1913年、上海(1)

 ***



 1913年は、大陸の年号で中華民国2年。日本の年号は大正2年であるから、奇しくも日中同時の改元という大きな節目を迎えたことになる。

 上海、「湖南楼」。時間は夜。
 義和団事件以後、列強によってアジアに建設された欧米風の街の中にひときわ目立つ、赤い砦に緑の竜をあしらった門構え。その入り口に黒塗りのセダンが甲高いブレーキ音とともに停車した。
 門の前に立っていた支那服の小男が、車の後部座席のドアを開ける。降り立った男は、「北条」財閥社長、北条古月。ステットソンの黒い帽子、カシミヤの黒い外套。自動車のドアが閉まり行き過ぎると、木枯らしのような鋭い風が男の外套を翻した。古月は帽子を押さえながら、小男の後を追って竜の門へ足を急がせた。

 楼閣の中は狭い通路のようになっていて、一つ一つの個室の入り口には覆い布が翻っている。赤い絨毯に赤い壁。部屋と部屋の間に、青磁の壷。虎の掛け軸。ぎゃははと笑う、下劣な男の声と、妓の黄色い笑い声。古月はその一つ一つに嫌悪と苛立ちを感じながら、先導する小男の後ろを歩いていた。
 入り口から何度曲がったか、どこを曲がったのか分からない。そのくらい入り組んだ通路の奥の、さらに扉をくぐった。小男が横扉を閉めると、さっきまでの喧騒が消え、小さなろうそくの光がゆらゆらと揺れるだけの通路になった。ようやく先導する男の背中が見えるような暗さの中で、古月は男を見失ってはおしまいだ、とさっきよりもまじめに男の後を追った。

 小男が立ち止まる。こんこんと扉をたたく。

「来了」
「请进入」

 からりと扉を開けると、そこは日本風の桟敷のようなつくりをしており、部屋の明かりは蝋燭が2本だけ。6畳ほどのさほど広くない部屋。橙に彩られた部屋は、蝋燭がゆれるたびに大きく影が揺れた。4つの席が用意してある。入口から一番奥の上座に日本の陸軍将校、右方には白いワイシャツ姿の若い男が座していた。将校にはこの暗がりにも匂い立つような黒い着物を着た美しい女が酌をしている。さっきの声はこの女か。

「待っていたよ、社長」

 杯に酒を注がせながら、将校は古月にそう挨拶した。古月は将校を鋭く一瞥し、外套と帽子を小男に預けてどかりと座った。小男は頭を下げたまま後ずさり、扉を閉めて姿を消した。

「なんや、人払いもせんのか」
「彼女をそこらの女と一緒にしないでくれるかな。類まれなる知才と、そして人脈の持ち主だ。きっと役に立つ」

 古月は気に食わないという風に鼻を鳴らす。対面している若いワイシャツの男が、古月に杯を勧めた。なんのつもりかとその男の顔を見れば、目が合った瞬間に若い男は微笑んで、「どうぞ」と言った。窪塚幸太郎。東京帝大から大蔵省に現役で入省した、若きエリートだ。相変わらず底知れない、いけ好かない男だと古月は思った。

「上海までわいを呼びつけた理由は」

 若い男の杯を受けずに、古月は将校に問いつける。将校はその古月の様子にちょっと破顔し、女に顎で指示をした。その流れる湧き水のような清らかな美しい動作で、女は膝を進め、古月に杯を勧めた。

「応えんか、久坂廣枝」
「楽弥の杯を受けてもらえないか。今日は懇親の杯だ」

 古月は女の顔を近くで見た。小さな丸い顔に、伏し目がちの長い睫。たおやかに緩む紅の引かれた口元。差し出した女の手は白く、白檀のほのかな香りがした。

「湖南楼を仕切っております、仙 楽弥です。以後、お見知りおきを」

 その口元からあふれる言葉の一つ一つが楽譜にたどり着く前の音符のような、緩やかな抑揚をもつ声だった。古月は杯を受けた。楽弥は小さく一礼をすると、顔を上げて古月の目を見た。そしてにこりと微笑むと、一時、その場を退出した。

「美しい日本語だろう。こう、大陸の暮らしが長いと、日本の言葉や女が恋しくなることがある」

 久坂が杯を飲み干した。杯を膳にがたんと音を立てて置いた。その目は、古月を見据えていた。

「日本は、歩みだすべき道を過とうとしている」

 古月は何も応えない。
 もうじき40歳になろうとするこの青年将校の胸に渦巻く想いが、この場に古月たちを召還している。

「10年前、われわれは大国ロシアとの戦いに勝利し、名実ともに世界の一等国としての地位を得た。軍事力、工業力、技術力、そして国民の国家への衷心、どれも先進諸国に引けをとらない水準にまで成長した。だが今の政府の弱腰ときたら、日露戦時の国債償還にめどが立たず、陸軍の師団増設、そして軍艦の建立には予算が裂けないなどとのたまう! 今欧州では国家の存続を駆けた総力戦の戦争をしているというのに、なぜ同盟国イギリスの出兵要請を前に、軍縮の話など出来ようか!
 もはや華族のみに日本の政治を任せておくことはできない。武官制が改正された以上、われわれ日本人の真の意思を貫いてくれる陸海相を立てねばなるまい。今こそ、来るべき対露、米戦への布石を配さねばならないのだ」

 向かいに座る窪塚が、糊の利いたワイシャツの背をしゃんと伸ばして、久坂の弁舌に拍手を送る。古月は相変わらずだんまりを決め込んでいた。言っていることは理解できると思っている。日和見の連中のいう「外交で解決を」の通じる世界ではない、数年前から古月はそう考えるようになった。武力を持つ相手とまともに話し合いを設けるにしても、同等の火力が必要なのだと思う。「勢力均衡」。これこそが他国と戦争をしないために、国策として講じられるべき思想だ。
 
 耕三郎。いつのまにかわいは、お前の言う「理想」、いうものを、信じられなくなったんやな。

「窪塚、あれを」

 若い男は、一枚の封筒を取り出し、古月のまえに置いた。中には、高名な大蔵官僚の名と朱印が押印しており、久坂の謂わんとする日本の進むべき方向性と、彼に力を貸してほしいという趣旨の内容が書き連ねてあった。その官僚と古月は、財界の社交界を通じて交流がある。

「山岡次官も、社長が私たちに賛同してくださったことを、とても喜んでおられました」
「何度でも言う。わいは戦争がしたくてあんたらの軍拡論議に肩入れしてるんとはちゃう。戦争がしたくないからできることを手伝おうっちゅうだけや。勘違いすんなや」
「しかし、社長の『後方支援』のおかげで、旅順港の整備は格段に進んだ。われわれはそれに深く感謝の意を表したい」

 われわれって誰や。日本人全員の口を代表しているわけやあらへんやろうな。

「つきましては山岡次官より、社長に高官の席を用意したいとのお話があり、本日久坂中佐にお願いして、北条社長にご随行賜った次第です」
「あほ言うな。そんなん熨斗つけられてもいらへんわ。そんなに金が必要なら、三菱の岩崎か安田にでも肩書きぶら下げて話ししたらどうや」

 古月はそう吐き捨て、自分で杯に酒を注ごうとした。そのとき、ぐっ、と銚子をすすめてきたのは、久坂だった。

「日本を、救いたいのです」

 その直向な強い目を見せた男の気迫に流されたか、古月はその日、初めて久坂の杯を受けた。 


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2010/09/21(火)
6、「傾城傾国」

1913年、上海(2)

「会わせたい人物がいる」

 という台詞が久坂の口から出たのは、それから小一時間ほどたったころだった。国家への忠誠と現状への不安、そして「日本が向かうべき方向」とやらの講談が続き、そして合いの手には窪塚からの「社長のご協力に感謝したい」。いい加減に退席の頃合を見計らっていた頃だった。もしかして自分を引き止める算段なのかとも思ったが、『商売は人脈』という己の持論もあって、一応聞いてみることにした。

「へえ、どないな奴や」
「駐支那公使館附海軍武官。舎人耕三郎とも親交のある男ですよ」

 そういって、久坂は杯を口に運ぶ。そろそろ銚子の酒が付きかけた頃だが、頃合を見ていたのか、楽弥が盆に銚子を3本ほど運んできた。

   **

 古月が久坂と出会ったのは、ロシアとの戦争の只中、1904年のイギリスだった。
 当時古月は30歳。知己の陸軍将校、舎人耕三郎は当時31歳で大連にいた。先日の旅順港閉塞作戦以降、起死回生をかけた日本軍は、その戦場を内陸に求めていた。大規模な戦闘に必要な物資を日本から運ぶため、民間からも商船を徴用した。古月は舎人の計らいもあり、醤油問屋で得た潤沢な資金を元手に商船を買い集め、社名を前面に日本軍の物資調達および資金調達に貢献した。古月が軍内で名を馳せ始めたのは、この頃からだ。

 戦時需要は一時的なもの。海運を会社の主力産業として軌道に乗せ、更なる販路を開拓するために、古月はイギリスへ渡ることを決意した。1902年に日英同盟を締結して以降、欧米列強の中では比較的日本に寛容で、しかも産業・経済の発展が著しいからだ。
 しかし、何よりも始めての土地なので知り合いもいない。そんな折、耕三郎が紹介したのが、当時イギリスに留学中の陸大同期、久坂廣枝だった。
 駐英大使館附武官補佐官の久坂は、階級は少佐、年は31歳。イギリスで古月が彼を訪ねると、古月の来訪を心より喜んだ。
 久坂は軍人らしからぬ明朗性に社交能力、そして好奇心を併せ持った、童心のような男だった。特に彼の目に、没落武士の家から一大財閥を築き上げた古月は「類まれなる興味の対象」として写っているらしく、また、陸軍大学校で耕三郎と恩賜の軍刀を争ったほどの明晰な頭脳を持ち、列強の情勢を分析しては、「社長、欧州は今に、とんでもない戦争になりますよ」といって古月をどきりとさせ、からからと笑って次のグラスを古月に勧めるのだった。
 久坂は古月に商売相手としてめぼしい知人をいくつも紹介し、古月が「なかなかうまくいかない」とこぼせば、どうやって相手を丸め込むものなのか、極東の日本人相手に髭顔の白人の方から握手を求められ、かなり有利な取引を結ぶことになったりした。古月がお礼にと久坂を誘えば、「私はなにもしていませんよ。社長のお人柄でしょう」とやはり笑う。

 こんな久坂にも、一つ苦手なものがある。
 他でもない、それは古月の古い友であり、久坂の同期でもある舎人耕三郎だった。
 
 もっとも、耕三郎自身にはその自覚がないらしく、大連で久坂を紹介する際も「頭の回転が速く、何より気さくでおもしろい男」と久坂を評して陸大時代の話などを楽しげに語っていたが、当の久坂はそうは行かない。耕三郎の話を出そうものなら、普段明るい人物だけに、その身を纏う空気が一変するのが如実に分かる。「なんや、コウとうまくいかなかったんか」と古月は何気無しに久坂に聞いたことがある。いつもはたいてい流されてしまうのだが、一度だけ、ぽつりと久坂がこぼした。


――あの男には、何一つ勝てなかった。


 嫉妬に近いものなのかもしれない。尋常小学校を出ただけの古月は、エリートと呼ばれる人間もいろいろ大変なんやなあ、と思ったに過ぎなかった。

  **

「そろそろ来るはずだ」

 さっきの小男の声がして、楽弥が返事をした。雪が降ってきたらしく、入ってきた海軍士官のコートが白くなっていた。久坂と窪塚が立ち上がる。久坂が敬礼し、窪塚は体を大きく曲げてお辞儀する。
 その白い海軍の正装には、「大佐」を示す、三ツ星の肩章。

「お目にかかれて光栄だよ、北条社長。帝国海軍大佐 藤原一美。今は北京で駐在武官だ」

 古月も立ち上がり、差し出された右手を握り返す。藤原が腰を下ろすと、それに続いて久坂と窪塚も座った。古月もそれに倣った。
 楽弥が藤原に杯を勧めた。では、といって粋に飲み干す。窪塚が「おお、さすがです」と驚嘆する。藤原は満足そうに杯を置いた。

「舎人からよく貴様のことを聞いているよ。『面白い男だ』と。今日は私も北京にいたし、貴様も上海に来ると久坂に聞いて、同席をお願いしたんだ」

 あいつ人を「面白い」以外の評価ができへんのか、と古月は思ったが、藤原のことを悪い男とは思わなかった。
 そもそも、商人である古月と親しくしようとする軍人は2種類だ。裏側で利益供与を要求するか、よっぽどのモノ好きか。

「海軍さんにはご贔屓にさせてもらっとります」

 古月は正座のまま頭を下げた。藤原はからからと笑った。

「ははは。その節は世話になったな」

 そして。そこまで言って、藤原は口を閉じる。久坂が楽弥に目で合図をすると楽弥がぱんぱん、と2回手を叩いた。
 古月と藤原の対面側の襖がからりと空いた。そこには手前に1人、後ろに2人の女が手をたたみについて顔を伏せており、襖が上がるとやがてゆっくりと顔を上げた。座敷の奥には、二胡、筝、揚琴の一団が控えている。
 手前の少女が顔を上げた。唐代の芸妓の衣装に似せたゆったりとした柔らかい臙脂色の衣装を纏い、切れ長の目尻が美しい。年の頃は10歳前後。その額には上3片の花が描かれており、白いおしろいの顔に仄かに香り立つような桃色の唇。ゆったりと上げた頭の上で、結い上げられた黒い髪に映える、細い線のような金櫛の飾りがシャンと鳴った。

「それでは、ささやかではありますが大陸に伝わる楽妓舞踏をお楽しみくださいませ」

 二胡の深遠を思わせる音色が、空気を震わせて楽を奏で始めた。
 3器の合奏が始まるのと同時に、「少女」が伏せていた睫を上げ、光のない漆黒の瞳を見開いた。しなやかに、しかし力強いその肢体の躍動に、一座は目を逸らせない。

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2010/09/22(水)
6、「傾城傾国」

1913年、上海(3)

 耳の奥に響く弦の音。
 その音が弾むたびに「少女」が腕を振り、その身長ほどもある袖がしなやかに舞う。袖の描く曲線はまるで龍の空を舞うようなもので、ふわりと空に浮いていると思えば、琴の弦がはじかれる度にそれは稲妻となり、それは流れる雲となった。

 やがて3つの楽器が激しく鳴り、「少女」もそれに呼応するように両腕を観客へ向けてくるくると回しながら後ずさる。「少女」の目は、相変わらず闇を宿したまま。愛想の一つも無く、その小さな丸い顔の表情を始めの印象のまま、見ているものを射るような眼差しを向けている。それも、観客が目が離せなくなる要素なのか。

 舞台が絶頂を向かえ、「少女」が姿勢をかがめ、観客へ深く一礼をする。音楽が止んだ。さっきまで少女の動きにつき従っていた臙脂色の衣服が、動きを失って床に落ちた。その光景さえ命の呼吸を感じる。

 手を打ち始めたのは久坂。窪塚が続き、藤原が「見事!」と声を上げた。

 楽弥が口元を緩め、座敷に一礼をする。「少女」は踊り子の一人の腕に手を沿え、袂をするすると引きながら、音も無く楽弥の横にやってきた。踊り子は下がり、襖を閉めた。「少女」は座ったまま久坂に深く一礼をする。久坂は満足そうに一つ頷いた。

「息子の、仙 輝煌(チャン フィファン)です」

 楽弥がそう紹介すると、「少女」は座敷に向き直り、やはり一礼をした。

「息子?」

 そう聞きなおしたのは、古月。楽弥はにこやかに微笑んでいる。

「驚いただろう。楽弥の息子だけあって、女に負けぬ美貌と、そして伎楽の才の持ち主だ」

 古月は輝煌を今一度見やる。相変わらずにこりともしない。漆黒の黒い瞳が、自分を見ているのか、それとも他の何を見ているのか、古月には分からなかった。

「煌儿、皆様にお注ぎして」

 うっとりとする様な楽弥の声。藤原が自分の杯を差し出した。輝煌の白い左手が、藤原の二の腕に触れる。そのまま手首のまで降りてきて、杯を持っている藤原の手に触れた。そのまま、輝煌の右手が中空をさまよう。楽弥がその右手に銚子を授けた。そうして輝煌は、ようやく藤原の杯を酒で満たした。

「もしかしてあんた、目が」

 光の無い瞳が、見えていないはずの古月を見据えた。古月はその強い視線にどきりとしたが、輝煌はすぐに目を逸らす。続いて輝煌は楽弥の腕につかまり、こんどは古月の横に座った。そして同じように古月の腕を探る。

「光の無い世界で、彼はどんなものが見えていると思う。まるで現在の中国と同じ。外国に土地を食い荒らされても、何の抵抗も出来ない、救世主も現れない。さあ、社長。われわれには光が必要なのです。中国の二の前になる前に、日本に新たな光を」

「何をせい、いうんや」

 藤原が杯を置き、前を見据えて言った。

「欧州戦線に、日本は参戦する」
「…なんやて? 先日国会で、イギリスからの要請は受けないことが決まったばかりや無いか」
「我々は枢軸国を敵性国家とみなし、ドイツが権益を持つ青島、そして南洋諸島を攻略する」

 古月は次の言葉が接げなかった。なんで日本とは関係ない、欧州の戦いに自ら参加しなければならないのか。なぜわざわざ渦中に栗を拾いに行かなければならないのか。
 古月は窪塚を見た。そんな馬鹿な話があるわけが無い。軍部の独断で、政府の与り知らぬところかもしれない。窪塚に否定してほしかったが、窪塚は相変わらずのいけ好かないすまし顔のまま、「戦時国債の発行手配はすでに完了しております」と古月に告げた。

「お前ら…、ロシアと戦争したとき、国内がどうなったか知っとるんか。男が戦争にひっぱっていかれて、村には男が居らんなった。戦争には金が必要いうて、町中生活用品まで強烈なインフレや。日本人の生活がめちゃくちゃになったんやで!自分ら、日本を守りたい言うたな。日本を守るために日本人殺して、何が光や!!」

 古月は、自分の内臓の一つ一つがいちいち沸点を超えて、その蒸気が神経を通って頭に集まってくるような、そんな気分だった。体中が熱くなる。思わず身を乗り出して、久坂の胸倉を掴もうとした。古月の膳が、がしゃんと音を立てて倒れた。藤原がそれをよける。もう少しで久坂に手が届くところで、古月は動きを止めた。熱を持った古月の右手首を、ひんやりとした輝煌の右手が掴んだまま離さない。

「やめて。もう決まったこと。貴方には貴方の役目がある」

 光の無い漆黒の目。静かに口を開いた輝煌は、そのたった一言で古月の感情を沈める何がしかの波長のある声をしていた。しかし、古月は納得していない。

「煌儿の言うとおりだ。参戦はすでに御前会議でも承認されたこと。北条社長、日本をこれ以上疲弊させたくなければ、政府の軍縮方向に歯止めをかけ、戦争に勝たねばならない。国民には、国家の繁栄のために少しばかり協力してもらうことになるが、我々は必ず、それに応えるつもりだ」

 久坂は礼の真直ぐで純粋な目を、古月に向けていた。隣で藤原が目を閉じて頷き、窪塚は不敵な笑みを浮かべて、こちらを見ていた。


――日本国民全員が、人質っちゅうわけやな。


「軍縮派には、陸軍元帥、白河川修の力が大きく働いている。帝国陸軍の創設に多大な功績を残す功労者だが、どういうわけかこの功労者が、軍内の規模縮小を政府高官筋に突きつけているという話だ。そしてその尖兵となっているのが」

 古月はその人物に見当がついた。

「関東都督府陸軍部大佐、舎人耕三郎。社長、貴方は彼と親しい。貴方には、彼を『なんとかしてほしい』のです」

 輝煌の小さな手は、まだ古月の手首を掴んだままだ。
 その漆黒の目が、無邪気に自分を慕う、耕三郎の2人の子供と重なり、古月は頭を振った。


『 理想 』。


 それはいつの日にか、舎人耕三郎と語った、日本のあるべき姿。
 現実を前に、そのときからずっと大切にしてきた親友との共通の思いを、古月は忘れたものとして過去に葬り去ることにした。


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2010/09/23(木)
6、「傾城傾国」

中国の家族(1)

***

 中国大陸北部、長春から東へ約50キロ。
 松可村に向かう、騎馬の一団がある。

 乾いた土地の土ぼこりが上がり、一団はやがて樹林の生い茂る林の中の小さな小道を一列になって進んでいく。栗毛の2頭の騎馬を先頭に、その後ろに黒い騎馬が一頭。その後ろに三十騎程が続いている。騎乗の男たちは長い外套に帽子、そして背中には小銃を背負っている。林の小道を20分ほど走り抜けて、眼前に塀が聳え立ち、黒い門の前には二人の門番がいる。

「到ーー!!」

 タオと甲高い男の声が響き、2人の門番がつがいをはずすと、中から門が開いた。騎馬の一団は速度を緩めることなく、その門の中に吸い込まれていく。殿(しんがり)が門に入ると、その門は重厚な音を周囲に響かせて、ドスンと閉じられた。
 集落の広場で先頭の二人が降馬し、馬の轡を握って黒毛の騎馬に敬礼をする。黒毛の騎上でたずなが引かれ、甲高い嘶きを一つ空に響かせ、馬はそこに留まった。馬上から男が降りると、控えの男たちが黒毛の馬の手綱を持ち、馬屋へ引いていった。
 先頭二名の敬礼に小さく返礼し、男はそのまま行き過ぎる。梁 続山。この村の当家(タンチャア)――実質上の村の長であり、村の騎馬集団を統率する司令官だ。
 先頭二名、向かって左側、色白の狐目の男が続山の長男、生高(シャンカオ)。当家が行き過ぎると、生高は後方の騎馬集団に向かって「解散(ジィエサン)!」と叫ぶ。この男が当家の指示を全軍に伝達する。生高の声が響くと、騎馬たちは村の中にある自宅へとそれぞれ散っていった。
 向かって右側の長身の男は続山の次男、文秀(ウェンショウ)。軍内でのこの男の役割は、実働部隊の統率だ。そして6人いる参謀格(作戦立案)に関する取りまとめを行っている。一団が解散したのを見届けると、生高と文秀も再び馬にまたがり、帰路についた。

 翔も馬上の人である。
 解散していく騎馬の中から外れ、文秀の乗る馬の後をついていく。
 

 あれから七年。翔は十七になった。


 土で塗り固めた家々の続く中、文秀と翔の帰る家は、それらと何も変わらない、小さな土炉のような家。梁当家や生高の住んでいる家は、村合や作戦会議などが行われることもあって、レンガ造りの、要塞のような作りをしている。当家の息子の家でありながらこの家なのは、文秀の母、秋月が、「妾は妾らしい生活をするべき」と続山に進言したことに由来している。

