わたしの祖国(1)

 

*****

 
 「絶対安静」を言い渡された。


「お食事は私が用意します。お風呂も、先生のお許しが出るまで、私が面倒を見させていただきます。とにかくあなたがするべきことは、何も考えずにゆっくり体を休めて、こどもを安心させること!そうすればその子はきっと元気に生まれてきてくれますから。そのように心得てくださいまし」

 さっきまで穏やかな調子だった晴子が、畳み掛けるように言葉を並べ、そして詰め寄った。にべもなく桔華は「はい」と返事をしてしまう。自分よりも幾分も年下だろう晴子だが、桔華が返す言葉も無いほどに力をこめて、そう言い放った。「そういうわけだから、夜も長居をしてはいけない。早くお休みになって」と今度は桔華を寝かしつけようとする。されるがままに枕に頭を沈め、上掛けを首元まで上げられると、晴子はふわりと灯りを消した。

「おやすみなさいまし」

 そういって、晴子は静かに襖を閉めた。
 夜闇が部屋に落ちると、庭からりりりと虫の音が聞こえてきた。やがて弱くなり、重なるようにまた次の虫が鳴きだした。細い下弦、庭の木、虫の音。
 北国。とおい街。あの人。
 こども。
 はるこ。こけし。みおものわたし。

 半分呆けた頭で、ぐるりと思考が巡っている。いくつもの点が現れるのに、その点が線を結ばない。結ばぬまま、ゆらりと靄に霞み、どろりと底知れぬ闇に沈む。
 沈んだ闇の中から、溶岩のようにぐにゃりと溶け出す。重い粘り気を伴って、桔華の闇を打ち破ろうとしてくる内側の力。その力が強く働くたびに桔華は幾度と無く悶え、そして苦しんできた。
 
 国家。
 祖国。 

 それは突如として現れた、大きな夢のような話だった。そこに描かれたものが壮大すぎて、地上から伸ばした手が届くことのない、どこか遠いところの話のように思っていた。
 
 国家とはどんなものだろう。祖国とはなんだろう。その見果てぬ夢の答えを、桔華は未だ、見出せずにいる。
 
 唯一つ分かっているのは、そんなものを大義名分にして、世界中が己が道を意固地になって貫こうとしている現実だ。その意固地につき合わされ、国土を蹂躙される隣人の都合など、彼らの眼中には無いのかもしれない。
 それは桔華も同じだった。何も知らなければ、何もしなければ、こんなこと、お上がどうにでもしてくれるものなのだと思っていた。 

 決して忘れることの出来ないあの人の、この手の届くことの無い背中が見える。

 凛としたその瞳も、精悍な体つきも、その瞼にくっきりと思い出すことが出来る。
 あなたの力になりたいと思った。
 だけど私には、あの人についていくことも、それを止めることもできなかった。 

 承俊。今どこに居るの。あなたは私を覚えていてくれる?
 ねえ、あなたにこどもが出来たのよ。私とあなたのこどもなのよ。
 あなたは喜んでくれるかしら。ねえどうして。

 どうして私は、このことを心から嬉しく思っていないのだろう――。


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2011/01/13(木)
2、わたしの祖国

わたしの祖国(2)

 *****

 
 京都を出てから約二年をかけて、浜松、小田原と太平洋に沿うように北上したあと、磐木から郡山に抜け、明治三十六年の初夏、桔華は仙台城下に辿り着いた。仙台の医学専門学校の近くにある宿を取った晩のこと、昼間に見てきた青葉城の坂を、戦国の武将たちが駆け上がる様を思って、


 もののふや 兜の月の 冴え渡る

 
 と、雑記帳に書き付けて下の句を捻っているところに、下宿先の女将が飛びついた。彼女も素人ながら歌を詠むのだとかで、祖母、北条桜花のこともよく知っている、と言った。

「染み入るような寒い夜がいいわね、伊達公の凛々しさも忘れないで。『もののふ』では、ちょっと優しいのではないかしら」

 女将は桜花の歌集雑誌「のはら」を愛読しているという。「のはら」は、桜花のサロンの集まる素人玄人の歌人たちの歌を集めた歌集で、半年に一度、ここ二年は三ヵ月に一度のペースで上梓されるようになった。発行部数は、約一万。当時、新聞「日本」の部数がそのくらいであるから、この数字は驚異的と言っていい。
 下宿一階にある共同の食堂には、入り口横の棚に創刊号から「のはら」が並んでいたし、「白樺」「アララギ」といった文壇の寵児がずらりと陳列してあった。その下宿では、多くの大陸からの留学生が医専に通うための仮の宿としていて、彼らが日本の雑誌を話題にしていたのを聞いて、女将も手に取り始めたのだという。今では彼らに負けないほど、女将自信も自らの句作に熱が入ってる。
 桔華は桜花が自分の祖母だとは言わなかったが、自分も桜花に私淑している、と言った。すると女将は桔華に興味を持ったらしく、桔華が、知見を広めるために全国を旅して回る予定だと告げると、感慨深く二度頷いた。そうしてこの女将が桔華に宿への陳留を進めると、桔華も、当面の句作をここ杜の都に依ってみるのもよかろうと、仙台への滞在を決めたのであった。
 女将は、女の身一つで各地を放浪する桔華の懐事情を理解して、「ここの御代はいいからね」と言ったばかりか、食事なども部屋まで運んでくれたり、布団を上げたりと世話を焼いてくれた。しかし、そのまま何もせずに厄介になるわけには行かないと、桔華も朝の炊き出しや、部屋掃除などし、少しずつ宿を手伝うようになった。その宿には女将の他には従業員が三人しかいなかった。全部で三十ある宿泊部屋のうちの、二十二部屋はちかくの医専に通う学生らが下宿していた。慢性的に人手が足りずに困っていたのだ、と、女将は桔華の手伝いを大層喜んでくれた。一ヶ月も経つころには、桔華はすっかりその宿の顔となっていたし、桔華もまた、その下宿に寝泊りしている学生たちの顔を見知るようになった。


 多くは、清からの留学生だった。

 
 中国は、列強による開国の波に晒されている。
 十年前の日清戦争以後、国内の近代化を進めようとした光緒帝の親政が失敗、西太后の保守政権が再び実権を握った。国内を統べた大の西洋嫌いの彼女が、その広大な国土にゆるゆると近代設備を拵えているところに、義和団の蜂起という事件が起こった。急速に進む諸外国の土地侵略に反抗した義和団一派は、異国の教会や宣教師らを攻撃。しかし彼らは統一の指導部をもたなかっので、各地で独自に蜂起し、北京に向かって進軍を始めた。
 西太后と清朝は、彼らを「義兵」と認めた。居留民保護を目的に、義和団の排除を求めた諸外国に対し、清朝は宣戦布告。しかし近代軍備を配した連合軍約二万のまえに破れ、西太后は北京を脱出、列強は辛丑条約によって、中国大陸への進出の足がかりを得ることとなった。
 このままでは、清国は列強の食い物にされてしまう。清国の多くの知識人はそのことに危機感を持ち、国の外へその答えを求めた。中でも日本という国は、アジアでもいち早く開国し、ここ数十年で目覚しい発展を遂げており、西洋の書物なども多く訳されていたし、西洋人の教師も多かった。彼らの視線は、自然と日本へと向かった。

