桜花往生

kanayano版日本近代史。

2010/08/10(Tue)

最後の恋人(1)



明治三十五年、冬。
 
その夜、白河川修は自室の椅子に腰掛けて音もなく降る白い雪を眺めていた。

雪が降っている情景に結びつく思い出は、白河川にとっては芳しくないものばかりであった。
 35年前の戊辰戦争。一月に開戦だったがあの時も確か雪が降っていた。雪がもたらす効果といえば彼らの鮮血をより鮮明に浮かび上がらせることだった。一面の白。一面の赤。あのコントラストは今でも克明に思い出すことができる。
 7年前、清と戦争するために釜山に赴いたときも、白河川を歓迎したのは雪であった。港は凍てついておらず、入港は難なく行われたが、その吹雪に作戦を2,3日ずらすことになってしまい、その期間、清国側も兵力を増強し、最終的には日本は清を威海衛で破ることになるが、本来の作戦で予想された敵の被害数は跳ね上がった。
 
 誰であろうと、人が死ぬのは悲しいことだ。

 陸軍卿白河川修の根底はここにある。これには彼の恩師、かの維新三傑、木戸孝允の教えも咬んでいるものであるが、明治という近代国家を成しうるには必要不可欠な感情であると白河川は考えていた。国は、人がつくる。時代を動かすのは、人だ。60年近く生きてきて、その言葉の信憑性は確かなものと確信した。自身も身をもって体感している。
 
 あのひとが死んだのも、雪の日だった。
 あのひとは誰にも見取られずに一人で逝った。いや、誰かに見取られることを嫌ったのかもしれない。

 彼女の、日本人には無い特有の青い目や、錦糸のような金髪、すでに体温を失い、透き通るような白となっていたその肌をこの腕で抱いたとき、足の裏を通して伝わったあの雪の冷たさはこの世のものとは思えなかった。庭の雪化粧の桜の木下で、白河川は思った。


―――きれいだ。


 彼女は32歳で、白河川より4つ年下だった。あまりにも早すぎる死だった。

「白河川さん」

 声のした方を振り向くと、白河川の身の回りの世話をしている女性が扉に立っていた。

「すみません、ノックはしたのですが」
「いえ、どうしました、眞子さん」

 白河川と山城眞子の付き合いは瓦解の折からの古いものである。ただし、初めから順風な付き合いから始まったわけではない。白河川は官軍、眞子は女だてらに幕軍の一人であった。

「黒澤中尉が」

 白河川は立ち上がると、眞子に先導され玄関へと急いだ。

 黒澤周吾は白河川が目をかけている軍人の一人である。5年前に、白河川が上海に行ったときに接待をしたのが縁で、黒澤とは今でも親交が続いていた。白河川は元帥でありながら下士官将校達に気楽に話しかけ、彼らもよく白河川を慕っている。ただ大将の椅子にふんぞり返っている連中はこうはいかない。

 眞子が応接間のドアをあけると、黒澤は振り返った。その腕の中に何か白いものをもっていた。

「閣下、無礼を承知で参りました。どうか、どうか助けてください」

 白いものの正体は、布に包まれた赤ん坊であった。見ると額から出血がある。なのに赤ん坊は泣きもせず、ただぜいぜいと喘ぐばかりである。

「眞子さん、すぐに勝呂さんのところへ」

 眞子はうなずき、黒澤から赤ん坊を託されると、さっとドアの向こうに姿を消した。勝呂というのは、近くで小さな医院を開いている開業医だ。本来なら帝国大学勤務の業績すら持つ傑人なのだが、「ひとりひとり目の届くほうがよい」と甘んじて下町暮らしをしている。お互い、似たところもあったりで、たまに飲んだりする気の会った仲間のようなものであった。
 
 白河川はその真意を諮ろうと黒澤を振り返った。すると黒澤が先に口を開いた。

「一緒に、来ていただけませんか」

 黒澤の懇願の目は、焦りと焦燥が入り混じっていた。
スポンサーサイト
web拍手 by FC2
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
2010/08/10(Tue)

最後の恋人(2)




 雪はわたしによい知らせを運んでこない。

 白河川は黒澤の運転する車の助手席でぼんやりとそんなことを考えていた。黒澤が白河川と以前あったのは約一年前。今日は一年ぶりの再会だというのにそれを慈しむ間もなく、何かよくないことが始まりそうな渦中に飲み込まれた気がしてならないのだ。それはもちろん黒澤自身が望んだものではなく、白河川が画策していたわけでもない。いうなれば時代が我々を召喚したとでも言えば表現がよいだろうか。これから何が始まるのしても、きっとそれを回避することはできないし、苦難無く終えることは不可能であろう。車の窓から見える横に線を引く吹雪に、言い様も無い不快感を覚えながら先の見えない将来に希望を持つにはいったいどうしたらよいものだろうと必死で考えている自分に気付き、「我ながら卑しいものだ」と自嘲した。
 街の電燈がリズムよく通り過ぎ、レンガ造りの建物の通りを向けると、大きな屋敷が立ち並ぶいわば高級な住宅街が姿を見せた。その奥の一角に少しだけ離れた家があって、門の前まで来ると黒澤は車を止め、ライトを消した。
 白河川も助手席から降り、黒澤に少し遅れてドアを閉め、強い風にコートを引っ張られながらその門に向かった。足はある程度積もった雪を踏みしめ、「ぎゅ」っとなる。

 うまく前が見えない。暗闇と、吹雪がその視界の幅を狭めた。
 門は開いていた。おそらく黒澤自身が出てくるときに閉めずに出たのだろう。
 
 黒澤に促されるままに門を入り、屋敷に向かうと、ついているはずの明かりはどの部屋からも漏れることが無く、闇の中にあった。さらに近づくと、白河川はその屋敷の異変に気がついた。
 
 窓ガラスが割れている。
 
 それも一つ二つではない。飛び飛びではあるが、かなりの数が明らかに内側から割られていた。

「盗人にしてはおかしな行為ですね」

 割られたガラスをみながら、吹雪の中前方を歩く黒澤に声をかけると、

「そのほうがまだ、私も手のつけようがあるのですが」

 と、その歩幅を広げた。と、そのときさらにガラスの割れる音がした。

―――女性の声?

 確かに聞こえた。喚くような嘆くような、少なくともその女性が正気を保っているようには到底思えなかった。
 黒澤がドアを開けようとした瞬間、内側からドアが開いた。

「だ、旦那様!」

 おそらく使用人だろう。女であったが、声が先ほどのものとは違った。

「大丈夫か、らくはどうなった」
「も、申し訳ありません、旦那様に言われた通り、奥様を落ち着きなされますようお努めいたしましたが・・・」

 使用人も相当格闘したのか、意気が上がっているのがわかった。白河川は惨状となっている屋敷の中に入った。直に降りかかっていた吹雪から耳から開放されたので、暗闇の玄関はひどく静かに感じられた。しかしそれは一瞬の感想で、すぐに見えない廊下の闇の中から先ほどの女の声がした。

 とりあえず音のほうに足を向けた。またガラスの割れる音がした。近くなってきたのか、女以外に男の声も聞こえた。白河川は視界の利かないその空間の中で、自らの五感を頼りに目標を探った。廊下の奥の階段を上ると、急に冷風に吹かれた。割れた窓から雪が舞い込んでいる。

 どさっと音がした。足元に人が倒れている。

 白河川は反射的にその人物を抱え起こした。男だ。男は少しうめいた後、「奥様」とつぶやいて、前を見やり、立ち上がろうとした。

「怪我をなさっています、無理ですよ」
「しかし奥様が」

 びゅう、とまた風が吹いて白河川は思わず目を瞑った。そして声を聞いた。


――――……さない。


 さっきの女の声だ。白河川はゆっくりと目を開けた。
 がしゃん、と音がして、また窓ガラスが割れた。外から吹いてくる風と、そのガラスを身に纏うような形で、その女は白河川の目の前に現れた。
 白い瓜実形のきれいな顔立ちが、一層その女を不気味に演出した。