「大哥(タアゴオ)、二哥(アールゴオ)、おかえりなさいっ!」

 馬の蹄の音が聞こえたらしく、玄関の布を押しやり、小さな女の子が飛び出してくる。
 文秀と翔は馬を降り、下男に手綱を渡すと、荷物を背負って玄関へ向かって歩き出した。

「美花(メイファ)、ただいま」

 先を歩く文秀にぱっと飛びつく美花。二人のやり取りは、単語以外日本語だ。今年6歳になる実の妹を、文秀は軽々と持ち上げる。「そろそろ帰ってくると思っていたの。今日は媽媽(マーマ)と一緒に餃子を作ったのよ」文秀の肩の上で、美花はうれしそうに足をぱたぱたさせている。「もちろん、二哥の分もあるからね!」
 翔は頷いて返事をした。


 ***


 七年前のあの日、村まで連れてこられた翔と義姉の霞は、当家の家ではなく、文秀の家に留め置かれた。
 後ろ手に縛られたまま、翔と義姉は馬の背から降ろされた。闇夜の道だった。土の壁の中には蝋燭が灯り、ほんのりと明るかった。義姉は相変わらずがたがたと震えていて、その身を翔にしっかりとくっつけていた。翔は怖いというよりも、自分はなぜこんなところにいるのだろうとか、先 ほどの兄の死だとか、殺される前に姉だけでも何とかしたいけれど、片言の中国語でどうやってそれを伝えようとか、そんなことを考えていた。

 翔たちが留め置かれたのとは別の部屋で話し声がし、どうやら先ほど自分たちを連れてきた長身の男――文秀は出かけたようだった。代わりに入ってきたのは女だった。自分の母親と同じくらいの年代だろうか。麻布の上着に紺で染め抜いたズボン、先の広い黒い靴を履いていた。女は翔と義姉の前まで来ると、しゃがみこんだ。じっくりと二人の顔を見て、口元を緩めた。

「日本人に会うのは久しぶりだよ。なあに、ここまできたらあいつらは殺しゃしないさ。それなりに働けば、飯も食える」

 きれいな日本語だった。そういうと女は使用人らしい下男に何かを指示して、小刀を持ってこさせた。姉は若干ぎょっとしたような素振りを見せたが、女はまず翔の腕を縛っていた縄を切り、続いて義姉の縄を切った。腕が自由になった。
「型、ついちまったみたいだな」。義姉の細い腕を見てそう言った女は、型のついた手首を親指でこすり始めた。少ししてその手首に血が通ってくると「大丈夫だ」といってその手を離した。義姉は少し落ち着いてきたようだった。翔も冷たくなった両手をこすり合わせた。

「あたしはここでは『秋月』で通っている。チウと呼んでくれ」
「チウさん、なぜ私たちはこんなことになってしまったのでしょうか、貴方も、馬賊に襲われてここへ…?」

 必死に懇願するような目をチウに向けた義姉は、言葉早にそう言った。チウはゆっくりと義姉を諭すように言った。

「少なくとも、あんたたち個人に否は無いよ。あるとしたら、あんたたちの父親が当家の勧告を聞かなかったのか、もしくは、人ン家に土足で上がりこむことを奨励しているあんたの国のせいだ」
「チウさんは、日本人ではないのですか」
「日本人さ。日本に捨てられた、れっきとした日本人」

 下男が盆に皿を二つ持ってきた。野菜くずのようなものが2つ入っていた。

「悪いね。こんな物しかないんだが、だが食べないよりはマシさ。暖まるよ」

 翔は、チウの腹が大きく膨らんでいることに気がついた。
 美花が生まれたのは、それから約4ヶ月後のことだ。



 翔と義姉は、村で暮らし始めた。
 翔は文秀の馬の世話、義姉は身重のチウに変わり、下男とかわるがわる家事などをこなしている様だった。夜は文秀が翔に漢語を教えてくれた。文字を読むことは出来たものの、聞いたり話したりすることが苦手だった翔だが、文秀の手ほどきによって1ヶ月も経つころには村での生活に困らない程度は話すことができるようになっていた。しかし、相変わらず2声と3声が苦手だった。文秀は「そのうち身につくさ。気にするな」と翔を励ました。

 当家には2人の妻がいる。正妻と、チウだ。当家は正妻との間に3男、チウとの間に文秀と美花がいる。チウは上海のお店で働いていたとかで、文秀を身ごもったのを機に当家が村に連れてきたのだという。文秀は中国語と日本語を話し、頭の回転も速く、そしてなによりも優しかった。当家と正妻の長男、生高は優秀で正確な判断が出来る反面、彼を纏う空気は冷たく、なかなか人が寄り付かない。しかし文秀はそんな生高の性格を熟知し、正妻と妾という母の違いによる確執ではなく、純粋に兄を慕う弟のように生高を理解し、そして生高も文秀を頼りにしている。戦場での2人の相性もよく、生高が決断し、文秀がそれに従って兵を率いる。2人の息子は、父、続山をよく支えている。

 翔が村に来てから、1年余りが過ぎようとしていたころだった。
 文秀の愛馬に牧草を食ませ、手綱を引いて帰宅したところ、家の前に人だかりが出来ていたのだった。

「怎么了(ぜまら)?」

 翔が隣に居た壮年の男に尋ねると、男は顎で前を指した。
 そこには、こすり付けるように地面に額をつけている義姉と、必死で許しを請う文秀の姿があった。その前に仁王立ちをしている当家。それを取り巻く村人たち。
 チウは家の玄関の縁に背を預け、腕を組み、複雑な表情をしている。

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2010/09/26(日)
6、「傾城傾国」

中国の家族(2)

「婚姻は来月だというのに、この有様は何だ」

 要は、文秀には当家の決めた許婚がいるのだが、翔の義姉の腹には文秀の子がいるということらしい。
 義姉は相変わらず地に頭をつけたまま、遠巻きの翔の目からもその恐怖心が見て取れる程に、がたがたと震えているようだった。文秀は村人は誰一人として歯向かうことの無い当家に、彼が普段見せることの無い剣幕で食って掛かる。

「それは貴方が決めたことだ。私はそれに承諾したつもりは無い」

「私のやり方に文句をつけるというのか」

 当家の連れて来た部下の後ろに、当家と正妻の三男、大昌(ダアチャン)の顔を見つけた。人々の視線が当家と文秀に集まる中、翔だけは大昌を見つめている。大昌は部下の後ろに隠れるようにしてこっそりと父と腹違いの兄のやりとりを見ており、時折その顔に不気味な笑顔が浮かんでいる。翔は、大昌が当家に告げ口をしたのだろうと思った。この3男は、自分が正妻の息子であることをまるで清朝の玉座にでもいるかのように誇りに思っており、たとえば道でチウや文秀にあったとすると、わざと彼らの前を歩き、「なぜ道を開けないのか。妾腹は礼儀も知らないのか」と罵る。長男生高は冷静な性格で文秀の素質を買っていることもあってそんなことは無いのだが、当家の正妻はチウに冷酷なほど敵愾心を抱いており、3男の大昌はそれを如実に受け継いでいる。

「文秀、お前と隣村の村長の娘との婚姻は、隣村との関係を強め、有事の際の援軍を請うための重要な繫がりとならんがためのもの。ここで子供なぞつくりおって、相手より「形だけの婚姻関係」と見なされれば、今までの交渉のすべてを無駄にすることになるではないか」

「お言葉ですが当家、そもそも正式な血統ですらない私を隣村に婿にだそうなど、相手からすれば「形だけ」も同然。もとより有事の際の援軍など期待できますまい」

「だまれ小僧!貴様が村の有力者の娘と結婚し、村の中枢を担うものとなれば、隣村もお前の意見も聞き入れよう。そんなことも分からぬとは、その女に随分絆されたものだ、あきれた息子よ!」

 当家の張り上げた声に、取り巻く村人たちが息を呑み、しかし半分好奇の目を向けていることが翔には分かった。大昌もその目が「もっとやれ」と言っている。当家の息子で、実力のある文秀といえど、この村から見ればやはりよそ者なのかもしれない。

「何度でも申し上げます。霞の腹にいるのは間違いなく私の子。私には、愛した女と、その子を養う義務がある。たとえ隣村に婿入りすることが村の決まりであろうとも、私は彼女たちを捨てて、この村を出ることは出来ない!」

 しんと静まり返った空気。空は秋空。ひんやりとした空気が時折肌を掠めている。
 当家と文秀の視線が強く交じり合う。義姉は相変わらず地に頭をつけて震えているし、大昌は次はどう出るのかとほくそ笑んでいる。
 チウは腕を組んだまま、その様子をじっと見ていた。

「ならば、その愛する女とやらが、いなくなればいいのだな」

 当家が顎で合図をすると、右手に控えていた部下の一人が青龍刀を抜いた。悲鳴にも似た、群集の声。大昌はその身を隠していた男が前に出たので、近くの村人の後ろに紛れた。翔もはっと息を呑んだ。

「当家、どうかお許しを!」

 尚も食い下がる文秀。しかし当家は揺るがない。

「戦場から連れて来た女だと。よくもそんな女と褥を共にすることが出来たな。もし私がその女なら、殺された家族への復讐心に駆られ、懐に短刀を忍ばせてお前に抱かれているだろう」

 青龍刀が頭を地に着けたままの義姉の頭上にきらめいた。必死でそれを止めに入ろうとする文秀。しかし当家の部下二人がかりで後ろ手を絡めとられ、文秀にはもがく事しかできない。

「当家!」

 文秀の、力なき叫び。
 同時に、翔は無意識に馬の手綱を放し、姉の前に立ち塞がった。
 青龍刀が翔の首筋でぴたりと止まる。当家の部下だから出来る芸当だ。
 ゆっくりと表を上げる義姉の顔は涙と泥にまみれ、力の抜けた文秀はその体重を二人の部下に預け、顔だけを翔に向けている。

「なんだ、お前は」
「1年前、文秀に義姉とともに助けられたものです。義姉は私の唯一の肉親、そして文秀は私の命の恩人です。どうか、助けていただけませんか」

 翔は日本語で当家に相対した。日本語のほうが、自分の気持ちを伝えられると思ったからだ。
 部下が当家に耳打ちをする。取り囲む村人たちは、どうなるものかとはらはらと見ているようだ。大昌が舌打ちをしているのが見えた。どこまでも救えない男だ。

「あのときの生き残りか。ならば聞こう。お前は、私やこの男が憎くは無いのか。お前の家族を惨殺した、この村の人間を殺したいとは思わないのか」
「あのときに死んでいたかもしれない私を、文秀は救ってくれた。そしてこの村で住むところを、仕事を与えてくれました。私はその恩に報いなければならない」
「その為ならば、お前は死んでもいいと申すのか」
「対」

 トエ、と澱みなく応えた翔を、当家は射抜くような視線で見つめていた。翔は怖いとは感じていなかった。どうせ1年前に無くしていたかも知れない命だ。少なくとも命を賭けて自分と義姉を守ろうとしてくれた兄に、あの世で顔向けが出来るだろう。文秀にも恩を返せる。
 ねえ、霞さん。どうしてこんなことになったんだろう。
 霞さんはここに来たばかりのころ、よく言っていたよね。「悔しい。昴さんの敵をとりたい。彼を殺した文秀が憎い」って。

「一つ、提案だ」

 玄関の縁に背を預けたまま、チウが声を上げた。

「霞は、この村から追放する。文秀には、もう二度と霞に会わないようにきつくあたしから言っておくよ。そんで、その子はあたしが立派な戦士に育てる。どうだい、当家」
「この女と子供を生かしておけば、必ずわが村の害となる。いい機会だ。殺したほうがいい」
「この2人を殺して、あんた文秀を敵に回すつもりかい?この村の装備から戦闘形態までを知り尽くしている文秀相手に、今の軍で勝てると思っているのかい」

 群集がざわめき出す。皆、ここで血が見たかったのか、それとも恵まれない境遇の翔に同情しているのか。チウは翔のところまでやってきて、ぽん、と頭に手を置いた。

「男の子がほしいって、あんた言ったね。悪かったね。美花は女の子だから軍人にはなれない。だけどこの子なら立派な戦士になるよ。大丈夫さ、あたしが責任を持つ」

 ウォ、ヨウ、ズゥラン。翔は秋月の顔を見た。その瞳には、翔を立派に育て上げるという自信と、当家への絶対なる信頼が見て取れた。当家もじっとチウを見ていたが、部下に顎で合図をすると、青龍刀を下ろし、代わりに地面に座っている翔の義姉の腕を掴み、強引に引き上げた。そして村の外れのほうへ、ずるずると引きずっていく。

「いや、翔、翔!!」

 義姉は必死で翔の名前を呼んでいた。当家の部下二人に体重を預けたまま、うな垂れ、涙を噛み殺している文秀。村人は義姉が男二人に引きずられていく様をどう見ていたのだろうか。文秀と義姉の純粋な愛情が引き裂かれた瞬間か。文秀をだました日本女の悲しい末路か。それとも…。

 遠く、義姉が見えなくなっても、その声は弟の名前を呼んでいた。
 その声が聞こえなくなるまで、終ぞ、文秀の名前を呼ぶ声が聞こえることはなかった。

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2010/09/27(月)
6、「傾城傾国」

中国の家族(3)

 ***


 義姉の一件で当家より1ヶ月の謹慎を申し渡された文秀は、自宅で書を読むなどの生活をして過ごした。やがて謹慎が解かれると、依然と何も変わらない様子で、当家の補佐などをしていた。内心、気にしているのかもしれないと翔も文秀の気持ちに寄り添おうとするのだけど、下手に引っかいて返って文秀を困らせるわけにもいかない。翔は、文秀が義姉のことで相談するなら自分しかいないと思っていたので、彼のほうから何か言ってきたときには親身になって応えてあげようと心に決めたのであった。

 それから少しして、翔は当家から「梁 文山(リャン ウェンシャン)」という名前を貰った。
 文秀の「文」に、当家「続山」の「山」。翔は正式に梁家の一員として、そして文秀の弟として当家に認められた。

 それと同時に、翔は村の騎馬隊の訓練にも参加することになった。毎朝、日が昇りきる前に起床し、村から約10キロ離れた丘の上に集合する。そこで体操をして組み手や打撃術、防御術を習い、昼に帰宅。今度は自分の馬を連れて週に3回程度遠乗りをする。そこでは長時間馬に乗っている体力をつけるとともに、生高が教師となって、騎乗したままでの武具の扱いなどを教練する。参加者は常時30人程度。これが村の精鋭部隊を構成する。大規模な戦闘が予測される場合は、予備役の村の壮年の男たち100名ほどを加えて、130人程度の騎馬隊を形成している。


 ***


「二哥、どうしたの、食べないの?」

 翔の皿の手のつけられていない餃子を見た美花が、身を乗り出している。
 翔は首を振って、一口、口に入れた。やはり味がしない。

「二哥が食べないなら、あたしが貰っちゃうね!」

 言うや否や、翔の皿の餃子に箸を突き刺す美花。チウが「やめな、みっともない」と一応口にはするが、とくに止めはしない。文秀が隣で穏やかに口元を緩めた。美花は意に介した様子もなく、翔の餃子を口に入れた。

「うん、おいしい!」

 そういって、零れん様な笑顔を見せる。
 

 ***

 翔が13歳の時に、初めて村の遠征に参加した。
 北京郊外の日本軍駐留地への襲撃だった。近隣の武装軍を統率するのは、梁続山当家。騎馬数およそ700。各騎馬が腰に佩剣して長銃を装備し、黒い、長い外套に帽子。この帽子は中に柔らかい針金のようなもので編んだ、頭部を防御するための工夫がなされている。

 奇襲開始は午後8時。当家の横に控えている生高が、双眼鏡で日本軍の宿営地の様子を伺っていた。今回の目的は、攪乱。日本軍を掃討することが目的ではない。要はこちら側に抵抗の意思があることを示し、この場から退散してもらおうというものだった。

 翔以外にも、年若い少年に顔がいくつも見受けられる。それは翔が知る限り、日本では見たことのないほどに大人びた目つきをしていて、戦場にくることの覚悟や、殺し、殺されることを理解している、そんな顔だった。自分の村の仲間ではなかったから名前も知らない少年だが、翔は、流されるままに生きてきた自分が、こんなところにいてもいいものなのだろうかと思った。

 生高の頭が動く。その横にいる文秀が指揮刀を上から下に振り下ろした。攻撃開始の合図だ。そこに居た300騎程の騎馬が、文秀に続いて動き出す。残りの300騎程は、二手に分けて、後方から襲撃する手はずになっている。

 翔も、その流れの中にいた。もとより長銃の銃弾は装填されているので、この下り坂を駆け下りて騎馬が安定したら散会して散弾する。先発隊ではすでに発砲が始まっているようだった。おそらく日本兵のものだろう、逃げ惑う声や、指揮官らしい怒号の声も聞こえてくる。翔の馬が平地へたどり着いた。視界が定まらない中、翔は、夜闇にむかって発砲する。

「ぎゃっ」

 翔の発砲と同時に聞こえた、男の断末魔だった。翔は前を走る騎馬を見失わないことに神経を使った。再装填し、反対側に一発。再装填、もう一発。繰り返すたびに聞こえていたものが、数をこなしていくうちにどんどん聞こえなくなってくる。そのうちに、何も考えずに銃を撃てるようになった。長銃にこめた銃弾が切れると、入れなおす時間が出来るまで翔は腰の剣を抜いた。

 どん、と耳を壊すような轟音が轟き、翔の前を走っていた一団が視界から消えた。次の瞬間に視界が煙にまかれ、前後不覚となった。翔は手綱を思いっきり引いて馬を落ち着かせた後、とりあえず今走ってきた方向に引き返した。煙が引いたと思ったら、再び轟音が鳴る。馬がその音に驚き、嘶いている。まずい。これでは文秀の指示も聞こえない。煙の中なら直接銃で狙われることもないので、月明かりを頼りに長銃に銃弾を入れなおし、右手で手綱を引いて、文秀の姿を探した。

 日本軍は完全にだまし討ちをされた形になっていて、800人程の兵に兵馬は50頭足らず、その馬にたどり着く前に翔たちに攻撃されたので、ほとんどが歩兵のまま、日本刀を抜いたり、慣れない銃の扱いに苦戦しているようだった。指揮系統はほとんど機能しておらず、極所局所で戦闘が繰り返されている。戦闘といっても、翔たちの軍は威嚇のようにその近くを通り過ぎながら発砲しているだけなのだが、暗闇を背後から奇襲された日本兵たちは、自分たちを殲滅に来たのだと必死にこちらに応戦している。銃火器などの装備は、対地上大砲なども完備している日本軍の方が圧倒的に有利だが、今回は当家率いる騎馬軍の作戦が圧倒していた。1時間ほども馬を走らせただろうか。攻撃用の長銃ではなく、撤退を知らせる文秀の短銃の甲高い銃声が3発鳴り、翔は馬の轡を返した。

 日本軍に、追い討ちをかける余裕などなかった。
 引き返す途上、敵味方入り乱れた死体の中に、さっきの少年が腹から血を流して絶命しているのを見た。
 彼はそれすらも受け入れているのだろうか。何度も死に目に会い、もはや生きることにすら実感の沸かない自分が生き残るなんて、神様がいるとしたら随分不公平な奴なんだなと翔は思った。



 ***



「それでねー、美花は爸爸(パーパ)に言ったんだよ。『そんなに怖い顔しちゃだめ』って。あのね、人の上に立つ者は、人から好かれなくちゃいけないんだって。孔子様もそう言ってるんだよ」

 美花は翔の上に肩車されており、『美花が』といってはにっこり笑い、『爸爸(パーパ)が』と言っては怖い顔をしている。爸爸(パーパ)とは言うまでもなく美花の父の当家のことであるが、文秀の一件は例外としても、当家にここまでものをいえるのは、美花をおいて他にはいるまい。
 隣には当家への提出書類とチウからの届け物をもった文秀がいる。昼下がり、翔と美花、そして文秀は、当家の家までの道を徒歩にて参る途上である。

「美花。いつの間に『春秋』を読んだんだい」
「あのね、老師から教えてもらったんだよ」

 老師様はね、何でも知っているけど、すぐ怒るのよ。だからみんなから「老鬼子(らおくいず)」って呼ばれているの。今日も老鬼子は怒っていたのよ。「袁世凱は自分の利益を追求している場合ではない。孫文と手を組み、大陸を統一して、今こそ日本と戦うべきだ」。

「美花ね、よくわかんなかった。どうして日本と戦うのかな。あのね、それは知ってるんだよ。日本は朝鮮みたいに、中国を乗っ取ろうとしているんでしょ。だから軍隊を中国にいっぱい送ってきて、それで爸爸(パーパ)や哥哥たちが一生懸命追い払おうとしているんだよね。でも変だよねえ。美花も妈妈(マーマ)も大哥も二哥も、日本語が話せるのにね。きっと話せば分かってくれるはずよ」

 どうやら美花は、戦争の原因がお互いの言葉が通じないことにあると思っているらしい。文秀が穏やかに微笑み、翔は神妙な心持で美花の話を聞いていた。怖いものなしの美花は、「でも大丈夫よ!爸爸(パーパ)が美花たちを守ってくれるんだから!」と声を上げていて、それは秋の深い空へ吸い込まれていった。言葉が通じれば、日本と戦わなくて済む。赤とんぼが歩みを進める3人の前を行ったりきたりしている。だったら、はじめから自分は戦場に立つことなんてなかったのかもしれない。あれから何度も当家の率いる騎馬隊に参加し、何度も人の生き死にを目撃した。その家族の悲しみにも立ち会った。そうして死線を潜り抜けることで、翔はこの村で一人の戦士をして認められたのかもしれない。誰かの死と引き換えに、生き残った自分はこの村で生かされている。

 兄さん。
 父さん、母さん。

 あの、見知った人たちの流した血の海に居た自分が、こうして天高い空の下、少なくとも今は、命の危険にさらされることもなく歩いている。そう思ったらなんだか足元がふわふわしてきたような気がして、ちょっと躓いた。思いがけなく、がっくんと首を大きく前に振った美花が驚いて、「どうしたの、二哥」と翔の短い髪を鷲掴みにする。その痛みが、ますます翔を、思考と認識のズレに追い込む。