「孫中山の広州蜂起は時期尚早であったのだ。人心は未だ己がのみに向かいて、国家の民たる自覚無く、故に蜂起に賛同するもの少なく、革命を昇華せずして潰えてしまったのだ」

「拳匪の国内擾乱に際しては、それが、土地所有に関する民の身近な問題であったからこそ多くの賛同を得られたのだ。しかし、それを上手く扇動できない清国政府が舵取りを誤り、結果として西洋列強への門戸を開放することとなってしまった」

 ここにいる清国留学生の多くは、近くの医専に通っている。昼間は生理学、解剖学といった、人間の体の仕組みについて学んでいる学生達である。 二十人いる学生の多くは、満州民族の辮髪を切り落として総髪となっているが、二、三人は、今でも剃り上げた頭に、細くて長い三つ編みを尻のところまで垂らしていた。
 夜、下宿の食堂では、三人も集まれば、清国あるいはアジアの将来を憂う激論が飛び始め、やがてその人数が五人、六人と増えていった。
 ぱあん、金属の割れる音が食堂に響いた。激昂した留学生の一人が、机を叩く拍子に茶碗を割ってしまったらしい。女将も桔華も、ああまた始まったなという程度に思っている。桔華が「お代わりをお持ちします?」と聞けば、「いや、水をください」と彼は言った。激論には北京語の鋭い抑揚が行き交っているが、留学生たちは、女将や桔華には、少し慣れない日本語を、丁寧に使ってくれる。

「ふざけるな貴様!それでは、わが清国が、列強の植民地となってもいいというのか!」
 
「そういうことを言っているのではない!日本を見てみろ、自国の文化を残しつつ、西洋文化を享受することで、たった数十年で、アジアの宗主であった清国を打倒するまでに至ったのだ!光緒帝の改革むなしく、いつまでもあの西太后を戴いているから、こうして清国は、時代に立ち遅れてしまっている。いまこそ武力をもって彼女を廃し、真の民主国家を作りえるときではないのか!」
「なあ、お前はどう思う、スンジョン!」

 食堂の隅の座敷で、黙々と書物に目を通している青年がいる。彼はよほど目が悪いらしく、分厚いめがねをしているのに、さらに本に顔を近づけて、食い込むような勢いで文章を目で追っていた。


 柳 承俊。


 猫背のまま、ゆっくりと本から頭を上げたその顔には、投げかけられた問いに肯定とも否定ともいえぬ、厳しい色が浮かんでいる。


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2011/01/23(日)
2、わたしの祖国

わたしの祖国(3)

 承俊は瓶底のような眼鏡を外すと、眉間に皺を寄せてその論議の輪を見やった。テーブルを囲んでいる清からの留学生たちは、五人。机を挟んで承俊の目の前に座るもう一人の男が、ものさしのように伸びた背中のまま、書物から目を離さずに「国家論だ」と言った。
「ああ!」と承俊は大げさに頷くと、溢れんばかりの輝きを湛えた瞳を彼らに向けて、こう言った。

「やあ、この国はほんとうにすばらしい。この神経学書の和訳の正確なことといったら……!!漢訳でもここまで豊かに神経疾患の種類を表現することは難しかろう。先人は、どれほどの蛍雪に耐えたことだろう!!わたしはかつて無いほどに、感激で胸がいっぱいだ」

 そういって、承俊は三浦謹之助の著作を胸にしかと抱いた。教科書のような北京語ではあったが、桔華にも彼が日本を幾分か褒めたのだろうということは察しが付いた。桔華は、先ほどの割れた茶碗の欠片を拾いつつ、意味も分からぬ中国語の抑揚に耳を傾けている。この空気を読めないらしい男の注した油が、彼らの国家論とやらに火をつけたことは確かだった。

「何を言う!日本の文化など、もともと中国から取り入れたもの!そして今は西洋の猿真似をしているだけではないか!」

「冊封時代の名残をいつまでも捨てきれず、その猿真似すら出来ない我が祖国を恥とは思わぬのか!」

 感動で胸がいっぱいらしい承俊を尻目に、今にも食器が宙を舞う勢いだったので、女将が「やるなら外でやりな!」と一喝した。彼らは抑えきれぬ感情をお互いに向けつつ、とりあえず女将に深く一礼をして、本当に外に出て行った。これもやはりいつものことである。女将は彼らを見送り、

「まあ、支那も大変だろうからね。気持ちは分からなくも無いんだけど」

 と呟いて、台所へ引き上げていった。桔華が茶碗の欠片を拾い集め、椅子を直して立ち上がると、座敷の二人はやはりさっきと同じままで、一人はすました顔で背中をものさしにしていたし、承俊は相変わらず瓶底の眼鏡を書物ぎりぎりまで近づけて、虫のように文字を追っている。


 *****


 ものさし背の男の名前は周一樹といい、字を才人(ツァイレン)と言った。承俊と同じく、北京からの私費留学生である。年は、二人とも二十五歳。同じ部屋に寝起きしている。

 この二人、いつも一緒にいるというのに、まるで正反対なので面白い。才人はその背が語るような生き方をしている。白い顔に短く刈った頭。若いながらに鼻の下に切りそろえられた髭。一文字に結ばれた口。座れば日本人も顔負けの見事な正座で、すらりと背が伸び、両手が軽く握られて腿の上にのっている。本を読むときもその状態のまま、視線だけを下げて読台に置かれたものを見やる。日本に来てから柔術を学びはじめたとかで、彼を取り巻く空気はそこだけぴりりと澄んでいて、本人も寡黙。一見ではとても近づきがたい。
 対する承俊は、穏やかな春の陽気のようにやわらかく、よく笑う。長い髪は切ったものの、切りっ放しのままゆるゆると波打つ黒い髪を、ざっくりと後ろで束ねている。着付けた支那服もどこかよれよれとしていて、よく転び、よく物を忘れる。そのたびに、才人が涼しい顔のまま床に転がった友人を助け起こし、部屋に忘れた筆箱をすっと差し出したりする。承俊が屈託無く「多謝」と言えば、才人は「別介意」と言ってすたすたと先に行ってしまったりする。それをあわてて追いかける承俊がまた後ろで転ぶ。同じことを繰り返す。

 桔華は、薬箱を抱えて、宿の狭くて急な階段を上がっている。この薬箱が大きく重く、思うように前が見えない。挙句、夜である。先ほど桔華が使いから戻ると、闇灯の中に才人がいて、

「薬箱を探している」

 と言った。何事かと問えば、承俊が医専での解剖実習中に指を負傷し、まだ血が収まらないのだという。才人は日本語をまだ使いこなせていないというよりも、用件のみを簡潔に伝えるのが彼の話法のようで、桔華が部屋まで持っていく旨を告げると、

「すまない」

 と言って深く頭を下げた。このことを、桔華は特に気に留めることもなかったのだが、実は昼間、深い傷と知りながらも、承俊が日本人でないことを知って保険医が消毒液も包帯もくれなかったのだと桔華は後で知った。才人はこのとき、めいっぱいの謝意をこめて、桔華に頭を下げたのだ。

