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祭りのあとに(1)

 *****


 北条古月が結婚するという。

 桔華は最上家の庭を掃除していた手を止めた。「そういえばさっき聞いたんやけど」という玉津の声に、大きく胸の底に響く、低く重い音を聞いていた。

 尋常小学校を卒業した古月は、中学には行かずにそれまで働いていた豆腐屋に入り、主人より仕入れから豆腐作り工程の統括など任されるようになった。二年ほどで売り上げを五倍に拡大し、豆腐屋を会社にした。従業員を雇い入れ、職人のほかに、仕入れ担当と小売店への営業担当を分担し、自らもその先頭を切って京都のみならず大阪、名古屋、東京へと販路を拡大した。豆腐のみならず、醤油、大豆製品を手広く扱うようになり、古月が厳選した農家と専売契約を結ぶことによって開拓した物流ルートに、さらに自社モノ以外の配送物品を取り扱うようになった。
 古月は、幼少の頃より世話になっていた豆腐屋の主人に並ならぬ恩を感じていて、そんなわけで自分はいつまでも「さらりいめん」のまま、主人を会社の社長に据えていたが、古月の才覚を認めた主人が彼を社長に推挙した。明治26年、古月十九歳の時だった。
 
 社長となった古月は、自分無しでも機動するようになった会社を社員に任せて、大陸へと放浪の旅に出た。社長就任式を形ばかりでも行いたいという前社長と社員に反し、「そんなもん必要あらへん」と初めからつっぱねていた古月は、その日の朝に社長室に「五年ばかり大陸に行ってくる」と置手紙を残して消えた。彼らしいといえば彼らしい行動に前社長も幹部社員らもあきれるというよりもその行動力に感心する方が大きく、残された会社と社員はこれまでの通り、古月の敷いたレイルの上の陸蒸気を走らせ続けるだけの話だった。

 そこで明らかになったのは彼の筆まめぶりだった。会社への指示はもちろん、大陸の情勢、上海租界での話、華僑とのやりとり、果ては広東で知り合った女を会社の若い社員に世話したりしもした。社長不在とはいえ、その姿勢は身体は大陸にありながら目は国内に向いているかのような先見ぶりで、現地社員がその場で解決しようとする問題を古月は異国にいながら指示を飛ばし、結果的に解決したりすることもあった。折りしも、大陸では日清戦争が起こっている。社員が止めるのも聞かず、古月は単身、平壌に渡り、帝国陸軍と行動をともにした。

「おもしろい男と出会った」

 と古月が桔華への私信に書き綴ってきたのは、ちょうどその頃で、清国軍との戦いは朝鮮半島から清国牛荘へ移ろうとしている時だった。
 
「陸軍の士官で将校、名前は舎人耕三郎。年は一つ上。士官学校を卒業して間もなく、こちらの部隊を任されたらしい。おれはどうにも軍隊というものが嫌いで、当然軍人というものには偏見を持っていたわけだが、どういうわけかこの男は、おれの興味を強く引いた。
 まず驚くほどに人間嫌いだ。おれは先日大阪で紡績会社の蒸気が動かすでかい機織機というものを見てきたが、あれは昼も夜も関係なく、悲しいも辛いも腹が減ったということもなく働き続ける。そうか、これからの日本にはこういう機動力が必要なのかとおもったが、舎人耕三郎という男は人間を蒸気で動かす感情の無い機械にしたらこうなるだろうと考えている。百人ほどの小隊を規律よくまとめ、無茶句茶な上官の命令を自分を介して程よく緩衝し、軍全体のバランスや小隊の果たすべき役割のようなものを弁えて動く。組織の歯車としては完璧だが人間味としては驚くほど冷え切った男で、感情を感じさせない表情のまま、必要以外の言葉を話すことも無い。それが士官というものかとも思ったが、別隊の話を聞けば必ずしもそうとは言えぬようだから、舎人耕三郎がその人格として他人との交流を自ら好まざることは特筆できると思う」

 桔華は便箋の三枚目を捲る。

「おれは大陸をふらふらとしているから、軍の連中には近頃流行りの大陸浪人だということで通用している。大陸浪人っちゅうもんは、自らは愛国者を名乗りながら清国内部のさまざまな勢力と結びつこうとしている連中。一緒にされては困ると思うのだが、この戦争には連中がたくさん関わっておる。清国を内部から揺さぶったり、機密事項を日本軍に持ち込んでいるのは奴等や。軍も身分不明の怪しい連中と心の中では蔑みながらも、おいしいとこだけは手中に入れようとする。まあそんなこともあって、身分不明なおれも、軍の周りをうろうろしても何も言われへんから、おれも連中を気に入らんとばかりも言ってられへん。おいしいとこだけいただこうっちゅうのは、俺にも言えることやからな。
 話を戻す。舎人耕三郎は俺が寄宿している部隊の部隊長や。初めは士官がこんな若くて大丈夫なのかと訝ったもんやったが、平壌から行軍中の小競り合い、丹東と歴戦を従軍して奴の指揮官ぶりを見てきたが、それは先ほど書いたとおりや。天性の指揮官というものかもしれない。どんな天才でも、人気というものが無ければ政治家にはなれへんように、この男はその会話数の少なさからは考えられないような人望を持っておる。帝国陸軍少尉舎人耕三郎に部下がついてくるんやない、奴と寝食を供にし、奴の下で死線を潜った連中が、人間として奴を慕っているんや。当然といえば当然やな。兵士の多くは東北で田端を耕していたような非職業軍人。軍紀なんてあってないようなもんや。それを統率しているのがおれと年端も変わらんような青年や。
 おれが連中と行動するようになったのは、軍とつながりを持ちたかったからや。開戦前、世界はこの戦争、清国の圧勝やと思っておった。しかしふたを開けてみたらどうやら風は、連中が思いもよらなかったほうに吹き始めているらしい。幕末以来の不平等条約も、この一戦を機に日本にいい方にもっていけるだろう。そうすれば日本企業は世界への販路も開ける。開けたはいいが、各国につてもなければ話にならん。そこでてっとり早く、世界各地に武官を配している軍人とお近づきになろうというわけや。軍は武器物資輸送という面でも、国内では計り知れないクライアントになる。どっちに転んでも商人にとって損は無い」


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2011/03/31(木)
4、祭りのあとに

祭りのあとに(2)

 朝鮮半島の帰属問題に正面から名乗りを上げた日本は、戦争のほとんど最初から最後まで、清軍を圧倒した。明治維新以来近代化を進めた日本軍と、西洋嫌いの西太后が日本との戦争に及んでも国内の軍事力強化に傾注しなかったツケは、戦果に如実に反映されるという皮肉だった。
 平壌での大きな一戦を追え、いよいよ清国本土に向かう。日本軍は長い隊列をぶら下げながら街道を北に向かっていた。兵站は軍夫による人足、食料などの一部は現地で調達をしていたが、古月が従軍する部隊では、秋の収穫に精を出す農民に手を貸し、畑の冬ごしらえなどしてやりながら食料を分けてもらうことがあった。徴兵された日本兵・軍夫の多くは地方の農民が多かったことも幸いした。同じ東洋人とはいえ、内乱に緩衝してきた日本の軍隊にいい感情などもっているはずの無い半島の現地人は、わずかながらでもそうして彼らと共に汗を流すことによって、日本人に対する感情を和らげたようだった。

 鴨緑江を渡るというところでちらほらと雪が舞いだした。河の向こうには清の大軍が控えているという情報もあったから、今夜は河を一望できる高台に露営することとなった。
 高台から大陸と朝鮮半島を分かつ鴨緑江を見下ろすと、河向かいの一角に明るい陣地がある。おそらくあれが日本軍を迎え撃つ清国軍なのだろう。今年二月の開戦以後、近代化に立ち遅れた清国軍の無残な惨敗振りは外聞するのみでなく平壌以降その目に見ることもあったが、敗因はそこれのみではなく、軍を率いる指揮官の配慮の無さにも起因するのだろうと古月は思った。

 古月は兵士ではないので行動を厳しく規制されることは無い。しかし従軍記者や浪人ら非兵士の一団と主な行動を共にしていた。古月が野営に戻ると、飯盒に麦飯と沢庵、梅干が支給された。古月はそれらをかきこみ、腹に収めた。

「いよいよですな」
「明朝、鴨緑江を渡るとか。清国も本土に足を掛けられるんだ、今までのように日本軍を見つけるたびに遁走していたのでは、逃げ帰ったところでおっかない皇太后さまにお首をばっさりですよ」

 場に笑いが起こった。しかしここにいる誰もが、言いようの無い不安を抱いている。自分たちには武器などの支給・また携帯を許されていない。激戦になれば、後配備とはいえ命の保障は無い。まして保障される立場でもない。

「北条さん、あんたどうするんだ」
「どうって、明日もお付き合いしますよ」
「なにもここで命を捨てることは無い。国に会社や家族を残してきているのでしょう。興味本位で首を突っ込むにしては、あんた失うものが多すぎるよ」