「美花、痛い…」
「あ、ごめん」

 反射的にそう応えた美花の言葉に、謝意をまったく感じない。そのやり取りを見ていた文秀がくすくすと笑っている。

 結局、文秀が隣村に婿入りする話は、義姉との一件の後に破談し、代わりに当家と正妻の次男が、あれから2年後に違う村に婿入りした。実際、有事の際は当家の呼びかけに次男の婿入りした村が応じるようになったので、関係作りには成功したということになろう。しかし、あれから6年、当家は徐々に力をつけ、今では東北部の部族、匪賊、馬賊を率いる、一大勢力となっている。結局のところ、文秀や次男のつながりがなくても、彼自身の名声が周囲をひきつけていった。
 美花を降ろすと、ぱっとわき道に姿を消し、戻ってきた彼女の手には薄紫と濃い紫の秋桜。「どうぞ!」と他意なく翔にそれを手渡す美花。翔はそれを受け取った。「これは、大哥のぶんね」といって、文秀のズボンのポケットに秋桜を指している。「ありがとう」と笑ってみせる文秀だが、翔も文秀も、このまま当家に見えるのか。

「爸爸、来了!(ぱーぱ、来たわよ!)」

 ぱたぱたと軋む床を渡り、髭面の当家に飛びつく美花。当家は「呀美花,很好地来了。(やあ美花、よくきた)」といって頬ずりをしたあと、彼女を抱き上げて右手に乗せた。娘には甘い父親だ。文秀と翔が秋桜にまみれている事に少し目を見張ったが、「まあ座れ」と応接用のソファーを勧めた。
 当家の秘書代わりの若い女が、2人にコーヒーを運んでくる。当家が上海のイギリス商人から直接買い付けている特注品だ。翔はコーヒーが苦手なのだが、とりあえず口をつける。若い女は一礼してその場を去る。化粧気も愛想もない女だが、愁眉とはこのことを言うのだろうか。当家の好みそうな女だと翔は思った。
 文秀の携えていた書類と、チウからの届け物を預かると、当家はチウの届け物をみて大きく一つため息をつく。美花が「我看!(みせて)」、とせがむが、抱き上げてそれを制し、手紙をくしゃ、と封筒へ戻した。

「担忧事项也什么?(何か、懸念事項でも)」

 文秀が当家のその様子に気がつき、当家に問う。

「哦,必须比那个都到上海前往了。而且让你们同行。(いや、それよりも上海まで出向かねばならなくなった。それにはお前たちを同行させる)」

 1913年、晩秋。
 翔は、当家と文秀ら村の6名と共に、上海に向かうことになった。



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2010/09/28(火)
6、「傾城傾国」

傾城傾国(1)

 ***

 上海、湖南楼。朝方4時前後。
 浅い眠りの中、輝也は襖に人の気配を感じて目を覚ました。
 昨夜の客が帰り、いつものようにこの男と褥を共にしたことで、輝也はすでに「輝煌」を脱ぎ捨てている。素肌を伝わって、男の深い寝息が聞こえていた。輝也はその男が目を覚まさぬように静かに布団から抜け出して、手探りで自分の上着を探した。右手を大きく動かして、さらにその奥のほうに肌着を見つけた。この男の仕業だ。こういう地味な自分への仕打ちをして、輝也が困るのを見て面白いという男なのだ。長い黒髪を衣服の外に出すこと無くそのまま地肌の上に肌着を羽織り、身に着けた距離感と感覚で襖へ向かう。

 とん、と輝也が襖に触れると、襖はすっと開く。この気配は、「湖南楼」唯一の日本人の使用人、田口か。

「どうした」
「楽弥が姿を消しました」

 田口は床に膝を着き、輝也に頭を下げた状態で話をする。田口だけではない。この「湖南楼」の従業員は皆、楽弥と輝也にはこうして話をするのだ。

「目を離すなと言ったはずだ」
「申し訳ありません」

 輝也は小さくため息をついた。田口は、すでに探索の手配をしたと輝也に告げた。

 楽弥には2つの人格がある。輝也はそう思っている。
 一人目は、自分を生んでくれた、吉岡らく。温和で純情な少女のような感性を持った、繊細で儚い母。
 二人目は、「湖南楼」の女主人、仙 楽弥。客の前では見目麗しく利発な女将を演じているが、内心を黒澤修吾、そしてかの祖国、日本を心のそこから憎悪する女。彼らを壊すためなら、息子すらも利用する、狡猾な女。
 楽弥は以前にも何度か、こうして誰にも何も告げずにふらりと姿を消すことがあった。それは日本人の軍人を相手にした後だったり、満月だったり、とにかく何の脈絡も無く失踪するのだ。湖南楼の従業員で1日中上海を探して、ようやく路地で小さくなって震えている楽弥を見つけることが何度も続いた。田口はそれを想定して、上海市内に人手を手配したのだろう。

「いや、おそらく北京だ」
「北京ですか」

 輝也は長い着物をずるりと引きずり、柱に体を預ける。バランスをとるために出した右足が、着物の前から白く覗く。

「あくまで可能性だ。北京につながる街道、駅に人をやれ。まだ近くにいるかもしれない」

 田口は輝也に頭を下げ、静かにその場を去る。
 それとほぼ同時に、輝也に覆いかぶさる影があった。肌着一枚の輝也の背中から肩を抱いて、耳元に吐息を吹きかけてくる。起こしてしまったか。

「久坂」
「また居なくなったか。随分ご執心だな」

 そう言いながら、久坂は輝也の緩い着物の胸元から手を忍ばせてくる。何も身を纏っていない久坂の腕から、密着した背中から、彼の体温が強引に伝わってくる。輝也はそれを掴み、わざと久坂の耳元に呟く。

「お前が、昨夜、舎人耕三郎の名前を出したからだ」
「ああ、その響きを聞くだけで、憤死してしまいそうだ……」

 強引に輝也を暗闇に押し倒す久坂。開いている襖からほの暗い明かりが漏れる以外は、漆黒の闇。畳を背に、輝也は身につけていた肌着を剥がされ、上半身に浴びるような口付けの洗礼を受ける。その白い肌に、いくつもの赤い「傷跡」が残っている。

「舎人耕三郎は北京にいると言ったな。ならば楽弥は北京に向かうはずだ」
「さすが楽弥の息子だ。ちょっと国の未来を話しただけで此方の思惑に乗ってくれた北条古月とは違う」
「またあの話をしたのか」

 熱を持ち始めた輝也の体を愛撫する久坂の手が、ぴたりと止まる。久坂は輝也の顔をじっと見つめる。

「なんだ、興味があるのか」

 自分が困るのを見て喜ぶ癖のあるこの男の趣向に付き合うつもりは毛頭無かった。

「日本の未来になんて、興味は無い」

 満足そうに輝也に見入る久坂。腕も下半身もこの男に完全に拘束されている。輝也はそう言って、唯一自由の利く顔を背ける。輝也は、奮い立つような久坂の気配を感じていて、ぞっとしなかった。「そう、それでいいんだよ輝也」そう呟きながら久坂は自らの下半身を輝也のそれへ触れさせる。

「愛しい輝也。お前の願いを叶えるためなら、芝居の一つだって打ってやろう。国の一つだって壊してやろう。なあ、お前は何がほしい。俺はお前の望むものをすべて与えよう。さあ、さあ!」

 次第に久坂の息が上がり、腰の動きが俊敏になってくる。何度かそうされているうちに下半身に鈍い痛みを感じて、輝也はその女子のような美しい顔を顰めた。それをみて意気を上げる久坂が、何度も輝也の顔に口付けてくる。だんだん麻痺してくる下半身に反してこういうときの輝也の思考は冴え渡っている。5歳のときに初めて男に抱かれて以来、これは全うな自分の仕事で、生きるために必要な義務なのだと思っている。

 行為が終わると、畳に輝也を組み伏せたまま久坂を上半身を起こし、輝也を見下げる。その荒い息が聞こえた。輝也は動かない。痺れの残る体をぶらさげて、頭の中では今日、自分がすべきことを組み立てている。楽弥のいない湖南楼を取り仕切るのは、輝也の役目だ。湯を浴びて、朝食を手配したら今夜の準備に取り掛からねばならない。今夜は特別な会合の場として、湖南楼の一室を提供する。もしかしたら中国の今後を担う、一大勢力になるかもしれない男たちの集まりだ。抜かりがあってはならない。気合を入れて取り仕切らねばならない。おそらく楽弥は今夜には間に合わないだろう。まあいい。彼らに顔を売っておくのも今後何かの役に立つかもしれない。

「今夜の会合には、梁 続山が来るんだってな」

 先ほどまでとは違う、醒めた声が久坂から輝也に向けられる。腐っても日本の将校か、と輝也は自分の心の中に吐き捨て、静かに口を開いた。

「生憎、日本人の席は用意していないんでな」
「その必要は無い。無いのであれば、作るまで」

 輝也は久坂を押しのけて上半身を起こし、その光の無い目で久坂を見据えた。

「あまり中国人を見くびるなよ。貴様ら日本人などにこの国は渡さない」

 真正面からその言葉を浴びた久坂は、ゆっくりと口元を緩めて笑い、「ああ、いいね、お前はやはり最高だよ」と言った。


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2010/10/01(金)
6、「傾城傾国」

傾城傾国(2)

 ***


 梁 続山が湖南楼に現れたのは、上海の夜にネオンが煌めく夜8時過ぎだった。

 膳を設えた一室には、6名分の席が用意してある。大陸中央部、山東省、安徽省、福建省などを統括する段麗華、山西省の園碌、河北省の馬玉林、甘粛省の馬竜漢、湖北省の劉錫候、そして河北省の梁続山。

 北京と上海をぐるりと囲むように、その地方の実力者がこの場に集結している。

 2年前の1911年に宣統帝が退位し、清朝が滅亡。孫文を臨時大統領とする中華民国政府が成立した。北洋新軍の総帥で清国の内閣総理大臣であった袁世凱を後任に指名して孫文は表舞台から退くが、袁は議院内閣制を想起した孫の政府をそのまま譲り受けるつもりは毛頭なく、孫文を追放して中央集権的政治機構の創設に着手した。1913年10月、袁が手配した圧力団体が議会を包囲する中、議会は袁を正式に大統領として選出した。これが、先月の話。袁はより強固にその権力を手中に収めるべくして、清朝弱体とともに勢力を伸ばした地方の軍閥の征圧に着手したのだ。

 北洋軍閥とは、袁が近代化を進めた、清朝の軍を指す。にもかかわらず袁は北洋軍を率いて革命軍に合流、辛亥革命を達成し、ついにその権力を手中にした。地方軍閥の中にも、革命軍を流れを汲み、袁の傘下に居る軍閥も存在している。今日の席上にいる、園碌、梁続山以外の4名は革命軍の一派だ。主流となりつつある袁世凱の参加からこうして反政府勢力への会合の席へ合席者が出ているという事実が、この会合の重要性を内包する。


 ***


 翔は、会合の部屋の、隣の、入り口の通路側に居た。
 
 文秀と翔は、当家続山を警護という名目で上海まで同行した。この湖南楼には、それぞれの腹心たちが出口という出口を固めている。文秀は通路入り口付近。部下たちは雑多と行き来する楼閣の客に紛れてそこに立っているが、彼らを纏う空気は、客のそれとは異質を放っている。

 室内とはいえ、外は雪。暖房も届かない通路だ。翔は誰も見ていないことを確認して、壁にもたれたまま座り込み、自らの息で両手を暖めた。一つ大きく息を吐くと、白い息が見える。ずいぶん高い天井だな。赤い壁、赤い通路。湖南楼に来るのは初めてだ。ここが、チウの働いていた店か。随分大きな店だな。

 チウが日本人だったこともあり、日本の軍人や外交官、商人なんかもよく使うのだと聞いたことがある。そういえばそれらしい顔も何人か見かけた。日本に居たころは分からなかったが、こちらでの暮らしが長くなるに従って、日本人、朝鮮人、中国人の区別がつくようになってきた。自分もそういう風に見られているのかもしれない。ここ中国に、「ほら見ろ、日本人だぞ」と。

 ガラリと外扉が開いて、翔はびくりと体を震わせる。急いで立とうとするが、そこにいた「少女」の存在感に圧倒された。
 翔を見下ろす「少女」。紅色の唐紅に高く結い上げた髪。引きずるような長さの袖。翡翠の簪、その簪にシャランと揺れる金色の飾り。

 「少女」は目が見えないのだろうか。杖を頼りに、ここまで来たようだ。
 その赤い唇が、震える。

「是什么你呢。为何日本人在这里(なんだお前は。なぜ日本人がここにいる)」

 その可憐な外見から思わぬ言葉が出たことに、翔は狼狽する。そのまま動けず、輝煌から目を離せずにいる。

「对问题回答,你是什么人(質問に答えろ、貴様は何者だ)」

 言うなり「少女」は杖を投げつけ、その音が聞こえたほうに向かい、輝煌は翔の胸倉に掴みかかかる。翔はほとんど抵抗もないままそのまま壁に押し付けられた。輝煌の翔を掴む腕に力が入る。ぎりぎりと締め上げられて、翔は息が苦しい。
 おかしい。なんだこの違和感は。翔はゆっくりと攻勢に入る。押しやられている顔を何とか戻して、輝煌の腕を掴み返す。視界に入る美しい顔は、その怒りに染まる眉すらこの世のものとは思えぬ愛らしさだった。

「那样的你,不是也是不是日本人(そういうお前も、日本人じゃないのか)」

 締め上げられている苦しい状態で、翔はようやくそれだけ返した。途端に輝煌の目の色が変わる。翔はその瞬間を見逃さない。体格では勝る翔が、輝煌を床に押し倒す。翔が圧倒的に優勢になっても、輝煌は尚も抵抗しようとする。

「我别与是中国人,你们要一起(俺は中国人だ、貴様らと一緒にするな)」
「别撒谎,那个脸是日本人(嘘をつくな、その顔は日本人だ)」
「吵闹!你现在马上在这个场走开!日本人可以遇见在的聚会的场没有这里!(五月蝿い!貴様は今すぐこの場を立ち去れ!ここは日本人の立ち会ってもいい会合の場では無い!)」

 騒ぎを聞きつけた湖南楼の下男たちが「あいやー」と叫びながら通路に集まってくる。あれよという間に翔は男たちに羽交い絞めにされた。輝煌はごほごほと咳き込んだ後、下男が大丈夫かと差し出された手を払った。美しい眉を逆立て、翔に敵意むき出しのままの目を向けている。

「是什么吵闹(何の騒ぎだ)」

 声をかけたのは文秀、その後ろにも、どやどやと物見湯山の見物客たちが押し寄せているようだった。

「文秀!」

 ぱっ、と向き直り、文秀に手を伸ばす輝煌。彼の目が見えないことを知っている文秀は、その手を取った。腕を伝い、文秀に縋る輝煌。さっきまでの様子とは違う、それこそ「少女」のようだと翔は思った。

「翔、どうした、何があった」

 文秀の顔を見上げる輝煌。文秀は事態を大体飲み込んだらしく、輝煌の頭をなでると、宥めるように言った。

「あれは俺たちの連れだ。離してやってくれないか」
「だめだ文秀、日本人はここには入れられない。大切な会合なんだ、分かっているだろう?」
「分かっている。だが翔は当家が自ら指名して、ここに連れてきた。分かるな。輝也、日本をそう嫌ってはいけない。今は少しすれ違いが続いているだけで、あの国はアジアでもいち早く近代化を進めた国だ。見習うべきところはたくさんあるんだ」
「文秀がなんと言おうと、嫌」
「俺も日本人の血を受け継いでいる。そしてお前もそうだ。日本で生まれ、訳あって今、中国で暮らしている。翔も一緒だ」
「違う!俺は中国人だ!」
「輝也!」
 
 文秀が声を荒げる。翔は、文秀が美花にですらこんなに感情をぶつけるところを見たことが無い。輝煌は納得できないという表情のまま、輝也は翔の後ろ手をからめとっている男たちに目配せをする。翔はその不自由から開放された。同時に、奥の座敷から接待を任されていた女たちが出てきて、輝煌の出番を告げた。輝也は女たちに腕を引かれ、先導されて奥の部屋へと消えて行った。 

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2010/10/04(月)
6、「傾城傾国」

傾城傾国(3)

 ***



 張作霖はこの場に居ない。
 
 彼は袁世凱とのつながりが強い。北京を中心に黒龍江、吉林、奉天を掌握するこの背丈の低い小男は、袁世凱の下で腹心としてその辣腕を振るっている。同じく北京周辺を勢力範囲とする梁 続山は、清朝から正式に統治を任されている張と一線を画し、その圧制から近隣の村々を防衛してきた。張にとって、梁 続山率いる近隣集落の自衛騎馬軍は、目の上の瘤のような存在となっている。

 袁世凱の後ろ盾である北洋新軍は、内部分裂が始まっている。

 段 麗華がそう述べたことで、地方では人々の噂となっていた話が事実であることが裏付けられた。

 後継者をめぐる争いである。各地方に散らばっている袁の息の掛かった者たちの仲でも、呉文京、張作霖、そしてこの席上に臨場している段麗華、馬玉林もそれぞれ名を上げている。張は袁世凱に非常に目を掛けられており、後継者としては最有力とされている。馬はその人望から名を謳われているのであり、本人はこの場で段麗華の貢献となる旨を宣言した。また、今後も袁の不条理な要求を決して受け入れず、局地レベルで抵抗する意思を兵で持って示すことも確認された。

 あくまで現地対応であり、相互に手を組むという具体的な話に言及したわけではない。それはおのおのの胸中に、北洋進軍後の大陸の覇者は自分であるという思いの表れなのか、否か。


 ***


 日付が変わるころ、奥の間の雰囲気が和らいだ。翔はそれまで張り詰めていた気を少しだけ抜いて、ため息をついた。

 女たちが酒を持ってきたり入ってきたりしている。「彼女」は、まだ出てきていないところを見ると、まだ座敷に居るのかもしれない。それにしても、あの座敷を「彼女」が一人で切り盛りしているのだろうか。まだ年端も行かないように見えたが。ここ「湖南楼」は、チウの後を若い女が引き継いだと聞いているが、それにしても「彼女」は幼すぎるのではないのか。

「翔」

 文秀が水筒を手にやってきて、翔の隣に腰を下ろした。奥を見れば、ほかの部下たちの顔からも緊張の弛緩した顔が見受けられる。まだ外敵の侵入がないとは限らないから、ちょっとだけ回りにも気を配りつつ、翔も腰を下ろした。文秀が水筒を差し出した。そういえば4時間も立ちっ放しで、のどが渇いていることに今気がついた。普段の訓練よりもただ立っている事の方が水分体力を消耗した。

「当家がお前の分もここに宿を用意してくれている。もうじき終わるだろうから、ゆっくり休むといい。俺は先に北京に戻る」

 意外だった。どうやら翔は、当家の身柄を一人で預かることになるらしい。ずいぶん信用されたものだ。

「初めての警護だろう。よくやったな」

 文秀はそういって笑った。この男は人を惜しげも無く誉めることが出来る。翔がごくっと水を飲んだ。

「文秀、あの子がここの主人なのか」
「あの子、ああ、輝煌のことか」
「輝煌?『コウヤ』ではないのか」

 『輝煌』はここでの通り名なんだ、と文秀は言った。

「ここの主人はね、病気がちで、よく人前に出ることが出来なくなるから、彼がこうして場を取り仕切るようになったんだ」
「どうしてあんなに日本を嫌うんだ、あれも日本の血が入っているのだろう」

 翔は何気なく聞いたつもりだったのだが、文秀は少し沈黙した。言葉を捜しているようだった。

「お前は、日本を憎いと思ったことは無いのか」

 沈黙の後に文秀から聞かされた言葉が意外なもので、翔は驚いた。それは、文秀にもそのような思いがあったということなのか。

「考えたことも無い」
「じゃあ中国は?」
「ここまで育ててもらったと思っている」

 今度は文秀が驚いたという風に目を見開く。

「お前はすごいな。まったく自分がブレない」

 そう言って文秀は大きく息を吸って、吐いた。遠くを見るように、その視線は柔らかい文秀の臭気を纏ったまま中空をさまよい、定まることが無い。

「俺はあるよ。輝也と同じように、日本を憎んだ時期もあった。俺の中に流れる日本人の血を恨んだこともある。だからあれの気持ちは理解しているつもりだ。まだ時間が足りないんだ」
「どう理解するんだ」
「どう、って…」

 そのとき、淡い白檀の香りがした。

「日本は俺たちを捨てた。人民を救わない国など、こちらから願い下げだというのだ」

 相変わらず翔を見下げる輝也の姿があった。その姿はやはり、黄金を頂く皇帝の龍のように気高く、そして睡蓮の花弁のように美しい。 


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2010/10/06(水)
6、「傾城傾国」

傾城傾国(4)

 ***


 文秀と翔は、座敷に通された。
 6畳ほどの、本当に何も無い部屋だった。

「他の部屋は使っているんだ。悪いな」

 輝也は人払いをし、文秀にそう言った。自分も流れについてきてしまったのだが、よかったのだろうかと翔はちょっと思った。

「会いたかった、文秀」

 そう言うなり、輝也は文秀の胸に身を預ける。翔は相変わらずぎょっとしたが、文秀が特に気にしている様子も無いので、「これ以上の進展は無い」のだろうと思った。場合によっては、自ら退席するところだ。

「改めて紹介するよ。弟の梁 文山(リャン ウェンシャン)だ」

 思わぬうちに自分に話題が振られ、翔は思わず背が伸びた。輝也はこちらにちらりと視線をよこしたが、それきりだった。

「それで、こちらはここの主の息子さんで、仙 輝煌(チャン フイファン)」
「息子?」

 翔は驚いて、文秀に縋る輝也に視線をやる。輝也はそっぽを向いたきりこちらを省みることも無かったが、そういわれれば、肩の線や腰の辺りが女性のものとは違う。しかしそれは本当によく気にしなければ気がつかない程度のものだ。

「文秀、久しぶりに会えたんだ。今日はゆっくりしていけるんだろう?」
「会合が終わり次第、先にここを発つことになっている。また今度な」
「行き先は北京か?女が出来たという話は本当か?」

 翔はおや、と思った。そういえば文秀は北京に用事があるのだといっていた。義姉の一件以来、浮いた話も無かったが、文秀もなかなか隅に置けないじゃないか。よかったな。翔は素直にそう思った。
 だが、輝也はそうは行かないらしい。その美しい眉にしわを寄せ、文秀の肩をゆすりながら詰問する。

「随分耳が早いな。その噂は生高あたりからのものか?」
「俺に知らないことなど無いぞ。民国政府の人事、日本軍の動向、なんなら、先日退位した宣統帝の今日の夜食の献立を教えてやってもいい」
「皇帝がお元気で何よりだ」
「話を逸らすな、北京の女がそんなにいいのか?俺ではだめか?」

 これは客引きなのだろうか、と思いながら翔は二人のやり取りを見ていたのだが、よくよく考えると、さっきの自分への態度からして、この「男」が誰かに媚び諂って客をつなぎとめているとは思えない。ましてや、当家ならまだしもその息子である文秀だ。まだ宴席にある馬賊の首脳連中を別の女に任せたままで、こちらにくる理由など思いつかない。
 おそらく、本気なのだ。そう、翔は思った。

