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裏切りの祖国(1)



 *****



 才人が仙台拘置所に抑留されているという連絡が桔華たちの下宿に入ったのは、五月をわずかに数日過ぎたばかりの、夜半過ぎのことだった。

 春以降は夕食にも顔を出さなくなっていた才人であったが、女将には「同郷の友がこちらにきているから、彼らと昔話などをしているのだ」と話していたという。最近は夕飯時の清国出身医専生の数が少なくなったと桔華は思っていたが、朝食までには戻ってくるし、特段意中にはしていなかった。ただ、俊承は夕食時にはとくにむつくれたような顔をしていて、

「どうしてわたしを連れて行ってくれないんだろう」

とでも言いたげな不機嫌な表情を常にしていた。しかし朝などにはきちんと才人と向き合って飯を口に運んでいたから、本人に問いただしたのだとしてもおそらく、もっともらしい回答を持って俊承を宥めたに違いない。夜になるとやはり俊承はむっつりとした顔を食堂にぶら下げてやってくる。そんなことが一カ月ほども続いた、そんな時であった。

「とにかく話を聞いてこなければならないから、桔華さん留守番をよろしくね」

 日付が変わる時間帯、五月の仙台はまだ冷え込む。女将は出がけにコートを桔華から受け取り、玄関に手をかけた。すると後ろから声が飛んだ。

「才人が逮捕されたというのは、本当ですか」

 俊承だった。普段の穏やかな声ではあったが、それに加えて人を引きとめるだけの気迫というものが混じっている、とそのとき桔華は思った。

「まだ未確定よ。李君が警察に連行されている一団の中に才人がいると言っていたの。いつもより帰りも遅いみたいだし、とにかく行ってみるわ」

 そういって玄関を半分開きかけたところで、また俊承が声をかけた。

「女将さんはここにいてください。心当たりがあるのでわたしが行きます。そして、もし警察がここに来て何か聞いても、女将さんはわたしたち留学生の下宿を提供しているだけで、何の関係もないのだと言ってください。では行ってきます」

 俊承は女将が止めるのも聞かず、女将を押しのけて玄関を出た。桔華は女将に念を押して、とっさに俊承の後を追った。
夜風が肌にやけに冷たかった。


 *****


 桔華にも心当たりはあった。
 先日の、日本軍の満州侵攻の記事。

 三月には旅順港の閉塞作戦に失敗した日本軍であったが、黒木大将率いる第一軍と白河川大将率いる第四軍の挟み撃ちにあったロシア軍は、緒戦に敗北を喫している。先日の記事は作戦に勝利した日本軍が長城を越えて清国領土に進軍しているというもの。その傍らにいたのが、平服の清国人。無邪気に旗を振っている。
 桔華は日本語を話す日本人であり、領土の小さな島国である日本が、大国ロシアと対等に戦争をしているのだという一国民としての自覚がないのだといえばウソになる。日本軍の優勢が伝えられる度に仙台の城下町に号外が舞い、各所で歓声が上がった。当然、桔華もそれに同調した。「国家」や「帝国主義」なんて言葉はよくわからないけれど、自分の属する国の軍が、戦いを有利に進めているのだ。悪く思う理由もない。
 
 しかし先日、日本軍快進撃の記事に難色を示した俊承と才人を目の当たりにして、これはそんなに単純な問題ではなかったのだと思いなおすようになった。戦っているのは日本とロシアという国であっても、主戦場は朝鮮半島であり、清国領土内である。しかも両軍はその領土をさも自らの利権であるかのごとくに緒戦の勝利とともに領有し、記者に自国軍の勝利を寿がせる写真を撮らせた。清国民は自ら銃剣を以て戦うこともなく、列強に食い物にされている事実をこれほどまでに痛快にあらわしたものはないだろう。
 当然、清国民である才人はそれを自覚した。だからこそあれほどまでに怒ったのだ。もし北京にいるままであれば、西太后の息のかかった官吏に、事実誤認の情報を流され、世界的立場から俯瞰した清国というものを知ることは無かったであろう。それに、大の西洋嫌いである西太后は、北京市内の「新聞」の発行を認めていない。清国内にあっては一般国民が国内外の出来事を知る術などたかが知れていた。

 才人は普段、物静かで感情を表に出すことは少ないが、日々報道される新聞記事を読み、明確な外交方針もないままに次々と欧米に不平等な条約を結ばされ、領土を分割されていく「祖国」を憂いていたであろうことは明白だった。ならば最近の夜の行動も察しが付く。憂国の同郷らと日夜論議を交わしていたのかもしれない。折しも、桔華も先日、一時清国公使館に拘留され、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、ハワイのマウイ島生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得した孫中山の新聞記事を目にしたばかりだった。

 ようやく拘置所にたどり着いた桔華は、俊承と看守のやり取りが飛び合うのを聞いた。

「ここに周一樹がいるのは確かなのですね!」
「刑が確定するまで、面会は出来ん!」
「才人が何をしたっていうんですか!」
「貴様、奴らの仲間か」

 俊承も自分の素性を明かしたのだと桔華は判断した。今日本国内の空気は、半島出身者への民族的優越感が広がりつつある。
 桔華は今にも掴みあいが始まりそうな二人の間に割り入って、俊承を背中で制し、できるだけ感情を抑えて看守に対面した。

「わたしは、かれらの日本での世話を申しつかっているものです。北京にいるご家族への連絡等もございますから、まずは当人と話をさせていただけませんか」


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2011/08/12(金)
5、裏切りの祖国

裏切りの祖国(2)

 看守は桔華の顔を何やら検分するように眺めていたが、桔華の方が先に「最上桔華と申します。生まれは京都、今は職を得て仙台に」と言った。看守の方はどうやら桔華のいうことには嘘偽りはない――彼女が日本人であると納得したようでったが、もう一度ふんと鼻を鳴らして、再び怒声を荒げた。

「できぬといったら出来ぬのだ!貴様が奴らの仲間でない証拠がどこにある」
「大切な仲間です!幼いころから共に育ってきた兄弟です。才人が人を傷つけるようなことをしないことはわたしが一番知っています!」

 桔華の肩越しに身を乗り出してきた俊承をさらに抑えるように、桔華は続ける。

「では、どうすれば本人と対話ができますか」
「刑が確定してからだ」
「かれはどんな罪を犯したのです」

 看守はふんと鼻を鳴らし、少し身を引いた。

「街宣騒擾、及び讒謗律条例違反容疑だ」

 がいせんそうじょう、ざんぼうりつ。桔華は自分の記憶の中の法律の知識をようやく引き出しているその時、俊承が後ろで声をあげた。

「その通り、日本は多くの先進国がそうであるように、立派な法治国家です。ならば『疑わしきは罰せず』。違いますか」

 看守はちょっとあっけにとられたようであったが、我に返るとまた顔をしかめ、「貴様ら、いいかげんにせんと連中と連座させるぞ」と身を乗り出してきた。

「何の騒ぎだ」

 若い将校だった。看守はその姿を確認するなり、直立不動に敬礼を掲げ、「お勤め、ご苦労様であります!」と歯切れよく宣った。
 将校は踵をそろえ、返礼する。四〇歳を過ぎているだろう下腹の出張っている看守よりも随分若く、桔華はもしかしたら自分よりも若いのではないかと思ったほどだった。

「先日の清朝革命派による騒擾事件の犯人を連行しましたところ、その仲間を名乗る二人が容疑者の一人に面会を求めてきているのであります」
「清国人か」
「それが……」

 将校は軍帽を脱ぐと桔華と俊承に歩み寄り、まずは小さく一礼した。

「わたしは帝国陸軍仙台第四連隊付補佐官黒澤修吾中尉。東北憲兵隊司令部長が任務に付き不在のため、代理でこちらの官舎を預かっている。用件はなにか」

 桔華は軍人というものに抱いていた偏見を随分改めた。見ず知らずの自分たちに、まずは自らの正体を明かし、こちらの要件を改めてくれた。この人になら話が通じるのではないかと思った。

「大切な友人がここに連れてこられたと聞き、居てもたってもいられずにこちらまで参りました。かれが法を犯すようなことをするとは思えません。ですからまずはかれに、何があったのか聞くべきだと思いました」

 俊承は黒澤にまっすぐと相対し、そう言った。感情をぶつけ合っていた先ほどとは違う落ち着きだった。どうやら俊承も、この黒澤という若い将校と話をしてみようという気になったらしかった。

「憲兵隊は、無実の人間を連行することはない。貴様の言う友人が本当に何もしていないのなら、ここにくる理由は無い」
「それを確かめます。才人に」

 黒澤は俊承の顔をじっと見つめていた。そうしてふと視線を桔華にそらして「あなたは」と言った。

「日本人のようですが、貴様は」

 俊承は少し躊躇い、しかし表情を引き締めて言った。

「清国人です」

 桔華はあっ、と思った。その問いかけは、俊承にはあまりに無情だと思った。

「そうか」

 黒澤は是とも非ともいえないような間の後にそう、無感情に返事をし、官舎に振り返った。

「『疑わしきは罰せず』だったな。なるほど、一理ある。憲兵隊の判断が間違っているとは思えないが、それならば本人に確認してみるといい」

 黒澤は看守に声をかけ、官舎に向かって歩き出した。
 コンクリートの床に、軍靴の音が甲高く響いた。

 俊承の顔を見るより早く、桔華は黒澤のあとを追う。俊承もそれに続いた。





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2011/08/13(土)
5、裏切りの祖国

裏切りの祖国(3)

「桔華さん、なぜ来たんです」

 ずんずんと進む桔華に、俊承が後ろからそっと声をかけた。

「ほおっておけないからに決まっているでしょう。あなたこそ、才人にあってそれからどうするか考えているのですか。黒澤という軍人のいうとおり、何もしていない異国の留学生に憲兵が手を出すとは思えませんよ」

 桔華は心の中で必死になってこの状況の打開策を練り始めていた。まずは才人本人の口から事情を聞くこと。彼が自らの無実を訴えるのなら、桔華は全面的にそれを支援するつもりだった。たとえ北条や桜花の名前を出してでも助け出す。しかし問題は、才人が自らの罪を認めた場合だ。

「……おそらく才人は、清国革命派と同調して、新聞や出版物などの言論機関を通して国内改革の必要性を申し述べたのだと思います。確かにそれ自体は日本の法律に違反するものではありませんが、十年前の日清事変以降、清国と日本は形上国交があることになっていますから、清国の改革を叫ぶ分子をほおっておくわけにはいかない。そしてその革命派は、アメリカの孫中山が東京にいる若い連中を支持して、一大勢力を作ろうとしています。帝国政府は、北京からなんらかの助力を請われているはずです」

「つまり、才人は日本にとっては無害ではあるけれど、清国内では危険人物にあたるから、それを国外にいるうちにどうにかしてしまおうという力が働いているということ?」

「おそらく。そして、日本に無害というのは、今のうちだけです。日露戦が落ちついたころ、昨今の列強の領土分割に反対する、何らかの民族運動が大陸を席巻するでしょうから、かの国にとって日本が列強の一部とも看做されかねない」