 古月に話してきたのは、都新聞の三田という記者だった。体のわりに声の小さい男で、面と向かって話しているのに、三田の声はすべて土に吸い取られているのではないかと思ってしまう。しかし人への気遣いというものに恐ろしく細かく配慮できる人間で、話をしているうちに、こちらが話したいと思うようになり、気がつけば三田は相手から知りえた情報を文章に起こしている。そういう意味で三田は根っからの新聞屋なのだろう。事実彼の書く従軍記事に、古月も何度も涙している。

「お気遣いどうも。せやかてわいは妻子もおらんし、会社は社長がおらんともようよう動いとる。問題あらへんよ」

 三田は諦めとも善意とも言えない落胆の表情を浮かべて、例のぼそぼそとした声で古月に訴えてきた。

「あんたまだ若いんだ。日本はこれから世界に向かって政治のみならず経済、文化、あらゆる門戸を開いていくでしょう。維新後の西洋の猿真似や、列強のいいようにしたがってきた不平等条約から開放された、我々の意思による本当の維新です。この戦争には勝つでしょう。しかし勝った後に国民が残らないんじゃあ、意味が無い。あんたのその行動力は、必ずや日本の力になる。ここで死んでむげに国力を減らしてはいけないよ。どうかね」

 三田の言っている事に間違いはあるまい。その場にいるものの中にも感慨深げに頷くものもいた。古月はうんざりとした。国家とか日本とか、そういうものを声高に叫び、そういうもので自分らをひとくくりにしようとする知識人の高揚ぶりには、ついていけないのだ。

 そんな途方もないものを語る前に、自分の目の前のたった一人をあんたらは救えるのか。

 古月は、そう考えている。「小学校しか出とらんわいにはよう分かりませんわ。根っから商人やさかいな」と言い放って、呼び止める三田の声を背中で聞きながら、古月はその野営を後にした。


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2011/04/02(土)
4、祭りのあとに

祭りのあとに(3)

「大きな交戦の前夜だというのに、おれはすっかり気持ちが萎えてしまった。外に出たときはもう一面が白く染まっていて、樹も草も無いのっぺらぼうの原野が一面塗りたくったような白さというような有様だった。野営のところどころはまだ明かりがついておった。消灯は2100。おれが勢い、外に出てきてしまったのは夜の八時を少し過ぎたぐらいの頃やった」

 見張りの年若い兵に「お疲れィ」と声を掛けたところで反応は無かった。特段意中にすることなく、古月は人目の無いところを探して小用をするつもりだった。外套一枚では寒さが骨の髄まで浸透してくる。決まりは悪いが、戻ってさっさと寝てしまえば、さっきの連中とも顔をあわせなくてもよい。

 商売。本当にそうだろうか。会社の利益のために、自分は明日、自分の命を危険に晒してまで戦場にあらんとするのだろうか。
 同行したところでどうとなる。兵力の一端を担うわけでもない自分を、どこの将校が面倒見てくれるというのだ。放尿した呆け頭にぼんやりとそんなことが浮かんだが、それ以上考えたところで最善の方法など思いつくはずも無かった。古月はいつも、自分がこれだと決めたことを貫くことで結果を出してきた。行動する前からその根拠など考えたことも無かったが、そのときはなぜかよく見知る一人の女の顔が脳裏を過ぎった。その瞬間に古月は「あっ」と口にして、頭を抱えた。

 そうか、そういうことやったんか。
 
 女の顔はいつも不安げに俯いていた。学校帰りに古月のところに豆腐を買いに来ては、その睫を少しだけ上向かせて、儚げに笑う。瞳に込められた鈍い光は、本当は最上のどの姉らにも決して劣らない器量と、そして明晰さを物語っていた。だから古月は彼女を、祖母、桜花に言って聞かせたのだ。

 桔華は、おもしろい女やよ。

 便箋は八枚目に入っている。
 桔華は刮目しつつ、彼の筆跡を追っている。なぜ自分の名前が出てきたのか。これはつまり、古月は何を言いたいのか。
 小さな胸が脈打つ鼓動を伝えてくる。便箋を持つ手が震える。

「急に目の前が開けたような妙な陽気と、湧き上がる溶岩のような衝動。今にも踊りだしたいような叫びたいような妙な心境になり、粉雪舞う中に男一人が闇の中でただひたすらに狂人だった。人気が無いことをいいことにおれは何度も何度もお前のことを頭の中に描きながら、交わした言葉の一つ一つを、その挙動の一投足を、そして首筋に覗く白い肌を夢想しては身震いをしておった。わかるか桔華。おれは自分という存在の、本当に生きる意味を見つけた。そしてそれが、どんなに喜ばしくて、素晴しいものか!!」

 狂乱した男の歓喜に水を刺したのが、例の若い将校だった。人目も無いを大の男が手足を振って夜空に吼えているところを、嘲笑することも無く、ただ石のようにその様子を見ていたということが、当人にとって最も屈辱ともいえる応対ではなかったか。古月は体中が火照っているものが急に醒めていくのを感じながら、若い将校の挙動に耳目を動かした。かれは古月の存在に気がつき、ちょっと視線を彼に投げただけで、ふいと古月の横を通り過ぎようとした。

「ゆ、雪になりはりましたなあ!」

 このままではいられない、いや何にあわてる必要は無かったのかもしれないが、古月はこの場を取り繕わなければならないような気がして、将校の背中に声を投げた。

「清国側も、いつ河を越えられるかとやきもきしている頃やろうなあ!」

 古月の乾いた笑いが夜空に木霊した。将校はちらりと振り返っただけで、後はすぐに進行方向に振り返り、すたすたを歩みを進めた。
 ここまでくれば、古月も引き下がるわけには行かない。すぐにその若い将校の後を追って、「舎人中尉殿、わい、あんたと話をしてみたいと思ってましたのん」と強引に食いついた。


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2011/04/03(日)
4、祭りのあとに

祭りのあとに(4)

 舎人耕三郎は、古月を振り返ることすらしなかった。
 ただ暗闇が落ちる山道に、耕三郎の地面を踏みしめる音だけが響いていた。
 引っ込みの付かない古月は、関西人なら適当に返してくるはずの人間同士の他愛の無いやりとりにすら興味を示さないこの若い将校――それは彼が「軍人」という特権階級であるということも含めて――の背中にあらん限りのこの場における古月への気遣い、非礼といったものに対する非難を浴びせたい衝動を必死に押し込めて、前を歩く耕三郎の足音を頼りに駆け上がった。視界が開けると、日本側の軍営地を左翼に、先ほどまで眺めていた鴨緑江を挟んだ清国軍の宿営地とは「反対側」を見渡せる崖に出た。

「さんざ、月の光りよる夜で、雲ひとつ無い夜空にはその濃藍の布地に無数の針穴を開けたような鋭い星たちが散らばっておった。わいと耕三郎が山道を抜けた先は宿営地も無いので、夜空ばかりが舞台の主役を張り合っておる。おれは先ほどの羞恥心や耕三郎のこともすっかり忘れて、その空を見上げてばかりおった。上を見上げれば無数の星、下を見れば際限を知らない山肌。果てしなく人間の作りよる『もの』の無い世界を、おれはその時はじめて眼前にしておった」

「挟まれたな」

 耕三郎がポツリと言った。山道を抜けると月を真上に迎えたので、耕三郎の筋の通った高い鼻がくっきりと見えた。

「なんやて」
「今夜中に決着をつけねばなるまい。おい、貴様――」

 そのときはじめて耕三郎は古月の顔を正面から捉えた。古月も、この若い将校とこのように間近で顔を合わせたのははじめてだった。揺ぎ無い耕三郎の視線が古月を捉えると、普段物怖じしない古月ですら、このときばかりは心臓が大きく打つのを自覚した。
 
「自信、自負、そういうもんやない。おれの知っている軍人がよく張る虚勢でもない。あれはあの男が持つ人間の、もっと本質的な、根っこのところが持っている強さとでもいうのだろうか。とにかく、その瞳には、見るものを屈服させる何かが潜んでおった。おれは、普段ならそういうものには、特に反発して食いかかるところなのだが、その時ばかりはどういうわけか、素直にはい、と返事をしてしまったんや」

「上官と話をつけてくる。この暗闇ではもう一度ここに戻るのは至難であるから、貴様がここで待て。連中に動きがあったら、この小銃を空に向けて二秒間隔で二発撃て。三十分以内で戻る」
「ま、待ちぃや、挟まれたって、敵軍がこの、原野のどこにいるっていうんや。清国軍の宿営地なら、さっき川の対岸に赤々と見えとったぞ」

 耕三郎は腰元から自分の短銃の弾をばらばらと抜き、2つだけ弾込めしたものを古月に手渡した。古月はその手を掴み返して耕三郎の行く手を制した。彼は表情を変えなかった。
 耕三郎は例の見るものをねじ伏せるような視線を古月に向け続けていた。耕三郎の反応を待つ古月も黙り込んだ。耕三郎は古月の手を払いのけることも無く、やはりじっと古月を見据えていた。
 そのとき、微かだが地の唸るような音がした。それは地割れのようなくぐもった音で、古月の脳の深いところにずしんと響くような感覚だった。

