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『兄弟』(1)

 輝也は相変わらず暗がりの中にいる。


 見知らぬ土地は盲目の彼にとって、得体の知らぬ空間以外の何者でもない。そもそも物心付いた頃から湖南楼から出たことのない輝也にとって、かの店子以外に見知る土地など有りはしないのだが。


 ***


 船というものには難儀した。あのゆったりと振り子のように揺れる感覚。まるで内臓のひとつひとつがフラスコの中でかき回されるような気分だった。「外に出てみようか」と誘い出してくれた日本の陸軍元帥は、御年60を超えているというのに少年のような張りのある声をしていた。手を引かれてタラップを上ると、一面が真っ白になった。途端に磯臭さが鼻を突いて、輝也はちょっと顔を顰めた。しかし外の空気は、恐ろしいほどに冴え渡っていて、一つ一つが針のようだと輝也は思った。白河川に手を引かれたまま、デッキの手すりを握らされる。「やはり海はいい。私も海軍創設に携わりたかったのだが、生憎人手が足りていたんだよ」白河川の声が頭上で響いた。時折水滴が輝也の顔や手に触れた。海とは母なのだ、とある海軍士官が言っていた。母とは水を飛ばすものなのか、と輝也は思った。

 『外』はいいものだな。暗くないし、なんだか気分がいい。

 しかしこの匂いは堪らぬ。そうして輝也は胃の中のモノを吐き出し、白河川に背中をさすられた。その顔は朗らかに笑っていた。

 夜明け前、上海港で黒澤修吾と別れた。白河川修と、その秘書、山城眞子に手を引かれ、乗船するというときになって、黒澤は白河川に何か言っていたようだった。結局、輝也は黒澤とは一言も言葉を交わさなかった。

 殺したいほど憎んでいた父、黒澤修吾。
 その男が目の前に現れたら、刺し違えてでも殺してやる。そう心に決めていたのに、いざ彼を目の前にして、自分でも理解できない感情が輝也を取り巻いた。

 その男の纏う柔らかな空気。
 「らく」が愛したという、男。

 輝也が連夜相手にしている将校らとはまた一線を画す、その薄ぼんやりとした線をもつ男に、輝也の思いがたじろいだ。自分のその感情が理解できずに、思わず部屋を飛び出したら、階段を踏み外してしまった。 

『日本は、いいとこだぞ』

 翔はそう言っていた。本当は眠ってなどいなかった。翔との別れ際に、何と言葉を交わせばよいのか分からなかった。

 翔、もう一度会えるか。
 家族とは何だ。お前は家族を殺されて、どうして文秀たちを許せるんだ。
 話したいことが、あるんだ。


 ***


 丸一日かけて、上海から釜山を経由し、広島の宇品港に着いたが一昨日の朝。そこから鉄道を利用して大阪で一泊し、昨日の夜に東京・蒲田にある白河川に私邸に着いた。自動車をおり、運転手の男が荷物を、山城眞子が輝也の手を引いた。階段を上ったのでおそらく二階。部屋に通され、寝巻きに着替えさせられた。「ここを貴方の部屋とします。今日はもうお休みなさい」そう言って彼女は部屋に薄明かりをともして、ドアの向こうへ消えた。湖南楼の夜を思わせる明かりだった。

 次の日、目覚めたものの、する事が無いということに気がついた。いつもであれば朝は遅い楽弥に代わって、厨房に指示を出し、田口に今夜の予約客について確認させる。あれこれと指示を飛ばすうちに風呂に入り、身支度をせねばならぬ時間となり、夜を迎えるのだが、生憎、来たばかりの日本では、出歩こうにも場所を見知らぬために動けない。また、気軽に呼べる使用人もいない。そのうちに眞子が朝食を持ってきた。そういえば、腹が減っていた。

「屋敷の中は自由に出歩いてもいいのか。する事がなくて気が狂いそうだ」

 白いご飯を輝也の口に運びながら、眞子が応える。

「ではまず、身の回りのことを自分でこなせるようになりましょう。着替え、食事、あとはその言葉遣いを何とかしなければなりませんね。少なくとも白河川閣下には敬意を払いなさい。本人はそれを嫌がるかもしれませんが、周りに示しがつきませんから」

 湖南楼では、輝也の身の回りのほぼすべてのことを田口がこなしてくれていた。彼がいないと何も出来ないのだと輝也は今頃になって気がついた。


 ***


 気がかりなのは楽弥のことだ。

 楽弥は特定以外の相手をしない。輝也がその分を一手に引き受けており、湖南楼における有効な外交手段であったはずだ。店の差配云々に関しては田口が要領得ているが、客の相手となると、店の女たちで事足りるかどうか。
 楽弥が北京から連れ戻されて以後、そこで何があったのかを彼女は決して語らず、黒澤修吾に再会してからも、楽弥が取り乱すことは一切なかった。袁世凱の懐刀である宋経国と帝国陸軍元帥白河川修がなんらかの接触を持ったことは耳にしていたが、楽弥は珍しくそれを輝也に任せなかった。よほど調子がいいらしい。問題なのは彼女がその心身のバランスを保てなくなったときだ。

 彼女はそういうときにだけ、輝也に母としての弱さを見せた。

「愛しい輝也。私が愛しているのは貴方だけなのよ」

 『楽弥』が愛しているのは舎人耕三郎だけだ。そんなことは輝也が一番よく知っている。楽弥はその細い体と腕で輝也の背中を抱いて、何度も何度も「愛しているわ」と言った。縋るものが欲しいだけの一時的な行為であると分かっていても、輝也はその時間をいつも心待ちにしていたような気がする。たとえばそれが都合のいい偽りだったとしても、家族というものを知ったような気になれるからだ。

 そんな彼女を理解し、気にかけてくれる誰かがいるとしたら、楽弥の前の主人であるチウと、その息子、文秀あたりか。

「文秀のことだ、いざとなれば、きっと楽弥を助けてくれる」

 輝也はそう呟いて、この場は納得することにした。

 
  ***


 あてがわれたベッドに座り、壁に背を預けている。
 長い黒髪は結われておらず、肩にから胸にかけて落ちている。自分で結えないので、今日一日はこのまま過ごしてしまった。
 輝也は盲目の暗闇の中でも、昼夜の区別がつく。大陸に残してきたものをたらたらと思い浮かべているうちに、日が暮れてしまったようだ。

