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最後の恋人(1)



明治三十五年、冬。
 
その夜、白河川修は自室の椅子に腰掛けて音もなく降る白い雪を眺めていた。

雪が降っている情景に結びつく思い出は、白河川にとっては芳しくないものばかりであった。
 35年前の戊辰戦争。一月に開戦だったがあの時も確か雪が降っていた。雪がもたらす効果といえば彼らの鮮血をより鮮明に浮かび上がらせることだった。一面の白。一面の赤。あのコントラストは今でも克明に思い出すことができる。
 7年前、清と戦争するために釜山に赴いたときも、白河川を歓迎したのは雪であった。港は凍てついておらず、入港は難なく行われたが、その吹雪に作戦を2,3日ずらすことになってしまい、その期間、清国側も兵力を増強し、最終的には日本は清を威海衛で破ることになるが、本来の作戦で予想された敵の被害数は跳ね上がった。
 
 誰であろうと、人が死ぬのは悲しいことだ。

 陸軍卿白河川修の根底はここにある。これには彼の恩師、かの維新三傑、木戸孝允の教えも咬んでいるものであるが、明治という近代国家を成しうるには必要不可欠な感情であると白河川は考えていた。国は、人がつくる。時代を動かすのは、人だ。60年近く生きてきて、その言葉の信憑性は確かなものと確信した。自身も身をもって体感している。
 
 あのひとが死んだのも、雪の日だった。
 あのひとは誰にも見取られずに一人で逝った。いや、誰かに見取られることを嫌ったのかもしれない。

 彼女の、日本人には無い特有の青い目や、錦糸のような金髪、すでに体温を失い、透き通るような白となっていたその肌をこの腕で抱いたとき、足の裏を通して伝わったあの雪の冷たさはこの世のものとは思えなかった。庭の雪化粧の桜の木下で、白河川は思った。


―――きれいだ。


 彼女は32歳で、白河川より4つ年下だった。あまりにも早すぎる死だった。

「白河川さん」

 声のした方を振り向くと、白河川の身の回りの世話をしている女性が扉に立っていた。

「すみません、ノックはしたのですが」
「いえ、どうしました、眞子さん」

 白河川と山城眞子の付き合いは瓦解の折からの古いものである。ただし、初めから順風な付き合いから始まったわけではない。白河川は官軍、眞子は女だてらに幕軍の一人であった。

「黒澤中尉が」

 白河川は立ち上がると、眞子に先導され玄関へと急いだ。

 黒澤周吾は白河川が目をかけている軍人の一人である。5年前に、白河川が上海に行ったときに接待をしたのが縁で、黒澤とは今でも親交が続いていた。白河川は元帥でありながら下士官将校達に気楽に話しかけ、彼らもよく白河川を慕っている。ただ大将の椅子にふんぞり返っている連中はこうはいかない。

 眞子が応接間のドアをあけると、黒澤は振り返った。その腕の中に何か白いものをもっていた。

「閣下、無礼を承知で参りました。どうか、どうか助けてください」

 白いものの正体は、布に包まれた赤ん坊であった。見ると額から出血がある。なのに赤ん坊は泣きもせず、ただぜいぜいと喘ぐばかりである。

「眞子さん、すぐに勝呂さんのところへ」

 眞子はうなずき、黒澤から赤ん坊を託されると、さっとドアの向こうに姿を消した。勝呂というのは、近くで小さな医院を開いている開業医だ。本来なら帝国大学勤務の業績すら持つ傑人なのだが、「ひとりひとり目の届くほうがよい」と甘んじて下町暮らしをしている。お互い、似たところもあったりで、たまに飲んだりする気の会った仲間のようなものであった。
 
 白河川はその真意を諮ろうと黒澤を振り返った。すると黒澤が先に口を開いた。

「一緒に、来ていただけませんか」

 黒澤の懇願の目は、焦りと焦燥が入り混じっていた。
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2010/08/10(火)
1、最後の恋人

最後の恋人(2)




 雪はわたしによい知らせを運んでこない。

 白河川は黒澤の運転する車の助手席でぼんやりとそんなことを考えていた。黒澤が白河川と以前あったのは約一年前。今日は一年ぶりの再会だというのにそれを慈しむ間もなく、何かよくないことが始まりそうな渦中に飲み込まれた気がしてならないのだ。それはもちろん黒澤自身が望んだものではなく、白河川が画策していたわけでもない。いうなれば時代が我々を召喚したとでも言えば表現がよいだろうか。これから何が始まるのしても、きっとそれを回避することはできないし、苦難無く終えることは不可能であろう。車の窓から見える横に線を引く吹雪に、言い様も無い不快感を覚えながら先の見えない将来に希望を持つにはいったいどうしたらよいものだろうと必死で考えている自分に気付き、「我ながら卑しいものだ」と自嘲した。
 街の電燈がリズムよく通り過ぎ、レンガ造りの建物の通りを向けると、大きな屋敷が立ち並ぶいわば高級な住宅街が姿を見せた。その奥の一角に少しだけ離れた家があって、門の前まで来ると黒澤は車を止め、ライトを消した。
 白河川も助手席から降り、黒澤に少し遅れてドアを閉め、強い風にコートを引っ張られながらその門に向かった。足はある程度積もった雪を踏みしめ、「ぎゅ」っとなる。

 うまく前が見えない。暗闇と、吹雪がその視界の幅を狭めた。
 門は開いていた。おそらく黒澤自身が出てくるときに閉めずに出たのだろう。
 
 黒澤に促されるままに門を入り、屋敷に向かうと、ついているはずの明かりはどの部屋からも漏れることが無く、闇の中にあった。さらに近づくと、白河川はその屋敷の異変に気がついた。
 
 窓ガラスが割れている。
 
 それも一つ二つではない。飛び飛びではあるが、かなりの数が明らかに内側から割られていた。

「盗人にしてはおかしな行為ですね」

 割られたガラスをみながら、吹雪の中前方を歩く黒澤に声をかけると、

「そのほうがまだ、私も手のつけようがあるのですが」

 と、その歩幅を広げた。と、そのときさらにガラスの割れる音がした。

―――女性の声?

 確かに聞こえた。喚くような嘆くような、少なくともその女性が正気を保っているようには到底思えなかった。
 黒澤がドアを開けようとした瞬間、内側からドアが開いた。

「だ、旦那様!」

 おそらく使用人だろう。女であったが、声が先ほどのものとは違った。

「大丈夫か、らくはどうなった」
「も、申し訳ありません、旦那様に言われた通り、奥様を落ち着きなされますようお努めいたしましたが・・・」

 使用人も相当格闘したのか、意気が上がっているのがわかった。白河川は惨状となっている屋敷の中に入った。直に降りかかっていた吹雪から耳から開放されたので、暗闇の玄関はひどく静かに感じられた。しかしそれは一瞬の感想で、すぐに見えない廊下の闇の中から先ほどの女の声がした。

 とりあえず音のほうに足を向けた。またガラスの割れる音がした。近くなってきたのか、女以外に男の声も聞こえた。白河川は視界の利かないその空間の中で、自らの五感を頼りに目標を探った。廊下の奥の階段を上ると、急に冷風に吹かれた。割れた窓から雪が舞い込んでいる。

 どさっと音がした。足元に人が倒れている。

 白河川は反射的にその人物を抱え起こした。男だ。男は少しうめいた後、「奥様」とつぶやいて、前を見やり、立ち上がろうとした。

「怪我をなさっています、無理ですよ」
「しかし奥様が」

 びゅう、とまた風が吹いて白河川は思わず目を瞑った。そして声を聞いた。


――――……さない。


 さっきの女の声だ。白河川はゆっくりと目を開けた。
 がしゃん、と音がして、また窓ガラスが割れた。外から吹いてくる風と、そのガラスを身に纏うような形で、その女は白河川の目の前に現れた。
 白い瓜実形のきれいな顔立ちが、一層その女を不気味に演出した。

「ゆ、る、さない」

 女はふらふらとこちらに向かってきた。素手でガラスを破っているからか、両腕、特に右腕からかなりの出血をしていることが確認できた。と、いうのも、暗闇中で白い雪が適当な明かりの代わりとなり、鮮明な赤を浮き立たせていた。

 また雪が、こうして苦しむ人を白河川に立ち合わせたのだ。

「らく」

 白河川の後を追ってきた黒澤が女の名前を呼んだ。女は顔を引きつらせ、廊下の飾り物の壷を黒澤に向かって投げつけた。

「きゃあ」

 難なくかわした黒澤の後ろで壷は粉々になり、後ろでさっきの使用人の女が声を上げた。
 女の左手には、刃渡り3寸ほどの短刀が握られていた。

「だめだ黒澤君、下がるんだ」

 白河川が叫ぶや否や、女は黒澤に短刀を突きつけてきた。本当なら男と女、しかも黒澤にいたっては軍人である。勝負は見えているものであるが、女は常識はずれの力で黒澤を圧倒している。白河川は自分の腕の中にいた満身創痍の男を使用人の女に頼み、立ち上がった。

「ゆるさない……ゆるさない……!」

女はなおも黒澤に襲い掛かる。その表情は確かに殺意に満ちていた。そこらじゅうに落ちているものを黒澤に投げつけ、自らは短刀を振り上げ、黒澤を襲う。かろうじて抵抗している黒澤も、相手があいてだけに反撃できずにいる。
 割れた窓から吹雪が女を襲った。女は一瞬動きを止め、その瞬間を白河川は見逃さなかった。白河川は女が振り上げた左の腕を掴んだ。女は一瞬ひるみ、その隙に白河川は脊髄の頭を叩き、一時的に脳と体の動きを遮断した。
 女はその場に蹲った。ぜいぜいと苦しそうに喘いでいる。

「らく……」

 黒澤がそうつぶやくと女は朦朧とした意識のなかで明らかに黒澤に敵意を示した。しかし体が言うことを利かない。女はさらに辛そうに喘いだ。呼吸が正常でない。
 白河川は女に自分の吐いた息を吸わせるように自分の手で女の口を塞いだ。

「大丈夫、ここにはあなたを傷つけるものは何もありませんよ」

 女は抵抗した。

「怖くない」

 女はさらに抵抗した。

「怖くない」

 女の、抵抗する力が弱くなった。

「ほら、私の言ったことは本当だったでしょう」

 女の呼吸がだんだん元に戻り始めた。やがて静かになると、女はそのまま気を失った。
 女の手から、短刀が落ち、からんとなった。
 
 割れた窓から冷たい風が吹き込んでくる。
 睫を伏せた女の顔は、まるで少女のそれのようだった。
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2010/08/10(火)
1、最後の恋人

最後の恋人(3)



***


 女は、すぐに勝呂のもとへと運ばれた。
 手当を終えると、女をベットに寝かせつけた。二人の使用人も軽い手当てを受けると、勝呂や白河川に丁寧に礼を言い、帰宅の途についた。これらの手当てをしたのは勝呂の妻であるしづである。勝呂はまださっき眞子が連れてきた赤ん坊の治療をしているとしづは告げた。

「輝也は助かるでしょうか」

 黒澤は力なくしづに問うた。

「ええ、親が子の無事を信用しなくてどうするのです、しっかりなさって」

 しづはそういって黒澤に声をかけた。
 白河川はというと、腕を組み相変わらず降りしきる雪を見ている。そして思いついたように言った。

「きれいなご内儀ですね、黒澤君」

 そこにいた黒澤もしづも、いきなりの白河川の話題に少し戸惑いを見せつつも、

「ありがとうございます」

と少々照れ気味に頭を掻きながらはにかんで、視線をずらした。

「失礼ですが、御年は?」
「今年で、確か18になります」
「まあ、お若いのね!」

といって素直に驚いたのはしづだった。白河川は女の寝顔を見た。先ほどの暗闇の中で見た印象より、ずっと幼く見えたのは黒澤に年齢を聞かされたせいだろう。

「あの子は……」
「輝也ですか。あれはそろそろ1歳になるくらいです」

 そうですか、といって白河川は近くにあった椅子に腰を下ろした。ベットの隣の机には、おそらくしづが誂えたものだろう花瓶に花が生けてあった。しづは黒澤にも椅子を勧め、隣の部屋から茶を運んできて二人に出し、自らは退室した。

「わたしは、らくが輝也を身篭ったと知って、身請けしたんです」

 どこから切り出していいのか分からないのですが、と前置きをして、黒澤は語り始めた。

「らくは新橋の芸者でした。大陸生まれだそうですが、8つのときに売られて日本に来たのだそうです。そして置屋での生活が始まった」

 白河川は黙って聞いていた。

「初めてであったのは確か3年前で、私が台湾から一時帰国したのを上官が労いのために新橋に連れ出したのが縁でした。らくはまだお付をしていましたが、その、」

 黒澤はそこでいったん言葉を区切って、

「わたしが、一目惚れしました」

と、恥ずかしそうに少し小さな声で言った。

「半年、日本にいたのですが、その間もわたしはらくのことを忘れることができずに、何度も新橋を訪ねようとしました。しかし、どうしても一人で行く勇気が無くて」
「おや」
「虚勢だけは一人前なのですが、どうにも小心者で」

 白河川は目で笑った。

「ああいう場所に部下を連れて行くのもなんとも気が引けましたので、舎人少佐に御随行賜ったんです」

 ここで意外な人物の名前が出た。舎人耕三郎。白河川のよく知る人物である。

 陸大出の天保銭組。さきの日清戦争では清王朝内においての講和会議の草案作成に従事したり、その才能を買われて高級参謀や政府高官とも付き合いのある、白河川の知る限りにおいて若手一番のホープであった。白河川自身が、舎人のその才能を見出したといってもよい。元皇室付きの侍従教育官舎人左右吉を祖父に持つ、家柄も毛並みも非の打ち所の無いような好青年だった。

「よく、舎人が了承しましたね?」

 舎人が5年も前に所帯を持っていることを白河川は知っていた。

「直接ではないのです。舎人少佐の所属の師団長が、どこかいい場所を探していると少佐にお聞きしましたので」
「ああ、それで」

 黒澤は少し狼狽した。

「その夜は師団長がらくを夜ともに過ごしたいと言い出しました。どうやらわたしにばかりかまっているのが気に入らなかったのか、強引に連れて行こうとするのでらくも嫌がっておりました。相手は上官ですし、わたしも強いことがいえませんでした。向こうは向こうで『少尉ふぜいがこの儂に意見するか!』という始末なのです。こうなったらわたしも除隊覚悟で意見しようと心に決めました。言葉を口にしようとしたときでした。」

―――その方、嫌がっているではありませんか。

「ゆっくりと、一人で飲んでいた舎人少佐が、緩やかな口調で師団長にそういいました。もちろん師団長も言い返します」

―――舎人、貴様人の行楽に文句つけるか!
―――いえ、わたしは閣下のために上奏しているのです。

「おそらく、師団長も舎人中佐の言葉で酔いが冷めたのでしょう。帰る、と一言残してらくを掴んでいた手を放し、その場を去りました。やれやれといった調子で舎人さんも立ち上がると、そっとわたしに言いました。」

―――実は賞に勝ります。ここで貴方を失うのはあまりに惜しい。

「舎人少佐はそういい残して師団長の後を追いました。その後は、女将がまた仕切りなおしてくださって宴会再開となりましたが、たいてい舎人中佐の話題で持ちきりでしたね」
「彼らしい」
「そうでしょう。わたしもそれ以来少佐にはいろいろお世話になるようになりました。台湾から支那に移ってからも彼に助言を求めたり、こちらにいらっしゃると聞いたときは家に招いたりしました。舎人少佐はわたしの憧れの人です。しかし、やはり事はうまくいかないもの」

 嬉々として舎人のことを話していた黒澤の語調が、重くなった。

「あの一件以来、らくは舎人少佐を思い続けていました」

 白河川は黒澤の顔を見た。うつむき加減に下を向き、それかららくの顔を見ながら話を続けた。

「ようやく一人でらくの元に通うようになったのが2年前です。わたしは、らくの少佐に対する思いを知りながららくと逢瀬を続けました。これがらくの仕事と分かっていても、わたしはらくの優しさがうれしかった」
「そして、彼女は子を宿した」

 黒澤は辛そうに頷いた。

「それがわかって、また支那から帰ってきて……。わたしは正式にらくに身請けしたいと切り出しました。そして一緒になろうと」


―――ありがとうございます。らくは本当に、幸せ者でございます・・・



 そこまで言い終えると、黒澤は黙り込んだ。白河川はそのらくの言葉に偽りは無かったように感じた。むしろ本心から出た言葉であると。しかしそうだとすると残る疑問は、「許さない」と夫に殺意すら持ってしまったらくの心情である。

「輝也が生まれて、しばらくはわたしたちは普通の幸せな家族でした。しかし次第に、らくの様子がおかしくなってきたのです」
「おかしくなってきたとは」
「夜中に急に奇声を発したり、物にあたったり。初めは極軽い症状だったのですが、だんだんそれが激しくなってきて……。しかし、この異常な状態である時の記憶がらくには無いのです。目が覚めればいつもの彼女に戻ります。舎人中佐への強い思いが、彼女に行動させているのだと思います。わたしのせいです。わたしが、強引に彼女を身請けしたから……」

 黒澤は膝の上で拳を強く握った。

 窓の外を見た。雪はちらほらと舞う程度にまで止んでいた。
 眞子が寝室の扉を開けた。ほっとした顔で「無事、手術が終わったみたいです」と告げた。
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2010/08/10(火)
1、最後の恋人

最後の恋人(4)



***


「気がついたかい」

 らくがゆっくりと目を開けると、そこには見慣れた顔があった。

「あなた……」
「いや、まだ無理に体を起こさないほうがいい。体に障るよ」

 夫の、そんな気遣いがうれしくて、らくはその助言に従うことにした。

「いつ、お帰りになられたのですか」

自分が帰宅した記憶も無いらしい。

「2日前だよ。しばらくこっちにいられる」
「そうですか」

 そういって、らくは微笑んだ。

 らくの意識が戻ったのは、担ぎ込まれてから一日過ぎたお昼過ぎの事だった。
 黒澤はまず軍に帰隊を報告しに一回陸軍省に顔を出したあと、すぐに戻り、らくの近くにずっと付き添っていた。しづが気を使って「かわりましょうか」と申し出たが、黒澤は自分の妻だから、と丁寧に断った。

「輝也は」

 らくは自分の子供の名前を口にした。

「輝也はどこですか」

 今はまだ、傷ついているわが子を見せるのは得策ではないと考えた黒澤は、

「ああ、少し体調を崩していてね。隣の部屋でしづさんが看ていてくれているよ」

 といって誤魔化した。
 そう、といってらくは天井を見た。

「とても、怖い夢を見ました」
「夢?」
「あなたを、殺したいと思う夢」

 黒澤はどきりとした。らくがこうしてあの事実に自ら触れたのは初めてだった。

「どうしようもなかった。成す術も無く、彼女に従うしかなかった」
「彼女、とは」

 らくはすぐには答えなかった。言葉を捜しているようだった。

「らく」

 黒澤は、自分の妻の名前を呼んだ。

「すまない」

 そして、頭を下げた。
 驚いたらくはゆっくりと上半身を起こし、黒澤に

「どうしてです、どうしてあなたが謝るのです」

と問い詰めた。

「君は、わたしと一緒になるべきではなかったのかもしれないな」

らくは辛そうな顔をした。

「愛しています」

 絞り出すように、微かな声で黒澤にいう。

「愛しているよ」

 なんだか無性に、悲しい気持ちだった。お互いの気持ちが真実だからこそ、お互いの幸せを願うように、ただただ、ひたすら悲しい気持ちになった。
 黒澤は、らくの頭を抱いた。

「日ごとに、自分が壊れていくのが分かります」

 らくは、その瞳に涙を浮かべながら言った。黒澤の胸の中で小刻みに震えていた。

「もう一人の私が、異常なほどにあなたを憎んでいる」

 黒澤は黙ってうなずいた。

「憎まれて、当然だ。君はコウさん・・・いや舎人少佐を」
「いわないで」

 らくが言葉をさえぎった。

「私はあなたをお慕いして一緒になったのです。耕三郎様は関係ありません」

 らくが、黒沢に懇願するように、その胸に強く顔をこすり付けた。黒澤もらくの頭に口付けて、さらに強く抱いた。

「私の、片思いなんだよ、らく」
「愛していますわ」
「らく」
「私を」

 お互いに唇を探り合う。息がもつれ、苦しくなってはなれて、近いところで目が合った。らくは黒澤の耳たぶを口に軽く含み、そこで囁いた。


―――殺してくださいませ。


 黒澤は驚いてらくの顔を見た。らくも辛そうな顔をして、もう一度、同じことを言った。

「もう一人の私は、どんどん私を駆逐していく。いずれ、私は私でなくなる」

 そうなる前に。らくは黒澤の手をとって、自分の首に持ってきた。

「何をする、やめるんだ」

 黒澤はその手を払って、らくの小さな体を抱いた。

「あなたを愛しているからこそ、その愛故、私の憎しみは深く深く、あなたへの殺意に変わるのです」
「いいんだ、憎みたいだけ憎めばいい。殺したいなら狙えばいい。君にはその資格がある」
「あなたを、失いたくありません」
「俺は死なない」
「本当に?」
「本当さ」

 二人は唇を重ねた。深く深く、息が止まるほどに、真実を確かめ合うように。

「あなたが向こうに赴任して、寂しくて、どうしようもなくなるときがありました」


――そんなときに、あろうことかわたしは耕三郎様のことを思い出してしまうのです。


「愚かなのはわたしです。わたしは、同時に二人の人を愛してしまった」

 泣きじゃくりながら、らくは続けた。

「ねえ黒澤様。こんな最低の女でもよろしいのですか。わたしのような酷女でも、あなたは妻として望んでくださるのですか」

 黒澤自身も、自分の涙を見たのは久しぶりだった。腕の中のらくはひどく弱弱しく感じた。ああ、自分は本当にこの人を愛しているのだと知った。

「君がたとえ俺を忘れようとも、どれだけ憎もうとも、俺は君だけを愛しているよ。だから心配しなくていい。いつまでも待ってるから」


 最期の瞬間まで、信じているから。
 だから、いつか本当の意味で夫婦になろう。


 らくは静かに「はい」といって目を閉じた。

 

***



 それから半年が経過したころ、眞子が黒澤の執務室を訪ねた。

「白河川さんに頼まれて御家に伺ったのですが、ご不在でしたので」

 黒澤は眞子の来訪を労い、応接間のソファーに座るように勧めた。

「ええ、今あの家には誰も住んでいませんから」
「そうなのですか」

 では、どちらに、そう眞子が問うと、

「今は軍の宿舎に住まわせてもらっています」
「らくさんや、輝也君も?」

 黒澤は、微笑したまま言葉を止めた。
 眞子は白河川の用件を話すことにした。

「らくさんのご様子を伺ってくるようにと、仰せ使いまして。あまり芳しくないようならこれを置いてこいといわれました」

 そういって、薄紫色の風呂敷の中から、2、3の薬瓶を取り出した。
 あいかわらず、黒澤は黙ったままである。

「黒澤君?」
「らくは、いないのです」
「え?」
「一ヶ月ほど前でしたでしょうか。わたしが帰宅したら輝也とともに姿を消していました」


***


 すべては、ここから始まる。
 黒澤とらくが再会するのは、約十年後のこととなる。
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2010/08/10(火)
1、最後の恋人

北条古巻(1)

 

 東京と京都が鉄道で結ばれたのは明治22(1889)年のことであるが、この二つの都市間を9時間と24分でつなぐ主要な幹線となった。京都駅では連日東京駅にも匹敵するような数の人がこの駅を利用している。

明治43年。その京都駅に、姉に伴われた非常に不機嫌な少年がいる。

 少年は名前を北条古巻。7つ年上の姉であるゆゑに背負われてプラットフォームにいた。母は来ていなかった。父はもっと先のほうで「誰か」の帰りを心待ちにしていた。古巻はゆゑに「おりる」とせがみ、絶対に姉のそばを離れないことを条件に下に下ろしてもらった。その右手は、しっかりと姉につながれている。
 
 古巻の父、古月は、一代で大きな商社を立ち上げた、いわゆる「財閥」の勃興者であり、貿易を兼業する日本の経済界を担う一人である。奉公していた豆腐屋を継いで、それを以外にも醤油や塩といった製品に次々と着手し、それで培った運輸力を貿易事業に拡大して、三井や古河に引けを取らない巨大な企業に成長していた。