「馬の蹄の音だ。数は約五百。華北一帯を縄張りとしている匪賊の一団だ」
「わいは戦は『どしろうと』やが、日本軍はその兵の数が二万と聞いておる。舎人少尉、匪賊やろうがものの数やあらへんと違いますか?」
「連中は真っ向から我々とやりあっても勝ち目が無いことを弁えている。故に、今夜中に奇襲を掛けるか、清国との戦闘中に後配備の手薄なところを狙って攻撃を仕掛ける可能性がある。交戦が始まれば兵力が前線にある以上、後方守備は至極、難しい」
「清国軍も考えおったな。前線にあれだけの大兵力をちらつかせて、本命はこっちか」
「連中が清国軍に加担しているとは考えにくい。目的はこの戦場に散らばる武器弾薬、食料と考えるのが妥当だろう。いずれにしろ、自軍の末端配備は指揮官の目が直接届きにくい分慎重に取り計らう必要がある。理解してもらえただろうか」

「帝国陸軍における上官の命令は絶対や。連中が火に飛び込めといえば、従卒は死んでも火に飛び込まなければならん。だが、先頭の真っ最中に、彼らの見えぬ先で背中から攻撃されたら。『火に飛び込め』という掛け声の聞こえぬ先で後方がばらばらと崩れだしたら。流れる水を食い止めることが出来ないように軍の部隊がぼろぼろと崩れていく。耕三郎はそういうことを、軍人でもないおれに必要最低限の言葉のみを簡潔にまとめてそうのたまった。頭でどうこう考えるより早く、おれの理性が『こいつの言うことに従え』というとったんや。
 おれは短く『分かった』と言った。耕三郎は『直ぐに奇襲ということは無いと判断するが、身の危険を感じたら直ぐにこの場を離れろ』と言い残し、陸軍の黒い外套を翻して走り去りおった。いま思い返してみれば、そんな重篤な危機が迫りつつある状況に、軍属でもない商人が一人、日本軍二万の命を背合わされたんやから、たまったものではない。だがそのときのおれは、そんな重責の自覚は露も無く、今夜のおれは本当についている、とあいも変わらず心の中で咆哮していた。桔華と、耕三郎。おれの中でこんなにも大きく、そしておそらく今後も互いに影響しあうであろうお前や耕三郎という存在の放つ強烈な光を真っ向からぶつけられて、おれの行く先が強引に開かれたようなそんな感覚やった。
 
 話したいことがある。桔華、今おまえに、会いたい。」

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2011/05/20(金)
4、祭りのあとに

祭りのあとに(5)

 *****


 京都は祇園祭の最中である。
 トントンチキチキ囃子が鳴り、とりどりの山鉾が路地に並ぶ。

 古月との約束は21時。祇園街裏手の、小さなお茶屋の一室であった。
 
 桔華が暖簾をくぐると、顔を出した女将が無愛想に桔華を一瞥して、「ほな、こちらへ」と促した。外の喧騒が別世界のように感ぜられるほど、小さな扉の内側は暗く、茶屋には別の客はないのか、もしくは気づかないほど静まり返っていた。
 狭く急な階段を上り、通された一室はやはりこじんまりとした四畳半。暗がりに落ちた間接照明は美濃和紙の漉きがふんわりと浮かんでいて、時より吹き込む障子窓の隙間から吹き込む風に揺らめいていた。
 女将は相変わらず澄ました顔で頭を下げて、部屋を辞した。一人残された桔華は手持ち無沙汰気に障子戸に体を預けるようにして腰を下ろし、わずかに開いた隙間から外界を眺めた。

 会いたい、桔華。

 手紙にそう書いて寄越したのが半年前。あれからかれを取り巻く環境は一変した。日清戦争は日本の勝利に終わった。多くの先見者が予測したとおり日本と列強各国による不平等条約の改正が行われ、国中が「一等国」という自覚の高揚に沸いた。
 終戦とほぼ時を同じくして古月は会社組織を物資輸送、物流、生産工場の三部門に分割し、それらの持ち株会社、統括として「北条」グループを構築した。戦中、軍事特需による物流ルートを拡大、勢いを持ちつつあった。しかし終戦による軍事物資の需要低下によって生産工場で不渡りを出してしまった。支店拡大や新しい工場に多大な投資を行った後の決算で発覚し、会社は銀行から融資を受けることが出来なくなった。それ以来古月は資金繰りに東奔西走し、北条グループでは大規模な人員削減や会社予算の削減を行ったと地元紙が伝えていた。

 あれほど頻繁に届いていた古月からの手紙が途絶えたのもその頃だった。最上家の家事をしながら北条の家で桜花の助手も相変わらずこなしていたものの、北条の家中でも現在古月がどこで何をしているのか知る者は居なかった。そもそも古月は北条の家のものを会社に関わらせることはなかったし、古月が早くから自立したのも、自ら稼いだ金で生活するという意識に乏しい家の人間への反発心があったからに他ならない。それを理解しているのは祖母の桜花ただ一人で、北条の家はこの時点で、桜花の歌人としての名声に多くの部分を頼り切っているという状態だった。

 そして、今朝である。古月が結婚するという話を、桔華は姉、玉津の口より聞かされた。相手は寛永の頃より続く京都老舗呉服店「居ず奈」の娘、篠。今年22に成る古月に、篠は16。桔華よりも4つほど年下となる。
 話をつけたのは古月の父親ということだった。昼行灯といえ息子の一大事に、彼なりに知恵を働かせた結果らしい。当然のように古月は反発したらしいが、篠が嫁入りすることで得られる支度金で、不渡りの一切の始末をつけろと紋切られてしまった。相手の家もそれを承知で、この縁談を受けたということだった。多くの社員、そしてその家族を養う立場である古月に、選択の余地は無かった。

 古月の結婚の話を聞いてより、桔華は心が半分どこかにいってしまったような心持でいた。掃除をする手にも力が入らない。桔華に語って聞かせた古月自身のその心のうちを何度も胸のうちで反芻しながら、この半年を過ごしてきた。ほんの幼馴染であった古月の、あの人を拒まない笑顔を脳裏に描いて、その細くがっしりとした胸に抱かれる日を夢想して、いつしか自分はかれにこんなにも慰められていたのだと気が付いた。そのかれが、見知らぬ誰かと結婚する。一度もかれの口から自分への気持ちを聞くこともせず、始まらぬうちに終わってしまう。びしょぬれた着物をぶらさげて途方に暮れた子どものように、時折身震いをするような絶望に襲われつつ、桔華は日がな虚ろな時間を過ごしていた。

 夕刻、桜花の元での助手を終えて帰宅する途上、北条の社員という男が最上家の前で右往左往していた。桔華が声を掛けると、「最上桔華様でいらっしゃいますか」という。桔華がそうだと返事をすると、男は社長からの預かりものだと言って桔華に箱菓子の包みを手渡し、用があるからを足早に去っていった。風呂敷に包まれたそれはイギリス土産のマドレーヌで、結び目に『桔華へ』と書かれた小さな紙切れが挟まれていた。


『今夜二一時 祇園下ル六辻二番町「ミノヤ」デ待ツ 古月』

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2011/05/23(月)
4、祭りのあとに

祭りのあとに(6)

 大通りから小さな路地に入ったこみちに面している茶屋の出窓からは、大通りの賑々しさと対照的な小路の暗がりがはっきりと見て取れた。22時を回る頃になっても桔華の視線の先を大山車が通り、太鼓の音、若衆の掛け声とともに歓声が沸く。一方で、祭りで逢い引いたらしい男女が、身を寄せ合いながら小路の暗がりに消えていく。
この祭りを契機に見知った仲なのだろうか。もしかしたら今夜限りかもしれぬその縁を、彼らは今宵、如何様にして紡ぐのだろう。

 それを見送って、どうして自分は来てしまったのだろうかと自問してみる。古月の手紙は、自分への熱情を押し隠すことなく伝えてきたとはいえ、当の桔華はそれを古月本人の口から聞かされたわけではない。かれの書き送ってきたものを、自分は自分の都合のいいように解釈をして、えもいえぬ夢想などをして、自分を慰めていただけに過ぎないのかもしれない。

 廊下にあるらしい時計が22時を告げた。今朝方から地に叩きつけられるような絶望にさいなまれ、夕方に差し伸べられた不意な希望に桔華の感情は押し乱れ、もはや疲れ切っているようだった。時計の音に転寝を覚醒させられて、桔華はあらためて懐中時計を取り出し、そして小さくため息をついた。何を期待していたのだろう。思えば最上の家でも妾腹の自分は、器量が特別よいわけでも聡明というわけでもない自分が、古月より好意を寄せられることがあろうはずも無かった。すべて妄想の中の話だったのだ。

 桔華はストールを掴むなり立ち上がった。勢い襖を開けようと手を掛けるところで、襖のほうが先に開いた。
 古月が肩で息をしていた。驚いた桔華がその場を動けずにいると、少し息を整えた古月が桔華の顔を覗きこんでにっと笑った。