 あてどない思考はやがて靄のように霧散し、うまく纏まらない。
 疲れたらしい。考えたところで、今の自分ではどうしようもない。


 ふと、ドアの開く音がした。
 きいい、と木の軋む音がして、そこに何か「いる」気配がある。
 眞子ではない。即物的な、いや、もっと動物に近い、何か。


「谁阿(誰だ)」


 その気配は応えない。邪気のない大きな二つの瞳が、輝也に尋常ならぬ興味を示している。


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2010/11/05(金)
1、孝子、決別

『兄弟』(2)

  
 

 こども……?
 いや、俺と同じくらいか。
 敵意は感じない。とりあえず危険はなさそうだ。
 その好奇心の塊は相変わらず輝也に釘付けで、部屋に入りたそうにうずうずとしている。

「可以进入(入っていいぞ)」

 その小動物のような気配の感情が、弾けたように上向くのが分かった。板張りの床の上をととと、と渡り、ベッドの縁に腕と顔を乗せて、その上にいる輝也を見上げた。
 
 随分容赦なく覗いてくるものだな。

 しかも恐ろしいほどに邪気がない。こんな人間が存在していることに輝也は若干の動揺を覚えている。

「おとこの、こ?おんなの、こ?」

 たどたどしい言葉遣いではあったが、声は少年のものだった。少年は恐ろしく穢れのない目を相変わらず輝也に向けていて、目の前にいるものが何なのか、彼なりに解釈しようとしているようだった。

 輝也は少年を見下ろした。少年はその光の無い瞳の眼差しを受けて、ころりと首を傾げた。その邪気が翳る事は無い。
 その少年の腕を掴み、輝也は彼をベッドに引っ張りあげる。少年はたいした抵抗も無く、輝也に組み伏せられた。

「看上去象哪一个(どっちに見える)」

 いつも彼がそうするように、挑発的に少年を見下ろした。結っていない長い髪が少年の胸元に落ちる。輝也は少年の襟元に手を掛けるが、少年の目はその瞳に困惑の色は無い。これから自分が何をされるのか、理解していないのか。
 少年は輝也に手を伸ばした。珍しく化粧化の無い顔に少年の手が触れ、目のくぼみや鼻の高さと、唇をなぞる。驚いたのはむしろ輝也だった。目の見えない自分がそうするように、彼はモノに触れることで事実を確かめているのか。

「おとこの、こ。たくま、と、おんな、じ」

 年はそんなに変わらないはず。日本語の使用に関して輝也もはっきり言って自信は無いが、ここまで不安定ではない。

「是不是日本人?(お前は日本人か?)」

「な、に」

「お前は何者だ」

 少年はまたその無防備な瞳を容赦無く輝也に向けてくる。輝也の言葉を彼なりに解釈しているのか。輝也にとっても、ここまで何を考えているのか読めない人間は初めてだった。

「なまえ……」

 少年は名前を思い出しているようだった。

「かつらぎ、たくま」

 「たくま」はそう言って、また輝也を見上げた。俺に何を求めているのか。

「なまえ?」

 俺の名前を聞いているのか?

「しぇい、あ?」

 さっき輝也が少年に言った言葉を、発音と共に意味も理解しているようだった。驚くべき吸収力だ。

「しーぷ、しー、りい、べん、らん」

 いや、意味までは分かっていないのかもしれないな。

「吉岡 輝也だ」

 輝也の言語を聞き取り、咀嚼し、吟味しているようだった。ぐるりと思考を巡らせた後に、「たくま」は弾けたように「こーや!」と言った。

「あの、ね、『かつらぎ』は、しらがわさん、の、『せんせい』から、もらったんだよ」

 そして少年は『かつらぎ』という苗字は白河川につけてもらったのだと言った。どうやらこの少年は、白河川の縁者ではないらしい。では何者なのか。
 少年がばたばたともがき始めた。とくに引き止める理由もないので輝也は少年を自由にしてやる。するとドアの開く気配がして、少年がそちらに駆け出した。この気配。この家の主、陸軍元帥、白河川修か。

「やあ拓真君、ここにいたのかい」

 しらがわさん、と拓真は声を上げて、白河川の元に駆け寄った。白河川に頭をぐしゃぐしゃにされて、拓真は肩をすくめて「ふうっ」と言った。嬉しそうだ。喋らなければまるで室内で飼われている犬のようだと輝也は思った。

「あのね、こーや、おんなじ、おとこの、こ」

「そうだね。よく分かったね。君のお兄さんになる人だ。挨拶をしなさい」

「おにいさん?」

「家族のことだ」

「かぞく?」

 拓真はその言葉に感情を上ずらせる。彼にとって「かぞく」は嬉しい感情に部類される言葉らしい。
 拓真は輝也に向きかえり、気をつけをしてお辞儀をした。輝也は雰囲気で理解した。

「さあ、晩御飯の時間だ。下階の桜の間に行きなさい。眞子さんが待っているから」

 はい、と返事をして拓真はぱたぱたとドアの向こうに去っていった。きちんとドアを閉めていった。
 それを確認して、白河川が苦笑した。輝也が白河川に声を掛ける。

「何ですか、あれは」

 眞子に、白河川には敬意を払えを言われたので、多少言葉遣いには気をつける。白河川は輝也のベッドに腰を下ろした。

「桂木拓真君。君には、あれにいろんなことを教えてやって欲しい」

「俺は湖南楼や閨中でのことしか知りません。教えることなど無い」

「そんなことは無い。君にしか教えられないことがたくさんある」

 さあて、どこから話すべきかな。白河川はそう言って、拓真の身の上を語りだした。


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2010/11/06(土)
1、孝子、決別

『兄弟』(3)

 ***


 燃え盛る舎人家に、白河川の命を受けて姉弟の救出に向かったのは、秘書の山城眞子だった。
 真夜中ではあったが、彼女が裏手から屋内へ入ると炎のおかげで視界が開けた。

――血の匂いがする。『夜明け前』の京都を思い出すな。

 崩れ落ちる木材を見極めて身を翻し、眞子は鼻と口を腕で覆い、草履を脱ぎ捨て、炎の奥へと歩みを進めた。

 木材の燃える音に混じって、銃弾の音が低く、眞子の耳にも届いていた。白河川の推測は的を得ていたと考えていいらしい。
『舎人耕三郎』に軍拡派が牽制を掛けるのであれば、おそらくその家族を狙うのが最も効果的である、と。

