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『兄弟』(1)

 輝也は相変わらず暗がりの中にいる。


 見知らぬ土地は盲目の彼にとって、得体の知らぬ空間以外の何者でもない。そもそも物心付いた頃から湖南楼から出たことのない輝也にとって、かの店子以外に見知る土地など有りはしないのだが。


 ***


 船というものには難儀した。あのゆったりと振り子のように揺れる感覚。まるで内臓のひとつひとつがフラスコの中でかき回されるような気分だった。「外に出てみようか」と誘い出してくれた日本の陸軍元帥は、御年60を超えているというのに少年のような張りのある声をしていた。手を引かれてタラップを上ると、一面が真っ白になった。途端に磯臭さが鼻を突いて、輝也はちょっと顔を顰めた。しかし外の空気は、恐ろしいほどに冴え渡っていて、一つ一つが針のようだと輝也は思った。白河川に手を引かれたまま、デッキの手すりを握らされる。「やはり海はいい。私も海軍創設に携わりたかったのだが、生憎人手が足りていたんだよ」白河川の声が頭上で響いた。時折水滴が輝也の顔や手に触れた。海とは母なのだ、とある海軍士官が言っていた。母とは水を飛ばすものなのか、と輝也は思った。

 『外』はいいものだな。暗くないし、なんだか気分がいい。

 しかしこの匂いは堪らぬ。そうして輝也は胃の中のモノを吐き出し、白河川に背中をさすられた。その顔は朗らかに笑っていた。

 夜明け前、上海港で黒澤修吾と別れた。白河川修と、その秘書、山城眞子に手を引かれ、乗船するというときになって、黒澤は白河川に何か言っていたようだった。結局、輝也は黒澤とは一言も言葉を交わさなかった。

 殺したいほど憎んでいた父、黒澤修吾。
 その男が目の前に現れたら、刺し違えてでも殺してやる。そう心に決めていたのに、いざ彼を目の前にして、自分でも理解できない感情が輝也を取り巻いた。

 その男の纏う柔らかな空気。
 「らく」が愛したという、男。

 輝也が連夜相手にしている将校らとはまた一線を画す、その薄ぼんやりとした線をもつ男に、輝也の思いがたじろいだ。自分のその感情が理解できずに、思わず部屋を飛び出したら、階段を踏み外してしまった。 

『日本は、いいとこだぞ』

 翔はそう言っていた。本当は眠ってなどいなかった。翔との別れ際に、何と言葉を交わせばよいのか分からなかった。

 翔、もう一度会えるか。
 家族とは何だ。お前は家族を殺されて、どうして文秀たちを許せるんだ。
 話したいことが、あるんだ。


 ***


 丸一日かけて、上海から釜山を経由し、広島の宇品港に着いたが一昨日の朝。そこから鉄道を利用して大阪で一泊し、昨日の夜に東京・蒲田にある白河川に私邸に着いた。自動車をおり、運転手の男が荷物を、山城眞子が輝也の手を引いた。階段を上ったのでおそらく二階。部屋に通され、寝巻きに着替えさせられた。「ここを貴方の部屋とします。今日はもうお休みなさい」そう言って彼女は部屋に薄明かりをともして、ドアの向こうへ消えた。湖南楼の夜を思わせる明かりだった。

 次の日、目覚めたものの、する事が無いということに気がついた。いつもであれば朝は遅い楽弥に代わって、厨房に指示を出し、田口に今夜の予約客について確認させる。あれこれと指示を飛ばすうちに風呂に入り、身支度をせねばならぬ時間となり、夜を迎えるのだが、生憎、来たばかりの日本では、出歩こうにも場所を見知らぬために動けない。また、気軽に呼べる使用人もいない。そのうちに眞子が朝食を持ってきた。そういえば、腹が減っていた。

「屋敷の中は自由に出歩いてもいいのか。する事がなくて気が狂いそうだ」

 白いご飯を輝也の口に運びながら、眞子が応える。

「ではまず、身の回りのことを自分でこなせるようになりましょう。着替え、食事、あとはその言葉遣いを何とかしなければなりませんね。少なくとも白河川閣下には敬意を払いなさい。本人はそれを嫌がるかもしれませんが、周りに示しがつきませんから」

 湖南楼では、輝也の身の回りのほぼすべてのことを田口がこなしてくれていた。彼がいないと何も出来ないのだと輝也は今頃になって気がついた。


 ***


 気がかりなのは楽弥のことだ。

 楽弥は特定以外の相手をしない。輝也がその分を一手に引き受けており、湖南楼における有効な外交手段であったはずだ。店の差配云々に関しては田口が要領得ているが、客の相手となると、店の女たちで事足りるかどうか。
 楽弥が北京から連れ戻されて以後、そこで何があったのかを彼女は決して語らず、黒澤修吾に再会してからも、楽弥が取り乱すことは一切なかった。袁世凱の懐刀である宋経国と帝国陸軍元帥白河川修がなんらかの接触を持ったことは耳にしていたが、楽弥は珍しくそれを輝也に任せなかった。よほど調子がいいらしい。問題なのは彼女がその心身のバランスを保てなくなったときだ。

 彼女はそういうときにだけ、輝也に母としての弱さを見せた。

「愛しい輝也。私が愛しているのは貴方だけなのよ」

 『楽弥』が愛しているのは舎人耕三郎だけだ。そんなことは輝也が一番よく知っている。楽弥はその細い体と腕で輝也の背中を抱いて、何度も何度も「愛しているわ」と言った。縋るものが欲しいだけの一時的な行為であると分かっていても、輝也はその時間をいつも心待ちにしていたような気がする。たとえばそれが都合のいい偽りだったとしても、家族というものを知ったような気になれるからだ。

 そんな彼女を理解し、気にかけてくれる誰かがいるとしたら、楽弥の前の主人であるチウと、その息子、文秀あたりか。

「文秀のことだ、いざとなれば、きっと楽弥を助けてくれる」

 輝也はそう呟いて、この場は納得することにした。

 
  ***


 あてがわれたベッドに座り、壁に背を預けている。
 長い黒髪は結われておらず、肩にから胸にかけて落ちている。自分で結えないので、今日一日はこのまま過ごしてしまった。
 輝也は盲目の暗闇の中でも、昼夜の区別がつく。大陸に残してきたものをたらたらと思い浮かべているうちに、日が暮れてしまったようだ。

 あてどない思考はやがて靄のように霧散し、うまく纏まらない。
 疲れたらしい。考えたところで、今の自分ではどうしようもない。


 ふと、ドアの開く音がした。
 きいい、と木の軋む音がして、そこに何か「いる」気配がある。
 眞子ではない。即物的な、いや、もっと動物に近い、何か。


「谁阿(誰だ)」


 その気配は応えない。邪気のない大きな二つの瞳が、輝也に尋常ならぬ興味を示している。


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2010/11/05(金)
1、孝子、決別

『兄弟』(2)

  
 

 こども……?
 いや、俺と同じくらいか。
 敵意は感じない。とりあえず危険はなさそうだ。
 その好奇心の塊は相変わらず輝也に釘付けで、部屋に入りたそうにうずうずとしている。

「可以进入(入っていいぞ)」

 その小動物のような気配の感情が、弾けたように上向くのが分かった。板張りの床の上をととと、と渡り、ベッドの縁に腕と顔を乗せて、その上にいる輝也を見上げた。
 
 随分容赦なく覗いてくるものだな。

 しかも恐ろしいほどに邪気がない。こんな人間が存在していることに輝也は若干の動揺を覚えている。

「おとこの、こ?おんなの、こ?」

 たどたどしい言葉遣いではあったが、声は少年のものだった。少年は恐ろしく穢れのない目を相変わらず輝也に向けていて、目の前にいるものが何なのか、彼なりに解釈しようとしているようだった。

 輝也は少年を見下ろした。少年はその光の無い瞳の眼差しを受けて、ころりと首を傾げた。その邪気が翳る事は無い。
 その少年の腕を掴み、輝也は彼をベッドに引っ張りあげる。少年はたいした抵抗も無く、輝也に組み伏せられた。

「看上去象哪一个(どっちに見える)」

 いつも彼がそうするように、挑発的に少年を見下ろした。結っていない長い髪が少年の胸元に落ちる。輝也は少年の襟元に手を掛けるが、少年の目はその瞳に困惑の色は無い。これから自分が何をされるのか、理解していないのか。
 少年は輝也に手を伸ばした。珍しく化粧化の無い顔に少年の手が触れ、目のくぼみや鼻の高さと、唇をなぞる。驚いたのはむしろ輝也だった。目の見えない自分がそうするように、彼はモノに触れることで事実を確かめているのか。

「おとこの、こ。たくま、と、おんな、じ」

 年はそんなに変わらないはず。日本語の使用に関して輝也もはっきり言って自信は無いが、ここまで不安定ではない。

「是不是日本人?(お前は日本人か?)」

「な、に」

「お前は何者だ」

 少年はまたその無防備な瞳を容赦無く輝也に向けてくる。輝也の言葉を彼なりに解釈しているのか。輝也にとっても、ここまで何を考えているのか読めない人間は初めてだった。

「なまえ……」

 少年は名前を思い出しているようだった。

「かつらぎ、たくま」

 「たくま」はそう言って、また輝也を見上げた。俺に何を求めているのか。

「なまえ?」

 俺の名前を聞いているのか?

「しぇい、あ?」

 さっき輝也が少年に言った言葉を、発音と共に意味も理解しているようだった。驚くべき吸収力だ。

「しーぷ、しー、りい、べん、らん」

 いや、意味までは分かっていないのかもしれないな。

「吉岡 輝也だ」

 輝也の言語を聞き取り、咀嚼し、吟味しているようだった。ぐるりと思考を巡らせた後に、「たくま」は弾けたように「こーや!」と言った。

「あの、ね、『かつらぎ』は、しらがわさん、の、『せんせい』から、もらったんだよ」

 そして少年は『かつらぎ』という苗字は白河川につけてもらったのだと言った。どうやらこの少年は、白河川の縁者ではないらしい。では何者なのか。
 少年がばたばたともがき始めた。とくに引き止める理由もないので輝也は少年を自由にしてやる。するとドアの開く気配がして、少年がそちらに駆け出した。この気配。この家の主、陸軍元帥、白河川修か。

「やあ拓真君、ここにいたのかい」

 しらがわさん、と拓真は声を上げて、白河川の元に駆け寄った。白河川に頭をぐしゃぐしゃにされて、拓真は肩をすくめて「ふうっ」と言った。嬉しそうだ。喋らなければまるで室内で飼われている犬のようだと輝也は思った。

「あのね、こーや、おんなじ、おとこの、こ」

「そうだね。よく分かったね。君のお兄さんになる人だ。挨拶をしなさい」

「おにいさん?」

「家族のことだ」

「かぞく?」

 拓真はその言葉に感情を上ずらせる。彼にとって「かぞく」は嬉しい感情に部類される言葉らしい。
 拓真は輝也に向きかえり、気をつけをしてお辞儀をした。輝也は雰囲気で理解した。

「さあ、晩御飯の時間だ。下階の桜の間に行きなさい。眞子さんが待っているから」

 はい、と返事をして拓真はぱたぱたとドアの向こうに去っていった。きちんとドアを閉めていった。
 それを確認して、白河川が苦笑した。輝也が白河川に声を掛ける。

「何ですか、あれは」

 眞子に、白河川には敬意を払えを言われたので、多少言葉遣いには気をつける。白河川は輝也のベッドに腰を下ろした。

「桂木拓真君。君には、あれにいろんなことを教えてやって欲しい」

「俺は湖南楼や閨中でのことしか知りません。教えることなど無い」

「そんなことは無い。君にしか教えられないことがたくさんある」

 さあて、どこから話すべきかな。白河川はそう言って、拓真の身の上を語りだした。


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2010/11/06(土)
1、孝子、決別

『兄弟』(3)

 ***


 燃え盛る舎人家に、白河川の命を受けて姉弟の救出に向かったのは、秘書の山城眞子だった。
 真夜中ではあったが、彼女が裏手から屋内へ入ると炎のおかげで視界が開けた。

――血の匂いがする。『夜明け前』の京都を思い出すな。

 崩れ落ちる木材を見極めて身を翻し、眞子は鼻と口を腕で覆い、草履を脱ぎ捨て、炎の奥へと歩みを進めた。

 木材の燃える音に混じって、銃弾の音が低く、眞子の耳にも届いていた。白河川の推測は的を得ていたと考えていいらしい。
『舎人耕三郎』に軍拡派が牽制を掛けるのであれば、おそらくその家族を狙うのが最も効果的である、と。

 首謀者は陸軍中佐久坂廣枝か。
 それとも、仙楽弥の独断か。

 「北条」グループ社長、北条古月の線は薄いだろう。舎人耕三郎とは、日露以来の知己であるし、何より舎人の援助で陸軍との繫がりを保っている。久坂に抱きこまれたという話が伝わってきているが、少なくとも、このような形で親友を裏切るような軽薄な男ではない。

 ならば海軍大佐藤原一美はどうだ。

 陸軍の久坂と結んで、軍内の空気を軍備拡張路線に扇動しつつあるかの男もまた、舎人の知己であった。その息子一春は、北条古月の娘と婚約した。これは北条社長が久坂側に回った確たる証拠ともなりうる事実。しかし、先ほど外で見かけた藤原大佐の息子、一春の反応が気になる。士官候補生ともなれば、軍内の思想的対立もその相関関係も把握しているはずであるが、当の父親は、それについては息子に直接指示を出していないと考えたほうが自然か。彼はあくまで、「北条」との繫がりを保つための人材ということか。

 少年の声が聞こえる。
 弟の名前は確か、舎人拓真。

 眞子は歩みを急いだ。煙が強くなり、姿勢を屈めた。
 拓真の声がはっきりと聞き取れるようになった。

「姉上、姉上!」

 悲壮な声が何度も響いた。遅かったのか?眞子は倒れ落ちた廃材に身を隠し、着物の胸内側から短銃を取り出し、手早く安全装置を解除した。顔だけで現場を確認する。手前には、手負いの姉の体を抱く拓真。その後方に、炎が体に乗り移りつつ、拓真に銃口を向けようとする一つの影。

 あれは確か、「北条」の会計方…?

 確かめると同時に、眞子は視線と腕の直線に檜山を捉え、短銃を構えた。そして2発迷い無く撃ち込んだ。間一髪、眞子の銃撃を見切った檜山が、体を逸らしながら眞子に返し撃ち、身を翻した。残発が無いらしい。眞子は廃材から身を起こしてさらに2発追い討ちし、檜山がいなくなったのを確認して、拓真の元へと駆け寄った。彼の抱く姉、孝子は、背中から右腹部に掛けて銃弾が貫通しており、あたりはその血液で真っ赤に染まっている。すでに体温の低下が激しく、意識も無い状態だった。

 だが、微かに脈がある。間に合うかもしれない。

 眞子は自分の着物を1枚脱ぎ、裾を半分切り裂いて、孝子の腹の銃創を覆うようにきつく結んだ。炎が燃え移りつつあった体に、余った着物をぐるぐると巻きつける。

「拓真君、貴方は歩けますね」

 ところどころにかすり傷は見られたものの、姉ほどの重症は無いと眞子は判断した。孝子を背負いながら拓真に声を掛けたが、ショック状態の拓真はガタガタと震えるばかりで、眞子の言葉に反応しない。眞子は背に孝子を背負い、拓真の手を取った。炎に巻かれているが、この程度なら戊辰の時の上野の比ではない。眞子はそのまま、拓真の手を引いてもと来た道を走った。外に出たところで、勝手口が炎に巻かれ、がらがらと崩れ落ちた。

 
 ***

 
 白河川の話は続いている。

「裏に回した車で、私たちはそのまま知人の医師も元へと急いだ。特に姉の孝子さんは一刻を争う状態。車内にも血液が流れ出すほどの重症だった。明け方、彼女の応急処置を終えたんだが、もしかしたら、また彼女と拓真君は命を狙われるかもしれない。その可能性を考慮して、東京にいる私の知人の勝呂医師に連絡し、京都まで来てもらった。かれに同行してもらって、彼女と拓真君を東京の、勝呂の病院まで連れてきた」

「その姉はどうなったんです」

「背中と右脇腹の銃創を縫い、さらに右半身肩から腹部に掛けての重度の火傷。その場は一命は取り留めたものの、意識不明のまま予断を許さない状態が続いた。弟の拓真君は、ずっと姉のそばにいた。孝子さんを寝かせているベッドの横の椅子に座って、食事もとらず、寝ることもせず、彼の体を心配した私たちが話しかけても、応えることも無かった。ただぼんやり、包帯を体中に巻かれた孝子さんの顔を見ていたよ。そして3日目の朝、孝子さんのベッドにもたれるようにして、ようやく拓真君は眠りに落ちた」

 
 ***


「気がついたかい」

 白河川が拓真に声を掛けると、拓真はゆっくりと二回、瞬きをした。白河川が身を引くと、父親の耕三郎が拓真の顔を覗き込み、「よかった……」と呟いた。拓真の反応は鈍いままだが、耕三郎は拓真の体を抱いた。

「よかった、本当に、よかった……」

 そう言ったきり、耕三郎の声は続かない。気取られないようにはしているが、何度も嗚咽を繰り返しているようだった。

「あれから二日も眠ったままだったんだよ」

 白河川が拓真に言う。拓真は反応しない。

「辛い思いをさせた。孝子も無事だよ、お腹が空いただろう、今何か持ってくるから」

『孝子』という言葉に、拓真ばびくりとするどい反応を示した。次第に呼吸が荒くなり、がたがたと震えだす。

「ああああああ!!!」

 途端に暴れだす拓真。白河川は思わず立ち上がり、耕三郎はとりあえず拓真を抱きかかえた。耕三郎の胸の中でなお、拓真はもがき、苦しんでいる。
 耕三郎は拓真の背中を抱き、とんとんと叩いてやる。父親の心臓の音を聞いて落ち着いたのか、拓真は静かになった。どうやらまた眠ったようだった。枕に頭を乗せ、また拓真を寝かしつけてやる。拓真の瞳には、うっすら涙が浮かんでいた。


 ***


「次に拓真君が目を覚ましたときには、あの状態だった。自分が誰かも分からない。父親の顔も、何があったかも覚えていない。まるで身の上に起きたことをすべて忘れようとするかのように、それを表す言葉ごと、捨て去ってしまったようだ」

 そう言って、白河川は一旦言葉を区切った。

「拓真君は今、言葉を覚える前の童子のような状態だ。身の回りにあるものすべてが見知らぬもの。これからあと二年以内に、彼を年相応の人間に育てる」

「そのあとはどうするつもりです」

「拓真君は陸軍の中央幼年学校に入学させる。輝也君、君にも、あと二年で日本の中学校卒業程度の知識を詰め込んでもらうよ」

「俺も日本軍の将校になるのですか」

「そのつもりでいて欲しい。君がなぜ日本に来たのか、理解しているね」

 いざというときには対中工作を行えということか。その逆もまた、あり得るのだろうが。


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2010/11/07(日)
1、孝子、決別

『兄弟』(4)

 輝也は、この白河川修という人間について、思う。
 
 帝国陸軍創設の功労者でありながら、陸軍の軍備拡張に関しては反対だという。
 明治という国家を作り上げながら、大正という世の平穏を愉しむことは出来ないという。

 そして目の見えない自分に、言葉もまともに扱えない、「たくま」の兄になれという。

「白河川閣下。俺には貴方が何をしたいのか分からない。ユアンは俺を人質のように日本によこしたが、盲目の俺が出来ることはたかが知れています。この目で、どうやって軍人になれと。どうやって拓真にものを教えろと」
「本当に見えていないのか。その目は」

 その言葉に驚いたのは、当の輝也のほうだ。今さら何を言い出すのだ、この男は。
 白河川は輝也の頬に両手で触れ、ぐいと此方に向けさせた。

「瞳孔が私の動きを捉えている。見えているはずだが」

 輝也の鼓動が波打つ。勢いその腕を振り払い、輝也は身を引いた。
 なぜだろう。興奮が収まらない。

「馬鹿をいうな、俺に見えるのはこの空間の明暗だけだ」

 白河川が輝也を見据えているのが分かった。

「君は『見ようとしていない』だけだ。そうやっていつまでも世の中から目を背けているつもりか。君には君の役目がある。それを直視する度胸をつけたまえ」
「五月蝿い、何も見えない、俺には見えないんだ!」

 輝也が白河川に対して声を張り上げた。
 ぎい、とドアの開く音がする。拓真が戻ってきたらしい。

「拓真君」

 驚いた様子の拓真はドアノブに手を引っ掛けたまま輝也をじっと見つめている。白河川が気遣って声を掛けた。輝也は上向いた感情に引っ込みがつかないまま、その場はぐっと自分を抑制した。

 見えている?俺が?