「ああ、そうだ。彼女がいいんだ」

 そういった瞬間に、輝也が当惑とも悲しみともいえない表情で文秀を見上げた。熱を持った瞼が赤く腫れ、言葉をつなげない小さな赤い唇が震える。どんどん、と文秀の胸をこぶしで叩き、「笨蛋(馬鹿)」と一つ呟いた。輝也が動くのと同時に、髪飾りがしゃんしゃんと鳴った。一通り文秀を責めた後、輝也は文秀から離れた。激しく動いたせいで、輝也の着物の前がはだけ、肩の細い線が見えた。

「俺は、文秀が好きだ」
「ああ、知っている。ありがとう、嬉しいよ」
「お前はいつもそうだ!嬉しいといってくれる割には、俺を抱いてくれないじゃないか!」
「輝也、お前は男だ。今は楽弥があの状態だから仕方が無いかもしれないが、いずれはお前も男として振舞わねばならないときが来る」
「違う、俺は女だ!」
「自覚しろ、お前は男だ」
「いやだ、俺は文秀が好きなんだ!」

 言うなり立ち上がり、輝也は大きく息を吸った。
 そして朗々と語るように、歌いだした。

  北方有佳人       北方に佳人有り
  絶世而独立       絶世にして独り立ち
  一顧傾人城       一たび顧みれば人の城を傾け
  再顧傾人国       再び顧みれば人の国を傾く
  寧不知傾城与傾国    いずくんぞ傾城と傾国を知らざらんや
  佳人難再得       佳人再びは得難し

 その光の無い瞳には、輝也の精一杯の抵抗の色が見て取れた。歌い終えた輝也はぜえぜえと肩で息をしていて、その瞳はぽってりと熱を孕んでいる。「輝也、おいで」文秀がそういうと、輝也は手を伸ばした。その手を取って、文秀は再び、輝也をその胸に抱いた。輝也は大人しくそれに従った。
 輝也は、おそらく文秀の女への皮肉をこめて歌ったのだろう。しかし翔には、この歌が輝也自身を歌っているのではと思われた。これほどに美しく輝く四肢を持ち、そして感情を露わに想う人に伝えることができる。 
 文秀の心音を聞いて、輝也は落ち着いたようだった。

「文山の日本名は伊藤翔という」
「日本人の話なんか聞きたくない」
「翔の家族を、当家と俺達が殺した」

 輝也は文秀の胸に埋めていた顔を上げた。
 翔はだまってその話を聞いていた。

「どうだい、彼と話してみる気になったかい」

 輝也は、一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すっと立ち上がって振り向いた。からりと襖戸が開き、女が会合の場が解散したことを告げた。

「それはどうかな。賢しらに不運を詳らかにするような男なんかに、俺は興味ない」
「残念だ。日本人の男同士、仲良くなれると思うんだが」

 そう言って、文秀は苦笑した。女に手を引かれ、輝也は部屋を出て行き、ぱたんと襖戸が閉められた。 


 ***


 会合の部屋へ繫がる通路の入り口の壁に、久坂が背を持たれ、腕を組んでいた。

「是什么事情。日本人的住处应该说了没有(何の用だ。日本人の居場所は無いと言った筈だ)」

「梁续山的儿子怎样并非一定要暂时听。明白了乐弥的住处(梁 続山の息子はどうなのかとはあえて聞かないでおいてやろう。楽弥の居場所が分かった)」

 目の色を変え、久坂に振り返る輝也。気が高ぶった自分に戒めを掛け、改めて表情を引き締めると、その様子を満足げに見ていた久坂がその口元をゆがめた。

「是不是知道?(知りたいか)」

 こういう、もったいぶらせるようなこの男の態度に腹が立つ。

「不是。立即在这边安排了的伙伴发现吧(いや、いい。じきにこっちで手配した連中が見つけてくるだろう)」

 その場を去ろうとした輝也の後ろに久坂が言葉を投げかけた。

「在这边确保着乐弥。不找到你们在这边打算寻找多少吧(楽弥はこちらで確保している。お前たちがこちらでいくら探そうと見つかるまい)」

 輝也は改めて久坂のやり方に腹を立てた。振り返り、その光の無い目でその日本軍の将校を睨み付けた。

「你…(貴様…)」
「这个那样发怒的。预先托付了给我的相识。到那里到领取去本人就好了(まあそう怒るなよ。俺の知り合いに預けておいた。そこに身柄を引き取りにいくといい)」
「是相识?(知り合いだと?)」

 久坂は、輝也の目の高さまで屈み、そしてその耳元で囁いた。

「是舍人耕三郎地方。好象误解着告诉。在这个大陆什么是起来着,并且今后还是发生什么,全部掌握那些是我们,日军(舎人 耕三郎のところに、だ。勘違いをしているようだから教えてやる。この大陸で何が起きているのか、そしてこれから何が起こるのか、それらをすべて把握しているのは我々、日本軍だ)」

 久坂はそれだけ告げると、その口元に笑みを湛えたまま、ちらほらと雪の舞う湖南楼の出口へと消えていった。


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2010/10/08(金)
6、「傾城傾国」

想い人(1)

 ***


 北京。午後11時。

 舎人耕三郎は日本大使館での勤務を追え、その帰路に付いている。
 辺りは暗い。紫禁城の長い城壁を右手に見ながら、その通路を挟んですぐ向かい側は、暗黒街のように静まり返っている。粗末なバラックの中に、たまに人の影らしきものがうごめいている。この一つの道を隔てて、壁の向こう側に住んでいる退位を迫られた皇帝と、何の身分も保証されていないこの影のような人間にどんな階級の差があるというのだろう。耕三郎は日本の外交官をたずねてきた辮髪の宮仕えの大使の相手をしながら、相変わらず世間の現状を理解しようとしない壁の向こうの住人たちを少々哀れに思いながらも、本国より宮廷に接近してゆくゆくの大陸政策に役立てよという暗黙の指令を念頭に今日も仕事に追われていた。
 自宅まで徒歩で20分。武官であり、陸軍大佐の肩書きを持つ舎人は、馬や車を使わず、あえて毎日の通勤を自らの足で踏破している。
 朝、この暗黒街も人々の生気に満ちる。露天商をするもの、朝の運動をするもの、赤子を背負い、玄関といえないで入り口を吐き出しているもの。襤褸を纏った人々が、その生命力を持て余すかのように通路にまであふれている。笑い声、泣き声、叫び声、客引きの声に談笑の声。雑多と繰り広げられる北京語の美しいその抑揚と、力強さを兼ねる単語の一つ一つに、耕三郎は支那人の生きる力を見出している。日本以上に身分や階級に囚われ続けてきた中国大陸は、先の清朝崩壊により形ばかりではあるが議会を立ち上げ民主制の国家となった。彼らは、漢代・武帝の頃より二千年と続いた長い長い囚人のような差別から開放され、晴れて中華人民が平等の時代をなった。それを知ってか知らずか、彼らの目には「今日を楽しく生きるための活力」だとか、そういったものが見えるような気がして、耕三郎はなんだか心がわくわくと弾むような気がしてくるのだ。あるのか無いのか分からないような清朝の皇室の幻影に縋りついている宦官達の瞳に浮かぶ、権力への固執の様などす黒い光よりもずっと、彼らの明日への希望とやらを愛おしく感じているのかもしれない。もっとも、彼らにしてみれば国家の変質という歴史的な転換期である今ですら、今日を生き残るための飯以上の価値は無いのかもしれないが。

 耕三郎が参謀本部から北京の大使館附武官勤務の拝命を受けたのは今年の6月。孫文から実権を譲り受けた(それは事前の取り決めでもあったわけだが)袁世凱の独裁体制の布石と、それに抗おうとする抵抗勢力の鍔迫り合いが、3月の宋教仁暗殺によって袁に傾城が傾きかけていて、抵抗派が最後の望みをかけて第2革命を画策していた時期だった。結局第2革命は、袁が勢力の基盤としている、西洋列強の最新兵器を導入した北洋新軍の働きによって壊滅、孫文は日本に亡命し、今月、袁世凱は多数派工作を行った議会で正式に大統領に就任した。武官としての舎人の任務は大使館での事務官として任務以上に大陸情勢の把握と「旧清朝政府」とのパイプ作りにあった。本国が近い将来に大陸への進出を図っていることは明確だった。ただ、舎人の想定外だったのは、昨年欧州で始まったドイツを中心とする枢軸国と連合国との戦争に日本が参加することを閣議決定したという事実だった。おかげで本部からドイツ領青島付近の詳しい地形図を送ってこいだの、現地駐留軍との折衝をしろだの、本来駐在武官のやるべき仕事ではないことまで舎人が手を回さねばならなくなった。慢性的な人手不足とはいえ、北京勤めの舎人が遼東半島までその守備を広めるということに関しては、物理的に不可能に近かったが、幸い、舎人と公私ともに親しい黒澤修吾少佐が同じく武官として赴任しており、本国との折衝やその他雑用に近いことまで気を利かせてくれていたので、何とか仕事をこなすことが出来ている状態だった。

 次に子供たちに会えるのは、青島攻略戦が終わってからになるかな。

 見上げると、満天の星空からちらほらと雪が舞ってきた。道理で寒かったはずだ。冬の空は空気が澄んでいるので星を見るには一番いいと息子の拓真が言っていたのを思い出した。あの子も今年10歳になる。いつも姉の後ろに控えているような子だったが、そうして自分の考えを人に述べることが出来るようになったことを、耕三郎は親馬鹿を承知でとても嬉しく思っている。

 故同の路地を曲がり、外国人の居留地となりつつある一角に、軍が用意した舎人の北京での居住地がある。
 白塗りの洋風の木造2階建て。玄関が開閉式のドア。隣家との間にはブロック塀が敷かれ、小さいながら庭もついている。現地で雇った支那人の使用人が帰宅の際にいつも玄関のランプをつけて行ってくれるので、難なく鍵を探すことが出来る。大使館の外交官たちは「支那人の使用人なんて、何を盗まれるか分かったものではない」と眉を顰めるものも居るが、別に取られるようなものもないし、今のところ問題なく家事をこなしてくれるので、舎人は却って有難いと思っているくらいであった。

 自宅に辿り着くころには地面が雪に降られて白く薄化粧された状態となっていた。舎人は肩の雪をほろい、ズボンのポケットから鍵を取り出すと、見慣れた玄関がいつもと様子が違うことに気がついた。


――誰か、居る? 


 玄関のドアにもたれ掛るように、上着も着ていない女がそこに蹲っていた。見ると何も履いていない裸足の足は寒さから赤くなっており、頭や肩や膝には粉雪に降られて白くなっている。黒い髪は艶やかさを残しつつもぽろぽろとほつれ、辛うじて髪留めが襟の所で留まっていた。着ている黒い友禅はところどころ擦り切れているがおそらく本物だろう。耕三郎は膝をつき、「どうしました、大丈夫ですか」と肩を揺すってみたが女はその長い睫を伏せたまま、がくりと首を落としただけだった。傾げた首筋が白く、ほつれた髪の束が緩やかに落ちてその艶めかしい顔の全体が露になる。小さな瓜実顔に、血の気の無い唇。愁眉の眉。化粧気の無い青ざめたその表情すら、男を扇情的にさせる色気のようなものがある。

 どこか医者につれて行こうにも夜が深い。幸い、致命傷に至りそうな怪我は見当たらなかった。耕三郎は少し考えた後、とりあえず家の中に入れて体を温めてやる方うが先決だと判断した。最近では日本人に対する支那人の暴行事件も続いている。この夜更けに、女性を一人外に残しておくわけにも行くまい。眼が覚めたら引き取り手の連絡先を聞けばいい。もっとも、この状況ではそこと何かあって一人で出てきた可能性も考えられるのだが。

 舎人は女性を抱きかかえ、自宅へと入った。

 少し離れたところから、その様子を確認した影は、襟に顔を埋めてその場を足早に立ち去った。 


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2010/10/10(日)
6、「傾城傾国」

想い人(2)

 ***



 寝室は二階。
 耕三郎は女を抱えたまま階段を上がる。腕先から伝わる女の肌は柔らかく、腿も二の腕も恐ろしく細い。うっかりここで落としてしまえば、そのままばらばらと壊れていきそうだ。

 汚れたまま寝かせておくのも悪いと思い、男物ではあるがとりあえず着替えさせ、自分のベッドに女を横たえた。耕三郎はたらいに湯を汲んできて腕まくりをし、手ぬぐいで手足と、顔を拭いてやる。一体どれだけの距離を歩いてきたのか、女の顔は土埃で黒くなっている。それを濡れた手ぬぐいで優しく拭ってやると、女の白い肌が見えた。目頭、額、頬、そして口元。土埃を拭うたびに、女の肌は色めき立つような透明感を取り戻した。手ぬぐいをたらいに戻し、女の前髪を払ってやると、その長い睫を伏せて、女の呼吸が安定したのを確認した。耕三郎は、布団を首元まで引き上げてやった。時計を見ると、日付を超えていた。

 美しい人だな。耕三郎は正直にそう思った。

 妻、朝重が亡くなって7年になる。仕事で葬式にもでることにもかなわなかった妻。小柄で、華奢で、しかしその目には世界の情勢を的確に捉え、男性にも劣らぬ合理的な思考で相手を論破できる強い意思を秘めた光が宿っていた。もと武士の家柄で、現在の陸軍の元老の孫娘。しかしその聡明さ故、女としての生き方を強要された家から奇人扱いされ、家を出たところで耕三郎と出会った。耕三郎も京都の実家から勘当されたも同然のような状態だったから、似たもの同士の二人は、お互いの視野や考え方に自然と惹かれあった。26歳の時に結婚し、2年後の長女、孝子が生まれた。孝子は、その意志の強さが母親にそっくりだ。拓真を生んですぐに亡くなった母親の変わりに、弟の母として姉として、しっかりと家を仕切ってくれている。

 後にも先にも妻以外を女として見定めなどすることは無かった。上官との付き合いでも料亭などで女をあてがわれる事があっても、特に意識してどうこうということも無い。同僚からは「あの気性の強い奥さんにいつまでもお膳を立てているのだ」などと笑われることもあったが、あいにく耕三郎には新しい女をという気持ちも無く、それよりも妻の残してくれた二人の子供のほうが愛しくてたまらない。そういう意味でも妻には感謝しているし、これ以上何を求めることも無い。耕三郎はそう思っていた。

 だから、目の前で寝息を立てているこの美しい女は、久しぶりに耕三郎の「男」の部分を自覚させたという点で、耕三郎は大きく感情に困惑を抱いている。年の頃は、もしかしたらまだ20代か、いやしかし成熟した女性特有の艶かしさも併せ持つようなその成形。先ほどまで触れていた腕や指がこそばゆい。耕三郎は小さく笑う。どうやら、自分の中にもまだ男としての矜持は残っていたようだ。

 気分を転換するためにもと、たらいの湯を代えるために耕三郎は立ち上がった。ドアに向かおうと女に背を向けると、女が小さく声を上げた。

「…ん」

 耕三郎はたらいを置き、女の下に駆け寄る。顔を近づけ、かすかな女の声を聞き取ろうとする。
 白檀の香りがする。女の息遣いが聞こえる。

「…さぶろ…さま」

 耕三郎は、自分の名前を呼ばれたのかとも思ったが、この女に覚えは無い。そのまま黙って様子を伺う。

「黒澤様…」

 今度ははっきりと聞き取ることが出来た。黒澤。今一緒に北京に赴任している部下を脳裏に掠めたが、「黒澤」姓はどこにでもある。とにかく、彼女の身内であることは確かなようだ。
 やがて、女の長い睫がゆっくりと持ち上がり、黒目がちの瞳が覗いた。女は二、三度小さく瞬きをして、大きく深呼吸をした。

「ああ、よかった。気がついたのですね」

 耕三郎のほうにゆっくりと頭をもたげる女。混濁した意識に光が差し込むように、その瞳に驚きと、そして困惑とが入り混じる複雑な表情となった。

「舎人 耕三郎様…?」

 これには耕三郎が驚いた。先ほどの呟きは、やはり自分の名前だったのだろうか。

「驚いたな、私をご存知で」
「なぜ…、私はここに…?」
「うちの玄関先で倒れていたのですよ。覚えていらっしゃいますか」

 女は力なく首を振り、天井を見ながら言った。

「いいえ、上海でお客様の相手をしていたことは覚えているのですが」
「上海?」

 女がもう口を開くのも辛い、というように目を閉じた。その目じりから、一筋の涙が伝った。

「私は…、なんてことを…」

 零れ落ちる言葉の一つ一つは、咲き誇る美しい蓮の花弁がはらりと舞い落ちるような儚さがあった。どうやら女はわけが分からずここまで来てしまったものらしい。客の相手というくらいだから、上海の楼閣あたりで働く女性のようだ。はて、上海でそのようなところに行ったことがあったかと少し考えたが、あまり女を刺激しないように、耕三郎は再び口を開いた。

「あなたを心配している方々が居るはずだ。そちらを連絡を取りたいのですが、お名前を教えていただけませんか」

 女は、何かを請うような目でこちらを見ていた。その目には、焦燥のほかに、失望に似た何かを浮かべていた。

「らく、です。吉岡 らく」
「おらくさん。上海のどちらに連絡すればよろしいですかな?」

 らくはすぐに応えなかった。虚ろな瞳を耕三郎に向けて、何をしろとも、どうしたいとも取れないような表情をしていた。耕三郎は思考する頭を少しだけ止めて、らくに向き直る。

「どうしました」
「いえ、なんでもありません。それより耕三郎様、ここでお会いできたのは、何かの縁。もう一人の私が影を潜めているうちに、私のお願いを聞いていただけませんか…?」


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2010/10/11(月)
6、「傾城傾国」

想い人(3)

「願い?」

 深く、らくは頷いた。もう一度耕三郎を見上げる目には、これが最後の希望だと謂わんばかりの強い光があった。

「私には、息子が居ます。この息子は、私が愛した男性との間に生まれた子なのですが、今上海で『女』として客前に出しています。本人も幼い時から『もう一人の私』にそう教え込まれていますから、自分を女だと信じて疑っていない。私が舎人様にお願いしたいのは、この子を引き取っていただいて、男として育てていただきたいということなのです。お願いできませんでしょうか…?」

 目の前で震えるこのか弱き女は、会ったばかりの自分に、子供を引き取ってほしいという。しかもその子供は男であるにもかかわらず、自らを女と自覚している。あらゆる非現実的な目の前の出来事であるにもかかわらず、らくの目は必死で、瞳に溢れる涙を必死にこらえ、熱く腫れ上がっている。これは冗談でも何でもない、本人は至って本気なのだ。

「あの、おらくさん、不躾ながらいくつかお聞かせ願いたいのですが」
「いえ、構いません、申し訳ありません、私ばかり…。でも時間が無いのです、私が私であるうちに、お願いしなくては」
「息子さんの父親はどうしているのです」

 うつむき加減のらくが、ふいに顔を上げて応える。

「息子が1歳のときに、『もう一人の私』が輝也を連れて家を出ました。それっきりです」
「『もう一人の私』とは、何です」

 本人は触れたくなかったに違いない。しかし説明の過程で『もう一人の私』は必要不可欠だ。らくはそれを理解している。

「私を愛してくれたあの方以外の方を好きになってしまった、愚かなもう一人の『私』です。『彼女』は今でも貴方を愛し、私から貴方を奪った彼を憎み、そして最も残酷な形で彼に復讐することを望んでいる。『彼女』は、彼への復讐のためなら、息子ですら道具にしか思っておりません。でも息子は、何の関係も無いのです!私はあの子に、全うな道を歩んでほしいと願っています…」

 なぜそこに自分が絡んでくるのか。耕三郎はこのとき、見当もつかなかった。やはり以前にどこかであったことがあるのだろうか。耕三郎が次の言葉を捜しあぐねていると、らくがベッドから上体を起こそうとした。耕三郎は「まだ安静にしていなくては」と労うが、「いいえ、大丈夫です」とらくはいい、まだ不安定な上半身を持ち上げた。男物の着物は彼女にはやはり大きく、胸元が大きくはだける。それを左手で抑えるその袖も、やはりだぶついている。

「彼には頼めないのです。貴方でなければならないのです」

 耕三郎も、ようやく口を開いた。

「なぜ、私なのですか」
「『もう一人の私』も、息子も、自分たちを捨てた彼を、呪い殺したいほどに憎んでいる。『もう一人の私』が、息子にそう教えたのです、私たちはあの男に、そして日本に捨てられたのだ、と」

 らくは、ベットに腰掛けている耕三郎の肩を掴み、さらに切迫した空気を纏わせる。その頬は涙に濡れていた。

「彼が私たちに近づこうとすれば、『もう一人の私』は形振り構わず彼を殺そうとするはずです!そして貴方は『もう一人の私』が心から愛している方。きっと貴方には手を出せない。ですからお願い、輝也を…」

 そこまで言って、らくは勢いよく空気を吸い込んだ。耕三郎の肩に手をかけたまま、そのままうな垂れてしまう。いきなりの事態に驚いた耕三郎は、らくを抱き寄せて頬を叩く。

「大丈夫ですか、おらくさん」
「…ああ、このときを待ち望んでいたわ」

 先ほどまでのか細い、儚げな「らく」の声とは違う、どこかくぐもった、しかし女の艶を醸し出すような低い声だった。耕三郎はその異変に気づくことは出来たが、それよりも先に女の艶やかな唇が耕三郎のそれを奪った。抵抗らしい抵抗も出来ないまま、ぶつけて来たらくの体重をそのまま真正面で受け、ベットの後方に押し倒された。この華奢な白い手足にどうしてこれだけの力があるのか。そうではない。これは『彼女』が手練手管の使い手だということだ。
 耕三郎がようやく目を見開けば、女は妖艶な光を湛えた瞳がこちらを見据えていて、先ほど強引に押し込まれたその舌先をいたずらに唇に這わせている。腹の上に跨ったその白い腿は大胆にはだけ、獲物を見据える獣のように、その細い指で耕三郎の白いワイシャツの上をなぞる。左腕は耕三郎の顔のすぐ横に置かれている。耕三郎は動けない。
 明らかに別人だ。そうか、これが

「お会いしたかった、耕三郎様…」

 そう言って、『彼女』は耕三郎の右首筋をその鼻で撫でた。

「君が、『もう一人の私』か」

 首筋から鎖骨へと進み、右手で起用にワイシャツの釦をはずし始める。

「そして、黒澤修吾の愛した女か」

 女の手が止まった。耕三郎は確信した。
 

 そうか。あのときの少女か。


 耕三郎の脳裏には、まだあどけない少女だったころのらくの姿が映っている。しかし女としての魅力の面影は、「らく」ではなく、『彼女』のその瞳にこそ見受けられた。


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2010/10/12(火)
6、「傾城傾国」

想い人(4)