 首謀者は陸軍中佐久坂廣枝か。
 それとも、仙楽弥の独断か。

 「北条」グループ社長、北条古月の線は薄いだろう。舎人耕三郎とは、日露以来の知己であるし、何より舎人の援助で陸軍との繫がりを保っている。久坂に抱きこまれたという話が伝わってきているが、少なくとも、このような形で親友を裏切るような軽薄な男ではない。

 ならば海軍大佐藤原一美はどうだ。

 陸軍の久坂と結んで、軍内の空気を軍備拡張路線に扇動しつつあるかの男もまた、舎人の知己であった。その息子一春は、北条古月の娘と婚約した。これは北条社長が久坂側に回った確たる証拠ともなりうる事実。しかし、先ほど外で見かけた藤原大佐の息子、一春の反応が気になる。士官候補生ともなれば、軍内の思想的対立もその相関関係も把握しているはずであるが、当の父親は、それについては息子に直接指示を出していないと考えたほうが自然か。彼はあくまで、「北条」との繫がりを保つための人材ということか。

 少年の声が聞こえる。
 弟の名前は確か、舎人拓真。

 眞子は歩みを急いだ。煙が強くなり、姿勢を屈めた。
 拓真の声がはっきりと聞き取れるようになった。

「姉上、姉上!」

 悲壮な声が何度も響いた。遅かったのか?眞子は倒れ落ちた廃材に身を隠し、着物の胸内側から短銃を取り出し、手早く安全装置を解除した。顔だけで現場を確認する。手前には、手負いの姉の体を抱く拓真。その後方に、炎が体に乗り移りつつ、拓真に銃口を向けようとする一つの影。

 あれは確か、「北条」の会計方…?

 確かめると同時に、眞子は視線と腕の直線に檜山を捉え、短銃を構えた。そして2発迷い無く撃ち込んだ。間一髪、眞子の銃撃を見切った檜山が、体を逸らしながら眞子に返し撃ち、身を翻した。残発が無いらしい。眞子は廃材から身を起こしてさらに2発追い討ちし、檜山がいなくなったのを確認して、拓真の元へと駆け寄った。彼の抱く姉、孝子は、背中から右腹部に掛けて銃弾が貫通しており、あたりはその血液で真っ赤に染まっている。すでに体温の低下が激しく、意識も無い状態だった。

 だが、微かに脈がある。間に合うかもしれない。

 眞子は自分の着物を1枚脱ぎ、裾を半分切り裂いて、孝子の腹の銃創を覆うようにきつく結んだ。炎が燃え移りつつあった体に、余った着物をぐるぐると巻きつける。

「拓真君、貴方は歩けますね」

 ところどころにかすり傷は見られたものの、姉ほどの重症は無いと眞子は判断した。孝子を背負いながら拓真に声を掛けたが、ショック状態の拓真はガタガタと震えるばかりで、眞子の言葉に反応しない。眞子は背に孝子を背負い、拓真の手を取った。炎に巻かれているが、この程度なら戊辰の時の上野の比ではない。眞子はそのまま、拓真の手を引いてもと来た道を走った。外に出たところで、勝手口が炎に巻かれ、がらがらと崩れ落ちた。

 
 ***

 
 白河川の話は続いている。

「裏に回した車で、私たちはそのまま知人の医師も元へと急いだ。特に姉の孝子さんは一刻を争う状態。車内にも血液が流れ出すほどの重症だった。明け方、彼女の応急処置を終えたんだが、もしかしたら、また彼女と拓真君は命を狙われるかもしれない。その可能性を考慮して、東京にいる私の知人の勝呂医師に連絡し、京都まで来てもらった。かれに同行してもらって、彼女と拓真君を東京の、勝呂の病院まで連れてきた」

「その姉はどうなったんです」

「背中と右脇腹の銃創を縫い、さらに右半身肩から腹部に掛けての重度の火傷。その場は一命は取り留めたものの、意識不明のまま予断を許さない状態が続いた。弟の拓真君は、ずっと姉のそばにいた。孝子さんを寝かせているベッドの横の椅子に座って、食事もとらず、寝ることもせず、彼の体を心配した私たちが話しかけても、応えることも無かった。ただぼんやり、包帯を体中に巻かれた孝子さんの顔を見ていたよ。そして3日目の朝、孝子さんのベッドにもたれるようにして、ようやく拓真君は眠りに落ちた」

 
 ***


「気がついたかい」

 白河川が拓真に声を掛けると、拓真はゆっくりと二回、瞬きをした。白河川が身を引くと、父親の耕三郎が拓真の顔を覗き込み、「よかった……」と呟いた。拓真の反応は鈍いままだが、耕三郎は拓真の体を抱いた。

「よかった、本当に、よかった……」

 そう言ったきり、耕三郎の声は続かない。気取られないようにはしているが、何度も嗚咽を繰り返しているようだった。

「あれから二日も眠ったままだったんだよ」

 白河川が拓真に言う。拓真は反応しない。

「辛い思いをさせた。孝子も無事だよ、お腹が空いただろう、今何か持ってくるから」

『孝子』という言葉に、拓真ばびくりとするどい反応を示した。次第に呼吸が荒くなり、がたがたと震えだす。

「ああああああ!!!」

 途端に暴れだす拓真。白河川は思わず立ち上がり、耕三郎はとりあえず拓真を抱きかかえた。耕三郎の胸の中でなお、拓真はもがき、苦しんでいる。
 耕三郎は拓真の背中を抱き、とんとんと叩いてやる。父親の心臓の音を聞いて落ち着いたのか、拓真は静かになった。どうやらまた眠ったようだった。枕に頭を乗せ、また拓真を寝かしつけてやる。拓真の瞳には、うっすら涙が浮かんでいた。


 ***


「次に拓真君が目を覚ましたときには、あの状態だった。自分が誰かも分からない。父親の顔も、何があったかも覚えていない。まるで身の上に起きたことをすべて忘れようとするかのように、それを表す言葉ごと、捨て去ってしまったようだ」

 そう言って、白河川は一旦言葉を区切った。

「拓真君は今、言葉を覚える前の童子のような状態だ。身の回りにあるものすべてが見知らぬもの。これからあと二年以内に、彼を年相応の人間に育てる」

「そのあとはどうするつもりです」

「拓真君は陸軍の中央幼年学校に入学させる。輝也君、君にも、あと二年で日本の中学校卒業程度の知識を詰め込んでもらうよ」

「俺も日本軍の将校になるのですか」

「そのつもりでいて欲しい。君がなぜ日本に来たのか、理解しているね」

 いざというときには対中工作を行えということか。その逆もまた、あり得るのだろうが。


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2010/11/07(日)
1、孝子、決別

『兄弟』(4)