「どっちにしろ、革命派とやらは日本にとっては都合の悪い存在ということね」

 俊承は答えなかった。いつになく神妙な顔をして、何かを考え込んでいるようだった。
 俊承にとって日本は敵なのだろうか。ならば日本人である自分は――? 桔華はそれを聞いてみたいような気がしたが、その場では押し黙ることにした。それよりもまず、才人に事情を聴くことが先決だ。

 桔華と俊承は小さな子部屋で待たされた。看守が才人を連れてくるとかで、黒澤も部屋にある質素な椅子に腰を下ろした。将校と空間を共にするのは桔華にとっても初めての経験で、なんだか落ち着かないような気もしたが、俊承は大人しく椅子に収まって神妙な顔をしていたし、黒澤も腕を組んで目を閉じたので、桔華も意識して心を静め、俊承の対面に座った。小さな机に椅子が3つ。机は立てつけが悪いようで体重をかけると、ぎしっとゆがんだ。

 一秒がこんなに長く感じたことは無いと思った。向かいに座っている黒澤も俊承も、お互いの思索の中に入り込んでいるようで、桔華が声をかけられるような雰囲気ではなかった。とにかく自分も、才人がこんなところに拘留されているのは何かお間違いだと思いたかったし、実際そうであるのだと信じたかった。先ほどの俊承とのやりとりや、先日の才人の苛立った様子、この前の花見のことなどを思い出すうちにどうにも感情に収まりがつかなくなってきた。そうしてがばっと顔を挙げた時に、看守が両手に拘束具をつけた才人を連れて部屋に入ってきた。

 がたっと椅子を倒して立ち上がる俊承。桔華も声をかけようかと立ち上がったが、俊承に先んじることはできないと思いとどまった。
 才人は2人を見ても大して感情を現さず、いつもの静けさを纏ったままでいた。いつものままのかれが、先に口を開いた。

「干什么来了(何しに来た)」
「那是正是是这边的台词,你做什么的!(それはこっちの台詞だ、お前こそ何をやったんだ)」

 普段、桔華の前で漢語を話すことのない二人が、臆面もなく自分の祖国の言葉で話し始めた。黒澤は後ろで黙って聞いているようだった。看守は言葉を理解できないようだ

った。桔華は、二人のやり取りの雰囲気から、事情を察そうと神経を集中させる。

「对于你关系没有(お前には関係ない)」
「不可能关系没有!有什么,女主人先生也担心着。什么错儿吧。谈情况,返回(関係無いわけがない!何があった、女将さんも心配している。何かの間違いなのだろう。事情を話して、帰ろう)」

 そうまくしたてた俊承をじっと見つめて、才人はやはり静かに言った。

「假如先解放同志。我们只叙述了理想。国家颠覆的意思等没有(ならば先に同志を解放しろ。われわれは理想を述べたのみ。国家転覆の意思などない)」

 俊承が言葉に詰まった。芳しくない回答を得たのか、と桔華の心がざわついた。

「いったい、何を話している!」

 看守がいら立ちげにそう吐き捨てた。俊承は不安そうな顔を看守に向けたが、才人は黙って下を向いた。
 そのとき、黒澤が静かに立ち上がった。

「山井、例のものを持ってきてくれ」

 看守は敬礼を返すと足早にその場を立ち去った。黒澤は俊承に肩を並べ、才人に相対した。

「这个男人说了你的事是重要的朋友。对你来说这个男人不是朋友是不是(この男は貴様のことを大切な仲間だと言った。お前にとってこの男は仲間ではないのか)」

 黒澤は流暢な漢語で才人にそう問うた。才人はそれが随分と意外だったようで、黒澤の顔を見、そうして少し視線をはずして「那……(それは)」と言葉を濁した。

「朝鲜人没有清国的革命关系。是不是那样的事?(清国内の革命に半島出身者は関係無い。そういうことか)」

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2011/08/14(日)
5、裏切りの祖国

裏切りの祖国(4)

 俊承が凍りついた。
 黒澤が才人に何を問うたのか、桔華にも察しがついた。

 才人は黒澤をずっと見つめていたが、ふと瞼を伏せ、そうして静かに続けた。

「不同。作为是暂时那样,考虑清和朝鲜现在,把内政改变,与诸外国只是对等的交锋在有必要为了的力量的点,一样志向的东西。没向同志引诱是俊承,我的个人的理由(違う。仮にそうだとして、清と朝鮮は今、内政を改め、諸外国と対等に渡り合うだけための力を必要とする点で、志を同じにするものと考えている。俊承を同志に誘わなかったのは、俺の個人的な理由だ)」

 看守が戻ってきた。その手には三日前の河北新報。
 黒澤はそれを受け取り、手早く街頭のページを開くと、それを才人に差し出した。

「これは、貴様が書いたものだな」

 俊承と桔華が記事を覗き込む。そこには『眠れる獅子の黄昏』と題された才人の署名記事が掲載されていた。

 我が清国は、夏王朝よりはるか四千年にわたる長き歴史を持ち、その連綿たる歴史の中、秦始皇より「皇帝」と「人民」の明確な区別の下、多民族国家として成立してきた。しかるに昨今の諸外国の発展や著しく、長く「皇帝」として崇め奉られる立場にあった者に対等な外交という選択肢がない。今こそ英仏に倣い、広く国政を人民に開放し、真の民主国家となるべき時だ。

 要約すればこのようなものだった。

「まったくもって、けしからん」

 発行した新聞社の連中も同罪だ、と看守は腕を組んで鼻息を荒げた。紙面を手に俊承はそれを何度も何度も読み返しているようだった。才人は目を閉じて俯いているし、黒澤はそんな才人の様子を伺っているようにも見えた。しかし、と桔華は思う。

「黒澤中尉、これは今の北京政府を直接非難したものではありませんよね。読み方によっては、『国力を上げるために、議会を開設し、広く人民の意見を聞いて世界の情勢を顧みよう』という意味では。それは清国にとってもいいことのような気がします。国家転覆とすぐには結び付かないと思うのですが」

 黒澤は桔華に視線をやる。彼が口を開くよりも先に、看守が怒鳴った。

「馬鹿もの!こんなものも分からないのか!民主制とはすなわち、帝国政府への明確なる批判!シナの政府のみならず、こやつ、我が帝国政府まで否定しおったのだぞ!」

 耳が裂けるかと思うほど大声でどなられて、桔華はちょっと身震いをした。俊承は相変わらず紙面をぼんやりと眺めている。

「間違いないな」
「間違いありません。しかし、わたしは祖国のこれからを考え、そうして世界の先例を鑑みてこの結論に至ったのです。北京であろうが漢城だろうが、施政者が自らの利権保持を優先し、人民の国益を損ねるようであれば、武力革命も辞さない考えです。わたしはそれを間違っているとは思わない」

 才人は射るような視線を見る者にさし向けながら、そう日本語で答えた。看守がいきり立ち、黒澤がそれを宥めた。
 桔華は、胸の底がざわざわとした。才人が間違ったことを言っているとは思えなかった。暴力に賛同はできないけれども、看守の言うとおり、民主国家は政府や皇室の影響力を弱めてしまう装置なのだと教えられてきたし、その認識がおかしいと感じたことがいままでなかった。しかしもし、人民を先導すべき「政府」が、間違った方向に進んだとしたら。いや、すでにもうなにかがおかしくなっていて、「上に従っていれば何も間違うことは無い」「それが正義だ」と、わたしたち国民が思いこんでいるのだとしたら。
 桔華は、背筋に何か寒いものが走るのを感じた。才人が破り捨てたあの日本軍の行軍記事を見たあのときと同じように。

「そういうことだ。従ってこの男を釈放することはできない」
「待ってください!ですから、意見を申し述べただけで何も本当に蜂起しようとしたわけでは」

 桔華が黒澤に食って掛ろうとしたところに、俊承がぽつりと才人の名前を呼んだ。

「啊、什么是个人的理由?(ねえ、個人的な理由って、なに?)」

 俊承の視線は紙面に落ちたままだった。黒澤の胸倉を掴んだままの桔華は、黒澤に通訳しろと目で訴える。しかしかれも、才人の答えに意識を向けているようだった。

「春陽」

 俊承は初めて顔を上げた。黒澤は相変わらずこちらを見てはくれなかったが、桔華は確かに「チュニャン」という名前を聞いた。

「そっか、わかった」

 才人は桔華を呼んだ。看守は俊承から新聞を奪い取るとそうそうに去れとのたまっていた。黒澤に反応を伺えば、その眼が二人の対話を肯首していた。

「わたしに何かあったら、部屋の引き出しの右下、エンゲルス全集の裏表紙に挟んである手紙を、俊承に渡してください。でも、それまでは決して、あの男には見せないでください」
「わかりました。拘留、長くなりそうならいろいろ差し入れしますから」
「ありがとう。いつも、ご心配をおかけしてすみません」

 看守は時計を見るなり「時間だ」といって才人を再び促し、向きかえって黒澤に敬礼し、部屋を出て言った。部屋には、何やら不安げな顔をした俊承と、相変わらずむっつりとして表情を崩さない黒澤と、結局才人に何をしてやることもできなかった桔華、三人の重苦しい空気だけが残された。

「一週間後、春日宮殿下の行幸がある。おそらくそれまではここに留めておくことになるだろう」
「皇室の御行幸?」
「先日、満州で『黒襷隊』の部隊長として戦死された少将閣下のご出身が、仙台でな。戦時下故、陛下が帝都を離れるわけにはいかないから、代わりに弟君というわけだ」
「もうひとつ。あなたはどうして、わたしたちと才人を会わせてくれたのです」

 ふと、俊承が顔を上げた。黒澤は相変わらず無愛想な顔をしていたが、桔華には聞き取れないような小さな声で、ぽつりと言った。

「我的妻子是中国人……(俺の妻は、中国人なんだ)」

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2011/08/16(火)
5、裏切りの祖国

裏切りの祖国(5)


 ***


 一週間はあっという間に過ぎた。
 桔華はふと、発句のために向かっていた筆を止めた。夜半過ぎ。俊承が帰ってきたらしい。

 才人との面会の後、俊承と留学生仲間たちは、彼とそれに連座したものたちの釈放を求め、方々へと走りまわっているようだった。「ようだった」というのは、彼らが日本人に対する感情に濁りを持ち始めているのを感じ始めていた桔華は、それらに同行することを憚っていたためだった。留学生が女将や桔華に向ける笑顔は以前と変わることは無かったし、女将や桔華も以前となんら感情の変化が無いことは事実だったのだ。しかしかれらの「日本」という国そのものへの感情は、才人の一件以来、確実に悪化しているようだった。

 日露間の戦争が勃発した当初、日本はその戦争経費を集めることに非常に苦慮した。
 10年前の清国との戦争の時は、臨時国債を大量発行し、戦後の平和条約で相手国から大量の賠償金を勝ち取ることができた。しかし今回は、大国清を倒した経験があるとはいえ、それをしのぐ大国、ロシアとの戦いである。ほんの数十年前まで鎖国をし、急ごしらえの近代兵器で大戦に望んでいるという風評の極東の小国に、外債を望むのはほとんど神頼みに近いものがあった。
 