 考えたことも無いことだった。そもそも、「見える」ということがどういうものものなのかが分からない。物心付いた頃から、真っ暗闇の中にいた。昼は「明るい」ということを知っている。手に触れるもので何かを判断した。一定の距離までくれば、感じる「感情の色」で誰なのかを判別できた。

「うるさい、なに?」

 拓真が不安そうな声を上げた。輝也の感情を読み取ってのことらしい。「ああ、大丈夫だよ。何かあったのかな」と白河川が聞く。拓真はちょっと困ったような顔をして、「まこさんが、ばんごはん、です」と言った。どうやら晩御飯を白河川と輝也と共に食べる算段らしい。拓真はその使いに来たわけだ。

「拓真君、おいで」

 ととと、と白河川のところにやってくる拓真。その表情にはまだ微かな不安が残っているようだ。

「さあ、お兄さんの手を引いて」

 輝也の手を取らせようと、白河川が拓真の手を取って促した。輝也の怒気に感付いている拓真は、まだその手に触れることに戸惑っており、輝也に触れた途端にびくっ、と反応した。
 拓真の大きな二つの瞳が輝也の表情を覗き込んだ。

 その表情は、やはり輝也に分からない。
 しかし、と思う。何も知らない拓真に、不安定な自分を見せてはいけない。
 自分で把握できない心の奥に、拓真に対する特別な感情が芽生えていることに輝也は気が付く。

 輝也が拓真の手を握り返した。拓真がぱっ、と顔を上げた。

「いこう、こーや」

 拓真が輝也の手を引いた。輝也はベットから降り、裸足のまま床に足をつけた。
 
 


 二人が部屋を出て行くのを、白河川は後ろから見送っている。

――輝也君が、『弟』を受け入れてくれるかということが、まずは問題だったわけだけれど。
 
 やれやれ、と言ったところだ。白河川は小さくため息をつきつつ、苦笑した。



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2010/11/09(火)
1、孝子、決別

孝子、決別(1)


 *****


 とにかく、必死だったのを覚えている。
 

 守らなければならないはずのあの子の背中は、いつの間にかとても大きくなっていた。
 気がついたら守られていたのは私だった。

 母上が仰っていた。
 「父を立て、拓真を立てろ」と。だから私は、拓真が軍に入り、将校となって日本の国体を担う大人になれば、それが彼の幸せなのだと信じていた。それが母との約束を果たすことになるのだと信じて疑わなかった。

 どうして気がつけなかったんだろう。拓真はそんな道を望んでいなかった。

 思えばあの子が軍に入りたいなんて一度も言ったことはなかった。
 私が勝手に、そう思い込んでいただけだ。

 「天文学者になりたい」とあの子は言った。
 私はそれを拒絶した。

 あの子は、始めて私に失望の眼差しを向けた。私はそれでようやく気がついた。 
 

 私たちに銃口を向けていたのは、北条家の使用人だった。
 なんでこんなことになったのだろう。そんなことを考えている余裕は無かった。 

 じりじりと迫る熱風と、視界を塞ぐ、猛烈な黒煙の中に私はいた。
 私に「逃げろ」と言ったあの子に、銃口が向けられている。
 その瞬間に、弾けるように体が動くのが分かった。拓真を死なせるわけにはいかない。あの子にはまだ、やりたいことがあるから。

 後悔したから。
 あの子にあんな顔をさせてしまったことを。

 例え私が死んでも、生きながら後悔するよりずっとマシだ。



 *****



 指すような激痛が体を走っている。
 意識が覚醒してくると、その痛覚をより鮮明に覚えてきた。左半身が、絶えずお湯を掛けられているように熱い。いや、それすら通り越して、もはや氷水を掛けられているような気さえする。
 
 ふと冴えた空気が窓を通り抜けるように、孝子は意識を明確に取り戻した。反射的に体を起こそうとする。体中を電気のように走る激痛。巻かれた包帯に傷が擦って、孝子は悲鳴を上げそうになった。勢い、庇った左腕に触れた右腕から、点滴の針が抜け、支柱ががらがらを音を立てて倒れた。気の遠くなりそうな痛覚に身を縮めながら、孝子は歯を食いしばった。


――拓真。 


 額に巻かれた包帯にも、脂汗が滲む。耐え切れずに孝子は唸り声を噛み殺した。体を起こしているだけで、息が上がる。今にも倒れこみそうな体を腕で支えて、ベッドから床へ足を伸ばす。震える素足が冷たい床に触れる。そのまま立ち上がろうとしたが、足に力が入らないまま、孝子はベッドから落下した。


――拓真、いたら、返事、しなさい…――

 
 体を起こそうとするが、やはり言うことを聞かない。孝子はペタリと頬を床につけて、息を荒げた。ここはどこだろう。体中に包帯が巻いてある。誰かが助けてくれたのか?拓真は無事なのか。この後死ぬにしても、それだけはこの目で確認したい。

 やや乱暴に、部屋のドアが開けられた。
 物音を聞きつけた山城眞子だった。

 部屋はベッドに机だけの簡素なもの。点滴の支柱が倒れ、包帯の取れかけた孝子が床に倒れている。眞子は驚き、孝子を抱き起こした。
孝子は、視線が定まらずにぐったりとしていた。

「拓真は、無事ですか」

 眞子の顔を見るなり、創痍の孝子は搾り出すようにそう言った。眞子は面食らった。自分がこれだけ危篤な状況で、意識が戻って開口一番が弟の安否か。
 
「安心なさい。彼は無事ですよ」

 すると孝子はふと表情を緩めた。眞子は彼女を抱くその腕から、孝子の体に入っていた力が抜けたのを感じた。眞子は孝子を抱えあげると布団の上掛けを取り、もう一度そこに寝かしつける。眞子の目の届く範囲で包帯と着物の崩れを直してやり、そして上布団を掛けてやった。
 点滴の支柱を建て直したが、自分では再装着できないので、勝呂医師に連絡しようと、その場を立とうとした。
 
 孝子が、後ろから声を掛けた。

「あの、助けてくださったんですよね」

 ともすれば消え入りそうな声だった。しかし意識はちゃんと保っていられるらしい。

「ありがとうございました」

 眞子は戸外に出ようとするのを改め、孝子の枕元に寄って、孝子の顔を覗き込んだ。

「拓真君は白河川さんが預かってくれていますから、貴方はご自分の体を一番に考えてください。いいですね」

「白河川さん……?」

「貴方の父上の上司よ」

 にわかに孝子の表情が動いた。

「帝国陸軍、元帥」

「ええ、そうよ」

「あなたは……」

「私は彼の……そうね、白河川のいわば身の回りの世話人といったところかしら。山城です。ここは私の家。貴方のことを任されているから、何かあったら遠慮なく申し述べてください」

 眞子は、机から椅子を持ってきて、そこに腰掛けた。孝子がゆっくりと此方に頭を向けた。

「拓真は、無事なのですね」

 確かめるように、孝子は言った。

「ええ、無事ですよ」

「会わせて頂けませんか。あんな目にあったのです、もしかしたら思い悩んでいるかもしれない」

 眞子は少し考えた後、言葉を選びながら孝子に言った。

「事情があって、あなたに会わせる事は出来ません。だけど彼は元気でやっています」

「どうしても会わせていただけないのですか」

「どうしてもです」

 孝子は返答せずに、天井を見上げた。何かを察したのか。頭のいい子なのだな、と眞子は思った。

「あれから、どれくらい眠っていたのですか」

「10日ほど。あなた方ご姉弟は、あの火災で行方不明ということになっています」

「父上はご存知なのですよね」

「ええ。あなた方が白河川の庇護下にいることはご承知です。先日までこちらにも顔を出していたのですが、先日、赴任地の北京へ帰りました。貴方の目が覚めるまで付き添いたいと仰っていましたけれど、任務に支障を出してはいけないと」

「父上は、何か大変なことに巻き込まれているのですか。北条社長と何かあったのでしょうか。だから白河川閣下御自ら拙足を賜っているのですか」

 そういえば、孝子はあの火災の中で北条家の使用人と顔を合わせているのだ。記憶を失っている拓真を除けば、眞子と、孝子だけがその事実を知っている。

「白河川が動いたのは偶然です。北条と今回のこととの関わりは調査中よ。貴方たちがここにいることは、私たち以外の誰も知らないわ。貴方が外に出なければ、身の安全は保障します」

「私たちは……、拓真はこれからどうなるのです。もう今までの私たちとして生きることは出来ないのですか」

「そのつもりでいてください」

「私たちは、あの炎の中で死んだのですね」

 眞子はちょっと言葉を失った。肉体的には生きているとはいえ、また命を狙われるかもしれないことを考えると、このまま行方不明になったほうが都合が良い。そうなれば当人たちは、別の人間の人生を歩まざるを得ない。もちろん、舎人耕三郎の娘では居られないし、舎人拓真の姉のままではいられない。

「あの子はどうなるのです」

 眞子は応えることに躊躇した。しかし姉には伝えておくべきだろうと判断した。

「新しい名前と、家族を与えました。今後、この様なことがあっても自分で対処できるよう、心身を鍛えると共に、必ず誰かの目に触れておくために、軍人としての教育を与えます」

「あの子は」

 孝子は一度そこで言葉を区切った。

「優しい子なのです。軍隊なんて向いていない」

「今考えられる最善の方法です。あなたの身の振り方は、その傷の回復を待ちながら話合いましょう。今は何も考えないで。いいですね」 

 孝子は何も言わなかった。

 眞子は暫く孝子の顔を見ていたが、やがて深い呼吸を始めたようだったので、ひとつ、安堵の息を吐いた。
 点滴の針を打ち直してもらおうと椅子から立ち上がり、ふと孝子に振り返った。
 

 彼女の左頬には、細い涙の筋が通っていた。


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2010/11/14(日)
1、孝子、決別

孝子、決別(2)

 *****


 勝呂の診療所は、池上にある。
 白河川の自宅から車で20分程度。週に一度、彼は輝也と拓真を連れて、かの診療所へ向かう。

 輝也の目を診せるためである。
 まだ見えていない。

 拓真を連れて行くのは、外の景色を見聞きさせるためだ。まだ彼を一人で外に出すことはしない。本人はしきりに外に出たがり、白河川の目を盗んでは輝也の手を引いて玄関から出ようとするのだけど、

「いけません」

 と、眞子に一蹴されてしまう。眞子はいつも彼のためにあちこちと手を回しているようだが、大抵は彼の少し後ろに低頭気味に控えている。拓真と輝也に朝飯を食わせ、白河川家の使用人に手際よく家事などの指示を出す。一緒に住んでいるわけではないという。白河川が声を掛ければ決まり文句のように「支度は整っております」というから、山城眞子という女は最低3人は居るのではないだろうか、と輝也は思っている。

 そんな彼女が、今日は一緒ではない。
 白河川の知人である勝呂医師の診療所へは、白河川と三人で連れ立った。

 白河川が助手席から、拓真が手を引き、輝也が後部座席から降りた。拓真は袴姿、輝也は薄い柑子色の着物を着ている。
 小春日和の風がさわやかにそよいでいる。車が行き去り、白河川が入り口に歩みを進めたので、拓真と輝也もそれに従った。


 *****


 待合室には誰も居ない。
 毎週水曜日は休診なのだが、「人目を避けたい」という白河川の希望があって、あえてこの日に勝呂を訪ねる。

 勝呂幸四郎は白河川修より七年ほど年上である。
 まだ帝都が「江戸」と呼ばれた時代にその城下に生まれ、蘭学を学んだ。戊辰戦争を二十四歳の多感な時期に迎えた。かれは倒幕も佐幕も無く、江戸城下の苦しむ民を診た。

 官軍の若い士官だった白河川は、この頃勝呂と面会した。負傷した兵士の手当てを手伝っていたときにでも、顔を合わせたのかもしれない。
 この若い士官は、怒号を撒き散らしながら負傷兵の手当ての指示を出す肌の浅黒い男に、人間としての魅力を感じたのかもしれない。本門寺の講堂に横たえられた兵士たちの手当てを終えた夜遅く、白河川は勝呂に話掛けた。

「私も負傷兵を助けたい。手当ての仕方など教えてもらえないだろうか」

 すると、肌の黒いこの若い医者は胡坐を組んで白河川に向き直り、

「あんた、徳川様の家来たちを殺すんだろう。そんなやつにゃあ、教えられん。戦争が終わったらもう一度声掛けてくんな。そうしたら徳川様も官軍様もねえ。おいらがぴしッと仕込んでやる」

 戦争は終わったが、白河川は新政府樹立のために奔走する日々が続いてしまって、結局、医者にはなれなかった。しかし、ことあるごとに勝呂を訪ねては、「やはり医者になりたい」「なら官職を全部退いてきな」と軽口を叩き合って、交遊を深めた。白河川が陸軍の元帥を拝命している今、白河川に対等な立場でものを言える一般人は、彼を置いては皆無に等しい。


 *****


 繰り返すが、輝也の目はまだ見えていない。
 
 輝也の診察が終われば、白河川は勝呂と世間話を始める。その間、拓真は輝也の手を引いて、勝呂の蔵書を片っ端から引っ張り出している。文字を覚え始めた拓真は、とにかく字を追いたくて仕方が無い。診察室に陳列している蔵書にしても、医学書の他にも福沢諭吉や「白樺」、時事新報などがあり、それを床に広げては、拓真はそれをいちいち読み上げた。目の見えない輝也に、新聞の写真を指差して、

「イタリアがオーストリアに『せんせん』したんだって」

 という。輝也が『せんせん』とは相手国に大して戦争をするぞと名乗りを上げることだというと、拓真はやはり目を丸くして、

「せんそうは、だめ」

 と言った。そうして、肩から提げているショルダーバックの中から帳面と鉛筆を取り出して、その面に「戦争」と漢字で書き付けた。拓真は自分の手に輝也の手を乗せたまま、もう一度その漢字をなぞる。すると輝也が「ああそうだ。ならば宣戦という字はな」そう言って、今度は輝也が拓真の手を取って、帳面に「宣戦」と書き付けた。輝也は幼少時より、こうやって田口から文字を教え込まれた。

「拓坊もずいぶん語彙がふえたようだな」

 勝呂が二人の様子を見ながらそう言った。やや黄ばんだワイシャツに、柔らかい素材のスラックスを佩き、細身の体に深い皺が刻まれている。頭は短く刈り込まれていて、黒と白の斑模様の髪の毛。プレスの利いていない白衣。彼の妻、しづは5年前に他界した。彼は机の中から天狗煙草を取り出し、マッチで火をつけた。無表情でそれを吸い、息を細く長く吐き出す。

「黒澤の息子の方は、後は本人の気持ち次第。瞳孔も虹彩もしっかり機能してやがる。まあ、餓鬼の頃からあんな目にあってちゃあ、無意識に心を閉じちまうのも分からなくもねえが」

 13年も前に、楽弥が発狂し、白河川に助けを求めてきた黒澤と幼い輝也の姿を、勝呂は知っている。

「それにしても修さん、チビ共三人も一手に引き受けて、大丈夫なのか」

 勝呂が煙草を口に加えたまま、白河川に問うた。人と話すときにめったに目を合わせないのが、勝呂である。

「みんな部下の子ですよ。なあに、かわいい孫が三人も出来た。目出度い事じゃないですか」

「いきなり全身火傷した姉ちゃんと拓坊連れてきたと思ったら、俺に押し付けてすぐに上海に飛びやがる。手前も若くねぇんだ、ちったあ自重しな」

「善処します」

 白河川は力ない笑みで応えた。 

「勝呂さんも、医師会のオファーをまた返上したと。高木会長がどうにも示しがつかないなぁと頭を掻いていましたよ」

「ばァか。そんな重っ苦しいもん年寄りにおっつけんじゃねえよ。どうせ俺らみたいなはすっぱでも組織には自動的に組み込まれてんだろうが。しかしあいつが会長たあ、『麦飯男爵』も随分出世したもんだな」

 勝呂は1本目を灰皿に押し付け、二本目に火をつけた。
 煙草を吸わない白河川には、この鼻の神経を劈くような匂いが少々辛い。が、勝呂はそんなこと気にしない。

「で、あの姉ちゃんはどうすんだ。体の火傷は一生モンだぞ」

 そうなんですよね――、と言ったきり白河川は言葉を詰まらせる。咥え煙草のまま勝呂はその様子を見ている。視線の向こうでは、拓真が雑誌「のはら」をめくっている。「最上桜花」を「さいじょう」と読んで、輝也に指摘されていた。

「修さん、あの子達の面倒見ることで、てめえのガキへの罪滅ぼししようってんならお門違いもいいところだぞ。手前が今、幾らあがいたところで、親としての手前は完全に失格なんだ」

 妻が自殺した日の、雪の朝を思い出す。
 一面の白さの中に、彼女の金色の髪と体を染める真紅の血だけが浮き立っていた。日本人では無い彼女の肌はやはり白くて、その瞳の色は、彼女がもう一度見たいと言っていた地中海の紺碧色をしていた。

「そんなことは思っていませんよ。あれと同じ思いをさせたくないから、どうしようか思案しているところなのです」 

 勝呂が白河川の顔を見ることもなく、ふう、と煙を吐いた。
 
 拓真が此方を向いて、何か言いたそうにしていた。

「外に、行ってもいいですか」

 白河川は立ち上がって拓真の方を向いた。一応許可を求めているとはいえ、あまり彼を外には出したくない。

「あれを」

 拓真が窓の外を指した。ソメイヨシノが、その縁取りに見事な桃色を揺らしていた。

「『桜花』、みてみたいです」

 拓真の手には、雑誌「のはら」が握られている。雑誌の主催者は最上桜花。なるほど、そういう流れらしい。

「構いませんよ。輝也君も連れて行ってあげなさい」

 拓真はぱあっ、と表情を綻ばせ、輝也の腕を引っ張った。白河川もそれに付き合おうと、席を立つ。

「勝呂さんもどうです、花見」

「うんにゃ、今日はあの姉ちゃんが来る日だから」


 すると、拓真たちが先に出て行った廊下からだたん、と音がして、少女の声が聞こえた。
 驚いた白河川が廊下に様子を見に出ると、そこには輝也と、とき色の着物に真紅のリボンを髪に結った少女がお互いを向くように尻を付いている。

 少女の後ろには、山城眞子の姿もある。

「申し訳ありません、お怪我はありませんか」

 輝也に手を差し出した孝子は、その隣の拓真の顔を見て動きを止めた。
 拓真も、剥けるような大きな目を、孝子に向けたまま、動けずに居る。


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2010/11/15(月)
1、孝子、決別

孝子、決別(3)

 拓真の感情が凍りついた。
 輝也はすぐに感付いた。同時に、目の前の少女も何がしかの困惑を見せている。

「拓真」

 指し伸ばされた孝子の手が、小刻みに震えている。一方の拓真はどうやらそのまま動けず、息を潜めている。

「拓真、無事だったのね」

 孝子の手が拓真の腕に触れた。拓真は反射的にその手から逃れ、輝也の後ろに回った。
 輝也の背中で、肩越しに孝子から視線を外さないまま、がたがたと震えている拓真。孝子は拓真のその反応に、伸ばした手を下ろすことも忘れて、呆然としている。

「あんたが舎人孝子か」

 その名前を聞き、拓真がびくりと体を震わせた。それが輝也の背中越しに伝わってくる。光の無い視線を孝子に向ければ、躊躇いの手を引きつつ、その眼差しもゆっくりと輝也を見据え、こちらを伺った。

「あなたが、拓真の新しいお姉様ね」

 まだ声変わりもしておらず、長い髪も切っていない輝也は、ともすれば孝子には自分と同じくらいの少女にでも見えたのかもしれない。輝也は特にそれを訂正することなく、孝子を見据えたまま次の反応を伺う。

 後ろで、眞子が白河川に厳しい視線を送っている。

『今日は孝子さんをお連れしますから、午後からの往診にしてくださいとあれだけ申しましたのに』

 白河川が苦笑しながら視線を返す。

『ごめんなさい、……忘れていました』

 勝呂も煙草を咥えたまま、ひょいと顔を見せた。大人たちは口出ししない。孝子の反応を待つばかりだ。
 輝也は後ろの拓真の様子を伺った。どうやら耳を塞ぎ、小さくなっているらしい。
 白河川が以前に話していた通りの反応だ。拓真の中では、姉、孝子は死んだことになっているのかもしれない。自分を庇い、自分の腕の中で冷たくなっていく姉に、己の非力を責めたのだろうか。

 暫くの沈黙の後、孝子が輝也に手を伸ばした。気配で察した輝也はその手を取った。孝子に引き上げられ、輝也は立ち上がった。

 驚くほど孝子の心が静かなのを輝也は感じている。随分大人びた姉だ。壊れた弟を見れば、かの姉は取り乱すだろうと思っていた。いや、静か過ぎる。考えに考え抜いて、苦しみの果てにこの境地まで来ているのかもしれない。

 孝子に、凛とした強さを感じた。輝也はそれを美しいと思った。
 同時にこみ上げる感情がある。それは、文秀を想うときにも似た、穏やかに波打つ漣のような、思慕の情。
 しかし輝也はそれを素直に認めたくない。

「この子をどうぞよろしくお願いします」

 孝子はきっぱりとそれだけ言うと、するりと輝也の横を抜けて行った。輝也の後ろにいる拓真に一瞥することも無かった。
 眞子が孝子の後を追おうとする。輝也は思わず声を上げる。

「おい待てよ!お前、これでいいのか?何か言いたいことがあるんじゃないのか。命に代えてでも守りたかった弟だろう!こんなに簡単に誰かの元に預けられて、じゃあこれからは赤の他人って、そんな大人の勝手を受け入れられるのかよ!」

 孝子は立ち止まったが振り返らなかった。輝也は頭だけを孝子に向けている。
 なぜこんな気持ちになるのか。どうして他人の心配をしなければならないんだ。
 どうして、こんなに心が痛い。

 孝子の凛とした佇まいは、輝也の問いかけに揺るがなかった。

「物事には、必ず意味があります。こうなってしまったのも、私に非が無いわけではない。白河川閣下がこの子を私ではなく、あなたに預けたのは、お考えあってのことでしょう」

 孝子は、上半身だけ此方に向けた。
 輝也は勢い、孝子に振り返った。彼女が何を考えているのか知りたかった。
 彼女が何者なのかを知りたいと思った。

「あなたも私も、逆らえない時流の中で、与えられた人生を歩む他無いのではなくて?」

 色白の肌に、薄く紅を引いた唇。束髪で束ねた滑らかな黒髪をまとめた、真紅のリボン。
 そして、透き通るような水晶体に毅然とした意思を湛えた、黒い瞳。

 輝也の目が、初めて光を受け入れた瞬間だった。
 脳内に強引に像が結ばれていく。輝也がかつて思い描いていた以上の鮮烈な印象だった。 

 くるりと振り返ると、孝子は勝呂に頭を下げ、診察をお願いしますと言った。勝呂は頭を掻きながら、おうと返事を一つして診察室へ引き上げていく。孝子は白河川に一礼すると、勝呂の後ろをついていった。
 
 拓真は最後まで孝子から目を離さなかった。彼女が診察室に姿を消すと、すう、と立ち上がって、輝也の背中から顔だけをのぞかせた。輝也は拓真の頭を撫でてやりながら、しかし視線は相変わらず先ほどの孝子の姿を追っている。

 白河川がやってきた。自然と輝也の視線はそれを追った。

「おや、見えているのですか」

 輝也はその問いかけに、はいともいいえとも応えなかった。
 先ほどの孝子の立ち振る舞いと、いきなり強引に結ばれた視界に、輝也の思考は追いついてこない。


――なんだ、なんなんだ、あの女は。


 大正四年、四月。
 帝都の桜は、満開の時期を迎えている。


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2010/11/16(火)
1、孝子、決別

孝子、決別(4)

 *****


 日は傾きかけている。
 長い影を引きずって、眞子の後ろに孝子がしたがっている。勝呂のところからの、帰り道だ。

 あちこちの民家の軒から桜が枝を伸ばしていて、はらはらを花びらを落としている。絢爛を誇るかの桜たちも、横日に当てられ、自慢の桃色に影を落とす。あたりに人は居ない。ふわりと穏やかな風が舞う。しかし孝子はは俯いたまま、顔を上げることも無い。