 ともかく。
 
 包帯だけではなく薬箱そのものを持ってきて欲しいという才人の要望もあったので、両手で抱えるほどもある薬箱を携え、二階まで上がってきた桔華だが、どうにも襖を開けることが出来ない。この重さを一度床に置くことも躊躇われたため、部屋の前で右往左往していると、内側からからりと襖が開いた。

 部屋灯の中に、幾分か血の気の失せた承俊が、拵えられた敷布団の上でぐったりと横になっていた。

 その力ない瞳の揺らめきが、桔華の顔を捉えていた。才人が頷いて桔華を部屋に招きいれた。瓶底の眼鏡は、いつもは承俊の枕元に広がったまま転がっているのに、今日は才人の小さな文机の上にしゃんと収まっている。


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2011/01/25(火)
2、わたしの祖国

わたしの祖国(4)

 才人は長い指を薬箱に伸ばし、音も無くふたを開け、ガーゼと鉄製の鋏を取り出し、十センチ四方の正方形を三枚拵えた。それらを重ねて消毒液をたらし、染込ませ、ただ襤褸切れを巻いてあるだけの承俊の手を取ると、その襤褸を解いた。一瞬だが、桔華にもその傷口が見えた。親指の付け根から甲にかけて、ざっくりと一文字に割れていた。
 血があふれ出るよりも早く、才人はさっきのガーゼで優しく傷口をなぞり、一枚目を捨てて出血する手首を上げ気味に握り、血の流れを一時的に止めて、残り二枚のガーゼをピンセットで器用に半分に折り、傷口に当てた。片方の手は承俊の手首を握ったまま。才人はするすると片手で包帯を巻きつける。

「結束了」

 なんだか桔華も胸をなでおろす。包帯に血はすぐに滲んでこなかった。才人が、余った包帯などを片付けようとするので、あわてて桔華も片付け始めた。
 気がつくと、承俊は青い顔を幾分か残したまま、眠ってしまったようだった。才人が承俊に布団を掛けてやった。長居をしては気遣わせるだけだとおもって、桔華はその場を後にしようとした。

「等一下」

 なんとなく呼び止められた気がして、桔華は振り返った。すると真直ぐこちらに目を向けている才人がいて、ものさしの入ったような正座から、こちらに深くお辞儀をした。ああ、そうか。おそらく、彼が思うよりずっと、この人は彼のことを大切に思っているのね。

 いいな、この二人の関係は。

 桔華はそう胸に想起して、「お大事に」と声を掛け、部屋を後にした。



 次の日、承俊は医専を休んだ。

 朝食が終わり、がやがやと留学生たちが教科書などを包みにして、下宿を出て行く。ようやく静かになったかしらと桔華が食堂の椅子をテーブルに上げていると、才人が荷物を片手に一人で降りてきた。

「昨日は、ありがとう」

 才人から声を掛けられるとは思わなかった桔華は、「いいえ」と戸惑い気味に返事をした。我ながらまずい反応だと思って背の高い才人を見上げるが、本人に動揺の色が無いことに桔華は少し、安心する。

「彼、調子よくないの?」
「大事を取らせたい。すまないが、今日一日様子を見ていてくれないか」

 でなければまた一人でどこかにでかけていってしまうだろうから、と才人は付け加えた。それがなんだか面白くて、桔華は思わず、噴出した。

「かまいませんよ」
「重ね重ね、すまない」

 才人は桔華の苦笑にもやはり表情を変えることなく、小さく頭を下げ、そして出かけていった。


 
 まるで気質が違うのに、なぜ一緒にいられるのだろうと不思議に思っていた。ふわふわと頼りない承俊が才人から離れられないのだろうと思っていたが、実際はどうやら逆のようだ。何の訳があってか、しっかり者の才人は、あのふわふわした男をほおって置けないらしい。

 桔華は承俊の部屋の前まで来ると、「お着替えをお持ちしました。開けますよ」と言って返事も待たずに襖を開けた。よく晴れた昼下がり。開け放たれた障子から、初秋のさわやかな空気が流れ込んでくる。

「え?」
「あ」

 窓に飛び移ろうとする承俊。桔華はとっさにその腰に組み付いた。驚いた承俊が抵抗する。とりあえずさっきの才人の言葉が頭の中を巡っていて、桔華のほうも彼を逃すまじと必死。
 承俊が怪我人であることも、桔華が女であることにも関わらず、お互いに取っ組みあいをした挙句に、ようやく桔華は、承俊を床に組み伏せた。ばらばらと飛び散る、医専の教科書。どうやら本当に、この男は学校に行くつもりだったらしい。
 才人が冗談を言うとは思えなかったが、本当に冗談を言っていたのではなかったようだった。

「何するんですか!わたしは学校に行きたいのです!」
「そんな青い顔して、学校行って何するんです!大人しくしていなさい!」

 窓から脱出を試みる辺り、承俊は才人がここの従業員に言付けをするということが分かっていたのだろう。このやろう、確信犯か。

「学校に行きたい、わたしは、早く、医者になりたい」

 桔華の腕の下にいる承俊は、例のまっすぐな瞳で桔華を見上げてくる。
 つねづね不思議な男だ。この目を見ていると、どうしようもなく、彼の力になりたいと思うようになる。


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2011/01/26(水)
2、わたしの祖国

わたしの祖国(5)

 とりあえず、外行きの格好の身包みを剥がして持ってきた新しい寝巻きに着替えさせ、登校することにまだ未練がありそうな承俊を布団に戻す。彼は案外、素直に従った。

「才人は、ちょっと過保護すぎます」

 桔華は部屋に散らばった医学書などを取り上げている。承俊は布団から身を起こし、独り言のようにそう呟いた。

「そうかしら。彼のあなたを労わる気持ちは純粋なものよ。いい友人を持ちましたね」

 六畳ほどの畳部屋に、承俊と才人は寝起きしている。机を窓に向かって二つ並べていて、向かって右側が才人、左側が承俊のスペース。
 才人の文机の上は綺麗に整頓されていて、布団もしっかり上げてある。書物も、押入れに背表紙を合わせて収納してある。承俊のほうはというと、読んだ本は読みっぱなし。筆を使えば使いっぱなし。それを、彼が学校へ行った後に毎日桔華が整頓してやるのだ。

「違うんです、彼はきっと、わたしの父に恩返しをしたいと思っている。だからこんなに私を気遣ってくれるのです」

 桔華は本を拾う手を止めた。その感情の微妙な鈍りが、なぜだかとても気になった。

「どういうことです?」

 承俊は手元を見つめながら、ときどき慣れない日本語でぽつぽつと語りだした。

 私の父は、朝鮮の漢城で生まれました。もとより学問が好きで、もっと西洋のことを知りたいからと、鎖国を続ける祖国を出て、母と共に北京に移り住みました。そこで、才人の父親と出会いました。志を同じくする二人は、心腹の友となるのに多くの時間を要さなかった。まもなくして私や才人が生まれ、私たちは小さなときから多くの時間を共に過ごしてきました。
 才人の父親は、科挙に合格した進士で、当時の光緒帝の近くで皇帝に西洋のことを教えていた知識人でした。皇帝は、旧弊に固執する清朝政府の政治姿勢を批判し、清という巨大な国を本当の意味で近代化させねばならないと考えていた。しかしあるとき、光緒帝と行動を共にしていた急進派が、西太后を暗殺して改革を断行するという話が流れた。彼女は自分の義理の「息子」でもある光緒帝を追放し、再び清朝の実権を握ると、自分の暗殺を企てたとして、皇帝の近くに仕えていた多くの知識人を、
「処刑しました。その中に、才人の父親もいました」