「ゆ、る、さない」

 女はふらふらとこちらに向かってきた。素手でガラスを破っているからか、両腕、特に右腕からかなりの出血をしていることが確認できた。と、いうのも、暗闇中で白い雪が適当な明かりの代わりとなり、鮮明な赤を浮き立たせていた。

 また雪が、こうして苦しむ人を白河川に立ち合わせたのだ。

「らく」

 白河川の後を追ってきた黒澤が女の名前を呼んだ。女は顔を引きつらせ、廊下の飾り物の壷を黒澤に向かって投げつけた。

「きゃあ」

 難なくかわした黒澤の後ろで壷は粉々になり、後ろでさっきの使用人の女が声を上げた。
 女の左手には、刃渡り3寸ほどの短刀が握られていた。

「だめだ黒澤君、下がるんだ」

 白河川が叫ぶや否や、女は黒澤に短刀を突きつけてきた。本当なら男と女、しかも黒澤にいたっては軍人である。勝負は見えているものであるが、女は常識はずれの力で黒澤を圧倒している。白河川は自分の腕の中にいた満身創痍の男を使用人の女に頼み、立ち上がった。

「ゆるさない……ゆるさない……!」

女はなおも黒澤に襲い掛かる。その表情は確かに殺意に満ちていた。そこらじゅうに落ちているものを黒澤に投げつけ、自らは短刀を振り上げ、黒澤を襲う。かろうじて抵抗している黒澤も、相手があいてだけに反撃できずにいる。
 割れた窓から吹雪が女を襲った。女は一瞬動きを止め、その瞬間を白河川は見逃さなかった。白河川は女が振り上げた左の腕を掴んだ。女は一瞬ひるみ、その隙に白河川は脊髄の頭を叩き、一時的に脳と体の動きを遮断した。
 女はその場に蹲った。ぜいぜいと苦しそうに喘いでいる。

「らく……」

 黒澤がそうつぶやくと女は朦朧とした意識のなかで明らかに黒澤に敵意を示した。しかし体が言うことを利かない。女はさらに辛そうに喘いだ。呼吸が正常でない。
 白河川は女に自分の吐いた息を吸わせるように自分の手で女の口を塞いだ。

「大丈夫、ここにはあなたを傷つけるものは何もありませんよ」

 女は抵抗した。

「怖くない」

 女はさらに抵抗した。

「怖くない」

 女の、抵抗する力が弱くなった。

「ほら、私の言ったことは本当だったでしょう」

 女の呼吸がだんだん元に戻り始めた。やがて静かになると、女はそのまま気を失った。
 女の手から、短刀が落ち、からんとなった。
 
 割れた窓から冷たい風が吹き込んでくる。
 睫を伏せた女の顔は、まるで少女のそれのようだった。
web拍手 by FC2
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
2010/08/10(Tue)

最後の恋人(3)



***


 女は、すぐに勝呂のもとへと運ばれた。
 手当を終えると、女をベットに寝かせつけた。二人の使用人も軽い手当てを受けると、勝呂や白河川に丁寧に礼を言い、帰宅の途についた。これらの手当てをしたのは勝呂の妻であるしづである。勝呂はまださっき眞子が連れてきた赤ん坊の治療をしているとしづは告げた。

「輝也は助かるでしょうか」

 黒澤は力なくしづに問うた。

「ええ、親が子の無事を信用しなくてどうするのです、しっかりなさって」

 しづはそういって黒澤に声をかけた。
 白河川はというと、腕を組み相変わらず降りしきる雪を見ている。そして思いついたように言った。

「きれいなご内儀ですね、黒澤君」

 そこにいた黒澤もしづも、いきなりの白河川の話題に少し戸惑いを見せつつも、

「ありがとうございます」

と少々照れ気味に頭を掻きながらはにかんで、視線をずらした。

「失礼ですが、御年は?」
「今年で、確か18になります」
「まあ、お若いのね!」

といって素直に驚いたのはしづだった。白河川は女の寝顔を見た。先ほどの暗闇の中で見た印象より、ずっと幼く見えたのは黒澤に年齢を聞かされたせいだろう。

「あの子は……」
「輝也ですか。あれはそろそろ1歳になるくらいです」

 そうですか、といって白河川は近くにあった椅子に腰を下ろした。ベットの隣の机には、おそらくしづが誂えたものだろう花瓶に花が生けてあった。しづは黒澤にも椅子を勧め、隣の部屋から茶を運んできて二人に出し、自らは退室した。

「わたしは、らくが輝也を身篭ったと知って、身請けしたんです」

 どこから切り出していいのか分からないのですが、と前置きをして、黒澤は語り始めた。

「らくは新橋の芸者でした。大陸生まれだそうですが、8つのときに売られて日本に来たのだそうです。そして置屋での生活が始まった」

 白河川は黙って聞いていた。

「初めてであったのは確か3年前で、私が台湾から一時帰国したのを上官が労いのために新橋に連れ出したのが縁でした。らくはまだお付をしていましたが、その、」

 黒澤はそこでいったん言葉を区切って、

「わたしが、一目惚れしました」

と、恥ずかしそうに少し小さな声で言った。

「半年、日本にいたのですが、その間もわたしはらくのことを忘れることができずに、何度も新橋を訪ねようとしました。しかし、どうしても一人で行く勇気が無くて」
「おや」
「虚勢だけは一人前なのですが、どうにも小心者で」

 白河川は目で笑った。

「ああいう場所に部下を連れて行くのもなんとも気が引けましたので、舎人少佐に御随行賜ったんです」

 ここで意外な人物の名前が出た。舎人耕三郎。白河川のよく知る人物である。

 陸大出の天保銭組。さきの日清戦争では清王朝内においての講和会議の草案作成に従事したり、その才能を買われて高級参謀や政府高官とも付き合いのある、白河川の知る限りにおいて若手一番のホープであった。白河川自身が、舎人のその才能を見出したといってもよい。元皇室付きの侍従教育官舎人左右吉を祖父に持つ、家柄も毛並みも非の打ち所の無いような好青年だった。

「よく、舎人が了承しましたね?」

 舎人が5年も前に所帯を持っていることを白河川は知っていた。

「直接ではないのです。舎人少佐の所属の師団長が、どこかいい場所を探していると少佐にお聞きしましたので」
「ああ、それで」

 黒澤は少し狼狽した。

「その夜は師団長がらくを夜ともに過ごしたいと言い出しました。どうやらわたしにばかりかまっているのが気に入らなかったのか、強引に連れて行こうとするのでらくも嫌がっておりました。相手は上官ですし、わたしも強いことがいえませんでした。向こうは向こうで『少尉ふぜいがこの儂に意見するか!』という始末なのです。こうなったらわたしも除隊覚悟で意見しようと心に決めました。言葉を口にしようとしたときでした。」

―――その方、嫌がっているではありませんか。

「ゆっくりと、一人で飲んでいた舎人少佐が、緩やかな口調で師団長にそういいました。もちろん師団長も言い返します」

―――舎人、貴様人の行楽に文句つけるか!
―――いえ、わたしは閣下のために上奏しているのです。

「おそらく、師団長も舎人中佐の言葉で酔いが冷めたのでしょう。帰る、と一言残してらくを掴んでいた手を放し、その場を去りました。やれやれといった調子で舎人さんも立ち上がると、そっとわたしに言いました。」

―――実は賞に勝ります。ここで貴方を失うのはあまりに惜しい。

「舎人少佐はそういい残して師団長の後を追いました。その後は、女将がまた仕切りなおしてくださって宴会再開となりましたが、たいてい舎人中佐の話題で持ちきりでしたね」
「彼らしい」
「そうでしょう。わたしもそれ以来少佐にはいろいろお世話になるようになりました。台湾から支那に移ってからも彼に助言を求めたり、こちらにいらっしゃると聞いたときは家に招いたりしました。舎人少佐はわたしの憧れの人です。しかし、やはり事はうまくいかないもの」