 ちらりと眞子は孝子を伺う。
 あれから一ヶ月ほど経つ。炎に焼かれ、皮膚の爛れた左上半身から首にかけてはまだ包帯を巻いた状態であるが、こうして歩けるまでに回復した。無理をするなと厳命したのに、孝子は毎日、思い通りにならない体を必死に引きずって、体を動かす訓練をした。そこまでして彼女は何を望んでいたのか。

 言うまでもない。弟を探しに行くつもりだったのだろう。

 物分りのいいように見えて、実に頑固な娘なのだと、眞子は孝子を見ている。心のどこかでは、眞子の言葉から弟の状態を察していたに違いないが、それにしても自分の目で確かめるまではと、わずかな希望を持っていたのだろう。眞子はそれも理解していただけにどうしても拓真に孝子を会わせたくなかった。成り行きとはいえ、こうして顔を会わせることになってしまったことに対しては、自分の手配に不備があったのだと、孝子に申し訳なく思う。

「孝子さん御覧なさいな。夕日に桜。橙に染められた花びらというものにも趣を感じますね」

 孝子は答えない。眞子はやはり、と思う。
 想定されたこととはいえ、大切にしてきた弟に拒絶された姉の心中は計り知れない。眞子は記憶を失う前の、聡明な拓真を見知っている。母親を早くに亡くし、単身赴任ばかりの父親に代わり、拓真がどれだけ孝子に愛されて育ってきたか。眞子も人の親である。それが痛いほどに分かる。

 輝也が言うことはもっともだった。子供たちではどうしようもない状況とはいえ、姉弟を勝手に引き裂き、引き取ったのは大人たちだ。「弟には会わせられない」と理由もなく告げられて、はいそうですかと大人しく引き下がるほうが、それこそ非情というものだ。難しい年頃だと思う。孝子は今年十三歳になる。大人でもなければ、子供でもない。

 ぽつぽつと街灯が灯りだした。遠い地平線付近の橙を残すのみで、ゆったりと濃藍が空気に満ちてくる。街灯の白い光の中に、絶えることなく桜が舞っていた。そこだけが空間から切り取られ、まるで桜花が自らの定めを誰かに見止めさせようとしているようだ。

「眞子さん」

 孝子が口を開いた。はっとして眞子は振り返った。孝子は俯いたままだった。

「拓真は、これから軍人になるんですよね」

 それは先日伝えたとおりだ。眞子は「そうだ」と言った。

「それが、今のあの子にとって、最善な方法なのですよね」

「そうです」

 何が言いたいのだろう。今更それを止めてくれという聞き分けの無さを持つ子ではない。眞子は孝子の次の言葉を待つ。

「私も、なります」

「え?」

「私も軍人になります。士官学校に入学させてください」

 孝子はそう言い切って、強い視線を眞子に向けた。眞子は一瞬、この少女が何を言っているのか理解できず、次の言葉をすぐに繋ぐ事が出来なかった。

「何を言っているの。あなた、自分が女だということを分かって、そんなことを言っているの」

「ええ、承知しています」

「冗談でしょう」

「本気です」

 ざわっ、と生ぬるい風が吹いた。二人の間を通った風は、彼女らの着物を揺らしながら花びらが舞い上がった。

「白河川閣下と話をさせてください。身体検査さえパスできれば」

 孝子の黒い髪が、桜の花びらの舞い散る中にふわりと浮かぶ。その目は、一点の曇りも無く、眞子を見据えていた。

「私は、士官学校を主席で卒業して見せます」
 
 冗談ではない、と眞子は思った。冗談ではないのは、孝子も同じだった。
 孝子の気迫に応えるように、桜花がざわざわと枝を揺らした。

 それは舎人孝子が女である自分を、過去と共に「決別」した瞬間だった。


 *****


 同年の欧州戦線は、イタリアの参戦以降泥沼の様相を見せている。三国同盟を破棄したイタリアは、五月二十三日にオーストラリアに宣戦布告。帝国政府は二個師団増設費と軍艦新造費を計上した追加予算を成立させた。日本はドイツ領青島、グアムを除く南洋諸島の権益を獲得した後、大正六年四月、イギリスの要請を受け、地中海へ艦隊を派遣する。大陸では袁世凱が悲運のうちに憤死し、彼に代わって段祺瑞が国務総理として政権を握った。

 大正七年九月。吉岡輝也は、東京の陸軍地方幼年学校に入学した。
 入校したその日、講堂に一同が集められたときに、幼年学校の制服に身を包んだ少年たちの隊列の中に、ひときわ美しく、瞳に強い意思を湛えたものがいる。それは彼らの中でも匂い立つほどに精悍だが、肌の色が白く、そして驚くほど華奢な体つきをしていた。

 輝也はその姿に見覚えがあった。

 そこに居たのは、かつて輝也に「与えられた人生を歩むしかないのだ」と言い放った、拓真の姉の姿だった。


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2010/11/17(水)
1、孝子、決別

 *****



 少年は、息をしていた。


 少年という形容は、今の彼には相応しくない。黄色人のものではないその白い肌を覗かせた手足はすらりと伸び、微かに上下する細い喉が艶めかしい。着ているというよりは纏っているだけのパオには袖も襟もなく、少年の息衝く鼓動に呼応して、わずかに衣擦れの音をさせている。少年はただそこにいて、息をしている。焦点の定まらぬ視線を落として、弛緩しきった体中の筋肉を投げ出して、少年は生きるでも死ぬでもなく、ただそこで息をしていた。

 もうどれくらいになるだろうか。
 10歳まで彼を育んだ村を焼き捨ててから。

 lived――と脳内で単語を思い浮かべて、少年は笑止した。強いて言えばstaied。ただそこにいたに過ぎない。日本に宣教師として来日していた父親はオランダ人。母親はその父に見初められた村の娘だった。エホバの教えを布教するというのは口実で、少年がstayしていた村に阿片を栽培させ、清国を経由して欧州各地に密輸し、莫大な富を築いていた父は、少年が物心がつくころにはすでにその村を離れて各地に販売ルートを開拓して歩いていた。飢饉が続き、畑作稲作に壊滅的な打撃を受けていた村の住民は、肌の色の違う宣教師に言われるがまま阿片を栽培し、「それ」がもたらす利益と快楽に溺れていく。年に数回、村の教会に彼が現れれば、それはもう形式でしかない異国の神の姿を男に投影し、「神よ」「父なる人よ」と涙を流してその導きを乞うた。父なる男は優しげな微笑を口元に湛えながら、襤褸をまとい、手足に土がこびり付いたこ汚い哀れなる「羊たち」に敬意を表し、「光あれ」と呟く。小さくともとりどりのステンドグラスに照らされた祈りの部屋に、怒号の様に響き渡る歓喜、涙落の声。充満する芥子の煙は、人間たちの思考力を奪う。狂乱と化している祭壇の後ろには、少年と少女が蹲っていた。

 少年は、父親のような白い肌と赤い髪、瞳の色は銀色。少女をその胸に抱き、ぎりりと父と、群れる群衆たちを見据えていた。
 少女は、少年と同じ肌と、髪と、瞳の色をしていた。しっかりと少年の胸をつかみ、「I'm afraid」と時折こぼしていた。


 少年と少女は、一人だった。一対の翼があって飛び立てる鳥の如き存在だった。


 荒みきった村の中で、少年と少女だけが真面だった。たとえば、この村が世界なのだとして、狂乱が真実であるのなら、少年と少女は虚構なのかもしれない。
 だが、この少年と少女にとって、己が心情が真実であった。それで十分だった。

 
 少女が、狂乱した村の住人を殴り殺した10歳の時、少年は村を焼き払い、少女の手を取って走り出した。


 何人が死んだかわからない。母親もその中にいたのだろうか。そんなことを、気にしたこともない。母親の顔すら覚えていない。
 ともかく少年は、唯一の真実の手を取って、世界から脱出した。少女は、血まみれの手を少年に引かれながら、懸命についてきた。そうして、二人だけの生活が始まった。毛色の違う少年を快く受け入れてくれるところなどどこにもなかった。当てもなくさまざまな世界を目にしながら、時には盗みをしたり、自分を夜鷹に売り込んだりして、少年は少女とともに生きていた。傍目からすれば凄惨な光景かもしれないが、少年はそれで満足だった。

 少女は唐突にいなくなった。
 その夜相手をした男が少年の後ろを付けていたらしく、刃物を突き付けられ、報酬を奪い取られ、殺されかけた。それを庇ったのが少女だった。
 
 少女は痣だらけの身体を横たえる少年の前に立って、「弟を助けてほしい」と言った。男は少女を嘗め回すようにじっとりと観察した後、強引に少女の手を引いてその場を引き上げていった。少年は殴られた衝撃から動くことができなかった。少女は悲鳴一つ上げることもなく、去り際に「さよなら」の視線を一つ寄越して、そうして少年の前からいなくなった。生きる意味を無くした少年は、起き上がることもなく数日をそこで過ごした。数日たったある日、急に光が差し込んできて、船員と思われる男に叩き起こされ、倉庫を追い出された。数日ぶりにみた世界は、また新しいものになっていた。少年は心身ともに切り刻まれ、自分が生きているのか死んでいるのかという自覚すら失いつつあった。ただ、死にたくても死ぬことができない。自分が死ねば、片翼の彼女も死ぬ。見つけなければ。己の半身を。連なる枝を。

 新たな世界は、言葉も通じなかった。亡霊のような容貌の少年は、発育途上の臭気を漂わせて、世界の暗黒を彷徨った。腹が減れば、人を殺して奪うこともあった。雇われたバイヤーに泥饅頭を食わされ、あんなに嫌いだった阿片の密売を担がされ、数知れぬ女に抱かれ、物好きな男に輪姦される。少年はもはやそこに存在するだけの存在となりつつあり、ただ、深い雪のなかに灯る一縷の淡いlightのような「少女」を夢想しながら、その路地の裏で息をしていた。


 ***


 さらさらと、細い雨が降っていた。
 上海の薄暗い路地裏には、少年のほかにも、死体同然の人間が幾人も転がっていた。

 人の気配がした。

 気配は、その死体らと大差無い少年に向かって、まっすぐに歩みを進めてきた。カッ、と木靴を鳴らしたそれは、少年の前で立ち止まると、息をしているだけの少年の細い顎を引き寄せた。襤褸が頭からずれ落ち、少年はその白い肌と赤い髪を晒した。

 若い女だった。
 木綿のパオを身に纏い、うりざね顔には化粧、唇には紅、眉毛が細く描かれている。後ろできれいに纏められた髪に、大きな瑪瑙を配した髪飾り。少なくとも、こんな裏路地で家畜同前の人間の相手をするような身分の女ではない。
 
 道楽か。
 そんなことも、少年にとってはどうでもいい話だった。女は少年の顎を掴んでこちらに向けたまま表情も無く見つめていた。少年の感情は動かない。腐敗した臓器が少年を内側から蝕んでいるような不快。不快。不快。


「Kill me」


 表情の無い少年は、なんの感情を伴うこともなく言葉を吐いた。


「Killing me,please」

「Freely,If you would like to die. だがな、手前で死ねねえくせに一丁前にほざくな」


 女は少年の脳に言葉を直接ぶち込むような乱暴さでそう吐き捨てると、ふいに乾いた少年の唇に自分の唇を重ねた。女はしばし少年の唇の感触を味わった後、少年の胸倉をつかんで手前に引き寄せ、そうして今度は少年の口腔を舌で犯し始める。胸倉をつかむ女の手にも、少年の投げ出された手足も、それ以上に興奮しない。少年は求められなければ応じない。女も、それを望まない。ただ女は、息を切らしながら少年の唇を吸い、そうして吐いてはまた柔らかに噛んだ。女の長い睫をただぼんやりと眺めながら、少年は執拗に口腔ばかりを侵され続けた。

 狭い路地に、女の吐息と粘膜の吸着する音が響いている。顔を上げるものもいるが、多くは気にも留めていない。

「Please……」

「生きる方が残酷だ」

「リョク、I wanna meet my sister」

 感情を失った少年の頬に一筋、涙が流れた。女は、両手でしっかりと少年の顔を抑えたまま、鼻と鼻が触れ合うようなところで、何も写していない少年の瞳を見つめた。


「お前、名前は」

「スクネ アオイ」


 女は、嗚咽を始めた少年の頭を抱くようにして耳元で囁いた。


「この国で生きるための名前をやろう。シン、お前は今日から、私の慰みになれ」


 少年は息をしている。
 雨は止まない。時代は、新たな民主政府の行き先に陰りを見せ始めている頃。
 
 薄汚れた上海の路地裏、王時蘭(ワン ツーラン)の胸に抱かれて、「シン」は確かに息をした。
 青い空は見えない。
 そういえば、青い空がどんなものか、忘れてしまった。
 リョクは、青い空を覚えているだろうか。

 会いたい、リョク――。


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2011/12/01(木)
2、青

吉岡輝也の憂鬱(1)

吉岡輝也は、いたって不機嫌である。


 季節は正月を迎えようとしていた。退屈な国語――それはかれにとって必ずしも母国語とは限らない――の授業を適当に聞き流しながら、教室の窓にちらちらと舞う雪を眺めている。
 陸軍の幼年学校は、この年に改編があり、元来全国に五つある地方幼年学校を経て、ここ東京の中央学校に至る流れになっていたが、いわゆる中央校は「陸軍士官学校予科」として再編されることとなった。輝也は東京の幼年学校を経て、先だって二か月前、晴れて予科の学徒となった。士官学校の生徒は、いわゆる地方のエリートが寄り集まっていることに加え、普通中学から抜きんでた人間がこちらに進路を変えてくるものもいる。要するに、この時代における日本の頭脳の中枢が集まっているのだ――と幹部連中は宣いたいところであろうが、東京の地方幼年学校在学中から卒業までを完璧なまでに「優等」を貫いた輝也に、幹部らが求める大日本帝国への忠義とか、士官たる心意気というものが微塵もないというのはなかなか面白い。そんなわけで周囲の期待はいざ知らず、白河川に「まあ、その辺は適当に」と仰せつかっている輝也としては、つかず離れず、人並みに物事をこなしているに過ぎないのではあるが。

 東京の地方幼年学校に入学するまで、輝也は目が見えなかった。ある日突然、光を得た。
 文字というものを掌の感触でしか知らなかった輝也はまず、弟、拓真とともに文字を視覚として覚えることから始めなければならなかった。仮名、カタカナ、算用数字に加えて小学卒業四年の間に覚えねばならぬ漢字の量は、およそ千。輝也はそれを、三カ月もすればあらかたをマスターした。それは彼自身の才能というより、盲目時代より外界の刺激を体内で映像化する技術にたけており、輝也にとって漢字は「絵」であり、文章は「風景」であったたことにも拠る。拓真が読み聞かせる古今東西の蔵書はあらかた頭に入っていたし、あとは輝也の中にあった心象風景と現実のズレをすり合わせる作業を行うのみであった。難儀したのは色であった。輝也が体内にイメージとして持っていたのは「黒」と「白」。物事はその濃淡で表現されていた。光を得てから、拓真が輝也の手を取り、「これがあか」「これがあお」と一つずつ指差して口にするのだが、当の拓真自身、一年以上前の記憶を失い、知識指数で言えば三歳児に等しい状態。二人してコガネムシの羽色の形容に困っていると、山城眞子が例のむっつりとした顔をぶら下げてやってきて、「それは黄金色です」と言って去っていく。そのままじゃないか、そんな色があるのかと拓真が騒ぎ出せば、すっかりかれの手垢で汚れた図録をひっぱり出してきて、輝也にこがねいろのなんたるかを語って聞かせるのだ。互いの足りぬ部分を補いあいながら、二人は世界を少しずつ広げていった。

 輝也が士官学校の予科に入学すると、拓真も東京の幼年学校に通い始めた。二人とも白河川の自宅のある蒲田から通っていたが、輝也が予科に入学すると同時に市ヶ谷に下宿をするようになり、拓真と離れて暮らすことになった。好奇心ばかり旺盛で、10年分の経験値がすっぽり抜けている拓真が学友と上手くやっていけているのか初めは心配したものだが、拓真の無垢な振る舞いは学友たちにも個性として好意的に捉えられているらしく、兄の心配も杞憂に終わった。父親代わりであるはずの、当の帝国元帥白河川修は陽の当たる部屋のソファーに深く腰掛けて穏やかに微笑んでおり、「まあ、その辺は適当に」と言っている。拓真はかれなりの「適当」にあっちこっち飛び回っているようで、週末に輝也が蒲田に顔を見せれば、飼い犬の様に飛びついてきては、一週間のありのままを口上する。カマキリの卵を見つけたのだとか、友達と川がどこまで続いているのかさかのぼってみたとか、昨日読み終わった「進化論」の話だとか。輝也はそれらを聞き流すような素振りをしつつ、脳内では拓真の目を通じた世界を透視していて、予科での退屈な国語や修身の授業よりもよっぽど充実した時間を過ごすのだった。帝国陸軍の士官たる者、常に天皇の忠臣であり、優秀な指導者であらねばならぬというのが一般の常。中でも幼年、中央を経て士官、陸大と進むことは、日本男児の誉れであるという時代の中に、「軍人勅諭というものがくだらなくて覚えられぬ」と、当の作成者に近い陸軍元帥、白河川にぐだを巻いているのが輝也という人物である。


 その輝也が、中央校入学以来不機嫌なのは、ある同期生(クラスメイト)の存在である。


「では舎人、45頁8行から精読せよ」


 はい、と慄然として立ち上がった青年は、成長期を迎えている17,8の他のクラスメイトの中では一際小さく、ほっそりとした体は頑強が理想とされる士官学校においてはいささか頼りなさげ。立襟からのぞく喉元から、刈り上げられた耳元のあたりにかけて妙に艶めいていて、こうして授業中に立ち上がった彼を見て、俄かにクラスの空気が弛む。それは教官にも同じことが言えるようで、この空気を叱咤しようものなら、彼の色気を教官も認めたということになるから、だれもその役を負おうとしないのだ。

 当然、本人がそれに気が付かないわけがない。
 その空気を打ち払うかの如く、まだ声変わりもしていないような細い声を懸命に張り上げて、堂々と一節を読み終える。教官が「よし」というと、雄一郎はぴしゃりと席に着いた。軍人勅諭を絵にかいたような立ち振る舞い。品性良好で礼儀正しく、清廉潔白、実直剛健、士官たる自覚を(この年で!)深々と胸に刻んでいるような人間、それが輝也の見る舎人雄一郎という同期であった。


 だがこの同期、輝也にすれば大分訳有りなのである。
 
 輝也の目に光が戻ったその瞬間、その瞳が初めて写した彼――舎人雄一郎は男ではなかった。

 記憶を無くした舎人 拓真の実の姉、それが舎人雄一郎の真実の姿、つまり彼は「彼女」なのだ。


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2011/12/05(月)
3、吉岡輝也の憂鬱

吉岡輝也の憂鬱(2)

*「彼女」もまた、不機嫌であった。

 
 入学から2ケ月が経とうとしているが、一向にその身をまとう堅固な鎧のような空気を解く気配はない。同期たちが「彼女」を前に悉く玉砕していくのを、輝也もまた一度と無く目にしている。その女子のような(女子なのだが)見目麗しい容姿を持ち、弁は立ち、成績も上々のいわばクラスの花形は、自らに取り入らんとする同期を一喝し、身辺から遠ざけ、ますます孤立を深めている。クラスの纏め役とやらを教官に任されている輝也は、「彼女」の鉄壁の防御に打ちのめされた同期を適当に庇いつつ、一体どうしたものかと心中に溜息を付いている。輝也自身が「彼女」と打ち解けるとかそうでないかという話ではない。これではクラスの協調性とやらを保持することができないからだ。

 雄一郎は京都の幼年学校での二年間も、どうやらそのスタイルを貫いたらしい。同窓だった男からその話を聞いて、輝也はその据えかねた根性の凄まじさというよりむしろ、「そこまでしてなぜ男にならねばならんのだ」と心中を図りかねた。ただ、男装して世の中を生きるのとはわけが違う。一国を背負い、数万という部下の命を背負い、そうして冷酷な判断を下せる人間を養成する機関、それが陸軍学校だ。その身を挺してまで助けようとした弟が自分のことをすっかり忘れてしまっているショックが、こういう随分と殊勝な形で「彼女」に発露しているのだとしたら、それはただひたすらに悲惨であった。どんなに選りすぐりの人間が集められた組織といえ、ここは純粋なる男社会。見目麗しい男子は、そうではない年頃の男子の、恰好の好機の対象とされることが往々としてあるものだが(実際、輝也もその対象に万遍なく該当している)、地方学校在学中の二年間をああやって人を遠ざけることで過ごして来たのは、自分の正体が女であると感付かれないようにするためであり、その体力測定以外の筆記科目を抜群の成績で勝ち抜いてきたのも、見かけ以外のもので自分の存在を周囲に認めさせたいという「彼女」の意地だったに違いない。輝也には理解できない意地である。


 女というものは、凄まじいな。


 輝也は頑なな雄一郎の振る舞いを前にして、そう胸中に呟いている自分自身に驚嘆する。どうやらおれ自身は、自分を女以外のものであると自覚しているらしい。輝也は来日する前、母親の経営する上海の料亭で、男に身体を売る商売をしていた。ずいぶんと小さい自分からそういうことをしていたせいか、いつの間にか自分は男の慰めモノ――すなわち女なのだと自己認識していた。白河川に引き取られ、来日してからもしばらくはそういうふうに思っていたはずだが、そういえばいつからであろう。自分が男であること、女であることの性別の矛盾に疑問を感じなくなったのは。

 輝也の顔を、曇り無き眼で見上げる拓真の顔が浮かぶ。

 あの天衣無縫な弟は、家族の記憶も言葉も失った状態で、白河川に「兄」を与えられたのだ。兄とは、家族。親の次に自分に近い存在。拓真は、輝也のことを「たくまとおんなじ」と形容した。まだ、長い髪を切っておらず、女物の着物を着せられていた時分にである。あれの直感が、おれの本質を見ぬいたのだ、と輝也は思っている。何も知らぬ弟だというのに、そういう動物的直感だけは周りの人間よりも恐ろしく冴えている。自分以外の人間は基本的に信用しない輝也が、唯一信用する人間がいるとすれば、それは義理の弟、拓真なのである。