「よかった、待っていてくれたんやな」

 相変わらず桔華は返す言葉が見つからない。これも自分の妄想の中の出来事なのだろうか、そんなことを考えるより早く、「めっちゃ走ったわぁ、今夜も暑いのう」などと言いながら古月は部屋に入り、襖を閉めた。かれは勝手に窓際に陣取ると、帽子と着ていたスーツの上着を脱ぎ、シャツのボタンをいくつか外した。桔華は古月の上着と帽子を受け取ると、それを立屏風へ掛け置いた。
 
「お疲れ様です」
「祇園さんやなあ。今夜のことが無ければ、お前と山鉾、見に行きたかったんや」

 桔華は、古月に体面するように膝を折っているが、どうにもかれの顔を見ることが出来ない。古月も相変わらず手扇のまま、視線は大通りの山車に向けているようだった。

「嫁さんに会ってきたんよ」
「『居ず奈』の篠さんですね」
「ええ子やった。しかし、わいにはちょっと、若すぎるんやないか。こないな根無し草、篠さんがかわいそうや」

 桔華は微笑した。まるで他人事だ。あいかわらず自分に頓着しない2こ上の従兄弟が、桔華にはたまらなく愛しかった。
 女将が水と酒を持ってきた。古月が昇りがけに声を掛けてきたらしい。控えめな声で「失礼します」と聞こえて、相変わらず愛想も無く去っていった。「無粋はしない」とその顔に書いてあった。
 古月が水を一気に飲み干すをの待って、桔華は銚子をかれに勧めた。グラスを杯に持ち替えた古月はそれを受け、ひとのみで干した。

「一年ぶりか」
「そうですね」
「変わりはあらへんか」
「変わりありません」
「そうか、そら、ええことやな」

 半分夢心地でかれの声を聞きながら、「らしくない」古月とのなんともいえぬ微妙な距離が、以前とは異なることをもどかしく思っていた。
 自己慢心かもしれない。そう思う気持ちが半分。幼い頃より、貧しい北条の家計を支えるべく一人、豆腐屋で懸命に働く古月を覚えている。かれのあどけない笑顔も、裏表の無いその言動も、いつしか心の支えとして桔華の目に映っていたのだった。それをおのずと胸に抱くより早く、かれが自分に向けた気持ちを明かしてくれた。己が誰かに必要とされることのこの満たされた気持ちを、幸せといわず何とよぼう。この打ち寄せる穏やかな波間のような至福感を、桔華は今、この瞬間まで覚えたことは無かったのだ。
 銚子を差し出した桔華の細い腕を、古月が掴む。二人が視線を合わせるより早く、桔華は古月に腕を引かれ、銚子が音を立てて床に転がった。背中に回された腕はガラスでも抱くように柔らかく、そして恐れるようにそっと触れた。古月のワイシャツの上に耳をつける格好で桔華は彼の心音を聞いた。遠くでは微かに、祇園のお囃子が鳴っていた。

「いいわけ、いろいろ考えたんや。せやけど、なんにも思いつかへんかった。あのな、おれは、お前のことを考えていると、心がふわっと、軽くなるんよ。耕三郎に出会ったあの夜、お前がふとおれの目の前に現れて、悲しげな顔で、笑うたんや。おれはな、このことが、どんなに幸せで、どんなに大切なものなのか、あの時ようやく分かった。なあ桔華、おれはいつだって、お前のことを考えているんだよ。お前に触れたい、この腕に抱きたい。ああ、どうしたらお前に分かってもらえるやろか。おれは今、どうしようもなく幸せなんやということを」

 桔華の髪に触れる手が、優しく撫ぜながらも次第に力が入っていく。息も出来ないような鼓動の高鳴りと古月の強い抱擁に桔華は身も心も窒息してしまいそうな心地だった。

「桔華」

 桔華は返事をしなかった。

「なあ、桔華」

 嗚咽を飲み込むことで、桔華はかれへのさまざまな責めの言葉を飲み込もうとした。飲み込めば飲み込むほど、ぼろぼろと涙が溢れてきた。

 二人の影が、鷹揚の伸縮を遂げるうちに、一つとなった。

 

 遠くで、トントンチキチキと、祇園囃子が聞こえている――。



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2011/05/25(水)
4、祭りのあとに

祭りのあとに(7)

 *****


 翌月、北条古月は葦屋篠と結婚した。

 結納を身内で済ませ、披露宴は執り行わない。古月と篠は礼装に身を固め、双方のごく身近な親類に取り囲まれながら、互いに杯を交わす。
 
 しゃんと伸びた古月の紋付袴姿を、桔華は座敷の下手から眺めていた。
 
 長い睫毛、細い腕。
 数日前に確かに手の届く場所にあったその背中。

 篠の白い手が、白無垢の袖口からのぞき、古月から杯を受け取った。
 鈴の鳴るようなしなやかさで、篠は杯を口元に運んだ。

 麗しい人だ、と桔華は思った。



 会社再建に奔走せねばならぬ古月は、篠を北条の本家に残し、相変わらず国内国外を駆け回っている。
 桔華の方も桜花の発句の手伝いなどしていたし、母屋に篠ひとりが寝食をともにし始めたという以外は、大きな変化もない。

 17歳になったばかりの篠は、まだ少女のような無縫さを残していて、白い肌に薄つきの化粧がまだその肌になじんでいないのか、妙な艶めかしさになっている。
 口数も少なく、いつもうつむき加減に肩をすぼめている。良家の箱入り娘であったはずの篠は、慣れない細腕の袖をたすきがけて、朝早くから夜遅くまで炊事、家事、そして桜花の元を訪れる門下生たちへのもてなしなどを懸命にこなしていた。古月を知る古い門人たちに「あれにはもったいない器量やな」とからかわれて、顔を真っ赤にしておずおずと退席する篠。彼らは桜花にぴしゃりとたしなめられるのが常であった。
 そんな篠は、桔華にだけはよく懐いた。

「桔華姉さん」

 ともすると消え入りそうな儚い少女の声が、ぴりりと桔華の呵責を刺激する。少女は葡萄のような漆黒の瞳を桔華に向けていて、桔華の視線に己へ関心を認めると、人知れず胸をなでおろしたような安堵の色を浮かべる。

「桜花様に竜胆の蒔絵の入った筆入れを持つよう言われたのですが、どこにあるのか教えていただけませんか」

 触れれば音を立てて割れてしまうのではないかと思うほどに健気な少女。頼るものもいない心細さの中に打ち震えるその姿にかつての自分を投影した自覚はなかったが、桔華はいつしか、北条の家の中でも篠を自分に近しい身内のようにいとしく感じるようになっていった。



 方々との折衝でほとんど家にいない古月だったが、三カ月に一度ほどの頻度で京都に帰っていた。
 休暇というよりも、いわば「質」として輿入れした豪商『居ず奈』の一人娘をいつまでもほおっておくなという――つまりは早く世継ぎを成せという――両親や義理の両親からの催促もあって、さすがの古月もそれを無下にできないというふうなものであった。彼が京都に帰ってくるというときには、古月は必ず、本家に帰るという時宜よりも早く、桔華に連絡を寄越してくる。そして古月は狂うばかりに桔華を抱き、そして桔華もまたそれを望んだ。かれの迸るような熱情はやがて桔華に罪の意識すら薄れさせ、古月もまた、何知らぬ顔で篠との順風な夫婦生活を世間に呈していた。 そうして二人の不義が誰に見咎められこともないまま、一年の月日が流れた。

 その春、篠は第一子となる長女を生んだ。

 名前をゆゑ。安らかな寝顔をたたえて眠る小さなゆゑを抱く篠の顔は、いつのまにか少女のそれから大人のものへと変化していた。ずっと軋み音を響かせていた北条家の久しぶりの朗報に、周囲は沸いた。

「中国語で『月』。おれの名前からとったんよ。仮名にしたのは、女の子らしゅうやわらかい印象にしたほうがええっちゅう篠の意見や」

 桜花のサロンで顔なじみにそう吹聴している古月の顔は、桔華の知るどのかれよりも眩しく、そしてそれは桔華の心に大きく響いていた。
 大人びた篠。その成長ぶりは、この一年身近にいた桔華が一番理解しており、なにより望まれた長女の誕生は心から嬉しかった。

 篠の知らない古月の顔。
 古月の知らない篠の顔。

 そして、桔華の知らない二人の顔――。


 

 収拾のつかない心境を押し隠そうとする桔華の背中を冷たい視線で見つめる、一つの影がある。 
 最上朔子。桔華と年の変わらない、腹違いの姉である。

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2011/06/12(日)
4、祭りのあとに

祭りのあとに(8)