 それを担当したのが、後首相ともなる高橋是清である。ただいまより約半年前、彼はイギリスにいた。アメリカをはじめとする各国に日本への援助を断られ続け、八方ふさがりとなっているところに、かれの秘書である深井という男が、ある日本人商人を連れてきた。この男が、現北条商会会長、北条古月である。古月はイギリスへの販路を広げるための人脈をつくっていたのだが、その途上でユダヤ人の富豪・ロナルド=シフという男と知り合った。この男が大のロシア嫌いで、ロシア国内のレジスタンスらにも裏口援助をしているという話で、古月はそこに目をつけた。日本はロシアを交戦している。極東で善戦すればモスクワの警備は手薄となり、革命派も運動が効くようになるのではないか。

 シフはその話に乗ってきた。古月は深井を通じて日本側の特使である高橋にシフを合わせた。高橋の人柄もあって交渉は成立した。結果的に、日本の戦費のうち6割を外債に頼ったが、その8割をシフが出資した。

 明治37年5月の段階で、日露の戦況は、均衡から日本有利に進み始めている。こうしてはじめて、各国がロシアの内部事情等を考慮しつつ、少しずつ日本に出資を始めたのだった。

 清国はその主戦場として満州の領土を侵されながら、あくまで局外中立の立場を貫いている。北京政府は外国の攻防よりも、内部の思想統制に政局の重きを置いていた。00年の戊戌の政変以降、西太后は自国の軍備を増強することで、国内の不安分子を排除しようとしたのだ。よって、彼女のやり方に異を唱える者は、例え皇帝であろうと排除した。

「おかえりなさい。晩御飯ご用意しましょうか」

 俊承は帰ってくるなりどかりと机に向かい、書物を広げた。あの日以来、俊承は才人の読んでいた書物を片っぱしから目を通しているようだった。
 朝も、医専の学生たちよりも早く、宿を出ていく。疲れているはずなのに、桔華はこの1週間、俊承の休んでいる姿を見たことがない。

「ありがとうございます。握り飯にしてくれますか」

 桔華は梅の握り飯に沢庵とあつものをしつらえて、俊承の部屋に持ってきた。かれの傍らに置くと、俊承は「ありがとう」と言い、書物から目を放すことなく、握り飯を口に運んだ。桔華はそこに座ったまま。俊承の部屋の周りは、読み散らかした新聞や書物で溢れかえっていた。

「気持ちは分かりますけれど、少しはお休みにならないと。このままでは体がもちませんよ」

 書は中国語で書かれており、『革命軍』という表紙以外、どんな内容なのかまで桔華には分からなかった。恐らく、俊承もこれらの書物の意図しているところを理解するのが本意ではないのだろう。かれが知りたいのは、才人が何を見ていたのかということであり、何を考えていたのかということだった。

「わたしは大丈夫です。桔華さんも早く休んでください。起こしてしまい、ごめんなさい」

 俊承は書物から目を離さなかった。桔華は、揺らめくロウソクの灯りに照らされた俊承の横顔を眺めながら、胸の奥が疼くのを感じた。才人のこと、桔華にとってもショックであった。半年といえど、寝食を共にした仲間だと思っていた。幼いころから一緒に育ったという俊承なら尚更だろう。才人はこのような結果になることを分かっていて、同郷の知人らの代弁者となったに違いない。そうして、幼いころから共に学んだ俊承は、恩人の息子であり、自分の唯一残された家族を任せられる唯一の存在であったに違いない。だからこそこのようなことに巻き込みたくなかったのであり、それを貫こうとしているのだろう。

 染み入るほど才人の気持ちは理解できた。だけど、と桔華は思う。幼いころから共に学んだ才人に「仲間はずれ」にされた俊承の気持ちは、おそらく才人や桔華には分かるまい。才人が俊承に望んだもの、そのために選ばざるを得なかった現実。それが理解できて尚、俊承のくやしさを、桔華に推し量る術は無い。

 部屋中に散らばった才人の書物を拾いながら、いつまでも書物から顔を上げない俊承の後ろ姿が儚く見えた。同時に、今までの彼に無かったなにかが、そこに影を見せていた。才人だけではない、俊承もどこか遠くへ行ってしまうのだろうか。そんなことを考えて、桔華は小さくため息を付き、そうしてまた、書物を拾い始めた。


 夜更け、時計の針は二時を過ぎたあたりだった。

 1階の裏口をけたたましく叩く者があった。女将が不審そうに声をかけると、外から潜めた声がした。

「黒澤と申します。最上さんか柳君に至急取り次いでもらいたいのですが」



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2011/08/22(月)
5、裏切りの祖国

裏切りの祖国(6)


 女将が返答するより早く、上着を羽織った桔華が二階から降りてきて錠を外し、扉を引いた。

「何かあったのですか」
「急を要します。柳君は……」
「わたしも行きます」

 桔華が振り向くと、そこに俊承がいた。二人は不安そうな顔を向けてきた女将に心配ない旨を告げ、黒澤に従った。暗い小道の闇に寒気が落ちていた。黒澤は人目につかないよう、かつ目的地までの最短の道をとっているようだった。かなり早く走っていたので桔華は何度も着物の裾をつっかけそうになった。

 嫌な予感がした。皇族の行幸は、たしか今日だ。
 皇族の旅先で、なんらかの不祥事があってはいけない。不安の種は、どんな小さなものでも摘み取らねばならない。
 おそらく、才人はその不安の種の一粒と看做されたのだ。才人だけではない、騒擾罪で捕まった留学生だけでなく、思想犯、殺人犯、犯罪予備軍の粛清に入ったのだろう。
 桔華の予測を裏付けるように、鈍くくぐもった銃声が聞こえた。

 どん。
 どん、どん。

 どん。

 規則的に聞こえる音。胸の奥を掻き毟られるような思いを噛み殺しながら、桔華は黒澤と俊承の後を追った。想いが辛すぎて俊承の背中が見えなかった。 

 黒澤が急に立ち止まり、桔華は俊承の背中にぶつかった。おもわず出た悲鳴の口をふさいで、こちらを振り向いた黒澤の声を聞きとるのに神経を集中した。

「すまないがおれはこれ以上案内できない。そこの角を曲がれば眼の前に大きな河川敷があるから、その下だ。行くも行かないもあんたたちの自由だ」
「黒澤さん、ありがとうございます。わたしは行きます」

 そう言うなり、俊承は走り出した。桔華は俊承を止めたかったが、意を決して自分も走りだす。とたん、黒澤に引きとめられた。
 桔華は驚いて振り返った。黒澤は以前と変わらぬ、表情の読み取れぬ顔をしていた。

「あんた、あの男に惚れているのか」

 こんなときになんて話を切り出すのだ、と桔華は半ばあきれ、開いた口がふさがらなかった。

「惚れていますが、何か!」

 桔華はそう言い捨てると、黒澤の手を振り払い、俊承の背中を追った。黒澤は追ってこなかった。


 ***


 目隠しされ、後ろでを縛られた罪人が布団のようなものを掛けられた小銃を後頭部に突き付けられ、鈍い音とともにその体が倒れると、二人の憲兵に体を支えられ、背骨にもう一撃入れられ、そうして橋下へ引きずられていった。桔華が確認できただけでも五人ほどの死体がそこには積み上がっていたし、刑殺されるのを待つだけの囚人らしき人間が三人ほど見えた。

 月明かりのシルエットだけが見えている状態ではあったが、その囚人の中に才人がいるのが分かった。俊承もそれを見つけたらしく大声を出そうとしたところを桔華が後ろから組みついて芝生の上に押し倒し、もがく俊承を抑えつけた。何人もの憲兵が、小銃を構えて見張りをしているようだった。その上で人目につかぬ場所を選び、人目につかぬ方法で罪人を処刑しているのだった。

 桔華はそれを直視するのが怖かった。そしてなんとも歯がゆかった。今自分たちが飛び出して行って、場を混乱させれば才人を逃してやれるだろうか。いやしかし、才人を逃したとしても俊承を無事にそこから逃してやれるとは限らない。もし自分が殺されて彼らが助かるのなら、よろこんでここから飛び出してやろう。そうしてさんざんに暴れて、何かがおかしい、何故気付かぬとのたうち回って、花筐のように憐れまれ、そうして死ぬのも悪くない。だがもし自分が才人の立場だったら。大切な友人の前途を不安にしてまで、自分を救出してほしいとは思わない。少なくとも桔華の知りうる才人は、俊承に対して肉親以上の、いや、自身の身以上に儚く、大切に思っている人間だった。

 またひとつ、動かなくなった体が運ばれていった。目隠しをされた才人がどんと背中を突き飛ばされ、膝をついた。頭をぐっと地面に押しつけられた。その頭に小銃が向けられ、厚い布が被せられた。

 俊承は桔華の下で必死になってもがいていた。俊承は桔華の腕をかじり、足をばたつかせて折れそうなほど腕に力を込めていた。桔華は腕に引きちぎられるような痛みを感じながら、自分の体の端々が、いや、古月との不倫を篠にひた隠しにしてきた辛さとは比べ物にならぬような、心の蔵を直接えぐり取られるような心持で俊承の抵抗に耐えていた。桔華の胸の下では、俊承は叫びにならない叫びを上げていた。それでも桔華は俊承の頭を抱えて、その場から動こうとしなかった。のどがひゅうひゅうと鳴った。終わるな、終わらないで、誰か助けて……!!桔華も声を噛み殺しながら、「その瞬間」を待った。

 先ほどまでの規則的な銃声から、一間があいた。
 桔華は縋るような想いで顔を上げた。

 目隠しが取れたらしい才人がこちらを見ていた。二人に気がついたらしかった。

 あっ、と桔華が思った瞬間に、銃弾は才人を貫いた。続いて例にもれず背中にもう一発撃ち込まれ、動かなくなった体は橋の下の残りの元に引きずられていった。

 桔華は全身から力が抜けた。彼が今、眼の前で訳も分からぬ罪を以って殺されたことがすぐに理解できず、どうして、どうしてが何度も桔華の頭の中を反芻した。俊承も抵抗を止めた。二人の影は闇にまぎれ、動かなかった。

 心に冷たいものが吹きこむのを感じながら、真っ白になった頭に、微かな嗚咽が聞こえてきた。まだ十分とは言えない働きしかしていない脳をわずかに動かせば、桔華が組み伏せた下で俊承が静かに涙を流していた。

「春陽」

 俊承は涙を必死でこらえながら、つらそうに眼を閉じて、微かに「チュニャン」と言った。

「请你……请你原谅…、我……、我是……」

 そこまで言って俊承の言葉は途切れた。俊承は顔を覆って泣き始めた。
 才人は、最後に二人の姿を見て驚いたような顔をしたが、そうしてふわりと表情を緩めたのだった。


『ありがとう。俊承のこと、頼む』


 無骨な彼の、日本語の発音にこだわる細やかな音韻。桔華や女将にもいつも礼を欠かさないその態度。彼の一番大切なものを託されたのだと桔華は思った。眼の前で子供のように泣きじゃくる俊承の頭を抱え、「大丈夫」「大丈夫」と何度も何度もつぶやいた。