 嬉々として舎人のことを話していた黒澤の語調が、重くなった。

「あの一件以来、らくは舎人少佐を思い続けていました」

 白河川は黒澤の顔を見た。うつむき加減に下を向き、それかららくの顔を見ながら話を続けた。

「ようやく一人でらくの元に通うようになったのが2年前です。わたしは、らくの少佐に対する思いを知りながららくと逢瀬を続けました。これがらくの仕事と分かっていても、わたしはらくの優しさがうれしかった」
「そして、彼女は子を宿した」

 黒澤は辛そうに頷いた。

「それがわかって、また支那から帰ってきて……。わたしは正式にらくに身請けしたいと切り出しました。そして一緒になろうと」


―――ありがとうございます。らくは本当に、幸せ者でございます・・・



 そこまで言い終えると、黒澤は黙り込んだ。白河川はそのらくの言葉に偽りは無かったように感じた。むしろ本心から出た言葉であると。しかしそうだとすると残る疑問は、「許さない」と夫に殺意すら持ってしまったらくの心情である。

「輝也が生まれて、しばらくはわたしたちは普通の幸せな家族でした。しかし次第に、らくの様子がおかしくなってきたのです」
「おかしくなってきたとは」
「夜中に急に奇声を発したり、物にあたったり。初めは極軽い症状だったのですが、だんだんそれが激しくなってきて……。しかし、この異常な状態である時の記憶がらくには無いのです。目が覚めればいつもの彼女に戻ります。舎人中佐への強い思いが、彼女に行動させているのだと思います。わたしのせいです。わたしが、強引に彼女を身請けしたから……」

 黒澤は膝の上で拳を強く握った。

 窓の外を見た。雪はちらほらと舞う程度にまで止んでいた。
 眞子が寝室の扉を開けた。ほっとした顔で「無事、手術が終わったみたいです」と告げた。
web拍手 by FC2
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
2010/08/10(Tue)

最後の恋人(4)



***


「気がついたかい」

 らくがゆっくりと目を開けると、そこには見慣れた顔があった。

「あなた……」
「いや、まだ無理に体を起こさないほうがいい。体に障るよ」

 夫の、そんな気遣いがうれしくて、らくはその助言に従うことにした。

「いつ、お帰りになられたのですか」

自分が帰宅した記憶も無いらしい。

「2日前だよ。しばらくこっちにいられる」
「そうですか」

 そういって、らくは微笑んだ。

 らくの意識が戻ったのは、担ぎ込まれてから一日過ぎたお昼過ぎの事だった。
 黒澤はまず軍に帰隊を報告しに一回陸軍省に顔を出したあと、すぐに戻り、らくの近くにずっと付き添っていた。しづが気を使って「かわりましょうか」と申し出たが、黒澤は自分の妻だから、と丁寧に断った。

「輝也は」

 らくは自分の子供の名前を口にした。

「輝也はどこですか」

 今はまだ、傷ついているわが子を見せるのは得策ではないと考えた黒澤は、

「ああ、少し体調を崩していてね。隣の部屋でしづさんが看ていてくれているよ」

 といって誤魔化した。
 そう、といってらくは天井を見た。

「とても、怖い夢を見ました」
「夢?」
「あなたを、殺したいと思う夢」

 黒澤はどきりとした。らくがこうしてあの事実に自ら触れたのは初めてだった。

「どうしようもなかった。成す術も無く、彼女に従うしかなかった」
「彼女、とは」

 らくはすぐには答えなかった。言葉を捜しているようだった。

「らく」

 黒澤は、自分の妻の名前を呼んだ。

「すまない」

 そして、頭を下げた。
 驚いたらくはゆっくりと上半身を起こし、黒澤に

「どうしてです、どうしてあなたが謝るのです」

と問い詰めた。

「君は、わたしと一緒になるべきではなかったのかもしれないな」

らくは辛そうな顔をした。

「愛しています」

 絞り出すように、微かな声で黒澤にいう。

「愛しているよ」

 なんだか無性に、悲しい気持ちだった。お互いの気持ちが真実だからこそ、お互いの幸せを願うように、ただただ、ひたすら悲しい気持ちになった。
 黒澤は、らくの頭を抱いた。

「日ごとに、自分が壊れていくのが分かります」

 らくは、その瞳に涙を浮かべながら言った。黒澤の胸の中で小刻みに震えていた。

「もう一人の私が、異常なほどにあなたを憎んでいる」

 黒澤は黙ってうなずいた。

「憎まれて、当然だ。君はコウさん・・・いや舎人少佐を」
「いわないで」

 らくが言葉をさえぎった。

「私はあなたをお慕いして一緒になったのです。耕三郎様は関係ありません」

 らくが、黒沢に懇願するように、その胸に強く顔をこすり付けた。黒澤もらくの頭に口付けて、さらに強く抱いた。

「私の、片思いなんだよ、らく」
「愛していますわ」
「らく」
「私を」

 お互いに唇を探り合う。息がもつれ、苦しくなってはなれて、近いところで目が合った。らくは黒澤の耳たぶを口に軽く含み、そこで囁いた。


―――殺してくださいませ。


 黒澤は驚いてらくの顔を見た。らくも辛そうな顔をして、もう一度、同じことを言った。

「もう一人の私は、どんどん私を駆逐していく。いずれ、私は私でなくなる」

 そうなる前に。らくは黒澤の手をとって、自分の首に持ってきた。

「何をする、やめるんだ」

 黒澤はその手を払って、らくの小さな体を抱いた。

「あなたを愛しているからこそ、その愛故、私の憎しみは深く深く、あなたへの殺意に変わるのです」
「いいんだ、憎みたいだけ憎めばいい。殺したいなら狙えばいい。君にはその資格がある」
「あなたを、失いたくありません」
「俺は死なない」
「本当に?」
「本当さ」

 二人は唇を重ねた。深く深く、息が止まるほどに、真実を確かめ合うように。

「あなたが向こうに赴任して、寂しくて、どうしようもなくなるときがありました」


――そんなときに、あろうことかわたしは耕三郎様のことを思い出してしまうのです。


「愚かなのはわたしです。わたしは、同時に二人の人を愛してしまった」

 泣きじゃくりながら、らくは続けた。

「ねえ黒澤様。こんな最低の女でもよろしいのですか。わたしのような酷女でも、あなたは妻として望んでくださるのですか」

 黒澤自身も、自分の涙を見たのは久しぶりだった。腕の中のらくはひどく弱弱しく感じた。ああ、自分は本当にこの人を愛しているのだと知った。

「君がたとえ俺を忘れようとも、どれだけ憎もうとも、俺は君だけを愛しているよ。だから心配しなくていい。いつまでも待ってるから」


 最期の瞬間まで、信じているから。
 だから、いつか本当の意味で夫婦になろう。


 らくは静かに「はい」といって目を閉じた。

 

***



 それから半年が経過したころ、眞子が黒澤の執務室を訪ねた。

「白河川さんに頼まれて御家に伺ったのですが、ご不在でしたので」

 黒澤は眞子の来訪を労い、応接間のソファーに座るように勧めた。

「ええ、今あの家には誰も住んでいませんから」
「そうなのですか」

 では、どちらに、そう眞子が問うと、

「今は軍の宿舎に住まわせてもらっています」
「らくさんや、輝也君も?」

 黒澤は、微笑したまま言葉を止めた。
 眞子は白河川の用件を話すことにした。

「らくさんのご様子を伺ってくるようにと、仰せ使いまして。あまり芳しくないようならこれを置いてこいといわれました」

 そういって、薄紫色の風呂敷の中から、2、3の薬瓶を取り出した。
 あいかわらず、黒澤は黙ったままである。

「黒澤君?」
「らくは、いないのです」
「え?」
「一ヶ月ほど前でしたでしょうか。わたしが帰宅したら輝也とともに姿を消していました」


***


 すべては、ここから始まる。
 黒澤とらくが再会するのは、約十年後のこととなる。
web拍手 by FC2
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
2010/08/10(Tue)