 古巻はそんな古月の長男として1904(明治37年)に生まれた。母の名前は篠。長女、ゆゑが女であったため、待望の男児誕生であった。古月は

「こいつはいつかこの国に旋風を巻きおこすんや」

といって古巻と名づけた。

 古巻は今すぐに帰りたい気持ちでいっぱいだった。父に対して怒りの気持ちを抱いていた。なぜ父はここにいるのか。なぜ母を家に残してきたのか。古巻は見た。母、篠はつらそうな顔をしていた。どうして母はあんな顔をしていたのか。分からないけど、だったらなんで父はそんな母親を一人残してここにきたのか。久しぶりに大陸から帰ってきて、母よりも大事なものとは何なのか。自分はそれも許せない。
 今すぐ母のところに帰りたかった。古巻はゆゑの手を両手で引っ張って、「帰ろうよ」といってみた。ゆゑは曖昧な表情をして微笑んだ。ゆゑには古巻の気持ちも、父、古月の気持ちも理解できた。今日、ここに帰ってくる人物のことも知っていた。ゆゑは寂しそうな目で父のほうを見た。父は「誰か」の到着を今か今かと待ちわびているようだった。
 汽笛の音と同時に、黒い、どっしりと重量感のある体躯の汽車が、むせるような量の黒煙とともにプラットフォームに滑り込んできた。12両編成で東京から京都までを結ぶ快速便だ。やがて扉が開き、ゆったりと乗客が降り始めた。
 古月も目的の人物を探しているようである。古巻は倦厭の目を父に向けた。父のほうはそんな息子にまったく気付くことも無く、年がいなく身を乗り出して待ちわびている。最後のほうになって、両手いっぱいの荷物とともに降りてきた若い女が見えた。女はまだこちらに気づいた様子はなかったが、古月がそれを確認すると、ゆっくりと女のほうに歩み寄った。
 女は古月に気がついたらしく、大荷物を降ろし、それに掛けていた手をいったん休めると、古月のほうに顔を向けた。
 ふわり、とその場が華やいだような気がした。。やわらかい空気が女の周りにだけ存在しているようだった。古巻はなんだか女のことが悪いようには思えなくなって戸惑った。しかし、すぐに母親の顔を思い出して顔を顰めた。
 年の頃は古月と同じくらいか、少し若いくらいである。30前後かもしれない。

「桔華」

 女の一歩手前でたちどまった古月が、親しげに話しかけた。ゆゑも、顰め面の古巻をつれて父の後ろに従った。

「元気そうで何よりや」

 女――桔華の言葉を待たずに、古月が次の言葉を口にした。
 ふと、桔華の頬も緩み、俄かに、しかし力なく微笑んだ。

「ただいま戻りました。古月さん、ゆゑさん」
「桔華姉さん、お疲れでしょう、でも桜花様も姉さんに会えるのを楽しみにしています」

 古巻はやはり、この女に何か違和感を覚えた。

「ゆゑ、ちゃうやろ、今の桜花は桔華のことや」
「まあ、父上ったら。たった今自分で姉さんの名前を呼んだではありませんか」

 桔華は微笑んだままである。その顔を、ゆゑの後ろにしがみついたまま古巻はじっと見つめていた。

「では、桜花様のことはなんとお呼びすればよいのです?」
「『先代様』や。のう、新しい桜花様」

 古月が話題を桔華に振ったところで、古月もようやく、古巻の存在を思い出したらしく、嫌がる古巻をぱっと抱き上げて、

「長男の古巻や。おまえが帰ってきたら一番に紹介したかったよ」

そういって、顔を綻ばせた。

 桔華のほうは「桔華です」と名乗り、古巻に手を差し伸べたが、古巻はそれを力いっぱい振り払って、その衝撃に乗って父の腕から開放された。そして駅の出口に向かって全速力で走り出した。後ろで古巻を呼ぶ声がしたが、気にも留めなかった。気がつくと、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだった。ゆゑがすぐに後ろから追いかけたが、生来病弱な彼女は、追いつくことができずにすぐに古巻を見失ってしまった。

「なんやなんや」

ようやくプラットフォームの入り口までやってきた古月は、突然の息子の反発に怪訝なそぶりを見せた。ゆゑはそこで苦しそうに息を弾ませていた。

「大丈夫ですか、ゆゑさん」

 桔華がいたわりの声をかけた。そしてその場に蹲っていたゆゑに手を貸して立たせると、ゆゑは桔華の耳元で「ごめんなさい」と呟いた。すると桔華は、

「それはこちらの方です」

と謝辞を述べた。疑問の視線をゆゑが桔華に送れば、

「あの子には、何か見えてしまったのかもしれませんね」

とぽそりとひとりごちて、今日はじめて寂しそうな目をした。
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2010/08/10(火)
2、北条古巻

北条古巻(2)



「桜花」とは、短歌「桜花流」を受け継ぐものに与えられる、相伝名である。
 
 平安時代中期、国風文化の時代に出た、橘氏の桜花を発端として、代々弟子にその名前が受け継がれてきた。桔華はその38代目を8年前に継いだ。
 
 37代目の桜花――つまり桔華の先代にあたる桜花は、室町以来300年水面下に潜っていた「桜花」の存在を世に蘇らせた実力者で、明治後期、文学の勃興のなかで、短歌同人誌「のはら」の主催にあたって各界の賞賛を受けた。先代は桔華にとっては祖母にあたる。高齢のため部屋から出られない生活をしているが、その人柄と、現役時代の人脈から、一線を遠のいた今でも、先代最上桜花を訪ねる人間は多い。
 
 先代、北条桜花は本名を廉、という。廉は21のときに古月の祖父に当たる北条華王と結婚し、3男2女をもうけたが、徳川瓦解の際に幕府側についた長男と3男が死亡、長女も病気で死亡しているので、桔華は廉からすれば二女の娘ということになり、桔華と古月は同じ祖父母を持った従兄妹ということになる。


***


 どのくらい走っただろうか。古巻は気がつくとよく見知った場所にいた。

 古巻の自宅からすぐ近くにある友人の家・・・大きな日本風の家と、その門の中に見知った顔を見つけた。

「古巻さん?どうしたのです!」

 顔を真っ赤にして走りこんできた古巻を見て、その少女は驚きの声を上げた。

 古巻はそのまま少女の胸に飛び込んで嗚咽を繰り返した。少女の絣の着物が古巻の涙に濡れていく。古巻は必死で何かを伝えようとするのだけれど、涙と定まらない呼吸が邪魔してうまく表現することが出来ない。

「孝子、どうかしたのか」

 すると奥から少女の父親がやってきた。一緒に、古巻と同じくらいの男の子が走ってくる。古巻は、このどちらの顔も知っていた。

「たくま」

 自分のほうに近づいてきた男の子にそう呼びかけると、男の子のほうも「こまき、どうしたの」といって手を出した。

「おかあさんが、ないてるの、おとうさんは、ちがう」
「ちがう?」
「おとうさんは、きっかだから」

 ようやく落ち着きを取り戻し始めた古巻は、少女――孝子の胸から埋めていた顔を上げ、その父親の顔を見た。

「コウのおじさん」
「うん、よくきたね、古巻君。お父さんがどうかしたのかい」

 そういうと、『コウのおじさん』は古巻を抱き上げた。

「孝子、拓真、すまないが北条のところまでいってこのことを伝えてきてくれないかな、きっと心配しているだろうから」

 二人ははっきりと「はい」というと、孝子は拓真に「いこう」といって手をとって門の向こうへ駆けていった。

 『コウのおじさん』は、しゃがんで古巻に視線を合わせながら話しかけた。

「今日は彼女の帰ってくる日だね。あの人にはあったのかな?」

 古巻は頷いて返事をした。

「そうか。篠さんは、一緒には行かなかったんだね」

 古巻はさっきと同じように頷いた。一回、袖で涙を拭った。

「お父さんは、お母さんを、つれていかなかった。お母さんも、一緒に行こうとしなかったんだよ」

『コウのおじさん』は優しく微笑んでいた。とても柔らかで、そしてどこか悲しい顔だった。古巻は父、古月よりもコウのおじさんがお父さんだったらどんなにいいだろうと思った。

「父上」

 ふと後ろから孝子の声がして後ろを向くと、そこには古巻の母の姿があった。

「ああ、篠さん」
「申し訳ありません、舎人さん、この子が」

 そういうと、篠は淑やかに一礼をした。その一挙動には、はっとするような眩しさがある。

「ほら、よかったね古巻君、お母さんが迎えに来てくださったよ」

 古巻はじっと『コウのおじさん』――舎人の方を見、それから母のほうへ駆け寄った。母はいいにおいがする。
古巻は篠が大好きだった。

「どうやら、一人で帰ってきたらしいのですよ」
「まあ、どうして・・・」
「立ち話もなんですし、どうぞ」

 舎人は自らの家に、篠と古巻を招き入れた。
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2010/08/10(火)
2、北条古巻

北条古巻(3)




 門を入り、手入れされた松や鯉の泳ぐ池を左右に見ながら、奥まったところにようやく玄関を見つけることが出来た。北条家は古月の代より流行りだした洋式の屋敷に住んでいるが、古巻としてはこっちの方が居心地がいい。

 春である。
 緑のにおいがひどく心地がよい。

 玄関をくぐり、耕三郎先導に篠、古巻、そしてその後ろに孝子と拓真が続いている。応接間につながる曲がり角で、孝子が前に出て、部屋の障子戸を開けた。

「今、お茶をお持ちいたします」

 そういって篠に頭を下げて、孝子は廊下の奥に消えた。古巻がぼうっと母の後ろで見ていると、

「せっかく来てもらったのなら、拓真、古巻君にあれを見せてあげたらどうかな」

 と父が言ったので、拓真はうれしそうに「はい」といって古巻の手を引いた。古巻が篠をみると、にわかに眼が緩んだのを見て行ってもいいんだと理解した。うれしかった。
 耕三郎は篠に席を進めると、自らも向かい側に腰を下ろした。畳のにおいがする。行き届いた部屋の管理。

「今、使用人が外出していまして」

 娘の孝子がお茶と菓子を運んできたので、耕三郎はそういって娘の至らなさをわびた。

「いえ、いつもながら感心いたします。とてもしっかりされたお嬢様で」

 孝子は、一礼してその部屋を去った。

「気が強くて男勝りで。あれでは嫁の貰い手もありませんね」
「そうでしょうか」

 耕三郎の家には、実質、長女孝子と長男の拓真だけが住んでいる
 奉公として働いている使用人の夫婦は、家のことをさまざまに手伝ってくれているが、実質この家を預かっているのは長女の孝子。
 耕三郎の妻、つまり孝子、拓真の母に当たる人物は、今から3年前に他界している。
 名前を朝重(ともえ)、といった。

 ふと、孝子が喧しい声を上げた。

「拓真!古巻さん!降りていらっしゃい」

 庭に出ると、桜の木の下で上に向かって叫んでいる孝子がいた。

「父上!拓真と古巻さんが」

 喧騒の孝子のいるところまでやってきて上を見ると、

「古巻に、あれをみせてあげるのです」

 と、上から声が降ってきた。木の上には、慣れた手つきでするすると上がっていき、途中で後ろを振り返り古巻に手を貸し、安定した場所へ誘導している拓真の姿があった。

 拓真の首には、真新しい双眼鏡が掛けられている。

「父上、何か言ってやってください!拓真!!」

 いつ弟が、そしてその幼馴染が地面に叩きつけられるかと気が気でない孝子は、必死で舎人を捲くし立てた。篠も心配そうに上を見上げている。

「拓真、今日はどっちの方角に見えるか、わかるか?」
「ええと、西北西です!太陽が南より少し左側にあるから」
「父上!」
「大丈夫だよ孝子、見ていてごらん」

 耕三郎は篠の方を向いて小さくうなずいた。すると今度は古巻の声がした。

「わあ」
「一番星だよ、よく見えるでしょ?」

 双眼鏡を手に、興奮した拓真と古巻の声が木霊する。孝子も篠もあっけに取られてしまった。
 
 耕三郎は目元を緩めてその木の上を見守っている。
 篠はそんなこどもたちの無邪気な姿を眺めつつ、その瞳に一抹の感情を入り混じらせていた。
 耕三郎は、その瞳の意味を理解している。
 しかし、これはあの男の問題なのだ。自分がしゃしゃり出る幕ではないことも承知している。
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2010/08/10(火)
2、北条古巻

北条古巻(4)



 桔華が、先代桜花であり、自らの師匠でもある廉に帰還の挨拶に上がったのはその日の夜になってからのことであった。

 時は、今から10年前に遡る。
 桔華には、3人の姉がいる。
 
 上から八重、玉津、朔子という。桔華は4人姉妹の末っ子である。
 
 もともと「桜花」の名前は血で受け継がれるものではない。その代における「桜花」門下の中から、当代が認めた者が次の代を継ぐことになっていた。古来の伝統には珍しく、実力主義の世界である。
 
 さて、この37代目最上桜花、廉には30名ほどの門下生がいた。廉は寺子屋や塾のように人を集めていたわけではなく、京都の町の隅のほうに小さな庵を結び、そこで暮らし、発句していたところに彼女を慕う人間が集まって、その技法を学んでいたわけである。したがって門下、というのは少々語弊が生じるかもしれない。斉藤可六、吉瀬嘉といった後の文学界を担うような逸材も出入りしていた。廉の世間に対する影響力は、決して弱くない。

 話を戻そう。この4姉妹のうち、玉津と桔華は幼少の頃よりこの庵に厄介になっていた。

 玉津は女流独特の繊細で優美な表現、桔華は独創的で鮮烈な印象を残すことを得意とした。玉津の作品であるが、これは雑誌に掲載されるや否や各方面から賞賛を浴び、一時は桜花後継者最有力候補であろうと噂された。その後、少し遅れて桔華の作品も掲載される。発表された直後、大して気に留められることもなかった。しかし、この平凡な歌を、当の桜花は絶賛したのである。

「珠玉ですよ」

 ゆっくりと風にあおられた砂が空へ舞い上がるように、主に玄人の世界で桔華の歌は評価されるようになっていった。玉津は民衆に、そして桔華は歌界の常連たちに、それぞれ注目株としてその実力を期待させてきていたのであった。

 しかし、故あって桔華は、最上の家を、京都を出なければならなくなった。

「桔華、この家を出なさい」

 そういったのは、祖母、桜花だった。 
 そして紙と筆をとり、何かをサラサラと書きつけ、桔華の前に置いた。


 秋雅 咲き狂いにし 世の果ての いざたちゆかん 桜花往生


 桔華が京都を出たのは、しんしんと音もなく雪が降る寒い夜であった。


***


「答えをお聞かせ願えますか」

 暗闇から投げかけられた問いに、桔華は答えた。

「歌を、詠むためならば」

 そこで一度言葉を区切ったのは、この10年で自分が得たものと失ったものが、あまりにも大きすぎたからである。

 「私は、あらゆるものを厭いません」

 言い切った桔華に、桜花はすぐに返答をよこさなかった。暗闇の中にさらに闇と静けさが落ちて、何かに押しつぶされてしまいそうだった。それは自分自身の10年の成長と、変化と、そして、断ち切ったつもりでも断ち切ることがついにかなわなかったことへの、嫌悪でもあった。それを思うと、今ここで、すぐにでも舌を噛み切って死んでしまいたいような気持ちになる。何度、そう思ったことだろう。しかし、死ぬことは一時の苦しみ、生き続けることで苦しみ続けようと決めたのもまた、自分であった。

 「精進なさい」

 桜花はそれだけ言った。桔華も一礼してその場を後にした。

 廊下にでると、突き当りの角に人の影が見えた。こちらに気が付くと、その影はふと消えた。10年ぶりに京都に戻ってきて、出迎えてくれたのは従兄妹で幼馴染の古月だけであった。それが寂しいとか辛いというのではなく、ここはもう、とっくに自分の居場所ではないのだということを意味していた。
 
 ほんのりと電灯の灯った北条家の玄関を一人で出ると、そこには着流し姿の古月がいた。

「桜花様の御話はほんに、長いもんなあ」

 月明かりに古月はにやりとして、「祇園にでもいこ」と桔華の手をとり、ずんずんと歩き出した。

「こんな時間に?篠さんは」
「できた女房やて。心配ないよ」

 童心に返ったような古月の声は、静かな屋敷通りに木霊して、大阪弁と京都弁のごちゃ混ぜになったそのしゃべり口と相まって、桔華の心に直接響いた。

 「まってください!」

 ようやく引かれた手を掴んで古月の行く手を阻んだ。古月は驚いたような顔で振り向いた。始めてまともに見たその顔は、八年前の桔華の記憶の中の古月とまったく変らなくて、ずきりとした。

 「なんや」

 屈託の無い古月の言動は、愚直なほどに自分の女心に響いていた。そんなこの人が、ずっと好きだった。

「心配無い訳ないでしょう、古月さん、久しぶりにお戻りになられたのでしょう?」
「お前が帰ってくるって聞いたんや」
「尚更です。ご家族の有る身なのです。自宅にお戻りくださいませ」
「桔華、わいがどんだけお前に会いたかったか、この日をどんなに心待ちにしておったか、お前にはわからへんやろ」
「お戻りくださいませ!」

 思わず強く言ってしまって、桔華ははっとした。しまったと思った。本当は自分もとても会いたかった。古月の気持ちも痛いほど分かる。幼い時分から少なくない時間を、時には濃密な時間を共有してきたお互いの気持ちが、分からないはずなどない。まっすぐな物言いしか出来ないこの人は、当然のようにまっすぐと傷ついてしまう。

 しかたがないのだ。私たちは、

「もう、会いたくありません」
「なんや」
「所詮、私とあなたは同じ祖母を持つ従兄妹なのです」

 それは、自分に言い聞かせるために出た言葉だったのかもしれない。それは世間的に認められることの無い自分の感情に、区切りをつけられると思ったからであった。
 その考えは甘かった。自分に厳しくすればするほど、言い訳すればするほど、会えない時間の長いほどに、どうにもならなくなっている自分がいて、失望した。
 
 いっそ、篠が自分を正面から恨んでくれたら、もっと楽だったかもしれない。
 
 しかし篠は非常すぎるほどに優しかった。やがて二人の間にゆゑが生まれても、五つ年下の彼女は、自分を姉のように慕い、そのたおやかな振る舞いは女の自分にもはっとするようであった。自身の中の罪の意識が徐々に膨れ上がっていくのは明白だった。それでも正直な気持ちに抗えなかった。

 幼い頃より、最上の家の中で、当代の血を引きながらも妾腹の桔華は、ほぼ使用人同然の扱いを受けた。途中で才を見出してくれた先代桜花と、従兄妹の古月だけが、桔華に居場所を与えた。

「近いうちに、東京に移ろうと思います」

 古月は、桔華の手を握ったまま聞いていた。

「知り合いも出来ましたし、ほとんど場所も決めているんです」

 口を開こうとした古月に、畳み掛けるように言った。

「もう、ご迷惑はおかけしませんから」

 古月の表情は見えなかった。ただ次の瞬間に、強く引かれた手の勢いで、桔華は古月の胸に落ちた。

「桜花様、なんか言っとったんか」

 もう何度も感じた居心地のよさであったが、流れた年月か、少女のように胸が動悸を打っていた。

「精進せよ、と」

 ようやくそれだけ搾り出すと、古月は桔華を抱える腕に力をこめた。

「ずうっと、心配しとったんやで。桜花様も、わいも。篠だって。帰る場所なら、ここにあるやんか……」

 昼間、古月の息子にあからさまに嫌われたとき、自分の心の中を読まれたのだと思った。この人の知らない10年間。人間の業というものを、嫌というほど体感したこの身は、純粋なあの子には化け物のように映ったのかもしれない。

 古巻さんの瞳が、残してきたあの子のように見えたから・・・。

 それでも今、この瞬間に幸せを感じてしまっている自分に、ああ、ほんとうに救われないなと思った。
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2010/08/10(火)
2、北条古巻

北条古巻(5)

 ***


 舎人拓真は、幼い頃父に尋ねたことがある。

「母上は、どちらにいらっしゃるのですか。」

 すると、夜の空の北を指差して、父は応えた。

「動かないように見える星だけど、本当は毎日毎日星の場所は変っているんだ。だけど、あの星だけは絶対にあそこから動かない。それは亡くなった人達がみんなあそこにいて、生きている人のことをずっと見てて、危ないことをしないように守ってあげているからなんだよ」

「たくまは母上の顔を知りません。それでも母上はたくまを守ってくださるのですか」

 父は微笑みながらうなずいた。拓真は「母上!」と叫んで北の星に向かって手を振ってみた。すると、近くで星が流れた。

「あっ」

 母上さまが返事をしてくれたんだ、拓真はそう思った。
 それ以来、夜が来るごとに拓真は星を見続けている。



 古月のおじさんが中国大陸から帰ってきたという知らせが舎人姉弟に届いたのは、桔華帰郷の三日前のことだった。それを聞くなり、孝子も拓真も駆け出して行って、北条家の西洋風建築の門をくぐり、よく見知った顔を見ると飛びついていった。

「古月のおじさま!お帰りなさいませ!!」

 そういって孝子が古月の腰にぴったりくっつくと、拓真ももっと低いところで同じようにしがみついて、真上にある古月の顔を見た。

「お嬢、ぼん、ひっさしぶりやのう、元気にしとったか?」

 自分の子息のように親しげな口調で二人を抱きかかえると、「お、重たくなったなあ」と嬉しそうな声を上げて、ひょい、と後ろの若い男に顎で促した。
 男は二つの箱を持ってきた。それを見た古月は二人を按配地上に降ろすと、青い包装の箱を拓真に、赤い包装の箱を孝子に渡した。

「上海の店で見つけたんや、あけてみい」

 拓真が青い包装の包みをあけると、真新しい双眼鏡がしゃんと収まっていた。本でしか見たことが無かったその実物に、声も上げずに拓真は古月の顔を見た。

「ぼん、星が好きなんやろ?」

 ぱっ、と表情を明るくして「こまきは?」とそこにいない当の息子の姿を探していたら、綺麗に等分されたカステラを持ったゆゑとグラスを盆に四つ携えて、篠が歩みよってきた。

「古巻なら桜花様のところにいくと言っていましたよ」

 とゆゑは拓真に教えた。拓真はたった今自分の宝物となったこの双眼鏡を今すぐ大事な友達に紹介できなくて残念だった。

「ちゃんとお礼は言ったのかな」

 と後ろから来たのは、白いワイシャツ姿の舎人耕三郎であった。孝子も拓真も声をそろえて「ありがとうございます」と古月に向かって深々とお辞儀をし、篠に促されるままにテラスの椅子に座ってカステラを食べ始めた。

向こうの4人とは離れたところに、古月と耕三郎は座った。




「いつ帰ったんや」

「一週間くらい前かな。まさかお前と帰国の時期が重なるとは思わなかった」

「わいも、五日後には戻らなあかんのや。久しぶりの京都や、ゆっくりすることもかなわんとは」

「そんなに忙しいのか」

「聞くまでもあらへんやろ。そっちが忙しいからこっちも忙しいんや」

 一呼吸置いて、古月も問うた。

「お前は、いつまでこっちにおるんや」

「白河川さんから連絡があるまでだよ。これからもっと忙しくなるだろうから、今のうちに子供たちの相手をしてやれ、と」

「そうか、あんたんとこの陸軍元帥さんは随分とお人よしなんやな」

 耕三郎は答えなかった。視線の先で、ゆゑが拓真の口に付いたカステラを拭っていた。孝子は楽しそうに篠と何か話しをしている。微笑みながらその一つ一つに相槌を打ってくれる篠に、耕三郎は心から感謝していた。

「なんや、えらい痩せたな」

 いきなりそんなことを言われて、驚いて古月の顔を見たら、当の本人はお構い無しで耕三郎の手首を掴み、「うわあ、これは男の手首や無いで」と本気で驚いた声を出した。

「ちゃんと食っとるんか、耕」

「日常生活が維持できる程度に栄養が取れていればいいんだよ」

 例の、力ない笑い方で古月に微笑んで、視線を再び篠に戻せば、「早すぎたよなあ」と、古月がひとりごちた。

「早すぎたよなあ。朝重はん」

「ん、」

「まだ、母親の恋しい年頃だろうに」

 そうだね、といって、次の言葉が見つからないので、思わぬ沈黙になってしまったが、耕三郎は久しぶりに平和な気持ちで、自分の愛した人のことを思い出した。

 こんな穏やかな木漏れ日の日であったとあとで聞いた。
 
 知らせを受けたとき、耕三郎は大連の軍司令部にいて、先のポーツマスに関する先方書類を内地中央に発信すべく、タイプライターを叩いていた。部下が自分宛の書状を持ってきたが、個人名義であることを確かめると、公務が先と封も切らずに机の中にしまいこんだ。それから、1ヶ月も過ぎた頃、思い出して机の中の隅に置かれた手紙の封を切ってみれば、自分の母親からの手紙だった。

 妻が死んだと、ただそれだけが簡素に書かれていた。

 それでも日本に帰れたのはもう少し後の話で、どうにか休暇をこじつけて京都の実家に帰ると、すべてが終わった後だった。印象に残ったのは、5歳になったばかりの娘が、あまりにも大人びた顔をいていたことだった。

 「おかえりなさい」と久しぶりに帰った父に頭を下げた。横にはそんな姉に付き従う3歳の拓真の姿もあった。「拓真、挨拶。」と姉に言われると、きちんと膝を突いて、頭をつけた。
 自分の母親の最後を、涙一つ見せずに帰ってすらこなかった父に話し、隣で拓真がこくり、こくりと眠たそうにすれば、「お待ちください」と拓真を寝かしつけに行く。それはもう姉というよりは母に近いような、そんな孝子の振る舞いだった。