「貴方の事は、わたしが守るから」


 そのときかっ、と、夜闇にまばゆい明かりが二人を照らした。
 桔華は反射的に俊承を庇うように起き上がると、着物の袂で顔を隠した。

「貴様ら、そこで何をしている!!」

 見張りの憲兵だった。その声を聞いた別の憲兵も、二人を取り囲むように集まり、小銃を構えた。


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2011/08/23(火)
5、裏切りの祖国

裏切りの祖国(7)

 


 俊承は蹲ったままだ。桔華も憲兵の問いにどう応えたものか、考えを巡らせているところだった。

「何をしていると聞いている!」

 痺れを切らした憲兵が銃剣を桔華の喉元に突き付けてくる。切っ先がひやりとして桔華は思わず息を呑んだ。だけどここを退くわけにはいかない。かといって、二人で逃げ出せるような状況でも無い。
 万事休す、せめて俊承だけでもここから逃がすことはできないか。かれが話せば、俊承が日本人でないことはすぐにばれてしまうだろう。さあ、どうする。どうする桔華――。

「返して下さい」

 亡羊に放たれた俊承の言葉は、そこにいた誰もの耳に届いたはずである。

「返して、才人を返して下さい!」

 そう叫ぶなり才人が処刑された河縁へ走り出そうとする俊承。当然、屈強な憲兵二人がかりで抑えられたが、それでもその間を割って、俊承は才人のもとへ駆け寄ろうとした。

「放せ!放してください!放掉!」

 もう無茶苦茶だった。俊承の荒ぶりに業を煮やした別の憲兵が銃剣を構えた。桔華はとっさにその憲兵にとりついて銃口を俊承から外した。「ぱぁん!」と甲高い銃声が響いた。銃弾は俊承の耳を掠ったが、かれが抵抗を止めることは無かった。
 桔華もあっという間に憲兵に取り押さえられた。「かれは無実です、関係ありませんから!」と自分でも意味不明瞭なことを叫んでいるとは思ったけれど、ここで俊承を失うわけにはいかなかった。俊承は相変わらず「放せ!」「才人!」を繰り返しており、一向に興奮が収まる気配もない。憲兵隊が改めて小銃を構えた。隊長らしき憲兵が、撃ての合図をしようと右手を上げた。
 
 だめ、誰か、誰か俊承を――。


「何事だ」

 意識は一斉に声の主にそれた。二種軍装姿の陸軍将校だった。その後ろに黒澤が控えている。将校は明かりの照らす範囲のギリギリに揃え足で立ち止まると、役者と見間違うばかりの整った顔を桔華に、続いて俊承に向けた。俊承は抑えられていた憲兵に強引に押し戻され、勢い余って将校の足元に倒れこんだ。憲兵隊が一斉に捧げ筒をし、姿勢を正した。

「久坂少佐、ご報告いたします!国家転覆の恐れあるもの、及び清国より特令を下されしもの、十名の処刑を完了いたしました。これより死体の処分に入る所存であります!」

 後ろの黒澤は、二人の姿を見ても表情を変えなかった。一体何のつもりだ、桔華は胸中でそうつぶやいたが、黒澤はこちらに視線を寄こすこともしなかった。

 久坂と呼ばれた将校は「お勤め御苦労」と敬礼を返して「ふうむ」と小首を傾げた。再び桔華にその美しい顔を向けたが、軍人には程遠い、能面のような微笑を浮かばせていた。

「極秘裏に、と厳命したはずだが?」

 久坂は起き上がろうとした俊承の頭を蹴り飛ばした。その容姿に適わぬ行動に桔華も息を呑んだ。俊承はそのまま後方にふっとび、「ぐぅ」と唸り声を上げた。

「どうした、質問に応えろ、三井連隊長」
 
 途端に、三井と呼ばれた憲兵は顔を真っ青にしてがたがたと震えだした。まるで全身に鋭利なナイフを突き付けられているような感覚だった。久坂のその美しい容姿と、相手に容赦ない行動力が、従うものに必要以上の緊張を強いているのだろうと桔華は思った。

「なんで殺した」

 むっくりとおきあがった俊承が二、三度せき込みながら久坂を見据えていた。

「なんでかれらを殺した」
「ふうむ。どうやら日本人ではないようだけれど。生まれはどこかな」
「漢城」
「連中は清国政府からの極秘の要求もあって処刑が決まったんだ。朝鮮の人間には関係のないはずだが?」
「わたしは北京で育ちました。才人の幼馴染です」

 久坂が黒澤に視線をやった。黒澤が一言、「周一樹。容疑者9号です」と簡潔に囁いた。

「そうか、幼馴染か。それは残念だった。だがこれから日本がアジア各国と結んで形成しようとしている恒久平和に、かれの思想は危険だと清国政府が判断した。同盟国として、わが国はそれを受け入れたんだ。かれがどんなことを考えていたのか、君もかれの幼馴染なら、それが、分かるな?」

 この男、もしかしたら才人と俊承の関係を知っているのかもしれないと桔華は思った。だからわざと、俊承を煽るような言い分を申し立てているのではないか。
 そしてその関係を直近で知っているとしたら、いま久坂の後ろに控えている黒澤以外にあり得ない。
 俊承にこの久坂の言葉は体への暴力以上に効いているはずだった。事が起こってから知った才人の想い。春陽のためとはいえ、才人が命をかけた行動に同行させてもらえなかった悔しさ。俊承はふらりと立ち上がって、正面から久坂を捉えた。何をしようと言うのか、桔華は後ろ手に拘束されて動けないまま抵抗を試みたが、芳しい結果は得られない。

「なんだ、その眼は……」

 久坂は幾分か顎を上げて、俊承を見下すようにそう言った。俊承は何も答えなかった。連隊長をはじめ、周りの空気が研ぎ澄まされるように凍りつくのを桔華は感じていた

。遠くの空で夜の空が白み始めていた。

「才人は何も悪いことをしていません。悪いことをしていない人を殺してくれと頼んだのがわたしの育った国で、そうしてそれを鵜呑みにしたのがわたしにたくさんの新しいことを教えてくれたこの国なんですね。自分の大切な国をいまよりもよりよくしたいと考えることの何が悪なのですか。才人は、日本の事だって第二の故郷の様に思っていた。あなたたち軍人は、ロシアと戦争をするのだって、自分の領土を主戦場としようとしない、『アジアの恒久平和』とやらのために、朝鮮を、そして満州を焼け野原にしてなにが作り出されるというのですか!あなたたちは、そのアジアの中で他国に先んじてたくさんの血を流し、そうして列強の侵攻から自立を勝ち取ってきたのでしょう!ならばなぜそれを、列強と同じことを、同じアジアの国であるあなたたちが、わたしたちに仕向けるのですか!」

 桔華は、体中に鳥肌が立つのを感じていた。ああそうか、かれらはやはり、広い海を越えてやってきた、異国の人なのだ、と思った。国家だとか列強だとか、それはどこか、自分の遥か遠いところで起こってるできごとなのだと思っていた。「開国した日本は、アジアの先兵となって欧州列強と渡り合う」ということ、そうして朝鮮や清国はその日本の隷下にあって指導を受けること、それはどの国にとっても有りがたいことなのだと思っていた。アメリカやアフリカの様な植民地となった清国や朝鮮を思い描いたことなどなかった。だが彼等にとって日本とは、アメリカやアフリカにおけるイギリスやフランスと何ら変わりのないものとなりつつあり、それはかつてアジアでいち早く開国した極東の島国という羨望から、侵略国日本としての失望にかわりつつあったのだ。

 ふらふらと久坂に近づいてきた俊承を再び殴り飛ばしたのは黒澤だった。軍刀を脇に抱えたまま久坂の一歩前に踏み出し、そうして渾身の一撃を俊承のみぞおちにお見舞いした。流石の俊承もその場に蹲ったまま、何度もせき込み、立ち上がれずにいた。

「日本が朝鮮と満州を侵略するだと?ふざけるな。貴様ら朝鮮人やシナの連中が不甲斐ないから、こうして海を越えて大国ロシアと戦ってやっているのだそ。そのようなことも理解せずに、よくぞ知った口を叩けたものだな。貴様、あの才人とかいう男の幼馴染とか言ったな。馬鹿を言うな。あの革新派のインテリが貴様のような世間知らずと共に育ったというのか?そんな妄言をわれわれが信じるとでもいうのか!大方貴様が、今夜の宿代もないのであの情婦をこんな人気のないところに連れ込んで楽しんでいたところなんだろう。今夜見聞きしたことをすべて忘れるなら、あの情婦もろとも釈放してやってもいい。ええ、おら、聞いているのか朝鮮人!」

 先ほどまでのかれとはまるで別人のような振る舞いの黒澤に、桔華はとっさに、黒澤がこの場を逃れる口実をくれたのだと気がついた。後ろの拘束がゆるんだところを桔華は抜け出し、俊承の肩を抱き、背中をさすった。

「ああ、お前さん、いったい何がどうしたっていうんだい。いきなり憲兵さんに取り囲まれちまって、あたしはもう、なにがなにやらだよ。昨日あんなにお酒を飲んだから、お前さんもなにがなんだかよく分からなくなっちまってるみたいだけど、ああ怖い。こんなに怖い思いをしたせいですっかり酔いが覚めちまったよ。軍人さん、あたしたちはおっしゃる通りの宿無しです。どうかその銃剣をおさめて、許してはもらえませんか」

「ふん、異国の地まで来て女に助けられるとは情けない。いいか。これきりだぞ。外部に情報が漏れたとなればまず貴様らを殺す」

 黒澤は膝をついて二人に視線を合わせ、そう凄んだ。そうして久坂のもとに戻ると簡単に状況説明を繰り返し、憲兵隊と連隊長には夜明けまでに川辺の死体の処理を申しつけた。久坂は相変わらず俊承を見下ろしていたが、かれの肩を抱きつつ、今度は桔華が彼を睨みかえしてやった。
 黒澤が促したので久坂は何も言わずにその場を立ち去った。彼らの姿が完全になくなったことを確認して桔華はその場を動かない俊承の顔を上げさせ、頬を叩いた。

「俊承、生きている?大丈夫?」

 反応の無い俊承の腕を肩に抱きかかえて、桔華は立ち上がった。朝日が水平線上にあった。長い夜が明けた。
 その時、着物の袂に何か紙切れが挟まっていることに気がついた。



『下宿には戻るな。早朝に憲兵隊が一斉検挙に動く。お前たちは下の住所に来い。ただし、人目には付くな
 黒澤修吾』



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2011/08/24(水)
5、裏切りの祖国

裏切りの祖国(8)

 

*****


 正直、桔華はここまできて、黒澤を信用できるかどうか決めかねている。

 黒澤のメモの住所は、広瀬通りを一つ越えた先の、長屋街の中の一つだった。維新前の江戸の街並みを遺したといえば聞こえは良いが、風が吹けば戸板がガタガタ鳴り、隣人の会話の聞こえるような薄い壁。気を失った俊承を抱えつつ、いまさらどこにいこうという先も思い浮かばずに、意を決して黒澤指定の家の戸に手をかけた。鍵は掛かっていなかった。