 明治34年、晩秋。
 障子戸の外は未明からちらほらと雪が降り始めたようで、しんと暗闇が落ちていた。

 桔華は隣で寝息を立てている古月を起こさぬよう、そっと身を起して着物を羽織った。障子戸に手をかければ、夜分の熱情をはらんだ四畳半に細い空気が流れ込んだ。

 かれとの逢瀬は、祇園社の夜から絶えることなく、あれから三年が経過しようとしている。
 相変わらずあちこちに飛びまわっている古月は、実家への帰京の知らせよりも1日早く、こうして桔華にたよりを寄こしてくる。そしてこの祇園裏地の小さな茶屋で、人知れず互いの心身を交わらせ、翌朝には何知らぬ顔で従兄妹に戻る。桔華はこの逢瀬の度に、最上に見止められることが無いよう、夜半過ぎに家を出、そうして家の者が起きだす前に帰宅して朝餉の支度をする。今日もそのつもりで、太陽が地平線に顔を出すよりも少し早いこの時間に起きだしている。

 古月の妻である篠や最上、北条、桜花にも、当然この関係は他言していないのであるが、桔華は、いつかはこの関係を終わらせなければならないのだということ、そしてそれは自分が古月に言いださねばならぬのだろうということを強く自覚するようになっていた。幼いころより知る愛しい人。最上の四姉妹の中で腹違いの身である桔華と、傾いた北条家を必死で支え抜いてきた末弟の古月。家内に身寄りのない二人が、自然と心を寄せあって触れあいたいという気持ちは、誰にも咎めることのできない節理であったろう。せめて、近いところで血がつながっていなければよかったのか。古月が、会社再建のために嫁をとらねばよかったのか。邂逅する思考に反抗するように、それは否、と桔華は結論付ける。

 守りたいものがある、それを大切にしているあなたのことが、愛しいの。

 差し込む朝日が細く、床の間に落ち始める。桔華は古月の着物を胸に抱き、強く握りしめる。

「そないなもん大切にせんと、眼の前におれはしゃんと居るやないか」

 ほとんど囁くような声に、桔華が振り向くよりも早く、古月が後ろから桔華の肩を抱いた。肩筋から耳の後ろまでをかれの吐息がなぞり、桔華はひとつ、身震いをした。上着を身につけていない古月の上半身の熱が、襦袢の背中から伝わってくる。桔華は軽く抵抗したが、こうなってはいつものこと、かれの気が済むまで解放してはもらえない。

「せめて、上着だけでも」
「かまへん。このままがええよ」

 桔華の肩を抱いたまま、古月はぴったりと顔を桔華の肩に預けて、小さくゆらゆらと揺れ始める。小さな子供のように、甘えている。まるで鼻歌でも歌いだすかのように、かれの穏やかな心情が桔華にも伝わってくる。
 ふと、古月が顔を上げた。拘束から解放された桔華はかれに、上着を掛けてやった。

「どうしたん」

 古月は桔華の顔を見据えて、不安げな声を上げた。

「そろそろ帰らねば。夜が明けてしまいます」
「そうやない。お前、何を考えとるん」
「今朝の朝食の事」
「桔華」

 普段は他人の都合などお構いなしに突き進んでいくかれが、こういうときだけは察しがいい。桔華はちょっと困った顔をしてはにかんで見せた。胸の内で「いつかは言わねばならぬこと」を反芻しながら、今はまだその時ではないという声を聞いた。三年前から、こうしていつも桔華に囁きかける本性の声。

「あいしてる」
「ありがとうございます」
「なあ桔華、おれはお前だけを愛しているよ。誰と結婚しても、どこにいても、何をしていても、お前のことがいちばんなんよ。お前も、おれにようしてくれる。会いたいいうことにも、こうして応えてくれる。でも、おれはまだ、たった一言を聞いていない。その一言が聞けないばっかりに、こうして手の届く場所にお前が居っても、心の蔵を今にも握りつぶしてしまいそうな、そんな不安定な気持ちになるんよ」

 あどけない少女の顔をした篠の姿が脳裏に浮かぶ。
 その背が振り向き、腕に赤ん坊を抱いたその「少女」の顔は、慈悲を帯びた母親のそれとなっていた。
 無邪気に慕ってくれる可愛い妹。寄せられる信頼は、自分が古月に寄せていたような、そんな安堵をもたらしてくれるのだ。

「今日も、応えてもらえんね」

 桔華はその言葉を聞かぬふりをして、身支度をし、部屋を出て小雪舞う小さな玄関をくぐった。
 差し込む太陽の光に、人影を見た。
 
 辺りに降りた静けさは、まるで彼女の息づかいを消すためのものだったのか。桔華は、息を呑んだまま金縛りにあったような心地でいた。


「……朔子」

 
 それは姉の朔子だった。彼女は桔華の姿を見止めるなりふ、と少し顎を上げて、その小さな唇をわずかに開いた。
 背中でガラガラと音がした。古月だった。
 はっとして桔華が振り返ると、そこは先ほどの静かな朝の粉雪があるだけだった。

「桔華?」

 古月の訝しむ声に、桔華は何でもないと応えるのが精一杯だった。
 桔華の胸は、音を立てて鼓動している。確かに、そこに姉、朔子がいた。


――哀れな女。


 小さく開いた彼女の唇は、桔華にそう告げていた。
 体の中のすべての力が抜けるような感覚だった。そこからどうやって最上の家まで戻ったのか、桔華はよく、覚えていない。


 事が表に出たのは、古月が上海に旅立ってから三日後のことだった。

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2011/07/11(月)
4、祭りのあとに

祭りのあとに(9)


 古月への気持ちを確信して以来、桜花の下で心情を短歌にかたち作る作業を手習いながら徐々にその創作の才覚を現しつつあった桔華は、すでに何度か、桜花の主宰する同人「のはら」に歌を掲載させている。次女の玉津は昨年他家に嫁入りし、月に数度、北条の桜花のサロンを訪れるだけであったが、もとよりの才女はその才能をおしみなく作品に投影させていて、玉津と桔華の二人は、近代の女流歌人名手と謳われる最上桜花門下にあってその名を文壇に響かせつつあった。

 朔子を見た朝より、桔華の心地がすでにそのことを想定しているからか、最上の家の中にいることもできないので、大方の家事などを済ませた後は何かと用事を見つけて外に出ていた。食事の際に顔を合わせるときなども、――それは桔華の心の在り処にも多分に関わっているのであるが――義母と長姉、八重に射るような視線を感じて顔を上げることができない。何をいまさら怖気づいているのか、こうなることはいずれ分かっていたのだと自分に言い聞かせるよりも、早々に食事を済ませた両人が早々に席を立っていく。八重の夫は最上の家に婿入りしているが早朝に仕事に出るのでほとんど顔を合わせることもなく、また父も、妻と長女の顔を伺いつつ、背中を追うようにそそくさと去っていく。
 朔子は、三か月前に嫁いだ先を飛び出して急に家に戻ってきたかと思えば、今度は東京の銀行マンと一緒に住むことになったとかで数日前に最上の実家に顔を見せてから、また家を出て行った。三日前に見たのは本当に朔子本人だったのか、今ではそれに確証を持てぬほどにぼんやりと霞んでいて、しかしその熱を孕んだ思考が、じわりと桔華を追い詰めている。桔華はそれを朔子に問うこともできずにいた。

 晩秋の雪である。
 朝から深々と降り続いていた細雪は、紅葉の落ち切っていない京都の町を一面に白く染めていた。今年初の根雪になると、桔華は渡りの雨戸を閉めながら、いつもより早い冬支度の段取りをおもった。

「桔華」

 声の主は八重だった。針金の入ったような背中をぴんと伸ばし、少し顎を上げて人を見下げる彼女の姿はいつものまま。傍流の血筋を決して認めようとせず、彼女にとって桔華はあくまで他人でありながら、桔華には自分を最上の長姉として認めさせようというその意気。

そのときが来たのだ、と桔華は存外冷静に受け止めていた。


***

 
 奥の座敷には義母のみが坐していて、桔華を先導した八重が障子戸を閉めてそこに膝を折った。義母は桔華の姿を見るなりまるで汚らわしいものでもみるように一瞥すると大きく息を吸い、そして桔華からら目を外しつつ、大きく肩を揺さぶった。ロウソクろうそくの灯りだけが部屋をゆらゆらと照らしていて、義母や八重の表情はよく見えなかった。自分は彼女たちにどんな化け物に映っているのだろうか。そんな自分の容貌をこの暗がりの中でさんざ彼女らに見せることができないのは小気味よいことだと思った。

 たっぷりと桔華を凝視したあと、ようやく義母は口を開いて「母親が母親なら、子も子やわ」と吐き捨てるように言った。八重の気配は動かない。桔華も反論することもせず、黙ってその声を聞いていた。