北条古巻(1)

 

 東京と京都が鉄道で結ばれたのは明治22(1889)年のことであるが、この二つの都市間を9時間と24分でつなぐ主要な幹線となった。京都駅では連日東京駅にも匹敵するような数の人がこの駅を利用している。

明治43年。その京都駅に、姉に伴われた非常に不機嫌な少年がいる。

 少年は名前を北条古巻。7つ年上の姉であるゆゑに背負われてプラットフォームにいた。母は来ていなかった。父はもっと先のほうで「誰か」の帰りを心待ちにしていた。古巻はゆゑに「おりる」とせがみ、絶対に姉のそばを離れないことを条件に下に下ろしてもらった。その右手は、しっかりと姉につながれている。
 
 古巻の父、古月は、一代で大きな商社を立ち上げた、いわゆる「財閥」の勃興者であり、貿易を兼業する日本の経済界を担う一人である。奉公していた豆腐屋を継いで、それを以外にも醤油や塩といった製品に次々と着手し、それで培った運輸力を貿易事業に拡大して、三井や古河に引けを取らない巨大な企業に成長していた。

 古巻はそんな古月の長男として1904(明治37年)に生まれた。母の名前は篠。長女、ゆゑが女であったため、待望の男児誕生であった。古月は

「こいつはいつかこの国に旋風を巻きおこすんや」

といって古巻と名づけた。

 古巻は今すぐに帰りたい気持ちでいっぱいだった。父に対して怒りの気持ちを抱いていた。なぜ父はここにいるのか。なぜ母を家に残してきたのか。古巻は見た。母、篠はつらそうな顔をしていた。どうして母はあんな顔をしていたのか。分からないけど、だったらなんで父はそんな母親を一人残してここにきたのか。久しぶりに大陸から帰ってきて、母よりも大事なものとは何なのか。自分はそれも許せない。
 今すぐ母のところに帰りたかった。古巻はゆゑの手を両手で引っ張って、「帰ろうよ」といってみた。ゆゑは曖昧な表情をして微笑んだ。ゆゑには古巻の気持ちも、父、古月の気持ちも理解できた。今日、ここに帰ってくる人物のことも知っていた。ゆゑは寂しそうな目で父のほうを見た。父は「誰か」の到着を今か今かと待ちわびているようだった。
 汽笛の音と同時に、黒い、どっしりと重量感のある体躯の汽車が、むせるような量の黒煙とともにプラットフォームに滑り込んできた。12両編成で東京から京都までを結ぶ快速便だ。やがて扉が開き、ゆったりと乗客が降り始めた。
 古月も目的の人物を探しているようである。古巻は倦厭の目を父に向けた。父のほうはそんな息子にまったく気付くことも無く、年がいなく身を乗り出して待ちわびている。最後のほうになって、両手いっぱいの荷物とともに降りてきた若い女が見えた。女はまだこちらに気づいた様子はなかったが、古月がそれを確認すると、ゆっくりと女のほうに歩み寄った。
 女は古月に気がついたらしく、大荷物を降ろし、それに掛けていた手をいったん休めると、古月のほうに顔を向けた。
 ふわり、とその場が華やいだような気がした。。やわらかい空気が女の周りにだけ存在しているようだった。古巻はなんだか女のことが悪いようには思えなくなって戸惑った。しかし、すぐに母親の顔を思い出して顔を顰めた。
 年の頃は古月と同じくらいか、少し若いくらいである。30前後かもしれない。

「桔華」

 女の一歩手前でたちどまった古月が、親しげに話しかけた。ゆゑも、顰め面の古巻をつれて父の後ろに従った。

「元気そうで何よりや」

 女――桔華の言葉を待たずに、古月が次の言葉を口にした。
 ふと、桔華の頬も緩み、俄かに、しかし力なく微笑んだ。

「ただいま戻りました。古月さん、ゆゑさん」
「桔華姉さん、お疲れでしょう、でも桜花様も姉さんに会えるのを楽しみにしています」

 古巻はやはり、この女に何か違和感を覚えた。

「ゆゑ、ちゃうやろ、今の桜花は桔華のことや」
「まあ、父上ったら。たった今自分で姉さんの名前を呼んだではありませんか」

 桔華は微笑んだままである。その顔を、ゆゑの後ろにしがみついたまま古巻はじっと見つめていた。

「では、桜花様のことはなんとお呼びすればよいのです?」
「『先代様』や。のう、新しい桜花様」

 古月が話題を桔華に振ったところで、古月もようやく、古巻の存在を思い出したらしく、嫌がる古巻をぱっと抱き上げて、

「長男の古巻や。おまえが帰ってきたら一番に紹介したかったよ」

そういって、顔を綻ばせた。

 桔華のほうは「桔華です」と名乗り、古巻に手を差し伸べたが、古巻はそれを力いっぱい振り払って、その衝撃に乗って父の腕から開放された。そして駅の出口に向かって全速力で走り出した。後ろで古巻を呼ぶ声がしたが、気にも留めなかった。気がつくと、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだった。ゆゑがすぐに後ろから追いかけたが、生来病弱な彼女は、追いつくことができずにすぐに古巻を見失ってしまった。

「なんやなんや」

ようやくプラットフォームの入り口までやってきた古月は、突然の息子の反発に怪訝なそぶりを見せた。ゆゑはそこで苦しそうに息を弾ませていた。

「大丈夫ですか、ゆゑさん」

 桔華がいたわりの声をかけた。そしてその場に蹲っていたゆゑに手を貸して立たせると、ゆゑは桔華の耳元で「ごめんなさい」と呟いた。すると桔華は、

「それはこちらの方です」

と謝辞を述べた。疑問の視線をゆゑが桔華に送れば、

「あの子には、何か見えてしまったのかもしれませんね」

とぽそりとひとりごちて、今日はじめて寂しそうな目をした。
web拍手 by FC2
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
2010/08/10(Tue)

北条古巻(2)



「桜花」とは、短歌「桜花流」を受け継ぐものに与えられる、相伝名である。
 
 平安時代中期、国風文化の時代に出た、橘氏の桜花を発端として、代々弟子にその名前が受け継がれてきた。桔華はその38代目を8年前に継いだ。
 
 37代目の桜花――つまり桔華の先代にあたる桜花は、室町以来300年水面下に潜っていた「桜花」の存在を世に蘇らせた実力者で、明治後期、文学の勃興のなかで、短歌同人誌「のはら」の主催にあたって各界の賞賛を受けた。先代は桔華にとっては祖母にあたる。高齢のため部屋から出られない生活をしているが、その人柄と、現役時代の人脈から、一線を遠のいた今でも、先代最上桜花を訪ねる人間は多い。
 
 先代、北条桜花は本名を廉、という。廉は21のときに古月の祖父に当たる北条華王と結婚し、3男2女をもうけたが、徳川瓦解の際に幕府側についた長男と3男が死亡、長女も病気で死亡しているので、桔華は廉からすれば二女の娘ということになり、桔華と古月は同じ祖父母を持った従兄妹ということになる。


***


 どのくらい走っただろうか。古巻は気がつくとよく見知った場所にいた。

 古巻の自宅からすぐ近くにある友人の家・・・大きな日本風の家と、その門の中に見知った顔を見つけた。

「古巻さん?どうしたのです!」

 顔を真っ赤にして走りこんできた古巻を見て、その少女は驚きの声を上げた。

 古巻はそのまま少女の胸に飛び込んで嗚咽を繰り返した。少女の絣の着物が古巻の涙に濡れていく。古巻は必死で何かを伝えようとするのだけれど、涙と定まらない呼吸が邪魔してうまく表現することが出来ない。