 らくはゆっくりと耕三郎の顔に自分の顔を近づける。そしてその鼻先で囁くように呟いた。

「覚えていてくださったのですね…」

 そういって耕三郎の顔を抱き、自分の体をすべて耕三郎に預けた。衣摺れの音。耕三郎はその細い両肩をぐいと押しやった。らくは、一瞬驚いたような表情を見せた。

「残念ながらおぼろげにだ。黒澤は私にも自分の話をしないが、君とのことで頼られたらしいうちの上官がひどく彼のことを心配していてね。彼の話の中に、貴方がいた」

 らくは、耕三郎に相変わらず跨ったまま、それを見下ろして、言う。

「それは私?それとも、さっきの何も出来ない守られるだけの女?」
「どちらも貴方だ。違うか?」
「違うわ。私は、男に抱かれるだけの女じゃないわ。私は私がしたいことをする。だから貴方を手に入れる」
「私も随分と好かれたものだな」

 苦笑する耕三郎のワイシャツの釦に再び手を伸ばすらく。耕三郎は勢いよく起き上がり、らくの腕を絡め取った。そのままベットに押し倒し返す。

「貴方をこのまま上海にお返ししたいが、2つほど言っておかなければならない。まず、黒澤を恨むのををやめること。2つ、息子さんを全うに育てること」
「あの子は自分でそれを望んでいるわ。憎い憎い父親を殺すためなら、日本の将校だって利用してやるのよ」
「我々にあまり関わらない方がいい。どんな報復があるか分からない」
「本当におかしな方。あの頃と何も変わらない。心の底から人間の本質を信じている軍人なんてもう居ないと思っていたわ。綺麗な瞳。私が愛した貴方のまま」

 らくがその細い右手で耕三郎の頬に触れる。髪に触れて、顎のラインをなぞる。それでも、耕三郎の瞳は揺るがない。自分に向けてくる純粋な敵意の目。身の毛立つような感じ。耕三郎の意思一つでらくを殺すことも生かすこともできるこの状況で、らくは溶けるほどに最高の幸せを感じていた。体が徐々に熱を帯びていくのが分かる。絡め取られた右腕から、触れているその膝元から。蒸しあがるような自らの熱情をらくは自分で制御できない。

「先ほどの私が言ったこと、お忘れくださいませ。輝也は幸せですわ。そして私も、貴方に会えた…」
「貴方の店はどこです。貴方を送り届けて、輝也君を預かる」
「知っていまして。輝也は孝子さんと同い年なのよ」

 耕三郎は自分の心臓が跳ねるような衝撃を受けた。らくはゆったりと微笑みをその美しい口元に湛え、愛おしくてたまらないという風に耕三郎を見上げている。なぜ、娘の名前を知っている。

「なによりも子供はかわいいものですわ。私も、輝也が愛おしくてたまらない。ねえ耕三郎様。もし貴方が、孝子さんと拓真さんを失ったら、どう思われますか。私から輝也を取り上げないでくださいまし」

 この場で、耕三郎はらくに絶対的に優位に居るはずなのに、らくが口を開くたびに耕三郎は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。まるで真綿で首を絞められているような気分だった。らくは子供たちの名前を挙げる事で、それをどうにでも出来るということを耕三郎に暗に伝えたのだ。母親も居ないあの子達は、その身を外敵から守る術はない。今自分の居る北京からではあまりに距離が離れすぎている。

「愛しい方。奥様を早くに亡くされてお労しい。私がそれを慰めて差し上げますわ」

 らくは細い指で耕三郎の唇に触れた。らくは耕三郎の顔を見つめて、労わるように表情を和らげる。しかしその雰囲気を肌で感じると、触れていた手の動きを止め、その眉をぎゅっとゆがめた。
 耕三郎は厳しい目でらくを見つめている。

「貴方に育てられた輝也君は不幸だ。私は、先ほどのらくさんの言葉を信じたい。貴方も早く目を覚ますといい。そのための協力ならいくらでもしよう」

 らくは耕三郎の顔を見つめたまま、わなわなと震えだした。その美しい顔が悲しみと怒りに歪む。

「そんな目で見ないで…、耕三郎様」

 耕三郎は、先ほどから態度を変えているつもりは無い。らくの目には何が映り始めているというのか。らくは耕三郎の下で、「嫌」「私を見ないで」と言って顔を背ける。さっきと同じだ。途端にらくが苦しみ始める。

「いやあああ!!」

 金切り声を上げて、らくが暴れだす。その力に耕三郎は後方に吹っ飛ばされた。らくは近くにある枕や本、たらいなど手当たり次第に放り投げ、何も無くなると今度は手足をバタバタとさせ、その反動でベットからずるっと落ちた。すると今度は自らの体を抱いて、「ああ」とか「助けて」と言ってはぐるぐると苦しんでいる。

「あいつさえ、あの男さえ居なければ!!」

 耕三郎は唖然とその様子を眺めていたが、やはりこのままにはしておけないと床に転がっているらくを抱き起こした。らくは一度はその手を払ったものの、耕三郎はらくの背中と頭を強く抱いて、「おちつくんだ」と言った。らくは初め抵抗したが、やがて肩で息をするようになった。

「耕三郎様、輝也、を…」

 耕三郎の胸の中で、らくの弱弱しい声が聞こえた。ああ、さっきのらくさんだ。耕三郎は「わかりました、引き受けます」と応えた。すると一呼吸置いて、らくが再び強烈な力で耕三郎を引き離し、「やめて!」と叫んだ。らくは立ち上がり、耕三郎を見下ろす形となった。

「こ、の女!邪魔をするなあ!!」

 耕三郎ははっとした。どうやら『もう一人』は舌を噛み切ろうとしている。勢い立ち上がり、耕三郎は自分の右手を彼女の口の中に突っ込んだ。らくはさらに抵抗した。耕三郎の手に激痛が走る。らくの口元から血が流れ出る。

「おらくさん、しっかりしてください、貴方が居なくては、輝也君は本当に一人になってしまうのですよ」

 口に手を突っ込まれ、頭を抱かれているらくは小刻みに震えていた。その頬にいくつもの涙の筋が走っている。らくは膝から崩れるように床に落ちた。耕三郎もそれを支えながら共に膝をつく。
 らくはぐったりと耕三郎に体重を預けた。自分の手を噛む力が弱くなり、耕三郎は右手をらくから抜いた。肉が抉れ、とめどなく鮮血が溢れ出してきた。らくの口元も血で赤く染まっているが、幸い本人に怪我は無いらしい。らくを右手の出血で汚さないようにもう一度自分のベットに横たえて、床にぶちまかれたたらいの下から先ほどの手ぬぐいを引っ張り出し、右手にそれを巻いてを応急処置した。

 耕三郎は右手に巻かれた手ぬぐいの下で、自分の血液がうごめくをの感じていた。手ぬぐいが血に染まるが痛みを感じているのはその手ではなかった。


 一人でこの苦しみに耐えてきたのか、貴方は。

 
 先ほどの騒ぎが嘘のような静けさの中、苦しみの表情を残したまま意識を失ったらくの顔は、力無く、美しく、そして壊れてしまいそうなほど繊細で、あどけない少女のようだった。彼女を愛した部下の顔を一つ思い出し、今は別の家庭を持ち、来年は次男が生まれるという幸せな家庭を持つ黒澤には、この事実を伏せておいたほうがいいだろうと耕三郎は考えを巡らせていた。


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2010/10/13(水)
6、「傾城傾国」

対華21カ条の要求(1)

 1915年、1月。
 上海はここ数日降る雪で一面が白く染まっていた。

 ぼおー、と蒸気の咽ぶ音。金属の重厚な巨体を滑らして、北京を発した列車がホームに滑り込んできた。
 
 陸軍少佐黒澤修吾は上海の駅で列車を降りた。上海を拠点に活動するサラリーマンと同じく、カシミヤの黒いコートに黒いハット、黒いスラックス。茶色の四角いスーツボックス。伊達ではあるが下縁の眼鏡を着用している。スーツボックスの中には、商社の人間がそうして持ち歩くように換えのスーツが2着と、葉タバコ。そして架空の会社名義の売り込みようの資料。コートの胸ポケットにはいざという時のために12ミリ経口の短銃を仕込んでいる。ホームはすでに人でごった返していて、その流れに乗るような形で黒澤も改札口に向かう。眼鏡から覗く駅の構内には、仕立てのよい上下のスーツに整った髭を蓄えて、大きな荷物を現地の中国人が運んでいる光景が何件も見受けられた。大陸の政治の中心と商業の中心をつなぐこの列車に、何人の中国人が乗っていただろうか。そこまで考えて黒澤は思考を止め、改札の駅員に手の平の大きさくらいはある切符を渡す。切符は駅員の中に吸い込まれ、半ば押し出されるように黒澤は改札口を出た。

 この街に、らくが居る。

 黒澤はコートのポケットから紙切れを取り出し、器用に右手で開く。「湖南楼 南京路○○番地 仕立て屋の右」それだけ確認し、紙切れをポケットにぐいと押し込んで、黒澤は歩を進めた。 


 ***

 
 10ヶ月ほど前。
 1914年、まだ雪深い北京で、日差しが幾分か柔らかくなってきた3月のことだ。
 
 黒澤は5ヶ月ぶりに任務から戻り、北京公使館にある、舎人耕三郎大佐の執務室に居た。8畳ほどの広さ、木製の執務机、そして小さな応接机、イス。舎人は執務の机に座り、大連から持ち帰った黒澤の資料に目を通していた。舎人の指示で大連ー瀋陽間の交通と近隣の主要村、警備状況などを調べ、まとめて帰った報告だった。袁世凱政府の成立以降は、彼の地方への圧制に抵抗しようとする勢力があり、とくに奉天、吉林などの東北部を収める張作霖は、彼の忠実な臣下を演じながらおそらく勢力範囲を自らのものにするべく画策をしているらしい。だから近辺の村などは袁世凱と張作霖の2方から自らを守備する必要があり、おのおのが武装を始めてゆるやかな合従を進めているようだ、といった風な報告だった。一通りの説明を終えると舎人は「ご苦労だった」と黒澤を労い、応接用のイスを勧めた。舎人はそういう上官だった。部下にイスを勧めるなど、他の上官に付いていたときには経験の無いことだった。

 舎人は隣の給湯室からコーヒーを2つ持ってきて、黒澤に勧めた。前代未聞なのだが、ここで変に気を使うと舎人が却って困惑するのだ。この上官との付き合いも長い。「ありがとうございます。いただきます」といって、黒澤はカップに口をつけた。舎人も反対側のイスに深く腰掛け、ず、とコーヒーを飲み込んだ。

「本国ではいよいよ欧州戦線への介入で大きな局面を迎えています。軍内でも10年前のロシアと戦争を過大評価するべきではないというものは保守派とされ、新聞や世間も大国としての威信を列強に知らしめるよい機会だとまるでお祭り騒ぎです」
「そのようだな。ドイツ領青島の攻略作戦は、いわば雪辱戦。獲得したはずの領土を列強の干渉により返還させられて以来訪れた絶好の好機だ。旅順をはさんだ山東半島の奪取には海軍も身を乗り出して協力してこような」
「藤原大佐はなんと?」

 海軍大佐、藤原一美は先日まで北京に居たのだが、開戦の機運が高まり先日内地へ帰朝していた。艦隊附きになるという。舎人は大きくため息をつく。ちょっと言葉を選んだ後に、声を低くして黒澤に言った。

「お互い大佐なんて飾りがついてしまうと、もはや一軍を背負う立場というのかな… なかなか昔のように軍の方向を熱く語るなどということもできなくなるのだ」
「左様でしたか」
「藤原大佐も列強と対等に外交の駆け引きを展開するためには、同等の戦力を背景に持つべきという考え方をなさる。彼はまた人の上に立つべくして軍に居られるような方。また先日の海軍内の収賄事件でも先陣を切って軍内の膿だしを提唱したのだというから、若い士官や学生たちにも人気があるというのもまた、当然なからざる事実だ」
「危険です。やおら軍備拡張論が煽られぬとも限らない」

 舎人は困ったような表情をして肩を落とし、力なく黒澤に笑って見せた。

「私は今ここ北京に居る。戦火から若干の遠方に居るから悠長に構えていられるが、内地で外交や、列強の新兵器と総力戦を目の当たりにした連中がこのままではいかぬと気持ちが焦ることには、同情できないこともない」

 少なくとも青島作戦まではここでゆっくりしていられそうだ、そういって舎人はコーヒーに手を伸ばした。黒澤もコーヒーを口に運んだ。初めはこの味に慣れなかったが、今では茶のように飲めるようになった。

 そのとき、執務室のドアがコンコンと鳴った。

「入れ」

 舎人がそう言うと、大使館の若い文官が顔を見せ、お客様ですと告げた。
 鼠色の上質な和服に上着を羽織、黒壇の杖。白髪が混じるがまだ黒い髪。「やあ」と人懐こい笑顔で入室してきたのは、陸軍卿、白河川修だった。
 思わず立ち上がり、黒澤は敬礼をする。舎人も立ち上がって敬礼した。

「お疲れ様。近くまで来たので寄らせてもらったよ。やあ黒澤、元気そうじゃないか」

 舎人は自分の座っていた席を白河川に譲った。白河川は「ああ、ありがとう」といってそこに腰掛ける。舎人が部下に気遣いができるのは、この大元帥の下で薫陶を受けてきたからなのだと黒澤は思っている。
 さっきの文官が帰りがけに白河川にコーヒーを出していった。舎人が先ほどの黒澤の資料に加え、紫禁城や北京、そして近隣の報告書を白河川に勧めた。一通り目を通すと、白河川は資料を丁寧にたたんで机に置いた。「しんどい様だね」と一言いい、舎人が「おっしゃるとおりです」と素直に認めた。

「しかし舎人、君が軍拡派に同情の余地を残しているとは思わなんだ」

 先ほどの話を聞いていたのか。黒澤は現役を退いてなお、こうして世情への関心を興味以上のところで保ち続ける白河川の聡明を改めて実感した。

「私は閣下の門下生です。どんな人間にも共感できる心の広さを持ちえてこそ、その指導を体現しているということになるということで、勘弁していただけませんか」
「根っから平和主義者の君が、戦争をしたいと言い出す連中に頭の先までどっぷり浸かるとは思っていないよ」
「ありがとうございます。閣下、北京まで外遊ですか?」

 白河川はやはりにこやかに微笑んでいる。

「以前北村透谷の話をしていたろう。貸本屋に行く暇もないようだから、持ってきたんだ」

 そう言うと白河川は雑誌「女学雑誌」と「蓬莱曲」の2冊を差し出した。舎人は恐縮したように俯いて苦笑した。黒澤はちょっと意外に思って、「なぜ透谷なのですか」とこの上司2人に聞きたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。恋愛は人生の秘鑰とは言ったものだが、透谷の徹底した平和主義は世に知られている。いやしかし、40も過ぎてまぐわぬ少女のような恋愛を是とするのは…

「まさか宴席でのことを覚えていてくださったとは。恐縮です。そうだ、以前お借りしていた梁啓超をお返ししなければなりませんね」

 そう言って舎人は席を立った。
 舎人が隣部屋に姿を消すと、白河川はコーヒーを口に運び、黒澤に対峙した。

「奥さんは元気かい」
「はい。今年の秋に次男が生まれます」
「それは何よりだ。そのころには内地に居なければならないな」

 黒澤はちょっと黙った後に、口に出そうかさらに迷い、しかしやはり口上に乗せた。

「その節は、本当にご迷惑をおかけいたしました」

 白河川の持つコーヒーカップから、緩い湯気が上がっていた。

「仕方が無いさ、ご内儀は心を病んでおられた。君に否は無い」
「未だに、らくの行方はおろか、その生死すら掴めていません。あの二人は今もどこかで打ち震えているかもしれないというのに、私は新たな家族を築き、日々任務だと自分に言い訳して、あれらを黙殺してしまっている。そんな自分を、許せないと思いながら10年を過ごしてきました。許せないといいながら、私は何もしなかった」

 舎人は書庫の扉越しに黒澤の声を聞いている。
 先日のらくのことは、黒澤には伝えていない。黒澤は白河川にはらくの話をする。
 舎人はそのまま、様子を伺うことにする。


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2010/10/16(土)
6、「傾城傾国」

対華21カ条の要求(2)

「子連れの女が一人で生きていくのがどんなに難しいことなのか、分かっているつもりでした。だけど本腰を入れてあの二人を探そうとはしなかった。私は、らくの居なくなったあの日、からっぽになった部屋を見ながら思ったんです。ああ、これでよかったんだって。らくは… らくはとても純粋な女です。私があれに一緒に居てほしいと言ったから、あれはきっと、コウさんへの気持ちを自分の中で必死に押さえつけて、私のところに来た。だけど、そんな器用なこと、彼女が出来るわけがない。初めから分かっていた筈なのに、私は…」

 黒澤はそこまで言って、言葉を繋げることができなくなった。白河川も黙って彼の語りに耳を傾けている。ゆっくりと息を吸って、白河川が口を開いた。

「黒澤、お前は、らくさんのことを忘れても良かったんだぞ。出て行ったのは彼女の意思だ。だがお前はそうしなかった。自分がもしらくさんを探し当てようとすれば、また自分と舎人の間でらくさんを苦しめてしまうとそう考えたのではないのか」

 黒澤は何も言わない。
 舎人も扉越しに白河川の声を聞いていた。先日のらくが脳裏によぎる。彼女は夢うつつに確かに黒澤の名前を呼んだ。『もう一人の彼女』が執拗なまでに黒澤を憎むのは、らくがまだ、黒澤のことを思い続けているからではないのか。

「…それは、言い訳にしかなりません」

 今年36になる男の、しかも国家を担うべき帝国軍人である黒澤修吾の脆い部分だ。黒澤にはすでに新しい家族もある。後々には高級参謀として陸軍を背負って立つべきエリートだ。しかし彼は10年も前の、たった一人の女を忘れることが出来ない。しかもそれは今でも彼の中の重要な部分を大きく占めていて、年月と共に解決を待つことも出来そうにない。
 黒澤がらくとのことを舎人に話したのは、過去に一度だけだ。先日去る女性と結婚し、もうすぐ子供が生まれます。今日本がこんなに大変な時期だというのに、私個人ばかり幸せを享受しているようで、なんとも世間に面目が立たないのです――。背筋の伸びた、上官に忠実な機械のような男が、にこにことそうして身内を語る姿を舎人は微笑ましく思った。殺伐とした任務をこなす軍人こそ、人間としての感情が不可欠だ。舎人のほうも、ちょうど孝子が妻の腹の中に居たときだった。黒澤にそれを告げると、「ああ、それでは私一人だけが国に不敬を働いているわけではないのですね」と言って笑った。舎人もそこで笑った。

「私は、怖かったんです。探し当てたらくが私を見て絶望することが。探そうとする気持ちはあった、私は情報将校です。本気で探せばきっと、すぐにでも見つけることができるでしょう。でも、らくを絶望させたくない、…いやそれ以上に、きっと、自分で絶望したくなかったんです」
「当然の心境だな」
「幸か不幸か、この10年は、彼女らの居場所が私の耳に入ってくることはありませんでした。だけどそのことが却って、私を苦しめるのです。今、私には日本に家族が居ます。それすら、むなしく思えてくるのです。もちろん、今の妻や子供や両親もこのことを知りません。私だけが幸せになるわけには行かない。らくや輝也への想いが、今の家族にまで私の不出来を背負わせることになるのではないかと、不安で仕方が無いのです」

 決着をつけなければならない、か。
 舎人はそう、胸の中で呟いて、執務室へのドアを開けた。「申し訳ありません、お待たせしまして」何事も無かったように席へと戻り、
梁啓超の「新小説」と「自由書」そして徳富蘇峰の「国民之友」をテーブルの上において、白河川の前で風呂敷に包んだ。黒澤はまだその瞳に揺らめく思いのようなものを残していたが、本人はそれについて舎人に触れてはほしくないだろうし、舎人もそれについては理解していた。梁が蘇峰から影響を受けたという国粋主義の色彩を帯びた清末の変法運動の話などしながら、軍備拡張の機運高まる陸海軍上層部の話へと流れた。

「舎人、久坂廣枝と面識はあるか」

 舎人はちょっと目を丸くして驚いた。

「面識も何も、陸士、陸大共に同期です」
「そうだったか。いや、山縣なんかもいたくかの男のことを要職へ引き抜こうとしているのだが、実際に優秀な男で、英国留学中の人脈から欧州の戦況をひっぱて来たり、現在の袁世凱政府への牽制や孫文の来日など今日の軍部、政府にいたるまであれの持ち込んでくる情報が政府判断の大きな一因となっている」
「昔からそういう男です。明朗快活で、人に好かれるおもしろい男でした」
「それなのだ。どうやら陸軍内の軍拡論を扇動しているのは、かの男らしい」

 舎人、黒澤も、ほぼ同時にその眉を上げた。舎人はともかく、黒澤も久坂の噂は聞いている。黒澤と同じく、情報戦に強い将校として広く認識されている。しかし黒澤自身は久坂という上官にいい感情を抱いていない。以前に一度だけ会ったことがある。
 あの目。
 笑顔で黒澤に挨拶をし、軽口など二、三聞いただろうか。黒澤はずっとその目に視線を向けていた。確証は無い。しかし、長年人間の裏面を探る仕事をしてきた黒澤に、何か疑問を抱かせるそんな光を湛えた瞳だった。

「私も方々に手を尽くすつもりで居るが、舎人、お前も気をつけるといい。お前は元帥府で私の下で働いたこともあるから、こちら側の人間であることは向こうも周知。久坂については、芳しくない噂を耳にすることもある」
「噂ですか」
「いずれ、お前の耳にも届くだろう。久坂は軍内のみならず、北条財閥の社長をその手中に入れたようだ。政財界にも自らの触手を伸ばしつつある。どこかで釘は刺しておかねばならないだろう」

 舎人の目の色が変わったことに黒澤は気がついた。北条の社長は、舎人の無二の友人だと聞いている。白河川もそれを承知で話をしているはず。
 しばしの沈黙があった。それを破ったのは舎人だった。

「黒澤、久坂は今、上海を中心に活動している。北条社長もマカオや広州など大陸に居るはずだから、もし二人に接点があったのだとしたら上海かそこらの料亭か、飯店ということに絞られてくるだろう。久坂のことだ、欧州戦後の対戦中の凄惨さを反省する動きから世界的軍縮に傾くだろうことも視野に入れているはずだから、おそらく、海軍にも同様の首謀者が居るはず。私はそれが藤原大佐ではないかと見ている。この3人の関係を洗ってくれ。彼らが利用する会合の場を押さえれば、その動きに網を張ることが出来る」