 その拓真が記憶の上で失った「姉」が、その美しい睫を書物に向け、立襟の軍服に身を包み、頭を丸刈りにして軍人然として輝也の前に座っている。休み時間だというのに旧友と無駄口を叩くこともせず、大正改元の年に明治帝に殉じた乃木将軍による独逸留学時のレポートをもくもくと読み進めている。最近では、クラスの同好連中も舎人を相手にするようなものもおらず、本人はいたって平和に厳しい目を書物に向けているのであるが、クラスの雰囲気は正直に言って居心地がいいとは言えぬ状況。名目上は輝也がクラスリーダーであるが、実質のムードメーカー役を買って出ている出雲という京都からの雄一郎の同期が「智慧を貸してくれないか」と輝也に話を振ってくる。

「何の」

「決まっている。このままでいいわけがない。京都ではあのままを貫けても、これから予科を出て任官して士官学校に入るんだぞ、連隊を率いる隊長があれでは、部下もついては来るまい。したがって、あれの協調性をもうちっとマシにしてやるべきと思うが、どう思う」

「どう思うも何も、落第したい奴は早々に落第してくれれば出世の好敵手が減る。素晴らしいことじゃないか」

 繰り返すが、輝也には大日本帝国や陸軍に対する忠義も顕示欲も、わずかたりとも持ち合わせてはいない。口から出たのは同期に対する単なる皮肉。

「吉岡。われわれに落第者など出させはしない。舎人自身、何か問題を抱えているなら、皆でそれを解決してやりたいんだ。同期の桜とは、そういうものだろう」

 こういう物事に素直な男は、上官の覚えめでたく、先陣切って出世をしていくのだろうなと毒付きながら、輝也も眺めていた書物を閉じて出雲に向き直った。不愉快な感情を隠さない輝也だが、この出雲という男もまた、どこか天然なところが抜け切れず、率先してクラスの面倒をよく見たがるのだ。そういうものに自分を巻き込んでほしくはないと、眼鏡の奥で出雲に訴えるのだが、こういう男に限ってそういうマイナスの感情には鈍感で、こちらの意図を汲み取ってもらえないことも輝也は承知している。

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2011/12/07(水)
3、吉岡輝也の憂鬱

吉岡輝也の憂鬱(3)

******


 結局、その面倒事を輝也が引き受けることになった。
 というのも、下宿先では同期四人が一つの部屋をあてがわれていて、輝也と雄一郎は半端数として定員四人の部屋を二人で利用している。
 要するにルームメイトなのだ。

 入校式の日に雄一郎を一目見て、「あのときの彼女」であると直感した輝也は、それと同時にあえてその事実には深く踏み入らない様にしていた。それこそ、面倒なことになる。あのとき、「彼女」は輝也を見て、「あなたが拓真の新しいお姉さんね」と言った。向こうは、輝也のことをそう認識したらしい。実際、輝也もあの時点では、雄一郎のことを「拓真の実の姉」と認識しているのだ。ここで雄一郎を拓真の姉であると指摘することは、いろいろとやっかいなことになるのだ。そのようなことは、極力避けたい。
 そんなわけで入宿する日に二、三言言葉を交わして以降は、ろくに会話をした記憶がない。雄一郎は前述のとおり極力人との接触を避けているようであったし、輝也もでき得る限りでは煩わしい人付き合いなどはご辞退申し上げたいところなのだ。週末に蒲田の白河川邸に戻るとき、おそらくこのことを知らないわけのない当の本人に目で訴えたりもするのだけど、御大はその輝也の意図を汲み取ったうえで、笑顔で黙秘を貫いている。輝也から雄一郎の話題を切り出させることで、「彼女」への関心を抱いている確信につなげるつもりなのだろう。輝也はそれが面白くないので、とりあえず今まで、自分からその話を白河川に振っていない。


「舎人、少しいいか」

 
 金曜は夕食後すぐに点呼があり、そののちは月曜日の起床まで自由行動が許されている。夕食を腹におさめて一度部屋に戻り、舎人も帰宅の準備をしているようだった。輝也はそこで声をかけた。


「何か」


 相変わらず素っ気のない声が飛んできただけだった。輝也は特に意に介せず、「話がしたいんだが、時間を取ってもらえるか」と事務的に返した。


「軍務に関係のあることですか」


 これまた事務的な返答が帰ってきた。2ケ月も共に寝起きしているというのに、他の同期と同様、輝也もまた雄一郎にとっては油断すべからざる人間には変わりないのかもしれない。


「まあ、あるといえば」

「具体的には」

「お前の今後の周囲との関係性について」

「最低限は保てていると自覚しています。何か問題でも」

「任務に置いては機械的な人間関係を築けるからまだいいが、とりあえず今のお前の態度が、クラスに波風を立てていることは事実なんだ。何か気に入らないことでもあるのか。こちらとしてはできうる限りお前の望むような形にしたいと思うのだが」

「別に何も。これは私の問題です。クラスへ悪影響をもたらしているというのであれば、今後は態度を改めましょう。皆に気を使ってもらうなど無用。迷惑です」


 では、と言って部屋を出ようとする雄一郎を輝也は引き留めた。けったいそうな顔が「まだ何か」といって輝也を向いた。


「あ、いや、別に」


 雄一郎は輝也の手を払うようにして部屋を出ると、それとわかるような音を立てて扉を閉めた。輝也はいささか呆然としている。
 本当は、雄一郎を女だと直感はしていても、その確信は持てずにいたところだったのだ。さきほど掴んだ手首が、驚くほど華奢であったことに気が付き、雄一郎は女なのだ、と妙に得心がいったような気がしたのだ。それで、思わず声をかけそびれた。

 しまった、これでは何も解決していないじゃないか。

 呆然とその場に立ち尽くしていたが、はっと我に返り、輝也も荷物をまとめ始める。今日蒲田に帰って、もしあのタヌキ親爺がいたなら、今日は「彼女」のことを聞いてやろう。これはおれ自身の「彼女」への関心ではない。拓真の実の姉のことであり、クラスの協調性にも関わる重要な案件だ――。


 
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2011/12/10(土)
3、吉岡輝也の憂鬱

吉岡輝也の憂鬱(4)

******

 
「そういうわけなのだ」

「なるほど。輝也君、君はあくまでこれは君自身の興味ではなくて、クラスのためだというわけだね」

「そもそも、なんで女を士官学校なんぞに入れたのだ。あれにとっても、周囲にとっても互いにこういう反応になるだろうことは予想もついたであろうに」

 そういって輝也は目の前のティーカップに口を付けた。週末、白河川邸の、元帥の執務室。本人の仕事机の隣に、小さな応接用の机とソファがあり、その客席に輝也は腰かけている。
 白河川は資料に目を通しつつ、輝也の話を聞いている。白河川の本棚に背を預け、ベルヌを読んでいるのが拓真。

「なんでって」

 そういって白河川はふと顔を上げた。

「おもしろいから」

 臆面も無くそういってのける陸軍の元帥に、輝也は不快感を全力で体現して深く溜息を付く。このタヌキ親爺には何を言っても暖簾に腕押しということか。まあ、そんなことは初めから解りきっていたことではあるが。

「君はどう思うんだい、かれのこと」

「かれとは」

「決まっているじゃないか、彼女のことだよ」

 話の筋が合わない。おれがしたいのはそういう色めいた話ではなくて、雄一郎の入学におそらく一枚噛んでいるであろうこのタヌキ親爺の方から、雄一郎に諫言してほしいということなのだが。

「優秀な同期だ。それ以上でもそれ以下でもない」

「いまのところ、成績は君の方が上のようだね。彼女は常に君の次点だ」

「あれに主席を譲ってやればいいというのか」

「そんなことをしたら却って彼女のプライドに傷をつけてしまうよ。今のままでいい」

 白河川はそう言って手に持っていた資料をテーブルに置き、一息付いた。窓の外は晴天。真冬の晴天は、カラッとしていてひどく涼やかだ。

「だいたい、京都での二年間をどうやって過ごしたのだ。身体検査の類はお前が差配したのだとして、日常生活やらなにやら不都合が出るだろう」

「ご想像にお任せしますよ。ところで輝也君、彼女は君と、そう大差無いのだとは思わないか。かたや、女児として生を受け、その性を捨て、男として生きることを選んだ雄一郎君。かたや、女児として育てられ、その容姿もほとんど女子であり、しかし最近男としての自覚の発露を覚え始めた君。どうだい、互いによき理解者になれると思わないか」

「つまらない冗談はよせ。そもそも、生まれついた瞬間から肉体的の違いがある。おれはあれの気持ちなんて解らぬし、おれの心情など誰に理解されてたまるものか」

「ああそうだね、忘れていたよ。君には初花の経験なんてなかったものね。すまないすまない」

 「はっ……!」と言って面食らった輝也に、白河川はにこにことしながら席を立った。
 出ていこうとする元帥の背中を、拓真が視線で追った。輝也はというと勢い立ち上がり、「おい、まだ話は」と言いかける。

「彼女を助けてやってくれ。気の強い子だが、彼女一人の力ではどうにもできないこともこれからは出てくるだろう。そのときにきっと、君は彼女の力になってやることができる」

 「もっとも、両性の合意の上での交際なら歓迎するよ」と言い残して元帥は執務室を出た。輝也は「だれがあんな!」と声を張り上げて手元の帳面をドアに投げつけた。それを黙ってみていた拓真がびっくりしている。腹が立ったもので肩で息をしているが、落ち着け、と自分に言い聞かせて、ようやく息を整えた。

 
 助けてやれだと?俺が?
 あんな強情なやつと何を分かち合えというんだ。

 
 脳裏に、あのときの邂逅がよぎる。「弟を頼む」とのたもうた、凛とした佇まいの少女。触れがたい高貴さをその身に纏いながらも、ふわりと風になびく黒髪が少女の可憐さを思わせ、そのほっそりとしたからだに似合わぬ強い決意を込めた瞳を、輝也はあの時確かに、美しいと感じたのだ。

 いつの間にか拓真がそばに寄ってきて、輝也をのぞきこんでいる。「どうしたの?」という顔をしている。
 それの頭を撫でてやり、輝也はきっ、と顔を上げる。

 結論は出ていない。
 とりあえず、過去の回想は過去のもの。今のヤツは根本的に気に食わん。


 ***


 日曜の夜に市ヶ谷の宿舎に戻る途上、輝也は道場の方で物音がした気がして、ふとそちらに足を向けた。
 広い道場に、一つだけ明かりをともして、ひたすらに打ち込みを続けているものがいる。

 こんな時間に?
 ずいぶんと殊勝な奴がいたものだな。

 いつもの輝也であれば対して興味も抱かずに、そのまま部屋に帰ったかもしれない。しかしこの日はなぜだか、そんな殊勝な奴の顔を拝んでみたくなった。
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2011/12/11(日)
3、吉岡輝也の憂鬱

吉岡輝也の憂鬱(5)

殊勝な人間は、輝也の気配に気が付く様子もなく、気合とともに何度も竹刀を力強く振り下ろしていた。
 17にもなって声変わりをした様子もないアルトボイス。華奢な体つき。
 もう2カ月も生活を共にしている。防具の面を外さぬともその主がすぐに脳裏に浮かんだ。


「打ち込みの手伝いをしてやろうか」


 雄一郎が膝をつき、面を外したところで、輝也は声をかけた。蒸気する熱を帯びた「彼女」の白い肌に玉の汗が線と流れ、呼吸を整えるのと荒げた息で肩を大きく揺すっている。雄一郎は輝也の方を見ることもせずに、「結構」と言い放った。


「おれでは不足か?」
「ええ」

 
 壁にもたれて雄一郎を見下ろしている形になっている輝也を、雄一郎が初めて向き直った。


「あなたでは私の相手にはなりませんから」


 それについては輝也も異論はない。どうやら学校以外でも剣を学んでいたらしく、その足捌き、相手との距離感、打ち込みの速さ、同期の中では申し分のないセンスの持ち主だ。こうして人知れず努力を欠かさないことにも起因するのだろうが、おそらくもっと小さなころから竹刀を握り、相手と対面して打ち合っていたのだろう。ちなみに武術からきしな輝也は、たまに眞子から拳銃の打ち方や簡単な体術を教わった程度で、あとは幼年学校以来の体術の基礎に万遍なく準拠している。輝也も決して体格頑強とは言えぬ体つきではあるが同期の中でも優秀の部類に属していられるのは、対面する相手の感情をいち早く察知できるからだ。次の行動を読むことができれば、早々にそれに備える動きをすればいい。とはいっても、雄一郎のクラスになると先読みの前に打ち込まれてしまうから、剣術体術に関して、輝也は雄一郎から勝ち星を奪ったことがない。


「大した自信だな」
「ご謙遜を。東京の幼年学校では他を寄せ付けぬ優等で卒業され、将来の参謀長を嘱望されているあなたのお言葉か」
「ご挨拶だな。お前も京都を優等で出てきた身だろう」
「ええ、ここに来るまでは」


 ちらりと伺い見た雄一郎の目は笑っていない。明らかな自分への敵愾心。こうにも露骨に向けられるとなかなか居心地が悪いものだなと思いつつ、輝也のほうもまた、皮肉の一つでも返してやらねば気が済まぬというような気持ちになった。


「お父上はかの陸軍参謀、舎人耕三郎大佐だったか。その薫陶を受けているのだから息子が優秀であるのもまた必然か」


 輝也は自分でその言葉を口にしながら、喉に引っかかるような違和感を覚えた。舎人耕三郎。その息子。


「父は父、私は私です。それに、父は身寄りのない私を引き取ってくれた。その御恩に報いねばならぬ」


 ああ、そうだった――と輝也は思った。舎人耕三郎は、不慮の事故で二人の子息を失い、代わりに遠縁の雄一郎を養子に迎え入れた、ということになっていたのだった。本当に血のつながった親子であるというのに、それを否定せねばならぬというのは、通常はどういった心情であることが正解なのだろうか。輝也は自分の父親の顔というものを思い浮かべて、今は大学校の教官として教鞭を振るう陸軍少佐の父の顔を思い浮かべてみる。名字の違うあの男の輪郭はおぼろげにしか思い出せず、対した感慨もない。やはり、「彼女」の心中を慮ることはできない。


「あなたこそ、日ごろの態度言動からは帝国への献身も陛下への忠信も微塵も感じられないのに、どうしてああにも、教科の成績だけはよいのだろうといつも感心しております。さぞかし本を眺めているのかと思えば、昼休みはただぼんやりと外を眺めているだけ。いったいどうして、こんなにももの覚えがいいのかしら?あなたこそ、想像を逸するようなご家庭に恵まれてお育ち遊ばされたのでしょうね」


 これは驚いた。他人には関心がないと思っていたが、輝也の休み時間などに興味を向けるような趣向があったとは。
 しかし、このようにいちいち言葉尻にトゲを刺されたのでは、輝也の中の「輝煌」が黙ってはいない。輝也は奥歯で何かを噛みしめるようにして、言葉を捩り出す。


「おい」
「はい?」


 ふと声をかけた瞬間に、雄一郎の空気が弛む。その一瞬を、輝也は見逃さなかった。
 雄一郎が異変に気付いて竹刀を握るより早く、輝也の方がその体重を雄一郎に預け、その襟足を掴み、その腕で喉元を固定するようにしてどおんと床に叩き付けた。輝也の方が反応が早かったせいか受け身を取ることのできなかった雄一郎は後頭部に衝撃を受けたらしく、一瞬その可憐な表情を歪めたが、大した抵抗もせず、目だけは輝也から逸らさずにいる。組み伏せたままの輝也は体重を雄一郎に預けてその動きを完全に封じると、鼻先が触れ合うような位置で「お前」と言った。


「怖くないのか」
「何がです」
「俺が」
「誰が」
「強がるなよ、俺とお前は、根本的に違うんだ」


 輝也がそれを望めば、雄一郎をそのままどうにでもできたかもしれない。が、輝也はそのまましばらく雄一郎を睨みつけて(そして同じように睨み返されて)、そうして輝也の方からぱっと雄一郎から離れると、ろくに挨拶をすることもなく道場を出た。雄一郎の表情は見えなかった。


『おれはお前の見方だ、何か困っていることがあればいつでも相談に乗ってやるから』


 なんて言える空気は微塵もなかった。少なくとも、蒲田からの帰路、そういうシチュエーションを描いていた自分が恥ずかしくなった。
 内心、一体どうしたものやらと大きく項垂れている輝也がいる。
 ついかっとなって粋がってしまったものの、あれは同期でルームメイトだぞ、これからも明日からも少なくともあと四年は顔を合わせ続けねばならぬといのに。

 組み伏せたときに、雄一郎の細い首元に巻かれた包帯から覗く、赤く爛れた皮膚を見た。

 そうして白河川から伝え聞いた舎人邸の火事の話や拓真の顔などを頭に浮かべているうちに、さっきの醜態とごちゃまぜになって「ああああ」と情けない声など出してみる。

 

 ……やはりあれには深入れしないほうがおれのためでもあるらしい。だがここはひとつ――


 顔を洗おう。
 そう心に割り切って輝也は共用の洗面所へ向かった。



 ***



「輝也君はうまくやってくれますよ」


 夜、白河川邸の執務室。自らの退役関係の書類を一通りまとめた白河川修は、コーヒーを淹れに来た山城眞子に声をかけた。


「それよりも、私は孝子さんにはやく自分の限界を理解してほしいところです。女には女の役割があると」
「おや、あなたの口からそんな言葉を聞くことがあろうとは」


 輝也はこの男をタヌキと形容するが、それもあらかた間違っていないと眞子は思っている。
 維新前は10代にして官軍士官。幕府軍につき従っていた眞子は、維新後、夫とともにこの男に拾われるまでどんなに恐ろしい容貌の男なのだろうと思っていた。

 眞子たちを迎えた白河川はまだ三十路を前にした、背だけがひょろっと高いどこかもの頼りなさげな総髪の若者だった。

 気が付けば、この男の妻はすでに亡く、眞子の夫も大正改元早々に他界した。
 目的のためならば、人間を機械の様に切り捨てることのできる男。それが眞子の、白河川修という人間だ。
 一度は幕府とともに散った命、もはや亡き者と自覚して、この男の機械として立ち振る舞ってきた。
 だけど眞子は考えることがある。白河川修が、組織を機械化できたわけじゃない。
 おそらくそれにつき従う人間たちが、機械として白河川に組織されることを望んだのだ。

 それが明治という立憲君主の空気にうまく適合し、折よく大戦があり、軍備が拡張され、図らずとも力を持ちえたのがこの男だ。
 男は、力など望んでいなかったに違いない。
 維新のころ、この男の妻であった女に聞いたことがある。

 女は、日本人には見られない青い目をしていて、肌は雪のように白く、栗色の淡く波打ったような髪を後ろに一つ束ねていた。

「どうして私は、日本人に生まれなかったのかな」

 修ちゃんは、争い事が苦手なの。早く、みんなが平和に暮らせるといいね。

 彼女は、そんな白河川の目的の途上に、自ら死んだ。
 それはこの国のためではあったが、ただ一人それを望まない人間がいるとすれば、それはほかならぬ白河川であった。

「吉岡輝也をこのままにさせておいていいのですか。順調にいけば確実に陸軍の中枢に食い込みますよ。そうすれば大陸への情報流出は」

「眞子さん、帝国陸軍の仮想敵国は支那とは限らないのですよ。それに、あれには」

 そういって白河川は大きく息を吸った。膝の上に組まれた手に皺がよる。あれから40年互いに寄る波を重ねた。 真冬の真空が目に見えるようだった。

「人間の血が通っている。私たちの間違いに気が付いてくれる。孝子さんや、輝也君や、拓真君が、この帝国という装置の何かがおかしいと、きっと思ってくれる。そうしたときに、かれらには、何かを変えることができる力を今から準備しておいてあげたいと思うんですよ」


 白河川を機械のような人間にしてしまったのは、かれを取り囲んだ人間だったのだろうと眞子は思う。
 強い指導者を。崇高な理想を。
 そして、それを実行できるだけの戦歴と実行力を持つ男という虚像。

 取り囲んだ人間の中に、眞子は自分の顔を見る。
 人間の堅牢に取り囲まれた帝国陸軍元帥、白河川修がぼんやりと見据える先を、今の眞子には、共に見通すことができないでいる。 

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2011/12/12(月)
3、吉岡輝也の憂鬱

吉岡輝也の憂鬱(6)

******


 事件は唐突に起きた。


 ここは予科一学年の教室、時は週末、金曜日の放課後。
 帰りの支度などを始める同期たちの中、舎人雄一郎が輝也の席までやって、

「私と勝負してください」

 といった。着席の姿勢のまま教科書などをカバンに入れようとする姿勢のまま見下ろされる形となった輝也。そして一斉に、教室中の視線が二人に集中した。 


「は?」

「聞こえなかったんですか。勝負しろといっているのです、私と」


 雄一郎を見上げて、迂闊にも輝也は唖然としている。刹那、しんと静まり返った教室が俄かに湧いて、二人を取り巻き始める。入学以来、自分から周囲に接触を持とうとしなかった雄一郎が、初めて声をかけた相手。それが校内でも噂の白皙の美青年ともなれば、同期ならずとも好奇を抱いて興味をそそられるというものだろう。「勝負とはなんだ」「確か貴様ら、同室だったよな。何かあったのか」「なぜ吉岡なんだ」と周囲は興味半分、真意半分、要するにこれを雄一郎という人間を知る絶好の好機と見ているようだった。雄一郎は周囲の雑音には一切耳を傾ける様子もなく、美しい睫を下向かせて、輝也に強い視線を送っている。
 一方の輝也はといえば突然のことに一旦停止してしまった思考回路を稼働させて、「さては日曜の夜のことか」とようやく一つの結論にたどりつく。だがなぜわざわざ公然と宣言せねばならない。そうでなくともこの状態、すでに教室中の衆目を集めているのだぞ。


「明後日夜九時、道場で待っています。得物は竹刀。なにか要望は」
「ちょっと待て。おれはその勝負を受けるとは言っていない。第一、なんでわざわざ」
「逃げるんですか」


 ひたと静まり返る教室。これは嫌とは言えぬ空気だ。輝也が返答に窮していると、


「日曜日、待ってますから」


 と行って、踵を返した。群がっていた連中はその空気に気圧されるような形で、雄一郎に退路を明け渡した。輝也も同期たちも、身体は膠着した状態で視線だけで「彼女」を追っている。
 そうしてその視界から雄一郎が消えると、またさっきの元気が噴出した。政治家に群がる記者たちの様に、次々と輝也に質疑が投げられる。