「よりにもよって、古月と通じるなんて。あきれてものもいえへんわ」

 そうではない、古月だからこそ通じあえたのだ。そう頭の中で反芻し、これまでのかれとの時間を思い返していた。
 かれは従兄妹である前に、自分にとって一人の男だった。兄であり、大切な友人であった。しかし古月が所帯を持った以上、かれを男であると認識することがもはや許されないものであることも自明であった。分かっていて、この三年、二人だけの甘い陶酔に逆らうことができなかったのだ。
 義母は己が思いつく限りの罵倒を桔華に浴びせ、その意気に自分で窒息しそうになり、大きくまた息を吸い込んで、今度は桔華の母の話を始めた。最上家の女中であった桔華の母もまた、義母の夫である最上の女中を誑かしたのだと義母は言った。桔華は自分の生みの母のことはもうほとんど覚えてはいなかったが、義母の怒号を上の空で聞きながら、そういうことなのだろうと思った。母は、美しい人だったのだ。使い、使われる関係でありながら、父に自分を女として認めさせるほど、美しい人であったのだ。
 自分は古月にとって、そういう女でありえたのだろうか。なぜ、自分だったのだろうか。そうして三日前のかれの不安げな顔を思い出して、胸が締め付けられる思いに駆られた。なぜかれに応えてあげられないのだろう。ならばなぜ、かれの求めに応じてしまったのだろう。いずれも中途半端な覚悟でしかなかったのだという自分の不甲斐なさを改めて思い返しながら、それが却ってかれを傷つける結果になっているのだということを深く悔恨した。義母の罵声よりよっぽど辛かった。
 古月が内外で名を上げるにつれて、北条と最上の立場は以前とは逆のものになりつつあった。北条は最上より借り入れた借金を返済し、反面最上は父の会社経営がひっ迫しており、八重の夫が家をなんとか保っている状態という有様だった。しかしこの義母は、ありし日の自尊心を捨て切れずに、こうしていつまでも執拗に対面にこだわり続けている。夫が家を支えている自負から八重はその発言力を増し、玉津と朔子は、長姉が探してきた良家に嫁がされた。才がありながら義母や八重に認められないというコンプレックスを抱いていた玉津は、嫁入り後に最上の家には音信を寄こさなくなっていた。家の中では桔華に比較的理解のあった玉津がこの場にいないのは、むしろ不幸の中の幸いであったのかもしれない。

「ご近所中の評判になって、最上はいいもの笑いの種。古月は今や、大きな会社の社長はんなんやから、こんなところで傷モノのするわけにはあきまへん。あんたには、この家から出て行ってもらいます。二度と最上や北条に姿を見せんといてや。早よ消えや桔華。早う!早う!!」

 義母がヒステリックに声を張り上げると、八重が後ろから荷物を投げよこした。数着の着物や化粧品などの、最小限の桔華の荷物だった。母の部屋であったという桔華が使用していた部屋も、今はもう人の宿る部屋の有様ではないのだろうと思った。
 桔華は正座のまま義母に一礼すると、荷物を抱えて立ち上がった。もとより、言い逃れなどするつもりはなかった。朔子の姿を見止めたあの日から、こうなるであろうことは覚悟していたのだ。

 桔華は再び八重に従った。そういえばと思って八重に声をかけた。

「朔子はいないのですか」
「もうあんたには関係あらへんやろ」
「このことは、朔子が申し出たのではないのですか」
「お母さんが言うたやろ。このことはもう近所では周知。朔子が知っていても不思議ではあらへんけど、あいにく何日も姿を見ておらへんし」

 朔子が義母に告げたのだと思っていた。しかし、あの朔子が近所に吹聴して回る姿も考えられなかった。
 ならばどこから漏れ出たのだろう。そんなことはもはや、桔華にとってはどうでもいい話だった。

「ほな、さよなら」

 八重は20年ほどを共にした妹に暇乞いをすることもなく、玄関先であっさりと踵を返した。
 桔華は低い勝手口の扉をくぐった。顔を上げると隣家の馴染みの顔を見かけたが、その顔は桔華から顔を背けるとそそくさとその場を立ち去って行った。

 すっかり日の落ちた道は白く染まっており、また黒い空からはぼたんのような雪がばらばらと降っている。
 ここにはもう、自分の居場所はないのだということとようやく自覚しながら、そういえば頼るべきところの一つも持っていないのだということにようやく思い至り、途方に暮れてしまった。
 目指す先のない桔華は、降り止む気配のない雪をぼんやりと見上げながら、その場に座り込み、やがて眠気に襲われた。

 ひどく疲れた。だけどようやく終わったんだ。
 
 ここで死ぬか。まあいい。それも人生だ。

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2011/07/13(水)
4、祭りのあとに

祭りのあとに(10)


「桔華姉さん?」

 上着もなく、降り積もる雪を払いのけることも忘れ、いつしか意識すら薄らいでいるところへ、桔華の真上から細い糸の様な声がおりた。
 
 篠だった。

 桔華は声を出すこともできずに篠の顔を見上げた。振る雪に黒い和傘をさして、幼いゆゑの手を引いてきたようだった。篠は白い地面に膝をつくと、桔華を抱き起こし、その体に降り積もった雪を払った。そうして、桔華の頬に触れるとその冷たさに驚いたように身震いをして、立ち上がろうとした。
 最上の人間を呼ぼうということらしいことを察した桔華は、ようやく篠の袖を引き、小さく首を振った。それみた篠は状況を理解したのか、ゆゑに傘を預けると桔華の腕を自分の方に回して抱き起こす。

「ゆゑ、先に行って桜花様にお湯を用意してもらって。それから替えの着物。くれぐれも桜花様以外の北条の人に見つかってはいけません。さあ、行きなさい」

 ゆゑは小さな体いっぱいに頷いて、くるりと向きを変えて走り出した。
 篠は桔華の体を引きずるようにして、雪の中を歩きだした。




 北条の屋敷の裏口から入り、正面を経ないで桜花の部屋に回った。夜半九時を過ぎているので屋敷の中はひっそりとしており、桔華の来訪に気がついたふうもない。この屋敷には篠とゆゑ、そして祖母である桜花の他に、桜花の二男夫妻とその息子、つまり古月の次兄が暮らしているが、桜花の母屋は二男夫婦とは棟を別にしていて、こちらがわには古月と篠、そしてゆゑの世帯が暮らしている。といっても、古月は結婚してからもほとんど家にはおらず、篠が桜花の身の回りの世話を行っていて、別棟の本家とはほとんど生活を異にしている。

 それにしても、いまや北条家の稼ぎ頭となっている古月と桔華の不義の話題が、かれらの蚊帳の外にあるわけがない。最上の義母や八重は「近所の評判になっている」と言っていたし、ならば北条の家が知らないはずもない。無論、桜花や篠が知らないわけはないのだが、それならばなぜ、と桔華は考えている。その小さい体で必死に桔華を桜花の母屋まで運び、ゆゑが先立って桜花に用意させた手ぬぐいをお湯でしぼり、冷え切った桔華の腕を、首を、体を、丁寧に拭いてくれた。部屋の中は灯芯のろうそくが揺らめいている。その暗がりに、篠の小さな丸い顔だけが、ぼんやりと浮かんでいた。

「最上の家も酷いですね、外套も持たせずに追い出すなんて」

 篠の細い手から、体温以上の熱が伝わってくるような、そんな感じだった。外はまだ雪が降り続いているのかもしれない。音もない薄暗闇の部屋に、女が二人。男の妻と、その情婦。桔華は篠になんと言って切り出せばいいのか、奥歯を噛み切りそうな面持ちで言葉を探していた。最上の家を追い出され、雪の中立ちすくむ桔華に、声をかける隣人はいなかった。唯一手を引いてくれたのは、愛した人の妻、そして大切な妹だった。

「姉さん?」

 桔華の体が小刻みに震えていること、そして?がれた腕を握り返す手に力が入り始めたことに気がついた篠は、そうしていつもとなにも変わらない、穏やかな顔を桔華に向けていた。桔華は何も言えぬまま、ぼろぼろと泣きだした。泣きだした自分にも腹立たしかった。言い訳の一つでも漏らせばいい、そうすれば、自分は篠にとって、最低な女として認識されるのに。
 わかっていて、出来なかった。古月との思い出に蹴りをつけることも、篠に憎まれて生きることも、今の桔華には決断できなかった。
 篠はしばらく桔華を見つめていたが、少しだけさみしそうな顔をした後に、やはりふわりと笑った。

「姉さん、私は、姉さんに感謝してるんです。三年前にここに嫁いできて、家事も、妻としての務めも、お付き合いも何も知らない私に、姉さんはたくさんの事を教えて下さった。頼るべき人も見当たらない中で、姉さんは私に目をかけてくださいました。ですから私は、姉さんのことがとても大好きですし、どんなに素敵な方なのか、誰よりも存じ上げているつもりです。古月さんが、他の誰でも無い姉さんを選んだこと、私にはようく分かるのです」

 篠は震える桔華の手を、両手でそっと包んだ。

「幼い頃より、古月さんも桔華さんもそれぞれのお立場で御苦労を重ねてこられました。そうして、その御苦労を、お互いがいちばん近いところで見てきた。お互いがいちばんの理解者であり、そうしていつの日にか、かけがえのないものと思うようになった。それは人間の感情として当然のこと。それを誰が、見咎めることがありましょう。」