「朝重を看取ったのは、孝子ただ一人だったそうだ」

 けったいな話やな、と古月は相槌を打った。

「俺は中国にいたし、母はちょうど出ていていなくて、拓真はまだ物心付く前だからな。朝重に最後に何を言われたのか・・・、本当に、あの子たち、とくに孝子には申し訳ないと思っているよ」

 先ほど篠も入れてくれたハーブティーを口に運びながら、耕三郎は言った。

「こうやって、あの子達の相手をしてくれる篠さんや、ゆゑや、古巻君には、言葉も無い。」

 ありがとう、と口にすれば、古月もふ、と笑いながら言った。

「なんや今更。あの子達がめったに帰ってけえへんぼんくら親父にほったらかされてるのがかわいそうであかんと、わいらの娘息子にしたろって狙ってんやで?」

 冗談じゃない、と男二人で笑えば、「何笑っているんですか、父上!」と孝子の声がして、見やればこぼれたカルピスを頭からかぶったらしい孝子が、三人の笑い種になっていた。「いやあ、派手にやったね」と後始末の手伝いに立ち上がった耕三郎の後ろから、古月がトーンを変えた声をかけた。

「『シャオジエ』が夫と離縁したらしい。これはホンマにあの男、わいらを敵に回すつもりかもしれへん、気ぃつけや」


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2010/08/10(火)
2、北条古巻

北条古巻(6)

 古巻があの日以来元気が無い。

 そこで、拓真は夜、こっそりと古巻を連れ出すことにした。
 
 古巻の部屋は洋館の二階にある。しかしその窓のすぐ横に大きな木が立っていて、がっしりとした枝がその窓のすぐ横まで伸びていた。拓真はその木を上り、こんこん、と古巻の部屋の窓を叩いた。
 
 三回くらい叩いたところで、小さくカーテンが引かれ、古巻が眠たそうな顔を覗かせた。

 窓の外の拓真を確認すると、静かに窓を開けた。古巻が問うまでも無く、拓真が「いこう」と誘ったので、古巻は箪笥から上着だけを引っ張り出して、寝巻き姿のままで枝に飛び移った。二人はするすると木を降りて、北条家の大きな門を通りぬけ、いつも向かう丘の上の大きな樫の木を目指した。古巻は裸足だったが、むしろぺたぺたと足の裏が気持ちよかった。

 母が、寂しそうな顔をしたのはあの日だけで、それ以降はいつもの母だった。

 あの夜、父は夜遅くに帰ってきて、偶然厠に行くためにおきた古巻は、帰宅後に母と話す父を見た。

 母は、いつものままだった。父も、悪びれた様子は無い。

 でも父は酷く疲れた様子で、母の差し出した飲み物もいらないと断っていた。何事も無かったように父は自室へ引き上げていき、母もそれに従った。

 気のせいだったのだろうか。母のあの顔は。

 何度もそう思ったが、あの女をはじめてみたときに違和感と、女を目の前にした父の様子を思い出すと、腹の底から怒りがこみ上げてくるのだった。やりどころの無い怒り。ここ数日、拓真と遊んでいてもたまにそのことを思い出しては、どうしていいかわからなくなるのだった。

 三回目の角を曲がったときに、後ろから声をかけられた。古巻はびくっと肩を震わせ、動けなくなった。こんな時間に子供だけで出歩いていたら、怒られる。すると前方の拓真が古巻を庇うように前に出て、無言で声の主の様子を伺った。

「姉上」

 月明かりの下に出てみれば、確かにそれは姉の孝子であった。孝子のほうも、寝巻きに上に羽織物の姿で、息を切らしているところを見れば、後ろについてきていたのかもしれない。

「こんな夜に、あなたたちだけで危ないでしょう?」

 自分の上着を拓真に強引に着せ、抑えた声で二人を叱り飛ばした後、「どうしてこんなことしたのですか」と拓真に問い詰めた。

「こまきが、元気なくて・・・」

 ふう、と大きく肩で息をついて、孝子は幼い二人を見た。「でも、ごめんなさい」と頭をさげる拓真に、

「もう黙って出てくるようなことはしない、いいですね」

 といって、ぽん、と頭を叩いた。

 帰らなければならないのか、と古巻が期待を萎ませていると、孝子は自分の履いていたものを古巻に履かせ、

「さあ、私も連れて行ってくださいな。」

 と、弾んだ声で言った。拓真がどうしていかわからないような顔をしているので、古巻が分かったとばかりに

「こうこさんに言ったから、黙って出てきたわけじゃないよ、たくま」

 と捲くし立てた。

 齢千年を越える大木は、千年王城の都、京都では珍しいものではない。その中でも拓真と古巻が遊び場に利用しているこの樫は、地元の人々からはご神木として崇められていた。それほど霊験すら感じさせるような大きな木だった。その木のある丘に駆け上り、大樹の下に並んで座って、拓真は持ってきた双眼鏡を取り出して中を覗いた。いつもどおり「北の星」を見つけると、古巻に双眼鏡を貸し与え、「北の星」を指差してった。

「北極星って言うんだって。」

 ホッキョクセイ?と、聞きなれない言葉に古巻が聞き返すと、地球にはそれを中心に自転している地軸っていうものがあって、その延長線上にあるから、ずっと動かないように見えるんだよ、と、拓真が説明した。

「本で読んだ」

 なんだかよくわからないけど、すごいんだとおもった。双眼鏡からはずしていた目を再び二つの穴から覗き込ませると、いままで見えなかったところにたくさん星が見えてきた。

「もうすぐだ」

 あっ、と先に声をあげたのは孝子だった。みて、あれ!そういわれて古巻は示された方角の空を見たけれど、変わったものは何も無かった。

「古巻さん、ほら!」

 真上を見た。すると樫の枝と枝の間から、何かがたくさん落ちてくるように見えた。

 三人は樫の木の下から這い出て、三百六十度の夜空を見た。次から次へと星が落ちてくる。古巻も孝子も喚起の声を上げながら、ぐるぐるととめどなく流れる星を見ていた。

「きえちゃった星は、どこに行くの?」
「まって古巻さん、星はどこから来るのかしら?」

 そうだわ、私、聞いたことがありますと孝子が切り出した。

「流れ星に願い事をすると叶えてくれると先生がおっしゃっていたわ」
「何でもいいの?」

 古巻が聞けば、孝子はただし、と加えた。

「消えてしまうまでに、三回言わなければならないそうよ」

 そういうと、孝子は目を閉じて手を合わせた。拓真もその場に座ってじっと流れる星を眺めている。古巻は自分の願いはなんだろう、とちょっと考えた後、孝子をみならって目を閉じて手をあわせた。

 お母さんが、元気になりますように。

 しばらくして目を開けると、流れ星は一つとして見えなくなっていて、空は静寂を取り戻していた。孝子が残念そうな声を上げている。拓真はさっきのまままだ夜空を眺めていた。

「何をお願いしたの?」

 孝子にそう問われて、答えようとしたら、「あ、だめです」と自分で制してしまった。

「言ってしまっては、叶うものも叶わなくなってしまうそうなので」

 なんだか、お願いするのはいろいろ難しい約束があるんだな、と古巻は思った。拓真はまだ空を見ていた。孝子が帰りますよ、と声をかけるまで、拓真はずっと動かなかった。

「こまき、げんき、でた?」

 現世に戻ってきたようなうつろな目で拓真は古巻にそう問うた。古巻はうんとうなずいて、お母さんが元気になるなら毎晩星にお願いをしようと思った。


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2010/08/10(火)
2、北条古巻

京、木漏れ日々(1)

 ***


 耕三郎が東京・市ヶ谷にある陸軍の参謀本部に出頭したのは、梅雨の季節が終わる頃であった。

 それまでは、本部のお達しで京都の自宅から通える程度の近距離にある地方練兵場でたまに顔を出していたが、自分の一任で中国・東三省の軍閥の動向を探るように派遣していた部下が帰ってくると連絡をよこしたので、長い休暇を終えることとなった。
 
 朝早くに出なければならず、孝子や拓真に別れの言葉も残せないと使用人に告げていると、眠たそうな目をこすりながら孝子が拓真の手を引いてつれてきて、

「お気をつけて、いってらっしゃいませ」

 と、丁寧に頭を下げた。拓真も、こくりこくりしながら姉に従った。

 耕三郎は二人の頭をなで、「おばさんに迷惑をかけないように」と優しく諭し、住み慣れた家を後にした。

 東京に向かう汽車の中で、この三個月ですっかり平和ボケしてしまった頭を何とか非常時に切り替えようととめどなく懸念事項をまさぐっていた。先に首相になった西園寺をよく思わない陸軍の首脳クラスが、陸相を出す出さないでもめているということ、派兵するだけの戦力もまともに持たないというのに、中国東北部の鉄道警備隊を増強するということ、六年前にほぼ時流になったような形で結んだ日英同盟のおかげで、火種のくすぶっているヨーロッパ方面の戦争に巻き込まれるかもしれないということ、そしてその混乱に乗じて、ドイツ領の委任統治を日本が狙っているということ・・・。
 
 わかってはいても、なんだか遠い世界の話のような気がして、ぱっとしなかった。世界ばかり見ている。日本内部の話がまったく無いではないか。国内の基盤なくして、開国せいぜい五十年の島国の出来ることなどたかが知れていように。自分の謙虚なまでの現実思考に半ばあきれながら、仕官学校時代にある将校が言っていた言葉を思い出した。

「富める国は、兵が強くなくてはならない」

 反吐が出そうだ、思わずそんな意味の言葉を漏らしたら、「ああ、日本にはまだまともな精神をもたれた軍人がいたのですね」と、隣にいた白河川元帥が頷いていた。

「それは教官ですか、それともわたしですか」

 答えは明白だろうと、そう確信して聞いた問いではあったが、白河川は曖昧に微笑むばかりで「皮肉なら、よそでお願いします」とその場を後にしたのだった。
 
 無能な上官に付き合ってられるほど、私は暇ではない。

 それは白河川に向けた言葉ではなく、自分が見てきた数々の「愚将」に手向けた、確信だった。




「舎人中佐」

 聞き覚えのある声に、自分の執務室へ向かう廊下の途中で振り向けば、久しぶりに見る懐かしい部下の顔があった。


「やあ、黒澤」

 第二種のカーキ色の軍服に身を包み、背筋を伸ばしてそこに立っていた黒澤修吾は、以前に見たときよりも体中から逞しい気を発するような、雄雄しい青年だった。耕三郎が体ごと振り返ると、黒澤は「お久しぶりです、ただいま帰還いたしました」と脱帽して上官に敬意を表し、敬礼の後に、耕三郎の出した右手を握り返した。

「ご苦労だったね、大変だったろう」

耕三郎は、執務室の扉を開けた。



 このころ、中国大陸では、大陸分割とも言える権力勢力図が完成されつつあった。

 1911年に孫文が「三民主義」を唱えて、一応形ばかりの「中華民国」は成立したものの、清朝最後の皇帝、宣統帝溥儀はまだ北京の紫禁城の中にいたし、袁世凱が臨時の大統領に就任しても、それをよく思わない連中が彼を引き摺り下ろすといった事件もあったりで、とても統一国家の様有は見出すことが出来なかった。それをみこしたヨーロッパ各州が1898年に清が日本に負けたあたりから中国大陸の分割に乗り出し、日本もそれに倣って中国の東北部に鉄道を敷設する権利を、当の中国の以降を無視して、ロシアと協定を結んだのだった。こうした祖国の状況に鑑み、地方の有力者たちは独自に軍隊を編成し、「馬賊」とよばれる戦闘集団を形成していった。この馬賊が、大陸進出を目論む日本軍との対立を、徐々に深めていったのである。



「張作霖ですね」

 チャンツォリン、と黒澤は言った。

「華南の馬(マー)や、内陸部の趙(チャン)も大分大きくなってきましたが、張は北方に進出を考えている節がありますから、最前の懸念はこの男かと思います」

「政府は義和団以来の強硬姿勢を崩していない。地方豪族の相手をしている暇などないだろう」

「段祺瑞ということですか」

「王克敏という線もある」

 ワンコーシェン。辛亥革命後には段の直隷派軍閥の一翼として活躍している男であったか、と黒澤は記憶まさぐった。しかしその知名度は内外に広くはない。まさかこんな男の名前が出てくるとは、と、耕三郎の思慮深さを改めて思い知った。舎人はしばらくダンマリを決めた後、つぶやく様に黒澤に問うた。

「・・・黒澤、お前は梁続山という男を知っているか」

「リャン・・・?」

「いや、ならいい」

 耕三郎はすぐに遮り、立ち上がって陽の入る窓の外を見た。

 耕三郎は、声を低くしていった。

「『シャオジエ』が、夫と離縁したそうだ」

 後ろで、黒澤の感情が大きく動いたのが、耕三郎にもよく分かった。

「彼女の父親の経営していた公司を、あの男は元手に新たな貿易会社を立ち上げるつもりらしい。『シャオジエ』の方は・・・、彼女の一族唯一の生き残りとなってしまったからな。のこった人員をかき集めて、父親の公司を立て直しているとのことだ」

「あの男は、何を」

「議論するまでもない。あれが狙いだろう」

 耕三郎は、振り返ると上官として黒澤に下名した。

「黒澤、なんとしてでも守り抜いてくれ。これから行き場を失うであろう日本に、あれは必ず必要となるものなのだ。一個人でもって私欲に利用することは、言語道断。」


 黒澤は威厳をただし、承った。
 
 あんなものを守り抜け、とは。いつになく厳しい表情の自分の上官の顔をみながら、大変な事実をこの人と自分は共有してしまったのだ、と悟った。


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2010/08/10(火)
2、北条古巻

京、木漏れ日々(2)

 ***

 
 昼下がりに篠が和菓子を手に訪れたとき、桔華は庭の水撒きをしていた。

「篠さん・・・」
「桔華姉さん、お久しぶりです」

 篠はそういって、はっとするような所作で頭を下げた。

「仮の住まいでしたら、うちを頼ってくださればよかったのに」

と、小さなたたずまいのおとなしい感じの部屋を眺めながら、お茶を運んできた桔華に篠は言った。

「お部屋代だって、馬鹿にならないでしょう?」
「ええ、でも最上の家にいるわけにはいきませんし、それなら当然、親戚である北条家にもご迷惑はかけられませんから」

 それに、すぐに引き払うつもりです。といった桔華に、そんなこと、と篠は続けた。

「そんなこと、古月さんがどうにでもしてくれますよ」

 篠の言動には深い意味はなかった。ただ、本当にそうすればよかったのに、と心の中から思っているのだ。

「ゆゑだってよろこびますよ。今日だって、来たいって言っていたのを、遠いからといってようやく置いてきたのですから」
「しかし、よく分かりましたね、ここが」
「骨を折りました。本家に行っても知らないといわれるし、古月さんには聞く前に仕事に行かれてしまいました」
「・・・きっと聞いても分からなかったでしょう、だって誰にもここの場所を教えていませんから」

 桔華はそういうと、座敷の前に広がるこじんまりとした庭を見た。

「もう、大分紫陽花も終わってしまいまして」

 篠は自分も見たかった、と告げた。

「ゆゑさん、前あったときは今の古巻さんくらいでしたか。ずいぶんお姉さんになりましたね」

 少々の沈黙の後に、篠は口を開いた。

「古巻がご迷惑をかけたらしくて。ごめんなさい」
「あ、いえ、確かに、いきなり声をかけられたのでは驚きもするでしょうから」
「あの子、」

 何を考えているのか、たまに分からなくなるのです、と篠は言った。

「男の子だからではないのですか」
「そうでしょうか、親の私が言うのもおかしい話なのですが、感受性が強いというのでしょうか・・・。じっと、何かを見ているかと思えば、急に何かを察したように私のところにきたりするのです。あと、どうも父親が苦手らしくて」
「古月さんを、ですか」
「ええ。先日帰ってきたときも、まともに顔も合わせようとしなくて」

 駅で古巻が自分に見せたあの目を思い出した。あれは、子供ながらに何かを察している目だった。

 純粋で、まっすぐな目。底知れない感情をその小さな二つの眼に凝縮したような、独特の光を放っていた。それは自分を見据える先代桜花のそれであり、帰る場所ならここにあるといった古月のそれでもあった。

 北条の目、か。

 力を持つものに特別に与えられた、見たいもの以上に自分たちには見えないものまで見えてしまう、諸刃の刃だ。

「桔華姉さん、古月さんは、笑っていましたか」

 ふと、篠にそう切り出されて、桔華は言葉に詰まってしまった。

「あなたが帰ってくるっていうんで、あの人、本当に嬉しそうで・・・。いつも仕事も大変ですし、楽しみといえば、あなたとの昔話をお酒を飲みながら話すことですから」
 
 私、嫉妬しているんですよ、と篠は穏やかに言った。

「私も、古月さんも、好きですとかそういう感情を一切関係なく夫婦になりましたから。確かに、今の私にとって、あの方はとても大切な方です。それは間違いありません。だからこそ、私はあの方には笑っていてほしいのです」

 桔華は、聞けなかった。彼は家の中では笑わないのか、と。おそらく、子供たちの前ではいい父親なのだろう。実際古月親子が4人そろえば、どこから見ても幸せな家族そのものである。篠の口調では、夫婦仲はやはり円滑に行っていなかったのか。

 いや、違う。桔華は咄嗟に思った。

「違います、それは」
「え?」
「違うんです、あの人は」

 話の辻褄が合わずに、相槌で返した篠に、桔華は諭すように言った。

「あなたたちは、お互いに気を使っているんだ、お互いが・・・大事だから」

 わからない、という顔をした篠に、桔華はさらに続けた。

「大事なのでしょう、古月さんが」
「でも・・・、あの人は、本当は、あなたと」
「古月さん自身も、あなたがそう思っていると思っている。でも、あの人は正直な人です。嫌な人間と、ずっと一緒にいられるような、器用な人間でもありません、それは私が保証します」

 傲慢な言葉だ。そんな気がしたけれど、初めて篠に嫉妬している自分に気がついた。

「古月さんも、あなたに幸せでいてほしい、自分があなたに気を使えば、あなただってそれに気がつくでしょう? あなたに変に辛い思いをさせたくない、そう考えたから、古月さんは私を隠すようなこともしなかった、無理してあなたの前で笑うこともしなかった、違いますか?」

 返事はなかった。

 篠は小刻みに震えていた。やがて嗚咽が聞こえ始めると、一言、「ごめんなさい」とつぶやいて、白いハンカチを取り出した。

 不思議と穏やかな気持ちだった。今、ようやく彼の心情が分かったような気がして、その中にいたのが自分ではなくて、篠であったのだと理解したはずなのに、いままでの後悔や嫉妬、罪悪などは微塵も感じなかった。

 桔華は篠の肩を抱いて、言った。

「もう、苦しまなくていいのです。幸せになってください」


 初夏の心地よい風が、夕暮れの部屋に吹きぬけた。
 篠はしばらくの間、桔華の腕の中で泣いていた。


***


 夕暮れ時、古巻はというと、先代桜花のところにいた。

「今日は、拓真とかくれんぼをしました」

 そんなことを、古巻は一人で延々と語っているのである。
 今日は、聞きたいことがあるのです、と古巻は言った。

「なんでしょう」
「桜花様は、もう桜花様ではないって、そんなこと、ないよね桜花様」

 桜花は、その独特の包み込むような口調で、答えた。

「古巻、何かが始まるのならば、それは終わりを迎えるということなのです」
「終わり?」

 桜花は、もうほとんど見えていない目を古巻に向けて、「そこの縁側に」とうつろに指差した。
 古巻が指示された場所を見やると、そこにはもう動かない蝶が羽を広げて落ちていた。

「生まれるということは、死ぬということ」

 ふわり、と風が吹くと、ほとんど重力をかえさない魂の抜けた蝶の体がひらりと舞い上がり、土の上に落ちた。
 古巻はそれをどきどきしながら見ていた。風に舞い上がった蝶が、今一度、桜花の言葉で蘇ったのかもしれないと思ったからだった。
 落ちた蝶はもう一度風に吹き上げられ、庭の池の中に落ちた。後ろから桜花の声が重なった。

「そして終わりは、新たな始まりなのです」

 蝶が水に揺られるのを見ながら、古巻は「あの女」の顔を思い出した。

「あの女が、始まるの?」
「そして、私は終わるのです」
「桜花様、死んでしまうのですか!」
「そうではない。けじめなのです」

 桜花の言葉はいつも難しい。だけど桜花の言っていることはどんなことでも正しいのだと古巻は思っている。

「あの女は、嫌です」

 そんな古巻の心情を、桜花も分かっているので、

「わたしが、彼女を選んだのですよ」

と付けた。古巻は困った。桜花の言葉は正しい。でもあの女は正しくない。
 言い返したいけど、桜花に口答えは出来ない。あの女は許せない。がんばっていろいろ飲み込もうとして苦渋が顔前面に出ている古巻に、桜花は「おいで」と言った。
 古巻は嗚咽を必死でこらえ、涙を袂でごしごしとこすりながら桜花のひざに座った。
 大きくて繊細で、でも長い年月を感じるような刻み込まれたしわだらけの手が古巻は大好きだった。頭をなでられるとどうにもたまらなくなって大声で泣き出してしまった。

「いやだあ、桜花様いやだあ」

 自分のなかでも何がなんだか分からなくなってしまっていた。だけど一つだけ確かなのは、今自分を包み込んでくれている桜花様がいなくなってしまうことだけは、何が何でも嫌だということだけだった。

 桜花様は桜花様だ。ただ一人だけなんだ。


 わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁露に わが立ち濡れし


 朗々と、歌うように万葉集を読み込んだ桜花も、言い訳のように一言、

「いえ、わたしの袖も、あなたの涙に濡れてしまったということですよ」

と、漏らした。


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2010/08/10(火)
2、北条古巻

京、木漏れ日々(3)

***


 俄かに、北条家が騒がしくなった。

 古月が予告も無しに帰ってきたかと思えば、毎日毎日古月に面会という客がやってきて、篠もゆゑも接客にてんてこ舞いであった。使用人もフル動員で、朝から晩まで始めてみる顔の相手ばかりしていた。

 8月の始めのことであった。

 夏休みなので学校もない。家では父始め姉も母も古巻をかまってやれず、そんなわけで古巻はほぼ毎日拓真か孝子とともにいた。孝子の習い事がないときは3人で川辺に行ったり、また、この夏からは剣術の道場に3人で通い始めた。

「こうこさんもやるのですか」

と、古巻が問えば、とうの本人は、

「これからは、女だって強くなければなりません」

といって、男顔負けに竹刀を振り回す日々を送っていた。
 剣術をしたいと言いだしたのは古巻だった。最近は調子が悪いらしくて桜花に会えないでいるが、体調を崩す前に、桜花が

「剣術は、武士の誇りなのです」
 
 といっていたことを思い出して、自分も始めようと思ったのだった。桜花が回復したら、武士である自分をほめてくれるかしらと、そう思えばきつい稽古にも耐えていけるのであった。
 最初に頭角を現したのは拓真だった。相手をじっと見据え、自分からは動かずに向こうの動きの隙を突く、そう師範代から評価されていた。孝子も古巻も、拓真に負けじとその才能を開花させていった。
 日が暮れる頃に稽古が終わり、竹刀に稽古偽を引っさげて三人で帰宅の途につくと、きまって古巻を迎えに来る、若い無愛想な男がいた。
 いつも、舎人家の正面玄関のある道に曲がる一つ前の角の隅に立っていて、古巻の姿を見ると、きまったような礼をした。すると古巻のほうが、「帰るね」といって男のほうへ駆けてゆく。黒いすらっとしたズボンに、白いシャツ、その上からねずみ色の上着を着ていた。身なりはしっかりしていたけれど、孝子も拓真も一度もその男が話すところを見たことがなく、明日古巻に聞いてみようということになるのだけれど、そのたびに忘れてしまうのだった。

 お盆も過ぎた頃、稽古が休みの日に、3人は北条家の敷地内で遊んでいた。

 北条家の敷地は、異常に広い。舎人家も狭いほうではないが、日本庭園を意識しているために木や池や石などが配置してあるので、広さを感じない。一方古巻の家はがばっと開かれた門から玄関に続く中央の大通りの横に計算されたレンガのガーデンに色とりどりの花、テラスには白い椅子や、車が何台も止められるようなスペースと、時代を何年も先取りしたようなつくりになっている。
 しかし、その裏にひっそりとたたずむ、場に明らかにそぐわない古い江戸の蔵屋敷のような建物がある。ここは古巻も使用人も決して近づいてはいけないと古月からきつく言われている場所であった。