 輝也は、この白河川修という人間について、思う。
 
 帝国陸軍創設の功労者でありながら、陸軍の軍備拡張に関しては反対だという。
 明治という国家を作り上げながら、大正という世の平穏を愉しむことは出来ないという。

 そして目の見えない自分に、言葉もまともに扱えない、「たくま」の兄になれという。

「白河川閣下。俺には貴方が何をしたいのか分からない。ユアンは俺を人質のように日本によこしたが、盲目の俺が出来ることはたかが知れています。この目で、どうやって軍人になれと。どうやって拓真にものを教えろと」
「本当に見えていないのか。その目は」

 その言葉に驚いたのは、当の輝也のほうだ。今さら何を言い出すのだ、この男は。
 白河川は輝也の頬に両手で触れ、ぐいと此方に向けさせた。

「瞳孔が私の動きを捉えている。見えているはずだが」

 輝也の鼓動が波打つ。勢いその腕を振り払い、輝也は身を引いた。
 なぜだろう。興奮が収まらない。

「馬鹿をいうな、俺に見えるのはこの空間の明暗だけだ」

 白河川が輝也を見据えているのが分かった。

「君は『見ようとしていない』だけだ。そうやっていつまでも世の中から目を背けているつもりか。君には君の役目がある。それを直視する度胸をつけたまえ」
「五月蝿い、何も見えない、俺には見えないんだ!」

 輝也が白河川に対して声を張り上げた。
 ぎい、とドアの開く音がする。拓真が戻ってきたらしい。

「拓真君」

 驚いた様子の拓真はドアノブに手を引っ掛けたまま輝也をじっと見つめている。白河川が気遣って声を掛けた。輝也は上向いた感情に引っ込みがつかないまま、その場はぐっと自分を抑制した。

 見えている?俺が?

 考えたことも無いことだった。そもそも、「見える」ということがどういうものものなのかが分からない。物心付いた頃から、真っ暗闇の中にいた。昼は「明るい」ということを知っている。手に触れるもので何かを判断した。一定の距離までくれば、感じる「感情の色」で誰なのかを判別できた。

「うるさい、なに?」

 拓真が不安そうな声を上げた。輝也の感情を読み取ってのことらしい。「ああ、大丈夫だよ。何かあったのかな」と白河川が聞く。拓真はちょっと困ったような顔をして、「まこさんが、ばんごはん、です」と言った。どうやら晩御飯を白河川と輝也と共に食べる算段らしい。拓真はその使いに来たわけだ。

「拓真君、おいで」

 ととと、と白河川のところにやってくる拓真。その表情にはまだ微かな不安が残っているようだ。

「さあ、お兄さんの手を引いて」

 輝也の手を取らせようと、白河川が拓真の手を取って促した。輝也の怒気に感付いている拓真は、まだその手に触れることに戸惑っており、輝也に触れた途端にびくっ、と反応した。
 拓真の大きな二つの瞳が輝也の表情を覗き込んだ。

 その表情は、やはり輝也に分からない。
 しかし、と思う。何も知らない拓真に、不安定な自分を見せてはいけない。
 自分で把握できない心の奥に、拓真に対する特別な感情が芽生えていることに輝也は気が付く。

 輝也が拓真の手を握り返した。拓真がぱっ、と顔を上げた。

「いこう、こーや」

 拓真が輝也の手を引いた。輝也はベットから降り、裸足のまま床に足をつけた。
 
 


 二人が部屋を出て行くのを、白河川は後ろから見送っている。

――輝也君が、『弟』を受け入れてくれるかということが、まずは問題だったわけだけれど。
 
 やれやれ、と言ったところだ。白河川は小さくため息をつきつつ、苦笑した。



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2010/11/09(火)
1、孝子、決別

孝子、決別(1)


 *****


 とにかく、必死だったのを覚えている。
 

 守らなければならないはずのあの子の背中は、いつの間にかとても大きくなっていた。
 気がついたら守られていたのは私だった。

 母上が仰っていた。
 「父を立て、拓真を立てろ」と。だから私は、拓真が軍に入り、将校となって日本の国体を担う大人になれば、それが彼の幸せなのだと信じていた。それが母との約束を果たすことになるのだと信じて疑わなかった。

 どうして気がつけなかったんだろう。拓真はそんな道を望んでいなかった。

 思えばあの子が軍に入りたいなんて一度も言ったことはなかった。
 私が勝手に、そう思い込んでいただけだ。

 「天文学者になりたい」とあの子は言った。
 私はそれを拒絶した。

 あの子は、始めて私に失望の眼差しを向けた。私はそれでようやく気がついた。 
 

 私たちに銃口を向けていたのは、北条家の使用人だった。
 なんでこんなことになったのだろう。そんなことを考えている余裕は無かった。 

 じりじりと迫る熱風と、視界を塞ぐ、猛烈な黒煙の中に私はいた。
 私に「逃げろ」と言ったあの子に、銃口が向けられている。
 その瞬間に、弾けるように体が動くのが分かった。拓真を死なせるわけにはいかない。あの子にはまだ、やりたいことがあるから。

 後悔したから。
 あの子にあんな顔をさせてしまったことを。

 例え私が死んでも、生きながら後悔するよりずっとマシだ。



 *****



 指すような激痛が体を走っている。
 意識が覚醒してくると、その痛覚をより鮮明に覚えてきた。左半身が、絶えずお湯を掛けられているように熱い。いや、それすら通り越して、もはや氷水を掛けられているような気さえする。
 
 ふと冴えた空気が窓を通り抜けるように、孝子は意識を明確に取り戻した。反射的に体を起こそうとする。体中を電気のように走る激痛。巻かれた包帯に傷が擦って、孝子は悲鳴を上げそうになった。勢い、庇った左腕に触れた右腕から、点滴の針が抜け、支柱ががらがらを音を立てて倒れた。気の遠くなりそうな痛覚に身を縮めながら、孝子は歯を食いしばった。