「貴様、舎人に何かしたのか」

「宿舎での様子はどうなんだ、舎人は、どんなことを貴様に話すのだ」

「あいつ、女はいるのか?いや、あの顔ならば、男の一人や二人いてもおかしくはないぞ……」

「やはり、筆記科目では貴様に勝てぬとみて、得意の剣術で好敵手を討ち果たそうという算段か」


 勝手にワイワイと騒ぎ出す同期たち。輝也はいろいろと感情に任せたい気持ちをぐっと堪えて教科書をしまうと、がたんと立ち上がった。途端に、一人が「貴様、舎人の決闘を受けるよな?」と聞いてきた。


「受けない」


 広がるどよめき。歩みを進めようとしても、先ほどの雄一郎のように彼らは道をあけてくれなかった。


「負けると分かっている勝負に、わざわざ出向く必要はない。あれが何を考えているかは知らんが、面倒は御免だ。おれは行かない。誰かあれに適当に何か言っておいてくれ」

「貴様、同期の面目を潰そうというのか!」

「それでも士官を志す同志か!」


 同期たちは雄一郎との勝負を受けるよう口上しながら、輝也を取り囲んで追い詰めていく。いよいよかれが身動きを取れないような状況になったところで「まあ落ち着け皆」と出雲が大きな声を上げた。


「吉岡、これはわれわれ54期生に一つの光明を与えるかもしれない。舎人を本当の同期として迎えたい。皆そう思っているんだ」


 同意の声が端々からとんだ。「うそつけ、半分楽しんでやがるんだろうが」と輝也は内心に毒づいた。


「是非、この勝負を受けてもらいたい。54期一同、心の底から二人の健闘を応援しよう!」


 教室中がわああっと盛り上がった。この空気にうんざりしている輝也の目の前に、己の言動に嘘偽りはないと妙に得心している出雲。誂え向きに腕組みまでしてうんうんと頷いている。「負けるなよ吉岡!」「あいつの鼻っ柱を折ってしまえ!」「いやでも顔は狙うな、あのキレイな顔に傷がつくのは見たくない」等々。相変わらず好き勝手に言ってくれる連中である。

 鼻っ柱を折られるのは俺だ。
 衆目されることは嫌いではないが、今回ばかりは条件が悪すぎる。

 白河川に雄一郎のことをよろしく頼むと言われてはいるものの、心を許しあう仲になれとまで言明されたわけではない。要は女としては都合の悪いというときに手を貸してやればいいんだろう。それで結構。大陸の人間であるおれが、わざわざ日本の学校に通っているのも、もとはといえば楽弥の命であるからであって――

 
 ……などと懸命に退避の理由を考えていた輝也は、雄一郎指定の夜に同期らによって半ば拉致され、道場に引きづりこまれた。


 そこには、白い道着姿に身を包み、竹刀を傍らに置いて心静かに座している雄一郎と、群ひとつが好奇の塊ともいうような連中が外野にいて、道場に姿を見せた輝也に、そして雄一郎に思い思いの声援を送っていた。
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2011/12/15(木)
3、吉岡輝也の憂鬱

吉岡輝也の憂鬱(7)

ざっと30人はいるだろうか。
 明日も早朝から講義があるというのに、よく見れば上級生も混じっていたりする。
放り出されるように道場の中央に進み出た輝也は、ようやくゆっくりと顔を上げた。雄一郎は周りの喧騒とはまた違う次元にいて、そこには己と輝也しかいないような気がしているのではないかと思われるほど、静かな目をこちらに向けている。


「始めましょうか」


 竹刀を手にすらりと立ち上がり、正眼に構えた。


「ちょ、ちょっと待て。本当にやるのか。日曜のことなら、ついかっとなってしまった自分にも否がある。謝るから、この場を収めよう、な?」

「日曜?」


 雄一郎は少し意外そうに目を丸くして、「ああ、あのことですか」と何か思い出したようにそう言った。


「それが何か」


 日曜のこととはなんだ!と場外から声が飛んでいる。雄一郎は相変わらず外野には耳を傾けていないらしいが、そこかしこで輝也と雄一郎の勝敗についてどちらに幾ら掛けるとか、詳細な戦力分析とか、二人の関係だとか、はたまたこの後の宴会の予定まで組まれているらしい。厳しい規律に縛られた軍宿舎でのイレギュラーとあって、連中は輝也の憂鬱を尻目にお祭り騒ぎであった。


「日曜のことではないなら、なぜこんなことを仕掛けた。おれは面倒事に巻き込まれるのは御免だ」

「私には恩師がいます」


 いきなり何の話を始めるのだ、と思ったのは輝也だけではなかったらしい。場内の喧騒が静まり、雄一郎の次の言葉を待っているようだった。


「その恩師に、私は『士官学校を首席で卒業する』と約束をしました。だけどこのままでは、私はあなたに勝てない。だから、あなたから何か一つでも勝ち星をもらっておきたい」

「まだ予科入校二カ月だぞ。先週も言ったが、お前は充分に優秀だ。これから奮励すれば主席なんて」

「あなたに何が分かるんです!」


 その科白には、確かな怒気が宿っていた。普段、感情を表にしない雄一郎が、周囲に見せた初めての想いだった。


「あなたは、きっとこれからも、その容姿端麗な姿と論理明快な頭脳を持って軍首脳への道を進むのでしょう。私などが、どれだけ努力をしてもあなたの生まれ持った才に勝てるはずもなく、私はあなたの生まれ持った素質にいつも歯ぎしりをしながらその背中を眺めながら生きていくのは御免なのです! 竹刀を取りなさい吉岡輝也! 守るべきものもないあなた如きに、私は負けるわけにはいかない!!」


 いつの間にか場が静まり返っている。雄一郎の偽りのない本心だと、皆が認めたからであろう。
 だが、何がそこまで雄一郎を追い詰めているのか、この場で理解しているものが一人でもいたであろうか。それは輝也も同じことだった。恩師とはおそらく、輝也にとっても日本でも庇護者である白河川修のことだろう。守りたいものとは言うまでもなく、「彼女」の弟、拓真。そこまで知る輝也ですら、雄一郎の真意を推し量ることはできない。何がそこまで「彼女」を追い詰めているのだろう。


「舎人」

「はい」

「お前の、守るべきものが何なのかおれには見当もつかないが」


 真意。そう、真意が知りたいのだ、と輝也は思った。
 あのとき、勝呂の病院ですれ違った「俺」に、「彼女」は、「逆らえない時流のなかで与えられた人生を歩む他無い」と言った。ならばなぜ、今お前は、自らの性を偽り、こうして自らの身を危険に晒してまで陸軍の士官になりたいと願ったのだ。しかもただ願うのではなく、最優等にこだわる理由はなんなのだ。
 命に代えても守りたいはずだったお前の弟は、もうお前のことを何も覚えていないのだぞ。


「例えばそれが本当に大切なものだというのなら、こんなところで、こんなバカげたことをするよりも、少しでも長い時間、それの近くにいてやる道もあるのではないか?」


 輝也は、何も知らぬことになっている。無論、雄一郎も輝也の来歴を知るはずもない。そうだ、俺は白河川から伝え聞いて、知っているつもりだった。「彼女」がどんな人生を歩んできたのかということ。女というもの。拓真を何よりも大切に思っているということ。しかし、拓真の状態や命を狙われる可能性を否定しえぬという理由から姉弟は引き離され、拓真は輝也の新しい弟となったのだ。その弟が、どんな人間にも愛される器であることは、今や拓真の一番近い存在である輝也が、よく理解している。


「その返答は、この勝負に関係ありません」

「お前が勝手に仕掛けてきたんだろう。勝負を受けるも受けないもおれの心積もりにある。納得のいく答えをもらえないのなら、おれもこの勝負を引き受ける理由は無い」


 雄一郎は少しだけ押し黙った。


「強くならねばならないのです。大切なものを守るために。私は、あの子が士官になるというのなら、あの子の分まで軍の力にならねばならない。あの子を前線に出すわけにはいかない。そのために、私は軍の中央に意見できるだけの根拠を、今から持ちえていなくてはならない」

 
 輝也は竹刀を同期から受け取ると、雄一郎に向き直り、一礼をして正眼に構えた。
 外野連中はうまく事態が呑み込めていないらしい。だが輝也には、それが「彼女」の真意なのだとようやく得心がいったのだ。


 おれに家族を教えてくれたのは拓真だ。
 あれが人殺しをするところを見たくないということだけは、俺にも心当たりがある。



「一本だ」


 そう言って、輝也は審判役の同期に目配せをした。
 上げられた右手が、「始め!」の声とともに振り下ろされる。
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2011/12/17(土)
3、吉岡輝也の憂鬱

吉岡輝也の憂鬱(8)

先に仕掛けてきたのは雄一郎だった。同期への合図も舎人にとっては不意打ちであっただろうにも関わらず、状況を即座に判断し、攻撃体制に入ったのだろう。反射神経まで抜群に良いとなると、いよいよ輝也に勝機は無い。

「!」

剣線を先読みしても竹刀で上段を弾きつつ、体を直線上から外すので精一杯だった。これが強力の使い手なら命とりであったが、おそらくこれは、雄一郎にとっては快心の一撃であったとしても、体重の軽い雄一郎では相手に致命傷を負わすことはできない。よって、輝也にもこれを受けつつ、とりあえず一撃目を凌ぐことができた。そうして予想通り、間髪入れずに左横薙ぎに竹刀がうねる。輝也はその剣撃より先に雄一郎の身体を追い越すようにして前に踏み込み、空振りさせた。雄一郎の背中が見えたところで輝也も竹刀を振りかぶってみたが、雄一郎は輝也の振り下ろしよりも早く竹刀を逆掛けし、その剣線ごと輝也を後方に吹っ飛ばす。輝也は右足を軸にようやく踏みとどまったころには、雄一郎がすでに目前に迫っていた。

 再び振り下ろされる一閃。
 力では勝てると確信した輝也は、竹刀鍔元でその一撃を受け止める。バシィンと竹刀の撃ち合う音が響いた。
 雄一郎は引かない。
 輝也もこれをかわせない。
 態勢は、雄一郎が押している形になっている。優位な姿勢をぐいぐい押しこまれてくれば、男と女の力の差でもさすがに辛い。しかも相手は剣道については強豪、対する輝也は数年前までほとんど女のような生活をしていたのだ。この力押しの場面で拮抗しているというだけでも、輝也は自分を褒めてやりたい。

 外野はやれ舎人だ、やれ輝也だ。いけ、そこだと相変わらず好き勝手に歓声を上げていた。その声が聴こえて、輝也はようやく、自分の心中に余裕を取り戻しつつあることを確信する。相変わらず剣を裁こうとしない雄一郎に、輝也は少しだけ不敵に微笑んで見せた。

「終わりか?」

 言い終えるより早く、ガンと力押しされ、雄一郎が輝也の間合いの外に出た。引いた。輝也はそう思った。雄一郎へ剣先を向けつつ、輝也は「彼女」向かって左方円を描く様にゆっくりと歩きだす。雄一郎も、右足を軸にしながら、剣先を輝也から外そうとしない。

「おれでは相手にならないのではなかったか。ずいぶん時間がかかっているようだが」

 途端、雄一郎がその場から弾けるように床を蹴り、輝也に突進してきた。右袈裟。躱して。そこからの胴抜き。輝也の読み通りに雄一郎は竹刀を打ち払い、輝也も先立つ読みと防御でそれらを凌ぎ、再び雄一郎の間合いの外に出た。

「なぜ仕掛けてこないんです」

「お前も言ったろう。この勝負おれに勝ち目はない。だがおれも、衆目にむざむざ敗北を晒すような醜態はしたくない。よって、おれは『負けない』」

 雄一郎は、少し間があって、ようやく「卑怯な……!」と言った。外野も、輝也の思惑に気が付き始めている。それよりも先に輝也が出雲の名前を呼んだ。

「五分だ。それまでにおれがお前から一本取られなければ、お前の負け。いいな」

「下らない!面目のため、神聖なる決闘のルールを捻じ曲げようというのか!」

「簡単なことだ。お前は、おれから一本を取ればいい。造作もない。そうだろう」

 出雲は審判と示し合せ、左手首の腕時計を見て「始め!」と声を張り上げた。今度も仕掛けてきたのは雄一郎だ。輝也はそれを捌いて間合いの外に出る。雄一郎が突っ込んでくる。またかわす。打ち込んでくる。さばいて身を引く。打ち込み。振りかぶると見せかけて再び身を引く――。

 雄一郎が肩で息をし始めた。輝也も、盲目時代の「感情の色」の読み取りを主に剣戟回避に精神力を廻しているため、体力的には相当しんどいところだ。だがこれを。雄一郎に悟られてはいけない。輝也はまた雄一郎の間合いの外に出ると、わざと大きくふう、と息を吐いて、まっすぐと雄一郎に向き合った。

「そうだな。ではこうしよう。おれがもしお前に『負けなかった』ら、これからお前は、おれの言うことをなんでもきく。どうだ?」

「何をバカな!これはそういう勝負ではない!」

「お前の面目を立てるために、おれはここで無様に負けねばならぬというのか?それこそ、神聖な決闘が聞いてあきれる。一応おれには、54期生をまとめ上げる義務が課せられているのでな。お前がおれに勝てなかったあかつきには、おれの指示のもと、お前にはクラスの連中と仲良くやってもらう」

 会場からどっと歓声が湧いた。同期連中は、雄一郎と上手くやる云々というより、「鉄壁ガードで貞操を守ってきた雄一郎が、誰かの指示に従わざるを得ない」という状況に、何がしかの興奮を覚えているのかもしれない。雄一郎は奥歯を食いしばりながら「ふざけるな」とようやく言った。輝也は、やはり少し微笑を浮かべて、竹刀を雄一郎に向け、「来い」とばかりに切っ先を振った。

「それとも、お前ともあろうやつが、俺に勝てる気がしないか?」

 雄一郎が竹刀を振り下ろしたまま輝也に向かってきた。さあ、次はどう来るか。
 先ほどまでと雄一郎の空気が変わっていることには気が付いていた。もしかしたら、「彼女」も心の平静を取り戻しつつあるのかもしれない。実は、あらかたの雄一郎との会話は、すべて輝也によって巧妙に仕組まれたブラフだった。相手を逆上させ、感情的なまま攻撃に転じさせる。人間も本能で動くときは、その行動をいたってショートカットに抑え込んでくるから、至極、思考を読みやすい。雄一郎は、女。女とは、ときに男よりも感情的に動くものだ。それが精神的なものであろうと、生死に関わろうとも、その感情を抑制することは女には難しい。輝也はそう、読んだ。

 が、どういうわけだろう。今、輝也に向かってくる雄一郎の感情の色を読み切ることができない。輝也は竹刀を正眼に構え直し、少しだけ体を引いて、どちらからの攻撃にも瞬時に対応できるよう神経を尖らせた。いかに先読みができずとも、行動するには動作を発動せねばなるまい。その発動の瞬間なら、思考を推察することができるだろう。問題は輝也の推理と雄一郎の剣戟の、どちらが早さで優るかであった。その刹那まで、輝也は雄一郎の攻撃を見極めようとした。

 舎人が、左肩に担ぐような形で、竹刀を振りかぶる。
 見たことのない形ではあったが、左に担いだのであれば、輝也の上段右方から入る攻撃の型になるはず。
 輝也は右方からの攻撃に備えた。
 次の瞬間。
 
 竹刀の柄尻が直接輝也の喉元に向けられた。


「!?」


――……よけ、られない……!
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2011/12/19(月)
3、吉岡輝也の憂鬱

吉岡輝也の憂鬱(9)

*「貴様らあ――!!!こんな時間になにをやっちょる!!!」


 雄一郎の振るった柄尻が、輝也の首元すんででぴたりと止まった。雄一郎も輝也も、すぐさま何事が起ったのかを理解できず、やがて外野が「見つかった」「逃げろ」と騒ぎ始めるから、ようようと事態を理解した。消灯後の見回りに、上官殿がやってきたのだ。わっと外野は逃げ出したが、上官は三人の郎党連れで、輝也と雄一郎を含む十人程度が捕まった。一列に並べられ、小一時間ほど説教を食らったのち、竹刀で一撃ずつ鉄槌を食らってその場は解散。明日は朝一で始末書を提出する羽目になった。


 *****


 輝也にとってはただの災難である。
 何しろ、望んでもいない決闘を無理やり受ける羽目になり、揚句上官から「×(ペケ)」を一つ付けられてしまった。醜態を晒したくないがための雄一郎へのハッタリも、結局無駄骨に終わってしまった。上官に怒鳴られ、ケツに竹刀をぶち込まれる姿を、何人もの同期に見られてしまったのだから。

 部屋で始末書を書き終えて、輝也は先に布団に入った。いつも、輝也が先に布団に入る。着替えするところを見られたくないだろうと気を使っているのだ。
 「彼女」は――おそらく晒の意味合いもあるのだろうが――上半身を包帯でぐるぐる巻きにしている。その細身の体の、赤く焼け爛れた皮膚を隠しているのだろう。肌が一度溶け、再び凝固すると、常人のそれよりも薄く皮が乗ったところは赤く、熱く乗ったところは白くなる。唇と、腹の脂肪のような違いだと思えばいい。それが上半身右側から上腕部、首筋にかけていびつに皮が浸り付いており、思わず目を背けてしまうような状態なのだ。輝也が布団に入ると、雄一郎は晒をといて新しいものに変える。そうして寝間着を着て、布団に入るのだ。その間、二人に会話はない。無論、これ以外にも特に、無い。

 予科の制服を着ていても、首元からは晒が見えている。隠しきれない顎の下のあたりの火傷の後は、クラスの連中なら一度は目にしているだろう。それだけでもその凄惨さに息をのむ思いなのである。雄一郎は、裸体を人前にさらさない。それは女であることを隠しているというよりも、その上半身の火傷を衆目に晒さないための配慮なのだ、と皆思っているのだろう。もっとも、それにも気が付かぬ上級生や他のクラスの連中なんかが、「雄一郎は輝也にしか裸を見せないのだ」などと面白半分の噂を立てていることは、輝也も承知している。雄一郎はどうであろうか。おそらく「彼女」にとっては、それもどうでもいいことなのであろうが。


「なあ」


 と、この夜は珍しく、輝也が声をかけた。互いに、背を向けあって布団をかぶっている状況である。返事はない。輝也の声が届いているかどうかも微妙であった。


「お前、人を殺したこと、あるか」


 返事はなかった。輝也もあまり期待はしていなかった。「まあ、おれの独り言だと思ってくれ」と適当に自分をフォローした。


「おれはあるよ。人の膳に毒を盛ったこともある。口の中に薬を含ませて、おれの唇を吸わせたこともある。殺し損ねて、逆におれが殺されそうになったこともある。気が付いたらそんなことをやってきたから、自然、常に自分の身を守るために最善を尽くすようになった。おれにも、弟がいてな。その弟はそういうものとはどうやら無縁でこれまで生きてきたみたいだから、できれば、これからもそのままでいてもらいたいと思う。まあ、どういう生き方をするかは弟が決めることで、おれがどうこうというのもおかしな話ではあるんだがな。生きるとか死ぬとか、そういうものは案外単純にできている。だけど、存外にその一線を越えるのと越えないのとでは、雲泥の差があるとおれは思っている。舎人、お前の最後の一撃、あれは道場剣じゃない。人を殺すための技だった。お前も、そういうところで生きてきたのか」


 雄一郎が、白河川の秘書役をしている山城眞子のもとにいることは知っていた。眞子が女だてらに武道に長けているということ、武器火薬にも通じているということを輝也も耳にしている。それは彼女が女だてらに、維新を幕府軍として戦い抜いた勲功でもあるのだが、もしかしたら「彼女」も、眞子に何かしらの教えを受けたのかもしれない。実際、雄一郎と直接対峙して、それがただの型にはまった技でないことぐらいは分かる。あれは、人を殺す剣だ。輝也はそう、直感した。


「……勝てなかった」


 口早に、雄一郎は呟いた。それは輝也への解答というよりも、やはり独り言の類に等しかった。


「勝てなかった、勝てなかった。あなたに勝てなかった……」


 泣いているのだろうか。語尾が掠れていく。一度鼻をすする音がした。輝也は、何も言わずにその独り言に耳を傾けた。


「ブラフだと分かっていたのに。挑発だって分かっていたのに。悔しい、悔しい。自分の愚かさが、悔しい……」


 どうして、そんなにしてまで自分を追い詰めるのか。
 答えは拓真の存在にある。あれを軍人にしないため。雄一郎の行動原理はすべてそこに収束される。

 だがいつものお前なら、「士官の道こそ男児としての誉れ」とでもいうのではないのか?