「なのにね、昨日たくさんの人が、おっきい荷物をいっぱい運んできて、あの中に入れたんだよ」

 そう話すのは、古巻である。
自分や姉は近づくことすら出来ないのに、見たこともない人たちが大勢であの蔵の中に何かを入れていったのだ。

「しかも、真夜中に」

 興味深げに拓真と孝子は古巻の話を聞いていた。そんな大切な場所に、人目に付かないような時間に一体何を入れたのだというのだろう。3人の好奇心は、見る見るうちに膨らんでいった。

「見に行きましょうか」

 と、はじめに言ったのは孝子だった。顔を上げた拓真は「いいの?」という目を孝子に向けていたが、孝子はにやりと笑って、肝の据わった目で古巻を見据えて諾否を問うた。

「行く」

 古巻は大きく深呼吸をして答えた。腹を決めた、という風である。「さすが古巻さん」と孝子もその覚悟に敬意を評した。

 決行は、今夜。


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2010/08/10(火)
2、北条古巻

京、木漏れ日々(4)

 日付が変わる頃、北条家の門前に、何台も車が停まり始めた。

 車から降りてくる男たちは、みな両手に大きなトランクケースを携えている。門前には例の無愛想な若い男がいて、一通り車から客人が降りたところを確認すると、門を開き、中の蔵へと案内した。

 横の茂みに隠れているのが、三人である。

「そうだ、古巻さん、あの男の人は」
「桧山の事?」
「檜山?」
「お父さんが、中国から連れてきたんだって」

 古巻の声が少しくぐもった。そういえば、古巻は父親との楽しい話をあまりしない。
 一行が蔵の方へと移動したので、3人ともこっそりと蔵の近くに移動した。
 慣れた手つきであの無愛想な男―――桧山が鍵を開け、重たい門が開かれる。中にぞろぞろとトランクケースの男たちが入っていき、彼らが出てくるときは両手には何も持っていなかった。
 最後の男が出たところで、桧山がいったん姿を消し、変わりにいつも挨拶をしてくれる北条家の使用人の男が、何かを男たちにつぶやいていた。男たちは使用人の言葉を聴き終えると、自分たちの乗ってきた車のほうへと歩き出した。
 その瞬間に、拓真はぱっと、茂みから飛び出して蔵の入り口に向かった。「拓真っ」と孝子も追おうとしたが、使用人がこちらを向いたので古巻が孝子を押さえ込んで再び茂みに戻った。

 二、三回頭上を電灯の明かりが通過した。すぐ後に静寂が来た。

 孝子と古巻はそっと頭を上げた。あたりに拓真の姿はない。使用人が蔵の中にいるであろう桧山に何かを告げ、自分は屋敷へと戻っていった。

「拓真、あの中にはいったのかなあ」
「そうかもしれませんね、いってみましょう」

 歩みだした瞬間に、蔵の中から大きな音がした。
 


 つい、飛び出してしまった拓真は、何事もなく蔵の中に入ることに成功していた。
 あの厳重なトランクは無理でも、無造作に積まれた荷物に布がかけてあるだけのこれなら、中を見られるかもしれない。
 
 前方に桧山の姿が見えた。言ったり来たり、荷物を確認しているのだろう。

 桧山が後ろを向いたのをしっかりと見届け、靴の音が遠くなったのを感じてから、自分の背より高いところにあるものを見たいために、近くにあった箱を踏み台に、届いた布にてをかけた。ひらり、とめくってみると黒い、ごつごつした物体が夥しいほどの量とともにそこにあった。

 いけない、と思った。
 これは、銃だ。

 拓真の気が緩んだ一瞬だった。桧山が「誰だ」とランプをこちらに向けた。驚いた拓真はそのままバランスを崩して後ろに倒れた。
 ごつ、と何かを頭に押し付けられて、ゆっくりと目を開けたら、桧山が自分の頭に銃口を向け、引き金に指をかけていた。拓真は何が起こったのかわからなかったが、これはとても危ないのではないかと思った。

 きちゃだめだ、姉上、古巻。

 そう思った次には、自分の名前を呼ぶ二人が、蔵の入り口に姿を現しているのが分かった。桧山は気付くより早く、拓真の頭に押し付けていた銃口を入り口に向けて二発、打った。甲高い銃声が蔵の中に響いた。暗闇の中、咄嗟に拓真は桧山の腕にしがみつき、反動で次の一発は見当違いの方向へとび、桧山のほうも拓真を振り払おうと必死だった。


 一方、入り口の二人は何が起きたのか分からず、その場に立ち尽くしていた。
 そしてその後ろから、高い声が二人を呼んだ。

 「・・・古巻? 孝子さん・・・!?」

 そこには、夜着に上着を羽織っただけの、篠の姿があった。
 その声にびくりと反応して、桧山は拓真ともみ合う手を止めた。自分にも力がこもっていたから、そのまま拓真は後ろに吹っ飛んで、しりもちを付いた。

 「おかあさん」
 「こんな時間に、こんなところで何をしているのです!」
 
 当然の反応だった。しかし、篠も普段めったにあくことのない屋敷の蔵の入り口が開いていることに気がつくと、怪訝そうに入り口につながる階段を上り始めた。
 
 しりもちの痛みが全身を駆け巡っていて、拓真は動けなかった。しかしその前方で、桧山が新たなカートリッジを銃身に装填しているということは分かった。
 壁にぴたりとついて、息を殺し、外の様子を伺っている。もし篠が入ってきたら、打つ気なのだろうか。
拓真は声が出せなかった。全身を貫く痛みと、恐怖。とにかくきちゃだめだ、来たら撃たれる・・・!!

 「奥様っ」

 篠はその声に呼び止められ、後ろを振り向いた。見慣れた使用人の顔だった。

 「おんやあ、すいません、門の扉、開けっ放しだったんだねえ」

 そういうと、篠をすらりと追い越し、せかせかと扉を閉め始めたので、「ま、待って」と孝子は叫んだ。

「中に、拓真がいるの」

 孝子は見た。そういった瞬間に、使用人の目がまるで獲物を狩るみたいな恐ろしい動物のような目をしていたのだ。

「あんれ、迷い込んでしまったっけかな?ちょっと待っててね、中はいろいろ危険だから、おじさんが見てくるからね」

 そういって、おじさんは暗闇に消えた。改めて篠が「だめじゃないの、こんな夜中に何をしていたの」と古巻を責め始めた。

「なんだかいっぱいここに荷物が運ばれてたから、それで・・・」
「ここにはきてはいけませんって、しゃちょうさんもいってらしたでしょう。さあ、帰りましょう。詳しいお話は、明日お聞きしますよ」

 そんなことを言っているうちに、使用人のおじさんが拓真を抱いて蔵から出てきた。拓真をおろすと、扉を閉めて鍵をかけ、「そういえば・・・」と篠に切り出した。

「奥様こそ、こんな時間にどうなさったのです?」
「え、ええ、なんだかこちらのほうで、明かりを見た気がいたしましたので」

 使用人は「そうですかあ」といった。

「それなら、私に言ってくださいよ。こんな時間に奥様を外に出したなんて旦那様に知られたら、私の首が飛んでしまいます」

 使用人はからからと笑った。
 
 その使用人に背中を押されるように屋敷に向かう道のりの途中で、孝子はふと、思い出したことがあった。

 桧山。

 そういえば、あのとき。

 古月が、上海のお店で買ったというお土産を自分たちにくれたとき。

「おじさまの後ろにいて、赤い箱と青い箱を持ってきてくれた人だ・・・。」

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2010/08/10(火)
2、北条古巻

篠(1)

 ***


 それからしばらくは、静かな日々が続いていた。

 9月に入り、学校が始まった3人は朝早くから登校するようになり、尋常小学校で拓真と古巻を見送った後に、孝子も自分の女学校へと踵を向かわせるのであった。

 しかし、拓真の心中は、とても穏やかなものではなかった。

「どうかしたの」

 授業中に先生に指名され、珍しく答えることが出来なかった拓真に不審を感じた古巻が、帰り道で拓真に問うた。

「ううん」

 そして拓真の返答も決まりきったものであった。
 
 あの日以来、拓真はあの蔵の中で起こったことを誰にも話していないのだった。中にあったたくさんの銃や、桧山のことだとか、使用人のおじさんが迎えにきたときに実はこっそり裏門から桧山を逃がしたことだとか、何一つ、誰かに漏らすようなことはしなかった。

 しゃべったら、きっとまた怖い目に会う。

 それは本能的に思ったことであった。そして、しゃべった人にも。そう思えば、自分の内部に溜め込むしか方法はなかった。

 桧山も、あの日以来姿を見せなくなった。

 古巻に聞けば、「お父さんが中国にお使いにやったんだって」と返事が返ってきた。ちょっと安堵したような、でもあの男には、姿が見えなくても得体の知れない恐ろしさがあったのでやはり口は開かないことにした。

「でも、一体なんだったんでしょうね、あの中は」

 たまにそんな会話になる。下校の途中で、今日は早めに授業が切り上がったらしい孝子と鉢合わせて3人で歩いているときに、孝子が思い出すように切り出した。

「拓真、何か見た?」
「ううん」
「でも、あの中に入ったのでしょ」

 そういえば、と、拓真は思った。

「姉上と古巻は、何も見なかった?」

 孝子と古巻は目を見合わせたが、

「暗くて、よくわからなかった」

 と、古巻が言った。

「大きな音がしたと思って入り口にきたら、パンパンって何かが響いて。そしたら、後ろから篠おばさまが来たのよ」

 いきなり、古巻が立ち止まった。不意だったので、拓真はぼうっとしたまま、古巻の背中のカバンにぶつかってしまった。痛む鼻を押さえ、視線を上げれば、そこにはゆゑと拓真は知らない女がいた。

「おかえりなさい、今日は早かったのね」

 と、ゆゑが先にこちらに気がついて話しかけてきた。

「ただいま帰りました、ゆゑさん、・・・えっと」
「こちらは最上桔華さん。桔華さん、こちらは舎人さんの御家の」

 そこまで言うと、ああ、と桔華は言って、

「孝子さんと、拓真君ですね」

 と、穏やかに目を細めた。にわかに親近感を覚えた孝子は、「よろしくお願いします」と頭を下げ、桔華の携えていた花束が綺麗だと告げると、「ありがとう」と桔華のほうも微笑んだ。
 そんな姉をみて、場の和むのを感じた拓真が、古巻のほうを見やれば、こらえるように奥歯をかみ締めて、何かに耐えているようであった。見かねたゆゑが、「古巻、挨拶くらいしなさい」といえば、今にも泣き出しそうな目を桔華とゆゑに向け、一人で走り出していってしまった。

「古巻さん?」

 驚いた孝子が声をかけても、古巻は振り返ることすらせずに視界の奥へと消えていった。拓真は取りあえず、3人にぺこりと頭を下げて、大急ぎで古巻の後を追った。
 
何があったのかしら、と怪訝の目をゆゑに向ければ、ゆゑも困り果てたような顔をしていた。

 振り返って、「本当に、ごめんなさい、桔華姉さん」と丁寧に頭を下げると、桔華のほうも気にしないで、といった風に

「しかたありません」

 と簡素に言った。



***


 古巻に追いついた拓真は、いくら声をかけても止まろうとしない古巻に腰に組み付いて、ようやく古巻の行く手を阻んだ。反動で、古巻は組み付かれたまま、拓真は組み付いたまま横の河川敷から転げ落ちてしまった。川一歩手前でようやく止まった。拓真は体中がずきずきするのを感じながら、よろめき、頭を上げると、古巻は立ち上がろうともせず、そこに蹲ったままだった。

 さらさらと、隣で清流の流れる音がする。

 拓真は、その場に体育座りをして、古巻が自分で起き上がるのを待つことにした。

 秋だ。

 少し前までは具合が悪くなりそうなほど暑かったのに、今はこんなに走っても、汗をかくこともない。熱風ではなく、穏やかな風が、耳元を過ぎていく。目を凝らしてみれば、川には鮭も上がってきているようだ。ンボが飛んできて、横たわったままの古巻の肩に止まった。拓真はそれをじっと見ていた。トンボは何回か頭をひねり、一回空中に戻った後に、また同じところに着陸した。二匹目が飛んできて、一匹目の向かいに止まった。尻尾が赤いトンボだった。何事もないように2匹は古巻の上で座談し、むっくりと古巻が起き上がったところで、ようやく空の青へと帰っていった。

 古巻は一回鼻をすすった。

 むっつり顔に、転がった際についた草や土が付いていた。拓真が手を伸ばせば、ふいとそっぽを向いた。

「たくま、顔に土ついてる」

 古巻に言われて、きょんとした拓真は、自分の顔を水面に写してみた。古巻にも負けないような汚れぶりだった。

「こまきも」

 ふと振り向いて、不機嫌そうに水面に照らせば、真っ黒な顔の二人が、にこりともせずにこちらを見ていた。それならばと二人そろって水面を睨んでいたが、やがて耐え切れなくなって、どちらからともなくばしゃばしゃと顔を洗い始めた。落ち着いて、もう一度水面に自分の姿を見る。拭うものがないので顔の輪郭をなぞった水滴が、顎からぽとぽとと滴っていた。

「お母さんが、寂しい顔をする」

古巻も拓真も、水面に視線を落としながら話していた。

「あの女がきてから」
「さっき、ゆゑさんと一緒にいた」
「うん」
「悪い人じゃない」
「そんなの、わかんない」

 古巻は、近くにあった小石を投げた。水面が、水面に移った二人の顔をゆがめた。 
 拓真が、口を開いた。

「篠のおばさんに、聞いたの」
「・・ううん、何も」
「じゃあ、それもわからないね」
「?」
「篠のおばさんが寂しいのは、あの人のせいじゃないかもしれない」

 古巻はばっと立ち上がって、叫んだ。

「違う!あの女のせいだ、あの女さえ返ってこなかったら」
「違わない、古巻は人のせいにしてるだけだ」
「違う!」
「違わない」
「違う!!」

 泣き出しそうな古巻に、拓真は水面に視線を戻して言った。

「聞けばいい」

 一気に跳躍した感情を、かろうじて抑えながら古巻は聞き返した。

「何を」
「どうして、そんな顔するのって、篠のおばさんに」
「できないよ」
「できるよ、古巻のお母さんだもの」

 拓真の口調はいつもと変らなかった。でも、古巻は忘れていたことを思い出した。
 拓真には、お母さんがいないんだ。

「なんにもないのに、人を悪く思ってはいけませんて、姉上が言ってたよ。こまき、姉上にも怒られちゃうよ」
「・・・なんて、聞けばいいのかな」
「本当に聞こうと思えば思いつくよ」
「そうかな」
「うん」

 少しだけ、心の中のわだかまりが小さくなったような気がした。隣で、拓真は水の中に手を浸して、その温度を楽しんでいた。この前星を見に連れて行ってくれたときも、今こうして話を聞いてくれたことも、自分は何も言ってないのに、拓真が導いてくれたものだった。

「拓真」
「なに」
「お母さんいないの、寂しい?」

 拓真は驚いたような顔で古巻を見た。

「寂しくないよ」
「いないのに?」
「いるよ、あそこに」

 拓真は、いつか自分に教えてくれた「北の星」を指差した。いつもあそこから見ていてくれるから、寂しくないのだと告げた後、「暗くなるから帰ろう」と言った。

「ごめんなさい、しなきゃ」

 後ろから拓真の声がしたが、古巻はそれに返事をすることはなく、どうやって母に聞こうかと、そればかりを考えていた。


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2010/08/10(火)
2、北条古巻

篠(2)

 その夜、父、古月はまだ帰っていなかった。

 外は嵐で、閉めた雨戸もぎしぎし音を立てていた。雷の苦手な姉のゆゑが、閃光と轟音のたびに顔を顰め、母、篠もそのたびに「大丈夫ですよ」と声をかけていた。古巻はというと雨とか雷とか帰ってこない父よりも、どうして母に切り出そうか、頭の中はそのことでいっぱいだった。

 夜九時を告げる時計の鐘が屋敷の中に響き渡り、ゆゑも古巻も寝室に移ることになった。

「おやすみなさい」と先に自室へ引き上げていった姉を見たどけた後、篠は古巻の手を引き、寝室へと向かった。お風呂上りの程よい体温と、母の手より伝わる安心感が、古巻を眠りの世界へと引き込んでいく。掛け布団を上にかけ、ぽってりと熱を持った古巻の額にひんやりとした母の手が触れる瞬間が、一日で一番好きな瞬間だった。母が自分だけを見ていてくれる。母が自分だけのものになったような気がするからだ。

 いつもは一緒に寝てくれる母が今日はその気配がないので「寝ないのですか」と聞くと、

「もう少し、起きていますから」

 と、答えた。「今日は、何のお話にしましょうか」と、いつも眠る前に聞かせてくれる昔語りを思案している母に、古巻はもう一度聞いた。

「どうして、お父さん帰ってこないの」

 先ほどまでの穏やかな表情に少し翳りが見えた。古巻はそれを見逃さなかった。

「お母さんは、最近なんだか寂しそうです」

 古巻は、じっと母の顔を見ていた。つながれた右手から母の心臓の音が聞こえてくるような気がした。母の目は、自分を見ていなかった。自分の知らない母の顔だった。

「あの女が帰ってきたから・・・?」

 少ししてから、篠は厳しい顔で言った。

「あの女と言ってはいけません」
「お母さんは、あの女が来てから、辛そうです」
「古巻、桔華さんはすばらしい人です。あなたも、彼女とお話してみれば」
「嫌です、母さんを苦しめる人とかかわりたくありません」

 篠は、古巻が以前に見た寂しそうな顔をした。

「古巻、あの人を恨んでいるのですか」
「はい。父さんも同じです」
「そうですか、それでは母の言うことも聞きなさい」

 篠は古巻の頭を抱いて、優しく、しかしはっきりと言った。

「あの方たちを恨まないでください。私も恨んでいませんから」


 意外な言葉だった。

 古巻はその言葉を理解できないまま、母の胸の中で心地よい眠りに落ちた。


 そして、それが母と交わした最後の言葉となった。



***



 季節はずれの雨が降り続いていた。

 豪雨ではなく、しとしとという雨が、絶え間なく地面をぬらしていた。そして、北条家では、静かに事件の幕は開がっていた。
 篠がいないことに最初に気がついたのはゆゑだった。始めはどこかに出かけているのだろうと、ゆゑも、古巻も、使用人ですら気にも留めていなかったのだが、その日の夜になっても自宅に戻らず、しかも行き先も告げていないということに、人々は一抹の不安を胸の中に抱かざるを得なかった。

 もう、一週間になる。

「ちゃんと隈なく探したんか!? 友人とか、篠はんの実家のほうとか!!」
「停車場にも問い合わせしてみたけど、在来は名簿もあがらへんし、それらしい人を見た言うこともありまへんでしたえ」
「他にどっかないのか、あの人の行きそうなところとか!」
「古月はん!」

 近所の知り合いや、地元の警察たちも躍起になって篠探しに奔放していた。そんな人たちをねぎらいながら、指示し、自分もあちこち探し回っていた古月にも、かなり疲れた表情が滲み出ていた。古巻は、舎人家に預けられていた。学校から帰れば、拓真とともに古巻も母を捜しに走り回っていた。雨が降っていたが、傘をかぶっている余裕などなかった。古巻は一刻も早く母に会いたかった。

「桔華さん!」

 町外れまで母の捜索に来ていたゆゑは、桔華の姿を見つけて叫んだ。

「ゆゑさん、まあ、走っては・・・」

 雨の中、虚弱な身体を押して走ってきたゆゑは、桔華の前まで来ると、息をするのもままならないくらい咳き込んだ。桔華はゆゑの背中をさすり、自分の着ていたものを差し出すと、ゆゑは自分でそれを断り、ようやく口を開いた。

「今日は、萩のほうまで行ってみようと思います。母が昔、あそこの菖蒲の花を見てみたいと言っていましたから」
「萩!いけませんゆゑさん、あんな遠くへ行くなんて、あなたの体が持ちません、私が行きます」
「行かせてください、母が心配なのです、こんな雨の中、お財布だって置いていってるのに・・・」

 ゆゑは泣きながら桔華に訴えた。無理して走ったせいか、何度も咳き込み、その激しさに、かぶっていた傘を落とし、地に膝をついた。ごほごほと肩を震わせながらなんども咳き込むゆゑの肩を抱いて、断られた上着を強引に着せて、自分の傘の下にゆゑを入れた。冷たい雨だった。この一週間まともに眠れていない桔華の肌に、無常に突き刺してくる針の様でもあった。

 目の前に車が泊まった。傘の下から覗けば、古月であった。

「桔華、ゆゑ!」

 桔華が、さあ、とゆゑをたたせて、古月の乗ってきた車の後部座席にゆゑを押し込めると、ゆゑは自分も行くと嫌がって、なかなか素直に車に乗ろうとしなかった。古月が「お前、そのまま無理して死んでしもたら、それこそあいつも帰ってこなくなるやないか!」と、強引に中に入れようとした。

「半分は、あなたのせいでしょう!!」

 聞いた事のない、ゆゑの非難の声だった。

 呼吸もままならない今のゆゑが、空気の「溜め」を必要とするような叫びを、父に対して発したのは初めてだった。しかしゆゑはすぐにそのことを後悔するかのようにおとなしくなり、古月から顔を背けて後部座席に収まった。

「そうですよ古月。今回のことは、あなたの責任でもあるのです」

 後ろから甲高い女の声がした。桔華の姉―――八重であった。

 使用人に傘を持たせ、高級そうな衣服に身を包み、こちらに対する嫌悪感の塊のようなオーラを発す女であった。八重は、見下すようにずぶぬれの桔華の姿を一瞥し、古月に視線を戻して言った。

「たいへんなことになりましたね。これが何を意味するのか、おわかりかしら」
「・・・えらいすんまへん八重姐、今みんな総出できばっとるもんや、篠見つけたらちゃんとしますよって」
「頼みましたよ、一族から不幸など出さぬよう・・・」

 八重は桔華を見据えていった。

「ほんに、誰のせいでこないなことに」

 それだけいうと、八重は後ろに止めてあった自分の車へと戻っていった。雨の音と、車の去る音が耳に残った。

「何しにきたねん、あいつ」

 そう吐き捨て、古月は桔華に車に乗るよう勧めた。

「・・・結構です」
「桔華、あいつの言うことなんか気にせえ」
「結構です」

 はやくゆゑさんを休ませてあげてくださいと、それだけいうと、桔華もその場を後にした。古月はなんだかすっきりしない心持のまま、むしゃくしゃする気持ちをかなぐり捨て、車に乗り込むと、「出せ」と運転手に声をかけた。


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2010/08/10(火)
2、北条古巻

篠(3)

***


 古巻は、母と手をつなぎ、歩いていた。

 青い空の下、古巻はとてもわくわくしていた。あたり一面新緑の光で満ちていた。大好きな母も、楽しそうに鳥のさえずりなんかを聞いているようだった。

「どこにいくの」

 古巻が母に聞いても、母は答えなかった。しばらくしてもう一度聞いても答えてくれなかったので、古巻はなんだか不安になった。

「お姉さんは?」

 ゆゑの姿はなかった。父も、拓真も、孝子も、・・・あの女さえいなかった。ここには自分と母しかいない。しかもその母は自分の問いに答えてくれない。「帰ろうよ」と、古巻は母に言った。母は相変わらすだんまりのまま歩き続けている。さっきまでの楽しい感情は、一気に下降していった。寂しくてたまらない。母が、母ではないみたいだ。そう、あの寂しい顔の、自分の知らない母だった。さっきまであんなに晴れていたのに、気がつくと一面真っ黒だった。
 
 まもなく、雨も降り出してきた。
 母は立ち止まり、つないでいた古巻の手を離して、振り返って言った。

―――――――あの方たちを恨まないでください。私も恨んでいませんから。



 ***



 目が覚めると、夢の中と同じ雨が降り続いていた。連日町中を走り回っているおかげで、拓真も孝子も相当疲れているらしく、隣でぐったりと眠っていた。時計を見たら朝の5時少し過ぎくらいだった。朝だというのに、厚い雲のおかげで回りはまだ大分薄暗かった。
 布団から這い出て、とりあえず寝巻きから着替えはじめた。するとその気配に気がついたのか拓真がむくり、と起きだして、眠い目をこすっている。

「古巻」
「母さんが、早く来てって」

 着替え終わるや否や、古巻は早朝の雨の中へ駆け出していった。

 別に根拠があるわけではなかった。心の中で母の声が聞こえたわけでもなかったし、これから自分がどこに向かっているのかさえわからない。しかし、駆け出した足は止まることなく、確かにどこかに向かっていた。そしてきっと、その先に母がいるのだと、古巻は確信していた。
 いつの間にか後ろから拓真が追いついてきていた。古巻に声をかけるでもなく、ただもくもくと、古巻の後ろにしたがっている。