「篠さん、私は――」

「言わないで」

 桔華の言葉をさえぎるように、篠は懇願のまなざしを桔華に向けてそう言った。

「後悔しないで。古月さんのお気持ちに偽りがなかったこと、貴方がいちばんご存じのはず。誰に何と言われようとも、決してご自分の気持ちを恥じないでください。今の古月さんを支えているのは、貴方から愛されているという自負なのです。どうかそれを、忘れないで」

 そう言って、篠は少し小首をかしげて桔華を覗きこんだ。篠の目は本気だった。桔華を責めるでもなく、夫を咎めるでもなく、ただ眼前の事実は運命だったのだと、そう言って見せた。
 古月への募る気持ちを誰に咎められようとも構わない。謗られても、辱められても、かれと深く理解し合えた自分を後悔しない。ただこの儚げな妹が、そのことによって傷つくことが桔華には耐えられなかった。いっそ篠に、足腰が立たなくなるまで罵られたらよかったのに。そうすれば後腐れなくここを出て、生きるも死ぬも己の思うがままにできたのに。なのに篠はこの雪の中、身寄りのない桔華を拾い、こうしてあたたかく迎えてくれる。夫を支える妻として、そして姉を慕う妹として、かれらが何を望み、そうしてこれから大事を成すために何が必要なのかを提示してくれる。
 
 腕を伝う篠のひんやりとした手の柔らかさを感じながら、桔華は「いけない」と思った。いけない。このまま古月と関係を続けてはいけない。かれはこれから家族のために、会社のために、そしてこの日本のために、大きなことを成すのだろう。自分がその足枷になってはいけない。篠が許してくれたとしても、自分がこれ以上、古月に関わってはいけない。
 皮肉だった。篠の優しさが、却って桔華にそのことを強く自覚させた。桔華が顔を上げると、それを察したらしい篠が不安げな目を上げた。「行かないでください、姉さん」と篠は言った。

「京都を出なさい、桔華」

 すでに夢の中にいるゆゑを背負って、祖母の桜花が部屋に顔を見せた。桔華は涙をぬぐい、姿勢を正して、桜花に深く一礼をした。

「桜花様、それはあまりにも」
「篠さん、あなたは黙っていなさい」

 桜花はそうぴしゃりというと、ゆゑを起こさないように畳に降ろし、自分の上着をかけてやった。そうして自分の書棚から京縮緬の雑記帳を取り出すと、筆をとり、すらすらと書きつけ、桔華の眼の前に差し出した。

「篠さんが何と言おうとも、貴方は人として生きる上で、許されない過ちを犯しました。それは、感情の面で純粋な想いとされるのだとしても、人間社会というコミュニティの中で生きるものには決して越えてはならない一線だった。分かりますね」

 桔華は頷いた。無論だ。

「しかしだからこそ、あなたは何事に変えても大切にしなければならない想いを知った。この世の中の多くの女性が自分の望む道を歩むこともできぬまま、妙齢になり親の決めた相手と結婚し、家に入り家を守り、子を産み、育て、そして死んでいく。桔華、あなたはそれに捉われることなく生きなさい。たくさんのものを見て、多くの事を感じて、そうしてそれを大切になさい。あなたが信じた道を貫きなさい」

 桜花はまっすぐに桔華を見据えて、澱みなくそう言った。桔華は静かに頷いて差し出された雑記帳を手に取った。そこにはひとつ、歌が書き記されていた。



――秋雅 咲き狂いにし 世の果ての いざ立ち行かん 桜花往生



「あなたの帰る場所ならここにある。祖母がこうして待っていてあげますから、いつでも帰っていらっしゃい。ねえ、篠さん」

 篠は鼻を啜り、無言で頷いた。そうして桔華は、まだ夜も明けきらぬうちに北条の屋敷を辞した。





 明治三十四年、晩秋。
 こうして桔華は、女の身一つを携え全国放浪の旅に出た。


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2011/07/20(水)
4、祭りのあとに

祭りのあとに(11)



 *****


 いつのまにかうとうとしていたらしい。
 桔華は、首の違和感に引き起こされるように眼を覚ました。雨戸に肩を預けるようにしてうたた寝をしていたため、身重の体重を預けられた肩がばきばきとなりそうだった。

 玄関先から晴子の元気な声が聞こえる。「はい、これ、お願いね。よろしくお願いします!」

 ようやく意識を覚醒させ、そちらに意識を向けると、今度は甲高い笛の音とともに子どもたちの元気な声が聞こえてきた。


 やーれっさやれさ。やーれっさやれさ。


 しゃんしゃんと鈴の音がして、太鼓の音が重なる。
 店先で子供たちが舞を報じているらしい。桔華は身を乗り出してそれらを眺めた。商売繁盛を祈念したあと、ぱらりと米が撒かれた。子供たちの元気なあいさつの後、「やーれっさやれさ」の声が遠くなった。

「あら桔華さん。起きていらっしゃったのなら、子供たちの『あいさつまわり』を見せてあげたかったわ」

 時節は九月二週。昨日から川内八幡社の例大祭である。普段仕事に熱心な街の衆も、明日までの三日間は襦袢に法被姿で神輿を引き、夜中まで街を練り歩く。

 桔華が店先の縁側に腰を下ろすと、晴子が台所からお茶と砂糖菓子を持ってやってくる。今日は深夜まで山車が運行されるとかで、このまま店を閉めずに、のんびりを眺めていようというのが晴子の提案だった。

 八月を過ぎると桔華の容体は安定してきた。町医者にも少しであれば動いてもいいというお墨付きをもらい、「晴子さんに感謝することだね」と桔華に言った。桔華の腹は少し膨らんできたが着物の上からではまだ見分けがつかない。子供の鼓動を感じることもあるからと医者は言ったが、それも今のところ、まだ経験が無い。
 京都の盆地の蒸し暑さを知っている桔華にとって、川内の夏はからっとしていて過ごしやすかった。それでなくとも、晴子にむやみに出歩くなと厳命されている桔華は、風通しのよい屋内で大半を過ごしていたし、正面に見える陸奥湾から絶えず潮風が吹きこんできた。店と中庭の雨戸を開け放てば風が通り抜けるにちょうど良く、夏の日差しの照りつける様を日陰で穏やかに眺めているうちに、暦の上は立秋を越え、処暑を過ぎた。

 満州の荒野では日露両国の攻防が続いている。
 三月までに清国旅順港では日本海軍による二度の閉塞作戦が行われたが失敗に終わった。国威が勢いを取り戻したのはその閉塞作戦が「失敗」として情報されず、部下を探して爆発に巻き込まれ戦死した、“杉野はいづこ”の広瀬大尉の武勇談であり、五月の鴨緑江での陸軍の勝利であった。緒戦の一勝といえど大国ロシアを相手に「対等に」戦争という殺し合いをしているというよりもむしろ、40年前までは恐怖の対象でしかなかった諸外国と「対等に」渡り合えるだけの武力と国力を日本は持ちえたのだという、「気持ち」なのだと桔華は思っていた。そこには、兵士ひとりの死という現実ではなく、血税をもって贖われた武器弾薬の漏音でもなく、ただ一等国民としての優越感のみがこうして国中を席巻しており、またそれらを顧みる己は恐らく、新聞雑誌で言うところの「国力減退の一助たる諸勢力」とでも形容されるのだろうか。近く、陸海軍合同による旅順総攻撃が実施されるという新聞記事を眺めながら、ぼんやりと仙台での出来事が頭をよぎるより前に、「初代左團次が亡くなったそうよ!『勧進帳』見てみたかったわあ」と晴子の声が飛んだ。

 そういえば京都にいた時に一度だけ、九代目団十郎の『三人吉三廓初買』を見たことを思い出して、たいして印象に残らなかった舞台よりも鮮明に、祖母、桜花の横で鼻ちょうちんを膨らませていた古月の横顔が蘇ったのだった。ふわりと明るい気分になり、読んでいた新聞を折りたたんでそばに置くと、ぴーひゃららと囃子の音がまた近くなった。そうしてまた、遠くなった。

 陽が落ちる。潮風が肌を掠めると、かすかに寒気を伴った。晴子はそれを当然のように見こしていて、「冷えてはいけないわ」といって絣の羽織を桔華の肩にかけた。桔華が「ちょっと若すぎやしませんか」と苦笑すると「あらあ、女子はいつまでも若くありたいもの。そうでしょう?」と真顔で返された。桔華はやはり苦笑した。