 舎人は具体的に「上海」と地名を口上に載せた。
 そうすることで黒澤は上海を中心に調査をするだろう。『もう一人の彼女』が彼の動向に気がつき、何かを仕掛けてくるかもしれないが、それこそがこちらの狙いでもある。黒澤と直に顔を合わせることで、きっとらくが反応を見せるはず。

 このままでは黒澤も、おらくさんと輝也君も、双方が不幸になるばかりだ。
 本人たちが決着をつけなければ意味が無い。

 白河川が小さく首を縦に振った。
 黒澤は「分かりました」と力強く頷いて見せた。


 窓の外は雪解け水が滴っており、水滴が日差しにきらきらと輝いていた。
 日本が青島と、南洋諸島の制圧に向けてドイツに宣戦布告をしたのは、この年の夏、8月のことだった。

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2010/10/17(日)
6、「傾城傾国」

対華21カ条の要求(3)

***

 所謂、第1次世界大戦と呼ばれるこの時期の欧州戦線は、おそらく人類が初めて経験した、国家を挙げての総力戦だった。

 1914年6月、バルカン半島サラエボでオーストリア皇太子夫妻がセルビアの青年に射殺された。翌月、オーストリアはセルビアに宣戦布告。オーストリアにドイツ、イタリアの同盟国が加担し、ロシア、イギリス、フランスの連合国との前面衝突に発展した。発達した工業力は圧倒的な破壊力を持つ軍事兵器の大量生産を可能にしたし、進んだ科学は細菌兵器を生み出した。統制の進んだ国家は男を兵として戦線に送り出し、残った女子供は軍需工場で働かせ、町全体が戦争遂行のためのひとつの器械のように回り続ける。敵対国は次々と送り出される戦場物資の根源を絶つべく、地方都市や農村にまで爆撃を行った。

 対戦勃発に沸いたのは、むしろ日本の政府高官達だった。元老井上馨は「大正時代の天佑」と欧州戦線を捉え、時の首相、大隈重信にアジアにおける日本の権益を確保すべきと説いた。列強の目が欧州に向いている隙を伺って、とは井上は口上には乗せなかっただろうが、外相、加藤高明が「日英同盟の誼」を口実に中国のドイツ権益への進軍を具申した辺りから、国民は彼らの思惑に気がついていたに違いない。最初の攻略目標は日露戦争で日本が獲得した中国大陸旅順港の、渤海を挟んで向かい側、山東半島。大陸は袁世凱政府が戦線の中国波及を避けるために本土での中立を宣言していたが、同年9月、日本軍は半島北部の龍口から一個師団約25,000の兵を投入、約2ヶ月かけて半島を南下し、11月に青島を陥落させ、内陸部、済南に続く山東鉄道沿線を占領した。

 袁世凱はこれに対し、明確な遺憾を示さなかった。なぜなら彼と政権の座を争っていた孫文がこの時期に日本に亡命しており、袁は日本に対し、孫の革命運動を抑制してほしいと求めていたからである。

 明けて1915年1月。日本政府は正式な外交ルートをたどることなく、袁世凱政府に対して五項目から構成される極秘の要求書を突きつける。

 後年にいう、二十一カ条の要求である。

 要点のみ述べれば、以下のような内容である。

第一号  
山東半島におけるドイツ権益を日本が引き継ぐこと。
第二号  
南満州、内蒙古東部における日本の権益を拡大すること。
旅順、大連、南満州鉄道の租借期限を九十九ヵ年とすること。またこれらの土地での日本人の自由な居住権、商業活動などを認めること。
第三号  
有力鉄鋼コンビナート会社を日中合弁会社にすること。
第四号  
中国の領土を日本の許可無く他国に割譲しないこと。
第五号  
中央政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を採用すること。
警察、軍隊は日中合同で組織し、大陸主要部への鉄道の敷設権を日本に認めること。

 鉄道敷設権を他国に譲渡するということは、その国の軍事的、経済的主権をその国へ握られていることに等しい。欧州はまさに決戦のさなか。加藤外相はこの理不尽な要求を列強の目に触れることなく中国に飲ませようとした。万が一、暴露されたときに備えて、demando(要求)ではなく、request(希望条項)という形で、中国公使に折衝させた。

 
 黒澤が上海の地に足を踏み入れたのは、極秘裏にかの要求が中国政府に突きつけられていた、まさにそのときだった。


 ***


 駅の裏から人力車を拾い、場所を示して15分ほども狭い路地を抜けただろうか。粒の大きい雪がはらはらと灰色の空から落ちてきて、地面を白く染めている。人足がここだと車を止めたそこに、小さな入り口の上に大きな看板があって、「湖南楼」と漢字で書かれている。どうやらここらしい。人足は襤褸の麻で出来た布を一枚足に巻いているだけの粗末な身なりで、地面に積もる雪の中を走ってくれた。労いの意味をこめて「勞駕(ご苦労)」と言って多めに札を渡したら、彼は奪い取るようにしてすぐにその場を去っていった。すぐに周りに居る浮浪者たちの目の色が変わるのを感じた黒澤は、帽子を目深にかぶりなおし、スーツケースを持って足早に門へ向かった。

「お待ちしておりました、黒澤少佐」

 入り口手前に初老の女性。黒澤の知る顔だった。彼女は白河川修元帥の秘書、山城眞子だ。
 上着を着、ストールを首に巻いているとはいえ、肌に感じる温度は氷点下。しかも、今日自分が上海に来ることは上官である舎人にも言っていない。なぜ彼女がここに居るのだろうか。

「元帥がお待ちです。どうぞこちらへ」

 黒澤は入り口で肩口に降り積もる雪を落とし、眞子の後を追った。

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2010/10/18(月)
6、「傾城傾国」

対華21カ条の要求(4)

 眞子に先導されて、楼閣の中を進む。
 細い通路を抜け、その突き当たりの扉の前で膝を突き、「黒澤少佐が参りました」という。すると中から「どうぞ」と声がした。白河川の声だった。

 からりと襖が開いた。そこには、日本風に用意された座敷に二つ席が用意してあり、上座に着流し姿の陸軍元帥、白河川修の姿。そしてその横には黒地に美しい鶴の刺繍の入った着物を身にまとい、すらりと背の伸ばしてこちらを見て微笑している、元妻、らくの姿があった。

 黒澤はかける言葉を失い、また金縛りのように動けない。
 何かを口にしようと唇を震わせるのだが、うまく言葉が出てこないのだ。

「お久しゅうございます、黒澤様」

 そういって、三つ指を突いて頭をたれるらく。首筋の白さも、その細い指も、目も、鼻も、耳も、実感として黒澤に覚えのあるものばかりだった。ゆっくりと頭を起こしてそうしてもう一度黒澤を見たらくは、瞳をあわせると、芙蓉のような淑やかさで微笑んだ。

「らく……」
「白河川様がこちらに貴方様がいらっしゃることを教えてくださったのです」
「なぜ閣下が……」

 黒澤はまだうまく言葉を繋ぐことができない。らくが白河川と黒澤に頭を下げ、立ち上がった。どうやら膳を差配するらしい。らくと眞子が部屋から出て行くと、白河川は自分の対面する席を黒澤に勧めた。

「折角の再会に水をはさんで悪かったね」

 黒澤は何がなんだかよく分からない。
 舎人の指示で陸軍中佐久坂廣枝と海軍大佐藤原一美の関係を探るべく、大陸沿岸南部都市の調査を始めたが、ドイツ権益青島への侵攻も重なり、なかなか作業が捗らずに居た。ようやく2ヶ月前に日本への帰国をこじつけ、藤原大佐へ面会を申し込んだところ、思いがけなくらくの名前が出されたのだった。任務に私情を挟んではならぬと自分に言い聞かせてはいたが、やはり居てもたっても居られない。調査を兼ねて「湖南楼」へ立ち寄り、それから舎人に報告しよう。黒澤はその腹積もりだった。

 失礼します、と声が聞こえて、からりと扉が開いた。らくが先に座敷に入り、その後ろから女たちが次々と料理に酒を運んできた。ここは日本ではないのかと錯覚するような、懐石料理の数々。支度の女たちが去り、扉が閉められたところで、らくが二人に歩み寄った。

「白河川様のご健勝と黒澤様のご活躍をご祈念いたしまして」

 らくが両手で杯をくっ、と持ち上げ、頂く。二人もそれに習い、ぐっと飲み干した。
 杯をひとつ飲み干す姿にしても、彼女のうなじの動く様子に、黒澤は目を奪われる。らくは杯から口を離し、小さく息を吸って、吐いた。その視線に気がついたらくが、視線を此方によこし、目を細めて笑う。
 その微笑に、黒澤は心の安らぐのを覚え、杯を置いて口を開いた。

「らく、すまなかった。君が出て行ったあの日、すぐにでも追いかけるべきだったのに、それが出来なかった。私は怖かったんだ。また君を絶望させてしまうのが……だから」
「およしになって黒澤様。私はこうして、今ではこの店の主人として働いていることに幸せを感じておりますわ。そう、輝也も」
「輝也はどうしている。今日は来ていないのか」

 黒澤が輝也の名前を口にすると、らくは途端にその表情を曇らせた。美しい睫に悲しみの色が宿る。

「輝也は……、あの子は今は他のお客様の相手をしていますわ。可愛そうに、あの子は『もう一人の私』に幼い頃から自分は女として生きることを強制されているのです」 
「女として、だと」

 らくは黒澤の視線を受けて顔を伏せ、袂で目頭を押さえた。

「どういうことだ、お前、まだ病気が」

 らくの細い肩に黒澤が触れると、らくは黒澤の手を避けるようにして肩を少し引いた。黒澤が心にちょっとした疑心を抱き始めるよりも早く、らくが再び口を開く。

「目の見えないあの子は、ここから逃れる術も無く、『もう一人の私』に言われるまま、そして男たちに乞われるまま、その小さな体を彼らに与えているのです…。私も彼女には逆らうことが出来ない」
「ならば私が輝也を引き取ろう。彼はどこにいる」
「だめです、そんなことをしたら、『もう一人の私』が」
「もう一人の君は私の愛したらくだ。お前ではない」

 白河川が二人のやり取りをじっと見ている。らくは面食らったような顔を黒澤を見つめていたが、やがて肩を震わせながら俯いた。泣いているのか。やがてらくが顔を上げた。その部屋の彼女の甲高い笑い声が響く。

「ああ、残念。あなたのその苦しそうな顔ずっと見て居たかったのに」

 満面に笑みを浮かべているらくは、先ほどとは違う目の色をしていた。上目遣いで黒澤を見据えてにやりとした。

「感動の再会はこれでおしまい。さあて、始めましょうか」

 白河川は相変わらず厳しい顔をしている。
 らくは黒澤と白河川の顔を交互に見て、心底楽しいというような表情をした。


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2010/10/19(火)
6、「傾城傾国」

対華21カ条の要求(5)

 まるでそのタイミングを見計らったように、個室の扉が開いた。
 すぐにもう一つ席が用意され、その男は白河川の対面に座った。

 黒澤はこの男の名前を知っている。宋 経国。現在の民国政府の大統領補佐官兼暫定外交担当、そして袁世凱の懐刀と称される人物。年のころは黒澤と同じくらいか少し上。上唇の上に堪える、綺麗に切り揃えられた黒い髭。「楽弥」は宋に一献勧めて、それを受けた宋は一息で飲み込んだ。
 白河川は正座のまま、思慮に府来るように目を伏せたままだ。黒澤はどうゆうことかと楽弥に目配せをするが、彼女もまた、その瞳に微笑を湛えたまま、黒澤に視線を返すこともしない。

「対中五項目はご存知ですわね、白河川様」

 実は、黒澤はその事実を知らない。
 白河川もまだ目を伏せたままで居る。

「私は、この取引が日本のためにもなると思っておりますわ」

 そういって、その美しい顔に笑みを浮かべる。仮にも大日本帝国の陸軍創設者の一人である白河川に、この女は恐れの一つも抱いていない。
 先ほどまで沈黙を決めていた宋経国が口を開く。

「あの五項目二十一カ条は、我が中華民国にとっては屈辱でしかない。仮にも一独立国家である中華民国に日本人の自由な公益と認めよ、顧問を採用せよとは正気の沙汰ではない。どういうわけか時勢が日本に味方した韓国と我々を同等に考えられては困る」

 中国語を解さない白河川のために、楽弥が要点を訳す。その翻訳に大きな間違いは無いと黒澤は判断した。
 さらに宋は、南満州租借地の租借期限の延長が大陸の独立機運を著しく阻害するものだということ、居住権の開放は現地土着民との摩擦を生みかねないことなどを述べた後に、問題の第五号案について言及した。

「元来、2千年にわたる日中の往来の中でも、このような愚挙はかの隋皇帝煬帝への書簡以来の我が国への冒涜。このような要求をよこしたことに対する正式な謝罪と、要求の撤回を求めたい」

 白河川はすぐには応じない。
 そもそも――と、黒澤は思う。白河川は対中国、韓国関係に関しては穏健派。彼が今ここに居る経緯は今の黒澤には見当もつかないが、「正式な」帝国政府の使者ではないことは確かだろう。そして中国側の公使も宋ではない。
 
 ならばなぜ、今この二人が顔を突き合わせているのか。

 大正改元後、陸軍の2個師団増設に関する陸海軍首脳部の造反以降、軍の意思が強く内閣政府に働くようになった。国民の意思を反映させる民本主義と平行して、腐敗の進んだ内閣から清廉を標榜する軍部へと関心が移っていった象徴的な出来事だったと思う。従って、政府は表立って行っている対華要求とは別に、軍部と政府を折衝できるだけの人物による、裏工作を必要とした。現役の軍部、政府に深く食い込んでいる陸軍の他の2元老ではなく、組織と距離を置き、人柄も穏健、そしてなにより日本という国家の気質を理解している人物――そういう意味を持つ、白河川修という人選なのか。
 宋経国は、先日袁世凱に暗殺された、宋教仁の愛弟子にあたる年若き民国官僚だ。各地の有力者や反袁勢力との均衡を保つべく組織された現在の民国政府官僚の中では「袁の秘書」的役割に徹しているが、対外的には袁に最も近い人物として内外に知られている人物である。彼の言葉は直接大統領の言葉となり、彼の耳に入ったものは袁が知りえるものと考えていい。

「率直に言わせて貰うが、この要求を撤回する意思は、帝国政府には無い」

 そう言った白河川に向ける宋の視線に、厳しさが混じる。黒澤はやはり、と思う。政府の名を語る以上、その特任を白河川は受けているのだ。

「全世界的な帝国主義の高まりの中で、我々アジアにおける各国の後発性は、それを否定すべき明確な事象は無い。ただ事実、好意的・他意的のいずれであったにしろ彼らの触手が我々古来の土地を侵食しつつあるというのはこれもまた否定せざるべくも無い事実だ。その歴史を紐解くに、アフリカにしろインドにしろ、彼らの支配を受けた国の凄惨なからざる国内の様相に、我々は大変な憂慮を抱いている。かの国の二の舞を踏むことはまかりならぬ。アジアは危機的状況にある現状の認識を共有し、手を取り合って欧米諸国に相対していく必要がある。そのためにはまず、いち早く近代化を進めたわが国と、アジア一の大国である中国との相互協力の体制を構築する必要があるのだ」

 白河川の口調は淡々としている。大きな抑揚も無ければ、語尾が消え行くことも無い。楽弥が訳そうと口を開いたところで、黒澤がそれを制し、中国語で宋に語りかけた。大きな認識のずれは無い。楽弥もその訳には口を挟まなかった。

「日本の言う相互協力体制とは、アジア各国を日本の傘下に置き、その支配を受けろということか。それは貴様らの言う列強の支配と何が違うのか」
「そうではない。欧米に立ち遅れた近代技術の習得、民族の自覚、そして国家としての熟成に、先例を模した日本が手を貸したいということだ」

 宋も譲らない。白河川もその表情に感情を浮かべることもなく、宋の質問に受け答えをしている。
 黒澤は思う。これは白河川の本意ではない。彼は今の日本の領土拡大路線に疑問を持っているはずだ。正式ルートではないといえ政府の密使である以上、その意思を否定することが有ってはならない。これが彼の意思と政府の意思の、ぎりぎりの着地点なのだ。

「我々は帝国から完全に手を引いても構わない。だが貴様たち民国政府は、自国の内乱すら収めることにままならず、こちらで手を下すまでも無く、列国に食い物にされるか、今日本に居る孫文が息を吹き返し、再び大陸に革命の嵐が吹き荒れ、政府が打倒されるであろう事は明白。宋経国、君は袁世凱が日本にどれだけの経済的・政治的協力を要請しているか、知らないはずはあるまい。この要求は、少なくとも北洋新軍が成熟するそのときまで列強の支配から日本の庇護の下大陸の分割を防ぐことが出来る。君たちが日本の下で力をつければ、我々は喜んで君たちの独立を支持しよう。これはそのような要求だ。分かるな」

 宋は膝の上の黒いスラックスの布地を強く掴んでいる。本人はそのつもりはないのだろう。その若く、つややかな顔に苦渋の色が見え隠れするのを黒澤は見ていた。


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2010/10/23(土)
6、「傾城傾国」

対華21カ条の要求(6)

 口調は穏やかなまま、白河川が続ける。

「民国政府が特に要求の第五号の受け入れに抵抗感を抱いていることは此方も承知している。しかし当方としても不完全な形で要求を呑んでもらうわけには行かない。ならばこういうのはどうだ。民国政府は、この要求を中国国民、そして全世界に向けて発信する。おそらく内部ではナショナリズム高揚による独立運動、そして外部からは対日批判が起こる。帝国政府も十年前の件に懲りているから、要求受諾に難色を示す民国政府に対し、軍事行動を背景にした最後通牒を言い渡すだろう。そうなったら民国政府は、第五号以外の条約だけは独立国家としての体裁云々の話を上げて、それ以外の要求を苦汁を飲んで受けるとすればいい。諸外国の目には、日本の圧政に耐えかねた中国の屈服と写るかもしれないが、列強の民国に対する同情論を引き出すことが出来よう」

「何を馬鹿なことを。第五号も何も、民国政府はあのような要求を呑むわけには行かない!」
「袁世凱は皇帝になりたいのではないのか」

 宋にわずかな反応があった。楽弥は相変わらず微笑を湛えており、白河川もその口調の流れを乱すことは無い。

「要求を押し返したところで、帝国陸海軍に対抗できるだけの兵力を北洋新軍が持ち得ているとは到底思えない。まして、欧州戦線が終結したとしても、列強の支援を民国政府が受けることが出来るとは限らない。袁世凱の答えはすでに出ている。この不安定な大陸の情勢の中で、袁が圧倒的な支配力を見せつけ、各地の有力者を手慣らすためには、大陸の歴代の支配者がそう呼ばれたように「皇帝」という地位が必要だ。そのために、アジアにおける近代化に一早く着手した、日本という大国の後ろ盾が必要。かの男はそう考えている。違うか」

 宋の怒気は黒澤にも伝わっている。昨年大統領になったものの、各地の鎮圧に手間取っている袁世凱が、皇帝を意識し始めていると揶揄されるようになったのは、昨年の十二月。北京の天壇で、歴代の皇帝がそうしてきたように、天と地を祭る即位儀礼のようなものを行ったと報告があった。近代において、祭祀がどれだけの意味を持つのかは不明だ。ただ少なくとも、彼が中国を統べるものとして、清朝に変わり「天」よりその任を委譲されたのだと、大陸に住む人々に印象付けたのは確かだった。

「宋。要求に反対しているのは民国の民である君の意思だ。袁世凱はこの要求を、いかに中国の面目を保ちながら受け入れるのか、それを見つけて来いと言われたのではないのか」

 黒澤が通訳すると、宋は杯を床に投げつけた。パリンと音がして、破片と酒が飛び散った。彼の奥歯を噛み締める音が、ぎりぎりと伝わってくるようだった。宋は自らの感情を押し殺すように「是那个那样(その通りだ)」と言い、袁世凱の言葉を伝えた。

「大統領の言葉は3つだ。1つ。日本へ亡命している孫文への抑制継続。2つ。五項目二十一カ条の要求は全世界に公開する。3つ。第五号については断固として認めるわけにはいかない。しかし日中双方の粘り強い会談に基づき、約6ヶ月の後に決着のつかざるものであるならば、日本もその意思を尊重し、他の4号を承諾することで了承してもらいたい」
「3つ目についてはここでは拒諾を明言しない。表向きは今後も民国政府と交渉を続ける。期限は6ヶ月。他には」
「後は貴様の述べたとおりだ。民国政府は列強の後押しを期待している」
「そうか。帝国はまた苦しい立場になろうが、仕方あるまいな」

 白河川はまるで他人事のようにそう言ってのけた。交渉は終わった。宋はおそらく、袁世凱の思惑とは逆に、この要求を突っぱねるつもりでこの場に臨んでいたのかもしれない。だが、読みに関しては白河川のほうが上だった。宋も辛亥革命を経験しているが、白河川も戊辰戦争を経て明治という近代国家を作りえた人物。軍配は、後者に上がった。

「この件について、大統領より日本政府へ『贈り物』がある」

 宋が楽弥に目で合図をした。楽弥はゆっくりと頷き、その美しい唇を振るわせる。

「輝也を、日本へ差し出しますわ」

 それに反応したのは黒澤。白河川はらくの瞳を見つめている。

「何を言っている、贈り物だと。馬鹿なことを。そんなものを貰うまでも無く、私は輝也を日本へつれて帰る」

「馬鹿なのは貴方のほうよ。あの子がただの娼婦女だとでもお思い?あの子はその美貌と伎楽の才をもって日中双方に広く人脈を築いている。そのつながりを持ってすれば、日中双方の首脳・閣僚クラスともに裏工作が容易く出来る可能性も秘めておりますわ。その輝也を中国(こちら)で育てることをせず、あえて日本(そちら)へ引き渡そうというのです。これがどういう意味を持つのか、分からない貴方では無いはず」
「なぜ袁世凱が輝也のことを知っている」

 楽弥は応えなかった。変わりに視線を白河川に遣り、また淑やかに微笑んだ。

「あの子をくれぐれもよろしくお願いしますわ、白河川閣下」

 白河川は神妙な面持ちのまま肯定も否定もしなかった。
 宋経国も黒澤も、それ以上は何も言わない。
 
 こうして、国家の思惑を孕んだ輝也の日本行きが決まった。この後対華二十一カ条の要求は、日本が同年五月九日までに回答が無い場合は軍事行動に出ると最後通牒を通告、翌6月、第五号を除く4つの要求をすべて呑む形で、中国と日本の条約が批准されることになる。


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2010/10/23(土)
6、「傾城傾国」

金蘭の契り(1)