 恐怖はなかった。
 それよりもはやく、母に会いたかった。

 気がつけば、古巻は自分の知らない道を走っていた。それはもう道とはいえない道で、乱雑に育った雑木林の中を、掻き分けるようにして進んでいた。枝が古巻や拓真の肌を容赦なく傷つけた。古巻はそれすら気にせずに、目的地を目指した。いつの間にか雨もやみ、雲間から細い光が見え始めていた。眩しさをこらえながらさらに進めば、雑木林がひらけて、今度は竹林が目の前に現れた。古巻はここで足を止め、辺りを見回した。拓真も古巻の後ろからついていった。

 ふと、強烈な太陽の光に目がくらんで、古巻は腕で顔を覆った。
 眩しいその先に、黒いものが視界に入った。
 拓真は、じっとそれを見ていた。やがて古巻も、慣れてきた目で、黒いものの正体を見た。


 ***


 大人たちが二人に追いついたのは、それから15分も後のことだった。

 拓真が、行きがけに孝子に声をかけてきたので、その孝子が、拓真の後を追いながら周りの大人を先導してきたのだった。

 人々は言葉を失った。

 そこには、目的の人物が竹に縄を括り、自らの首をつないで、力無い体はだらしなく宙に放り出されていた。
 十何人といた大人のなかでも、叫び声をあげるものや、呆然と立ち尽くしてしまうもの、この有様を見せるまいと、孝子の顔を手で覆うものもいた。
 古巻も拓真も、目を離さずにずっとそこにいた。まるでそこだけ時間が止まってしまったような空間だった。

「・・・しの」

 ようやく古月が到着した。自分の妻の変わり果てた姿に、しばらくは呆然と、立ち尽くすだけであった。
 遅れて桔華とゆゑが姿を現した。一言「お母さん」とだけ漏らすと、ゆゑは桔華にしがみついて大声で泣き出した。

「だれか・・・、だれか、篠さんをおろしたってや」

 ようやく意識を取り戻し始めた大人たちが、誰からとも無くそんなことを言い出し、近くの農家から借りてきた鎌で竹と彼女の首をつないでいたロープを切ると、重力に逆らわず、主を失った体が、地面に落ちた。
 地に落ちた篠を古月が抱き上げると、既に人間の体温は無く、氷のように冷たかった。生前に感じたあの柔軟な肌も、命尽きたあとはまるで鋼鉄のように硬くなっていた。

「篠、篠、なんでや・・・なんでなんや・・・」

 古月がとめどなくもう二度と動くことの無い自分の妻に話しかけているのを、古巻は自分でも驚くほど平静に眺めていた。大好きな母が死んだのに。もう、寝るときに自分の頭をなでてくれることは無いのに。

 悲しくない。なんでだろう。

 後ろで、泣きじゃくるゆゑとともにいる桔華を見た。視線を戻せば、無責任な涙を流す父、古月がいた。

 お前たちが、母さんをころしたんだ。

 ざわざわと、竹が揺れるたびに、眩しいほどの太陽の光が刺すように入り込んできた。
 世間では新しい一日が始まろうとしているのに、古巻の中で、今日という一日の始まりはついに訪れなかった。

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2010/08/10(火)
2、北条古巻

篠(4)

***


 耕三郎が北条家に着いたのは、篠の通夜の夜であった。


 いつもは出迎えてくれるはずの孝子が、今日はいなかった。変わりに拓真がひょい、と出てきて、「おかえりなさい」と言った。

「古月は」

 厳しい表情のまま拓真の頭にふれ、そう訪ねれば、「挨拶に来る人の相手をしている」と拓真は答えた。弔問客の相手ということだろう。耕三郎も急いで陸軍のコートを脱ぎ、箪笥の奥から黒いスーツを引っ張り出した。ひどく黴臭いにおいがした。そういえば、朝重のときに着ることも無かった。耕三郎は、拓真の手を引いて家を出た。

 北条家の前まで来ると、黒い服を着た人々が門を出たり入ったりしていた。中からは読経の声も聞こえてくる。花輪が軒を連ね、線香のにおいが鼻を掠めた。連絡を受けてからここにいたるまで、実はあまり人が一人死んだということに実感が無かったのだが、耕三郎は、ここまできてようやく心の中にずっしりとしたものを感じた。
北条家の洋風建築には、日本風の葬式形態は酷く不似合いであった。焼香を済ませ、手をあわせて横にいたれば、そこに喪服姿の古月の顔があった。
 舎人はとにかくその場は一礼をして過ぎ去った。すれ違う瞬間に、「よかったら、待っとったってや」と古月がぽそり、と言った。

 その横に、桧山の顔があった。

 以前見たときと変らぬ、鋼のような面立ちだった。人一人死んだというのに、何事も無かったように主人の後ろに控えるその姿は、普段なら軍人とはこうあるべきなのだろうと感心するところであろうが、今日は妙に引っかかるものがあった。

 拓真も、あの日以来見る顔であった。

 ちらりと桧山を見れば、一瞬だけ視線が合ったが、気のせいだったかもしれないと思うほどすぐに桧山は所定の場所に視線を戻した。父に手を引かれながら、拓真は首が回らなくなるまで桧山の顔を見ていた。
 会場隅の目立たぬところに2時間近く待っていただろうか。腕の時計は午後9時をまわっていた。弔問客の足も大分遠のいてきたところに、古月が近くに歩み寄ってきた。
 舎人はまず立ち上がり、「お悔やみ申し上げます」と述べ、慇懃に礼をした。「えらい、すんまへん」と古月も憔悴しきった顔で、返答の礼をした。拓真が隣で眠たそうに頭をもたげていた。耕三郎はそれを抱いて、古月も来客用の椅子に腰を下ろした。

「何があったんだ」
「わからへん、なんにもわからへんのや」

 うつろな目で、会場前にある妻の遺影を眺めながら、古月はつぶやくように言った。
 遺影の中の篠は、色も無いのにひときわ美しく見えた。
 もう二度と、言葉を交わすことも無いのだと、あらためて思った。

「どうしたらええんや、情けないけど、なんにも、見えんようになってしもた」

 耕三郎も、黙って聞いていた。中途半端な返答は、この場では何の意味を成さぬ。
 古月も、ここまでずいぶん思いつめたのだろう。普段快活なこの男は、外見の荒っぽさとは裏腹に、内部にはるか繊細な部分を併せ持った、おそらく、自分で自分を制御するにはもっとも困難な部類の人種であると耕三郎は思っている。それだけに、ここで自分の発した言葉がどんな形で彼を傷つけるか分からないと、口を開けずにいたのだった。

「耕」
「うん」
「お前、こんな気持ちに耐えていたんやな」

 皮肉なものだった。あの頃の自分の感情を、このような形で共有することになってしまった。
 しかし、耕三郎は、直接、妻の死に顔を見ていない。帰ってきたときにはすべてが終わっていたのだから。
 目の前でうなだれるこの男は、自分の妻の、もっとも残酷な姿を凝視したのだ。おそらく、自分とは比べ物にならない絶望感を内に秘めているのだろう。

「古巻君は、」
「お嬢が付きっ切りでそばにおる」
「孝子が?」
「今の古巻の心情を一番理解してやれるのは、お嬢だけやからな」

 わずか6歳で母親を失った古巻は、どれだけの心の傷を負ったのだろうか。純粋な子供だけに、大人の想像を絶するものであるのかもしれない。
 今更そんなことを。自分の妻を失ったときは、娘の気持ちまで考えてやれる余裕が自分には無かった。

「篠さんに、何か懸念事項でも」
「考えられるのはひとつや」

 自明だ。耕三郎は、古月の言葉を聞くまでも無かった。

「・・・篠さんは、そんなに賎しい人間じゃない」
「わいかてそう思っとる、でも確かに、桔華が帰ってきてからあいつは少しかわっとった」
「篠さんは知っていたはずだ。あなたと最上さんのことは。それを今更」
「せやかて、それ以外には思いつかへんねや!!」

 行き場の無い悲しみ。自分への怒り。いっそ自分も消えてなくなることが出来たらと、苦しみから逃れるための結論しか出てこない今の古月の心情を、耕三郎もかつて体験したことがあった。

 それでも、生きなければならない。
 家族のためにも。
 死んだもののためにも。
 そのゆるぎない結論に至るまでには、まだまだ時間が少なすぎると、耕三郎は思った。


 ***



 古巻は、孝子の胸の中にいた。

 この3日間、一点を見つめたまま、ろくに眠ることさえなかった古巻が、さすがに疲れたのか、うつらうつらしている。孝子は、古巻を起こさないようにそっと立ち上がると、隣の部屋から毛布を持ってきて、自分と古巻をくるむように毛布をかぶった。

 夜の風は冷たい。

 線香のにおいが充満するから、と、お手伝いのお姉さんが襖戸を開けたままにしておくので、風が容赦なしに吹き込んでくる。隣の部屋の読経の声と、弔問客の嗚咽とが、ここの小さな部屋にまで届いていた。そんな重たい空気から古巻を守るように、孝子はひたすら古巻の体を抱き続けていた。

 古巻は、泣かなかった。

 篠の遺体が、竹林の中から自宅に移され、棺の中に安置されるのを確認した孝子は、そこに古巻の姿が無いことに気がついた。古巻の寝室や、舎人家や、先代桜花のところなど、おもいつくところを散々さ探しても見つからず、そういえば、と思い出したのだった。

 北条家の一角にある、和室の部屋。

 洋風のつくりの中に、篠が古月に頼んだとかでその一角だけが畳張りの小さな和室になっている。夏には涼しい風が吹きぬけ、風鈴をそこにつるした篠が、孝子や拓真をよんで、よく4人で夕涼みをしたのだった。

 思ったとおり、古巻はそこにいた。泣きもせず、口を噤んだまま、そこに体育すわりをして視線を斜め下に落としていた。がらり、と障子戸をあけた孝子に気を向けることも無く、穿たれた彫刻のように、そこを動かなかった。孝子もその様子を睨むようにずっと眺めていたが、ずかずかと座敷に上がりこんで、古巻の頭を抱いた。古巻は嫌がらなかった。それをいいことに、孝子は篠がそうしていたように、古巻の体ごとこちらに抱き寄せて、壁にもたれて落ち着いた。ほぼ三日、この状態である。たまに厠に行くときには古巻の手を引き、帰ってくればどちらからとも無く寄り添った。使用人が気にかけて持ってきてくれた食事には二人とも箸をつけなかった。ずっとお互いの心臓の鼓動を感じるような距離の中で、お互いにしか分からない感情を、体温ともども共有していた。

 古巻が安らかな寝息を立てる音を聞いた孝子は、ほっと、安堵の息をついた。ようやく、深い眠りに着いたようだ。この3日、たまに目を瞑ることはあっても、思い返したようにふと目を開け、またどこか一点を見つめていた。このままでは古巻の身体のほうが持たぬと、古巻を抱く孝子の腕にも、思わず力がこもってしまうのだった。

「孝子」

 後ろで開いた障子の影から、父、耕三郎が眠った拓真を背負っていた。「ここにいたのかい」と優しく微笑むと、ゆっくりと障子を開け、拓真を前に抱え直し、孝子の隣に席を取った。
 手のつけられていないお膳と、孝子の中で寝息を立てている古巻を見て、耕三郎は孝子の顔を見た。
 孝子は、その視線を振り払った。
 娘の思いがけない反抗に、耕三郎はわずかな動揺を覚えた。

「怒っているかい」

 孝子は答えなかった。変わりに纏っている毛布に顔を埋め、深い呼吸を始めた。

「すまない」

 すまない、朝重。孝子をこんなに早く大人にしてしまったのは、わたしの責任なんだろうな。
 篠は、母親のいない孝子や拓真にとっても母親同然の存在だった。この子達は、母親を2回、失ったのだ。

「父上」

 思いがけない孝子の声に、耕三郎は「なにかな」とかろうじて答えた。
 毛布に顔を埋めたままの孝子は、悲しい声で告げた。

「今日は、帰ってきたんですね、ちゃんと」

 それ以上、孝子は口を開かなかった。

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2010/08/10(火)
2、北条古巻

篠(5)

 ***


 残酷なほど、空は晴れ渡っていた。
 

 耕三郎が、篠が発見されたという竹林に足を伸ばしたのは、通夜の夜から二日後のことであった。

 その場には、おそらく近所の顔見知りが手向けたのであろう花束が無造作に積んであった。故人を偲ぼうと、耕三郎も持参した花束をそこに手向け、手をあわせた。

 ふと、人の気配がして振り向くと、女のほうが、驚いた顔をした。

「と、ねりさん?」

 誰だ、と耕三郎も記憶を弄ってみた。ゆっくりと蘇ってくる記憶なのかに、この女の顔があった。

「ああ、最上さん!」
「お久しぶりです、こんなところで、またお会いできるなんて・・・」
「もう10年にもなりますか」
「そうですね、私も、久しぶりにこの街に帰ってきましたから」

 そうだ、この人だったと、耕三郎は思い出した。健在だった朝重と、まだ新婚だった古月と篠、そしてこの最上桔華と5人で、何度か飲みにいったことがあった。
 桔華もその場に花を手向け、手をあわせた。それを後ろから見ていた耕三郎は、結い上げた後ろ髪の首もとに、確かに綺麗な人だ、と思った。

「麗しい方でした」

と、桔華は言った。

「嫉妬していたのは、むしろ私のほうなのに」
「あなたも、篠さんのことは、ご自分のせいだと」

 桔華は、目を伏せた。

「人を愛するということは、命がけなのですね」

 さらさらと竹の、笹の葉のこすれる音がして、空に向かってまっすぐに伸びている竹が撓った。桔華も乱れた髪を耳の後ろで束ねながら、竹薮の中をじっと見つめていた。

「舎人さん、私は、古月さんにも言ってないことがあるのです」
「言ってないこと」
「聞いてくださいませんか、よろしければ」

私でよければ、と桔華の顔を見れば、向こうもこちらをじっと見ていた。

「子供がいるのです、・・・いえ、私自身は親といえる立場ではありません。その子を捨ててきたのですから」

 言葉を失ったのは舎人のほうだった。だって、あなたは、いえ、古月だって、あなたを愛していたのではないのですか・・・?

「すててきた?」

かろうじて聞き返せば、桔華はさらに言葉を続けた。

「生まれた子供を、そこで知り合った女性に託してきたのです」
「誰の子です」
「愛した人の子です」

違うと分かって、聞いた。

「古月の?」

 案の定、桔華は首を横にふって、否定した。

「もう二度と、古月さんに出会うことの無いように」

 私は明日、東京へ発ちますと、桔華は言った。


 そんな二人の様子を、桧山が離れた場所から冷ややかに見ていた。





―――9月16日 晴  

     早朝ヨリ 逝去セリ 北条社長ノ細君ヲ思フ
     篠自裁ニ関シ 幾ツカ疑問を生ズ・・・


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2010/08/10(火)
2、北条古巻

篠(6)

***


 古巻は、父親に手を引かれて歩いていた。

 薄い、淡い、朝靄がかかっていた。古巻はまだ眠たい目をこすりながら、半ば古月にひきづられるように歩いていた。

 寒い。

 どこに連れて行かれるのかも分からなかった。肌を刺すような早朝の冷え込みは、既に繋がれている手の感覚すら失っていた。蝋人形のような父の手を感じながら、もしかしたら母に負いに行くのではないかと、ぼんやりとした頭で考えた。

 ふと、頭上で父親の声がした。目の前に、女が一人、光を背負っていた。

 お母さん。

 間違いない、古巻は確信した。

「・・・古、月さん・・・?」

 女のはっとするような声、いや、声というよりは感嘆に近いような呟きが、古巻の耳元を掠めた。
 古巻は、女の顔を見て、驚いた。
 白い肌に、ぱっと明るい紅を差し、くっきりと見開かれた黒い瞳。
 あの女だ、そう思ったけれど、古巻に抵抗の力はなかった。朝駆けと、相当な距離を父親に歩かされていたためである。ついでにこの寒さも相まって、意識すら朦朧としていた。

「どうして」
「聞いたんや、今日、行くって」

 二人は、その後言葉を発することなく、ただお互いの目を見つめていた。女の顔は、いつか見た寂しそうな母と同じ顔をしていた。もう二度と会うことの出来ない母の姿を思い出し、古巻は辛くなって二人から目を背けた。

 そこで、古巻の目はあるものに釘付けになった。

「もう、きっと会わへんな」
「そう思います、そう思って、今・・・」
「最後に会いたかった。最後に、もう一度・・・」

 二人の中に、篠の面影が見え隠れしていた。愛した女性。そして、親しかった女性。それぞれの重要な部分に開いた穴の代償は、果てしなく大きいものであった。

「篠は、誰かを恨むような人間や無い」
「あなたに感謝していました。篠さんは、私のせいです」
「だから出ていくんか」
「それだけじゃない、けじめなのです」

 ああ、いつの間にか、桜花様と同じようなこと言うようになったんや、と古月は思った。
 もう以前の桔華ではない。目の前にいるのは、あの先代が認めた「桜花」なのだと。

「・・・さくら」

 古月の隣にいた古巻が、ぽ、と言葉を落とした。

「桜が、さいてる」

 古月と桔華が振り向けば、垣根を越えて伸ばした枝に、満開の桃色の花が咲き誇っていた。
 ひらひら、そこだけまるで雪が降るように花弁が待っている。心の中は春を感じているのに、肌は寒いと認識している。その場にいた三人が、感じたことの無い矛盾を確かに共有していた。

「なんや、これは」
「御会式桜」
「なんやて」

 桔華は、呆然とするようにその桜を見上げて、語った。

「東京で、一度だけ見たことがあります。日蓮和尚の入滅の日の頃・・・つまり秋に咲く桜、狂気の桜です。でも、こんなに、春のような」

 一筋の風が通り過ぎた後、日が昇り始めたのか、あたりの霞みが大分和らいできた。女はまるで自分の意思とは関係の無いというふうに、一つ、歌を詠んだ。


 秋雅 咲き狂いにし 世の果ての いざ立ち行かん 桜花往生


 古巻にはよく分からなかったけれど、ああ、この桜のことだと思った。枝の隙間から、星が一つ流れるのが見えた。

「桔華、古巻を連れて行ってほしい。お前にこの子を頼みたい。」

 桔華は、一瞬目を見開いた。それは古巻も同じことで、二人はそろって古月の顔を見た。

「こいつは、篠の忘れ形見や。わいもお前も、このままではずっと、篠に取り付かれたままや。お前が言うなら『けじめ』や。こいつを」

 古巻は、父の前に突き出され、背中を押された。

「古巻を、頼む」

 桔華は、じっと古巻の顔を見つめていた。吸い寄せられるように、古巻も桔華の顔を見ていた。この女は、母さんを殺した。父さんだって同じだ。なのに、なのに何でだろう。どうしてだろう。女を憎いとは思わなかった。
 桔華が搾り出すような声で「わかりました」と答えると、古月は古巻を巻き込んで桔華を抱きしめた。それはとても強い力で、古巻は思わず、窒息しそうになった。

「好いた女も、俺は、満足に・・・」

 父は泣いているのだろうか。声が震えていた。
 桔華のほうから古月の身体を離れ、古巻の手をとった。

「桜花様に、宜しくお伝えください」



 古月は、愛した女の名前を呼んだ。



 古巻には、父は一体誰を愛していたのか、分からなかった。



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2010/08/10(火)
2、北条古巻

少年と少女

 ***


 賛美歌が聞こえている。

 赤、青、黄色、緑。ステンドグラスが聖母を象り、その腕には神の子が抱かれている。

 正面には、黒い礼服を纏った祭司がいた。祭司は、白い肌に銀色の瞳を宿していた。祭司が何事かつぶやき、神の子が十字架に準えたロザリオをかざした。小さなホールに集まった14,5の村人は、襤褸に身を包み、日に焼けた顔は土にまみれ、祭司に向けた両手は肉刺がつぶれ、赤茶げている。彼らは手を合わせ、見えない何かにすがるよう、声ともいえない声を上げながら、何度も何度もひれ伏しては泣き顔を祭司に向けて、また伏せて、また顔を上げる。

 優艶な薄い煙が、空間を支配している。甘い、饐えた匂いが五感を徐々に蝕んでいく。

 オルガンが、村人たちを導くように鳴いた。

 村人は唸る様な声で、聞こえている賛美歌の後を追っている。細く、気高い天使のような歌声は、正面にいる祭司の、後ろから聞こえている。祭司は跪き、歌い手の左手の甲に口付けた。暗がりの影に、差し出された左手は真珠のように白く、人間の血を宿していないかのような細さだった。その手がやがて村人をいざなうように差し出された。オルガンが空間を劈き、人々は何かに押しつぶされるかのようになだれ落ち、頭の上で手を合わせ、歓喜に震えた。

 『神よ』

 祭司に向かって、村人から言葉が放たれた。それに続くように1人、2人と祭司に言葉を浴びせ始めた。やがてそれが木霊し、合唱となり、賛美歌を打ち消し始める。歌は、まだ続いている。祭司は歌の主をちらと見た。その白い手首が、ゆっくりと持ち上がり、ホールの後方を指差した。「神よ」「神よ」の声はやがて消え、村人は示された後方を振り返る。そこには、白い肌に銀の瞳を宿した、黒髪の少女と、赤髪の少年がうずくまっている。

 「くるな、狂人どもが」

 赤髪の少年が黒髪の少女を庇いながら、そう吐き捨てた。僅かに反応したのは祭司。村人は何も聞こえていないかのように、黒髪の少女に手を伸ばし始めた。

 「神よ」
 「神の子よ」

 少女は目に見えて震え始めた。少女は少年の胸の中で、「I am scared.」「painful…」 と消え入りそうな声で何度も呟いた。少年は「It is not scary. 」と少女に言い聞かせた。彼女を抱く、腕に力がこもる。しかし村人たちはすがるような目で2人に近づき、そしてその赤茶げた手で少女に触れた。少年は壁伝いに少女とともに逃げようとしたが、子供の体力では扉の端までくるのが精一杯だった。黒髪の少女は村人に抱き上げられた。途端に歓声が沸いた。泣き出すものもいた。少年はその場で殴られ、蹴られ、ぜいぜいと肩で息をしていた。少女が少年へ手を伸ばし、助けてほしいとせがむその目を見ることができたが、指を動かすこともできなかった。

 「・・・りょ、く」

 少年の声は神を称える声にかき消され、少女は祭司の下へ差し出された。祭司が怯える少女の左手に口づけをする。影の後ろの白い腕が、やがて人間の女となった。それは、少年と少女の母親でもあった。

 「神よ!」

 村人の意気は盛り上がった。少女は祭司の手を一度振り払ったが、難なく捕らえられ、抱き上げられた。少女は少年の名前を呼びながら、必死に抵抗した。しかし祭司はそれを気にする様子もなく、奥の扉の向こうへ消えていった。

 一度あけられた扉から、妖艶な甘い香りが漂い、それが一層村人を高ぶらせる。

 村人たちは、先ほどは神と崇めていた女に群がり始めた。男も女も、老いも若いも関係なく、その赤茶げた手で、足で、女を嬲っている。彼らの黒い肌に、女の白い肌が嫌に際立っていた。少年は辛うじて意識を保ちながら、女が衣服を剥ぎ取られ、その細い手足を村人に絡めながら高ぶっていく様子を見据えていた。女の嬌声は、賛美歌のように美しかった。

ーーー・・・俺は、お前たちとは違う・・・

 少年は、何度となくこの光景を見ていた。そしてまた、同じように意識を失った。


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2010/08/12(木)
3、少年と少女

大正慕情(1)

 ***


 1914(大正3)年、7月。京都、山科。


 拓真は10歳の夏を迎えた。


 自宅の裏手西側に小高い丘があり、芝生を踏みしめて頂上までの道のりは、拓真の足で15分程度。時計の鐘が8つ鳴らしたころ、拓真は自分の身長くらいもある望遠鏡を背負い、スケッチブックと筆入れをショルダーバックに詰め込んで丘を登っていた。中腹まで上ったころに足を止めて振り返ると、暗い藍色の背景に祇園の町が橙色に光っている。どやどやと大人たちの声が聞こえる。拓真は肩からずり落ちていたショルダーをぐいと戻し、再び頂上へ向けて足を踏み出した。

 5年前の秋。

 日にちまでは覚えていない。朝、いつものように北条家の門をたたいても、親友である古巻は出てこなかった。
 しばらくしてから古巻の姉であるゆゑが、彼が東京へ行ったのだと告げた。なぜかと聞いても、ゆゑは教えてくれなかった。拓真の姉、考子が尋ねても同じ返事だったというから、おそらくゆゑは知らないんだろうと拓真は思った。同じころ、古巻が嫌いだと言っていた「あの女」--最上桔華も姿を見せなくなった。最上桔華は短歌の家元である「桜花」の称号を継いだとかで、もう家にいられなくなったのだとフクおばさんが言っていた。フクおばさんは拓真の自宅、舎人家の使用人だ。朝5時頃舎人家に来て朝餉を作り、昼間は部屋の掃除や買い物などをして夜は5時までに夕餉を拵えて帰っていく。フクおばさんは2年前までおじさんと共に舎人家に仕えていたが、おじさんが病気で寝たきりになったので、フクおばさんが一人で通うようになった。拓真には母親がおらず、父親である耕三郎は帝国陸軍の将校でなかなか家に帰ってこないので、家のことはほとんどフクに任せている。

