん手前勝手な話だと思う。

「名前はもう決めたのですか?」

 もう五日にもなる。産前もちらほらと候補を考えてはいたのだけれど、桔華はまだ、赤ん坊の名前を決められずにいた。

「この子はきっと、新しい時代を切り開く力を持った子になるわ。お父様のように優しくて強く。お母様のようにしなやかに美しく。そう思うの」

 晴子は、そういって赤ん坊に顔を寄せた。
 まだ呼ばれる名を持たぬ赤子は、無垢な寝顔を晴子に向けている。


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2011/10/31(月)
6、「いのち」

「いのち」(5)

 

 実は先日、京都にいる祖母、北条桜花より文を受けた。

 桔華は、仙台での出来事や今はここ川内に滞在していることを桜花には告げており、腹に子が入ったことまでは報告している。秋口に手紙を出して、つい先日返信が来たのだ。桜花の文は、ことばが少ない。古月の筆まめがあるのも手伝って、桜花の文には便箋の空白がよく映える。


 用を申し付けたい。
 落ち着いたらこちらに顔を出しなさい。


 当然だが、古月や最上の人間に顔を出すつもりはない。しかし桜花の言いつけである以上、桔華はそれに従わねばならぬと思っている。
 
 ここを出るのは、新芽が息吹く時節になろうか。

 桔華はそう考えている。身体が落ち着いた頃、川内から海路青森へ向かい、そこから東北本線で上野まで向かう。東京で乗り換え、東海道線で京都まで行こう。桔華は、京都から青森まではほぼ徒歩で踏破した。それは自分の足でなければ感じることのできないものを感じたかったからであり、今回はそれに勘定しないことにした。桜花の用を申し付かったら、今度は進路を西に取るのもいい。何れにしても、京都にとどまるつもりはない。

 私は、歌を詠まねばならない。
 何事にもとらわれず、あるがままの事物を受け止めて。
 たくさんの人の想いを。
 果たせなかった夢を。

 そうしてわたしのこころを。

 赤ん坊は今朝も早朝に泣き出して、桔華がそれをあやしている。ぐずりつかれたらしい赤ん坊は、目のあたりを真っ赤にはらして、ようやく落ち着いたようだった。晴子がそのようにしてるのを見て、桔華もやさしく赤ん坊を揺らしてやる。すると赤ん坊も大人しくなるにつれて、母親の心もしんと静まってくる。互いに同調するようにあたりに落ちる空気の一部となり、やがて赤ん坊は寝息を立て始める。

 こうして、腕にずっしりと娘の体重を感じていると、遠く、海を隔てた満州で戦っている多くの日本人とロシア人のこととか、おそらくその様子をうかがっているであろうその他欧米列強の白人であるとか、イギリスにいるという古月や、同じく赤ん坊を抱いているであろう篠、京都の桜花、仙台の黒澤を一通り思い出して、かれらはかれらだ、と思った。連中と自分の相対的な位置取りをどこに求めればよいのかわからず、その距離感に苦しんだ日々。日本は開国して世界と連絡するようになったけれど、そうして自分はやはり世界と直接連絡する必要があるのではないかと自問した、仙台での出来事。清国からの留学生と交わりを持つことで、やがて祖国の一市民としての自分を自覚したこと。そしてそれは同時に、同じ祖国を持たぬものとは、決して相容れぬことのできぬ心の壁を見てしまったということ――。

 そうして俊承が意識に顔をもたげる。

 そんなことはない、桔華さん。あなたはこうして、わたしたちを受け入れてくれたではありませんか。
 わたしたちを憐れむことなく、さげすむことなく、異国民としてではなくて、ひとりの人間として迎えてくれた。
 だから祖国なんて関係ない。わたしにとって、世界のすべてが祖国なんです。

 ねえ俊承。あなたのこどもが生まれたのよ。
 私とあなたのこどもなの。
 とてもかわいらしい女の子。
 産んだことを、後悔なんてしていない。だけど不安なの。
 私とあなたがどんなに分かりあっていたとしても、この子は、周りの人にどんなふうに思われて育つのかしら。
 もしかしたら、あなたの「祖国」を恨むかもしれない。
 己の中に流れる二つの「血」を忌まわしく思うかもしれない。
 そうして己の生きる意味を見失った娘に、私はなんて弁明したらいい?
 あなたのことをなんといって聞かせればいい?