 軍人を人殺しだと解釈するのは、この時代この日本でも俺を含めてほんのわずかなものであろう。
 
 自分に人殺しを許容してでも守りたいものがある。
 たとえそれが、自分のことを覚えてさえいなくても。

 拓真に、兵を率いて突撃を命令させるのが忍びないという気持ちを、今なら理解できる気がする。
 雄一郎が何を考えているか、そんなものは輝也の知るところではないが、こと拓真に関してだけは気持ちを共有してやれる、気がする。


「再戦ならいつでも受けてやる。ただし今度はあまり人目につかないよう、気を使ってほしいところなんだが」


 雄一郎は返事をしなかった。
 もとより輝也も、そんなものを期待していない。

 他人の心情になんて深入りするもんじゃない。
 期待するだけ、裏切られる。俺は俺に与えられた仕事を、適当に熟すだけだ。

 期待などしていない。

 俺だけは、おまえの心情を少しでも理解してやれるなんてこと。
 そんなこと、これまでもこれからも、あり得ないんだ。

 言い聞かせることで、己の気持ちを納得させようとしていることに、輝也は気が付いていない。
 寝て起きれば朝が来る。またいつもの明日が始まる。
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2011/12/21(水)
3、吉岡輝也の憂鬱

「こつる」の太夫(1)

****


まただ。
またここだ。


孝子は立ち止まり、そうして振り返った。
視界はない。敢えて言わば、闇ともいえぬ不気味な黒が広がっているだけ。己の姿も見えない。存在がない。何も存在しない世界。そうしてやはり、いつものようにここにたどりつく。


存在している。
私という意識だ。


その瞬間に孝子は拓真の腕の中にいる。
体中から力が抜け、拓真を見上げる瞼も重い。ようやく開けた視界に写る弟の顔は、炎に巻かれて炭だらけで、あげく涙でぐしゃぐしゃと来ている。


拭ってやりたい。


そう思うのだけど、体が言うことを聞かないのだ。だが薄れゆく意識の中、孝子は確かに、安らかであった。弟を死なせずに済んだのだ。向こうに行っても、母に申し開きもできよう。


***


第2場。
意識が戻ると、目の前には先ほど命を助けた弟がいた。

その顔は自分を見つめて、ただがたがたと震えていた。今度は体を動かすことはできても、拓真に触れることができない。
怖いのだ。
守り抜いたものに拒絶されることが。
そうして、かつての弟は自分よりもきれいな顔をした新しい「姉」の、背中に隠れる。
「姉」は、かつて自分がそうしたように拓真を庇うようにして立ち上がり、孝子を見据えた。


『お前は結局のところ、弟を救えなかったではないか』


その光無い瞳が、孝子の心に問いかけた――ような気がした。
ああそうか。わたしは、あの子を救えなかった――。


***


第3場。

京都の幼年学校。
白河川に直談判をしてようやく入れてもらった陸軍の士官学校。当然、女であることを隠しての入学だった。

今度こそ、あの子の力になりたい。
拓真を、軍人になんてさせない。
そんな一心だった。

同期といえど、必要以上に付け込まれるわけにはいかない。成績も品行態度も、神経が擦り切れるほど努力をして、優等を貫いた。
卒業間近になり、士官学校の先輩に呼び出された。
一人では行きたくないので、同期数名に一緒に来てもらった。
そこはお茶屋で、先輩と同期たちはわいわいと楽しむ中で、孝子は一人、静かに時が過ぎ去るのを待っていた。
やがて、みな勢いに任せてその場で雑魚寝を始めた。この状態なら退席してもよかろうと、孝子は軍帽を取り、立ち上がった。
廊下に出た途端、暗闇からぐいと腕を引かれた。
先ごろ自分に声をかけてきた、士官学校の先輩だった。
そのまま壁に押しやられ、身動きが取れないまま、強引に唇を奪われ、体中をまさぐられた。
必死で声を上げようとするのだけど、執拗な接吻は息も詰まるほどで、壁と男に挟まれた孝子の身体はやはり自由がきかない。
体中が総毛だっていた。どんなに頑張っても、努力しても、こんなことでわたしは終わってしまうのか。

また、拓真の力になれないのか。

悔しくて辛くて、涙が出てきた。孝子の身体が弛緩したのをいいことに、男はさらに、孝子の上着を脱がせ始めた。

きもちわるい。
男なんて、気持ち悪い。


『なら、男よりも男らしくなればいい。そうだろう? 舎人雄一郎』


***


 暗闇の中がばっと起き上がった。
 恐ろしさを悪寒と、あのときのフラッシュバックが、雄一郎の息を荒くしている。
 汗もかいているようだった。
 同居人に感付かれてはいけないと、息を整えて隣を見れば、同室の吉岡輝也の姿はなかった。

 そうか、今日は金曜日だったな。

 ひとまず安心をして、時計を見ると23:00。そろそろ時間だと起き上がり、寝間着を脱ぎ、シャツを着て軍袴をつけ、上着を羽織った。

 ノックもなく、静かにドアが開かれる。
 雄一郎はそれに応えるように、静かに部屋を後にした。
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2012/01/09(月)
3、吉岡輝也の憂鬱

「こつる」の太夫(2)

男が、輝也の首筋に唇を添える。
 輝也はふうと虚空を仰ぎ、小さく身悶えた。

 男の方は輝也の首筋から耳元までを丹念に甘噛みしながら、その上着のボタンをはずしていく。
 やがて開襟シャツもはだかれ、上着は両腕を脱がされたまま、輝也は床に組み敷かれ、そうしてあらわとなった上半身に洗礼のような接吻を賜った。

「おい、せめて脱がせてくれ」

「何をいう。軍服はその規律の象徴。その均衡を侵すのが面白い」

 均衡を保つのが上官の仕事だろう、とは輝也は言わなかった。この男――久坂廣枝とは昔からそういう男だ。外聞には随分聞こえの良いような行いをし、帝国陸軍上層部にもずいぶん覚え目出度い男なのであるが、こと、その内面はそんなものは微塵も持ち合わせず、自らの趣向を丹念に追い求めようとするところがある。それは必ずしも、国防を担う軍人として好ましいものではなく、ただひたすらに久坂個人の嗜好に関わるのである。

 金曜の夜。大手町にある久坂の別邸。
 かれは妻との間に、輝也よりも年上の男児を二人、もうけている。二人のこうした関係のは、輝也が上海の「湖南楼」で楽弥の言いつけるままにこの男の相手をしたことに始まる。ずいぶん小さなときからこの男の相手をしてきたのであるが、そういえば、執着を持たないこの男が、好んで輝也を抱きたがるのはどういうわけなのだろう。つまるところ、根っこの部分が互いに似ているのかもしれない。大義名分のためでなく、あくまで個人の感情を優先させようとする、その独尊性が。

 輝也が日本に来てからも、こうして不定期に彼を別邸に呼んでは、こうして身体を合わせることは続いていた。
 白河川の庇護下にいる輝也は、かの陸軍元帥が、その反対勢力の急先鋒、久坂廣枝との逢瀬を知らぬわけはないのだと思っている。
 それにしても不介入なので、不審に思いながらも輝也は、久坂に乞われるまま、こうして逢瀬を重ねているのだ。実際、士官学校でずいぶん「らしくない」自分を演じているせいもあって、上海時代を知っているこの男と睦みあうのは、いい気晴らしにもなるのだ。互いに肩書きを外したような状態で本能に身を任せるから、随分楽なのかもしれない。もっとも、輝也には隠すべきこともなく、早急な密命を帯びているわけではないので、適当に昔のままに要望に応えてやっているが、久坂の本心とはいかなるものか、輝也にはわからないし、そういうことには対して興味もない。

「本部に戻るんだってな」

 ひととおり行為を終わらせたところで、何も纏わずに背中を向けている久坂に、シーツの淵から声をかける。久坂は「まあな」とだけ言って、振り返った。

「これから忙しくなる。こうしておまえを眺めることも少なくなるな」

「またロシアか。あれは天佑だったという自覚が貴様らにはないのか」

 久坂は口元にうっすらと笑みを浮かべて、「それよりも」と輝也の耳元で呟いた。

「舎人雄一郎はうまく調教できたのか」

 鬱陶しいというように輝也はあからさまに顔を顰め、久坂から離れた。

「バカバカしい。あれはそういう類の人間ではない。手籠めにしたところで興醒めだ」

「ああいう難攻不落を攻め落としてこそ、男としての矜持を感じるものもあるのだぞ。そういう物好きたちの相手をしてやっているんだろう?お前は」

 久坂はくくっ、と笑った。

「なんだ」

 輝也は不機嫌なまま久坂に視線を投げた。

「それともあれか、根っから女子には興味などないか」

 そういって、久坂はやはりかか、と笑った。輝也が返答に窮するところを見てそれをおもしろがるこの男の性根は、今も昔も大差ないということだ。

「白河川に一応面倒を見てやってくれと言われているんだ。それを遂行してるだけだ」

「へえ、『湖南楼の仙煌輝』が、ひとりの女に振り回されているのか。これは傑作だな」

 事実、雄一郎に多大な精神的ダメージを受けている輝也としては、返す言葉もない。
 むっつりとそっぽを向いていると、久坂も起き上がり、そうしてこの男にしては珍しく、先に衣服を付け始めた。

「新しい女か」

 こういうときは、たいてい「次」が控えていることも、輝也は承知していた。溜息混じりにそう呟けば、「まあ、そう拗ねるな」と久坂が言った。

「表に車を廻しておく。お前も湯あみをしたら来い」

 そういうと、二種軍装を着付けた久坂が、軍帽を整えながら輝也に振り返った。



『もっと、おもしろいものを見せてやる。』

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2012/01/15(日)
3、吉岡輝也の憂鬱

「こつる」の太夫(3)


 ***


 久坂の指定した車には、運転手のみが同乗していた。
 最近は、大通りでも車の往来をよく見るようになったとはいえ、それでも上流階級の乗り物である。白河川は公務の移動でよく使っているようであるが、基本的に輝也はそれ同乗しない。上海にいたころにも何度か乗ったことがあるような気がするが、それにしても目が見えるようになってから一人で乗るのは初めてである。

 するりと車が動き出した。
 目の前を通り過ぎる夜の街。東京をぐるりと取り囲む山手線に流れる景色とは違う、何か後ろめたいものを秘めている感じ。それは白河川に黙って久坂と逢引しているという罪悪ではなくて、久坂の趣向が多くの人を不幸にするのではないかという心のざわめき。そういう自分を顧みて、随分お人よしになったなともうひとりの輝也が嘯いた。そういえば、おれは日本が嫌いだった。


 いつからだろう。そんなものもどうでもいいと思うようになった。

 覚えている一番古い「記憶」は、母の顔。当時は、まだ目が見えていなかったから、それは輝也の体内のイメージでしかない。頬は扱け、まだ若くして髪には白髪が混じり、煤だらけに塗れたからだを、路地裏で売り物にしていた。輝也も、物心がつくような年齢になっていた。得体も知れぬ男たちを胡同の狭い部屋に招き入れ、輝也の目をはばかることなく男と交わっていた。昼は、その報酬で得た阿片を吸っては、「いとしい人」を夢見ているようだった。だから、小さいころから「こうさぶろうさま」の名前は知っていた。その名前は、母の悲願であると同時に、輝也の中で阿片の喫えた臭いと、狂乱する母親の醜態とともに脳裏に刻みつけられている。そしてたどりつく先は、黒澤修吾。薬が切れると、辛いも痛いもすべてかの男のせいだと母は言った。だから輝也も、そうだと思った。黒澤さえこの世からいなくなれば、きっとこんな母を見なくて済むのだ、と思った。

 そのころも輝也自身、満足に飯を食わせてもらっていたわけではなかったが、ひもじいという自覚はなかった。ただ、唯一自分を自覚してくれる母が正気を失って、痛いとか苦しいとか死にたいとかいうのを見ているのは辛かった。幼心になんとかしなければならないということは考えたと思うが、見えぬ目ではその部屋から出ることもできない。たまに母親が連れ込んできた男に医者など呼んでもらえぬかと声をかけたこともあるが、体よく断られた。それでも輝也は声をかけ続けた。輝也を抱かせたら、医者を呼んでくれるといったものがあった。そういうものには抱かれてやった。しかし、医者はこなかった。母も、日ごとに弱っていくのを感じていた。

 ある日、母親の気配が無くなった。輝也は驚いて部屋の中を手探りで捜し歩いた。ベッドの端に足を取られ、ひび割れた皿に腕を切られ、がたついた棚に頭をぶつけて、それでも母を呼び続けた。母は、窓際の縁に右手をかけて、そのまま意識を失っていた。呼吸がほんの僅かしかなかった。

「ルーイェ!」

 輝也は、母親という言葉を知らなかった。母は一度も自分を母だと言わなかったし、最近では正気でいることも少なくなっていたから、母が上海に来てから名乗っていた「チャン ルーイェ」を彼女の呼びかけに使っていた。それ以外に知っている言葉も少ない。自分を知る唯一の存在が消えてしまうかもしれない。そんな絶望に襲われながら、助けを求める言葉も、その手立ても持たぬ4歳の盲目の少年は、母が開いたらしい窓から「ああああああ」といって叫び続けることしかできなかった。

 どのくらい叫んでいたのだろう。
 もう喉から声も出なくなっていたし、母親はそのまま床に倒れ、その気配を完全に消した。輝也は、母が死んだのだと思った。こんな母親であったが、その存在が消えてしまうと思ったら、心ががくがくと震えだすような衝動に襲われた。かすかに残る人間のぬくもりを感じながら、その身体を必死にゆすって、「ルーイェ」の名前を呼び続けた。自分の頬を伝うものがなんなのか、それも輝也にはわからないものだった。

 そのとき、ひとりの男が入ってきた。
 母親の客人でないことは、気配ですぐに分かった。
 あと、女。
 輝也には、男と女の区別はついた。

 男は、猛々しいもの。女は、あわれなもの。

 ずっと部屋にいたから、女については、母親以外を知らない。だから、はじめ、男の後ろにいた女のことを、男だと思った。彼女を纏う空気が、「猛々しいもの」だったからだ。だが、男が母を助け起こし、女の指示で部屋から連れ出されると、それを必死で追おうとした輝也を、女がひょいと抱き上げた。母とは違う、花の匂いがした。そしてわかった。彼女は、女だった。

「母親を助けたいか」

 輝也は、女の言葉が分からずに「放掉!」と叫び、暴れた。女は「おや、ここにいるのは日本人の親子だと聞いていたんだけどねえ」とたいして驚きもせずに言ったた。

「助けてやろう。だがお前にも働いてもらうぞ。母親もお前も、磨けば玉石になろうな。ここの客人どもに聞いた。ずいぶん器量のいい『母娘』がここにいるとな」


 女は自分の事を中国語で「チウ」と名乗った。
 それから、楽弥と輝也は、チウの下、『湖南楼』で働き始めた。


***


 東北部の馬賊の当家に引かれたチウの後をついで、楽弥が『湖南楼』を取り仕切るようになった。

 彼女が何を考えていたのかは知らぬが、楽弥になってから『湖南楼』は益々栄えるようになったし、とにかく着るにも食うにも困らなくなった。輝也はチウに雅楽や胡踊を学び、それを客前に披露するようになっていた。「女よりも美しい少年」は、盲目という異色も手伝って、やがて知る人ぞ知る存在となった。

 楽弥は、二つの人格を持っている。
 一人は、日本人として、輝也の父親でもある黒澤修吾を愛し、輝也の身の上を案じているか弱き一人の女、吉岡らく。
 もう一人は、ここ上海における各国の要人に人脈を持ち、持ち前の器量と才能で次々に男を籠絡していく女、仙楽弥。かつての想い人である舎人耕三郎を愛し、自分を耕三郎から奪った黒澤を心から憎んでいる中国人。

 この二人は決定的に違う。
 この二人は、互いに互いを疎んじているのだ。
 そのことが、彼女を苦しめる一因ともなっている。

 他から見れば常軌を逸している母親の、良識であろうと努めていたのかもしれない。精神が不安定でありながら商売人としては天才的な手腕を発揮していく母親の、いつも後ろのフォローをしているのが輝也だった。何事も表に出さずに片づけてしまおうという気前は、もしかしたらここに起因しているのかもしれない。
 上海にいたころは、まだ黒澤修吾のことを引きずっていたような気がする。あの凄惨な記憶が、脳裏にこびりついていたからかもしれない。そうして湖南楼の看板として、母の名代として店を取り仕切り、生きるために生きながら、それでも心のどこかで何かに救いを求めていたような気がする。いつも満たされない心の一部は、黒澤修吾が生きているからなのだと固く信じて、あれをこの世から消すことが今のおれの生きる意味なのだと言い聞かせていたのだ。あの男に関するすべてが嫌いだった。あの男が生まれた国も、自分の中に流れるあの男の血も、母と子を捨てたあの男のすべて――!!

 日本に来て四年になる。
 この国が好きだというわけではない。生きるために生きていたら、たまたまここにいただけなのだ。

 それでもなぜだろう、心中は前よりもずいぶんからっぽだというのに、その隙間を埋め合わせる何かを今は必要としていない。おれは、与えられた仕事をこなすだけだ。白河川の指示で士官学校に通い、たまに久坂の相手をしてやり、面倒な同期の世話をしてやり――。
 そうして思いつくのは、拓真の兄であらねばならぬこと。あの呑気な義弟の大きな目を見ていると、どうにも体の緊張が和らぐ。不思議な生き物だと思う。あれは、確かにおれを変えたのだ、と輝也は思う。


 キキッ、と音がして、車は停止した。
 運転手が、後部座席のドアをあける。冷たい風の吹く外気に足を付けると、そこは隠れ家のような料亭の入り口だった。

 ヒバの香が残る木彫りの小さな看板に、「こつる」とあった。
 久坂が来いと言ったのは、どうやらここのことであるらしい。
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2012/02/06(月)
3、吉岡輝也の憂鬱

「こつる」の太夫(4)


 門は潜るような低さだった。

 薄明りの玄関もこじんまりとした造り。石畳の上で軍靴を脱ぐと、下足番が頭を下げてそれをしまってくれた。仲居が輝也を案内した。人ひとりが通るのにやっとのような細い廊下だった。とはいえ、踏みしめる廊下の木の一つにも光沢がある。この建物を設計した人間は、その素材にも神経をすり減らしたのだろうことは、素人の輝也にも理解できた。

 ひとつ扉を越えた。
 すると途端に広い座敷が開けた。輝也は、湖南楼の広間を直接見たことはないのだが、体の感覚でその広さを認識している。それに近いものがあった。違うのは、その床が畳で覆われているということ。

 仲居はさらに、廊下を渡った。中庭もきれいに手が入れられている。松、池、さざ波に写る月。そのすべてが趣向に凝らされている。表口は質素なものであったが、この設備のレベルなら、華族や高級官僚が密かに通うことも可能であろう。芸妓もいるのか障子の向こうからひそやかな女の声が聞こえた。なるほど、久坂の好みそうな玄人向けの隠れ家だ。

 さらに奥、仲居に部屋を進められ、輝也は座敷に足を踏み入れた。

「早かったな」

 久坂は女に酌を受けながら輝也に呼びかけた。輝也は上から久坂を眺めて、

「どういうつもりだ」

 と言った。

「まあ、座りたまえ。せっかくいいものを揃えてもらったんだ」

 まだ腑に落ちないといったような輝也を尻目に、女たちは輝也の分も膳の用意を始めた。

「どういうつもりだと聞いているのだ」
「いったろう、もっとおもしろいものをみせてやると」

 輝也は目の前に設えられた膳を蹴り飛ばした。食い物が畳に散らばり、久坂の酌をしていた女の着物にも及んだ。女は「あれ」と驚いてみせたが、他の女たちも同様、大した動揺を見せずに、当たり前のようにそれを片づけ始めた。

「お前の趣味にいつまでも付き合ってやれるほどおれも心が広くないんでな。ただの女遊びならおれは帰る」

 輝也は腕時計を確認した。日付を少しこえた頃。今から蒲田に帰れば、朝までには白河川邸につけるか。友人と遊んできたなどと、いつものように適当に言い訳してやろうか。



『お待ちなさい』


 その声、輝也は久しぶりに、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 金縛りにあったように動けなくなる。その艶めいた声、女としては低いトーン、そして、なによりもこの声とともに耳の底にこびりついているさまざまな心象風景。
 体が震えだしたのが分かった。しかし、背後の二人にそれを悟られたくない。輝也はそれを必死にこらえながら、ゆっくりと声の主に振り返った。

 小柄な体。相変わらず黒い着物を身に纏っている若い女。
 四年ぶりに見る輝也の母親、楽弥。

 ゆっくりを顔を上げる母。目が見えるようになってから見る母は、自分が描いていた母親像よりもずっと若く、そして美しかった。


「見違えたわね、輝也」


 たいして化粧気もないにも関わらず、母の白い肌にはくっきりと唇の輪郭が浮かんでいる。
 隣に座る久坂は、顔を僅かに伏せつつ、口元を密かに綻ばせている。
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2012/02/07(火)
3、吉岡輝也の憂鬱

「こつる」の太夫(5)


 
 俄かには信じがたい光景だった。
 あの日本嫌いの楽弥が、ここにいる。そして、自分へ日本語で語りかけている。
 楽弥は、日本人の客の前では、かれらが理解できるように輝也に日本語で指示することはあったが、それ以外は彼女の母国語である上海語を使用していた。久坂は客であると同時にいささか掘り下げた関係であるので、彼の前で楽弥は特に、気を使うようなことはしないのだが。

「4年ぶりの母娘の対面だろう。もっと素直に喜んでみたらどうだ」

 久坂が杯を口に運びながらそう言った。輝也はずいと久坂に近寄り、その胸倉をつかんだ。

「説明しろ、どういうことだ」
「どうもこうもない。見たままが真実だ。どうだ。想定外の出来事というものは、随分おもしろいものだろう?」

 口元には余裕すら浮かべながら、切迫した様子で詰め寄る輝也にそう言って返す久坂。後ろでは「おやめなさい輝也。仮にも彼は客人ですよ」と楽弥が言った。衰えを知らぬ、四〇前の女の艶のある声だった。

 深く息を吸い込んで、輝也は母親に向き直った。
 正座のまま息子に向き合った母親は、すっかり男の体となった息子の足先から頭までを眺めて、そうして穏やかな微笑を浮かべたまま、その顔を見上げた。

「すっかり、男になってしまったわね」

 輝也は、返す言葉が見つからない。
 当時は事情もよくわからぬまま、上海の親元から引き離されて日本にやってきた。その理由も、あの日黒澤修吾が店を訪れた真意も知らぬまま、ようやく日本の生活にもなじんできたこの時期に、なぜ楽弥がここにいるのか。問いただしたいことは次から次へとあふれ出てくるのに、その一つも輝也の口をついて出てくることがない。何度も息をのみこみながら、輝也もじっと、その美しい母親の顔を見ていた。

「日本にも出店することにしたのよ。久坂さんに手配をお願いしたら、こんなに素敵なところを見つけてくださったわ。感謝しております」
「あなたのお望みですから。ご希望に添えてよかった」

 母親と久坂の会話。輝也の心はざわざわと不審を抱いていく。

 母親――楽弥が日本を嫌いなのは、自分の元夫、黒澤修吾の出身国であるからだ。自らは上海の生まれで、幼くして日本人夫婦に引き取られ、来日した。新橋で芸者をしているときに黒澤と出会い、結婚した。
 しかし同時に、黒澤の上司である舎人雄一郎に恋い焦がれるあまりに、黒澤に添い遂げようとする「吉岡らく」と、耕三郎を慕い続ける「仙楽弥」の二つの人格が誕生した。輝也が来日する際は、もうほとんど「楽弥」が表にいたから、今目の前にいるのが「らく」でない限り、日本にいる、日本語を話すということは不可思議なのだ。ならば「らく」か?いや違う。彼女はこんな、自信を身に纏うような表情はできない。やはり彼女は「楽弥」なのだ。