 姉の考子は、12歳になった。

 矢絣の着物に、紺色の袴をはき、耳より上に髪を結い、尋常女学校へ通っている。学生ながら色白の美人で、着物からのぞく腕は細く、黒い髪は絹のように滑らかだった。女学校でも成績は優秀で学芸、芸事に秀でていたが、考子が最も得意としたのは剣道だった。近所では「あれだけの才女が、なぜ剣道など」と奇異の目で見られていたが、彼女が7歳で道場に通い始めたころ、拓真も剣道を始めた。古巻と考子についていってその流れではじめた剣道だったが、拓真は竹刀で人を打撃することがどうしても好きになれなかった。
 

 丘の上には大きな杉の木がある。
 その木の下にたどり着き、望遠鏡とショルダーバックをおろしてその重さから開放された後、拓真はううんと背伸びをした。下界に見える祇園の橙。その上に広がる、暗い空の海に白い月。それと疎らな星。

 『動かないように見える星だけど、本当は毎日毎日星の場所は変っているんだ。だけど、あの星だけは絶対にあそこから動かない。それは亡くなった人達がみんなあそこにいて、生きている人のことをずっと見てて、危ないことをしないように守ってあげているからなんだよ』
 
 古巻もこの星を見ているかしら。
 拓真はいつものように望遠鏡のレンズの焦点を北極星の方角に合わせた。

 ファインダーを覗くと、こぐま座の一等星を中心に下に二つ、さらにそこから一つ、明るい星が合わせて3つ。そして一等星のさらに右下側、きりんの頭部にあたる3等星が見える。拓真はスケッチブックを殴るようにめくり、白いページの右上に「NORTH」と書きつけ、今目に見た者を書き付けた。今日は月が明るい。いつもよりも手元が鮮明だ。
 織姫と彦星が織りなす夏の大三角は拓真のちょうど右の方に見えている。下界に祇園が望める方角、この位置に見えるようになった。通りで風が冷たくなってきた。
 拓真はぶるっと身ぶるいをし、大きく一つ息を吐いて、再び鉛筆を走らせた。今日はカシオペヤ星団がきれいに見えた。それを書き残さなければならない。二度と同じ星空はない。去年見えていた星が今年は見えないことがあることを、拓真は経験から知っていた。


 ***


「どこに行っていたのです」

 その日は急に振り出した雨が夕方まで降りつづいていた。すっかり遅くなってしまったと、白いショルダーバックを頭に載せ、雨の中帰路を急いでいた。家の門まで来ると人影に気がついた。拓真は足を止めた。それは姉の考子だった。
 拓真はその日、昨夜の星空の中で見つけた、「ミザール」という星について調べ物をしていた。結局見つけられずに、山岡という理科の教師のところに行き、教授を受けたのだった。この山岡が非常に講談好きで、年端のいかない拓真をつかまえては、本人の聞きたかったミザールのほかに自分でアルクトゥルスに興味を覚え、職員室の資料をひっくり返して持論を講じ、そしてそれをいちいち拓真に話すのだった。拓真も自分の知らない星の話を聞くのは興味深く、大きく相槌を打ちながら身を乗り出して話を聞いていたのだった。

 どのくらい待っていたのだろう。門の軒下にいたはず考子の足元は泥にまみれ、着物の袂が水に濡れていた。拓真が返答に窮していると、考子が拓真に歩み寄った。

「質問に答えなさい。こんな時間までどこに行っていたのです」
「ごめんなさい、今日は調べ物を」

 咎めるような眼を拓真に向けたまま、考子は拓真の右手をぐいと掴んだ。拓真は考子を怒らせてしまったと心臓がどくんと打つのを聞いた。半ば引きずるように拓真を家の中に入れた考子は、拓真を玄関に待つように言い、自分は汚れた着物のままずんずんと奥へいったかと思うと、手ぬぐいと着替えを持って拓真の前に膝をついた。

 考子は、拓真の汚れた顔や頭を手拭いで拭いながら、

「遅くなるときは先に言いなさい」

 といい、一通りを終えたところで替えの着物を拓真に渡し、自室へと引き上げていった。考子の背中を見送っていると、ぱたぱたとフクおばさんが廊下を渡ってきて、「おやおや」と言って汚れた手ぬぐいを預かり、夕餉をすすめた。夕餉の時間になっても、考子は自室から出てこなかった。

 いつの頃からか、姉を遠くに感じるようになった。

 剣道の稽古が終ると、男に交じって竹刀を奮っている考子に先輩たちが声をかける。大抵、考子は意に介せず、返答もせずに帰宅の準備をしていた。拓真は考子が道場を出てから帰宅しようとするのだが、道場を出ると必ず考子が待っており、「帰りましょう」と言って先立つのだった。

 姉が嫌いなのではない。学校の帰りに考子を見かけると、友人たちが騒ぐのも拓真は本当は好きではない。考子を見ていると胸がざわめく。かといって姉に話しかけられると、言葉に詰まり、声にならない。

 もしかしたら、自分は姉を避けているのかもしれない。だから考子も前よりも感情を外に出さなくなってしまったのだろうか。


 星が流れるのを一つ見た。また星の寿命が一つ終わったのだと拓真は思った。スケッチブックと鉛筆をショルダーバックに詰め込み、望遠鏡のファインダーに布の覆いを被せ、三脚をはずした。今日は収穫があった。カシオペヤの赤星を肉眼で確認できた。
 拓真は丘を下り始めた。心地よい夜風が頬を撫ぜる。祇園の方角で歓声が上がった。彼らの夜はこれからだ。


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2010/08/17(火)
4、はじまりの業火

大正慕情(2)

 ***

 孝子は北条家の門の前にいた。

 桜色の着物に、臙脂の袴。学校帰りなので、胸に風呂敷包みを抱えている。用事があるということはない。いや、無いわけではない。数年前に何も言わずに姿を消してしまった、弟の同級生がもしかしたら帰ってきているのではないか、そう思っては自宅から5分程度の近所にある北条家の門の中を覗いているのだった。

「孝子さん」

 後ろからたおやかな声をかけられた。北条家の長女、ゆゑだった。

「ゆゑさん」

 孝子はここまで辛うじて声に出して、はっと息をのんだ。用事を済ませた後らしい、若草色に金地の刺繍のある他所行きの留袖。ゆゑの後ろには帝国海軍兵学校の7ツボタンの黒い制服に少尉候補生の袖章をつけた青年が、軍帽を脇に抱えて控えている。青年は孝子に気がつくと引き締めていた表情を穏やかにゆるめた。

「孝子さんには、まだご紹介して居りませんでしたね」
 
 ゆゑは「中へどうぞ」と孝子を自宅へ招き入れた。


 ***


 青年は「藤原一春」と名乗った。

「ご結婚?」

 孝子は口に運ぼうとしていたコーヒーカップの手を止めた。ゆゑは穏やかにほほ笑みながら、「ええ、来月」と嬉しそうに口元をゆるめた。
 通された応接間は北条家の洋風の作りを踏襲していて、中央にガラスのテーブル、そして向かい合うようにソファが置いてある。ゆゑと一春が奥手ソファに座り、それに向かい合うように孝子が対面している。

「父同士が決めたものなのですが」
「でも、来月・・・」

 孝子は一春の袖章に気がついた。そういえば、父が言っていた。

「もしかして、任官後、南方へ?」

 ゆゑだけでなく、一春がその言葉に反応した。

「どうしてそう思うのかな」
「この時期に陸(オカ)にいる若い下士官は、長い航海の前の休息なのだと父に聞いたことがあります。あと、海軍は南方のドイツ領へ大規模な派兵をするのだと新聞の記事を読みました」

 一春は穏やかな眼差しを孝子に向けている。ジャケットを脱いだ一春は上半身が白いワイシャツで、糊のきいた袖口から細い手首。長い指。候補生ということは歳頃21、2といったところか。力強い意志を秘めたその白い額や、くっきりと陰影のついた首筋。孝子はその手に触れてみたいと感じている自分に気が付き、恥じた。一春と目を合わせて居られなくなった。

「君のお父上は陸軍の舎人中佐殿だったね」
「はい」
「なるほど、聡明なところはお父上譲りのようだ」

 一春の隣でゆゑがふふっと笑った。ゆゑをいたわるように一春が口元を緩める。お似合いの二人だ。父親の許婚とはいえ、お互い納得の上の祝言なのだろう。
 孝子は無償に、悲しい気持ちになった。整理のつかなくなった思考に戸惑い、コーヒーカップを持つ力が緩んだ。
 カラン、とカップがテーブルに落ちた。右手の小指と薬指にお湯を浴びた孝子は、ズキズキと痛む右手を左手で抑えた。

「大丈夫ですか」

 驚き、立ち上がったのはゆゑ。不意に火傷をした右手をつかまれた。一春は孝子の怪我の具合を確かめ、ゆゑに氷水を用意するように指示をした。ゆゑの用意した氷水に孝子の右手を浸し、一春は自らの白いハンカチを孝子の右手に巻いた。孝子はされるがままぼんやりとその様子を見ていた。

「よかった。痕は残らないよ」

 気のせいだろうか。とりあえずゆゑに自らの粗相を詫びたが、自分の声だというのに耳のずっと奥のほうでくぐもったような声に聞こえた。もう痛くないのに、孝子は一春に触れた右手がまた熱くなるのを感じていた。


 ***


 帰宅したときはすでに陽が落ちていた。
  
 舎人家の使用人、フクはすでに帰宅しており不在だったので、玄関からまっすぐに自室へ向かった。後ろ手で襖を閉めた。8畳畳張りの部屋は中央にフクの誂えた蒲団が敷いてあり、右手奥に鏡台がある。孝子は着替えもせずにふらふろと鏡台に向かい、ぺたりと座った。ふと力が抜けた。手元の小さな電気をつけ、闇にぼわっと橙の不安定な明かりが部屋に広がった。孝子はぼんやりと鏡台を眺めていた。

 いつもの見慣れた自分の顔。

 孝子の脳裏には、ゆゑの姿があった。すらりと伸びた手足。白い肌。うっすらと化粧をし、色づいた果実のような紅は思わず触れてみたいと思うほどだった。黒いしなやかな御髪を後ろに束ね、小さな深緑の翡翠の飾りがついた簪をしていた。襟元からのぞく鎖骨は細く、うっかり触れては壊れてしまいそうだった。

 それに比べて。

 自分はなんて子供なのだろう。黒い葡萄のような目が二つ。きつく一文字に結ばれた口。孝子は、先ほど怪我をした右手を見た。一春の白いハンカチが巻かれたままだ。左手でそこに触れると、一春の優しい声が聞こえてくるようだった。大丈夫かい。痕は残らないよ。

 ふと思い出して孝子は押入れを開け、埃だらけの化粧箱を取り出した。幸子の肩幅ほどの大きさの漆塗りの化粧箱だ。埃を手で払い、湿気できつくなっている木箱のふたを開けた。母が生前使っていたものだ。ちょっと黴臭いような気がしたけれど、白粉を品定めをしてみたらまだ使えそうだった。

 孝子はハンカチをはずすと、右手の中指と薬指で白粉を掬い、自分の頬に触れた。鏡の中で、触れた右頬だけが白く色ずいていた。孝子はもう一度白粉を掬い、左頬につけた。一度つけたものを、指で擦ったり伸ばしたりして顔全体に馴染ませた。鏡を見ると頬だけが白く、眼の下など皮膚が動くところがうまく塗れていない。何度もやり直してみたが、白粉は指でうまく馴染ませることができない。

 今度は紅を手に取る。さくらのような淡い色のもの。鮮やかな赤。そしてオニユリのようなニビ色のもの。孝子は鮮やかな赤色の紅の蓋を開け、小指で掬い、下くちびるをなぞった。鏡の中をのぞくが、まばらに塗られた白粉は見た目も美しくなく、下くちびるに無造作にひかれた紅は真白な頬を見事に対極をなして、まるで血液のようだと幸子は思った。さきほど見たゆゑの艶やかな装いには程遠い。孝子はひどく悲しい気持ちになった。


 母上。
 孝子は12になっても、白粉の仕方もわかりません。


 ふと、後ろで気配がして振り返ると、弟の拓真が襖から顔を見せていた。

「申し訳ありません、声はかけたのですが」

 孝子は拓真から顔を背け、「何か用事ですか」と告げた。背けた視線の下に、一春の白いハンカチがあった。幸子は消え入りたいような気持になった。心の動揺を弟に悟られたくなかった。堪え切れなくなり、涙が出てきたようだった。

「姉上、夕餉はどうしますか」

 孝子はそっぽを向いたまま「食べたくありません」と答えた。涙声が悟られないように心掛けることで精いっぱいだった。拓真はそれ以上追及せず、「それでは、ごはんをおにぎりにしてお持ちします」といって襖を閉めた。しばらくすると、廊下に気配がして、すぐに消えた。拓真が夜食を置いていったのだろう。


 情けない。


 そんな気持ちが、孝子を責めた。女としての作法を知らず、客人の前で取り乱し、弟にまで乱心を悟られてしまった。


――孝子。母の言葉を聞きなさい。
  あなたは舎人家の長女です。父を助け、そして拓真を助けなさい。それが、この国への最高の奉仕となるのです。


 母上、孝子はこの気持ちをどうしたらよいのかわからないのです。


 その場に寝ころび、仰いだ天井は限りなく高く見えた。目指すものが遠ざかっていくのを感じた。母が言っていた通りだ。この国に女として生まれた以上、父に尽し長男に従い、嫁いだ後は子を生み、育て、夫に尽くす。母がそうしてきたように。そして孝子も、そうありたいと思っている。

 なのに。

 混乱した孝子の心と裏腹に、その左手には一春のハンカチが強く握られていた。その夜は、暗い暗いところで、あたたかい誰かの手を握っている、孝子はそんな夢を見た。


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2010/08/19(木)
4、はじまりの業火

兆しの老人(1)

***


 黒澤修吾は東京・本郷にある、帝国海軍将校・藤原一美の元を訪ねた。

 秋は深い。木造の門を少しかがんで入ると、緑の草木の中に、楓の赤や銀杏の木色が目に付いた。手入れがされている庭だ。

 玄関の呼び鈴を鳴らすと、年の頃50歳前後の女性が迎えてくれた。女性は「聞き及んでおります。藤原の家内です。ご案内いたします」といって黒澤をいざなった。紺の着物に、梳いた髪を後ろに一つに縛り、漆塗りの簪は髪と色がなじんでおり、目だたない。黒澤を先導するなかでも無言で、亭主を立て、自分は後方で支えるという彼女の徹底した意思なのだ、と黒澤は思った。

 通された部屋は藤原の自室だった。

「お初にお目にかかります。帝国陸軍関東都督府陸軍部所属 黒澤 修吾大尉であります」

 先ほどみた緑の庭を背に、藤原は椅子に腰かけている。逆光で顔がよく見えないが、上司である舎人中佐の話によると、1872年の生まれというから50歳前後。現在階級は大佐。細身の体に、鍛えられた筋肉を携え、和服の襟元やそでからのぞく肌は白くない。長年の艦隊勤務を思わせる。日露戦線では、04年2月に行われた旅順閉塞作戦の折、陸軍を後方支援する海軍部隊を指揮し、陸軍の舎人と顔見知りになったのだという。

「ああ、舎人から聞いているよ。どうぞ、掛けなさい」

 黒澤は、促された通り、藤原と反対側の応接イスに腰かけた。

 欧州戦線は、6月の開戦から世間の楽観をよそに諸国に拡大し、アジアに植民地の触手を伸ばしていた連合各国の利権をめぐり、アジアでも参戦の機運が高まっていた。日本が、ドイツに宣戦布告したのが2か月前の8月。時の内閣総理大臣大隈重信は、同盟関係にあったイギリスから参戦の要請を受けると、内閣の承認なしに派兵を決定、陸軍はドイツの租借地である青島を攻略した。
 舎人は今、青島占領後の統治部隊創設のため、ほかの高級参謀たちと組織づくりをしている。

 「その後、どうかね」

 藤原は立ち上がり、黒澤に背を向けて庭を見ながらそう問うた。黒澤は、先ほど藤原の家内が持ってきたお茶に手を付けた。

「10年前、ロシアとの戦争で旅順を手に入れ、そして今回の青島です。大陸進出に大きな足掛かりができたと勇み足をしているものもいます」
「ふむ」
「しかし、大戦への参戦は間違いではなかったのか、という意見もあります。日英同盟の締結が対ロ戦以後の世界情勢における日本の地位上昇なのだととらえるのは勝手ですが、韓国の併合以後、世界の日本に対する目は非常に厳しくなった。少なくとも今回の参戦には日本の「理」がない。他人同士の喧嘩に勝手に巻き込まれたのも同然です」

 チリチリと虫の声が聞こえる。開け放荒れた窓から入る風は心地いい。情報将校としての一面がある黒澤は、今日は黒いパンツにワイシャツ、ジャケットの姿でいる。9月末に大陸を出てきたときは汗ばむような暑さに不快感を感じていたが、やはり日本の秋はいいものだ、と黒澤は思った。

「『巻き込まれた』割には、陸軍は随分大きな拾い物をしたじゃないか」

 黒澤は「陸軍は」という言葉に海軍の陸軍に対する視点を感じ、眉をひそめた。

「君は大陸勤務のようだが、今大陸は清国が滅び、国をどう立ち上げるかについて明確な指導者がいない。列強に国を解体され、支那人は世界からの侵略者や各地の軍閥に恐れながら生きている。そこに遥か1000年以上も交易の歴史を持つ隣国日本までが権益を狙っている。世界情勢を鑑みればロシアの膨張は確かに脅威だ。しかしなぜそれに単独で立ち向かおうとする。10年前、われわれは本当にロシアに勝つことができたのかどうか、私はそれが疑問でならない。今の政府は戦勝国としての日本、列強としての日本が大前提に物事を進めている。だがいつまで、この領土も資源も乏しい国が彼らを相手に肩を並べ続けることができるだろうか」
「お言葉ですがそれならばなぜ、海軍は南方へ駒を進めようとしているのです。陸軍の方向性を否定するのであれば、海軍の行動もまた、非難されるべき行為です」
「南方へ兵をすすめることは、そこに住む人たちを蹂躙するためじゃない。彼らとともに国を興し、畑を耕して国力を増強する。欧米列強の支配から、われわれは同じアジア人として彼らを救うのだ。お互い小さな国同士、手を取り合い、武力をもたずに世界へ発信していく」

 陸海、どちらもやっていることは同じだと黒澤は思っている。

 結局のところ、お互いに自らの行為を「侵略」もしくはそれに近いものであるということを心のどこかで自覚しているのだろう。海軍が陸軍を、陸軍が海軍を批判することで、自分たちが進めようとしている軍隊は「侵略」ではなく、「解放」なのだと思い込みたいという表れなのだろう。

「ご子息を北条家に婿入りさせるという話をお聞きしました。北条財閥は、陸軍を関わりの大きい財閥。牽制のおつもりですか」

 庭を見ていた藤原は、黒澤を振り返った。

「ようやく本題に入ったようだね。今日はそれを聞きに来たのではなかったのかい」
「はい。舎人中佐に、あなたがどうして北条家の古月社長と知り合ったのか、探ってこいとのご指示です」
「君は情報将校だろう。上官の指示をそこまで私に漏らしていいのかい」
「隠しても」

 無駄だ、と判断した。舎人と藤原はお互いにその実力を認め、海陸の派閥を超えての付き合いがあると聞いているが、黒澤はそれだけの付き合いであると見ていない。お互いにお互いの目を通した、陸軍、海軍の動きを探る有効な「見えざる目」の役割としての立場なのだろうと感じている。

「社長は私よりも10ほども若いが、国内にとどまらない視野を持ち、そして軍部の働きを良く理解している。私は彼のビジョンの明確さとその行動力を評価し、彼も私の南方に関する意見をよく聞いてくれた。上海にある料亭で偶然に同席してね。共通の知り合いを通じて彼と顔を合わせる機会を得た」
「大佐こそ、そんなに簡単に馴れ初めを話してくださるとは思いませんでした」 

 表情は和らいだまま、藤原は淡々と事実を述べ、そして黒澤の前に腰かけた。上海。料亭。そこまでは調べは付いている。季節は昨年冬。藤原が公使館付き武官だったころの話だ。
 海軍がよく利用するという上海の料亭。共通の知り合い。舎人はそれを知りたがっている。黒澤も、舎人が北条財閥社長、北条古月と親しいことは知っていた。しかし、ここ数年彼の話に舎人は色よい顔をしないことも知っている。だからあえて舎人は北条社長本人に聞かず、自分を使わして海軍の動きを探ろうとしているのだ。

「黒澤大尉、奥方とはどうして知り合った」

 藤原の真意を探ろうと言葉を探していた黒澤は、急に話題が自分に向いたことに驚き、目を見開いた。

「そのことが今の話題に関係あるのですか」

 黒澤は漸くそれだけ口上に乗せた。

「いやいや、話題の一つだよ。最近二男が生まれたと聞いている」

 どくん、と心臓が鳴るのが聞こえた。舎人から黒澤の所に行くように言われたのが2週間前。そして面会の申し入れをしたのが3日前。妻が二男を出産したのが20日前。偶然とは考えにくい。おそらく、何らかの方法でこちらのことを伺っていたに違いない。

「名前は決めたのかい」
「それはこの場に必要な情報ですか」
「誰であろうと、子供が生まれるということはめでたいことだ。君を寿ぎたいと思うのだが、悪いかね」
「二男は『末次』です。末広がりの末に、次」
「長男は」

 黒澤は、輝也のことを思い出した。

「『一』(はじめ)です。」
「黒澤君、君は細君とどのように知り合ったのかね」

 藤原の目に、悪意や殺気がないことが、黒澤を彼の思うままに答えさせていた。もしかしたらこの男は知っているのかもしれない。自分のかつての妻、そしてその息子のことを。

 「上官の・・・、お知り合いに・・・」

 黒澤はそれ以上口を開けなくなり、沈黙した。藤原はその様子を眺めながら、ゆっくりと言葉をつなげた。

「そうだろう。縁というものは得てして他人から得られることもある。私の息子、一春も私が北条社長という縁を得られたからこそ妻を得ることができるのだ。そこに政治や思想は関係ないものだし、純粋なものであると私は思っている。君もそうだろう。どうだい。黒澤君」

 らくと輝也の失踪後、黒澤は当時の上官の紹介で華族の娘を妻とした。翌年には長男が生まれ、そして今年、二男が生まれた。妻の父親は枢密院の議員で、それを通じて政界へのつながりもできた。外から見れば完璧な「エリート将校」が出来上がっていることだろう。もちろん今の黒澤の家族は、らくや輝也のことを知らない。また同じ軍内でも、任官当時に黒澤が結婚していたことを知る者は少ない。

「そうそう、北条と会合した上海の料亭だがね」

 藤原は袂から一枚の紙を取り出し、黒澤の前に提示した。南京路裏手の一角に印がつけてある。

「外観は小さな店だが、中はなかなか小奇麗なつくりをしていてね。はじめ、ある筋から支那東北部に軍閥の当家、梁続山が出入りしているという情報が入った。私は商人のような形をしてそこを訪ねたんだが、中国生まれの女将はが日本にいたこともあったとかで、一見でも座敷を用意してくれたんだ」

 乗り出していた身を椅子の背に預け、藤原は足を組んだ。

「女将の中国名は仙 楽弥(チョン・ルーユエ)。日本での名前は吉岡らくというらしい」

 黒澤はナイフで心臓をえぐられるような感覚を覚えていた。


 らくが、生きている。

 しかも、中国で。


 藤原は相変わらず穏やかな口元のまま、顔面蒼白となっている黒澤の顔を見つめていた。


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2010/08/24(火)
4、はじまりの業火

兆しの老人(2)

  ***


 辺り一面、雪景色だ。
 盆地である京都の雪は水気を持って重く、しんしんと降りつもる。

 12月。銀世界に久しい日差しを見る。
 拓真は綿入りの上着に首にもマフラーを巻いて、学校から自宅への帰路を歩いていた。舎人家は山科のはずれにあり、街中を過ぎて右手に土手を見ながら南に15分程度。街を抜けて山科川が大きくみえ始めると、人影もまばらになってくる。