 あなたがまた、私を訪ねてきてくれること、いつまでも信じて待っています。
 だけどきっと、あなたのいう才人の理想の国家は、ずっとずっと遠い未来のお話。今よりも残酷な、今よりも非人道的なたくさんの「痛み」の向こうに見えるもの。あなたはそれでも、私を――それはあなたを苦しめる何者かと同じものかもしれない――を迎えに来てくれる?

 私と、あなたの娘を。

 健やかな寝息を立てている、桔華の腕の中の娘。
 その未来をはかなんで、ちくりと桔華の胸がうずく。
 
 この子に罪はない。
 俊承が悪いわけでもない。
 得体のしれぬ何か大きなものが、この小さな無垢の背中に黒くそびえ立つ。正体の定かでないおぼろげな何かを前に、桔華の心中は再びざわめき出す。すべての事実が、正しいとは限らない。この子は、何も知らぬ方が幸せなのではないのか。産んだ母のこと、その父のこと、何も知らず、何者でもないありふれたこどもとして生きる方が、この子のためになるのではないだろうか。



 ***



「晴子さん!!」


 その性急な声に桔華は振り向いた。まだちらほらと粉雪が舞っていて、防寒着もそこそこに兵衛が店の方から顔をのぞかせた。
 開けられた戸から、ちらちらと小雪が軒先に入ってくる。兵衛は桔華の顔を見るなり、「晴子さんは!?」とまくし立て、桔華が今朝はまだ姿を見ていないから寝ていると思うという曖昧な答えを返すより早く、その声に重ねるように桔華に強い視線を投げつけた。


「和葉が、和葉が……黒溝台で、戦死、したど……」


 兵衛が今朝の「東奥日報」を右手で力いっぱい握りしめていた。
 現状の把握に追いつけない桔華は、呆けた頭で上がり場に目をやった。
 
 晴子の履物はそこになかった。

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2011/11/04(金)
6、「いのち」

「いのち」(6)



 黒溝台会戦は、一月二十七日に開戦。
 度重なる日本軍参謀の「判断ミス」を、弘前第八師団という本来後備配置であった「虎の子」を前線に投入することで辛くも勝利を得た。

 この会戦で弘前第八師団では多数の犠牲が出た。これは日露戦争における特筆事項には値しないかもしれない。黄海、旅順、奉天、璽霊山……幾多の戦場で多くの人が死んだ。日本人もたくさん死んだ。当然、ロシア人も死んだ。多くの家族が肉親の死を悲しむより、大国ロシアを満州の地にて打ち破りつつある、アジアの独立を、日本が勝ち取りつつあるといういわば国家意識レヴェルの熱に支配されつつある。大切な人の死は、声を荒げて悼むべきものではない。かれは、国家と、アジアの真の独立のために名誉ある戦死を遂げたのだ。残されたものはそう強く思うことで、その悲しみを乗り越えようとするのかもしれない。
 そういう空気が許されるのが、「戦時」である。


 ***


 桔華は兵衛の声を聴くや否や、娘を兵衛に預けて走り出した。
 幸い、夜半より小振りになっていた雪が、微かに晴子の進んだ道を残していて、雲間から除いた太陽がきらきらと足跡を照らしていた。

 降り積もった雪は、早朝から人々が手分けして除雪していた。往来の両端に、自分の背丈よりも高い雪が壁を作り、門のところだけ人が出入りできるように除雪されている。何人かの顔なじみに晴子の行方を聞いたが、誰もがかぶりを振った。新聞を購読している住民が、晴子の名前を聞いて心中を慮った。しかし、死亡通知が来たのは、川内でも晴子の家だけでは無いらしい。先ほど兵衛に見せてもらった「東奥日報」にも、第八師団で戦死した青森県人の死亡判明リストが一段にも連なっていた。ここ下北の地からも多数の犠牲者が出ている。それだというのに、人々はいつもと何も変わらぬといったふうに表情もないまま、もくもくと除雪を行い、そうして仕事に行くものは行く。家のことをする者はする。近隣で葬式が出ると段取りが組まれる。それは実に機械的で、実に人間らしい行動なのかもしれないと桔華は思った。そうしなければ、生きていくことができないからだ。