「孝子、どうかしたのか」

 すると奥から少女の父親がやってきた。一緒に、古巻と同じくらいの男の子が走ってくる。古巻は、このどちらの顔も知っていた。

「たくま」

 自分のほうに近づいてきた男の子にそう呼びかけると、男の子のほうも「こまき、どうしたの」といって手を出した。

「おかあさんが、ないてるの、おとうさんは、ちがう」
「ちがう?」
「おとうさんは、きっかだから」

 ようやく落ち着きを取り戻し始めた古巻は、少女――孝子の胸から埋めていた顔を上げ、その父親の顔を見た。

「コウのおじさん」
「うん、よくきたね、古巻君。お父さんがどうかしたのかい」

 そういうと、『コウのおじさん』は古巻を抱き上げた。

「孝子、拓真、すまないが北条のところまでいってこのことを伝えてきてくれないかな、きっと心配しているだろうから」

 二人ははっきりと「はい」というと、孝子は拓真に「いこう」といって手をとって門の向こうへ駆けていった。

 『コウのおじさん』は、しゃがんで古巻に視線を合わせながら話しかけた。

「今日は彼女の帰ってくる日だね。あの人にはあったのかな?」

 古巻は頷いて返事をした。

「そうか。篠さんは、一緒には行かなかったんだね」

 古巻はさっきと同じように頷いた。一回、袖で涙を拭った。

「お父さんは、お母さんを、つれていかなかった。お母さんも、一緒に行こうとしなかったんだよ」

『コウのおじさん』は優しく微笑んでいた。とても柔らかで、そしてどこか悲しい顔だった。古巻は父、古月よりもコウのおじさんがお父さんだったらどんなにいいだろうと思った。

「父上」

 ふと後ろから孝子の声がして後ろを向くと、そこには古巻の母の姿があった。

「ああ、篠さん」
「申し訳ありません、舎人さん、この子が」

 そういうと、篠は淑やかに一礼をした。その一挙動には、はっとするような眩しさがある。

「ほら、よかったね古巻君、お母さんが迎えに来てくださったよ」

 古巻はじっと『コウのおじさん』――舎人の方を見、それから母のほうへ駆け寄った。母はいいにおいがする。
古巻は篠が大好きだった。

「どうやら、一人で帰ってきたらしいのですよ」
「まあ、どうして・・・」
「立ち話もなんですし、どうぞ」

 舎人は自らの家に、篠と古巻を招き入れた。
web拍手 by FC2
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
2010/08/10(Tue)

北条古巻(3)




 門を入り、手入れされた松や鯉の泳ぐ池を左右に見ながら、奥まったところにようやく玄関を見つけることが出来た。北条家は古月の代より流行りだした洋式の屋敷に住んでいるが、古巻としてはこっちの方が居心地がいい。

 春である。
 緑のにおいがひどく心地がよい。

 玄関をくぐり、耕三郎先導に篠、古巻、そしてその後ろに孝子と拓真が続いている。応接間につながる曲がり角で、孝子が前に出て、部屋の障子戸を開けた。

「今、お茶をお持ちいたします」

 そういって篠に頭を下げて、孝子は廊下の奥に消えた。古巻がぼうっと母の後ろで見ていると、

「せっかく来てもらったのなら、拓真、古巻君にあれを見せてあげたらどうかな」

 と父が言ったので、拓真はうれしそうに「はい」といって古巻の手を引いた。古巻が篠をみると、にわかに眼が緩んだのを見て行ってもいいんだと理解した。うれしかった。
 耕三郎は篠に席を進めると、自らも向かい側に腰を下ろした。畳のにおいがする。行き届いた部屋の管理。

「今、使用人が外出していまして」

 娘の孝子がお茶と菓子を運んできたので、耕三郎はそういって娘の至らなさをわびた。

「いえ、いつもながら感心いたします。とてもしっかりされたお嬢様で」

 孝子は、一礼してその部屋を去った。

「気が強くて男勝りで。あれでは嫁の貰い手もありませんね」
「そうでしょうか」

 耕三郎の家には、実質、長女孝子と長男の拓真だけが住んでいる
 奉公として働いている使用人の夫婦は、家のことをさまざまに手伝ってくれているが、実質この家を預かっているのは長女の孝子。
 耕三郎の妻、つまり孝子、拓真の母に当たる人物は、今から3年前に他界している。
 名前を朝重(ともえ)、といった。

 ふと、孝子が喧しい声を上げた。

「拓真!古巻さん!降りていらっしゃい」

 庭に出ると、桜の木の下で上に向かって叫んでいる孝子がいた。

「父上!拓真と古巻さんが」

 喧騒の孝子のいるところまでやってきて上を見ると、

「古巻に、あれをみせてあげるのです」

 と、上から声が降ってきた。木の上には、慣れた手つきでするすると上がっていき、途中で後ろを振り返り古巻に手を貸し、安定した場所へ誘導している拓真の姿があった。

 拓真の首には、真新しい双眼鏡が掛けられている。

「父上、何か言ってやってください!拓真!!」

 いつ弟が、そしてその幼馴染が地面に叩きつけられるかと気が気でない孝子は、必死で舎人を捲くし立てた。篠も心配そうに上を見上げている。

「拓真、今日はどっちの方角に見えるか、わかるか?」
「ええと、西北西です!太陽が南より少し左側にあるから」
「父上!」
「大丈夫だよ孝子、見ていてごらん」

 耕三郎は篠の方を向いて小さくうなずいた。すると今度は古巻の声がした。

「わあ」
「一番星だよ、よく見えるでしょ?」

 双眼鏡を手に、興奮した拓真と古巻の声が木霊する。孝子も篠もあっけに取られてしまった。
 
 耕三郎は目元を緩めてその木の上を見守っている。
 篠はそんなこどもたちの無邪気な姿を眺めつつ、その瞳に一抹の感情を入り混じらせていた。
 耕三郎は、その瞳の意味を理解している。
 しかし、これはあの男の問題なのだ。自分がしゃしゃり出る幕ではないことも承知している。
web拍手 by FC2
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
2010/08/10(Tue)

北条古巻(4)



 桔華が、先代桜花であり、自らの師匠でもある廉に帰還の挨拶に上がったのはその日の夜になってからのことであった。

 時は、今から10年前に遡る。
 桔華には、3人の姉がいる。
 
 上から八重、玉津、朔子という。桔華は4人姉妹の末っ子である。
 
 もともと「桜花」の名前は血で受け継がれるものではない。その代における「桜花」門下の中から、当代が認めた者が次の代を継ぐことになっていた。古来の伝統には珍しく、実力主義の世界である。
 
 さて、この37代目最上桜花、廉には30名ほどの門下生がいた。廉は寺子屋や塾のように人を集めていたわけではなく、京都の町の隅のほうに小さな庵を結び、そこで暮らし、発句していたところに彼女を慕う人間が集まって、その技法を学んでいたわけである。したがって門下、というのは少々語弊が生じるかもしれない。斉藤可六、吉瀬嘉といった後の文学界を担うような逸材も出入りしていた。廉の世間に対する影響力は、決して弱くない。

 話を戻そう。この4姉妹のうち、玉津と桔華は幼少の頃よりこの庵に厄介になっていた。

 玉津は女流独特の繊細で優美な表現、桔華は独創的で鮮烈な印象を残すことを得意とした。玉津の作品であるが、これは雑誌に掲載されるや否や各方面から賞賛を浴び、一時は桜花後継者最有力候補であろうと噂された。その後、少し遅れて桔華の作品も掲載される。発表された直後、大して気に留められることもなかった。しかし、この平凡な歌を、当の桜花は絶賛したのである。

「珠玉ですよ」

 ゆっくりと風にあおられた砂が空へ舞い上がるように、主に玄人の世界で桔華の歌は評価されるようになっていった。玉津は民衆に、そして桔華は歌界の常連たちに、それぞれ注目株としてその実力を期待させてきていたのであった。