 拓真の足取りは重い。
 尋常小学校でのことである。

 3時限目は歴史。授業の話題は、日本の開国について。歴史の教師は、幕府の閉鎖性と日本開国の必然、そして近代日本が築いた対外関係について滔滔と説いた。

 「殖産興業、富国強兵の2つを推進したことにより、我が日本は大国ロシアを打倒するにいたった。日本人の勤勉実直さが証明されたうえ、民族の優位性を世界に知らしめた」

 おおよそこのような内容だったと思う。
 黒刷りの教科書には、旅順を攻略する日本兵の姿が勇猛に描かれていた。その横には、その日本兵に旗を降る中国人の姿がある。

 『あの戦争は、日本が勝ったわけではない』

 拓真は、父、耕三郎がそう言っていたことを思い出す。先の戦争では、耕三郎は陸軍大尉として大連に赴任している。そのとき父が言ったことの意味はよくわからなかったけれど、ロシアで革命が起こったことや、乃木大将の自決の話を聞いていたから、父の言うことでほぼ間違いないだろうと思っている。
 拓真は教科書の別のページをめくった。歴史の授業はあまり好きではない。先生はなぜ、そこまで教科書に書いてあることを信じられるのだろうか。新田義貞が悪党だと、誰が決めたのだろうか。あったこともないけれど、なんだかかわいそうだ。

 「舎人の御父君は、陸軍の将校として先の戦争でご活躍された」

 急に自分の名前を呼ばれ、拓真はどきッとした。驚いて教師を見れば、その眼は畏敬と自負を入り交ぜたような、そんな視線をこちらに投げかけていた。それは純粋に自分に対してではなく、「陸軍将校 舎人耕三郎を父にもつ自分」に向けられたものだ。教室がざわめき立つ。拓真は恥ずかしくなって下を向いた。とたんに、窓側に座る同級生の声がした。

 「自分の御父上も海軍将校であります!自分は父を見習い、勤勉し、士官学校に入って、御国のために船乗りになりたいのであります!」

 教室が喝采に包まれる。教師も「いいぞ!」といった調子で大きく手を打っていた。その同級生が敬礼ののちに着席すると、陸海軍の伯父や従兄をもつ同級生が2,3人立ち上がって、同じように将来を展望して見せた。そのたびに教室では拍手が沸いた。彼らはみな、このクラスの優秀者たちばかりだった。

 「舎人。お前も陸軍士官学校に行くんだよな」

 どこからかそんな声が上がった。
 冗談じゃない。そう喉まで出かかったが、寸でで飲み込んだ。姉、孝子の顔が浮かんだ。

 「ぼくは・・・」

 拓真は、孝子が弟に父親と同じ道を歩んでほしいと切に願っていることを知っていた。多くの日本人がそう思っているように、幼年学校から士官学校、任官を経て大学校へ進学し、将校となって軍を率いていく、それが日本男児として生まれたものの幸せなのだと信じている。教室の雰囲気はそれを否定することを許していなかった。拓真は下を向いたまま黙ってしまった。結局その場では肯定も否定もできないまま、教科書の新田義貞だけが拓真を凝視していたのであった。 


 ***


 自宅の前まで来た時、拓真は一人の老人が玄関の門の前いいることに気がついた。

 白髪混じりの黒髪は散切り頭。黒い絣の着物に厚手の上着を着込み、毛糸のマフラーが肌を覆うように前で束ねられている。腰は曲がっていないようだが、手には杖。ちらほら降り始めた雪が老人の頭にわずかに積っている。どうやら、フクおばさんも、姉・孝子もいないようだ。

 「あの、何か御用ですか」

 拓真が声をかけると、老人がこちらを振り向いた。背格好や白髪から老人だと思ったが、拓真が思っているよりもずっと若い顔立ちをしている。

 「ああ、舎人に貸していた本があるんだけど、急に読みたくなってしまってね。失礼とは思ったが訪ねさせてもらった」

 声にも艶があった。60歳前後といったところか。

 「父は今、北京に赴任中です。ぼくでよければ、その本をお出しします」

 雪が降り始めていたので、拓真は老人を自宅へ招き入れ、門の扉を閉めた。 


 

 老人の探してる本は、父の書棚には無かった。
 応接間の机を挟んで、老人と拓真は向かい合って座布団に座っている。

 「構わないよ、赴任先に持って行っているのかもしれない」

 拓真は、改めて父の非礼を詫びた。老人は、目当ての本がなかったことをさして気にする様子もなく、拓真の淹れた緑茶を啜っている。

 「父には早急に申し上げておきます。よろしければ、ご連絡先を教えていただけませんか」
 「いや、それには及ばない。近いうちにあっちに行くことになるだろうから、その時に直接話すことにするよ」

 実は拓真は先ほどからこの老人に不信感を抱いている。老人は自分の身元を始め名前すら明かさないのだ。

 「ところで拓真君、どうやら気落ちしているように見えたのだけど」

 なぜ、ぼくの名前を知っている。

 「そんなことはありません」

 「いや、恐らく何かあったのだろう。私の息子も、何かあった時に限ってそうして強がったりしていたものだ。得てして、そのようなときには家族には話しにくいという心証が働くもの。どうだい。ここはひとつ、私にその悩みの種を打ち明けてみないか」

 得体のしれないこの老人は、自分の正体は語らないくせに拓真には胸の内を明かせという。拓真はしばらくその老人の顔を見ていたが、どうやら老人に悪意は無いらしい。確かに、家族に話をできる内容でもない。深く考えず、拓真はありのままを話すことにした。

「なるほど、御父上のように軍人にはなりたくないというのだね」

 老人は、先ほどから父、耕三郎を「舎人」と呼び捨てにしたり、軍人であることを知っているようだった。もしかしたら父の上官かもしれない。大佐である父の上官ということは軍部でも有力者ということになる。しかし老人は軍服を着ていなければ、特有の威圧感も感じない。やはり得体の知れない人物だ。

「ふうむ」

 老人は少し考え込むようなそぶりを見せた後にゆっくり瞼を閉じ、思いついたように瞼をあげた。

「それでいいんじゃないのか」

 拓真は、次の言葉を待った。

「やりたいことがあるんだろう」
「はい。ぼくは 天文学者になりたいと思っています。だから、士官学校へは行きません。高等小学校の後は、東京帝国大学を目指します」

 老人はにこにこと拓真の言を聞いている。意外だった。もし、父の仕事の関係者なら、この拓真の言動に反論を講じるはずだ。やはり軍の関係者ではないのかもしれない。だったら、やはりこの人は何者だろう。

「いいことだ。近世以降、天文学は、日本独自の文化に加え、世界の観察的知識が入ってきてこれからどんどん日本で必要な学問となるはずだ。拓真君、ベルヌの『月世界旅行』は読んだかい」
「はい。大砲で月に行くというのは随分乱暴な旅行だとは思いましたが、人間が星に行くという発想はとても興味深いものだと思います」
「絵空事ではなくなるよ。拓真君、人類は、そう遠くない将来に月に行くんだ」
「大砲で、ですか」

 老人は、あはは、と笑った。そうだなあ、どうやっていくのかまでは考えたことなかったな。老人はそう言うと、もう一度拓真に向き直った。

「御父上が嫌いかい」
「父上が嫌いなのではない、軍隊が、好きではありません」
「どうしてかな。君は、国における軍隊の役割を知っているね」
「国防です。だけどロシアとの戦争の後くらいから、日本の軍隊は『国防』が目的では無くなった。強い軍隊という後ろ盾が、日本を変えてしまったような気がするのです。人を殺して、何が国益なのですか。ぼくは」

 そこまで言って拓真は我に返った。父を侮辱するつもりはない。老人は見定めるような眼でこちらを見ていた。しゅんとなった拓真が、「ごめんなさい」というと、老人はその表情を和らげた。

「だけどぼくは、たとえ国のためであろうと、人を殺すのはいやなのです」
「それでいい。そしてその気持ちを忘れてはいけないよ。拓真君、この国は今、「強国」という偽りの熱に侵されている。これを誰かが止めてやらねばならない。さもなければ、この国は」

 老人はそこまで言いかけて、立ち上がった。障子をあけ、廊下を渡って雨戸をあけた。とたんに白い光に目がくらんだ。庭は雪で真白くなっていた。

 「眞子さん」

 拓真が後ろから老人に追いつくと、はらはらと降る雪の中に一人の女性が控えていた。

 「たった今、岡陸相が京都入りしたと連絡が入りました」

 老人が拓真に振り返った時は、先ほどのように笑顔だった。

 「君とお話ができて、楽しかったよ、拓真君」

 そう言うと、老人は拓真から上着とマフラーを受け取り、女性とともに去って行った。 


  
 岡陸相。
 今年4月の大隈内閣の陸軍大臣は、確か岡市之助という名前だったはず。

 
 拓真はしばらく老人の素性について思いを馳せた後、姉の帰ってきたらしい気配に気が付き、出迎えのためにぱたぱたと玄関へ駆けて行った。


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2010/08/28(土)
4、はじまりの業火

友の帰京(1)

 ***
 

 明けて大正4年、3月。

 仁和寺の桜のつぼみが膨らみ始めたころ、近代短歌の大家、北条桜花が86歳の天寿を全うした。

 正月以降昏睡状態が続いていた桜花は、息子夫婦、孫の八重、玉津、朔子、そして孫の北条古月、その長女ゆゑ、娘婿の一春が見守る中、静かに息を引取ったのだった。その日は、一つだけ桜が咲いていた。そこにいた誰もが誰もが桜花の黄泉への旅路の案内なのだと思った。

 「桜花」の称号を受け継いだ、孫の桔華、そして古月の息子である古巻はその場に現れなかった。古月が知らせなかったし、桜花がそれを拒んだからであった。


 通夜の日、孝子は台所で、拓真は座敷の座布団を並べたりして北条家の手伝いに来ていた。父、耕三郎にも知らせを出したので、葬式には間に合わないけれど帰朝するという知らせが入っていた。開け放たれた襖から、廊下をせわしなく行き来するフクおばさんや、北条家の女中の姿が見える。桜花の長男は戊辰戦争で死亡しており、現在の当主は二男。古月はその3男に当たる。喪主はこの二男が務めた。まかないどころの一切は二男の妻が務めている。桜花二男には3男があるが、長男は小説家、二男は東京に出たっきり音信不通であったが、この葬式を機に家族がそろっていた。拓真は絞った雑巾で畳を拭きながら、廊下の女中が話すのを聞いていた。北条家の次の当主はきっと3男の古月さんよ、だって今や北条財閥の社長さんよ、奥様だって亡くなられてしばらく経つのだし、そろそろ新しい奥様を迎えられたりするのかもしれないわ。

 機会があれば自分が、と彼女たちがその会話に含蓄させていることに気がつく年齢に拓真はなっていた。汚れた雑巾を乱暴に木桶に放り込み、ばしゃりと水がはねると、廊下で話をしていた女中たちは声をひそめていそいそと持ち場に戻って行った。拓真は桶に浮かぶ汚れた水と雑巾を少し眺めた後、胸の中の得体のしれないもやもやを打ち消したくてごしごしと雑巾を洗った。水がはねて畳にシミになりそうだったので絞った雑巾で拭いた。黒い着物に埃がつき、膝が白くなった。

 5年前のあの日。
 古巻とともに篠の自殺現場を見てしまった、あの日。

 数日前から元気のなかった古巻は、「母が元気がないのはあの女のせいだ」と言っていた。あの後、古巻はちゃんと母、篠と話ができたのだろうか。そのすぐ後に母が自殺してしまった大切な友人に何もしてあげることもできないまま、サヨナラもせずに別れることになってしまった。星空を見上げるたびに、同じ星を古巻も見ているのだ、といって自分を納得させた。あの北の星には自分の母も、亡くなった篠もいる。ちゃんと自分たちを見ていてくれる。

 だから怖くない、さみしくないんだ。

 人の気配がして顔を上げると、姉の孝子だった。その手におにぎりが2つ、竹皮に包まれていた。「少し休憩しましょう」と孝子が言ったので、拓真は再び雑巾をたらいに戻し、襷を解いた。

 「さっき、女中さんが御話しているのを聞いたのですが」

 孝子は持っていた手拭いで拓真の手をぬぐい、おにぎりを渡した。

 「古月のおじさんが、新しい奥さんを迎えるというのは、本当ですか」

 2人は部屋の後方にある柱を背に並んで座った。孝子は、もくもくとおにぎりを法張りながら、聞いている。拓真は姉から答えがほしくて、――きっと否定してほしくて、おにぎりには口をつけずにいた。孝子はひととおり噛み終わり、飲み込んで、拓真を見ずにまっすぐに前を見据えている。孝子の横顔は、まつ毛が長く上を向いており、肌が白く、艶やかな唇がほのかに赤い。前方を見据えるその鋭い視線すら、拓真は美しいと思う。世の男子が孝子を噂をするのも、拓真は弟ながらわかるような気がする。

 「それは、おじさまの決めることです」

 「もしそうだとしたら、古巻がかわいそうです」

 「なぜ貴方がかわいそうだと思うのです」

 拓真は次の言葉が見つからなかった。古巻が大切な母を二人も必要とするだろうか、と単純に思ったからであるが、感情論が姉に通用しないことは弟である拓真はようく知っていた。

 「・・・もし、父上が新しい母上を迎えられたら、素直に喜べないと思うのです」

 孝子が拓真に目配せをした。拓真はちょっとだけ感情が躍動したが、孝子がすぐに視線を戻し、おにぎりを食べ始めたので自分もおにぎりをほおばり始めた。中身は梅だった。

 「決めるのは父上です。もしそのようなことになっても、嫌な顔をしてはいけません。いいですね」

 

 廊下に人の気配がした。拓真ははっとした。孝子もそこにいた人物を見て驚きを隠せないでいる。

 こちらに気がついた少年が、じっとこちらを見つめていた。黒っぽい着物に、おそらく書物であろう荷物を胸に抱えている。伸びた髪を後ろでゴムでまとめていて、拓真が知っているよりもずっと大人っぽい出で立ちとなっていたがそれは間違いなく、親友の北条古巻だった。

「・・・ただいま」

 ぎこちない笑顔を無理やり作って、先に沈黙を破ったのは古巻だった。
 古巻が拓真と孝子のほうへ向かおうとするその後ろで、女の声がした。

「古巻、早くこちらへ」

 古巻の後ろには、亡くなった桜花の孫であり、今の桜花の姉である朔子の、凛とした喪服姿があった。古巻は拓真にちょっと困ったような目配せをした後、「今参ります、朔子叔母上」といい、

「明日、お前ン家、行くから」

 といたずらっぽく左手で「ごめん」と表して、朔子の後ろをついて行った。拓真は親友の突然の来訪に、結局一言も何も言えないままだった。思考が定まらず、そのまま動けないでいた拓真に声をかけたのは孝子だった。

「古巻さん、ずいぶん大きくなりましたね」

 台所に戻るといって孝子もその部屋を出た。



***



 古巻は朔子の後ろをついて歩いている。

 京都には先ほどついたばかりだ。

 先代桜花が亡くなったという連絡が、東京にいる古巻と桔華にもたらされたのは、その死の翌日だった。古巻の父、古月が電報で葬儀日程とともに知らせてよこした。電報を受けとった古巻がその知らせに立ちすくんでいると、桔華が後ろからやってきて「どうしました」と声をかけた。古巻がその事実を告げると、「そうですか」といい、京都行きの支度を古巻に指示した。
 

「先生は明日にはこちらに来れるとのことです」

 へえ、と朔子は言ったが、古巻の言葉を聞いているのか聞いていないのか、古巻には判断ができなかった。桔華ら4姉妹の不仲は人知れず聞いていたが、随分大人げないものだなと古巻は思った。とりあえず、桔華の連絡事項は伝えた。義務は果たした。古巻はそういうふうに納得した。

 桜花の遺体と対面し、焼香したあとに、古巻は奥の部屋に通された。そこには桔華の長姉、八重に対面して古巻の父、古月が坐しており、その隣に座布団を用意し、古巻を座らせたあと、先導していた朔子はどちらにもつかず、手前の縁に背を預けた。

「桔華は一緒ではかったんか」

 5年ぶりに再開したというのに、息子の自分の安否ではなく、従妹を気に掛ける父、古月に、古巻は別段腹を立てることもせず、事情を話した朔子が口を開くのを待っていたが、その気配が一向にないので、

「先生の到着は明日になります」

 と最低限の言葉のみを並べた。そのやり取りを見ていた八重は、正座をただし、背筋を針金でも入れたようにぴんと伸ばして、2人を上から見下ろした。

「お時間はとらせませんよ、古月。事情を説明なさい」

 八重は耳に残る甲高い声で舞台女優のような台詞を口にしたのだった。八重は今年御年50。10年前の戦争で夫を亡くした。子供がいない。常に着物の折り目は正しく、針金のような背筋はぴんと伸びていて、顔は隙のない白粉に上向きの鋭い眉。その赤い口紅も相まって、傍目に10歳は若く見られることが多い。しかしその自尊心は宇宙のそれよりも高く、妹である玉津夫婦に最上家の家督を譲らねばならないかもしれないことが嫌で仕方がない。夫のいない八重よりも、玉津の夫に分家の家督を継がせるべきだ、という話が出るたびに、

「この最上を支えてきたのは私です。何か問題がお有りなのですか」

 といって北条の本家をはじめ親類に一本筋を通してきている。『桜花』称号の最有力継承者だった二女の玉津は、普段は温和で、それこそ古今集などを繰りながら歌を詠んでいるのだが、内心では最上は多かれ少なかれ自分の夫のものになると思っており、八重を対して相手にしていない。4女の桔華も、もとより自分の居場所ではないと自覚しており、「最上家督争い」には加担せず、己の道を進んでいる。この姉妹に共通しているのは、よくも悪くもその「芯の強さ」であった。

「へえ、八重姉、説明と言われても」

 ばん、と畳をたたいた八重は、語気を強めた。

「とぼけるではない!なぜ古巻を桔華の元に預けるなどという愚かなことをしたのかと問うておるのだ!」
「お言葉ですが八重姉、桔華は亡くなった先代桜花が認めた正統な『桜花』様や。歌の技量だけで桜花を名乗れるものではないこと、よう知っとるのは商売人のわいよりも、あんたたちのほうやろ」
「そんなことを聞いているのではない!古巻は北条本家の大事な跡取り。それを妾腹のあの女の元へなど気が触れたとしか思えぬ!しかも私たちへ何の相談もなく決めおって!それでも次代北条家の当主か!」
「北条の名前なんか、欲しければいくらでもくれてやりますよ。しかし八重姉、今の言葉を取り消していただきたい。桔華はあんたたちの言うような女やない」
「惚れた弱み、でっしゃろ」

 最高の軽蔑と侮蔑をこめて、京ことばで古月を牽制した八重。古月はこの目の前にいる、この女が、自分の愛した女と本当に姉妹なのだろうかと思いを巡らせていた。思考は驚くほどに静かに渦を巻いており、体に蓄積される負の感情をある程度制御しているようだったが、古月の体の中では、心臓が破裂するほどに大きな音をとどろかせていた。体にこもった熱が、思考の制御をフリーズさせるまでは、時間の問題だった。

「私からよろしいですか」

 2人の熾烈な攻防に、横槍を入れたのは、先ほどまで大人しく話を聞いていた古巻だった。

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2010/09/01(水)
4、はじまりの業火

友の帰京(2)

 八重も古月も、古巻の顔を見ている。古巻に気負いはなかった。

「八重叔母上のおっしゃる通りです。5年前、母の葬儀後間もなく、叔母上方にご相談の無いまま私は東京へ行くことになりました。東京への出立を誰にも知らせなかったのは、最上桜花が最上や北条の家に迷惑をかけぬよう、という配慮があってのこと。先ほど申された通り、最上桜花は最上家の正統な血筋ではないということを自覚しているからです。父、古月の言うとおり、最上桜花は見識豊かで思慮深く、そして人間としての分別の付く人間。先代桜花様の見たてに間違いはないと確信します。確かに、父との不義は親族間の密通であり、許されぬこと。しかしだからこそ最上桜花の人柄を最も理解していたのであり、母の無い幼い私が誰のもとで人間性を磨くのが一番よいのか、父なりの考えがあってのことなのです。」

 古巻はそこまでを淡々と語り、一息ついて付け加えた。

「あれ以来、父と最上桜花は顔を合せておりません。けじめをつけたのです。私は先生の元で、日々人間としての研鑽を積んでおります」

 八重は針金の入った背中を相変わらずぴんと伸ばしているが、上からめでつけた古巻きを見つめたまま、あいた口がふさがらないというような有様だった。次第に腿に乗せられた手が震え始め、「ひっ」とか「あの女狐めが」とか意味不明な言葉を何度かつぶやいたのちに、「ああ」といって顔を覆った。相変わらず「あの女が、あの女が」と言っていたが、ばっ、と顔をあげて、古巻に向き合った。

「お、お前も、桔華に絆されたか!!」

 ヒステリックな八重の声は、ところどころで裏返り、その感情の乱れを古巻は全身で感じていた。怖いとは思わない。自分で間違っていることを言ったつもりはないからだ。何も言わずに八重を見据えていると、その視線に耐えきれなくなったらしい八重が、その矛先を古月に向けた。

「だいたい、あの泥棒女は、自らの師である先代北条桜花の葬式にも顔を出さないではありまへんか!師の葬儀以上に大切なことって何がありますのん!」
 
 それは、と古月が返答に窮していると、古巻が答えた。

「月例の歌会です」

 八重は我や至れりといったふうに、ぐにゃりとその表情を歪めた。気味の悪い笑みだった。

「そやなあ、歌会なら仕方あきまへんな」

 桔華の内外の評価を下げる良い材料を手に入れた。子供が、欲しがっていたおもちゃを手に入れたような、そんな単純な理由だった。古巻はそんな叔母の姿をあさましく思い、古月は哀れにすら思った。桔華――現最上桜花が先代の葬式よりも月例会を優先したのは、それが桜花との誓いだったからだと古月はすぐに思い至った。確かに、世間には師の葬儀に出ないことを不義とされるかもしれない。しかしそれは自らの死を桔華に伝えるなと先代桜花自身が言ったのであり、それが「桜花」の称号継承者としての覚悟なのだ。
 
「いい加減にしいな、八重姉」

 それまで、3人の会話には興味がないといったふうに、障子の淵に背を預け、正座を崩して庭を見ていた3女の朔子。この得体の知れない女のゆるりとした声が室内に響き、そして彼女はだらりと八重に向き直った。

「朔子」
「桔華は、『桜花さま』なんや。自らの主宰する歌会を休んでまで先代様の葬式に出たら、それこそ先代様がお怒りになるのと違いますのん」

 意外だった。まさか朔子が、桔華の肩をもつとは、古月、古巻も考えていなかった。

「お前まで、あの女の味方をするのか!」

 八重のヒステリックな追及に、朔子は不快感を顔に露わにした。

「あては自分の姉がそんな先代様のお心も察することができないことに情けのう感じとります」

 朔子がすくっ、と立ち上がり、古月と古巻を眼で合図した。この場を切り上げよう。そう朔子は告げていた。

「朔子!」

 3人は八重の言葉を聞き入れることなく、その部屋を後にした。


***


「朔子、朔子」

 古月と古巻きを意せず、ずんずんと廊下を渡っていく朔子に、古月が後ろから声をかけた。

「へえ、なんでっしゃろ」

 ようやく立ち止り、顔だけこちらに向けて機嫌とも不機嫌ともとれない表情の朔子。

「さっきは、助かった。わいらだけやったら、あのまま八重姉の説教を鶏が鳴くまで聞いとらなあかんとこやった」

 朔子はその美しい白い顔の目を細めて体ごとこちらを振り向く。その一投足に古巻は胸の動悸を覚えた。

「お礼なら、古巻に言うとくれやす。あて、さっきのその子の言動に感心したのん」

 そう言って朔子はその切れ長の美しいまつ毛を古巻に向けた。古巻を見定めた朔子はまたふっと笑った。

 最上家の3女、朔子。桔華の2つ上のこの美しい女は、4女のなかでももっともつかみにくい人物だ。
 18の時に嫁入りしたが、3年後に最上家に戻った。その才女故か、常に男の影はある。どれも長く続かないが、朔子自身にその気が無いことが一番の原因だ。長く、艶やかな黒髪を後ろでやんわりと束ねてお団子に琥珀の髪留めをしている。小さな顔にうす付きの化粧は人間の肌の柔らかさを匂わせ、切れ長の目のまつ毛が長い。細く、小さい体は、その首も、手首も、触れれば壊れてしまいそうな繊細さを持つ。着物や帯に派手さはないが、その布地や刺繍にきている人物の拘りが現れている。顕示欲の強い長女八重、甘え上手の二女玉津、意志の強い4女桔華。朔子はそのいずれにも属さず、部屋の隅でぼんやり庭を眺めていては、急にいなくなったり、気がつくと後ろにいたり。そして話の核心をついては、それを掘り返すこともなく興味なさげに去っていく、そんな人物だった。

 朔子は古巻の前まで来ると、目線を彼に合わせるためにその場に膝をついた。伏し目がちのまつ毛から、黒く、大きな目が古巻の顔を覗く。

「大きくなったねえ、古巻。前に会うた時は、屈んでもあてが古巻を見降ろしとった」

 古巻の頬を撫でながら、朔子は愛おしそうに古巻を眺めている。廊下に春の風が吹きこんでいる。桔華といるときのような、いや、それに似た、全く違う何かを古巻は感じていた。
 なんだろう。背筋がぞくぞくする。