 早朝六時前。まだあたりも人の動きだした様子もなく、カラカラと戸を閉じるとそこにしんと沈黙が落ちた。6畳ほどの部屋に文机が一つ。本棚にはぎっしり本が積まれており、読みかけのものが数冊机横に重ねられている。蒲団は綺麗にたたまれてしゃんと奥に納められており、シャツが一枚掛けられているほかは家具らしいものも見当たらない。

 とりあえず土間を上がり、奥の布団を借りて俊承を寝かしつける。押入れを開けたら風呂道具のようなものを見つけたので、共同の水くみ場で水を汲んできて手ぬぐいを絞り、俊承の体をふいてやった。瓶底の眼鏡は割れていたので外した。憲兵にやられたらしい痣が体中に残っていたが、黒澤にやられた鳩尾は赤黒く変色していて桔華はぎょっとした。演技にしろ、そこまでやる必要があったのか。とりあえずもう一度洗った手ぬぐいを絞り、患部に当ててやった。そうして布団を掛けてやる。

 ようやく桔華も膝を崩し、大きく深く息を吐いた。たった一晩の出来事ではあったが、親しい友人が死に、自分らも殺されそうになり、その窮地を脱してきた。急激な疲労感とともに、先ほどまでの出来事がまるで夢だったのではないかと思えてくる。才人のことも夢だったのではないか。きっとひと眠りすれば、またむっつりとしたあの顔をぶら下げて、ひょっこりと帰ってくるのではないか。

 下宿の女将やみんなはどうなっただろう、黒澤は本当に信用できるのだろうか、これから私たちはどうしようか……そんなことを考えているうちに、桔華もうとうとと意識を虚ろにし始めていた。まあいい。私たちが落ちついたところに、憲兵たちがここを襲撃するかもしれない、いやだが、眠い……

 そのとき、ガラっと戸が開いた。とはいえ桔華は反射的に身構え、俊承を庇うように身を乗り出す。

 帰ってきたのは黒澤だった。そんな様子の桔華を見ても大した反応もせずに静かに戸を閉めると、軍帽と外套を脱ぎ、軍刀を外して土間を上がった。桔華の視線は黒澤をずっと追っているが、当の本人はそれを気にした様子もなく通り過ぎ、軍服の上着を脱ぎだした。そのときになって桔華はようやくはっとして、慌てて後ろを向いた。なんとなく気まずい思いをしているのは、桔華だけのようだった。

「き、着替えるなら先に言ってください!」

 その空気に耐えきれなくなった桔華が、隣の部屋に感付かれないよう声を殺しつつ、黒澤に文句を言う。黒澤はやはり意にすることは無いようでシャツを脱ぎ軍袴を脱ぎ、単衣を羽織り、きゅっと腰帯を締めた。押入れから酒瓶と銚子を取り出して、俊承の寝ている布団の横にどんと座って胡坐をかいた。そうして手酌で一杯ひっかけると、桔華にも杯をすすめた。

「なんですか」

「薩摩の紅いも。旨いですよ」

「そーではなくて!あなたはなんなんですか!私たちを殺したいの、それとも生かしたいの!そしてここはどこなんですか」

 桔華ははっとして語尾の声をひそめた。つっこみどころが多すぎる。
 勢い立ち上がった桔華を見上げる黒澤は、やはり大した反応もないまま再び手酌で飲み始めた。

「以前話したでしょう。俺は陸軍の中尉、一昨年士官学校を卒業したばかりの新米です。女房と子供が出て行ってからはここに一人で住んでいます。よって、ここは俺の家。あんたたちをどうしたいのかは、正直俺もよくわからない」

 そういうと黒澤はまたぐっと杯をあけた。焼酎だが、随分いける口のようだ。

「将校さんって、もっと立派な家に住んでいると思っていました」

「中尉の月給は世間のさらりいめんよりずっと安いですよ。戦費を国民に借金するような国に雇われているんだから当然です」

 釈然としないが桔華はとりあえず座る。俊承は規則的な寝息を立てていて、ぐっすりと眠っているようだった。それを確認して桔華はほっと胸をなでおろす。

「私たちの住んでいる下宿、どうなるんですか」

「とりあえず、今日処刑された10人の関係者は、今日の行幸が終わるまで憲兵の監視下に置かれることになっている。一応事情聴取はすると思うが、事前に素行調査など行っています。すでに白黒はついているはず」

「じゃあ、またさっきのようなことが起こるということ?」

「さあ。昨晩中に始末しろというのは久坂中佐の指示です。中佐は在京近衛隊の参謀。今日の春日宮殿下の仙台入りの全権を任されて着任した。三月まではイギリスにいた人です」


――イギリスで、耕三郎と士官・陸大が同期の久坂廣枝という男に出会った。


「久坂……廣枝?」

 そうして初めて黒澤が感情をあらわにした。

「驚いたな。知っているんですか」

「今イギリスにいる知人からの手紙に、その名前を見ました」

「最短で陸大を出て、そのまま在英駐在員として数年を過ごし、参謀本部へ出仕している、超エリートですよ。あの年で皇族の出御を任されるのは前例もない。お上には随分覚え目出度いらしい」

「尊敬しているのね」

 ふと黒澤の手が止まった。

「まあ、そうですね」

 ところで、と黒澤は切り出した。

「あんたさっき、俺がその男に惚れているのかと聞いた時、そうだと答えた。それは本当ですか?」

 ずいぶんと引っ張ってくる男だ、と半ば訝しげになりながら、桔華は少し、考えた。

「まあ、そうかもしれませんね。確かにさっき、この人のためなら死んでもいい、そう思いましたから」

 黒澤は何も言わずにまた杯を口に運んだ。奇妙な間が生まれて桔華はまた居心地が悪くなった。

「それは同情ではなくて?」

 黒澤の会話の意図がまったくつかめない桔華は、「どういう意味です!」と食ってかかる。黒澤は杯をすとんと置くと背筋を伸ばして桔華に対峙した。

「初めにあんたたちに会った時、最上さん、あんたが一方的に柳君を追いかけているように見えた。男女の中に生じる感情なのかとも思ったが、どうやら違うらしい。それとはちがう、もっと穏やかで優しい何か――それが何なのかは俺にもよく分からないがとにかく、そう感じたんだ。
 あんたたちを返した後に、周君と話をした。彼もまた、柳君にたいして友情とひとくくりにできないような、素晴らしく単純なようでいかんとも説明しがたい感情を持っていた。家族や恋人、自分の命よりも大切に思える存在、それが周君や最上さんにとっての柳君だ。
 だがわからない。なぜ皆そこまで彼に拘る。何が君たちをそこまでさせる。俺は軍の学校や大陸での演習で何人もの思想家や知識人を見てきたが、どんな賢人も技術者も、それだけではことを起こすことができない。ことを起こすためには何が必要か。それは多くの人を引き付けることのできる人間の存在だ。それには博学の知識も、端麗な容姿も、理想的な思想も必要ない。ただそこにあるだけで、人々の興味を引き付けることのできる人間が、世に大きなことを起こすことができる」

「何が言いたいの」

 黒澤は視線を落とし、俊承の寝顔を眺めていた。俊承の方は先ほどの喧騒が嘘のように穏やかな寝息を立てていた。桔華は黒澤の言わんとしていることは分かるような気もしたし、分からないような気もした。俊承がもし、何かを成し遂げようとするのなら、それをすることができる素質を持っているのであり、そうして黒澤は、これから俊承をどうしたいということなのだろう。ほんの一週間ほどの付き合いではあるが、この男には何度も危機を救われている。はじめからその目的のために、俊承に恩を売ったということか。

「少なくとも、日本軍のために働けと言っても、無駄ですよ。才人のことだって納得できていないんです。むしろ、俊承は日本を憎んでいるかもしれない」

「そうでしょうね」

「私が彼に抱いている感情は確かに男性に抱く恋心とは違うものかもしれません。それでもわたしは俊承や才人のことがとても大切です。人間として、尊敬もしている。だからこんな形で、『国家』なんてモンが勝手に私たちの仲を裂こうとしていることが許せない。黒澤中尉、この一週間、確かに貴方に助けられました。だけどこれとそれとは話が別。俊承を、俊承の意に沿わない形で使おうなんてこと、私が許さない」




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2011/08/26(金)
5、裏切りの祖国

裏切りの祖国(9)



「誤解をさせてしまったようですね。そうではなく、これは単に、俺が柳君を見ていて感じたことと、その将来性についての話です」

「はあ」

「この男に惚れているといいましたね。最上さん、あなたはもし、この男との間にこどもが生まれたら、どうします」

「どうとは?」

「日本人として育てるのか、それとも中国人、いや、朝鮮人として育てるのかということです」

「先ほどからあなたの言っていることの意図がわからない。つまりあなたは、日本人と大陸出身者で恋愛をしてはいけないということ?それならば結構。先ほどのあなたのご高説の通り、私は俊承に確かに惚れているけれど、それは男としてというよりはその人間性に深く寄与する感情であって、大切な友人という意味よ。けれどもそれはそれとして、私は人を愛するという感情に国境なんてものは関係ないと思っているわ。言葉が通じないなら互いの言語を学べばいい。一緒にいたいという感情は、そういうものをいとも簡単に凌駕してしまうものだと思うもの。大切なのは、それがお互いの正直な気持ちであるかどうかということよ」

「理想論だ。あんたもさっき見ただろう。逼迫する国際情勢は、それに比例するように国民の心境を圧迫し、その歪は近隣の諸外国への優越感となって表れ始めている。本人同志が好きあって一緒になったとして、その間に生まれた子供はいったい、自分を何者だと思って生きていけばいい。日本人には混血と忌まれ、大陸出身者には僻まれ、そうして誇るべき自国も持たぬ力なき幼子が、どうやって自我を確立する。これはもはや、親の努力ではどうすることもできない領域の問題だ」

「あなた何を恐れているの。そんなこと、こどもが自分で考え、そうして自分で答えを見つけ出すわ。親ができることは、そのような時代に翻弄されることなく、自らの正義を貫き通す大人の背中を見せることよ。今が自分の力でどうしようもないような時代の力に押し流されている時期なのだとしたら猶更、それに異を唱え、行動しようとする姿を見せる時期ではないのかしら。たとえそのために」

 桔華はそこまで言ってはっとした。
 今から自分が言おうとしていることは、果たして正しいのだろうか。そう思ったからだ。

「そのために、こどもと、その家族を顧みることなく己の信じた道を突き進んでいくのだとしても」

 黒澤は相変わらずその感情が読み取れぬようなぼんやりとした眼をこちらに向けていて、一言「そうか」とだけ呟くと手酌で杯を満たし、桔華に差し出した。焼酎は苦手だったが、二度も断るわけにはいかぬと思い、それを受けて、一気に干した。喉の奥から燃えるように熱くなった。脳髄の先から染み渡るように痺れが走った。