 ***

 松河村、春節。

 2月といえど辺りはまだ雪深いが、日差しは徐々に柔らかさを帯びてきた。
 村の外では爆竹が鳴り響き、足元で爆ぜる火薬に子供たちがバタバタとはしゃいでいる声がする。たまに美花の声がして、わあっと子供たちが騒ぎ立てた。村の中でも相変わらずの人気ぶりだ。

 朝方、チウと文秀、翔、そして美花とそろって当家梁続山の自宅へ新年のあいさつに上がった。家に戻り、文秀は爆竹を鳴らそうと美花を誘って外に出ている。翔はチウと正月料理の支度をしている。昨日、しめて置いた鶏の蒸し焼きと、煮魚。その他にも大豆や餃子、砂糖菓子、煮餅など、色とりどりの食材が狭いテーブルに並んでいる。

 翔は祭壇の飾りつけを終えて居間に降りてきた。あとは食べられるのを待つだけのテーブルの前に、チウは一人イスに座り、手紙を眺めているようだった。その顔色がどうも優れない。

「何かあったのか」

 翔が背後から声をかけた。チウは「ああ」とだけ言って手紙から視線をはずさない。翔はその近くまで行って、テーブルにおいてある封筒を手に取った。差出人は「田口」とあった。上海、湖南楼の使用人。チウの顔なじみだ。

「煌儿が日本へ行くらしい」

 煌儿、と聞いて、翔は一つ、あの芙蓉の花のような輝也の顔を思い出す。自分が日本人であることをすぐに見抜き、そして容赦無く「出て行け」とのたもうたその光り無い瞳。胸の奥の言いようの無いざわめきを覚えながら、翔はチウに問い返す。

「本人は随分と日本を毛嫌いしているようだったが」
「ああ、そうだ。父親のこともそうだが、何よりも母親の人格が大きく影響しているんだ。母親のもう一人の人格が、父親を憎み、日本を憎み、そのために生きろと煌儿に仕込んでいる。私はそんなもののためにアレに芸を仕込んだわけではないのだがな。心を病んだ母、目の見えない息子が大陸で生きていくためには、それなりの「わざ」が必要だと判断したのだが」

 現在の湖南楼の主人は仙 楽弥だが、7年前まではチウが「秋月」の名前で店を仕切っていた。25年前に文秀を生んでこの村にきたあとも、定期的に上海を行き来して店を切り盛りしていたのだという。チウが上海で楽弥親子を拾い、店が継げるまでに育て上げた。やがて楽弥が一人前になると、チウは店を楽弥に譲り渡し、今ではほとんどこの村から出ることは無い。

「輝也は行くと行っているのか」
「『行かない』と強情を決め込んでいるらしい。当然といえば当然だ。だが世の中を見せるいい機会ではある。あれも時期に男になる。いい加減にその自覚をさせねばなるまいな」

 輝也の美しい顔を思い出して、あれが女を抱く光景を思い浮かべる。しかしそのどれもが翔の思い描くものにそぐわず、むしろ屈強な男に抱かれて、その男たちを手玉に取るようなそんな芙蓉の花が頭の中を過ぎった。相変わらず心の底が波打つ何かがあって、翔はチウの後ろからその細い肩を抱いた。触れたチウの肌から、彼女を流れる脈動と、その温もりが伝わってくる。彼女の息遣いが聞こえるところで、翔は大きく深呼吸をする。すると母のような安心を得られて、心の底の波のようなものがだんだん引いて来る様な気がするのだ。チウはこうやって翔が身を寄せてくると、抵抗もせずに優しく頭を抱いてくれる。今も翔の額から耳にかけて何度となく撫でてくれていて、その心地よさに翔はその瞳を閉じる。

「どうした。甘えたいのか」
「またこうして、みんなで新年を迎えられた。それが嬉しい」

 翔がチウの体を乞う。そしてチウがそれに応える。


 ***


 上海に翔がついたときはすでに日が暮れていて、街中に入る前に馬宿に愛馬を預け、南京路を北に向かった。湖南楼は今日も熱烈歓迎。高そうな身なりの男が艶かしい女に手を引かれながらその門をくぐっていく。翔はチウより預かった手紙を楽弥に渡すべく、初めて一人で上海まで来たのだった。華やかな夜の街に若干の引け目を感じながら、翔も湖南楼の門をくぐった。

 まずは田口を頼れとチウに言われていたので、その旨を告げたら、彼は今二階で取り込み中なのだという。そちらに直接出向け、と世話しなく告げられた翔は、仕方なくそちらへ足を向けた。
 
 それにしても、広い店だ。入り口付近は大衆酒場のように、広間にテーブルがいくつも並んでいて、テーブルを片付ければダンスホールとして使用可能。その中央に2階に行くための周り階段。それを上った上は個室が大小含めて10もある。1階、広間の奥には人知れず入り口があり、その奥は湖南楼の上客しか使えない、上質の間。日本風の座敷もしつらえてあるのは、その客層のニーズに応えるためなのだとチウは言っていた。先日の梁当家らの会合もこの奥で行われた。

 翔は広間の奥の入り口の簾を上げて、中を進んでいく。狭い通路ながら、赤い壁、赤い通路、その両脇には唐三彩や青磁など翔には見当もつかないような美術品が飾られている。その突き当たりに狭い階段があって、翔はその階段を上ろうとした。

 そのときだった。

 ふと、何か気配がして、上を見上げた。それが何かを確認するまもなく、その重さに抵抗できないまま翔は背中から落ちた。

「輝煌!」
「輝也!」

 上から声がする。背中の痛みを気にしながらも翔が目を開けると、その胸の上で、芙蓉の花が此方に顔を向けていた。

「…お前確か、文秀と一緒に居た…」

 どたどたとこちらに向かう足音が聞こえる。その音に、この芙蓉はびくりと体を奮わせた。
 その光り無い瞳が、焦燥の色を浮かべて翔に向けられた。

「頼む、俺をここから連れ出してくれ。俺を連れて逃げてくれ」

 反射的に、翔は輝也の左手を取った。
 次の瞬間には、もと来た通路を戻り、喧騒の広場を抜けて、翔は輝也の手を引いて湖南楼の門をくぐった。


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2010/10/24(日)
6、「傾城傾国」

金蘭の契り(2)

 ***

 夜闇が二人に味方した。

 湖南楼の門を出て、南に向かった。輝也を呼び止める声がしたが、それを振り切るつもりで翔は走っていた。中途半端に溶けた雪が靴に染みてきて冷たかったし、南京路にはまだたくさんの人が歩いていてその何人かにぶつかったりした。「等著!(待て!)」「捉住那個二人!(その二人を捕まえてくれ!)」後ろから怒号が響く。翔に手を引かれ、長い袖を引きずりながら裸足で走っていた輝也がばしゃりと雨雪の中に転んだ。翔はそれを抱え上げてさらに走った。人がまばらになった頃、路地に曲がり、物陰に身を隠した。ばたばたと足音がして、二人を探す声が二、三飛び交った後、やがて聞こえなくなった。翔はふうとため息をつき、壁にもたれてずるずると腰を地に着けた。

 月が出ている。
 高い建物の隙間から、丸い月が欠けて見えた。雲は一つも無いようで、取り巻く星の一つ一つが冬特有の鋭い光を放っていた。翔の胸の中で、輝也は震えていた。そのか細く、繊細な細工のような体はやはり女のそれのようだった。チウの言葉が耳に蘇る。

「寒いのか」

 呟きのように、輝也に問うた。輝也はさらに身を縮こめて翔の衣服を強く握った。

「当たり前だ馬鹿。『外』がこんなに耐え難いものだとは思わなかった」

 素直に日本語に応じてくれたのが嬉しかった。ちょっと心のつかえのようなものが取れて、翔はさらに言葉を繋げた。

「外に出るのは初めてか」
「楽弥出してくれなかったからな。だが」

 輝也はその見えない瞳を翔に向けた。

「なんだかとてもすがすがしい気持ちだ。こんなに楽しいのはいつ振りだろう」

 そういって輝也は、ふふっと笑った。月明かりが彼の横顔を照らした。お互いにその鼓動を感じる距離に居る。初めて会ったとき、輝也が纏っていた翔を拒絶する空気は無い。今は二人で湖南楼を抜け出した、共犯者。なんだか背筋がぞくぞくするような、心臓を掴まれているような、それで居てわくわくするような、そんな心地だ。

「日本に行くのは嫌か」
「嫌に決まっている。文秀にも会えなくなる」
「チウはお前が外の世界を知るいい機会だといっていた。俺もそう思う」
「外に出て、世界を知って、そして俺はどこに帰ればいい。『男』になった俺を、誰が必要としてくれる」

 輝也はそこで言葉を区切り、息を吸って、続ける。

「男でありながら、女として振舞う。日本人でありながら、中国に傾倒している。日本人には中国側となつながりを、中国人には日本側のつながりを。俺がここで必要とされているのは、俺という人間ではなくて、『仙 輝煌』という利用価値に他ならない。俺がただの男になれば、俺には価値が無くなるんだ」

 翔は何も言わずに聞いている。

「俺はここにいたい。利用されようが辱めにあおうが、誰かに必要とされていたい。もうあんな惨めな思いはしたくない」

 母親と共に父親に「捨てられた」輝也。普段の強気な彼は、実は頼るべきものも無く、自分が誰かに必要とされることでようやく保ち得ていた彼の最後の自我なのかも知れない。父に見放されただけでなく、母親にも商品としての質を求められた哀れな息子。たとえそれが純粋に輝也を息子として愛する母親の愛情でなかったとしても、母親に求められていると自分に言い聞かせることでようやく今日を生きてきたのか。
 翔は思う。自分は幼い頃に家族を亡くしたが、家族は間違いなく自分を大切に育ててくれた。彼らが居なくなった今でもそれを思えば心強く思える。だが輝也はその間逆なのだ。両親は生きていても、その愛情を知らずに育った。普段は強く見えていても、内心はよるべくも無く心細さに震えていたのではないのか。

「…日本はいいとこだぞ」

 ふと翔が呟いた。輝也がふと顔を上げた。

「まず、飯がうまい。春は山菜、夏は野菜、秋は秋刀魚、冬はみかん」
「湖南楼も一級品を集めているぞ」
「四季も大陸以上に変化する。春は桜だ。一面が桃色になる」
「そうだな、目が見えるようになったら見てみたいな」
「何よりも、人とのつながりを大切にする民族だ。狭い国だ、いつも人とけんかしていたのではやっていけないからな。昔からそういうものを何よりも大切にする」

「なんだそれ。お前、それで俺の背中を押しているつもりか?」

 輝也が思わず噴出した。翔は精一杯、日本のいい点を上げたつもりだったが、どうにもそれを伝えきれた自信が無い。いまいちだと首を捻る翔を見て輝也はけらけらと笑った。輝也が笑ったのをはじめて見た。

「本当は分かっている。俺はもうじき、体も男になる。このままではいられない。このままずっとここに居るわけにも行かない」

 輝也は翔の腿に跨り、その胸に右手をついた。何をするのかを翔が疑問に思うより早く、輝也は翔の唇に自分のそれを重ねた。あまりにいきなりのことに翔は驚き、離れようとしたが、輝也の方が男の扱いに関しては上手だった。うまい具合に体重を預けられており、翔は動けない。翔の右手がぎこちなく宙を彷徨った。たっぷりと翔の唇の感触を味わった輝也は、翔の息が続かなくなる一歩手前で、ようやく身を離した。

「なんだ、お前女の扱いを知らないな」

 あっけらかんと言ってのける輝也。いくら見かけが女だからといっても、翔のほうも男に口付けを迫られるのは初めてだった。しばらく呆然と輝也を見ていたが、輝也は翔を見ながらにやにやとして、やがて笑い出した。月明かりがその芙蓉のような顔を映し出した。「それにしても寒いな」と言って翔の胸に収まる輝也。夜風から少しでも守れればと翔も輝也の肩を抱いた。輝也はやがて深い呼吸を始めた。その顔はまだ10を出たどこにでもいる少年と変わらない幼さを残していた。

「いつか、俺がお前を迎えに行ってやる。お前を必要としてやる。だから、だからお前は…」

 ふと人の気配がして、翔は輝也を庇うようにしてその頭を強く抱き、路地の入り口へ顔を向けた。こつこつと靴の音がして、壮年の男が顔を見せた。
 帝国陸軍の軍装。肩章から階級は少佐。

「君が、伊藤君だね」

 男は輝也の父だと語った。輝也は翔の腕の中で眠ったままだ。


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2010/10/24(日)
6、「傾城傾国」

金蘭の契り(3)

 ***



 輝也は、眠ったまま黒澤の背に居る。
 その長い、黒い髪が黒澤の歩みとともにさらさらと揺れている。

 翔は、黒澤の右側を平行して歩いている。夜道は月明かりに照らされて明るい。夜明けが近い時間なので、先ほど輝也と共に駆け抜けてきたときのような人影は無い。溶けかけた雪が足元でじゃりじゃり言っている。

「あの、聞いてもいいですか」

 口火を切ったのは翔だった。湖南楼やチウから聞き及んだ輝也の事情ではなくて、自分の目で主観的に判断したいと思った。

「何かな」
「二人を捨てたというのは本当ですか」

 黒澤は苦笑した。当然といえば当然。翔は黒澤とは初対面だし、今さっき顔を合わせたばかりだ。「えぇとね、…」黒澤は少し言葉を捜して、そして翔に語りかけた。

「結果的にはそうなるね。本意ではなかったんだが」
「ではなぜ今更引き取るなどと?」
「それも話せば長くなるんだが…」

 そう言って、黒澤は視線を前方へ戻した。

「結局、私の意志とはかけ離れたところでこの子を日本へ引き取ることになってしまった。情けない限りだな」
「軍装で来たのはそういう意味合いなんですか」

 黒澤は曖昧に微笑んだ。肯定と見ていいだろう。どうやら日本軍、もしくは帝国政府の意向が働いているらしい。

「俺のことは知ってるんですか」

 翔は、黒澤が自分の家族のことを知っていると踏んだ。士官ほどの階級を持つ人間なら、7年前の日本人襲撃事件を知らないはずは無い。

「ああ、知っている」
「なら教えてください。なぜ帝国政府は何も動きを見せないのです。殺された私の父は外交官、そして叔父は枢密院の議員です。もし政府にその気があれば、それを口実に大陸に戦争を仕掛けられたはずです。なのに清国政府への抗議はおろか、襲撃の犯人探しすら未着手のままだ。政府は我々を黙殺したのですか」

 黒澤の表情に緊張が走るのを翔は見逃さない。しかし翔自身は、決して日本を批判しているつもりは無い。ただ、通常であれば大陸に派兵する「絶好の好機」であるはずのあの事件に、帝国政府が無反応だったことにどんな意味があったのか、翔は純粋に知りたいと思ったのだ。

「少なくとも、事態を収拾したのは軍の意思ではない」

 随分と黒澤も言葉を選んだが、それ以上の言葉を繋がなかった。どうやら国家機密に関わるのか、事件を知りえる人間の口から直接言えるものではないらしいと翔は考えた。

「俺は、叔父上が収拾したのだと思っています。当時、日露戦以後、列国の厳しい批判の中で、日本は朝鮮を南北に走る京釜鉄道と、大陸東北部の鉄道敷設権を獲得しました。もしこの一件に託けて日本軍が大陸に派兵するようなことがあれば、間近に控えた韓国併合を前に、列強からまた圧力を受けるに違いない。少なくとも身内のために国益を損ねてはならぬと叔父上は判断した。枢密院議長も勤めたことがある人だ。揉み消すくらい何の造作も無い。違いますか」

 ざりざりと、雨雪を踏みしめる音が静かな街に響いていた。暫くの沈黙に、翔はぶるっと身を震わせて、上着のポケットに手を突っ込んで、俯きながら歩を進めた。

「すばらしい洞察力だ。君も一緒に日本に来て、学ばないか」

 どうやら当たりらしい。翔はそう判断した。

「遠慮します。きっと俺も死んだことになってるから、今更日本に帰るところなんてありません」

 そうか、と言って黒澤はずり落ちそうになっていた輝也を背負いなおした。芙蓉の花は健やかな寝顔を無防備に晒していた。
 湖南楼の入り口が見えるところまで来ると、入り口前に3人ほどの男女が居た。男の一人は、「田口」と呼ばれている、湖南楼の使用人だと分かった。あと二人の女は賄いだ。おそらく、一晩中、輝也を探したのだろう。楽弥の姿は無い。翔はほんのちょっとだけ彼らに申し訳ない気持ちを感じたが、当の本人は父親の背で静かに寝息を立てていた。朝日が昇りかけていて、東の空が明るい。湖南楼の3人が此方に気付いたらしい。女二人が此方に近寄ってくる。

「少佐」

 翔は黒澤の名前を知らなかったので、階級で読んだ。「何かな」と黒澤が応えた。

「お願いがあります。どんな理由で輝也が日本に行くのか知らないけれど、彼を軍人にだけはしないでください。日本は、必ず近い将来中国に大規模な派兵を行うはず。そうなれば、戦うと戦わざるとに関わらず、仮想敵国は中国となる。輝也にこの国を傷つけさせたくない。俺も、輝也と戦いたくない」

 黒澤はすぐに応えなかった。

「約束してください、必ずです」

 しばらく何か逡巡して、黒澤はようやく面を上げた。

「ああ、…約束しよう」

 黒澤と翔が湖南楼の入り口に辿り着くとほぼ同時に、黒塗りの自動車もそこへ到着した。運転しているのは黒澤の部下のようだった。輝也は相変わらず眠ったまま。ようやく帰ってきた主の息子に女二人は「好好(よかった)」「精神(元気でね)」と語りかけ、袂で涙を拭いていた。田口は黒澤と言葉を交わした後、彼を見送って礼をした。黒澤は輝也と共に後部座席に収まった。どうやらこのまま上海港に向かうらしい。凍りついた車の窓ガラスがざりざりと音をさせながら下に開く。

「楽弥に会っていかなくてもいいのですか」

 翔は黒澤に聞いた。明るくなって気がついたが、吐き出す息が随分白い。黒澤はまた、例の力ない微笑で応えた。

「また、輝也の話し相手になってやってくれ」

 そう言って、黒澤は内側からガラス窓を閉めた。車はびしゃびしゃと足場の悪い雪路を走り始めた。
 地平線に僥倖が顔を出した。きらきらと溶けかけた雪と黒塗りの車の後部を照らした。

 
――なあ輝也。起きてるなら、最後の挨拶くらい、してくれよ。


 次に二人が巡り合うのは、砲弾の飛び交う戦地の中となるという事を、二人はおろか、黒澤が知る由も無い。


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2010/10/25(月)
6、「傾城傾国」

血に染まる村(1)

 ***

 まだ溶け残った雪の塊が日陰に残るものの、すっかり春めいた日差しが村を照らしている。
 翔はチウより頼まれた当家への届け物を携えて、美花と共に村の小路を徒歩にて参る途中である。

 美花は常に翔の前を駆け回っていて、道端でタンポポを見つけるたびに花弁のついた茎を折り、すでに彼女の左手はタンポポの黄色い房でいっぱい。今度はシロツメクサやアザミなんかにも手を出し始めた。「爸爸(ぱーぱ)にあげるのよ!」と彼女は翔に言い、「綺麗でしょ」と言ってタンポポの黄色とシロツメクサの白の混じった花束を翔に差し出した。持てということらしい。当家への預かり物を右手に抱えなおして美花から花束を受け取ると、彼女は再び、前方の草むらへと駆けて行った。彼女の花好きは、母親の血だ。

 その母親、チウから預かったこの携え物は、日本刀。刀袋は金襴布に紫糸で豪華な刺繍が施されてあって、綴じ紐は2つの房の付け根に翡翠の玉。その中に収めてあるのは美濃拵えの孫六兼元。翔は刀について詳しくは無いが、その翔でも耳にした事のある、名刀だ。

「武田信玄も使っていた名刀だぞ。普通に暮らしていちゃあ、あたしやお前なんかがひっくり返ったって拝めない代物だ」

 チウは美術品に詳しい。湖南楼の奥の廊下にあれだけ珍品が並んでいるのも、おそらくチウの手腕の残香なのだと思う。先日湖南楼で輝也を見送った際に、そこの使用人である田口にこの日本刀を持たされた。田口は「いいものが手に入りましたので、才神さんに渡してください」と言った。帰宅後、そのことをチウに話すと、チウは柄を刀身からはずして佩裏を確認し、「これは16世紀初頭のもので、三代目以降の没落モンとは違う。正真正銘、本物さ」と述べた。起用に元に戻した後はそれを翔に託し、せっかくだから当家に持っていってやれ、という。当家も日本刀を解するから、そう言ってチウは、翔に刀を託した。

 チウは正月や当家に直接呼ばれてなどという特別な場合でなければ、自分から当家の家に赴くことは無い。それは自分が次妻であるという自覚以上に、当家の正妻と要らぬ争いをせぬためなのだと翔は思っている。

 当家の正妻は、チウよりも5つ年上で隣村の出身。15で当家の下に嫁いでおり、生高、次男、大昌の3男を産んだ。気位の高い女で、いつも人を上から下命するような口調で話す。身に纏うものもチウとは間逆で、北京の商人から買い付けたとかいう絹織の召し物に、その黒い髪を高く結い上げ、黒光りする鉄鉱石のような櫛をあしらっている。明らかに村内では浮いているのだが、本人は何も無ければ当家の洋風作りの家から出ないし、彼女が外出するときは北京の公使館や社交場なので、その姿を村人に見とめられる事はほとんど無い。そんな彼女に懲りた当家が、文秀を身ごもったチウを上海から引き取ると、正妻は狂ったように逆上して当家を責めた。当時、正妻と当家の間には生高しか居なかったが、チウが文秀を生むと、まるでチウへのあてつけのように、次男、三男を立て続けに生んだ。家の中でも次妻であるチウへのあてつけを息子たちに披露しているのであろう、常識のある長男生高を除いて、特に三男の大昌は、チウとその一家を心の底から見下しているようだった。

 そうこうしているうちに、村の広場のような開けた場所に出た。
 ここは、出陣するときに騎馬を一時的に集結させたり、村の祭事や市場などにも使われる土地で、それを取り囲むように出店や行商が商いをしている。

 人通りも村で一番多い。

 それにしても、ここ数年で村の人口は約二倍に増えたのだ。
 各地からこの村に人々が流れ込んでくる。それは日本軍に村を焼かれたものであったり、隣村に攻め滅ぼされてしまった生き残りであったり、とにかく、大陸の東北地方では不安定な情勢が続いている証拠に他ならなかった。彼らはなぜこの村に住み着くのか。それは当家が強固な自衛軍を持って村を守備していることは有名であったし、近隣村との緩やかな連衡を束ねる長であることもまた、事実であったからだ。何より、当家は村民を兵役以外で厳しく統制することをしなかった。彼がそうやって生きてきたように、村人には自給自足させ、商いを活発に行わせる。そうすることで自然と村が豊沃となっていくことを、彼は彼の父より教わっていたのだった。