――拓真。 


 額に巻かれた包帯にも、脂汗が滲む。耐え切れずに孝子は唸り声を噛み殺した。体を起こしているだけで、息が上がる。今にも倒れこみそうな体を腕で支えて、ベッドから床へ足を伸ばす。震える素足が冷たい床に触れる。そのまま立ち上がろうとしたが、足に力が入らないまま、孝子はベッドから落下した。


――拓真、いたら、返事、しなさい…――

 
 体を起こそうとするが、やはり言うことを聞かない。孝子はペタリと頬を床につけて、息を荒げた。ここはどこだろう。体中に包帯が巻いてある。誰かが助けてくれたのか?拓真は無事なのか。この後死ぬにしても、それだけはこの目で確認したい。

 やや乱暴に、部屋のドアが開けられた。
 物音を聞きつけた山城眞子だった。

 部屋はベッドに机だけの簡素なもの。点滴の支柱が倒れ、包帯の取れかけた孝子が床に倒れている。眞子は驚き、孝子を抱き起こした。
孝子は、視線が定まらずにぐったりとしていた。

「拓真は、無事ですか」

 眞子の顔を見るなり、創痍の孝子は搾り出すようにそう言った。眞子は面食らった。自分がこれだけ危篤な状況で、意識が戻って開口一番が弟の安否か。
 
「安心なさい。彼は無事ですよ」

 すると孝子はふと表情を緩めた。眞子は彼女を抱くその腕から、孝子の体に入っていた力が抜けたのを感じた。眞子は孝子を抱えあげると布団の上掛けを取り、もう一度そこに寝かしつける。眞子の目の届く範囲で包帯と着物の崩れを直してやり、そして上布団を掛けてやった。
 点滴の支柱を建て直したが、自分では再装着できないので、勝呂医師に連絡しようと、その場を立とうとした。
 
 孝子が、後ろから声を掛けた。

「あの、助けてくださったんですよね」

 ともすれば消え入りそうな声だった。しかし意識はちゃんと保っていられるらしい。

「ありがとうございました」

 眞子は戸外に出ようとするのを改め、孝子の枕元に寄って、孝子の顔を覗き込んだ。

「拓真君は白河川さんが預かってくれていますから、貴方はご自分の体を一番に考えてください。いいですね」

「白河川さん……?」

「貴方の父上の上司よ」

 にわかに孝子の表情が動いた。

「帝国陸軍、元帥」

「ええ、そうよ」

「あなたは……」

「私は彼の……そうね、白河川のいわば身の回りの世話人といったところかしら。山城です。ここは私の家。貴方のことを任されているから、何かあったら遠慮なく申し述べてください」

 眞子は、机から椅子を持ってきて、そこに腰掛けた。孝子がゆっくりと此方に頭を向けた。

「拓真は、無事なのですね」

 確かめるように、孝子は言った。

「ええ、無事ですよ」

「会わせて頂けませんか。あんな目にあったのです、もしかしたら思い悩んでいるかもしれない」

 眞子は少し考えた後、言葉を選びながら孝子に言った。

「事情があって、あなたに会わせる事は出来ません。だけど彼は元気でやっています」

「どうしても会わせていただけないのですか」

「どうしてもです」

 孝子は返答せずに、天井を見上げた。何かを察したのか。頭のいい子なのだな、と眞子は思った。

「あれから、どれくらい眠っていたのですか」

「10日ほど。あなた方ご姉弟は、あの火災で行方不明ということになっています」

「父上はご存知なのですよね」

「ええ。あなた方が白河川の庇護下にいることはご承知です。先日までこちらにも顔を出していたのですが、先日、赴任地の北京へ帰りました。貴方の目が覚めるまで付き添いたいと仰っていましたけれど、任務に支障を出してはいけないと」

「父上は、何か大変なことに巻き込まれているのですか。北条社長と何かあったのでしょうか。だから白河川閣下御自ら拙足を賜っているのですか」

 そういえば、孝子はあの火災の中で北条家の使用人と顔を合わせているのだ。記憶を失っている拓真を除けば、眞子と、孝子だけがその事実を知っている。

「白河川が動いたのは偶然です。北条と今回のこととの関わりは調査中よ。貴方たちがここにいることは、私たち以外の誰も知らないわ。貴方が外に出なければ、身の安全は保障します」

「私たちは……、拓真はこれからどうなるのです。もう今までの私たちとして生きることは出来ないのですか」

「そのつもりでいてください」

「私たちは、あの炎の中で死んだのですね」

 眞子はちょっと言葉を失った。肉体的には生きているとはいえ、また命を狙われるかもしれないことを考えると、このまま行方不明になったほうが都合が良い。そうなれば当人たちは、別の人間の人生を歩まざるを得ない。もちろん、舎人耕三郎の娘では居られないし、舎人拓真の姉のままではいられない。

「あの子はどうなるのです」

 眞子は応えることに躊躇した。しかし姉には伝えておくべきだろうと判断した。

「新しい名前と、家族を与えました。今後、この様なことがあっても自分で対処できるよう、心身を鍛えると共に、必ず誰かの目に触れておくために、軍人としての教育を与えます」

「あの子は」

 孝子は一度そこで言葉を区切った。

「優しい子なのです。軍隊なんて向いていない」

「今考えられる最善の方法です。あなたの身の振り方は、その傷の回復を待ちながら話合いましょう。今は何も考えないで。いいですね」 

 孝子は何も言わなかった。

 眞子は暫く孝子の顔を見ていたが、やがて深い呼吸を始めたようだったので、ひとつ、安堵の息を吐いた。
 点滴の針を打ち直してもらおうと椅子から立ち上がり、ふと孝子に振り返った。
 

 彼女の左頬には、細い涙の筋が通っていた。


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2010/11/14(日)
1、孝子、決別

孝子、決別(2)

 *****


 勝呂の診療所は、池上にある。
 白河川の自宅から車で20分程度。週に一度、彼は輝也と拓真を連れて、かの診療所へ向かう。

 輝也の目を診せるためである。
 まだ見えていない。

 拓真を連れて行くのは、外の景色を見聞きさせるためだ。まだ彼を一人で外に出すことはしない。本人はしきりに外に出たがり、白河川の目を盗んでは輝也の手を引いて玄関から出ようとするのだけど、