「そうか……」

 そういったきり、黒澤は項垂れてだんまりしてしまった。桔華は感情の高ぶりと慣れないアルコールにもっと何か話をしていたいような気分だったが、黒澤にかける言葉も見つからず、なんとなくまた、気まずい空気が流れた。時の針の音だけ、こちこちと正確なリズムを刻んでいた。

 そうしているうちに、遠く、外から鼓笛隊の音楽が聞こえてきて、ざわっと人々が湧いた。皇族の行幸だろう。沿道に詰めかけた人。日章旗を振るこども。訓練された鼓笛兵が整然とラッパを構えながら先導し、その後ろを春日宮とその奥方を乗せた馬車が続いているのだろう。

「あなた士官でしょ。行かなくていいの?」

「今日は非番だ。久坂少佐が指揮を執る。上に自分のやり手ぶりをアピールする絶好の機会でしょう」

「こちらから聞いてもいいかしら」

「何でしょう」

「おいくつ?」

「25」

「驚いた。やっぱり私よりも若かったのね」

「女性に歳は聞けぬと思っておりましたが、おおよその見当は付きました」

「もう一つ。いやなことを聞いていいかしら」

「国家機密に関しない限り」

「あなた、陸軍のお偉いさんによく思われていないんじゃないの。今戦争の真っ最中だというのに、士官学校を出たあなたがこんな地方の憲兵のお目付け役だなんて。しかも皇族のご来訪にも顔を出させやしない。なにか悪いことでもしたの」

 桔華が見る限り、黒澤は軍人、いや、帝国陸軍の士官としての素質、態度、行動力をともに備え持つ優秀な将校であるように思われた。憲兵官舎での問答。思想偏向無く、その場の空気を読み、適切に処理しぬける決断力。どれをとっても申し分がない。その彼が、このような日陰の任務を負わされるのには、何か理由があるのではないか。あるのだとしたら、先ほどからやたらと突っ込んでくる自分と俊承との関係性、いや、日本人と大陸出身者との関係について。軍上層部が好ましくないと考える要素が何かしら彼には認められるということか。


「もしかして、出て行った奥さんって……」


 黒澤は答えなかった。
 桔華が覗き込むと、黒澤は酔いに任せてそのまま眠りについたらしく、あぐらのまま健やかな寝息を立てていた。

 俊承も黒澤も、穏やかな寝顔はまだ少年のあどけなさを残していて、その間に隔たる国家などという極めて人為的な抑制装置は、どこをみても見当たらない。

 桔華は自分が着ていた上着を黒澤に掛けてやると、静かにその部屋を出た。
 遠くで鼓笛隊のパレードの音が聞こえている。


――わたしに何かあったら、エンゲルス全集の裏表紙に挟んである手紙を、俊承に渡してください。


 脳裏によぎる才人との約束を胸に、桔華は自分たちの暮らしていた下宿へと走り出した。

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2011/08/31(水)
5、裏切りの祖国

裏切りの祖国(10)



 ***


 下宿を前に桔華はあたりの様子を陰から見渡している。
 今日は休日。街道に面するこのあたりは普段はもう少し人出があるのだが、皇族の行幸が幸いしてか、あたりは閑散としていた。

 憲兵隊もいない。桔華は小走りで下宿の裏口に回り、戸に手をかけた。開いた。
 
 できるだけ物音を立てぬよう慎重に戸を閉めた。すると人の気配に気が付いたらしい女将がやはり静かに降りてきて桔華の顔を改めるなり、驚き、安堵といった感情を交互に顔に表しつつ、声を低くして桔華に声をかけた。

「無事だったのね、よかった」

「女将さん、憲兵隊は来たのですか」

「ええそうよ、あなたたちが出て行ったそのすぐあとくらいかしら。十人くらいの憲兵さんたちが急にここにきて、今から名前を読み上げるものを引き渡せというのよ。才人の関係かとも思ったから、なんとなく言葉を濁していたら、騒ぎを聞きつけた留学生の子達の方から出てきてしまって、そうして連行されていったわ。あの子たち、『自分たちは何も悪いことをしていない、ここに迷惑をかけるわけにはいかないから』なんてことを言っていたけれど、才人だって戻ってきていないし、それに……」

 桔華は先だって二階の俊承と才人の部屋の戸を引いた。おそらく憲兵隊がさまざまに物色していたのであろう。部屋は書物や生活用具が入り乱れて雑多としていた。
 女将は桔華の後ろからついてきている。この部屋を見て溜息を付く。

「引き渡せという名簿の中に、あなたや俊承の名前もあったわ。あなたのことは実家に帰るから昨日で辞めたということにして、俊承には申し訳ないけれど昨日から出かけていて居場所はわからないと言っておいたわ。ところで俊承は無事なの?」

 才人が下宿の人間と自分の行動には何の関係もないと最後まで言い張ったのだと黒澤は言っていた。
 だとするとあの日、才人に面会を求めに行ったときに名乗ったことが、関係者と見なされることになったというわけか。
 女将の問いに桔華は頷いて見せて、雑多となっている部屋をかき分けるように進み、いつもは整然と整理されていた才人の文机の一番下の引き出しを引いた。エンゲルスの全集も数冊が抜き去られた後だったが、その一番手前にある全集の裏表紙を外すと、茶色い封筒が出てきた。念のため、桔華はその封筒の中を確かめる。

 一枚は中国語で書かれた俊承への手紙らしかった。
 そうしてもう一枚は先月の日付のある新聞記事の切り抜きだった。
 10行ほどのベタ記事ではあったが、それを見て桔華は絶句した。

「桔華さん」

 後ろで女将が自分の名前を呼んでいることにも気が付かなかった。桔華はその記事を見つめたまま、全ての思考が停止してしまうような気さえした。
 才人との約束は果たさねばならない。しかし大切な友人を失ったばかりの俊承に、この事実はあまりにも残酷だ。

「桔華さん」

 ようやく我に返った桔華が振り返ると、女将が風呂敷に二人分の手荷物を簡単にまとめたものをよこしてきた。

「才人がどうなったか、知らない?」

 桔華は少し押し黙った後、首を横に振った。

「女将さん、私、才人にこれを俊承に渡すよう言われているんです。でも、今の彼にこれを渡していいものか、正直迷っています」

 桔華から切り抜き記事を受け取った女将は、それを改めると沈痛な面持ちで黙って返してよこした。
 
「それが才人の気持ちなら渡すべきよ」

 桔華が荷物を受け取り、立ち上がっても、女将はそこに膝を折ったまま、顔を上げることをしなかった。

「長い間お世話になりました。こんな形でここを離れることになってしまうのはとても辛いけれど、騒ぎが落ち着いたら必ずまた戻ってきます。女将さん、憲兵隊に何を聞かれても、自分は彼らには何の関係もないのだと言い通してください。それが、ここでともに暮らした留学生たちの願いでもあるのです」

「私は、あの子たちは無実なのだと証言する。自分たちの暮らしをよりよくしたいと思うことの何が罪だというのかしら」

「女将さん!」

 悲痛な心地で振り返った桔華に、女将は立ち上がっていつものように優しげに笑うと、桔華の肩を抱いた。

「心配しないで。私にできることをするだけ。捕まったりなんかしてやらないわ。それより桔華さん、俊承の事……」

 才人が俊承に残した手紙と、新聞記事。
 記事には、ガリ版の小さな文字が、北京近くの村で起こった馬賊の襲撃事件を伝えていた。

『過日、北京郊外李甲屯にて馬賊の横暴あり。村人の多くは日系・朝鮮系の移民であり、反日の意思昂じた梁続山率ゐる一派数十名による虐殺行為が行われたるとの報告。
 漢城にて蘭学を学びたる由にて高名な柳 隆盛氏(53)の一家もその被害に遭遇、本人とその家族の死亡が確認されたり。柳氏は親日派として内外に知られ……』

「辛いのはあの子ね。信じていた祖国のすべてに裏切られたのだから……」

 桔華はその女将の言葉に応えることなく、荷物を抱えなおすと深く一礼してその場を後にした。
 俊承はひとりだ。たった一晩で、帰るべき祖国も、敬うべき祖国も、大切な友人も、家族も、そのすべてを失ってしまった。

 いいえ、絶望なんかさせない。
 わたしが、あなたの傍にいる限り。

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2011/09/01(木)
5、裏切りの祖国

裏切りの祖国(11)



 ***


 桔華が黒澤の部屋に戻ったのは昼過ぎだった。
 当の部屋の主はいなかった。俊承は起きていて、黒澤所有の書物に目を通しているようだった。

「おかえりなさい」

 桔華はただいまも言わずに戸を引いたというのに、俊承は少し元気はないものの、いつもの柔らかな笑顔を桔華に向けてよこした。

「起きたのね。調子はどう?」

「黒澤さんに入れられた一発がだいぶ響いていますけれど、そのほかは問題ありません。さっき本人にも演技とはいえかなり本気でぶち込んで申し訳ないと言われました」

 そういって笑う俊承の、ビン底眼鏡は割れていた。もしかしたら夢かもしれない昨夜の出来事が、全部本当のことだったという証だ。

「その、黒澤中尉殿は?」

「ええ、官舎の様子を見てくるとかで、先ほど出ていきましたよ。わたしたちは憲兵に目をつけられているから、できるだけここを動かない方がいいと言われました。夜には帰ってくるそうです」

 親切なのやら、自分たちに何をやらせようとしているのか。
 結局黒澤の真意は分からぬまま、桔華は一つ溜息を付き、そうして土間を上がった。
 今晩帰ってくるなら晩飯ぐらい用意してやろう思ったが、この部屋には食糧がまるでない。煤けた鍋が一つあるだけで、口に入りそうなものといえば『薩摩の赤いも』とかいう焼酎くらいのものである。
 堪能な中国語やあの才人を「革新派のインテリ」と形容できるほどの知識人でもあるようなので、給料の大半は書物につぎ込んでいるらしかった。

 陸軍中尉の安月給というものは随分深刻なのだな、とそのときはじめて桔華は黒澤に同情した。


 ***


 それから三日は、黒澤の言いつけ通り、俊承も桔華もほとんど家を出ずに過ごした。
 黒澤はほとんど家にいなかったが、外出の前には水とある程度の食糧を用意してくれた。桔華もせめて居候させてもらうのだから掃除洗濯ぐらいでもと申し出たのだが、人がいると見つからない方がいいだろうと丁重に辞退された。
 俊承は一日中、黒澤所有の書物に目を通していた。ワグナー、ブリューゲル、ニーチェに始まり、論語、墨子、孫子と、古今東西のあらゆる言語の書物があるようで、俊承はそれらを食い入るように読みこみ、そうして「面白い」「すごい」とその話を桔華に聞かせたりした。あの軍人がどんな顔でダンテを読むのだろうと思いつつ、俊承の笑顔が今の桔華の唯一の救いのような気がして、黙ってそれを聞いていた。桔華は、俊承にあの手紙をまだ渡せずにいた。俊承も、下宿の人間のこと、才人のことを話題にしようとはしなかった。