 光緒帝を擁する急進変法派を一掃した、西太后のクーデター。大陸で起こった「戊戌の政変」は、桔華も新聞でその概要を目にしていた。今から五年程前の話だ。

「西太后の怒りが、家族に及ぶことを恐れた私の父は、才人とその母を匿おうとしました。しかし、才人の母は北京を脱出する際、西太后の追っ手に見つかって殺されました。わたしたち家族は、才人とその妹とともに、奉天で暮らし始めました。才人は、『迷惑は掛けられない、自分で働く』と言ったのだけど、父は才人が、幼い頃から医学に関心があることを知っていた。だから彼をわたしと共に北京の大学堂に入学させました」
  
 負い目を感じているのか。彼を包むその痛ましいほどの空気は、彼自身が自らに課した、家族への弔いのようなものなのかもしれない。

「清国への憤りを誰よりも感じているのは、才人のはず。でもそういうものに首を突っ込まないようにしているのは、自分の立場をわきまえているからなのかもしれないです。だけど、わたしは才人に、自分の思うように生きて欲しいです。自分の考えていることを、何でも話して欲しいです」

 桔華は気がつくと、いつも才人がそうするように、しゃんと背を伸ばして承俊に相対していた。
 胸中に渦巻くものがある。書物の知識でしかない、朝鮮と清国。その国の土を踏みしめ、文化を享受し、政情に追われた人物が今、自分の目の前にいる。記事を追うだけで、その処刑された首謀者たちに家族がいるということに、思いが至らなかった自分の心の目が、見開かれるような思いがする。
 自分の生い立ちを不幸に思ったこともある。腹違いの子と最上の家には冷遇されても、自分には祖母がいたし、古月がいた。そう思えるようになったのは、つい最近のことだ。

「あなたはどうして、医者になりたいの」

 承俊が顔を上げた。まだ少年のようなあどけなさの残る顔だ。

「助けたい人がいる」

 あ、そうだ、と承俊は続けた。

「まだ、名前を聞いていません」

 深く詮索されたくないのだろうか。「最上桔華です」と名乗ると、承俊は漢字の書き取りを知りたがった。

「中国では、男の人のような名前だ」
「そうなのですか?」
「大陸に縁のある人がいるのですか」

 名前をつけてくれた祖母は、台湾で暮らしていたことがある、と桔華は言った。好!と承俊は笑った。

「玉のような美しい女の子は、神さまが深く愛されて、早く召し上げるのだと聞いています。だから男の子のような名前をつけて、神さまに取られないようにするのだと。なるほど、納得しました」

 彼は素でそんなことを言っているのだ。これをいちいち気にしていたら、おそらく心臓がいくつあっても足りやしない。


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2011/01/27(木)
2、わたしの祖国

わたしの祖国(6)

 結局、承俊は医専から帰ってきた才人にこっぴどく嫌味を言われ、

「医者の不養生とはこういうことだ」

 ととどめの一言を刺され、ひどく落ち込んでいる。その様子を見ていた桔華は、「ちょっと言いすぎでは?」と晩飯に一人で降りてきた才人に声を掛けると、

「もともと体も強いほうではない。なのに好奇心と感受性だけは人一倍ときている。このくらい言わねば本人のためにも、その回りのためにもならない」

 と才人が言った。なるほどそのとおりだろう。
 確かに、才人には承俊の父親に、医学を学ばせてもらっているという意識があるのかもしれない。しかしそればかりではなくて、幼い頃から兄のように自分を慕い、そして家族を殺さたときも近くにいて自分を支えてくれた承俊のことを、才人は本当に、大切に思っているに違いない。

 そう思うと、桔華はやはり、この二人のことがとても好きだ、と思うのだ。


 ***** 


 明治三十七年が明けた。

 日本は朝鮮半島の権益を巡り、北の大国ロシアとの交戦の機運を高めている。

 十年前の日清戦争では、下関で陸奥宗光と李鴻章とのあいだで馬関条約が締結された。賠償金二億両を勝ち取ることは出来たが、獲得した澎湖諸島及び遼東半島は、ロシアをはじめとするフランス、ドイツの干渉により、清国に返還することとなった。
 その遼東半島の旅順港に、ロシアが第一太平洋艦隊を常駐させている。日本の遼東半島返還後にロシアは清と約定を交わし、旅順・大連を清国から租借したのだ。
 もし、朝鮮半島がロシアの支配下に落ちれば、続いて日本本土が次のロシアの標的になる可能性がある。日本が朝鮮に強引にてこ入れを始めたのには、そんな理由も考えられる。先の条約では、日本は清国に、朝鮮が独立国であることを認めさせている。井上馨を朝鮮の特命全権公使として送り込み、彼の元で内政改革を行うつもりだったのだが、閔妃を殺害された高宗は、ロシアに後方支援を求めた。そのためロシアは、朝鮮での多くの権益を認められることとなった。
 朝鮮という国は、もともと清国の属国であった。十三世紀に始まる、中国を盟主とした巨大なアジアの冊封体制に内包される朝鮮王国は、十年前の日清戦争で清国が日本に敗れると、その従属関係から独立し、高宗は「大韓帝国」の樹立を宣言、自らも皇帝を名乗った。
 できたばかりの「大韓帝国」では、高宗による官僚制度の近代化が進められている。教育を浸透させ土地を測量して税制改革を行い、鉄道敷設の準備を始めた。近代的な軍隊の整備も始まった。
 
 そこに、北京で義和団が大きな反乱を起こした。

 連合軍の撤退後に、ロシアは満州全土を制圧した。度重なる本国の戦争のためにアジアに戦費をさけないイギリスは、度重なる満州からの撤兵要求に応じないロシアに危機感を募らせ、日本と同盟を結ぶことで、ロシアとの対決姿勢を鮮明にした。ここに「ロシア・朝鮮」と「イギリス・日本」の図式が生まれた。

 日露戦争は、この年の二月に開戦となるのだが、外交ではその直前まで対露戦回避のための折衝が行われている。すなわち日本は、ロシアに、満州における権益を認める代わりとして、ロシアに日本の朝鮮における権益を認めて欲しい、という妥協案を、ロシア本国へ打診した。しかし、大韓帝国における利権を拡大しつつあった当時のロシアは、当然ながらその要求を受け入れることはしなかった。