 久坂廣枝は、そんな楽弥が愛する舎人耕三郎の士官学校からの同期だ。周囲からは耕三郎も久坂も、士官、大学校を優等で卒業した次代のホープと認識されている。しかし、久坂自身は学生時代、耕三郎よりも成績で優位に立てなかったを執拗にねたんでおり、表では優秀な陸軍士官を演じながら、心の奥底では今でも耕三郎のことを恨んでいるのだ。幼いころより久坂と寝屋を共にしてきた輝也は、久坂自身からその話を聞いている。

 だからおかしいのだ。この組み合わせが。
 確かに久坂は湖南楼でも常連客で、楽弥がじきじきに出向いて相手をし、輝也を与えるような関係であった。しかし、楽弥が日本嫌いであることを久坂は知っていたはずで、そのうえで彼が楽弥を日本に誘ったということは、どんな意図があるというのだろう。いや、その逆も考えうる。楽弥が何らかの理由で来日を希望し、日本人の中では比較的大陸に理解のある久坂に協力を依頼した――。

「楽弥」

 輝也はこの場で初めて、母親の名前を呼んだ。その美しい顔が微笑んで、「なあに」と言った。

「あんたは、楽弥なんだな」

 声が震えない様にするのが精いっぱいだった。なぜだろう。以前はこうして、母娘でいつも一緒でいることが当たり前であったはずなのに、今この場で、輝也の中には、不安と今の日常が侵されていく未来が渦巻いていたのだ。

「そうよ」
「向こうの店は」
「人に任せているわ。こちらを軌道に乗せたら、私も向こうとここを行ったり来たりすることになるとおもうけれど」
「おれは」

 と言いかけて、輝也は言葉をとどめた。輝也にとって、その人生の大半を「楽弥」とともに過ごしてきた。ほとんどといっていい。だが確かに、彼女のなかに「らく」が存在していることも承知している。そして彼女自身が望むのは、心穏やかに暮らしたい「らく」の人格であるということも。

「お役御免だろう。ユアンは死に、タンが今、大陸の実権を握っている。実権と言っても、北京周辺の話、民国は今や、地方の有力者連中に国土を分割された軍閥割拠の時代。革命直後の官僚の御用聞きなぞもう何の役にも立たない。そうだろう?」

「もともと、そんなものを期待などしていないわ。ユアンも、白河川修も、そういうつもりは一切なかったのよ。ユアンはただ、自分の愛玩を、その密使に贈っただけ」

「それなら猶更、おれに何の用だ」

 心中にわだかまりがある。なぜ実の母親に、ここまで疑心暗鬼にならねばならぬのだろう。後ろに久坂廣枝という人物が控えているからか、それとも、「楽弥」が今さら、自分の息子に会いたいなどという人並みな理由で、大嫌いなこの地に根を据えようというのだろうか。

 下手の襖が音もなく開いた。
 傍のものが下がると、芸妓の正装をした少女が三つ指をついており、すらりとその顔を上げた。
 
 肌は、白い。
 髪の色が、僅かに赤い。
 そして何より、瞳の色が銀色をしていた。
 
「宿禰 緑子。ここでの呼び名は『桜花(おはな)』よ。そうね、うちの太夫にでもしようと思っているの」

 日本人の容貌ではなかった。
 輝也は少女と目があった。その瞳は、その意志の強さが体を貫くような力を持っていた。

「輝也、あなたの胡舞をこの子に伝えてやって頂戴。唱と、詩と、そうね、あなたがあの店で培ったことをこの子にすべて仕込んでくれるのが理想だわ。お願いできるわね」

 緑子は、じっと輝也を見詰めていた。
 そうして輝也は自覚したのだ。自分は、母にとってすでに戦力ではなくなったのだと。新たな戦力を生み出すために、ここに召還されたのだと。

 それでも、もしかしたら輝也は、「家族」という幻想を今でも抱いていたのかもしれない。
 いつの間にか、突然目の前に現れた母親を、「平凡な日常を乱すもの」と決めつけていたことに気が付き、それでも自分は、母親に何がしかの感情を期待していたのだと自覚して、それを無残に打ち砕かれたのだと悟った。

 自分の意志とはかけ離れたところで、「わかりました」という己の声を聴いていた。

 そのときすら、少女の銀色の瞳だけが、ただ輝也をとらえている。
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2012/02/09(木)
3、吉岡輝也の憂鬱

「こつる」の太夫(6)


 ***

 
 今日のところは返してほしいという輝也の願いは母、楽弥によって退けられた。


「あの男の元には、使いを出しているから」


 と言ったのは久坂だった。あの男とは、今の輝也の庇護者である白河川修のことである。
 いったい、何をどう説明したというのだろう。今や主戦派の最主流となっている久坂廣枝大佐の使いに、軍縮派筆頭と陰で目されている白河川修元帥がどう反応するか。大方の予想はつく。「そうか」といって、それきりだ。

 あのタヌキ親爺は、ことが動くまで、良しも悪しきも放任し、しかるべきところを見極めてから行動する。今回は、輝也をダシに久坂がどう動いてくるのか、見定めようと腹積もりをするに違いない。久坂もそれが分かって、わざわざ自ら白河川に使いを出したのであろう。まったく、輝也にはつまらない。今や陸軍内を分割する二つの主流の、そのど真ん中を任されて、そこでひとりで役目を演じて見せろというのだ。



 輝也は、緑子の後ろをついている。
 緑子の持つ蝋燭の明かりが、その肌の白さ、髪の毛の色の赤さを如実に照らし出した。

 奥の間を、すらりと彼女が開けた。後続する輝也が襖を閉めると、部屋は薄明りの間接照明の明かりで、ほのかに明るい。

 緑子は蝋燭を吹き消すと、輝也に向き直り、三つ指をついて一礼した。
 両耳の下で束ねられた豊かな髪が、ぱさりと畳に落ちた。

 女は、何も話そうとはしない。
 瞳を伏せがちに、輝也の反応を伺っているようだ。

 こうにも露骨に誘われると、かえって興醒めしてしまう。もとより、そういう欲求は一切ない。できれば早く今日の仕事を済ませて、一人になりたい。そう思って、輝也は口を開く。


「おれは、楽弥のいいつけだからこうして出向いたまでだ。変な気は使わなくていい」

「男でなければ、興味をもっていただけないのかしら」


 まるで感情のない西洋の人形のような女が、輝也の声に重ねるようにして言い放った。


「残念だわ。かの名高い『仙輝煌』の肌を味わってみたかった」


 そういって、女は目を細めた。にやりと口元を緩め、そうしてその銀色の瞳を輝也に向けた。


「噂に違わぬ美貌ですわね。楽しくなりそうだわ」

「なるほど、楽弥の好みそうな女だ。毛色ばかりでなく、その物言い。確かに、あんたが芸事を身につければ、ここの看板にもなれような」

「勘違いしないでくださいまし。わざなど無くとも、私はここでは一番になれますわ。私もあなたと同じ。楽弥がそうしろといったからここにいるのよ。もっとも、あなたと同じとはいっても、楽弥にとって私は、あなたと同じ価値ではないわ。あなたが楽弥とともに築いてきたもの、それを私が体得して、はじめて、楽弥の望む私が完成するのよ。あなたともあろう方ですもの。お気づきのことと思いますけれど、あなたはもうお役御免なの。だから、舞台から降りる前に、その身に纏った美しい衣装を私に譲っていただかなくては」

「次代のシテはお前か」

「そこまで思い上がってはいませんわ。それを決めるのは楽弥だもの」


 美しい日本語だった。緑子は輝也の言葉に一切、臆する様子も見せず、目を逸らすこともなく、輝也を侮辱するわけでもなく、淡々とその事実を並べたにすぎなかったのだが、緑子の言葉は、輝也の中の「輝煌」を呼び起こすのに十分だった。女の口元に浮かぶ笑みは、輝也の神経を高ぶらせ、五感が一斉に当時のそれに切り替わり、情動への理性も慎みもなく、輝也は本能のまま、右の手で女の首を床に叩き付けた。緑子の方は抵抗の暇なく輝也に距離を詰められ、輝也の腕を掴み返す。しかし、輝也に、女の首を絞めつけているという自覚は、一切ない。


 楽弥、おれはもう、本当にあんたの役に立てないのか。
 あんたも、おれを捨てるのか。


「……う」


 緑子が苦しそうに声をあげる。輝也を引き離そうとする手にも力がこもるが、緑子の目に映る輝也に、ためらいの様子は微塵もない。


「美しいわ。楽弥は、あなたのそういう、一途な感情を愛していたのね」


愛シテ、イタ。
輝也の中では、そう反芻された。それはもはや、高まった神経を逆撫でする以外の何物でもなかった。


「あなたにはわからないでしょうね、この気持ち。この愛しさ。男の、あなた、には」


がはっ、と緑子が咳き込んだ。輝也は尚も女を押さえつける腕の力を緩めない。緑子の方も苦しいが、それでもあくまで余裕を装い、輝也から目線を外さなかった。

 輝也が、通常の五感を取り戻したのはその時だった。
 自分の行為に吃驚するより早く、刀の柄が、輝也の鳩尾を襲った。一瞬の判断で即座に身を引き、直撃は免れたものの、使い手に体当たりをされたまま、輝也の身体は後方に吹っ飛んだ。

 したたかに打ちつけた背中が痛んだ。徐々に理性を取り戻し、今、自分が支配された情動を思い起こそうとする。しかし、記憶が断片的に途切れており、自分の行為を客観的に振り返ることができない。心の奥にある感情は、負のものだ。悔しい。悲しい。

 いや、寂しい――?

 緑子は、喉を抑えて何度も咳き込んでいた。それを見て、輝也も自分の行いを自覚し始めた。
 なんだ、これは。
 こんなことは、日本に来てからは一度だってなかった。大体、おれはもうあの時のおれではないのに……!

 ひとまず、感情に支配され、緑子に手を出してしまったことは、詫びねばならない。そう思って、顔を上げたところで、そこにいた人物の、顔を見た。

 そこには、ここにいるはずのない士官学校の同期の姿があった。
 抜かぬままの日本刀を脇に抱え直し、輝也から緑子を庇うように立ち上がった。そうして、驚きのあまり動けずにいる輝也の前に進み出る。


「お前、なんで」

「楽弥の命を聴けぬというのであれば、この場であなたを斬ります」


 感情を大きく揺り動かす様子もなく、輝也を見下げた舎人雄一郎が、容赦なくそう言い放つ。

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2012/02/29(水)
3、吉岡輝也の憂鬱

「こつる」の太夫(7)


「やれやれといったところかな」


 いつからそこにいたのか、例の「すべてお見通し」といった顔をぶら下げた久坂が、輝也の後ろに立った。
 雄一郎が、踵をそろえて敬礼した。緑子が、呼吸を整えて、姿勢を正し、一礼する。
 それを見届けて久坂は、座敷に踏み入り、輝也に振り返る。


「どうだ。最高の役者をそろえてやったぞ。主人公は救われたい美少年。野心家の母親、謎の同級生、そして主人公の存在価値を脅かす、白皙の美少女だ。気に入ってもらえたかな」


 久坂の言葉を聞くよりも早く、輝也は「ふざけるな!」と叫んで立ち上がった。勢い、久坂に詰め寄ろうとしたところ、雄一郎に阻まれ、日本刀の柄を胸に押し当てられた。

 近いところで、目があった。
 相変わらず、雄一郎の感情を読み取ることはできない。
 輝也はとりあえず久坂と話をするべく、雄一郎を押しのけようとしたが、案外強い力でそれを阻まれた。
 久坂が声をかける。


「構わないよ舎人。これでも一応、私は彼の上官なんでね。手荒な真似はしないだろうさ」


 その言葉をまんじりと聞いた雄一郎が、輝也の目をじっと見入り、そうしてようやく輝也から身を引いた。久坂の指示なら聞くというのか。しかしもし久坂に何かしようというのなら、容赦なく抜き身を放つぞ、という空気が、「彼女」の周りを支配していた。


「リコ」


 久坂が緑子を呼んだ。


「素晴らしいよ。よくやってくれた」


 無言で、緑子は頭を下げた。先ほどの傲慢さは微塵もない。
 「君たちは下がりたまえ」と久坂がいう。緑子が先立ち、続いて雄一郎も襖の奥に下がっていった。雄一郎は、部屋を出る直前にも、輝也にひとつ、視線を投げかけている。


「悪趣味にもほどがあるぞ、久坂。いったい何をするつもりだ」

「別に。俺は今も昔も何も変わってはいないさ。美しいお前を愛でたいのさ。そのためなら国の一つだって壊してやる。そう、お前を口説いたことも、あったかな?」

 
 だが――、といって、久坂は輝也に詰め寄った。壁を背に、今にも唇に触れられそうな位置で、久坂は静かに語りかけた。


「お前は変わってしまった。今のお前は美しくない。白河川修に何を吹き込まれた。俺は、何物にも従属せず、何物にも侵されず、気高く孤高に生きるお前を愛していたのだ。それが今や、軍の狗だと? 白河川修の当てゴマだと? あの舎人耕三郎の子息と懇意にしているだと――!? 俺には耐えられないよ、輝也。俺の愛しいお前が、あのような狂気じみた連中どもの懐で、身も心もじわじわと喰われていくことなど。そして聡明で賢明なるお前が、その事実に気が付くことなく、連中の意のままに作り変えられているということを!」


 久坂は、輝也の耳元、ほとんど触れるか触れないかというところで、口を開いた。


「――だから、本当のお前を覚醒させてやる。ここは地獄。その舞台の主役は貴様だ。輝也、最高のお前を演じて見せておくれ。俺の望む、本当のお前、美しいお前を」

「呆れた三文芝居だ。俺は下りさせてもらう」


 久坂を振り切ってその場を離れようとした輝也を、久坂は逃さなかった。そのまま床に押し倒されて、顔を向けられ、輝也は猛烈に嫌気がさして、顔を背けた。


「舎人 拓真」


 鉄壁の外面をすり抜けて、いきなり心臓を掴まれたような感覚だった。
 輝也はいたって感情を表に出さぬように努めたが、この男が、輝也の微妙な感情の変化を見逃すはずがなかった。


「あれは想定外だった。まさか、お前の関心を引く人間がこの世に存在しようとはな。正直に言って、今の俺には、目障りだ」

「やめろ、あれには手を出すな」


 そこでようやく、輝也はさきほどの同期の顔を思い出した。
  

「宿禰 緑子はいい女だろう。あれほどの上玉、そうはいるまい。毛色だけでない、そしてあの度胸のよさだ。お前の中の本性を引きずり出せと俺は命じたのだ。そうしたらどういうことだろう!初対面のお前の本質を見抜いて、見事に内部を抉り出してきた。あれは使い物になる」

「舎人雄一郎を、どうやって手懐けた」

「それを知ってどうする?興醒めだと言っていたではないか」

「これは俺と楽弥の問題だ。宿禰緑子とやらに歌舞を仕込めというなら云うとおりにしよう。だが、拓真も雄一郎もこの一件には何のかかわりもないはずだ。だから、これ以上あれを巻き込まないでくれ」


 組み伏せられたまま、必死に訴える輝也を、久坂はとても冷めた目で見詰めていた。


「つまらない」


 そうして溜息を付き、輝也の拘束を解いた。身を引いた久坂はやはり「つまらぬ」と呟いて、独り言のように語り始めた。


「だからお前は、毒されたというのだ」


 そういって座敷を去ろうとする久坂の背中を、輝也は追った。


「話はまだ終わっていない!」

「俺の話は終わりだ。まあいい。輝也、せいぜいあがけ。あがいて、あがいて、俺に見えている結末を変えてくれ。もがき、苦しみ、血を流すお前の姿を以って、俺の嗜好を存分に満たしてくれ」

「久坂!」

「あの二人は関わりは無いといったか。笑わせるな。あの男の子息というだけで、理由は十分だ。それとタヌキに伝えておけ。イデアリストは、リアリストによって駆逐される。初めに舞台を追われるのは、陸軍卿白河川修、貴様だとな」


 そういい残し、久坂は廊下の奥の暗闇に姿を消した。
 
 悪くないと思っていた日常が、突如がらがらと音を立てて崩れ出す。
 ようやく掴みかけた自分でなく、目的のために手段を選ばぬ非道が、誰かに望まれる自分だというのか。

 輝也はその場に、座り込んでしまった。
 
 呆然とした頭を、ようやく回転させ始める。

 拓真を、こちら側に連れてきてはいけない。
 雄一郎を、これ以上踏み込ませてはいけない。

 
 久坂を止めなければ。
 そしてそれができるのは、自分だけなのだ。

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2012/03/02(金)
3、吉岡輝也の憂鬱

「こつる」の太夫(8)


 ***


 兵舎は起床、着替え、朝食から掃除、授業開始に至るまでまったく隙がない。
 日曜の夜は、輝也が帰宿すると既に雄一郎は就寝していたため、先日の真相を聴き出せずにいるのだ。

 昼食後の僅かな自由時間、輝也はようやく雄一郎に接触した。


「先日のことだが」


 周囲がひそひそとこちらに注意を向けているのが分かった。先日の「決闘」以来、確かにクラスの空気は幾分か真面になったのかもしれないが、それにしても視線が痛い。とりあえず、輝也は雄一郎の背中を押して講堂を出た。

 昇降のための階段の横。気持ちではあるが、人目を憚ることもない。


「なぜあそこにいた。久坂に何か言われたのか」

「何の話ですか」

「ここにきてとぼけるのか?お前が、あの料亭にいたのはなぜだ」


 雄一郎はあからさまに不機嫌な顔をして、そのまま輝也の横を通り抜けようとした。輝也はそれを体で遮った。


「話すことは何もありません」

「久坂には関わるな。お前にとっていいことは何もないぞ」

「同期の誼でひとつ忠言をしましょう。上官を呼び捨てにすることは許されませんよ。態度を改めなさい」

「もう一度言う。お前が何を思ってあそこにいたのかは知らぬが、金輪際久坂には関わるな。いいな」

「あなたが久坂大佐のなんなのか詮索をするつもりはありませんが、私は、かれの指示に従うだけです。あなたも、乞われてあそこにいたのでしょう。ならば、互いに互いの仕事をするまでです。私も、あなたには何も問いませんから」


 そうしてもう一度通り過ぎよとする雄一郎を、輝也は力いっぱい壁に押し付けた。
 雄一郎はそうして初めて少し驚いたようなそぶりを見せて、そしてやがていつもの不機嫌な目を輝也に向けた。


「こっちを向け。話を聞け。久坂に何を言われたのかは知らぬが、お前があれに従わねばならぬような状況なら、俺が何とかする。だからお前はあそこから身を引いてくれ。頼む。これはお前のためというより、俺の――」


 そこまで言って、言葉が続かなかった。
 実の姉を目の前に、拓真のことをなんと言えばよいのだろう。


「あなたの?」


 雄一郎が初めて問い返してきた。輝也は目を逸らし、雄一郎から離れた。雄一郎は静かに輝也を見詰めている。


「こないだの続きだが」


 輝也は顔を上げずに言った。


「お前は人を殺せるんだな」

「命とあらば」

「『若冲鳳凰』は、山城さんから預かったのか」

 
 初めて、雄一郎の感情が大きく上下したのが分かった。ある程度想起はしていたが、どうやら確信を付いたらしかった。

 あの体術も、武道も、おそらくその剣術も、幕末戊辰を佐幕派の女武士として名を馳せたあの山城眞子に仕込まれたものなのだろう。男にも勝る知略。振る舞い。その多くが、彼女に起因する。


「……何を知っているんです」


 『若冲鳳凰』は、先日、雄一郎が手にしていた日本刀の俗名である。
 刀身そのものは、業物ではないという。ただ、戦国期作の長刀で、江戸300年を通じ剣士たちの手を経るごとにその刀身は冴えわたり、切った人間の血を吸って、歯が仄かに紅く輝くのだという。
 無銘ではあるが、佩裏には鳳凰図が刻み込まれており、その豪快さ、壮麗さからいつしかその「名刀」は、江戸期の高名な絵師伊藤若冲の名前を冠するようになったのだという。多くは実用刀として使用されたということだが、芸術品としてもその道に通じるものならば一度は目にしたい逸品なのだそうだ。 

 その『若冲鳳凰』は幕末にいたり、後、白河川修の妻になる女が手にしたのだという。
 彼女が死んでから、山城眞子が所有するようになった。そう、白河川修から聞いた。


「おれは何も知らない。だからお前にこうして聞いている」

「禅問答をするつもりはない。あなた、まさか」


 そういったところで、予鈴の喇叭が鳴った。学徒たちが教室に向かい始める。
 輝也と雄一郎は、互いに疑念の晴れない感情を視線で交えながら、やがて教室に向かった。

 

 それから一週間、大した話もしないまま、また土曜の夜が来て、「こつる」で雄一郎と顔を合わせた。
 輝也は、緑子に歌舞を仕込み始める。
 雄一郎は緑子のお目付けを言いつかっているらしく、二人のやり取りの場末で、『若冲鳳凰』を携え、静かに控えている。

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2012/03/07(水)
3、吉岡輝也の憂鬱

「こつる」の太夫(9)

「至極、やりにくい」

 
 そんな三つ巴の状況を三ヶ月も過ぎて、ようやく輝也が憮然として呟いた。,
 手習いの最中の緑子、そして相変わらず隅で控えている雄一郎、それぞれちらりと顔を上げた。


「なにをいまさら」
「お前たち、何も感じないのか!?おれは割ともういっぱいいっぱいだ!何が楽しくて同期に過去の自分を晒さねばならず、リコ、お前だって自分の手習いを他人にかつ目されてなんとも思わないのか!?ああもう、少なくともおれは耐えられん。舎人、お前がどーしてもそこを動かぬというなら、楽弥に直談判させてもらう」
「楽弥なら先日から上海ですよ」
「ならかえってくるまでお前は廊下で待っていてくれんか」
「彼女の命は久坂大佐の命。違えることはできません」
「では、手習いそのものを延期させてもらおう」
「それは困りますわ。楽弥には次回はより完成度の高いモノを求められているのですもの」

すべてを投げ出したい感情に駆られている輝也は、二人の「女」にはさまれて、一層不利であった。そもそも、この場に召喚されているのが、この場の三人の意思ではない訳で、この状況に苦情を申したいところで、決定権を持つ者がいないこの場において、議論も改善策も進展しない。