「あんた、北条桜花の孫なんだってな」

 才人の一件から三日目の夜更け、俊承は銭湯へ行っていて、一人で留守番をしていたところに黒澤が帰ってきた。

「ええ、そうですけれど」

「なるほど。それで分かった。久坂少佐のことは、北条古月に聞いたんだな」

 桔華は黒澤から軍帽と軍刀を預かった。始め本人は「別にそういうことを求めていない」と断ったが、せめてやれることをやらせてほしいと桔華が押し切ったのだった。

「社長をご存じなんですね」

「まだ直接は知らない。だが今回の戦争には民間の海運会社も大きくかかわっていて、『北条』もその例にもれないということだ。もっとも北条社長は、イギリスで高橋蔵相にユダヤ人実業家を会合させて日本への戦債確保に尽力したと言われている。社長の友人が、俺の上官だ」

 桔華は胸のすく思いで古月の名前を聞いていた。目をとじると、かれの大きな手が、桔華を求めてくるような気がする。そうするうちに桔華の中にふんわりとやさしい何かが浮き上がって、堪らなくなる。会いたい、声を聴きたい、その気持ちが頂点に達するより早く、「後悔しないで」とのたまった、篠の辛い顔が浮かぶ。

 ふと、唇をぎゅっと噛んだ桔華い黒澤はちらりと見、それには気が付かぬというように「そういえば」と話を切り出した。

「あんたたち、これからどうするつもりだ。ここにいるのは構わないが、このとおり、いろいろと不便な思いをさせてしまうだろう。しばらくは官憲の目も煩いだろうから、いっそ二人で仙台を離れるのが得策だと思うのだが」

 仙台を出る。それは桔華の中にもあった答えだった。
 だが出てどこに行こう。京都にはまだ戻れない。
 桔華が黙っていると、着替えを終えた黒澤がいつもの焼酎を片手に桔華の前にあぐらをかく。
 三日ほど過ごしてみてわかったことだが、この男、別に酒に強いというわけではないらしい。強い酒を煽ることで、入眠を促しているようだった。

「ま、あんたと柳君が一緒に行動するという義理はないのかもしれないな」

 桔華ははっとして即答する。

「バカなこと言わないで!私が、私が俊承のそばにいてあげなくちゃ、かれはもうどこにも帰るところなんてないのよ!かれがどこかに行こうというのなら、私はそれについていきます。それがどこであってもです」

 黒澤はその桔華の言動を見逃さない。

「それは、北京にいるという柳君の家族に何かあったということですか」

 桔華は言葉に詰まった。才人の残した新聞記事にそうあっただけだ。それが事実である確証などどこにもない。
 悩んだ末、桔華は才人からの手紙と記事の切り抜きを黒澤に手渡した。黒澤はその内容を一通り確認すると、それを丁寧に現状に戻し、そうして桔華に返してきた。

「手紙、なんて書いてあるんですか」
「知ってどうする。周君は柳君に渡してほしいといったんだろう」
「迷っているの。この手紙を、かれに渡していいものか」

 もし手紙の内容が、清国の革命のために自分の志を継いでほしいというものだったら?
 家族を清国の人間に殺された俊承が、その発端となった日本や、家族を見殺しにした中国を心から恨んでしまったら?
 たくさんのことに絶望した俊承が、日本や中国を、そして自分を嫌いになってしまったら?

 俊承が遠くへ行ってしまう。
 私の手の届かない、どこか遠くへ行ってしまうような気がして。

「惚れていない、ということではなかったのか」

「惚れている、と言ったはずよ。人間として尊敬しているの。だからこそ、私は彼の見方であり続けたいの。だからこの手紙が、今の彼を否定するものならば、それがたとえ才人の頼みであっても私は受けることはできない」

 古月の顔が浮かんで消えた。かれに言えなかったたった一言を、こんなにも容易く口にできる自分が怖かった。
 偽りのない事実。これからを俊承を助けて生きていかねばならない。桔華はそう心に固く、決めていたのだ。

「本人がそれを望まないかもしれない」

「そんな、だって」

「あんたは自分の独りよがりな妄想で、柳君を弱者にしてしまっているんじゃないのか。自分がいなければあの男が一人ぼっちで、頼るべきものもないのだとなぜ言い切れる。あんたは目の前で見せつけられた大陸民に対する日本人の優越感を否定し、自らかれらを保護しようとすることで自分だけはこの国の熱狂の外にいると自覚したいだけなんじゃないのか。そういうあんた自身が、周君や他の活動員たちの啓発運動のきっかけとなっていたのだと考えたことはないのか」

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2011/09/02(金)
5、裏切りの祖国

裏切りの祖国(12)

 


 違う、自分は純粋に俊承の力になりたいと思っているのだ、そう思う心に必死で抗おうとしている自らの思念に気が付き、桔華はその場で絶句してしまった。心の隅に引っかかっているものがあった。自分は日本人で、かれは半島出身者。才人の怒りも、俊承の悲しみも、分かったようなふりをして、その実、心の中では日本人である自分がかれらの理解者であることにどこか拠り所を求めてしまっていたのではないのか。黒澤の言うとおり、本当はそうあろうとしている自分に酔いしれ、俊承を自己満足の道具にしてしまっているのではないのか。

 俊承の力になりたい。
 俊承の近くにいたい。

 これは同情や自己満足なんかじゃない、これが私の本当の気持ちなんだ。

 それはつまりどういうことだろう。

 天涯孤独となったかれを支え、ずっとそばにいたいということは。

「……違う」

「どう違う」

 黒澤は間髪入れずに返してきた。

「同情や憐憫ではないとどうして言い切れる」

「私は、一生愛していくと決めた方がいます。でもそれは俊承ではないの。今でもその気持ちは変わらない。私の心はずっと彼のものよ。でもこれと俊承のこととはわけが違う。たった半年だけれども、一緒に寝起きした仲間なの。私にとっても大切な友人であった才人が、最後まで守りたかった男なの。それが自己満足だというのならそれで構わない。俊承が私の力を必要としてくれるなら、私はどこまでもかれについていく。そう決めたのよ」 

「女心とはつまり理屈だな。男には理解できん」

 そういうと黒澤は何かに気が付いたようにばっ、と立ち上がり、がらりと戸を開けた。
 驚いた桔華がその後ろに従う。玄関には風呂の湯桶と手ぬぐいがあるばかりだった。

「まさか俊承」

「官憲の目もある。探しに行った方がよさそうだな」

 

 ***



 仙台駅から電車で松島まで約三十分。市内中を駆け回った末に桔華が思いついたのは、俊承が常々言っていた、「太平洋を見てみたい」という言葉だった。
 先日の花見の際に、行きたいと思いつつまだ行けていないということを桔華に漏らしていた俊承に、才人は「近いうちにな」と返した。思えば新聞の日付はあの日よりも前のことであったから、才人はすでに祖国で何が起こっていたかを知っていたはずであったのだが、俊承を思ってか、かれは存命中、そういうところを一切俊承に見せなかった。俊承の父は、北京でも高名な学者だったいうから、他の留学生の口から彼にその旨を伝えられることも考えられたが、ほとんど影のように俊承につき従っていた才人がそのようなことを許すはずがなかった。

 終電に間に合い、桔華は松島の駅で降りた。観光客用の土産屋が何軒かあるがそこも締まっており、街灯もなく、あたりはいやに静かだった。電車が行ってしまったのを見てから、遠くにざざんと波の音がした。桔華は音の方に足を向けた。

 月の明るい夜だった。
 照らされた離れ小島だけが、ネイビィブルーの夜空に黒く縁どられている。穏やかな波が打ち寄せる白浜に、人影を見つけた。

「俊承!」

 下駄が砂に飲まれるので、裸足になった。砂は昼間の太陽の熱を少し残していて、なまぬるかった。海風が熱を持ち始めた空気に心地よかった。

「俊承」

 桔華の呼ぶ声に、俊承は二度とも応えなかった。ただ膝を抱いて海の向こうをずっと見ている。
 俊承のすぐそばまで来たが、桔華は俊承の隣に座ることができなかった。さっきの黒澤の言葉が、おおきく頭をもたげていた。


――自己満足でないと、なぜ言い切れる。


「この向こうに」

 俊承はすっと海を指差した。桔華の視線もそれに従った。

「この向こうに、ハワイがあってアメリカがあって、そうしてずっとずっとまっすぐ行けば、イギリス、フランス、インド、そうして北京、朝鮮」

 俊承はぱっと後ろを振り返って、桔華に笑いかけた。

「そして、桔華さん」

 いったい何の話だ、と桔華は一瞬わけがわからなくなったが、俊承がそう言って一人で笑い出すので、桔華も吹き出してしまった。そうしてしばらく、わけがわからぬまま二人で笑いこけた。静かな波の音に、二人の笑い声だけが響いた。
 そうして一通り笑い終えて、桔華は俊承の横で手足を投げ出して大の字になって寝ころんだ。俊承はまだ余韻が残っているらしく、相変わらずくすくすと笑っていた。桔華はそうして波の音を聞きながら、天の星を見上げていた。無数に広がった天の海は果てしなく広く、そして途方もない時間を抱いて、そこに有った。

「本当は知っていたんです。北京の家族のことは」

 桔華はばっと起き上がった。
 さっきの黒澤との話もどこまで聞いていたのだろうか。心地恥ずかしいような気もしながら、桔華も膝を抱き、俊承のことばに耳を傾ける。

「才人がわたしになにも言おうとしなかったから、わたしも何も知らないつもりでいました。才人はやさしいひとだから、わたしがそれを知って悲しむ姿をみたら、かれも辛いだろうと思ったからです。わたしたちは、とても小さなころから一緒にいました。いつもいちばん近くにいました。でもだから、もしかしたらいちばん遠いひとになっていたのかもしれなかった。言わなくてもわかっているからこそ、言わなくちゃわからないことがあるんです。わたしは、才人の本当の痛みを、分かってやれなかった」

 俊承は泣いてなかった。いつものあの穏やかなで儚げな微笑を湛えて、才人よりも少しおぼろげな日本語で。

「才人はきっと、痛いなんて思っていなかった。ずっと悲しいと思っていた。自分の国を少しでも良くしようと思って、皇帝と一緒に事を起こそうとした両親を殺されたこと、誰のせいだとも言わなかった。それが正しいとされる国が悲しい、だから自分で変えていかなくちゃって思っていた。才人は本当は、孫中山老師たちと一緒に、国を変えるために働きたかったのに、わたしが日本にいくと言い出したから、心配してここまでついてきてくれたんです。いつも自分のしたいことは後回し。だから、才人が自分のしたいことを始めてくれたんだって、わたしはよろこんだのです。でも、ほんとうのほんとうは、心の底では、才人が遠くに行ってしまったようで寂しかった。才人が変革のための行動にわたしを巻き込みたくないのだってわかっていたから、わたしはそれ以上才人に何も言えなかった。でももしかしたら、わたしが寂しいっておもっている気持ちを才人は理解してくれるんじゃないかって思って期待をしていた」

 海がざざんとなった。

「わかってくれていたんです。だからあのとき、わたしを納得させるための理由に春陽の名前を出した。才人はわたしのことをすべてわかってたんです。わかってやれなかったのは、わたしです」