 小村寿太郎外相が、ロシアのローゼン駐日公使に国交断絶を宣言したのは、この年の二月六日のことである。



 三月。仙台の春は、京都に比べれば待ち遠しいほど彼方に感じる。
 
 桔華は前掛けにたすきがけの姿で、下宿の庭先を箒で掃いている。建物の影に小さく残る雪解けが、陽にあてられてきらきらとその儚い姿を主張していた。
 つぼみの膨らみだした枝垂れ桜の枝に、ツグミが止まり、小首をかしげている。玄関先で、女将と留学生の声がした。医専を卒業する留学生たちがまた一人、生まれた国へ帰国していく。

「よくがんばったね。また日本へ遊びにおいで」

 頭を下げた清国留学生の肩を、女将がぽんぽんと叩いた。始めは日本の文化に苦戦していた異国の若人たちも、四年も暮らしているうちに、友と連れ立って銭湯へ行き、朝食に味のりと納豆を必ず請うようになった。彼らの日本人に対する態度も、アジアの盟主国たる不遜なものから、次第に軟化していった。それは、女将の人柄によるものも大きい。彼女はそういうものには頓着せず、皆を平等に面倒を見た。
 

 日本も中国も朝鮮もおなじあじあ なんぞ討ったり討たれんか  紅玉


 「紅玉」とは、女将の雅号である。いささか、まっすぐすぎる嫌いがあるが、この下宿を後にする留学生の全員に、自分のしたためた短冊を渡した。彼らはそれを受け取って、泣いた。彼らは今、日本人の多くが自分たちをどう思っているのかを知っていた。女将のような日本人がいることは、彼らに涙を流させるほど、強烈な出来事だった。

 明治もこのころになると、日本人のアジア諸国に対する優越意識というものが、国民の間にも浸透しつつあった。



 桔華が才人と承俊の部屋をたずねると、承俊が難しい顔で『河北新報』を眺めていた。
 
 「日朝、共同で半島の防衛方針定む」

 才人はいない。承俊は桔華が襖を開けたことにも、気がついていないらしい。


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2011/01/29(土)
2、わたしの祖国

わたしの祖国(7)

 日韓議定書の締結である。

 日露戦争は、旅順港を巡る戦いであるともいえる。かの地に進軍させるため、帝国海軍は旅順港外のロシア艦隊を攻撃するところから始まった。陸軍は、白河川修大将率いる先発軍が釜山に上陸、半島を横断して、遼東半島を山手から攻略しようと進軍を開始している。

 大韓帝国は、この両国の対立に際し、局外中立を宣言した。

 だが日本は以上の理由により、朝鮮半島を南から北に横断しなければならない。そこで日本は、戦場へ軍事物資を輸送するための、通行権を大韓帝国に認めさせた。同時に、日本が第三国から韓国を保護することを名目に、日露戦争遂行に必要な土地や物資を供出することを規定。明治三十七(1904)年二月二十三日、この約定は、日本の特命全権公使林権助、大韓帝国の外部大臣臨時署理陸軍参将李址鎔によって調印された。

『大日本帝国皇帝陛下の特命全権公使林権助及大韓帝国皇帝陛下の外部大臣臨時署理陸軍参将李址鎔は各相当の委任を受け左の条款を協定せり

第一条 日韓両帝国間に恒久不易の親交を保持し東洋の平和を確立する為め大韓帝国政府は大日本帝国政府を確信し施設の改善に関し其忠告を容るる事

第二条 大日本帝国政府は大韓帝国の皇室を確実なる親誼を以て安全康寧ならしむる事

第三条 大日本帝国政府は大韓帝国の独立及領土保全を確実に保証する事

第四条 第三国の侵害に依り若くは内乱の為め大韓帝国の皇室の安寧或は領土の保全に危険ある場合は大日本帝国政府は速に臨機必要の措置を取るへし而して大韓帝国政府は右大日本帝国の行動を容易ならしむる為め十分便宜を与ふる事
大日本帝国政府は前項の目的を達する為め軍略上必要の地点を臨機収用することを得る事

第五条 両国政府は相互の承認を経すして後来本協約の趣意に違反すへき協約を第三国との間に訂立する事を得さる事

第六条 本協約に関連する未悉(みしつ)の細条は大日本帝国代表者と大韓帝国外部大臣との間に臨機協定する事』

 活版印刷された切れ切れの文字を追いながら、桔華は、「これは、日本にとっても朝鮮にとってもいい話ではないか」と思った。江華島以来不和の続いていた隣国と、「恒久不易の親交を保持し東洋の平和を確立する」とある。しかも第三条で、「大日本帝国政府は大韓帝国の独立と領土を確実に保障する」と謳っている。韓国は日本に比べれば軍の近代化に若干の立ち遅れがあるから、第四条の「軍略上必要の地点を臨機収容することを得る」というのも、日本軍が半島で防衛体制を施行するには必要な条項だ。北からロシアが差し迫っている今まさに、それが必要なのではないか。

『同じ東洋の国である日本なら、分かってくれると思っていたのに』

 承俊が珍しくハングルでそう呟いたので、桔華には彼が何を言っているのか分からなかった。「何?」と問えば、すぐ隣に桔華がいたことに今気がついたらしい承俊は、「なんでもない」といって新聞をくしゃっと奥に追いやった。

「なにかありましたか」

「いいえ、先ほど、劉世さんが女将に帰国の挨拶に来ていましたよ。あなたは行かなくてもいいの?」

 承俊はああ!と声を上げて、机の上の瓶底眼鏡を取り上げると、襖を開けつつ眼鏡を装着しようとした。だが、襖は先に、外から開いた。よろめいた承俊は入っていた才人にぶつかった。

「ああ、お帰りなさい、才人」

 才人は入ってくるなり携えてきた『時事新報』をビリビリと引き裂いた。後ろ手にその紙面を殴り捨て、自らの文机に音を立てて座り込んだ。桔華と承俊は、才人がこんなに感情をはっきりと表現したところを見たことが無く、しばらくあっけに取られていたが、下から先ほどの女将と留学生の声が聞こえ、玄関の開く音がしたので、承俊は我に返ると、「挨拶をしてきます」とその場を後にした。

 才人と承俊は、今年で医専三年目。次年度が最終年となる。

 桔華は先ほどの承俊の読んでいた記事を思い出して、それのことかしらと破れたタブロイド紙面を覗いたが、確認できた限りでは朝鮮の話は見当たらない。ではいったい、才人は何にこんなに怒気を露にしているのだろう。しかしそれを聞くこともためらわれたのでとりあえず、才人が好んで読んでいる『中央公論』の最新刊の話でも振ろうと口を開けかけた。

「出かけてきます、夜までには戻ります」

 相変わらず、その表情は晴れぬまま、桔華の横を通り過ぎていく才人。それを纏う空気が、桔華に彼を呼び止めさせなかった。
 無残に左右に破られた紙面には、仁川沖でロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツの二隻を沈めたという見出しが題字の横にあった。続いて仙台市政と、新聞小説。
 とりあえず片付けようと手に取った紙面の裏、ひときわ目を引く五段抜きの挿絵が目に入った。
 斜め上からの俯瞰図。左手前方に馬上の将軍を先頭に、捧げ筒の日本兵が列を成して入場している。右手後方には、喜色を体いっぱいに現したぼろ服をまとった民衆が、彼らの入城を心より祝福するように歓喜の声を上げている様。