「いけません」

 と、眞子に一蹴されてしまう。眞子はいつも彼のためにあちこちと手を回しているようだが、大抵は彼の少し後ろに低頭気味に控えている。拓真と輝也に朝飯を食わせ、白河川家の使用人に手際よく家事などの指示を出す。一緒に住んでいるわけではないという。白河川が声を掛ければ決まり文句のように「支度は整っております」というから、山城眞子という女は最低3人は居るのではないだろうか、と輝也は思っている。

 そんな彼女が、今日は一緒ではない。
 白河川の知人である勝呂医師の診療所へは、白河川と三人で連れ立った。

 白河川が助手席から、拓真が手を引き、輝也が後部座席から降りた。拓真は袴姿、輝也は薄い柑子色の着物を着ている。
 小春日和の風がさわやかにそよいでいる。車が行き去り、白河川が入り口に歩みを進めたので、拓真と輝也もそれに従った。


 *****


 待合室には誰も居ない。
 毎週水曜日は休診なのだが、「人目を避けたい」という白河川の希望があって、あえてこの日に勝呂を訪ねる。

 勝呂幸四郎は白河川修より七年ほど年上である。
 まだ帝都が「江戸」と呼ばれた時代にその城下に生まれ、蘭学を学んだ。戊辰戦争を二十四歳の多感な時期に迎えた。かれは倒幕も佐幕も無く、江戸城下の苦しむ民を診た。

 官軍の若い士官だった白河川は、この頃勝呂と面会した。負傷した兵士の手当てを手伝っていたときにでも、顔を合わせたのかもしれない。
 この若い士官は、怒号を撒き散らしながら負傷兵の手当ての指示を出す肌の浅黒い男に、人間としての魅力を感じたのかもしれない。本門寺の講堂に横たえられた兵士たちの手当てを終えた夜遅く、白河川は勝呂に話掛けた。

「私も負傷兵を助けたい。手当ての仕方など教えてもらえないだろうか」

 すると、肌の黒いこの若い医者は胡坐を組んで白河川に向き直り、

「あんた、徳川様の家来たちを殺すんだろう。そんなやつにゃあ、教えられん。戦争が終わったらもう一度声掛けてくんな。そうしたら徳川様も官軍様もねえ。おいらがぴしッと仕込んでやる」

 戦争は終わったが、白河川は新政府樹立のために奔走する日々が続いてしまって、結局、医者にはなれなかった。しかし、ことあるごとに勝呂を訪ねては、「やはり医者になりたい」「なら官職を全部退いてきな」と軽口を叩き合って、交遊を深めた。白河川が陸軍の元帥を拝命している今、白河川に対等な立場でものを言える一般人は、彼を置いては皆無に等しい。


 *****


 繰り返すが、輝也の目はまだ見えていない。
 
 輝也の診察が終われば、白河川は勝呂と世間話を始める。その間、拓真は輝也の手を引いて、勝呂の蔵書を片っ端から引っ張り出している。文字を覚え始めた拓真は、とにかく字を追いたくて仕方が無い。診察室に陳列している蔵書にしても、医学書の他にも福沢諭吉や「白樺」、時事新報などがあり、それを床に広げては、拓真はそれをいちいち読み上げた。目の見えない輝也に、新聞の写真を指差して、

「イタリアがオーストリアに『せんせん』したんだって」

 という。輝也が『せんせん』とは相手国に大して戦争をするぞと名乗りを上げることだというと、拓真はやはり目を丸くして、

「せんそうは、だめ」

 と言った。そうして、肩から提げているショルダーバックの中から帳面と鉛筆を取り出して、その面に「戦争」と漢字で書き付けた。拓真は自分の手に輝也の手を乗せたまま、もう一度その漢字をなぞる。すると輝也が「ああそうだ。ならば宣戦という字はな」そう言って、今度は輝也が拓真の手を取って、帳面に「宣戦」と書き付けた。輝也は幼少時より、こうやって田口から文字を教え込まれた。

「拓坊もずいぶん語彙がふえたようだな」

 勝呂が二人の様子を見ながらそう言った。やや黄ばんだワイシャツに、柔らかい素材のスラックスを佩き、細身の体に深い皺が刻まれている。頭は短く刈り込まれていて、黒と白の斑模様の髪の毛。プレスの利いていない白衣。彼の妻、しづは5年前に他界した。彼は机の中から天狗煙草を取り出し、マッチで火をつけた。無表情でそれを吸い、息を細く長く吐き出す。

「黒澤の息子の方は、後は本人の気持ち次第。瞳孔も虹彩もしっかり機能してやがる。まあ、餓鬼の頃からあんな目にあってちゃあ、無意識に心を閉じちまうのも分からなくもねえが」

 13年も前に、楽弥が発狂し、白河川に助けを求めてきた黒澤と幼い輝也の姿を、勝呂は知っている。

「それにしても修さん、チビ共三人も一手に引き受けて、大丈夫なのか」

 勝呂が煙草を口に加えたまま、白河川に問うた。人と話すときにめったに目を合わせないのが、勝呂である。

「みんな部下の子ですよ。なあに、かわいい孫が三人も出来た。目出度い事じゃないですか」

「いきなり全身火傷した姉ちゃんと拓坊連れてきたと思ったら、俺に押し付けてすぐに上海に飛びやがる。手前も若くねぇんだ、ちったあ自重しな」

「善処します」

 白河川は力ない笑みで応えた。 

「勝呂さんも、医師会のオファーをまた返上したと。高木会長がどうにも示しがつかないなぁと頭を掻いていましたよ」

「ばァか。そんな重っ苦しいもん年寄りにおっつけんじゃねえよ。どうせ俺らみたいなはすっぱでも組織には自動的に組み込まれてんだろうが。しかしあいつが会長たあ、『麦飯男爵』も随分出世したもんだな」

 勝呂は1本目を灰皿に押し付け、二本目に火をつけた。
 煙草を吸わない白河川には、この鼻の神経を劈くような匂いが少々辛い。が、勝呂はそんなこと気にしない。

「で、あの姉ちゃんはどうすんだ。体の火傷は一生モンだぞ」

 そうなんですよね――、と言ったきり白河川は言葉を詰まらせる。咥え煙草のまま勝呂はその様子を見ている。視線の向こうでは、拓真が雑誌「のはら」をめくっている。「最上桜花」を「さいじょう」と読んで、輝也に指摘されていた。

「修さん、あの子達の面倒見ることで、てめえのガキへの罪滅ぼししようってんならお門違いもいいところだぞ。手前が今、幾らあがいたところで、親としての手前は完全に失格なんだ」