 そこで俊承の言葉が途切れた。俊承は膝に頭を埋めて、堪えきれない何かを必死になって抑え込もうとしているようだった。いつも自由で、無垢で、その笑顔に才人は救われていたに違いない。親を国に殺された悔恨を、本当にしたいことをあきらめてまで俊承とともに海を渡ったのも、すべて、この笑顔を絶やさないためであったに違いない。
 才人は最期、確かに桔華に言った。「俊承を頼む」と。
 それは才人が生きる上で最も大切にしていたことであり、俊承が才人を理解しきれないといったまさにその部分であったに違いない。

 誰かが誰かを想うという気持ちを内向きにとらえるならそれはただの自己満足なのだろう。黒澤の言うとおり、押しつけがましい恩情も、弱者に対する無意識な優越や憐憫も、大方自己満足の域を域を出るものは少ないに違いない。だが、それの何が悪いというのだ。才人の自己満足は、現にこうして一人の命を助けた。そうして、桔華をここまで動かした。才人の気持ちを、俊承や桔華が理解したことで、かれのそれは自己満足などではなくなったはずだ。たとえばそれを、事実才人が自覚していたとしても、他者に理解してもらうことで、それは単なる内なる感情から、誰かを敬い、慕う純粋な感情として認められるのだろう。

 桔華は、涙を堪える俊承を抱いた。突然の行動に俊承の方は驚いた様子であったが、それに大人しくしたがい、やがてぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。桔華はそれが落ち着くまでだまって胸を貸し、肩を抱く手に力を込めた。守ってやらねば、そう思っていた俊承の肩は、桔華が思っていたよりもずいぶん大きかった。

「ねえ桔華さん」

 俊承はまだ涙の線が残っている顔を上げ、桔華の名前を呼んだ。

「なに?」

「わたしは桔華さんが好きです」

 臆面も無くそう俊承に言われて、桔華は返す言葉を失った。言葉を探して口をぱくぱくさせているところに、

「女将さんと、下宿のみんなが好きです」

 と、やはり臆面も無くそう言った。それから、北京の家族と友人と、従妹の名前、医専の同級生、そして最後に黒澤の名前などを上げて、「みんな大好きです」と言った。

「だから、わたしは、才人がしようとしていたこと、実現しようと思います」

「それはつまり、清国に革命を起こそうということ?」

 桔華の胸に不安がよぎる。それはつまり、才人と同じ、今の北京政府や日本からも、ましてや朝鮮からも迫害を受けかねない。

「才人は、祖国を愛していました。そうして、日本のことも、父の出身である朝鮮のことも、憧憬の念を抱いていました。自分の国だけがよくなればいいってことじゃない。才人がしようとしていたことは、そのどれもが、お互いを尊敬しあい、理解しあっていけるということ。誰が優れているということでなく、誰もが優れていることを認め合っていけるような世界にしたい。だからわたしは、行きます」

 桔華から離れようとした俊承を、桔華はきつく抱きとめた。

「だめ、だめよ、あなたまで才人のようになってしまう。もう個人の力ではどうしようもない。あなたはここにいて。私があなたを守ります。だからここにいて。お願い」

 精悍な俊承の背中の温もりを感じながら、桔華はそう必死になって訴えた。応えて俊承。お願い、はいと言って――。
 気持ちが強まるほどに、俊承を抱く腕に力がこもった。しかし俊承はその問いに応えることはなく、そうしてふわりと、初めて桔華に手を伸ばした。かれの大きな手が、桔華の肩を抱いた。

「多谢、桔華」

 こみ上げる感情に、必死で抗おうとしている自身がいる。

 これは違う。私は俊承の力になりたいだけなの。
 私が心に決めたのは、古月さんだけ。
 私の気持ちに嘘をつかない、そう篠さんとも約束をした。
 だから、この気持ちは、きっと嘘。

 俊承を「愛している」なんて、嘘――。 

「ならば私を抱いて。あなたの『祖国』を裏切らないと私に誓って。お願い、私はあなたの傍にいたい――」

 月影が水面に揺らめいて、燦然と瞬く星々がふたりの仲を取り持った。
 


 それならばなぜ、私たちは出会ってしまったのだろう。
 いずれ辛い別れをせねばならぬとするならば。
 
 だけど私はこの夜を後悔することはないだろう。



 それがたとえ、誰に認められることがないのだとしても。



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2011/09/04(日)
5、裏切りの祖国

裏切りの祖国(13)



 ***


「目が覚めたか」

 長い長い夢を見ていたような気がする。古月との関係に始まって、追い出されるようにして京都を離れたのも、才人が目の前で殺されたことも、俊承に恋心を抱いてしまったことも、それがすべてわずかの間に起きたことのような、目覚めの悪い夢のような心地だった。意識が覚醒してくると、昨日市内を走り回ったせいか体中が痛むし、それに俊承の体温をまだ肌がおぼえているような気がして無自覚にそれを探した。見つからないと自覚するより早く、かれがいないことを自覚し、がばっと起き上がった。そこは黒澤の自宅だった。当の主は、机に向かい本を読んでいる手を止めてこちらをみていたのだった。

「俊承は……」

「出て行ったよ。そろそろ船が出る頃だろう」

 桔華はその声を聴く前に玄関に向かおうとする。その後ろ手を、黒澤は強く引いた。

「今から行っても間に合わない」

「ならばひとつ遅い船で後を追います。教えて、かれはどこへ行ったの」

「柳君がそれを望まない」

「そんなもの関係ない、私は、私はかれに連いていくと」

 言うことを聞こうとしない桔華に、黒澤は強烈な平手打ちを食らわせた。俊承のときと同様、手加減を知らない黒澤の打撃に、桔華の体は壁まで吹っ飛び、そうして崩れた。
 体中に電気が走るみたいに痛みが充満した。それを自覚しながら痛みに耐え、その痛みが昨日のことを徐ろに甦らせてくる。

 私は、俊承についていくと決めた。
 でも、才人の遺志を継ぐためにここを出るといった俊承に、私を連れて行ってほしいとは言えなかった。
 ここにいてほしい、傍にいてくれとしか言えなかった。

 引き留めることはできないとわかっていても、引き留めることも、ついていくこともできなかった。

 そうして俊承も、桔華に、自分についてきてほしいとは最後まで言わなかった。

「駄々の次は泣き出すのか。女とは本当に手が負えないな」

「あなたに言われたくないわ。自分ができなかったこと、私にさせようとしていたんでしょ。出て行った奥さんを追えなかったことを悔やんで、私にそれをさせようと思ったのでしょ。自分が日本人ではない奥さんと幸せになれなかった分、私と俊承には幸せになってほしい、そう思って手を貸していたのでしょう? ねえ違う? それはあなたが言う他者への憐憫という姿を借りた、単なる自己満足と何が違うというの!?」

 カッとなった黒澤は再び桔華に手を上げようとし、衝撃を恐れて桔華は強く目を閉じたが、しばらくしても黒澤の平手は襲ってこなかった。桔華が恐る恐る目を開けると、何かを堪えるように右手を挙げたまま黒澤は震えていた。奥歯を強く噛みしめて、言葉にならない言葉をいくつも噛み殺していた。

「共に、いることで大切な人を苦しめてしまうのなら」

 感情を押し殺した黒澤が、一語一語を絞り出すように口にする。

「いっそ、離れてしまったほうが互いのためだと、大切だからこそ、その背中を追ってはいけないのだと……」

 上げられた手がゆっくりと降ろされた。黒澤の意図しない涙が、彼の頬を伝った。
 黒澤はその涙を拭うことなく顔を上げ、そうして桔華を見据えて、言った。

「柳君から。『あいさつもせずに出ていくことを許してほしい』」


 ほんとうは、今朝一番の大阪行きの列車の切符を黒澤さんにお願いしていたんです。
 大阪から広島へ行って、そこから大連まで行く船に乗ります。
 わたしは、昨日お話した通り、才人の目指そうとした世界、誰もが幸せに暮らすことのできる世界を作るために、何ができるかを考えるつもりです。

 才人からの手紙は、黒澤さんから受け取りました。
 その手紙には、才人とその家族を最後までかばい続けた父への感謝と、その家族が災難に遭っても何もできなかった自分への悔しさと、わたしの身を想い、自分の後は絶対に引き継がず、医師への道を究めるようにとありました。
 
 桔華さん、あなたが言った通り、才人はわたしがこの道を進むことは、望んでいないのだと思います。でも他の誰でもない、わたし自身がそうしたいと願うのです。いつかまた、あのときのように桔華さんと笑いながらお話ができるように。才人のように、自分が正しいと思ったことを、誰にも臆せずに主張できるように。万民が、何か得体のしれない大きなものにいのちを狙われるようなことがない世界。そんな世界がもし、実現したら、桔華さん、わたしはもう一度、あなたに会いたい。あなたに会うために、かならず日本に戻ってきます。

 だからその日のために、わたしは励みます。
 どうかあなたも、お元気で。


「柳君があんたを連れて行こうとしなかったのは、周君が柳君をこの問題に関わらせたくなかったのと同じ理由だ。分かるな」

 桔華は返事をしなかった。そんなことはわかっていた。分かっているが、納得ができないのだった。
 ぼろぼろととめどなく涙が溢れてきた。やがて肩をゆすり、こどもが泣きじゃくるように声を上げ、叫んだ。もはや長屋の薄い壁など関係なかった。俊承の気持ちを痛いほど理解し、そうして、それを分かったうえで追いかけることのできない自分が悔しくて、情けなくて、苦しかった。黒澤も、音もなく涙を流しながら桔華の様子をじっと静観していたが、桔華がその胸に泣きついて胸をどんどんと叩いても、黒澤は動じなかった。桔華は力いっぱい黒澤を叩いた。何度も何度も、殴りつける拳の一つ一つにありったけの想いをぶつけた。

 やがて泣くこと殴りつけることに疲れた桔華は、黒澤のシャツを掴むようにしてぐったりと倒れこんだ。そうして初めて黒澤が桔華の体を支えてくれた。惨めだ。桔華はそう思った。

「惨めだな」

「惨めね、私たち二人そろって、大切な人を追いかけることもできなかったのね」

「あんたのいうとおり、俺は、あんたたち二人に自分を重ねていたのだと思う。俺がらくにしてやれなかったこと、お前たちを成就させることで、俺は救われるのだと思っていた」

「奥さんに、また会えるといいわね」

「あんたもな」


 古月さん、私はあなたに言えない事実を持ってしまいました。
 今でもあなたを愛しているといったら、あなたは、信じてくれないかもしれません。
 
 あなたのことを愛しています。
 
 言葉にして伝えられたら、どんなにいいだろうと思うのだけれど、
 それはやっぱりできない。
 私にとって、あなたはそのすべてがあなたであって、ご家族を悲しませるようなあなたではないと信じているからです。

 大切な人ができました。
 あなたと同じくらい、大切な人。
 純粋で健気で、意思が強くて、とても優しい心を持った人。

 だれに認められなくてもいい。
 私は、あなたたちと出会えたことを後悔しない。

 私は私の道を生きます。





 それがだれに認められなくても、私は、私の意思を持ち、そして生きる――。





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2011/09/05(月)
5、裏切りの祖国

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