 当然のことなのかもしれない。
 誰かの死はそれは生き物である以上当たり前のことで。

 いつまでもそれに胸を痛めていたのでは前に進めない。
 そんなの。
 
 そんなの――。


 ***



 晴子は、誰もいない船着き場にいた。
 そこはまだ除雪が入っておらず、晴子の足跡だけが残った薄積の雪は、きらきらときらめいて。
 昨日まで鈍色だった波間も、久しく顔を見せなかった太陽の光を寿ぐように穏やかに押し寄せている。

 晴子はじっと海の向こうを見ていた。
 ただずっと。ずうっと向こう。

 風が冷たい。晴子は上着も着ていなかった。

「風邪を召しますよ」

 桔華はようやくその言葉を選んで、晴子に声をかけた。
 晴子は答えなかった。桔華は持ってきた晴子の裂織の綿入れを、背中からかけてやった。
 晴子の心中を思い図ることができない。
 才人のときと同じだ。自分は、何をしてやればよいのだろう。なんと、声をかけてやればいいのだろう。
 波は変わらず、穏やかな音を伴って眼前に広がる。
 桔華が何も言えずにいると、晴子がぽつりと言った。

「この海の向こうには、青森があるだけ。内海(うぢうみ)だもの。大陸には届かない」

 俊承は太平洋を臨んで、桔華の背中を見ていたのかもしれない。
 海の向こう。それはかれにとって、見たことのないすべてのもの。必ずしも絶望ではなかった。
 しかし晴子は違う。
 かつてこの海に自らの命を沈めることをし、この海を見ながら自らのこどもを無くし、そうして今度はこの海の向こうで、かけがえのない、ただ一つの大切なものを失った。
 晴子にとって、海とは母なるものではなく、それは同意義であり真逆の、絶望的なものであるのかもしれなかった。

 晴子は言った。
 昨夜遅く、在郷軍人会より和葉の戦死を伝えられたのだと。
 遺品もなく、和葉の名前と所属、死亡日時と、何人かの朱印が押された半紙を一枚、渡されたのだと。

「仕方ないのよ。何万という人が広大な大地の中に命を落として、戦争はまだ続いているから、遺体をすべて収容することができないのですって。仕方がないわ。仕方が無い。仕方が……」

「晴子さんもう」

「ねえ、もしかしたらこれは何かの手違いで、和葉さんが明日ひょっこり帰ってくるなんてことがあるのかもしれないと思わない?そうしたらね、私、桔華さんと娘さんのことを自慢するのよ。あなたがお留守にしている間、私はこんな素敵な友人ができたの。その出産に立ち会うこともできたのよ。こんなに素敵なことはあるかしらって。あなたが戦争で大変な思いをしているのを知っていたから、自分が、誰かのためにできることを必ずやり遂げたいという人だから、私も、自分のできる範囲で桔華さんのことを助けたいと思ったのよ。彼に恥じない妻になりたかったの。でもね、桔華さん。だから私はあなたを助けたのかもしれない。和葉さんの志につりあいたくて、彼に認めてもらいたくて、あなたを利用したのかもしれない。あなたを助けることで、私自身が救われようとしていたかもしれないなんて――。あなたは失望するかしら。でも、それすら意味が無くなってしまったわ。和葉さんはもう、ここに帰ってくることはない。それは私だけが特別なのではなくて、世界中の兵士の家族がそうであることのうちの一つでしかないのに、私は、私自身の悲しさに、どうすることもできないの。なんて利己主義なのかしら。結局、自分のことしか考えていないのよ。ねえ、桔華さん。私は、どうしてこんなに惨めなのかしら。ごめんなさい、桔華さん、ごめんなさい――」