「桔華は、息災か?」

 口元に穏やかな笑みを浮かべたまま、しかし朔子は古巻から視線をはずし、そう問うた。

「はい。毎月の歌会では先生に歌を学びたいと毎回20名前後が集まります。吉瀬先生や青薙先生とも親交が深く、日々、短歌に没頭されています」

 へえ、と朔子の例の気のない返事が聞こえた。最上家の中で桔華に味方してくれる人物かと、俄かに親しみを覚えていただけに、その自分の感情に疑問を抱いた。
 朔子は立ち上がり、今度は古月に向き直った。

「古月、どうして、そこまであの女に入れ込むん」

 朔子は古月の頭一つ分身長が小さく、朔子が古月を下からのぞきこむような格好だった。彼女の胸が、古月の腕に触れてしまいそうな距離だった。

「せやから、あれ以来あっとらん」
「あっとらんことと、想い合うことは違います。まだあの女に気があるんやろ?」

 朔子の声が徐徐に小さくなっていき、途中から古巻には聞こえなくなっていた。朔子はゆるりと古月の隣を位置取り、自らの左腕を古月の右腕にぴったりとつけ、その右上腕部に朔子の右手が着物越しに触れた。朔子はうっとりと官能的に、古月の二の腕をさすりながら続ける。

「かわいそうになあ、古月。ほんにかわいそうに・・・」
「桔華はけじめをつけたんや。わいがまだたらたらしとるのは、わいの不甲斐なさや。かわいそうだとは思っとらん」
「なあんにも知らないんやね、あの女が、とっくにあんさんを見限っていることも」
「せやから、けじめやと」

 その瞬間、朔子は古月の首に抱きつき、その右の耳たぶを柔らかく噛んだ。朔子はそこで甘い吐息をひとつ古月に残し、すぐに離れた。

 
―――あの女、子供がおるんよ。あんさん以外の男との間に、女の子がいるんよ。


 その赤い紅を左手の薬指で撫でながら、何かを楽しむように朔子は言った。

「桔華は、男を見る目だけはありそうやね」

 くるりとその場を去っていく後ろ姿は、2人が恐ろしいと思うほど、桔華のそれに似ていたのであった。



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2010/09/04(土)
4、はじまりの業火

友の帰京(3)

 ***


 桜花の葬式の翌日午前、北条古巻は一人の女性を伴い、友人、舎人拓真を訪ねた。

 出迎えたのは拓真。友人の伴ってきた見知らぬ女性に、連れてきた古巻の顔を見る。「ああ、こちらは」そう古巻が言いかけたが、女性が先に口を開いた。

「舎人大佐はいるかい」
「父は只今外出中ですが」

 後ろから声をかけたのは拓真の姉、孝子。拓真は孝子に道を譲る。孝子は「娘の孝子です。御用向きがあれば申し伝えますが」と女性に伝えた。

「今日、帰国予定と聞いているが」
「ええ、今朝帰りまして、北条家へごあいさつに上がっています。失礼ですが、どちら様ですか」

 ああ、すまない。そう言って朗らかに笑う女性は、血色の好い肌に黒い短めの髪を後ろで無造作にまとめ、前髪を2つに分けている。着物は薄紫に松の刺繍。友禅だろうか。20歳前後、孝子はそう思った。

「私は窪塚時子。『上海王海运公司』のシャオジエがこちらを訪ねたと大佐につたえてくれるかな」
「わかりました」と頭を下げる孝子の頬に触れ、時子は驚く孝子に穏やかに声をかけた。
「孝子ちゃんだっけ。あんた、きっと美人になるよ。私が保証する」

 じゃあね、といって女性は春風を纏いながら去って行った。


 ***

 
 孝子は2人にお茶を入れるべく台所に立っている。
 この場には拓真と古巻の2人は縁側に腰かけている。どちらともなく話しかける時期を伺い、孝子が去ってから無言のままだ。穏やかな春の気配がゆるりと2人の間を抜ける。弥生の香り立つ庭にはスミレやカタクリが重い蕾をもたげている。
 
 古巻はちらりと拓真を見る。自分に気を使っているのかとも思ったが、どうやら縁石のアリの行動に興味があるらしい。重力が無いかのように縦横無尽に動き回るアリ。黒い三つの玉が連なり、それが縁石の側面に見えなくなったかと思うと、すぐに姿を現す。拓真は自分の足でそのアリを追っているが、決して踏みつぶしたりしない。拓真はそういう男なのだ。自分を殴った男の腕が痛くなかっただろうか、そういう考え方をする男なのだ。

 この5年、東京での暮らしは初めから順風というわけではなく、京都のゆるりとした時間感覚とは違う、何かにせかされるような学校の授業や、効率的なモノの考え方に居心地の悪さを感じ、だから友達と打ち解けることもなく、学校が終わればすぐに帰宅し、桜花の書庫で和歌集を括ったり、武者小路実篤や夏目漱石を読んで時間を過ごした。拓真が星が好きだと言っていたのを思い出して、神田の古本屋で桜花に買ってもらった、ベルヌの「月世界旅行」を読んだりもした。大砲に人間をつみこみ、打ち上げるという発想は、保守思考の自分には絶対無理だけど、先日みた浅草の見世物屋に同じようなものがあったから、火薬量を調節したらなんとかなるのだろうと思った。

 部屋中に読み散らかした本が散乱している。資事通鑑、和漢朗詠集、帝大人文論集、ベルヌ、福沢諭吉、モンテスキュー、三木清、伊藤若冲、東京朝日新聞、桜花主宰の雑誌「のばら」、大日本史。そのどれもを闇の落ちた部屋にほおったまま、古巻は部屋の中心で大の字になり、天井を見つめている。耳には不快な重低音が残っている。拓真。拓真はどうしているだろうか。もう5年も前の話だ。自分のことなんか忘れているかもしれない。古巻の思考はゆるりと鈍りだす。大砲に人間を積んで月に向けて発射する。そこには人類初の月面到達の夢やそれを見上げる聴衆の希望が充満しているに違いない。轟音とともに人々の希望が打ち出される。歓声。粉々に砕けた人間の破片が彼らの頭上に降りかかる。あるものは呆然とし、あるものは悲鳴を上げて逃げまどい、あるものはなぜ失敗したのかと冷静に考えるだろう。だが辺り一面はキャパシティ以上の夢や希望を背負わされた人間の、血や肉片が散乱しているのだ。それが現実だ。 気がつくと古巻は拓真の首を絞めている。拓真を仰向けにし、自分がその上に覆いかぶさって、必死でその細い首を握りしめているのだ。拓真は抵抗しない。ただ古巻を憐れむような、悲しそうな目で見ている。ばきっと骨の砕ける音がして、拓真の体から力が抜ける。古巻は我に返り、拓真を揺さぶって起こそうとする。拓真はさっきの憐れみの目で古巻を見つめたまま、暗い暗い闇の中に沈んでいく。




 「古巻?」

 古巻は現実に引き戻された。自分の中で何度も「殺された」拓真が、その黒い純粋なままの瞳で古巻を覗きこんでいた。拓真の中に、悪人はいないのだろうと、敵ばかり作ってしまう自分を呪って、愛しく、壊してしまいたい衝動に何度も駆られたその瞳。自分の記憶のまま、5年前の拓真がそこにいた。

 酷く非現実的な気持ちになって、拓真の問いかけに「ああ」と答えても、どこか遠くに自分の声を感じた。

 「あのね、何度か会いに行こうと思ったの」

 でも、結局行けずじまいだった。東京の桜花と古巻の居場所を北条の家人に聞いても分からないと言うし、なら東京に行って誰かに聞けばいいと思い、列車に乗ろうとしたが、ことごとく連れ戻されてしまった。

 「桔華さんと、ちゃんと仲良くやれてる?」

 そういえば、桜花のことで母がつらそうなのだという話をしたことがあった。

 「うまくやれているかは別として、いつも勉強させてもらってるよ」

 そっか。拓真は嬉しそうに足元のアリに視線を戻した。アリは相変わらずせわしなく動き回っているようだが、拓真の足はそれに関係なくふらふらしているようった。

 「おれさ」

 何、と拓真が問い返す。古巻は久しぶりに穏やかな心で、何か熱いものを感じていた。

 「将来、文筆家になろうと思って」

 文を読むのも好きだし、いろいろ考えるの、楽しかったり、辛かったりするけど、それをうまく表現できたらって思うようになったんだ。拓真は隣でうんうんと聞いている。その眼に好奇の色を感じる。その感情がうれしかった。桜花以外にこのことを話せない。恐らく、北条本家を継ぎ、会社を継ぐのだろうと、多くの人がそう考え、そうあるべきだとされているからだ。

 「だから、高等学校を卒業して、東京帝大に入る。フランス文学を専攻したい。福沢先生も、西洋に目を向けることは知見が広がることだとおっしゃっていたから」

 「ぼくも、帝大に行く。また一緒に学校に通えるね」
 「お前、まだ星を見てるのか?」
 「うん。古巻と同じ空見てると思うと、がんばろうって思えるから」

 自分もそう思っていた、とは古巻は言わなかった。そして軍の高級将校を父にもつ、成績優秀で心根の優しいこの親友が、将来をどう嘱望されているかについても見当がついた。拓真はそれ以上語らない。母が亡くなってからは実の母以上に弟を大切に思っている、姉の孝子が、弟の入営を何よりも希望しているに違いない。自分は、北条と縁を切ってでも自分のやりたい道へ行けるだろう。だけど拓真はおそらく、その道を選ぶことはできまい。

 「孝子さん、美人になったよなあ」
 「姉上も、古巻のこと、大人になったって言っていたよ」

 そうだ、と古巻は言った。

 「おれ、孝子さんと結婚する。そうすればおれは、お前の兄になれるだろ。兄は、弟の意思を尊重するよ。弟は、自分の意思を尊重すればいい」

 拓真は目を見開いて驚いた。「何バカなことを言っているのです」という声が後ろから聞こえて、孝子が3人分のお茶と茶菓子をお盆に載せて運んできた。

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2010/09/07(火)
4、はじまりの業火

友の帰京(4)

 盆に並べられた3つの湯飲みから、ふんわりと湯気が上がっている。
 3人は桜の形をした、桃色の砂糖菓子を一つずつ手に取り、ほぼ同時に口の中に入れた。

「結婚するのであれば、女癖を直していただかなければいけません」

 孝子は拓真の隣に腰かけた。ああ、そうでしたと古巻は言う。

「時子さんの父親とおれの父が知り合いとかで、先代様の葬儀にその娘である時子さんがお悔やみに来てくださったんです。あそこの上海の貿易会社は前進が西太后のお抱え貿易商だったとかで、イギリスやオランダとも交易があるんです。時子さんは父親が中国人、母親が日本人ですがイギリスに長期留学していたとかで向こうの文化にも造詣が深いんですよ」

「詳しいんだね」

 と拓真。

「昨日の夜、彼女と姉さん、義兄さんといろいろ話をしたんだ」

 一春の話題に、孝子がぴくりと反応する。拓真は何も感じていないようだが、古巻はそれに嫌というほど気がついた。もしかしたら思いすごしかもしれないと思ったが、話を続ける。

「義兄さんもイギリスに留学していた時期があるから、2人とも話が合うみたいでさ。ロンドンの街並みがどうとか、あそこの港が船が出入りしやすいとか、でも食べ物はおいしくないとか。そんな話をしながらみんなで笑っていたんだ」

 興味深く話を聞いている拓真を見ているふりをして、その隣で砂糖菓子を口に運ぶ孝子の不機嫌さを古巻は見逃さなかった。古巻は、孝子の気持ちを察しながら、自分の胸の深いところがざわついていることに気がついた。

「イギリスでは何を勉強していたの」
「ケンブリッジで支那の政治史を学んでいたみたい。あ、支那ではなくて中国な。時子さん、自分は日本で過ごした時間の方が長いけれど、中国人としては日本の属国になるつもりはないって言ってた」

 古巻は続ける。

「『和をもって尊しとなす』が日本人の心なら、どうして中国に喧嘩を売るんだろう。どうして地球の反対側でおきた戦争なのに、アジアで戦争が起きてるんだろう。日本が世界の各国と必死で歩調を合わせようとして、本当は大切にしなければならない隣国との関係を台無しにしてしまってるんじゃないかって、時子さんが言ってた。おれも、そう思う」

「ずいぶんたくさんお話をしたんだね」
「ああ、寝る直前まで話をしていたからな」

 拓真は訝しげに聞いた。

「・・・一緒に寝たの」

 隣で孝子が噴き出す。古巻はあわてて否定する。

「馬鹿、なんでそうなるんだよ」

 だって、あんまり時子さんに心酔しているようだったから、と拓真は事もなげに言い訳をした。
 改めてお茶を啜り、孝子は咳払いを一つしてから古巻に聞いた。

「一春さんは、いつ立たれるのですか」

 やっぱり義兄さんのことを気にしているのか、と古巻は一種の確信と胸のざわめきを同時に覚え、極力それを出さぬように心がけながら返答した。

「明後日の朝です。大阪から船で佐世保まで向かうそうです。そこで辞令をもらうと」

 そうですか、とわずかに肩を落とした孝子。春の柔らかな風が頬を掠め、何となく浮き立ったような気持ちになる。古巻はこの気持ちの揺れも春のせいだろうと思いたかった。俯く孝子の首筋も、袖からのぞく細い白い手首の艶めかしさも、今の彼にとってはただ邪念でしかないのだった。


***


 わずかな沈黙を破ったのは、話題の人物だった。
  
「おや、古巻ここにいたのか」

 紺色の着物姿をした、古巻の義兄、一春だった。孝子はあからさまに驚き、こぼしそうになったお茶を何とか防いで立ち上がった。「ああ、気にしなくもいいよ」と孝子を制した。代わりに拓真が立ち上がってお茶を入れるためにぱたぱたと廊下を駆けて行った。古巻が自分が座っていた場所を立ち上がり、義兄に席を進めた。一春はそこに腰かけると、その庭を眺めた。

「きれいな庭だ。よく手入れされている」

 孝子ははにかみながら「ありがとうございます」と俯いて言った。

「ゆゑを芝居小屋まで送って行ったんだ」

 その帰りに、孝子と拓真の父親である、舎人大佐へあいさつに伺ったらしい。玄関で声をかけてもだれも応対しなかったが、こちらから声がしたので回ってみたということだった。
 拓真が盆にお茶を持ってきた。どうぞ、と両手で拓真が湯飲みを差し出すと、「ありがとう」と一春は片手で受取り、ずっ、と日本酒でも飲むように豪快に一飲みした。やっぱり海軍のお人だ、拓真はそう思った。
 
「拓真、ずいぶんと鍛錬しているようだな」

 きょとんとした拓真の左手首を掴み、孝子や古巻にも見えるように掌を上にした。拓真の左手は、指の付け根が膨れ上がり、薬指と人差し指のところは肉刺が潰れて白い皮がめくれている。

「古巻、お前も向こうで剣道は続けていたんだろう」

 はい、と古巻は答えた。京都で拓真と孝子が通い、古巻もかつて通っていた剣術道場は北辰一刀流。現在古巻が東京で通っている道場は神道無念流だ。

「どうだい。これから行って、手合わせをしてみないか」

 そういうことになった。 


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2010/09/08(水)
4、はじまりの業火

届かぬ思い(1)

***


 古巻もかつては孝子や拓真と共に通っていた、二条にある剣術道場までは片道30分程度。斎藤道助という歳の頃70を過ぎた師範代が近所の子供たちを相手に北辰一刀流を教えている。
 道場は常に開いており、拓真たちが訪ねた午後3時ごろは20名ほどの子供剣士が10組になって打ち合っており、威勢のいい声が外まで響いていた。一春は「ほう」といって道場の様子を見物しており、古巻は以前世話になった、懐かしい道場の空気が妙にくすぐったい。道場の門を開け、孝子と拓真が「おはようございます!」と声を張りげた。履物をそろえて上がり、孝子が一春と古巻を道場の中へ促した。

 古巻に気がついたのは、斎藤道助の長男で、道場の師範、君路だった。

「やあ、北条じゃないか」

 お久しぶりです、と頭を下げる古巻。孝子が状況の説明をする。

「古巻さんは先代桜花様の葬儀に帰ってらしたのです。こちらは、ゆゑさんの旦那さまで」
「まだ籍を入れていないよ、孝子さん」

 一春は自分の名前を名乗り、君路に右手を差し出した。一瞬とまどった反応をみせた君路だったが、「ああ、シェイクハンドやな」と急に笑顔になり、一春の手を力いっぱい握り返し、ぶんぶんと腕をふった。

「師範、今日は古巻さんに一式お借りしたいのですが」

 孝子はそう言って君路から許可を得ると、拓真に古巻を連れていくように指示をして、自分も道着に着替えるために奥に姿を消した。
 一春は君路に先導されている。横目に汗だくで打ち合う子供たちの姿を見た。無心に竹刀を振るその姿を見ていると、かつて海軍士官学校での厳しい訓練に何度も挫けそうになった懐かしい自分を見ているような気持ちになるのだった。どうやって今日の稽古をサボろうかと仲間とひたすら考えていたなと振り返り、人生というものは分からないと少し笑った。

 一春は道場の上座に通された。向かって右が師範、左側の座布団を進められた。

「活気がありますね」

 一春は素直に自分の感想を述べた。

「ありがとうございます。しかし、一時期に比べたら剣を習いたいという子も減りました。御一新の時も、時勢から生徒の数が減ったんですが、日清、日露の戦いの前後にはそれでもかつてのような賑わいを見せた時期もあったものです」

 自分の左腕を握る君路の右手に力が入る。君路は道場の子供たちを見据え、どこか物哀しそうに語っていた。一春はああ、と思った。

「師範、従軍の経験がお有りなのですね」

 もともと日本には「握手」の文化が無く、それを一般化するのに海軍の西洋化が一役買った。徴兵卒にも常識として教育される伝統がある。一春もつい”くせ”で握手を求めてしまったのだが、答えた君路にもこれで合点がいく。
 君路は笑う。

「はは、この左腕は勲章みたいなものですよ」

 その笑顔とは裏腹に左腕には力が無い。ロシアとの戦いで負傷したのだろう。しかし、君路に気負いはない。続けて君路は語る。

「船の上ではまったく役に立たなかった私ですが、こうして子供たちに剣を教えることはできるのです。おかしな話です。戦争は嫌だと思うのに、子供たちには強くなってほしい。日本はおそらく、これからも戦争をするでしょう。でもそうなったときに、相手を傷つけるのではなく、自分や家族を守れるだけの『強さ』を身につけてほしいと思うのです」


 ***


 孝子が道場の隅で膝をつき、甲手をした手で上手く面紐を結えている。拓真と古巻は面を外しているが、つければすぐに相手と対峙できる状態だ。君路師範が手をたたき、子供たちに休憩と手合い開始を伝えた。子どもたちは畳の枠外にでて、思い思いに面を外す。孝子や拓真と同年代の顔つきが並ぶ。わずかながら女子の顔もある。

「北条、向こうに行ってもしっかりと鍛錬に励んでいたな」

 はい、と澱みなく答える古巻。君路は笑顔で場内に古巻を誘った。
 面紐をきつく結び、竹刀を左手に携え、向こうから孝子が入場する。

「孝子は今、この道場では一番の使い手だ。北条、手を抜いていると右腕の一本も簡単に折られてしまうぞ」

 君路師範の活が古巻の緊張感を高ぶらせる。面紐を締めて古巻は自分の気持ちに区切りをつけた。お互いに一礼し、左に控えていた竹刀を正眼に構え、立ち上がる。
 面金越しに孝子の顔が見える。その美しい切れ長の目が、まっすぐと古巻を捉えている。自分が彼女の瞳に映っているのを感じる。できればもう少しだけこうしていたいと古巻は考えている。

「はじめ!!」

 師範の声が道場に響く。孝子は踏み込んでこなかった。わずかにその竹刀の先を揺らしながら、古巻の出方を見ているのか。古巻が現在通っている神道無念流は、技術を重視する北辰一刀流とは違い、渾身の一撃のためにその機会を伺う。現在は他流派との試合も許されているが、一時はその力故に他流試合を禁止されていた時期もある。
 右に左に、摺り足をしながら間合いを詰めていく。道場はしんと静まり返っており、衣擦れの音だけが耳に障るようになっていた。孝子の切っ先が徐々に振れ幅を小さくする。そろそろくるか。さあ来い。古巻きが狙うのはその大振りの一瞬。

 途端、孝子の体が跳躍した。左。古巻は下円を描くように竹刀を捌いた。踏みとどまった孝子の体が反応する。

左肩に降りかかる竹刀を、自らの竹刀を以て首筋でかわし、古巻と孝子の竹刀ば「バシィン」という音を響かせてぶつかった。孝子が若干古巻を押しのけ、その反動を利用して2、3歩後ろに引こうとする。古巻は自分が前に進む勢いを利用して正面に仕掛けた。孝子も後ろ右足を軸に、古巻の打撃を正面から受け止める。続けて右上段、左下段、どちらも孝子は上手く捌いた。

 古巻は間合いの外に出て、呼吸をそろえる。見据える孝子は肩で息をしている様子もない。そうだ。そうこなくちゃ。古巻は「ヤア」と気合を入れる。
 孝子もそれに応える。「ヤア」「ヤァ」「ヤア!」3度目のやり取りで古巻が動いた。孝子がその動きを見きろうと一歩前に足を出す。

「ほう」

 2人の試合を見ていた一春が驚嘆の声を上げる。

「孝子が女であることが惜しいと思うことがありますよ。あれは度胸も技術もある。だが力の面が難点だ。押し技で男には勝てない」
「しかし力を技でカバーできている。相手が力押しで来るのなら、却って孝子さんもやりやすいのではないか」
「そうとも言えます。しかし北条も随分冷静に相手を分析できるようになったようだ。孝子も戦いにくい相手だろう」

 拓真もこの2人の横で、眼の前の試合を凝視している。孝子のしなやかな竹刀捌きの機微を捉え、古巻の次の思考を読む。孝子の甲手狙いに見せかけたフェイク、受け止める古巻、鍔競りの後、古巻が大振りに仕掛けるが孝子が竹刀で受け止める。古巻が続けて左下段を打ち込むがこれも孝子にかわされ、2人は間合いの外に出た。流石に2人とも肩で呼吸をしているようだ。

「ヤア」
「ヤアァ!」

 孝子と古巻の気合が道場を占める。

「次で決まりますかな」
「さあて」
「いや見事」
「見事だ」

 一春と君路師範の声は、場内の2人には届いていない。古巻は汗に塗れたの面中から孝子を見やる。本気で古巻を破ろうとするその眼は、どうしようもなく愛しく見えた。さっき拓真に言ったことは冗談ではない。幼心にずっと抱いていた、孝子への思慕――古巻はこの瞬間に思いを確信を得る。
 先に仕掛けたのは古巻。真正面の面打ち。孝子に空中で捌かれ、古巻の体はぐらりと左に傾いた。その瞬間を孝子は見逃さない。正眼対正眼に貫き胴。


古巻には為す術がない。


『古巻!後ろ!!』


 その声に、古巻は無意識に一歩、左足を後ろに引く。すると姿勢が低く安定を保ち、竹刀を握る腕に余裕ができた。柄尻に力を込め、孝子の竹刀に自分の鍔をぶつけ、そのまま孝子の胴を抜いた。「一本!」と君路師範の声が響く。歓声に沸く場外。古巻の勝ちだ。
 古巻は振り返り、拓真の方を見た。拓真もほっとしたような表情をしている。あの友人は剣の技術は人よりもずっと優れているのに、自分は剣を握りたくないという。しかしその炯眼は確かだ。
 師範の「礼」の声に、孝子と古巻はお互いに礼をした。すたすたと場外にでた孝子は面をとるなり、「くやしい!」と叫んだ。

「ああ、もう少しで古巻さんの面をとれましたのに!あの体勢から持ち直すなんて反則です!」
「おれも、あの拓真の一言が無ければ」

 きっ、と拓真を見た孝子。拓真はどきっとする。すると一春が後ろから手ぬぐいを差し出した。

「お疲れ様。孝子さん、驚いたよ。その物事を捉える目もさることながら、剣の腕も相当のもののようだ」

 孝子は受け取った手ぬぐいで顔を拭うふりをして、汗だくで真っ赤になっている顔を隠した。「ありがとうございます」とようやく言った。拓真は桶から水を汲んできており、古巻に与えている。古巻は受け取った柄杓でぐい、と水を飲み干した。

「拓真、今度は貴方の番です。姉の敵をとりなさい」

 孝子から差し出された竹刀。できれば拓真はそれを受け取りたくはなかったが、こういうときの姉は大人げないくらい本気なこともまた、拓真はよく知っている。古巻もやれやれといった目をしている。古巻が桶に柄杓を戻し、立ち上がるのと同時に、拓真は孝子から竹刀を受けた。


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2010/09/09(木)
4、はじまりの業火

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