『勇猛なる日本軍の勝利を喜ぶ支那人民』

 理由は分からない。だが、心にざわめくものがある。
 自国の軍隊が他国の民衆に歓迎されているのだ。何を疑問に思うというのだろう。

 恒久不易ノ親交ヲ保持シ東洋ノ平和ヲ確立スル為…… 


 得体の知れない寒気が背に走るのを、桔華は感じている。 
 どうして自分は、何も知らなかったんだろう。なぜ、疑問に思うことも無かったのだろう。どうして――。

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2011/02/03(木)
2、わたしの祖国

わたしの祖国(8)

 四月。新学期が始まり、新たな留学生たちが下宿にやってきた。始業式を経て、あちこちで桜の開花が囁かれ、人々の心もこの諸事始まりの月に臨んで、浮き立っている。

 下宿の庭にも、小さな桜が一本植わっている。その細い枝の蕾が膨らみ始めた頃、桔華に桜花からのたよりが届いた。
 その便りに、北条古月直筆の便箋が同封されていた。

「桔華へ 元気か?

 おれは今ロンドンにいる。この手紙は帰国するおれの知り合いに託して、桜花様からお前に届けてもらうよう言付けた。お前は相変わらず頑固で、桜花様以外の誰にも、今自分がどこに居るのか教えとらんらしいな。お前らしいというか、もう少し、人の手を借りるということを覚えたほうがええんとちゃうか。歌を詠むのもいいけど、女一人で旅しとるお前を心配しとるこっちのこと考えることがあるなら、少しでも連絡をよこせ。

 イギリスというのは欧米の中でも早くに産業革命を成し遂げた国だけあって、街の中に人々の知恵が溢れている。ショー・ウィンドウには痩身のマネキンが見事な絹ごしらえのワンピースを纏い、思い思いのポーズを取っておる。蒸気自動車が黒光りする体を街頭に表したときは、おれもはじめは驚いたものやが、今では街行く人のように、日常の一風景になってしまった。着るものにしても男は仕事に行くなら上下を真っ黒なスーツを仕立て、靴音高らかに颯爽と風を切って歩いておる。どうしてそんなに胸を張って歩かんとならんのか、おれにははじめ分からんかったが、彼らは確固たる「自己」なるものを心に内包し、己の存在が世界に名だたる大英帝国を支えているっちゅう自負がある。今日本でそない振る舞いしようにも、商店街を横切ったところで近所の売文業者なぞに「西洋に被れて、古来の謙虚という美徳を知らぬ」と叩かれるのが末。だけど日本もこういう連中の仲間入りをするなら、見栄えではなくて、国民一人ひとりの「確固たる自負」を己が内に自覚せねばならぬ。

 欧米における日本の人気っちゅうもうんは、外聞するより酷いもんや。好き嫌いというより、日本ちゅう国を知らんといった方がええかもしれん。
 分からなくも無い。やつらにとっちゃ、地球の反対側の小さな島国のことや。十年前に眠れる獅子を倒したことも、北京での東洋の憲兵としての働きも、象の足元のうごめく蟻のようにしか見られておらへん。驚くほどに無関心や。わいが日本人と知ると、連中は「あの雪香という女は、どうやってモルガンの懐に取り入った?」と真顔で聞いてきよる。おれとの商談よりも、アメリカ人のモルガンという 男に四万円も出させた日本の女というものがどういうものか、そっちのほうに興味があるようやわ。
 けど、日本の輸出品は、欧州でも確かに大きな存在になってきとる。特に綿製品の安さと品質の高さ、「MADE IN JAPAN」が一つの大きなステータスになりつつある。今は関税の障壁もあるから本国の製品とタイを張っていられるが、今後日本の国際的地位が上昇して、自由貿易を提唱するようになれば、国内産業に影響が出るのは間違い無い。せやから、少なからず日本の動きに注目している動きはある。昨年の同盟にも、協定という形で日本に一定の恩を売り、将来に布石を打ったのだろうということは明白やな。

 内地から旅順までの軍事物資の海上輸送のすべては会社に任せて、おれは単身でこちらに渡ってきたが、耕三郎に紹介してもらった久坂廣枝というのは、帝国陸軍将校らしからず口上の回る男で、よく笑い、よく怒り、そしてよく面倒を見てくれる。この男は、耕三郎と士官・陸大と同期だとかで、曰く「おもしろい男だ」ということだが果たしてその通りだと思う。普段は士官然として軍服に身を包み、主に英国士官との交流を主な任務としているということだが、自分の体の自由が利く限り、同じ日本人である自分の、販路拡大にその人脈を介して力を貸してくれる。

 先日、その久坂を通じて、シフという男と知り合った。この男はフランクフルト生まれ。十八のときに渡米して、アメリカで銀行家として一財産を築いた後は、ロシアでユダヤ人コミュニティのためにユニオン・カレッジを創設したり、多額な慈善活動をしているということや。久坂が言うには、この男はロシア国内でもシオニストや革命分子に資金を流用しているとか。ユダヤ人を蔑視する社会にいい感情を抱いていないだろうことは、久坂の分析を待つまでも無く、事実やと思う。
 久坂は、この男を日銀副総裁の高橋に会わせると言っておる。この副総裁さんは、ロシアとの戦争のための外積が上手く集まらんと苦労しているようやったから、もしかしたらいいふうに転ぶかもしれへんと思っとる。わいも出来ることをしようと思う。」


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2011/02/06(日)
2、わたしの祖国

わたしの祖国(9)

 ここまで読み進めて、桔華は思わず噴出してしまう。
 どういう心境の変化か、手紙では「おれ」と語っているのに、ここだけ一人称が「わい」となっている。
 商売人といえど、決して饒舌ではないこの従兄弟が、必死になって机に向かうさまが目に見えるようだ。京都を出て三年。あのような別れ方をしてしまったにも関わらず、こうして臆面無く頼りを送ってくるところからして、なんとも彼らしい。
 それに比べ、自分は相変わらず後ろを向いたままなのかもしれない。彼にはもう妻子がいて、そして国のために果たすべき役割がある。
 自分はいつまでも過去に固執して、綺麗な思い出ばかりをいとおしむ様なことばかりしている気がする。古月のこの手紙に、あのとき聞けなかった一言が記されていることを、心のどこかで期待していたに違いなかった。


「そうや、篠が二人目を身篭った。七月に生まれる予定や。
 ゆゑからだいぶ年が空いてしもたな。今度は男の子や。間違いあらへん。
 きっとおれはこのまま帰れないだろうから、桔華、お前、篠のそばにいてやってくれへんか。
 篠もお前やったら安心して世話になれると言うとったからな。

 では、達者で。古月」


 七月か。古月とその妻、篠は今東京に居を構えている。篠に会うのも三年ぶりだ。長女、ゆゑの顔も久しく見ていないから、足を伸ばしてみようか。

「お手紙ですか?」

 玄関でぼんやりと手紙を読んでいた桔華の後ろから、承俊が声を掛けた。後ろめたいことがあるわけではないが、くしゃりとその手紙を隠して、桔華も後ろを振り返った。
 承俊が酒らしき一升瓶をかかえて、きょとんと桔華を見つめていた。才人がその後ろから重箱をかかえて現れた。