 しかし、故あって桔華は、最上の家を、京都を出なければならなくなった。

「桔華、この家を出なさい」

 そういったのは、祖母、桜花だった。 
 そして紙と筆をとり、何かをサラサラと書きつけ、桔華の前に置いた。


 秋雅 咲き狂いにし 世の果ての いざたちゆかん 桜花往生


 桔華が京都を出たのは、しんしんと音もなく雪が降る寒い夜であった。


***


「答えをお聞かせ願えますか」

 暗闇から投げかけられた問いに、桔華は答えた。

「歌を、詠むためならば」

 そこで一度言葉を区切ったのは、この10年で自分が得たものと失ったものが、あまりにも大きすぎたからである。

 「私は、あらゆるものを厭いません」

 言い切った桔華に、桜花はすぐに返答をよこさなかった。暗闇の中にさらに闇と静けさが落ちて、何かに押しつぶされてしまいそうだった。それは自分自身の10年の成長と、変化と、そして、断ち切ったつもりでも断ち切ることがついにかなわなかったことへの、嫌悪でもあった。それを思うと、今ここで、すぐにでも舌を噛み切って死んでしまいたいような気持ちになる。何度、そう思ったことだろう。しかし、死ぬことは一時の苦しみ、生き続けることで苦しみ続けようと決めたのもまた、自分であった。

 「精進なさい」

 桜花はそれだけ言った。桔華も一礼してその場を後にした。

 廊下にでると、突き当りの角に人の影が見えた。こちらに気が付くと、その影はふと消えた。10年ぶりに京都に戻ってきて、出迎えてくれたのは従兄妹で幼馴染の古月だけであった。それが寂しいとか辛いというのではなく、ここはもう、とっくに自分の居場所ではないのだということを意味していた。
 
 ほんのりと電灯の灯った北条家の玄関を一人で出ると、そこには着流し姿の古月がいた。

「桜花様の御話はほんに、長いもんなあ」

 月明かりに古月はにやりとして、「祇園にでもいこ」と桔華の手をとり、ずんずんと歩き出した。

「こんな時間に?篠さんは」
「できた女房やて。心配ないよ」

 童心に返ったような古月の声は、静かな屋敷通りに木霊して、大阪弁と京都弁のごちゃ混ぜになったそのしゃべり口と相まって、桔華の心に直接響いた。

 「まってください!」

 ようやく引かれた手を掴んで古月の行く手を阻んだ。古月は驚いたような顔で振り向いた。始めてまともに見たその顔は、八年前の桔華の記憶の中の古月とまったく変らなくて、ずきりとした。

 「なんや」

 屈託の無い古月の言動は、愚直なほどに自分の女心に響いていた。そんなこの人が、ずっと好きだった。

「心配無い訳ないでしょう、古月さん、久しぶりにお戻りになられたのでしょう?」
「お前が帰ってくるって聞いたんや」
「尚更です。ご家族の有る身なのです。自宅にお戻りくださいませ」
「桔華、わいがどんだけお前に会いたかったか、この日をどんなに心待ちにしておったか、お前にはわからへんやろ」
「お戻りくださいませ!」

 思わず強く言ってしまって、桔華ははっとした。しまったと思った。本当は自分もとても会いたかった。古月の気持ちも痛いほど分かる。幼い時分から少なくない時間を、時には濃密な時間を共有してきたお互いの気持ちが、分からないはずなどない。まっすぐな物言いしか出来ないこの人は、当然のようにまっすぐと傷ついてしまう。

 しかたがないのだ。私たちは、

「もう、会いたくありません」
「なんや」
「所詮、私とあなたは同じ祖母を持つ従兄妹なのです」

 それは、自分に言い聞かせるために出た言葉だったのかもしれない。それは世間的に認められることの無い自分の感情に、区切りをつけられると思ったからであった。
 その考えは甘かった。自分に厳しくすればするほど、言い訳すればするほど、会えない時間の長いほどに、どうにもならなくなっている自分がいて、失望した。
 
 いっそ、篠が自分を正面から恨んでくれたら、もっと楽だったかもしれない。
 
 しかし篠は非常すぎるほどに優しかった。やがて二人の間にゆゑが生まれても、五つ年下の彼女は、自分を姉のように慕い、そのたおやかな振る舞いは女の自分にもはっとするようであった。自身の中の罪の意識が徐々に膨れ上がっていくのは明白だった。それでも正直な気持ちに抗えなかった。

 幼い頃より、最上の家の中で、当代の血を引きながらも妾腹の桔華は、ほぼ使用人同然の扱いを受けた。途中で才を見出してくれた先代桜花と、従兄妹の古月だけが、桔華に居場所を与えた。

「近いうちに、東京に移ろうと思います」

 古月は、桔華の手を握ったまま聞いていた。

「知り合いも出来ましたし、ほとんど場所も決めているんです」

 口を開こうとした古月に、畳み掛けるように言った。

「もう、ご迷惑はおかけしませんから」

 古月の表情は見えなかった。ただ次の瞬間に、強く引かれた手の勢いで、桔華は古月の胸に落ちた。

「桜花様、なんか言っとったんか」

 もう何度も感じた居心地のよさであったが、流れた年月か、少女のように胸が動悸を打っていた。

「精進せよ、と」

 ようやくそれだけ搾り出すと、古月は桔華を抱える腕に力をこめた。

「ずうっと、心配しとったんやで。桜花様も、わいも。篠だって。帰る場所なら、ここにあるやんか……」

 昼間、古月の息子にあからさまに嫌われたとき、自分の心の中を読まれたのだと思った。この人の知らない10年間。人間の業というものを、嫌というほど体感したこの身は、純粋なあの子には化け物のように映ったのかもしれない。

 古巻さんの瞳が、残してきたあの子のように見えたから・・・。

 それでも今、この瞬間に幸せを感じてしまっている自分に、ああ、ほんとうに救われないなと思った。
web拍手 by FC2
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
2010/08/10(Tue)

北条古巻(5)

 ***


 舎人拓真は、幼い頃父に尋ねたことがある。

「母上は、どちらにいらっしゃるのですか。」

 すると、夜の空の北を指差して、父は応えた。

「動かないように見える星だけど、本当は毎日毎日星の場所は変っているんだ。だけど、あの星だけは絶対にあそこから動かない。それは亡くなった人達がみんなあそこにいて、生きている人のことをずっと見てて、危ないことをしないように守ってあげているからなんだよ」

「たくまは母上の顔を知りません。それでも母上はたくまを守ってくださるのですか」

 父は微笑みながらうなずいた。拓真は「母上!」と叫んで北の星に向かって手を振ってみた。すると、近くで星が流れた。

「あっ」

 母上さまが返事をしてくれたんだ、拓真はそう思った。
 それ以来、夜が来るごとに拓真は星を見続けている。



 古月のおじさんが中国大陸から帰ってきたという知らせが舎人姉弟に届いたのは、桔華帰郷の三日前のことだった。それを聞くなり、孝子も拓真も駆け出して行って、北条家の西洋風建築の門をくぐり、よく見知った顔を見ると飛びついていった。

「古月のおじさま!お帰りなさいませ!!」

 そういって孝子が古月の腰にぴったりくっつくと、拓真ももっと低いところで同じようにしがみついて、真上にある古月の顔を見た。

「お嬢、ぼん、ひっさしぶりやのう、元気にしとったか?」

 自分の子息のように親しげな口調で二人を抱きかかえると、「お、重たくなったなあ」と嬉しそうな声を上げて、ひょい、と後ろの若い男に顎で促した。
 男は二つの箱を持ってきた。それを見た古月は二人を按配地上に降ろすと、青い包装の箱を拓真に、赤い包装の箱を孝子に渡した。

「上海の店で見つけたんや、あけてみい」

 拓真が青い包装の包みをあけると、真新しい双眼鏡がしゃんと収まっていた。本でしか見たことが無かったその実物に、声も上げずに拓真は古月の顔を見た。

「ぼん、星が好きなんやろ?」

 ぱっ、と表情を明るくして「こまきは?」とそこにいない当の息子の姿を探していたら、綺麗に等分されたカステラを持ったゆゑとグラスを盆に四つ携えて、篠が歩みよってきた。