 晴子は顔を上げたままぼろぼろと泣き出した。それを拭うこともせず、しかし必死で何かを堪えるようにして、体を震わせていた。桔華は、まるで金縛りにあったように動けなかった。その行動が誰かのためにと銘打っていても、それは自分が救われることに帰納する。黒澤も同じことを言っていた。そうしてそれは、桔華自身もよく理解していることであった。
 
 桔華にとって、晴子は、自分にないすべてのものを持っていた。
 帰るべき場所、愛する人。それを羨ましいと思っていた。
 それに比べて、私は自分で自認できる家族も、帰るべきところも女としての幸せもなく、決して口外することを許されぬ恋に身を焦がし、やがて北の果てにたどりつき、女の身一つで女児を産んだ。その父親は、かつて密やかな恋を誓い合った従兄ではなく、旅先で出会った朝鮮人。かれは桔華とともに生きる道ではなく、ただ一人、苦難の道を歩みゆく。桔華もまた、己が使命と半ば強引に自らに言い聞かせ、祖母のいいつけを全うする。

「あなたには、私にないすべてがある。愛すべき人がいて、それはどんな形であるとはいえ、命ある限り再びめぐり合うことができるわ。その愛した人との間に愛らしい女の子も生まれた。女性だというのに、歌道で将来を嘱望されていて、家や地元に縛られることなく自由にどこにでもいくことができるのよね。ねえ、どうしてあなたはそんなご自分を哀れだと思うの。あなたが望めば、日本中の女性が手に入れることのできないたくさんのものを手に入れることができるのよ。家に縛られ、家庭に縛られ、そうして女として生きるべき道徳にがんじがらめにされている私たちは、どんなに望んでもあなたのような生き方を選ぶことはできない。ねえ、なのにあなたは、どうしてなにを悩んでいるの。どうしてあなたなの。あなたは、わたしの――」

 そこまで言って、晴子の言葉は途切れた。
 兵衛に預けてきた赤ん坊のことが頭をよぎった。
 桔華は、正面から晴子の肩を抱いた。細っそりとした肩幅。その身はまだ微かに震えていた。

 海猫がみゃあ、と鋭い声を上げて泣いた。さっと桔華と晴子の視界に影を作り、風を切るように飛び立った。

 三月、陸奥湾には春陽が差し込んでいる。
 ロシアとの戦争も終わる。維新に続く、日本の第二の開国が始まる。
 それは、終わりに向かう始まりなのかもしれない。

 古月も俊承も、黒澤も晴子も、それぞれの立場で国を背負って立つ日が来るのだろう。
 あるいは母として。
 あるいは一企業を背負って。
 あるいは国防を担う軍人として。
 そうしてあるいは――。

 なればわたしも、何を迷うこともあるまい。
 私は私として生きることを決めたのだ。そのほかを選ぶことは許されぬ。


 ***


 翌日、晴子は赤ん坊の泣き声で目を覚ました。
 早朝の空気の冴えわたる中、赤ん坊はえんつこで無邪気に泣き声を上げていて。
 その傍らにいつもいたはずの、母親、桔華の姿がない。代わりにきれいに畳まれた布団と、彼女が発句の際に利用していた雑記帳が一冊、そこに置かれていた。



 陸奥湾を抱く街のなかひとり 吾子の手や君を求めん



 晴子は、何も知らぬ赤子を抱きあげた。
 赤ん坊は晴子の腕のぬくもりを感じてか、すぐに大人しくなった。

「あなたはひとりなんかじゃない、そうでしょう、桔華」



 ***



 明治三十八年三月、こうして最上桔華は、晴子のもとから姿を消した。
 桔華と晴子、こののち二人が生きて再会することは、無い。
 
 ただそこには、二人が確かに邂逅したという証――無垢な赤子が、「母親」に向かって小さな手を虚空に伸ばしている姿があるだけである――。


 
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2011/11/05(土)
6、「いのち」

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