「お花見をしましょう、さあ、最上さんも手伝って!」

 才人の持つ重箱の二倍はありそうなお重をかかえて、女将が桔華の横を通り抜けていった。


 *****


 青葉城に桜の名所があるので下宿生を引き連れていこう、と言ったのは女将だったのだが、才人がそれに難色を示した。実は先日、他の清国留学生と日本人の花見客が、下宿近くで酔った挙句の乱闘騒ぎを起こしていたからだ。

「団体となると、人目に付きやすい。いらぬ騒ぎを起こしたくない」
「そうやって縮こまってちゃあ、学校にだって通えやしないよ。気にすることは無い」

 と、いう女将に才人は尚も食い下がった。話を聞いていると、どうやらそういう場に承俊を連れて行きたくない、というのが本音らしい。なるほど、承俊の好奇心をもってすれば、いつどこで酔った花見客の絡みの種にされるか分からない。

 そういうわけで、花見の会場は下宿の敷地内となった。

 東側が、宿兼下宿の建物、西側が女将の家族の住む建物となっていて、ほとんど住み込みで働いている桔華も、女将の居住する棟へはほとんど足を踏み入れたことが無い。細い廊下を渡っていくと日の光の入らない座敷が三つ並んでいて、女将は立て付けの悪い雨戸をがたがたと開けた。入ってきた日の光に、埃が無数に舞っていた。
 女将と才人が二人掛りで廊下の雨戸を全開にすると、板塀の小さな中庭に梅の木が三本植えてあって、枝にぼんぼりのような花を揺らしていた。女将が手の埃をほろいながら自慢げに鼻を鳴らした。

「どうだい。立派な花見だろう?」

 承俊が声を上げて、庭に駆け下りた。「女将さん、これがワビ、サビですね!」と声を上げ、女将は「そうさ!これが日本の春さ」とやはり誇らしげ。桔華が首を捻っていると、隣で才人が「違うと思う」とぼそりと呟いた。廊下を拭き、庭に敷物を広げ、お重を並べて花見の用意をしていると、どこからか話を聞いたらしい下宿の留学生たちがぽつぽつと集まり始めた。彼らもまた、この小さな庭の梅の花におのおのの心を揺らしているらしい。

 女将の乾杯で、宴会が始まった。

 会場には十三、四人もいるだろうか。笑っているもの、黙々と酒を飲むもの(主に才人のことだが)、肩を組んで中国語で歌いだすもの、手拍子を打って踊りだすもの。承俊は踊っている連中のなかで一際ぶきっちょに手足を振って見せ、やがてひっくり返って聴衆を沸かせた。ずり落ちた眼鏡を直しつつ、体を起こしながら苦笑している。

 ゆるゆると酒を飲んでいた才人が、女将と桔華に酒を注ぎに来た。
 すでに手酌で出来上がっている女将が、上機嫌で受けた。先ほどまで飲んでいなかった桔華も、才人にお猪口を手渡され、なみなみとそれを受けた。


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2011/02/07(月)
2、わたしの祖国

わたしの祖国(10)

「日本での生活も残り一年ですね」

 桔華は胸の奥にある一抹の惜寂に気がつく。それは承俊、才人、そして目の前にいる下宿生すべてに平等に向けられたものであると思う。
 彼らは、「医学を学ぶ」という明確な目標を持って、異国の地へやってきた。ここにいる志を同じくする仲間とともに競い合い、語り合い、笑いあう姿は、桔華にはとても眩しく見える。自らが決めたこととは言えど、桔華は女一人で道中を旅している。師、桜花と手紙のやり取りがあるにせよ、道行くときはやはり、語りかけるべき隣人は無いのだ。
 だからこそ、行く先々での出会いが、度重なるごとに重みを増してくる。たった一言、言葉を交わすことの、情の通い合うことの尊さよ。出会いがあり、そして別れを迎えるたびに胸の裂ける思いをしたこともあった。しかしそれがまた新たな出会いにつながり、また新たな情を通わせることになる。

 才人は桔華の隣に腰掛け、ゆったりと杯を呷っている。女将は承俊たちに歓声をあげると、勢いその輪に加わり、一緒になって肩を組み、歌い始めた。桔華は小さな梅の花がはらりと風に舞うのを眺めながら、今のこの新緑に泉の湧く様な穏やかなこの風景に心安らかなひとときを感じていた。

「ねえ才人、承俊の言ってる、『助けたい人』って、誰のこと?」

 才人は杯を口に運ぶ手を止めて、虚空を見た。おや、と桔華は思った。

「あれが、そんなことを言ったのか」
「聞いてはいけなかったかしら」
「いや」

 そう言って才人はぐっと杯を飲み干した。桔華が銚子を差し出すと、才人がそれを受けた。

「俺の妹だ」

 そう言う才人の表情は冴えない。注がれた杯を口に運ばず、才人は腿の上に据え置いた。

「二十歳まで生きれないだろうと医者に言われている」
「いまお幾つなの」

 聞いてしまってから、桔華はしまったと思った。その年齢を聞いたところで、自分に出来ることは何も無い。むしろ、才人に心理的負担を強いるだけだ。

「今年、二十歳になる」

 想定された返答だった。泡立った感情をどうしようも出来ないまま、桔華は思わず身を引いてしまった。

「昔、承俊が川で溺れた事があって」

 大人も近づかない流れの速い川だった。ようよう川から引き上げられたが、承俊は容易に目を覚まさなかった。

「丸一日眠り続けて、ようやく目を覚まして、まず初めに妹の名を呼んだ」

『承俊、私はここにいるよ、しっかりして』
『花を』

「承俊は自分が気を失いながらも、手に握ったその花を決して離さなかった。その花は、花好きの妹がずっと見たいといっていた貴重な花だったらしい。承俊はその花を摘もうとして川に落ちた」

 小さなその手が、必死に掴んだ小さな花。大切な何かのために懸命に振舞おうとするその姿は、年を重ねても曇ることが無い。彼は今もなお、才人の妹のことを大切に思っているのだろう。
 
「何の話?」

 渦中の人物が、桔華の隣に位置取った。「何をしている承俊!まだ勝負は付いていないぞ!」と叫ばれ、「これを食べたらいくよ!」と返す。みたらしの櫛団子を一つ、口に運ぶと、才人が「お前が川でおぼれた話をしていたんだ」と言った。
 承俊はほおばったまま大げさに驚いて見せて、一生懸命それを飲み込むと、取り繕うように桔華に向き直った。

「違うんだ、あのね、今は泳げるようになったんだ」

 承俊が言うには、その当時はまだ水に顔をつけることも出来ないほど幼く、身長も大きくなかったから底に足が着かなかったんだ、というようなことを言っていた。しかし話を聞いていると先ほどの才人の話よりも随分幼い頃の話をしているようだ。才人はそれに特に修正を加えることも無く、気がついた桔華も特に口を出すことなく、承俊の必死の抗弁を笑いをこらえつつ頷いている。
 