「まあそれでも、吉岡さんのおっしゃることも無理ありませんわ。この愛想の無い顔が部屋にあるだけで随分と心証を害されることは確かですもの」
「口ばかり達者のようだが、わたしも特段好き好んであなたの警護についているわけではない。久坂大佐の指示がなければ、誰があなたなど」
「あら、あなたなどいなくても別段問題はなくてよ。刺客の一人や二人、返り討ちにして差し上げますわ。そういう意味では、吉岡さんの言にも一理ありますわね。わたしも、あなたの視線が多少気になってはいましたのよ」
「どういう意味です」
「そのままの意味ですわ。理解できなくて?」
「くだらない。付き合ってられぬ」

 付き合っていられないのは輝也である。自らが口火を切ったとはいえ、今度は女二人が喧嘩を始めてしまった。

「だいたい、男だか女だか分からないような顔をして、用心棒が聞いてあきれますわ。軍人さんて、もっといかつい、筋肉隆々としたお人なのだと思っていたけれど、あなたの様に頼りないヒトでも将校さんになれるのね」

 緑子は雄一郎に向けて言ったのであろうが、おそらくその3分ほどは輝也にも向けられているのだろうと思った。

「あなたも、もう少し女としての淑やかさを身につけてはいかがですか」
「呆れた。客商売をしたこともないようなあなたに言われたくありませんわ。男性の好みの女を演じて見せる、それが私たちの仕事ですもの。淑やかな女性をお望みでしたらそのような女にもなりましょうし、豪快な姐様がお望みならそれも叶えますわ。あなたの様にバカ正直に生きていけるほど、苦界は簡単ではなくてよ」

 輝也を挟んで、いつの間にか二人は立ち上がり、向かい合って激論を交わしあっていた。
 随分と仲がいいんだな、と輝也は頭上の二人の声を聞きながら思う。

「苦界?」

 雄一郎があからさまに不機嫌な声を出す。

「賢しらに自ら境遇を定義するなど、愚の骨頂。あなたの思考の程度が知れますね」
「あら、わたしはその言葉に後悔も謙虚も無くてよ。文字通り、血肉を啜って生きてきた。少なくとも、この国のエリートとも呼ばれようあなたたちなんかよりはずっと世の中を知っているわ。違い無くて?」
「まるで見たきたような話しぶりですけれど、その根拠は?」
「顔を見れば分かりますわ。たしかに、あなたもただ安穏と暮らしてきた訳ではなさそうだけど、少なくとも、苦行を生き抜いてきたのは吉岡さんの方よ。私の程度を判ずる前に、ご自分の頭脳の省みた方が良くてよ」
「あなたに何がわかる」
「あら、もう言い返す言葉が尽きてしまったのかしら?わたしは、はじめてお会いした時からあなたという存在を信用していなくてよ」
「別にあなたに信用してもらう云われはない」
「そうかしら。わたしには関係なくても、それが帝国陸軍の威信にかかわるとしたら、ここでわたしが意見を申し述べることも必要かと思っているの。でも、久坂大佐や楽弥が知らぬはずもないと思うから、私はあえて知らぬふりをしているのよ」

 緑子は、輝也の横を通り抜け、雄一郎の胸に手習いの扇子を押しつけながら詰め寄った。

「それとも、わたしの目が節穴だというのかしら?」

 雄一郎も負けない。感情を押し殺したまま「何のことだ」とだけ言い返した。

「あなたが男だというのなら、この場でわたしを抱いてくださる?ああ、気にすることは無くてよ。吉岡さんもこの手のことには慣れていらっしゃいますし、わたしも別段、あなたごときに肌を許すこと、なんとも思ってはいませんわ。ただね、少なくともあなたは、わたしを抱くことはできないわ。安心して頂戴ね。わたしはこれ以上、あなたに喧嘩を売るつもりはありませんわ」

 そういって、緑子はくるりと振り返り、「さあ、稽古を再開してくださいな」と言った。
 雄一郎は、珍しくなにも言い返さなかった。それを横目にみつつ、輝也は立ち上がった。幼いころ盲目で、見取り稽古をした経験が無く、自分の歌舞がどう見られていたのか輝也自身には分からない。なので、輝也が緑子に踊って見せることで、緑子がそれを見て自分のものにしていくのだ。輝也は緑子の踊るそれを感じつつ、微妙なニュアンスを調整していく。
 輝也は弟子など取ったことはないが、緑子は天才だと思った。元より身についている天賦とも言うべき才に加え、人知れぬところで努力するということを知っているし、輝也の技術に自分なりの解釈を付け加えて体に技を吸収していく。軍事教練に明け暮れている日々が続く輝也にとっても、緑子との稽古の時間はとても楽しいものであった。自分には、体育よりも芸事の方が向いているに違いない。

 気がついたとき、いつもの場所に雄一郎はいなかった。どうやら、廊下に出たようだった。輝也はおや、と思ったが、自制した。必要以上に踏み込んではならない、という自分の声を聞いたからだ。

 季節は、春を迎えようとしている。

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2012/03/15(木)
3、吉岡輝也の憂鬱

「こつる」の太夫(10)


 ***


 土曜日の午後は、一度白河川邸に戻り、日が暮れることに家を出る。
 緑子に舞を享受しつつ、彼女と雄一郎の対立を眺めつつ、日曜は「こつる」で一日を過ごす。
 月曜日、そのまま市ヶ谷に出仕する。
 あの夜以降、かの白河川修も、山城眞子も、特段輝也の行動を問いただしたりはしなかった。久坂の使者というよりも、彼らなりの何か思惑があるのだろうと輝也は思っているが、こちらも特段、先だって口出しをしない。

 そんな生活を半年も続けたころ、土曜日の午後、日が落ちてから白河川邸を出たところで、後ろ手を引かれた。
 来るものが来たのか、というのが正直な感想だった。心して振り返ると、そこには無邪気な二つの黒い目があった。


「どこにいくの?」


 拓真も齢16になった。輝也は、健常な男子より幾分頼りない体格をしているが、その点、身長においては拓真は自分よりも大きくなっていたし、あちこち駆け回っている分、白い腕や足にはしなやかな筋肉がついている。
 その伸び盛りの細い腕を捕まえられて、さあ、どう応えたものかと輝也は思案している。
 以前であれば、男女の秘め事の話などしてもこの弟には通じなかったであろうが、今は(おそらく)知識でなら知りえているはずであるから、などと考えて、随分さみしい話だと思った。そういえば、以前はあれだけ親しかったこの弟との会話も、随分減ってしまったような気がする。
 とにかく、おそらく山城眞子あたりには輝也の動向など少しは聞いたのだろうから、かの女史ならきっと、御茶を濁す程度、そのような言い訳をしたに違いない。確信はないが、あながち間違ってもいないし、それにつじつまを合わせてやろうか。

 なんてことを考えた。

「女のところだ」

 さあ、この弟はどうやって返してくる。

「おれも行きたい」

「拓真、それは野暮というものだ。お前の歳なら、同期との会話にも男女の色恋について論じられることがあるだろう?それはあくまで当人同士の中に大切に秘されているものであって、たとえ家族でもその親しい友人であっても、その二人の間に無下に踏み込んではいけないものなんだ。分かるな?」

 拓真のことだからそのようなことに感知していない可能性もあると見越して、世間の常識を簡単に述べたつもりであった。同時に、輝也は自分自身を「女のいる身」であり、「家族に言えない事情を持っている」と拓真に告げ、とりあえずこの状況を回避できる口述を形成したわけであるが、当の拓真は相変わらずその黒い瞳を逸らすことも曇らせることもなくこちらに向けてきていて、輝也も心中、やはり無理か、と溜息をついた。

「白河川に何か言われたのか」

 拓真は首を振った。そうしてやはり、まっすぐと輝也に視線を戻した。

「じゃあ眞子さんか」

「ううん、違う。」

 輝也はできるだけ感情を和らげて拓真に対面している。心の動揺に、拓真は直感的に反応する。
 「こつる」や久坂の一件には、拓真を関わらせたくないのだ。できれば知らせたくもない。雄一郎も関係している。やはり、拓真が絡んでくると、いろいろと面倒なのだ。

「じゃあ正直に言うよ。確かに、おれが遭っているのは、密かに情をかわすようなつつましやかな関係の女ではない。どちらかといえば、軍の関係なんだが、それは白河川の意志ではない。つまり、おれは今、庇護者である白河川さんに対してはとても後ろめたいことをしているんだ。だから、お前に、こういうようなおれに関わってほしくない。頼む、拓真。ここは見逃してくれないか」

「おれは」

 輝也の言葉を聞いたか否か、まっすぐな瞳はやはり、直接輝也の脳裏に語りかけてくるような威力を持っていた。

「輝也の見ているものが、みたい。輝也が、何の考えも無しに、白河川さんや、自分の信念を曲げてまで何かをするとは思えない。輝也がこうして、誰かの意思に従っているなら、それはその誰かの他に、輝也自身の考えがあるからだ。おれはそれを知りたい。輝也が見てきたもの、今見ているもの、それを知りたい」

 それは純粋な好奇心であると同時に、拓真の自我の発芽なのだと輝也は思った。
 与えられるものを吸収するだけの段階を通り越して、いつの間にかこの弟は、自分の意志を持つようになったのか。そういうことにも気が付けずにいた自分は、この半年に限り、やはり拓真の兄としてはいささか自覚が足りなかったのかもしれない。

「ならば、そこまでは連れて行こう。しかし、それより先は、まだお前に見せてやることはできない。外で待っていること。いいか」

 拓真は頷いた。
 別段隠すことはない。「輝煌」に一番近かったころの自分を知る拓真に、今さら「女」であった時の自分を偽ることもない。
 ただそれでも、やはり久坂に拓真を関わらせたくない。

 厄介ごとが増えたような気もするし、拓真の成長を喜びたい気持ちもある。
 輝也が先立って春の夜風を切って歩き出した。拓真がその後ろを追う。

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2012/03/28(水)
3、吉岡輝也の憂鬱

「こつる」の太夫(11)


 ***


 月の明るい中庭である。

 座敷の奥では男女の談笑が聴こえている。先ほどから厠に立ったのであろうこの店の客人たちが、拓真の背中を通り過ぎていく以外、この空間は静寂である。士官学校の軍服の上着は脱いでいるので、客人たちも特段、拓真に興味を示さずに厠へ向かい、何事もなく座敷に戻っていく。拓真の方も渡り廊下の縁側に腰を下ろして、ぼんやりと中庭の池に落ちた月影が揺れるのを眺めている。

 兄・輝也の背中を追って、この料亭に来た。小さな門構えをくぐると、輝也を出迎えた何人かの女将がいて、輝也を先導した。拓真もその後ろを追った。拓真はその女を注意深く観察してみたが、どうやらその女たちは、輝也のいう「別につつましくない関係の女」ではなさそうだった。そう、判断できた頃に、輝也がくるりとふりかえり、お前はここで待つように、と言った。もとよりその約束なので、拓真はこくんと一つ頷いて、歩む足を止め、兄の背中を見送った。

 兄は随分奥に行ってしまったようで、様子をうかがうことはできない。別の部屋を覗くのも無粋なので、その場でどうしようかと思案に暮れていたら、輝也に使わされたらしい女が、待機用の小さな部屋を用意してくれた。しばらくはそこに収まっていたのだけど、やはり特段することもないので襖をあけた。すると小さな中庭の水面に写った月からぴょんと鯉が飛び上がり、拓真は思わず身を乗り出してしまった。暗闇の中、水の中を泳ぐ魚をみる機会は少ない。鯉が水面をなぞるたびに、水面の月が揺れた。そうして暗い水面と四角く縁どられた中庭の夜空を交互に眺めていたら、いつの間にか夜も更けていたようである。

 拓真としては、ただ兄の見ている世界を垣間見てみたい好奇心だった。
 輝也の恋路を邪魔しようだとか、自分も遊郭遊びをしたいという気持ちは毛頭ない。拓真のクラスのませた連中のはなしで、新橋あたりの年上の女中と云々という話を聴くことがある。拓真の興味深く聞いている。しかしそれは男女の事柄というよりも、自分の知らない世界に対する好奇心であると言っていい。いろんなものが見え始め、触れる世界のすべてが不思議。知らぬものなら知り得たい。それが拓真の心内の最たるところである。

 兄は、たくさんのせかいを知っているのだ、と拓真は思っている。
 拓真の知りえた見識のほとんどが、輝也の由来によるものだ。ものごとの成り立ち、善悪、歴史、時間、その多くを、輝也の価値観から吸収したものであると、拓真は自覚している。記憶があいまいなころから輝也は拓真に世話を焼いてくれていたのに、最近は学校があるといえ随分顔を合わせる時間が少なくなった。いや、もしかしたら、自分から兄に語りかける機会が減ったからなのかもしれない。もう、ただ兄に付き従うだけではいけないのだ。自ら兄に学ぶ姿勢を見せなければ。

 そんな気持ち半分ずつ。しかし拓真はどこか心に冷たいものを感じ始めている。
 輝也はどこに行ったのだろう。何をしているのだろう。
 確かに必要以上に踏み入ってはいけないのだろうけれど、自分は、本当はかれに歓迎されてはいないのではないだろうか。
 ううん、でも、おれは輝也のことが知りたいんだ。
 輝也が見ているものを見たいんだ。
 輝也に認めてもらえるまで、おれはここで待つんだ。

 心の中の「冷たいもの」に抗うように、拓真はそう、自分に言い聞かせる。
 根拠のない孤独。目の前の水面の月影から、ぽちゃんと鯉がはねた。


「寂しそうな眼をしているわ」


 女の声。拓真は振り返った。
 廊下を渡ってくるのは、芸者見習いの若い女のようだった。長い髪を結い上げておらず、左右の耳の下にお下げをこしらえている。肌は、白い。いつぞや、山城眞子が買ってきた西洋人形のようだ、と拓真は思った。

「桜花」
「先に行って吉岡さんに伝えて頂戴。わたくしは、生理痛で遅れます」

 付き添いの女は、緑子の適当な言い訳に特段感情を上下させることもなく、静かにその場を去った。人気の無い廊下には、拓真と緑子が残った。
 拓真は、異国人の血の混じった人間を見るのは初めてであったから、緑子から目を離せなかった。自分の理解しがたいものが目の前に現れて、それをかれのなかで解釈するには、拓真の好奇心はあまりに大きすぎたのだ。

「あら、わたしがそんなに珍しいかしら」

 緑子が拓真の傍らに膝をつき、その顔を覗き込んで微笑んだ。拓真はどぎまぎしながら頷いた。

「お人形みたい」
「褒めてくださるのかしら。嬉しいわ。わたしは宿禰緑子。親しい人はリコと呼ぶの。あなたにもそう呼んでほしいわ」
「おれは、リコ、と、親しいの?」
「ええそうよ。いま、わたしがそう決めたのよ。あなた、とっても綺麗な目をしてる。あなた自身、とても綺麗なのね。わたしはあなたと友達になりたいわ」

 そういうと緑子は拓真の手を取り、拓真の顔の近いところで、ゆっくりと顔を上げた。

「あなた、お名前は?」
「おれは兄についてきただけで、正式な客ではありません」
「兄?」

 拓真は、緑子の手を離した。その場を立ち去ろうとする。

「待って」

 緑子は、拓真の背を呼び止めた。

「あなたが『拓真』ね」

 拓真は、反射的に振り返った。しかし、自分がこの場にいるべきではないと自覚はしているので、やはりその場を去ろうとする。その後ろ手を、緑子がとった。拓真は振り払おうとしたが、緑子は案外強い力で握りしめている。
 拓真は、去ろうとする意志を諦め、緑子に振り返った。
 初めてまともにその顔を見た。日本人のものではない、銀色の目が、拓真の顔を見詰めていた。

「驚いたわ。そして理解した。あの二人が、揃いも揃って懸想するワケね」

 緑子の言葉が何を示しているのかわからず、返答に窮している拓真の前襟を強引に自分に引き寄せて、緑子は拓真に唇を重ねた。驚いた拓真が身を引こうとするのを許さずに、それをたっぷりと味わって、そうしてようやく、その身を離した。

「友達になりましょう、拓真。また、わたしに会いに来てくださる?」

 目を合わせたまま一方的にそう結論付けて、緑子はやがて微笑む。拓真は相変わらず返答に窮して、ただ緑子の銀色の瞳から目を逸らせずにいるのである。

「教えてあげるわ。あなたの兄上様のこと。そして貴方自身のこと。わたしならあなたに、あたらしい世界を見せてあげられるわ」

 そういって、緑子は拓真の横をすり抜けた。
 ああ、とても楽しいものを見つけたと、心中に呟き、興奮する。

 緑子はまだ理解していない。
 ただいつものように、つまらない人生にほんの少しだけのイレギュラーを見つけたのだと、そう思っている。

 
 ぽちゃんと鯉が水面に跳ねた。
 拓真の方も、一体何が起きたのか、緑子との出来事を経験として処理できずに感情が混線している。


***

 
 緑子と拓真はこの夜、出会った。

 「こつる」の舞台が、幕を開ける。


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2012/05/28(月)
3、吉岡輝也の憂鬱

田園都市、春(1)

 
 上野駅を降り、駅前の大通りを南に向かう。

 四月、新年度が始まるまでの数日は、こうして人通りも多いだろう。昼下がりの商店街は賑やかであった。北条古巻の前には、壮年の女が先立っている。藤色の物静かな着物にコートを靡かせ、足取りも軽いらしい。古巻はこの女のところに居候を始めて10年になる。主の名前は最上桜花。大正9年というのこの時代に、文壇では一応名の通った女流歌人である。が、本人はいつもにこにこと穏やかに笑っており、ざっくりを束ねた後ろ髪は飾り気を知らず、40も半ばを過ぎた貫録というものを普段表に出さないゆえか、こうして後ろを付いて歩いていても、傑人という空気をまったく感じさせない。春の陽気に誘われた少女のように道端の草花に話しかけ、商店街の客引きに呼び止められ、馴染みの八百屋で季節の野菜を大量に買い込む文壇の寵児の気ままに、古巻は付き合わされている。

 桜花の住まいは調布である。目黒線を利用し、歌会や出版社との打ち合わせのために東京市内に出てきているのだ。
 今日は、女性の社会進出が云々という講演会に、桜花が呼ばれたのだった。古巻は、中学校が春休みなのでついてきている。講演会の会場は講堂のようなところで行われたが、立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。つい先日、新婦人協会が発足したと新聞の紙面が伝えていた。昨今の女性の地位獲得を求める運動は、ひとつのブームのようでもあると古巻は思っている。

 そんなわけで帰り道である。桜花が買い込んだ大量の野菜や米は、後ろを歩く古巻が携えている。古巻は体格が良い方ではないから正直かなりシンドイ。日ごろから時間があれば本を読んでいることが多く、あまり外を出歩かないせいもある。家に帰れば学校の宿題をし、桜花宅の家事全般をこなし、主の帰りを待つ。桜花にそう望まれたわけではなかったが、厄介になってる以上は家のことはやらねばならぬという思いが古巻にはあった。古巻が京都の実家を離れて桜花と過ごすようになったのは、6歳になった秋のことだった。母親が死んだすぐ後の話だった。

「先生、重いです」
「情けない。男子なれば弱音を吐かずに仕事をこなしなさいな」
「……鬼」
「おや、なにも聞こえませんねえ」

 古巻は大きなため息をついた。この天邪鬼は、こうして古巻が困るのを見て喜んでいる節がある。古巻にしてみれば暖簾に腕押しである。10年も寝食を共にしていれば、それが悪気のない悪戯のようなものであることも理解はしている。納得しているわけではないけれど。
 
 最上桜花、本名を桔華という。古巻の父親と3つ離れているので、今年42になるはずである。
 古巻と桜花は、いとこである。桜花の祖母と、古巻の曾祖母が同じ。この曾祖母が、先代、北条桜花である。
 短歌の血脈である「桜花流」は、始祖を平安時代の歌人として、門下の弟子がその名前を受け継ぐことで時代をつないできた。血脈と言っても、直接的な血の繋がりがあるわけではない。当代が自分の門下、もしくは近い人間関係の中から創作の実力のみならず、その人柄や行いをみつつ指名してきたのだという。何が基準かと問われれば定かではない。強いて応えるとすれば、それは当代の「目」であった。桔華も、祖母廉の目で、新しい「桜花」を襲名することになった。そろそろ10年になる。

 最上桜花の実力は、先代の見込んだ通りだった。そもそも、室町期以降、桜花流の継承者は水面下に潜ってしまったような状態であったのだが、明治に入って、先代北条桜花が歌壇にて再評価の流れを作った。著しい西洋化の時代の中で、古来の日本文化が再評価されるという背景も大いに絡んでいたことにも由来する。それを受け継いだのが、最上桜花だ。正岡子規以来、俳句が歌よみの主流であり、短歌は上流階級のたしなみものという印象が持たれた時期もあったのだが、桜花とちょうど同じころ、与謝野某という女流歌人が色艶のある歌集を発表したりして話題となった。文明開化の波は封建社会の中に抑圧されて生きてきた女性の「解放」にも及び始める。桜花は、若くして家を出て女一人で日本中を歩き、当時男社会とされた歌壇会でも異彩を放つような作品を発表したし、また、社会の構造に対しても臆せずにものを言えるような女性であった。桜花が世間に認知されるのは、その言葉の含蓄にあるのだと古巻は思っている。今の生活を壊せというでない、過去を否定しろというのではない、「あなた自身が変わりなさい」と穏やかに自立を促す語りかけ。そしてそれは、彼女自身の経験に裏打ちされているからこそ、説得力を持つのだろう。それが彼女自身のどんな過去からきた話なのかはわからないが、まあそれでも、文壇だけではなくて、今を生きる女性たちの羨望ともなりつつあるこの不思議な主のことは、名実ともに兼ね備えた実力ある人間なのだと古巻は考えている。しかしそれはあくまで客観的な話であって、古巻個人の感情とはまた別のところにある話ではあるのだが。

 さて、そんな主は、表通りを一つ裏手に入って、バラック街を進み、その中央に開かれた小さな広場のようなところに歩みついた。
 古巻を促し、荷物を降ろさせる。表通りと違い、小さな長屋がいくつも連なって日の当たりも悪く、何よりも異臭がする。いったいここはなんだというのか。 

「선생님(ソンセンニム)」
「선생님이 왔다 (ソンセンニムが来た)」

 家とも小屋ともつかぬ建物から、ぞろぞろと人が集まってきた。
 身なりは、よくない。皆、辛うじて衣住を保持しているという状態だ。
 古巻は状況が理解できずに身構え、息を飲んだ。それにしても目の前の桜花は何やら腕まくりをしている。

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2012/07/02(月)
4、田園都市、春

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