 妻が自殺した日の、雪の朝を思い出す。
 一面の白さの中に、彼女の金色の髪と体を染める真紅の血だけが浮き立っていた。日本人では無い彼女の肌はやはり白くて、その瞳の色は、彼女がもう一度見たいと言っていた地中海の紺碧色をしていた。

「そんなことは思っていませんよ。あれと同じ思いをさせたくないから、どうしようか思案しているところなのです」 

 勝呂が白河川の顔を見ることもなく、ふう、と煙を吐いた。
 
 拓真が此方を向いて、何か言いたそうにしていた。

「外に、行ってもいいですか」

 白河川は立ち上がって拓真の方を向いた。一応許可を求めているとはいえ、あまり彼を外には出したくない。

「あれを」

 拓真が窓の外を指した。ソメイヨシノが、その縁取りに見事な桃色を揺らしていた。

「『桜花』、みてみたいです」

 拓真の手には、雑誌「のはら」が握られている。雑誌の主催者は最上桜花。なるほど、そういう流れらしい。

「構いませんよ。輝也君も連れて行ってあげなさい」

 拓真はぱあっ、と表情を綻ばせ、輝也の腕を引っ張った。白河川もそれに付き合おうと、席を立つ。

「勝呂さんもどうです、花見」

「うんにゃ、今日はあの姉ちゃんが来る日だから」


 すると、拓真たちが先に出て行った廊下からだたん、と音がして、少女の声が聞こえた。
 驚いた白河川が廊下に様子を見に出ると、そこには輝也と、とき色の着物に真紅のリボンを髪に結った少女がお互いを向くように尻を付いている。

 少女の後ろには、山城眞子の姿もある。

「申し訳ありません、お怪我はありませんか」

 輝也に手を差し出した孝子は、その隣の拓真の顔を見て動きを止めた。
 拓真も、剥けるような大きな目を、孝子に向けたまま、動けずに居る。


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2010/11/15(月)
1、孝子、決別

孝子、決別(3)

 拓真の感情が凍りついた。
 輝也はすぐに感付いた。同時に、目の前の少女も何がしかの困惑を見せている。

「拓真」

 指し伸ばされた孝子の手が、小刻みに震えている。一方の拓真はどうやらそのまま動けず、息を潜めている。

「拓真、無事だったのね」

 孝子の手が拓真の腕に触れた。拓真は反射的にその手から逃れ、輝也の後ろに回った。
 輝也の背中で、肩越しに孝子から視線を外さないまま、がたがたと震えている拓真。孝子は拓真のその反応に、伸ばした手を下ろすことも忘れて、呆然としている。

「あんたが舎人孝子か」

 その名前を聞き、拓真がびくりと体を震わせた。それが輝也の背中越しに伝わってくる。光の無い視線を孝子に向ければ、躊躇いの手を引きつつ、その眼差しもゆっくりと輝也を見据え、こちらを伺った。

「あなたが、拓真の新しいお姉様ね」

 まだ声変わりもしておらず、長い髪も切っていない輝也は、ともすれば孝子には自分と同じくらいの少女にでも見えたのかもしれない。輝也は特にそれを訂正することなく、孝子を見据えたまま次の反応を伺う。

 後ろで、眞子が白河川に厳しい視線を送っている。

『今日は孝子さんをお連れしますから、午後からの往診にしてくださいとあれだけ申しましたのに』

 白河川が苦笑しながら視線を返す。

『ごめんなさい、……忘れていました』

 勝呂も煙草を咥えたまま、ひょいと顔を見せた。大人たちは口出ししない。孝子の反応を待つばかりだ。
 輝也は後ろの拓真の様子を伺った。どうやら耳を塞ぎ、小さくなっているらしい。
 白河川が以前に話していた通りの反応だ。拓真の中では、姉、孝子は死んだことになっているのかもしれない。自分を庇い、自分の腕の中で冷たくなっていく姉に、己の非力を責めたのだろうか。

 暫くの沈黙の後、孝子が輝也に手を伸ばした。気配で察した輝也はその手を取った。孝子に引き上げられ、輝也は立ち上がった。

 驚くほど孝子の心が静かなのを輝也は感じている。随分大人びた姉だ。壊れた弟を見れば、かの姉は取り乱すだろうと思っていた。いや、静か過ぎる。考えに考え抜いて、苦しみの果てにこの境地まで来ているのかもしれない。

 孝子に、凛とした強さを感じた。輝也はそれを美しいと思った。
 同時にこみ上げる感情がある。それは、文秀を想うときにも似た、穏やかに波打つ漣のような、思慕の情。
 しかし輝也はそれを素直に認めたくない。

「この子をどうぞよろしくお願いします」

 孝子はきっぱりとそれだけ言うと、するりと輝也の横を抜けて行った。輝也の後ろにいる拓真に一瞥することも無かった。
 眞子が孝子の後を追おうとする。輝也は思わず声を上げる。

「おい待てよ!お前、これでいいのか?何か言いたいことがあるんじゃないのか。命に代えてでも守りたかった弟だろう!こんなに簡単に誰かの元に預けられて、じゃあこれからは赤の他人って、そんな大人の勝手を受け入れられるのかよ!」

 孝子は立ち止まったが振り返らなかった。輝也は頭だけを孝子に向けている。
 なぜこんな気持ちになるのか。どうして他人の心配をしなければならないんだ。
 どうして、こんなに心が痛い。

 孝子の凛とした佇まいは、輝也の問いかけに揺るがなかった。

「物事には、必ず意味があります。こうなってしまったのも、私に非が無いわけではない。白河川閣下がこの子を私ではなく、あなたに預けたのは、お考えあってのことでしょう」

 孝子は、上半身だけ此方に向けた。
 輝也は勢い、孝子に振り返った。彼女が何を考えているのか知りたかった。
 彼女が何者なのかを知りたいと思った。

「あなたも私も、逆らえない時流の中で、与えられた人生を歩む他無いのではなくて?」

 色白の肌に、薄く紅を引いた唇。束髪で束ねた滑らかな黒髪をまとめた、真紅のリボン。
 そして、透き通るような水晶体に毅然とした意思を湛えた、黒い瞳。

 輝也の目が、初めて光を受け入れた瞬間だった。
 脳内に強引に像が結ばれていく。輝也がかつて思い描いていた以上の鮮烈な印象だった。 

 くるりと振り返ると、孝子は勝呂に頭を下げ、診察をお願いしますと言った。勝呂は頭を掻きながら、おうと返事を一つして診察室へ引き上げていく。孝子は白河川に一礼すると、勝呂の後ろをついていった。
 