 折られた新聞の片隅に、桔華の選による地元青森の創作家らによる秀作が並ぶ。毎週日曜日、タブロイド紙の四面、全面広告の最上段が第二文芸欄。一面には政府広報と最近は満州の時局、青森の市政、そして郷土作家佐藤紅緑による新聞小説、その挿絵。
 桔華の選と短評は「女流歌人」の話題性も相まって評判は上々、撰者の名は「菊」と名乗った。これは、短歌の師でもある桜花がつけてくれたものだった。桔華は父方の最上に引き取られる前の名前を菊といったが、当人はそれをとうの昔に忘れており、「それではあなたは今しばらく『菊』を名乗りなさい」と桜花に言われた時も、師が桜なら弟子は菊。皇室の花名をもらうにはいささか役不足の感があるけれどと思った程度で、後々になってようやくそれを思い出したという有様であった。当の桜花はそれを見越したうえで桔華に「菊」名を授けており、彼女の同人誌「のはら」で名を挙げている桔華の姉、玉津は、「清梅」という名を世間に通じていたのだった。当の玉津は「そんな置屋の娘みたいな名前は嫌、それよりも『桜花』の名前が欲しい」と例の無邪気さで宣ったというが、果たして桜花も例の如くにこにこしながら「嫌です、私の名前が無くなってしまいます」と答えたのだそうで、玉津の方も躍起になって名実ともに『桜花』を継ぐべく研鑽を重ねていると、当の桜花からの手紙に記されていた。
 
 街道に面している和泉家の店先を、部落や船仲間たちの山車が流れていく。
 山車は桔華が京都で見知っている、祇園会の大山車によく似ている。四つ車の上に金襴の幕が張られ、見上げる上に稚児と囃子方が数人いる。川内の山車には大漁旗や帝国旗なども掲げられ、京都のものより一回り小さく、また数も多くはないが確かに似ている。

 やーれっさやれさ。
 やーれっさやれさ。

「この囲み幕と見返りはね、京都の問屋から買い入れているんです。例大祭は寛永のころからあったと聞いているから、きっと上方の商人さんから、祇園のお祭りのことを聞いたのではないかしら。そうして、見様見真似で山車などこさえているうちに、青森や弘前のようなねぶた人形でなくて、こういう高台のお山車になったのね」

 陽が落ちると、先導する囃子方の提灯や山車の町内会協賛の札に灯りが張られ、一台、また一台と山車が過ぎて行った。山車を引く男衆の日焼けた赤い顔や鼻筋に赤い墨を入れた子供たちが、威勢のいい声を残していった。

「驚いた。まるで祇園さんのお祭りのよう」
「嬉しい。川内の人はね、この例大祭を本当に楽しみにしているのよ。そうしてこのお祭りが終わると、長い冬が来るの。だから、その前の景気づけみたいなものなのよ」

 晴子はそう言って、笑った。いつものあの、見るものの心を穏やかにするあの顔だった。

「晴子さん」
「なあに?」
「聞いてもいいですか、お子さんのこと」

 囃子の音は遠ざかりつつあり、りいりいと虫の声が聞こえていた。
 今夜は満月。店の軒先の祭りのあとの静けさを、月明かりが照らしている。

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2011/08/08(月)
4、祭りのあとに

祭りのあとに(12)



「たえさんから聞いたのね」

そう言って晴子はやはり笑った。
いつからかその顔を、桔華は「悲しい」と思うようになっていた。

「辛かったわ。自分が死ぬよりもずっとずっと辛かった。何よりも、彼らを産んであげられない自分を許せなかった。和葉さんの子を産めない自分が憎かった。でもね、ある時思ったの。彼らは人間としてこの世に生れ出ることは無かったけれど、その魂は私と和葉さんの間に確かに産まれたわ。二人いるのよ。お兄ちゃんと、妹なの」

 『辛かった』という晴子の言葉は、脇野沢での周囲からの風当たりなどではなくて、自分自身に向けられたものであった。自分が死ぬよりもつらい体験がどんなものか、今の桔華には想像もつかなかった。生まれた母が死んだときのことは、よく覚えていない。父や義母も、どこか親子以上の隔たりを感じているし、桜花も、年をとればいつかその日を迎える番になるだけだ。もし明日、古月や篠が死んでしまったら。そう思って、ようやく少し実感がわいた。胸の底がひゅうと冷たくなるような感じ。
 ならばそれが腹の子ならば。ぼんやりと感情にもやがかかり、消えた。俊承ならば?胸の奥で桔華は必至で首を振る。そんなの考えたくない。現実にありうるからこそ、考えられない。
 晴子はそんな桔華の心情を察してか、桔華の手をとり、それを腹にあてがった。晴子の手のぬくもりと、腹の子の鼓動が重なった。桔華はあっ、と思った。

「動いた」
「私にも伝わったわ。初めて?」

 桔華は何も言えなくなって、目を見張るようにして晴子に顔を向けた。晴子はやはり優しく微笑んで「元気そうね」と言った。そうして二、三度、桔華の腹を撫でた。

「生きている。それだけで十分じゃない、他に何を望むというの?」

 晴子は穏やかな顔をしていたが、その言葉が桔華にはあまりに重く、そして鋭く突き刺さる思いだった。流されるままに生き、窮地で人に助けられ、愛する人がいて、守りたいものがあった。そうして今、貫くべき道――歌を見つけた。どうしてこれが報われない人生といえよう。何が疲れただ。何が人生だ。自分はいつも諦めてばかりで、そうして誰かの手が差し伸べられるのを待っていただけではないか。

「ねえ晴子さん、もし和葉さんが浮気したら、あなた、どうしますか」

 不意に投げられた問いかけに晴子はあっと言って驚いて、「いやあねえ、あの人そんなに器用な人じゃないから」と前置きをして、こう言った。

「夫婦だもの。結婚するということはお互いがお互いの唯一のパートナーだという約束をするわけだから、それを破ったことに対してまず聞きますわ。そうして、それが単なる浮気心なのか、それとも私ではないその女性を人生のパートナーとして本当に愛しているのか、それを見極める。前者ならそれを含めて彼なのだから受け止めてあげるのが妻としての役目。後者ならばわたしは身を引くわ。かりそめであるなら、共に長い人生を送る意味がまるでないのだもの」

「単なる浮気心なのか本物の愛か、それが分かる?」

「分かるわ。あの人のことだもの」

 晴子はそう言って桔華の顔を見はしたが、それ以上深く追求することは無かった。古月とのことは、晴子には話していない。祖母が同じ従兄なのだという話をしたが、今の問いかけが果たして晴子に何を感付かせたのか、桔華に推し量るすべはなかった。ただ、篠があのとき自分を庇ったのは、晴子のいう「それを含めてかれのすべてを受け入れる」という意思表示だったのだろうか。篠は古月の一番が桔華であるといった。それを知って尚、篠は別れ話を切り出さなかったとすれば、悠長な男女の感情にされるがままに過ごしてきた古月や桔華より、自分の輿入れが何を意味するのかを自覚し、かつ彼の妻たらんとする桔華より5つも年下の彼女が、冷静に現実を見つめていたのだということになる。
 篠の事はとても大切に思っていた。儚げな彼女は、桔華にとって妹であり、自分が守ってやるべき相手でもあった。
 それを裏切って尚、妹は姉を庇ったのだ。夫と姉がどういう人生を歩み、惹かれあったのかを死ぬような思いで理解し、そうして古月の本質を知っていたからこそ桔華を引きとめたのだ。もし桔華から古月に別れを切り出せば、かれはその感情を引きづり、仕事や家庭にも影響を及ぼすのだろう。何百という社員を預かる社長だからこそ、個人の損得でものを考えてはいけない。だから何事もなくいままでのように暮らすためには、現状を維持することが最も望まれることであると。

 愚かなのは自分だった。大切に思ってきた妹は、自分よりも遥かに立派な女性であり、妻であり、母であった。
 桔華は消え入りたいほど打ちのめされていた。それすら自覚することもなく、いままでのうのうと生きてきたのかと。古月への気持ちを貫けと、舌を噛み切るような思いで宣った篠をまたしても裏切り、また流されるままに守りたいものと出会ってしまった。腹の中にいる子どもは、自分が母親である限り、父親を知ることは無いのだろうと桔華は思う。いちばん大切な人は古月。それ以外にはありえないから。絶対に、あり得ないから。


――わたしは、桔華さんが好きです。


 俊承の逞しい顔がこちらを見ていた。出会った当初の、純粋で優しいだけの彼ではない、民族の使命を自覚した、一人の男の顔だった。

 もう何年も昔、遥か長い年月がたったようにも思う。

 しかし実際、それはわずか四カ月前の話。

 目を閉じ、俯いていた桔華は腹の底の鼓動を感じつつ顔を上げた。ほかでもない晴子に聞いてもらいたい、そしてこれはおそらく、桔華の人生で初めて己が選択した道なのだということを、確かめたかった。



「この子の父親の名前は柳俊承(ユ・スンジョン)、朝鮮半島出身の北京からの留学生でした」

 訥々と語り始めた桔華の顔を見つめて、晴子はじっと、桔華の話す言葉の一つ一つを噛みしめているようだった。

「どうしようもない力が、名も無き多くの市民の命を奪い、そうしてそれに呼応するように立ち上がった若者たちがいます。晴子さん、聞いてください。私は、彼らの力になりたいと思った。そうしてそれは、今私が生きるための、とても大切なものになりつつあるのです」



 祭りの囃子と男衆の声が、遠くなりつつある。
 
 思えばあの夜も満月だった。
 月明かりの下に女が二人。夜風が過ぎ、庭の薄がさらさらと鳴っている。


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2011/08/09(火)
4、祭りのあとに

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