「古巻なら桜花様のところにいくと言っていましたよ」

 とゆゑは拓真に教えた。拓真はたった今自分の宝物となったこの双眼鏡を今すぐ大事な友達に紹介できなくて残念だった。

「ちゃんとお礼は言ったのかな」

 と後ろから来たのは、白いワイシャツ姿の舎人耕三郎であった。孝子も拓真も声をそろえて「ありがとうございます」と古月に向かって深々とお辞儀をし、篠に促されるままにテラスの椅子に座ってカステラを食べ始めた。

向こうの4人とは離れたところに、古月と耕三郎は座った。




「いつ帰ったんや」

「一週間くらい前かな。まさかお前と帰国の時期が重なるとは思わなかった」

「わいも、五日後には戻らなあかんのや。久しぶりの京都や、ゆっくりすることもかなわんとは」

「そんなに忙しいのか」

「聞くまでもあらへんやろ。そっちが忙しいからこっちも忙しいんや」

 一呼吸置いて、古月も問うた。

「お前は、いつまでこっちにおるんや」

「白河川さんから連絡があるまでだよ。これからもっと忙しくなるだろうから、今のうちに子供たちの相手をしてやれ、と」

「そうか、あんたんとこの陸軍元帥さんは随分とお人よしなんやな」

 耕三郎は答えなかった。視線の先で、ゆゑが拓真の口に付いたカステラを拭っていた。孝子は楽しそうに篠と何か話しをしている。微笑みながらその一つ一つに相槌を打ってくれる篠に、耕三郎は心から感謝していた。

「なんや、えらい痩せたな」

 いきなりそんなことを言われて、驚いて古月の顔を見たら、当の本人はお構い無しで耕三郎の手首を掴み、「うわあ、これは男の手首や無いで」と本気で驚いた声を出した。

「ちゃんと食っとるんか、耕」

「日常生活が維持できる程度に栄養が取れていればいいんだよ」

 例の、力ない笑い方で古月に微笑んで、視線を再び篠に戻せば、「早すぎたよなあ」と、古月がひとりごちた。

「早すぎたよなあ。朝重はん」

「ん、」

「まだ、母親の恋しい年頃だろうに」

 そうだね、といって、次の言葉が見つからないので、思わぬ沈黙になってしまったが、耕三郎は久しぶりに平和な気持ちで、自分の愛した人のことを思い出した。

 こんな穏やかな木漏れ日の日であったとあとで聞いた。
 
 知らせを受けたとき、耕三郎は大連の軍司令部にいて、先のポーツマスに関する先方書類を内地中央に発信すべく、タイプライターを叩いていた。部下が自分宛の書状を持ってきたが、個人名義であることを確かめると、公務が先と封も切らずに机の中にしまいこんだ。それから、1ヶ月も過ぎた頃、思い出して机の中の隅に置かれた手紙の封を切ってみれば、自分の母親からの手紙だった。

 妻が死んだと、ただそれだけが簡素に書かれていた。

 それでも日本に帰れたのはもう少し後の話で、どうにか休暇をこじつけて京都の実家に帰ると、すべてが終わった後だった。印象に残ったのは、5歳になったばかりの娘が、あまりにも大人びた顔をいていたことだった。

 「おかえりなさい」と久しぶりに帰った父に頭を下げた。横にはそんな姉に付き従う3歳の拓真の姿もあった。「拓真、挨拶。」と姉に言われると、きちんと膝を突いて、頭をつけた。
 自分の母親の最後を、涙一つ見せずに帰ってすらこなかった父に話し、隣で拓真がこくり、こくりと眠たそうにすれば、「お待ちください」と拓真を寝かしつけに行く。それはもう姉というよりは母に近いような、そんな孝子の振る舞いだった。

「朝重を看取ったのは、孝子ただ一人だったそうだ」

 けったいな話やな、と古月は相槌を打った。

「俺は中国にいたし、母はちょうど出ていていなくて、拓真はまだ物心付く前だからな。朝重に最後に何を言われたのか・・・、本当に、あの子たち、とくに孝子には申し訳ないと思っているよ」

 先ほど篠も入れてくれたハーブティーを口に運びながら、耕三郎は言った。

「こうやって、あの子達の相手をしてくれる篠さんや、ゆゑや、古巻君には、言葉も無い。」

 ありがとう、と口にすれば、古月もふ、と笑いながら言った。

「なんや今更。あの子達がめったに帰ってけえへんぼんくら親父にほったらかされてるのがかわいそうであかんと、わいらの娘息子にしたろって狙ってんやで?」

 冗談じゃない、と男二人で笑えば、「何笑っているんですか、父上!」と孝子の声がして、見やればこぼれたカルピスを頭からかぶったらしい孝子が、三人の笑い種になっていた。「いやあ、派手にやったね」と後始末の手伝いに立ち上がった耕三郎の後ろから、古月がトーンを変えた声をかけた。

「『シャオジエ』が夫と離縁したらしい。これはホンマにあの男、わいらを敵に回すつもりかもしれへん、気ぃつけや」


web拍手 by FC2
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
2010/08/10(Tue)

北条古巻(6)

 古巻があの日以来元気が無い。

 そこで、拓真は夜、こっそりと古巻を連れ出すことにした。
 
 古巻の部屋は洋館の二階にある。しかしその窓のすぐ横に大きな木が立っていて、がっしりとした枝がその窓のすぐ横まで伸びていた。拓真はその木を上り、こんこん、と古巻の部屋の窓を叩いた。
 
 三回くらい叩いたところで、小さくカーテンが引かれ、古巻が眠たそうな顔を覗かせた。

 窓の外の拓真を確認すると、静かに窓を開けた。古巻が問うまでも無く、拓真が「いこう」と誘ったので、古巻は箪笥から上着だけを引っ張り出して、寝巻き姿のままで枝に飛び移った。二人はするすると木を降りて、北条家の大きな門を通りぬけ、いつも向かう丘の上の大きな樫の木を目指した。古巻は裸足だったが、むしろぺたぺたと足の裏が気持ちよかった。

 母が、寂しそうな顔をしたのはあの日だけで、それ以降はいつもの母だった。

 あの夜、父は夜遅くに帰ってきて、偶然厠に行くためにおきた古巻は、帰宅後に母と話す父を見た。

 母は、いつものままだった。父も、悪びれた様子は無い。

 でも父は酷く疲れた様子で、母の差し出した飲み物もいらないと断っていた。何事も無かったように父は自室へ引き上げていき、母もそれに従った。

 気のせいだったのだろうか。母のあの顔は。

 何度もそう思ったが、あの女をはじめてみたときに違和感と、女を目の前にした父の様子を思い出すと、腹の底から怒りがこみ上げてくるのだった。やりどころの無い怒り。ここ数日、拓真と遊んでいてもたまにそのことを思い出しては、どうしていいかわからなくなるのだった。

 三回目の角を曲がったときに、後ろから声をかけられた。古巻はびくっと肩を震わせ、動けなくなった。こんな時間に子供だけで出歩いていたら、怒られる。すると前方の拓真が古巻を庇うように前に出て、無言で声の主の様子を伺った。

「姉上」

 月明かりの下に出てみれば、確かにそれは姉の孝子であった。孝子のほうも、寝巻きに上に羽織物の姿で、息を切らしているところを見れば、後ろについてきていたのかもしれない。

「こんな夜に、あなたたちだけで危ないでしょう?」

 自分の上着を拓真に強引に着せ、抑えた声で二人を叱り飛ばした後、「どうしてこんなことしたのですか」と拓真に問い詰めた。

「こまきが、元気なくて・・・」

 ふう、と大きく肩で息をついて、孝子は幼い二人を見た。「でも、ごめんなさい」と頭をさげる拓真に、

「もう黙って出てくるようなことはしない、いいですね」

 といって、ぽん、と頭を叩いた。

 帰らなければならないのか、と古巻が期待を萎ませていると、孝子は自分の履いていたものを古巻に履かせ、

「さあ、私も連れて行ってくださいな。」

 と、弾んだ声で言った。拓真がどうしていかわからないような顔をしているので、古巻が分かったとばかりに

「こうこさんに言ったから、黙って出てきたわけじゃないよ、たくま」

 と捲くし立てた。

 齢千年を越える大木は、千年王城の都、京都では珍しいものではない。その中でも拓真と古巻が遊び場に利用しているこの樫は、地元の人々からはご神木として崇められていた。それほど霊験すら感じさせるような大きな木だった。その木のある丘に駆け上り、大樹の下に並んで座って、拓真は持ってきた双眼鏡を取り出して中を覗いた。いつもどおり「北の星」を見つけると、古巻に双眼鏡を貸し与え、「北の星」を指差してった。