 拓真は最後まで孝子から目を離さなかった。彼女が診察室に姿を消すと、すう、と立ち上がって、輝也の背中から顔だけをのぞかせた。輝也は拓真の頭を撫でてやりながら、しかし視線は相変わらず先ほどの孝子の姿を追っている。

 白河川がやってきた。自然と輝也の視線はそれを追った。

「おや、見えているのですか」

 輝也はその問いかけに、はいともいいえとも応えなかった。
 先ほどの孝子の立ち振る舞いと、いきなり強引に結ばれた視界に、輝也の思考は追いついてこない。


――なんだ、なんなんだ、あの女は。


 大正四年、四月。
 帝都の桜は、満開の時期を迎えている。


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2010/11/16(火)
1、孝子、決別

孝子、決別(4)

 *****


 日は傾きかけている。
 長い影を引きずって、眞子の後ろに孝子がしたがっている。勝呂のところからの、帰り道だ。

 あちこちの民家の軒から桜が枝を伸ばしていて、はらはらを花びらを落としている。絢爛を誇るかの桜たちも、横日に当てられ、自慢の桃色に影を落とす。あたりに人は居ない。ふわりと穏やかな風が舞う。しかし孝子はは俯いたまま、顔を上げることも無い。

 ちらりと眞子は孝子を伺う。
 あれから一ヶ月ほど経つ。炎に焼かれ、皮膚の爛れた左上半身から首にかけてはまだ包帯を巻いた状態であるが、こうして歩けるまでに回復した。無理をするなと厳命したのに、孝子は毎日、思い通りにならない体を必死に引きずって、体を動かす訓練をした。そこまでして彼女は何を望んでいたのか。

 言うまでもない。弟を探しに行くつもりだったのだろう。

 物分りのいいように見えて、実に頑固な娘なのだと、眞子は孝子を見ている。心のどこかでは、眞子の言葉から弟の状態を察していたに違いないが、それにしても自分の目で確かめるまではと、わずかな希望を持っていたのだろう。眞子はそれも理解していただけにどうしても拓真に孝子を会わせたくなかった。成り行きとはいえ、こうして顔を会わせることになってしまったことに対しては、自分の手配に不備があったのだと、孝子に申し訳なく思う。

「孝子さん御覧なさいな。夕日に桜。橙に染められた花びらというものにも趣を感じますね」

 孝子は答えない。眞子はやはり、と思う。
 想定されたこととはいえ、大切にしてきた弟に拒絶された姉の心中は計り知れない。眞子は記憶を失う前の、聡明な拓真を見知っている。母親を早くに亡くし、単身赴任ばかりの父親に代わり、拓真がどれだけ孝子に愛されて育ってきたか。眞子も人の親である。それが痛いほどに分かる。

 輝也が言うことはもっともだった。子供たちではどうしようもない状況とはいえ、姉弟を勝手に引き裂き、引き取ったのは大人たちだ。「弟には会わせられない」と理由もなく告げられて、はいそうですかと大人しく引き下がるほうが、それこそ非情というものだ。難しい年頃だと思う。孝子は今年十三歳になる。大人でもなければ、子供でもない。

 ぽつぽつと街灯が灯りだした。遠い地平線付近の橙を残すのみで、ゆったりと濃藍が空気に満ちてくる。街灯の白い光の中に、絶えることなく桜が舞っていた。そこだけが空間から切り取られ、まるで桜花が自らの定めを誰かに見止めさせようとしているようだ。

「眞子さん」

 孝子が口を開いた。はっとして眞子は振り返った。孝子は俯いたままだった。

「拓真は、これから軍人になるんですよね」

 それは先日伝えたとおりだ。眞子は「そうだ」と言った。

「それが、今のあの子にとって、最善な方法なのですよね」

「そうです」

 何が言いたいのだろう。今更それを止めてくれという聞き分けの無さを持つ子ではない。眞子は孝子の次の言葉を待つ。

「私も、なります」

「え?」

「私も軍人になります。士官学校に入学させてください」

 孝子はそう言い切って、強い視線を眞子に向けた。眞子は一瞬、この少女が何を言っているのか理解できず、次の言葉をすぐに繋ぐ事が出来なかった。

「何を言っているの。あなた、自分が女だということを分かって、そんなことを言っているの」

「ええ、承知しています」

「冗談でしょう」

「本気です」

 ざわっ、と生ぬるい風が吹いた。二人の間を通った風は、彼女らの着物を揺らしながら花びらが舞い上がった。

「白河川閣下と話をさせてください。身体検査さえパスできれば」

 孝子の黒い髪が、桜の花びらの舞い散る中にふわりと浮かぶ。その目は、一点の曇りも無く、眞子を見据えていた。

「私は、士官学校を主席で卒業して見せます」
 
 冗談ではない、と眞子は思った。冗談ではないのは、孝子も同じだった。
 孝子の気迫に応えるように、桜花がざわざわと枝を揺らした。

 それは舎人孝子が女である自分を、過去と共に「決別」した瞬間だった。


 *****


 同年の欧州戦線は、イタリアの参戦以降泥沼の様相を見せている。三国同盟を破棄したイタリアは、五月二十三日にオーストラリアに宣戦布告。帝国政府は二個師団増設費と軍艦新造費を計上した追加予算を成立させた。日本はドイツ領青島、グアムを除く南洋諸島の権益を獲得した後、大正六年四月、イギリスの要請を受け、地中海へ艦隊を派遣する。大陸では袁世凱が悲運のうちに憤死し、彼に代わって段祺瑞が国務総理として政権を握った。

 大正七年九月。吉岡輝也は、東京の陸軍地方幼年学校に入学した。
 入校したその日、講堂に一同が集められたときに、幼年学校の制服に身を包んだ少年たちの隊列の中に、ひときわ美しく、瞳に強い意思を湛えたものがいる。それは彼らの中でも匂い立つほどに精悍だが、肌の色が白く、そして驚くほど華奢な体つきをしていた。

 輝也はその姿に見覚えがあった。

 そこに居たのは、かつて輝也に「与えられた人生を歩むしかないのだ」と言い放った、拓真の姉の姿だった。


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2010/11/17(水)
1、孝子、決別

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