「桔華さん、何笑っているんですか」

 とうとう承俊がむつくれてしまった。桔華は堪え切れない笑みをこぼしつつ、「ごめんなさい」と言った。才人は相変わらず、静かに酒を煽っている。

「日本語、ずいぶん上手くなりましたね」
「話逸らしましたよね」
「いえ、これは本当」

 訝しい視線を送ってくる承俊。その彼の目と桔華の目が合う。どうしてだろう。友とその妹を大切にしようとするこの愚直な男のことを思うと、胸の奥がふわりと軽くなる。この柔らかな春の陽光の中に、幼き日の承俊と才人、そしてその妹の三人の戯れる姿を見たような気がした。 しかしその木漏れ日の影に、逆らうことの出来ない確かな「別れ」が迫っている。目の前にいるこの純粋な男が、一つの命を背負い、海を越えてこの国へ医学を学びにきたのだということを、桔華は今一度思い返してみる。


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2011/02/17(木)
2、わたしの祖国

わたしの祖国(11)

――天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも


「仲麻呂?」
「はい、日本の和歌を勉強しました。桔華さんは、和歌を詠まれるそうで」

 まだ修行中の身です、と桔華が謙遜すると、承俊は身を乗り出してきた。

「阿倍仲麻呂は、中国でもとても有名で」

 すると承俊は、記憶を一つずつ手繰るように、仲麻呂の長安までの道のりや、唐の有名な詩人たちとの交流、玄宗皇帝のこと、長安では晁衡を名乗ったこと、そして安禄山の乱に際しては日本への帰国を認められなかった彼の生涯を語った。

「彼も祖国を思ったのかなあ」
「生まれた土地を思わぬものはいない」

 才人が感想を述べた。もう三年も祖国を離れているのだ。同じ年月を実家から離れて暮らしている桔華だが、海を越えて文化も言葉も違う国に来ている彼らと、望郷の思いを等しく考えることは出来ない、と思った。まして、仲麻呂の時代であれば尚更で、今よりも航海術も交通機関も発達していないかの時代、日本と長安はそれこそ天と地ほども遠い場所であったに違いない。
 
 祖国、か。

 日本から出たことのない桔華には、「祖国」という言葉は、帰るべき場所という意味の「故郷」以外の意味を持ち得ない。自分が思っている以上の言葉の重みに、承俊や才人と自分の決定的な距離を感じている。今自分の目の前で仲麻呂を省みた承俊、先ほどから酒をたしなんでいる才人、そして眼前のすべての留学生に、日本ではない彼らの「祖国」での顔と、そこで営んでいた暮らしがある。
 ふと、先日の新聞記事を思い出す。日本は今、ロシアと交戦している。戦場の舞台は、他でもない、彼らの祖国の土地である。彼らは自分たち日本人を、その日本に留学している自分たちを、桔華が考える以上に複雑に思っているのかもしれない。

「桔華さん」

 名前を呼ばれて、桔華は夢想から引き戻された。「何」と聞けば、「仲麻呂と同時代の唐の詩人に、王維というひとがいます」と承俊。

 君自故來、
 應知故事。
 來日綺窗前、
 寒梅著花未。

(ジュンチーグゥシアンライ)
 
 「君は私の故郷から来たのだから、故郷の今を知っているはずだね」。
 承俊がゆるりと語りだす。聞きなれた和音の音ではなく、漢詩の穏やかな抑揚が桔華の耳にも心地よい。

(インチーグゥシャンシィ)
(ライリィチィチュアンチアン)

 転部で声のトーンが上がり、空気の振動を伝わって聞くものの心をざわざわと揺さぶった。「私の家の窓辺の梅」を、どう結ぶのだろう。

(ハンメイ、チュオ、ホア、ウェイ)

 包み込むように「ウェイ」を発音して、揺さぶった心に安堵をもたらす。「私の家の窓辺の梅は、もう咲いていただろうか」。ああそうか、彼は美しい故郷を思い出すのに、庭先の梅で十分だったんだ。

「きっとね、作者には故郷に恋人がいて」

 ふと、そんなことを承俊が語りだした。才人はまた、ゆるりと杯を口元に運んだ。承俊は体を揺らしながら、ふわふわと言葉をつなげた。

「梅を見るたびに、彼女のことを思い出して、くじけそうになる自分を励ましていたんだ。旅先にも美しい梅の名所などあるけれど、その梅の咲き誇るところを眺めては、故郷にいる彼女の美しい姿を思い出し、でも心のどこかで会えない寂しさを募らせている」

 愁眉。承俊には似合わないその陰りに、桔華は胸中のざわめきを覚えている。

『あなたにも、梅を眺めて思い出す人がいるの?』
 
 ここまで出かかっている言葉を、桔華はついに飲み込んだ。代わりに「大陸の梅の花も、綺麗なのでしょうね」と言った。

「わたしは、日本に来て、本当によかったと思っています。この国はとても大きい。そりゃあ、国土の大きさは中国に及ぶべくもないけれど、そういう物質的なものではなくて、もっと、心の寛容さみたいなものを感じます。自分と違う何かを拒絶するのではなくて、それを価値観として受け入れる。それが自分の世界を広げることにもつながる。中国も韓国も日本にそれを学んで、きっと追いつく。だからその為に、私たちはもっともっと日本に学ばなければならないんだ」

 隣で、才人の口元が緩んだのが分かった。自分の名前を呼ばれたと、へべれけの女将がこちらに大声を一つよこしたが、「美人だと言ったのです!」と承俊が返してやると、まわりからどっ、と歓声が沸いた。承俊もそれを見て笑った。桔華はその横顔を眩しく見つめている。

「春陽を連れてきてあげたいな」

 ふと漏らした承俊の一言が、桔華の心に小さなしこりを残す。
 承俊、チュニャンって、才人の妹さんなのよね。その子のこと、大切に思っているのよね。川で溺れてまで、喜ばせてあげたかった大切な人。あなたはあと一年もしたら、祖国に帰ってしまう。そうしたらもう、私のことなんて忘れてしまうのかしら。

「ねえ承俊」

 なんでしょう、と応えてくる承俊の無邪気な瞳。ぎゅっと心がつまり、苦しい。この瞳を日本という国が曇らせているような気がしてならない。世界の趨勢に遅れまいとする、国家の意思。自分ではどうしようもない巨大な何かが、自分と彼の間に立ちはだかっているような気がする。そんな不安を、あの日以来、胸に抱いていた。
 
「あなたの祖国は、どこ?」

 承俊は一度、驚いたような顔をして、桔華の顔を見つめた。その後、ゆっくりと表情を緩め、不安を募らせる桔華の胸中を察するかのようにやわらかく微笑み、そして応えた。

「そんなの」

 ふわりと花を舞い散らすつむじ風が立った。髪が靡き、桔華は顔の横のほつれ髪を軽く抑えた。

「いうまでもありません」



 柔らかな春の風が吹いている。
 彼の祖国の名前を、桔華はまだ、知らない。

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2011/02/24(木)
2、わたしの祖国

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