「北極星って言うんだって。」

 ホッキョクセイ?と、聞きなれない言葉に古巻が聞き返すと、地球にはそれを中心に自転している地軸っていうものがあって、その延長線上にあるから、ずっと動かないように見えるんだよ、と、拓真が説明した。

「本で読んだ」

 なんだかよくわからないけど、すごいんだとおもった。双眼鏡からはずしていた目を再び二つの穴から覗き込ませると、いままで見えなかったところにたくさん星が見えてきた。

「もうすぐだ」

 あっ、と先に声をあげたのは孝子だった。みて、あれ!そういわれて古巻は示された方角の空を見たけれど、変わったものは何も無かった。

「古巻さん、ほら!」

 真上を見た。すると樫の枝と枝の間から、何かがたくさん落ちてくるように見えた。

 三人は樫の木の下から這い出て、三百六十度の夜空を見た。次から次へと星が落ちてくる。古巻も孝子も喚起の声を上げながら、ぐるぐるととめどなく流れる星を見ていた。

「きえちゃった星は、どこに行くの?」
「まって古巻さん、星はどこから来るのかしら?」

 そうだわ、私、聞いたことがありますと孝子が切り出した。

「流れ星に願い事をすると叶えてくれると先生がおっしゃっていたわ」
「何でもいいの?」

 古巻が聞けば、孝子はただし、と加えた。

「消えてしまうまでに、三回言わなければならないそうよ」

 そういうと、孝子は目を閉じて手を合わせた。拓真もその場に座ってじっと流れる星を眺めている。古巻は自分の願いはなんだろう、とちょっと考えた後、孝子をみならって目を閉じて手をあわせた。

 お母さんが、元気になりますように。

 しばらくして目を開けると、流れ星は一つとして見えなくなっていて、空は静寂を取り戻していた。孝子が残念そうな声を上げている。拓真はさっきのまままだ夜空を眺めていた。

「何をお願いしたの?」

 孝子にそう問われて、答えようとしたら、「あ、だめです」と自分で制してしまった。

「言ってしまっては、叶うものも叶わなくなってしまうそうなので」

 なんだか、お願いするのはいろいろ難しい約束があるんだな、と古巻は思った。拓真はまだ空を見ていた。孝子が帰りますよ、と声をかけるまで、拓真はずっと動かなかった。

「こまき、げんき、でた?」

 現世に戻ってきたようなうつろな目で拓真は古巻にそう問うた。古巻はうんとうなずいて、お母さんが元気になるなら毎晩星にお願いをしようと思った。


web拍手 by FC2
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
次のページ>>

作者


Author:kanayano
16歳の時に書いた脚本のエチュードを書き連ねています。
かなやのぶ太名義、私生活ブログはこちら

最新記事

目次

※カテゴリは話数降順に並べておりますので、こちらから入っていただければスクロールでご覧いただけます。

■1、発芽―grow out― (65)
1、最後の恋人 (4)
2、北条古巻 (16)
3、少年と少女 (1)
4、はじまりの業火 (15)
5、月下の惨劇 (1)
6、「傾城傾国」 (28)
■2、着蕾―The bud― (54)
1、孝子、決別 (8)
2、青 (1)
3、吉岡輝也の憂鬱 (20)
4、田園都市、春 (18)
5、大陸の覇者※連載中 (7)
■ 番外『陸奥湾を抱く街』 (59)
1、明治37年、最上桔華 (8)
2、わたしの祖国 (11)
3、陸奥湾を抱く街 (9)
4、祭りのあとに (12)
5、裏切りの祖国 (13)
6、「いのち」 (6)
■番外『仮宿の楔』 (16)
1、奇人二人 (7)
2、「めらんこりあ」※連載中 (9)
読者様から頂いたイラスト (11)
from kanayano (9)

「本編」これまでのお話


<「5、大陸の覇者」登場人物>

伊藤 翔
21歳。幼いころに大陸に移住し、10歳の時に馬賊に家族を殺され、連れ去られた。18歳の時に家族の敵の一族を惨殺。現在は牢屋に投獄されている。支那名は梁文山(リャンウェンシャン)。
梁 生高(リャン シャンカオ)
38歳。父親は馬賊の統率者である「当家」梁続山。3年前、翔に父、母、弟を殺された。現在は周辺の「当家」を束ねる「攬把」。
李 爛華(リ ランホア)
23歳。村の青年。当家の一人。翔が村に連れてこられたころからの友人。
楊 和(ヤン フー)
18歳。字は子杏。爛華と同じく、翔を幼いころから知っており、獄中の彼の世話をしている。未亡人。

■「2、着蕾
大正4(1916)年。火事の中で記憶を失った弟・拓真の力になりたいと、自らも陸軍士官となることを決意した舎人孝子。日清両国の裏取引の対価として来日した吉岡輝也もまた、自らの庇護者である陸軍大将白河川修の計らいで、士官学校に入学する。奇しくも、士官学校予科では性別を偽って入学した孝子――雄一郎と名乗る――と同期であった。(1、孝子、決別
大陸進出を目論む帝国陸軍大佐久坂廣枝と、上海で裏を取り仕切る輝也の母親・仙楽弥が手を組んだ。楽弥の店で働く芸妓、宿禰緑子は、拓真と出会う。緑子は拓真に「また会いましょう」と告げて、その場を後にする。(3、吉岡輝也の憂鬱
大正9(1920)年。当代の人気歌人である最上桜花の下で暮らしている北条古巻。父親の愛人でもある桜花に、素直になれずとも平穏な日々を暮していた。身一つで転がり込んできた朝倉千鶴、桜花が朝鮮人街で助けた孫秀英。桜花と古巻の暮らしにも、新たな仲間が加わった。(4、田園都市、春

「番外」これまでのおはなし


2、「めらんこりあ」 登場人物>

舎人 耕三郎
陸軍大尉。27歳。
北条 古月
会社社長。26歳。会社の規模を大きくすべく、奔走している。
山方 明恵
16歳。美人だがめっぽう弁が立ち、家族から「奇人」と呼ばれている。そのせいで家を出た。
北条 篠
古月の妻。21歳。
北条 由枝
古月・篠の娘。4歳。

■「番外『仮宿の楔』
明治34年、東京。近衛師団に所属する舎人耕三郎大尉は、師団長・白河川修の来訪とともに、自分を訪ねる女の存在を知る。耕三郎を出せと叫ぶ女。そこに、耕三郎を知る商人、北条古月が通りかかる。女に帰れと宣う耕三郎。古月は女――山方朝重を連れて、一先ずその場を退いた。(1、奇人二人

おことわり

※当作品は物語のモチーフを実在の事件、人物に依拠していますが、事実関係は一切ございません。

※一部に暴力、流血、性的表現を伴う記事がございます。記事冒頭に注意書きを添えてありますので、閲覧の際にはご注意ください。

※本文中で中国語、ハングル、英語等の表現がありますが、作者の過小な語学力で作成しているため、ネイティブのものとは大きく異なる場合があります。ご了承ください。

※当ブログはリンクフリーですが、ご一報いただければこちらからもお伺いいたします。相互リンク大歓迎です(※アダルトサイトは除く)。

※拍手コメントをいただいた場合、同じ拍手内に返信をしております。ご確認をお願いします^^

皇国の黒鷲

黒澤修吾の孫であり、吉岡輝也の甥にあたる、黒澤一臣総理が担う平成日本のかたちとは。緒方順様と共同制作です。