 美花が顔見知りなどに声を掛けられながら、にこにこと会話などをしている。午後の昼下がり。村人たちは緩やかに談笑をしたり、店頭のジャガイモを拭いたり、広場の真ん中で体操をしたり、豆を煎ったりしていた。翔は美花を見失わないように気を使いつつも、そんな彼らの様子を眺めながら、心穏やかな今の心境を楽しんでいた。

 ふと、広場にどよめきが起きた。
 天井の無い、こ洒落た自動車が、劈くようなクラクションを鳴らして停止した。そもそもそんなものを村人は見たことが無い。自動車の前には、高齢の老人が腰を抜かして座り込んでいた。
 自動車には、運転手の他に、助手席に当家の三男大昌、そして後部座席にはその顔ほどもあるサングラスをして巨大なツバのある帽子をかぶっている、当家の正妻の姿が見えた。それに気がついた美花が、顔を強張らせて翔の後ろに隠れた。当家にも物怖じせずに話が出来る美花だが、この二人は苦手らしい。翔もその場に立ち止まった。自分たちが彼らの視界に入ればまた面倒なことになると思って、「美花、ちょっと畑を見てから行こうか」と声をかけた。美花はだまって頷いた。しかし、そのすぐ後に大昌の大声に足止めされた。

「做什么的你!!(何をしている貴様ア!!)」

 大昌が助手席を降りながら、腰を抜かしている老人に向かって怒鳴りつけた。老人はわなわなと恐怖に顔を歪めながら、口を開けたり閉めたりしていた。

「在那样的地方被久坐不去,车没能通过!挪开!(そんなところに居座られては、車が通れんだろうが!どけっ!)」

 老人は震えるばかりで動けない。大昌は持っていた杖で老人を殴り始めた。何とか腕で打撃を防ぐも、脆くなった骨が砕ける音がして、回りから小さな悲鳴が上がった。見ていた村人の中から、二人ほどの若い男が、その場から老人を引きずっていった。大昌は「ふん」と言って車に戻ろうとした。

「请等候哟!(待ちなさいよ!)」

 張り詰めた空気の中に、美花の声が響いた。

「等候在没有对大昌,爷爷请道歉!(待ちなさいよ大昌、おじいさんに謝りなさい!)」

 勢いで叫んでしまったらしいが、その小さな体は、ガタガタを震えていた。固唾を呑む村人たち。彼らもまた、正妻と大昌がどんな人間なのかを知っている。

「可爱的妹妹哟,向打搅了本家的正妻和那个儿子的去处的这个老人道歉,怎样的事(かわいい妹よ、当家の正妻とその息子の行く先を邪魔したこの老人に謝れとは、どういうことかな)」

 乗り込もうとした手を止めて、大昌が美花に視線を向ける。美花は歯を食いしばり、さらに続ける。

「既然是爸爸儿子!? 重要村民本家的任务。请想害羞哟!(仮にも爸爸(パーパ)の息子でしょ!? 村民を大切にするのが当家の務め。恥ずかしいと思いなさいよ!)」

「美花、もういい」そう言って翔は美花を下がらせようとした。美花はその手を振り払った。その体はやはり恐怖に震えているようだが、視線ははっきりと義理の兄を捉えている。

「庶出的女儿,变得开相当看起来了不起的口。快消失。在没看这个不尊敬的事里做(妾腹の娘が、随分偉そうな口を利くようになったな。とっとと消えろ。この不敬は見なかったことにしてやる)」

「别愚蠢哟!比起你之类一直好些哟!(馬鹿にしないでよ!あんたなんかよりずっとマシよ!)」
 
 今にも殴りかかりそうな美花の体を抱え込むようにして止めた。さっき美花に渡されたタンポポとシロツメクサの束がばらばらと地面に落ちた。美花は離してくれとバタバタともがいていたが、翔は離さなかった。その様子を見ていた大昌が、二人の目の前にやってきた。

「是不是那个时候的日本人不幸存?是是不是在章鱼的村的(ほお。あのときの日本人の生き残りじゃないか。まだこの村に居たのか)」

 にやにやと翔の顔を覗き込むと、大昌は翔のみぞおちを思いっきり蹴り上げた。肉を裂くような激痛と、胃液が逆流して口の中がすっぱくなるのを感じたが、美花を捕まえた腕の力を緩めることなく、「ぐぅ」と唸るだけでその場を堪えた。

「二哥!」

 苦痛に顔を歪める翔に美花は声を掛け、「你做什么的哟!(あんた何すんのよ!)」と相変わらず美花が翔の腕の中で暴れた。しかし翔は離さない。大昌はその様子を上から見下ろしている。

「哎呀那样,象你一样的乞丐也是不是成为作为作战能力人数…。这个好。直接我下也使用。充其量预先磨练本领(ああそうか、お前のような物乞いでも戦力としての頭数にはなるのか…。まあいい。直に俺の下でも使ってやるさ。せいぜい腕を磨いておくんだな)」

 村人は大昌の言動を諌めることもしない。翔に援護の手を差し伸べることも無い。ままならない呼吸にとりあえずはこの場を収めたい気持ちで、翔は何も言い返さなかった。
 黙っていられないのは、美花である。

「你之类,大哥和二哥脚下也达不到哟!(あんたなんか、大哥や二哥の足元にも及ばないわよ!)」 

 大昌の目の色が変わり、その冷酷な杖が翔の肩口に落とされた。翔は激痛に気を失いそうになりながらもなんとか美花を抱く力だけは緩めない。ここで美花が直接手を出したらどうなるのか、火を見るよりあきらかだ。
 大昌の方も、湧き上がる怒りを納めるので精一杯らしく、荒い鼻息が頭上から聞こえてきた。

「乘这个小子,情形的哟(このガキ、調子に乗るなよ)」

 そう言って、何度も何度も翔を打った。美花を打たないのは、非も無く美花を打てば、彼女を溺愛している当家に詮議される可能性があるからだ。翔は一切抵抗しなかった。打ち据えられる激痛によってようやく意識を保っていられた。

 バタン、と扉の閉まる音がして、後ろから女の声がした。薄紫のチャイナドレスに別珍の焦げ茶色のロングコート。大昌の母親だった。

「什么?(何事?)」

 大昌が怒りをようやく押さえ込んで、振り返った。

「母亲。不管什么都没有。想因为教育没成为的妹妹,很紧地正在斥责那个哥哥(母上。何でもありません。躾のなっていない妹の為を思い、その兄をきつく叱っていたところです)」

「使荒芜。那是做了好事吧,大昌。那么,不上了晚会。请返回车(あらそう。それは良いことをしましたね、大昌。さあ、夜会に遅れてしまいます。車に戻りなさい)」

 美花は仕切りに翔に声を掛けていた。その声が徐々に遠くなっていく。だがどうやらこの場は収まりそうだ。このまま、車が行き去ってくれれば…
 立ち去ろうと踵を返した大昌が、去り際に吐き捨てた。

「是不是说要是活怎样的耻辱也打算受到?与向文秀卖了身体的你的姐姐很大的差别没有(生きるためならどんな辱めも受けようというのか。文秀に体を売った貴様の姉と大差ないな)」


 これ以降、翔に明確な記憶は無い。

 次の瞬間、刀袋が舞い、それが地面に実を落とすのと同時に、大昌の体と頭が離れて宙を舞った。
 鮮血が彼の実の母親とその車に飛び散り、首がぐしゃりと地面に落ちて、片目が潰れた。

 静まり返る広場。色を無くす世界。

 ゆらりと立ち上がった翔の右手には、大昌の血を吸った、かの孫六兼元が握られていた。


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2010/10/27(水)
6、「傾城傾国」

血に染まる村(2)

 ***

 <ご注意>
 一部に暴力的、流血などの表現を含む話となります。
 ご了承いただいた上で読み進めていただきますようお願いいたします。


 ***

 事態を把握した村人たちが、思い思いに奇声を上げた。逃げ出すもの。その場に立ち竦むもの。翔を取り押さえようとするもの。しかし翔はそんな彼らよりもさらに早く、別珍のコート目掛け、兼元で背中から突き上げた。「ぐえ」と蟇蛙をつぶしたような声がして、二、三振り抵抗らしきものを見せた後、口から泥のような血を吐き、当家の正妻は絶命した。
 その横で、彼らの運転手だった男が恐怖をあおるような声を上げながら翔の横を通り抜けようとした。刀の鍔元まで食い込んだ女の体は重く、切っ先が下を向いた。翔はそのまま重力に従う女の死体から兼元を抜き、血に塗れた刀身を振り払った。その切っ先は運転手の背中を真一文字に切り裂いた。男の情け無い悲鳴があたりに木霊した。翔を取り押さえようとした若い男はその切っ先を辛うじてよけた。近くに居た、ジャガイモ拭きの女がその血を浴びて、「ひっ」と言った。

 それは、まるで何かに取り付かれたような気迫だった。首から上を無くした大昌、背中から急所を一突きの正妻。黒い車を挟むように彼らの遺体は斃れていて、まだ温もりのあるその体からとめどなく血液があふれ出してきて、翔の足元を染めていた。翔本人に、それを恐れる様子など微塵も無い。ただ俯き加減に、焦点の定まらない瞳と、血を滴らせる名刀、兼元をぶら下げて、ゆらゆらと歩みを進めている。

「二…哥」

 翔の歩みの先には、美花がいる。美花は変わり果てた兄の姿に戦くばかりで、その場にすとんと座り込んでしまった。美花は、自らの身の危険を感じながらも、翔から目を離す事ができず、動くことが出来ない。翔は美花の間合い一歩外まで来ると、左手にぶら下げていた柄を両手に構え、真正面から迫り上げた。美花は目を見開き、その刀身を見上げた――。

 途端に、翔の後ろから二人の男が翔を取り押さえた。後ろから大の大人二人の体重でもって地面に叩きつけられた翔は、兼元を振り落とされ、さっき切っ先をよけた若い男に後ろ手で絡め取られた。翔は特に抵抗もしなかった。地面に顔を埋めたまま、何かを呟いているようだった。

 美花は目の前の出来事が信じられないまま、取り押さえられた翔を見ていた。美花を知るものが彼女を抱きかかえて、その惨状を彼女の視界に入れないよう、そしてその動揺を労わり、「坚实(大丈夫、大丈夫)」と語りかけた。始終を見ていた男たちが、その場を保全しようと増え始めた見物客に規制を始めた。翔に背中を切られた男は、先ほどまでどたばたと手足をばたつかせていたが、手当てをするまもなく、どうやらそのまま絶命したようだった。

 翔は男に後ろ手を取られ、後頭部を上から強く押し込まれていて、顔が半分地面に食い込んだ状態にある。そうこうしているうちに当家とその長男、生高がやってきた。人垣が彼らに道を開ける。変わり果てた母と弟の姿に生高は思わず口を覆ったが、当家はそれを一瞥して通り過ぎると、翔の前に進み出た。

 その右方に、血糊のついた兼元が転がっている。

「是什么事,这个(何事だ、これは)」

 翔は地面に顔を埋めたまま、当家の言葉に動じない。ただもごもごと何かを呟いている。

「听着!!是不是什么事!!(何事かと聞いている!!)」

 当家はその言葉に十分すぎるほどの怒気を含ませていた。自ら佩いでいた青龍刀を抜き去り、鞘を左方へほおり投げると、その切っ先を翔のすぐ頭上に向けた。しかし、翔に動きは無い。
 翔を取り押さえている男が変わりに応える。

「当家。这个人去了的事是确实容许的马上事。可是大昌先生错误也有。请,再一次辨别(当家。この者の行ったことは確かに許すまじき事。しかし大昌様にも非はございます。なにとぞ、今一度見分を)」

 翔を押さえ込んでいるこの若い男は爛華(ランホア)という。村の精鋭騎馬隊にも所属し、翔とも面識がある。幼い頃に両親を亡くし、親類の家で育てられた。騎馬隊においても若いなりに戦火は著しく、その素直な気質は当家の知るところでもある。
 その爛華がこの無残な姿になった息子にも非があるという。当家も、人の親たるまえに村の統率者だ。こみ上げる感情を殺し、爛華を見据えた。

「试着说(言ってみろ)」

 当家が切っ先を下ろし、欄華にそう言った。爛華が当家に相対した、そのときだった。

 爛華は自分の下にいるべき翔が居なくなったのを感じた。翔は弱まった爛華の拘束から左手のみを開放し右手はまだ拘束された状態のまま、落ちていた兼元を逆手で拾い上げ、下から逆袈裟の太刀を当家に見舞った。鮮血を前方に撒き散らしながら当家は背中から倒れ始めて、その勢いのまま翔は身を翻し、欄華の拘束から逃れた。すぐに村の兵役の者たちが五、六人、翔に斬りかかって来た。翔は身軽にそれらを交わすと、立て続けに二人斬った。するとたちまちその場は翔の殺気に怯んでしまう。当家はそのまま地面に落ちた。ほぼ即死だった。

 翔は、その焦点の定まらぬ目で生高を見据えている。生高もそれを自覚している。
  
「你,是不是那个时候的仇敌杀的打算(貴様、あのときのあだ討ちのつもりか)」

 亡き母と、弟の為に流したらしい涙の筋が、生高の頬を伝っていた。翔を見据えたまま、生高が青龍刀を抜いた。人垣が、生高の周りから離れた。斑点のように血を浴びた姿のまま、翔が地を蹴る。生高も翔に向かい、気合の声を上げる。

「やめてよ、どうしちゃったのよ、二哥!!!」

 美花の声が響くその刹那。翔と生高の影が重なり、甲高い金属音が木霊した。
 しかしそれは、兼元と青龍刀のせめぎ合う音ではなかった。



 文秀が、自らの短刀で生高の青龍刀を、その左手で翔の兼元の刃の根元を素手で止めている。

「美花の言うとおりだ。何があった、翔」

 ぐぐっ、と力の篭る二人を一時的に一時的に押し戻す。文秀の左手からは鮮血が溢れ始めた。
 文秀に向き直り、刀を構える翔の瞳には、光が無い。相変わらず不気味な闇をその瞳に宿している。


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2010/10/28(木)
6、「傾城傾国」

血に染まる村(3)

 ***

 <ご注意>
 一部に暴力的、流血などの表現を含む話となります。
 ご了承いただいたで読み進めていただきますようお願いいたします。 

 ***


――暗闇、いや、霧の中という方が近いかもしれない。

 思考が定まらない。何かが浮かんでは消え、消えては浮かんで、霧の中に霞んでいく。
 
 見えているような、しかし何も像を結ばない。聞こえるような、しかし何も響かない。

 ここはどこで、俺は誰だ。

 そんなことすらわからない。そんなことはどうでもいい。

 ああ、俺は、

 何を考えていたんだっけ。


 ***

 ゆらゆらと文秀に歩みを進める翔。それを見据え、左手を庇いながら短刀を胸に構え、文秀は翔に語りかけた。

「俺の声が聞こえるか、翔」

 翔の歩みは止まらない。かと思うと、左手に携えた兼元の柄尻を右手に構え、文秀に向かって突進してきた。
 翔の動きを見切り、寸でのところ交わす文秀。すぐに体の向きを変えた翔は、近い距離に居た生高を見据える。
 生高がそれに気付き、青龍刀を受身で構えた。獣のような唸り声を上げて刀を振りかざす翔の大降りに向けて、文秀がすばやくその脇を狙う。生高の目の前で文秀が翔を止める。翔は右手で文秀の短刀を受け止めており、やがてじわっと血が滲んできた。

「生高,不能能请一时,是不是托付给我这个场(生高、この場を一時、俺に預けてもらえないか)」

「知道了(わかった)」

「谢谢你(ありがとう)」

 この兄弟にそれ以上の言葉は必要ない。生高はその場を引き、文秀は密着状態から短刀を持っていない左手で翔の鳩尾を突いた。翔は「がはっ」と吐瀉物を吐き出して、後方へ引き下がる。その間に文秀は、自分の衣服を破り、出血の止まらない左手に巻きつける。

 翔はその場で二、三咳き込んで、ふらりと体勢を立て直した。文秀の視界の中には、正面に翔、そして左方に父親である当家の遺体がある。いいようのない感情に今は踏ん切りをつけて、声を張り上げる。

「あの夜、当家からは一家すべてを始末するように言い渡されていた。例え女子供であろうとも、恨みを持った人間の力は後年になってから我々を脅かす存在になりかねないからだ。今のお前がまさにそうだ。俺がお前を生かしてしまったために、俺は父を、この村の当家を失うことになってしまった。俺は、その責任を取らねばならない」

 その声を聞いているのか否か、翔が再び、ふらふらと文秀へと向かいだす。

「悪く思うなよ、翔」

 文秀を纏う空気が一変する。突っ込んでくる翔。
 ある者は目を覆い、ある者はその瞬間を見逃すまいと瞳を凝視する。
 
 静まり返った広場に、肉を割くような鈍い音がした。人々の視線が、二人の影を追っている。


 ***


 ぼんやりと浮かんだのは、まず兄の顔だった。
 駐在武官としての北京赴任が決まっていた兄。穏やかで優しい人だった。その気質を知っていた父は、兄を外交官にしたかったらしいが、兄は断固として仕官の道を突き進んだ。頑固な面もあった。

 父は面倒見のいい人だった。外交官らしく、本当に気が効く人でだった。普段から忙しいのに、休日は北京郊外へ馬に乗って翔を連れ出したりしてくれた。よく笑う人だった。

 母は美しい人だった。
 いつも父の一歩後ろに控えていて、その長い睫はいつも俯き加減で揺らめいていた。物静かで、思慮深い。襟を抜いた着物はいつも皺の一つ無く、紫や黒の色を良く好んでいた。菖蒲の花が好きだった。翔が兄と共に庭で菖蒲の花を見ていると、その白く細い手がす、と伸びてきて、淑やかに鋏を入れた。

 その白い手が、自らの血で赤く染まるのを、10年前のあの日、暖炉の中から見ていた。

 本当は、泣きたかった。
 本当は、悔しかった。
 本当は、辛くて、本当は、殺してやりたいと思った。

 連れて行かれた非力な義姉の無念。 自由に生きられない盲目の輝也の小さな希望。 
 
 どうして、家族は殺されなければならなかったの。
 どうして、祖国は何もしてくれないの。    

 俺はなぜここにいる。
 
 どうして誰も、

 ***

 体中に走る激痛に悲鳴のような声を上げたのは、翔だった。文秀とすれ違った直後、天を仰いだ翔。左耳から右目付近まで、ざっくりと一文字に切り裂かれ、生き物のように鮮血が飛び散った。翔は兼元を掴んだまま両手で顔を覆い、膝をついた。翔の悲鳴は何度も何度も続く。ぶんぶんと体を振り、その激痛から逃れようとしているようだ。文秀の方も、左のわき腹からじわりと血が滲み出している。布を巻いてある左手で一度、ばしっと叩いて、もがく翔の方へ振り返った。

「ああああああ!!!!」

 悲痛な叫びは、その姿と共に文秀の胸中を苦しめた。翔の方へ文秀が歩みを進めると、それでもなお、翔は兼元を握り、左腕で顔を覆ったまま、誰も居ない中空を何度も斬った。よたよたと後ずさる翔の顔面からは、とめどなく鮮血が流れてきた。文秀は、己に言い聞かせるように大きく息を吸い、そして覚悟を決めた。 

「終わりだ」

 前が見えない翔の体に、文秀が短刀をつきたてようとした、その刹那だった。

 
――どうしてだれも、おれたちをたすけてくれないの。


 文秀は近接していたことから翔がそう呟いたのを確かに聞いた。翔のその血まみれの瞳は相変わらず文秀を映してはいなかったが、文秀はその目の色に覚えがあった。それはあの日、当家が翔の家族を襲撃した日に、目の前で兄を殺された十歳の少年が、自分を見上げたあの目だった。

 文秀は体に鋭い痛みを感じた。翔が身を投げ出すように自分の腹に体当たりをして、彼の手に握られている兼元が文秀の腹を貫いていた。翔の体重と共に、自分の体が力を失って後方へ傾いたのが分かった。まるで時が鈍行に進むのをその血流とともに感じているような、そんな浮遊感だった。

 力を失った文秀の体は、背中から青龍刀を差し込まれて宙で停止した。同時に文秀に体を預けていた翔の右腹にも深く切っ先が食い込んだ。

「…生高」

「以后托付。我处理你的不检点(あとは任せろ。お前の不始末を俺が始末する)」

 生高が力いっぱい青龍刀を抜くと、文秀の体は膝から崩れ落ちた。翔も腹を負傷し、出血する傷口を抑えながら後ずさりする。



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2010/10/29(金)
6、「傾城傾国」

血に染まる村(4)

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 <ご注意>
 一部に暴力的、流血などの表現を含む話となります。
 ご了承いただいたで読み進めていただきますようお願いいたします。 


 ***

 美花は翔と生高の狭間で、文秀が崩れるのを見ていた。
 息が出来ない。何が起こっているのかわからない。
 兄は、きっとちょっと疲れちゃっただけなんだ。きっともうすぐ起き上がるんだ。
 大哥の名前を呼びたい。なのに声が出てこない。呼吸がままならず、涙ばかりがぽろぽろと溢れてくる。
 美花は自分を抱いてくれているおばさんに「放下(降ろして)」と言った。おばさんはそれを許してくれなかったが、むしゃくしゃに暴れて強引に地に足をつけた。

 足の裏から、翔の強烈な怨嗟が伝わってくるような気がした。しかし美花にはその理由に見当もつかない。確かに、自分や文秀と血が繫がっていないらしいことは知っていたが、翔は美花が生まれたときから一緒に暮らしていたし、美花から見ている限り、大きな諍いや問題は無いはずだから。

 文秀の体が右肩から落ちて、やがて血が赤く染まり始めた。
 翔と生高がお互いに距離を取る。

 生高は先ほど文秀から引き抜いた青龍刀の血を払い、翔を中心に間合いの一歩外を歩きながら頃合を見ている。
 翔は、顔面と腹部からの出血が過剰。右手に兼元をぶら下げて、ぜえぜえと肩で息をしている。もう立っているのが限界だ。何度も崩れ落ちそうになっては兼元を地に突き刺してつっかえにして体を支え、とめどない右腹の出血を抑える右手に力が篭る。しかしその目は、獲物を狙う鷹のように生高のみを見据えている。満身創痍。その眼光の力は、むしろ先ほどよりも増したようにすら思えてくる。

「什么那里为止追逼了你。至少文秀救助了你的生命的恩人也是应该(何がそこまで貴様を追い詰めた。少なくとも文秀はお前を救った命の恩人でもはずだ)」

 やはり翔は応えない。静まり返る周囲に響きわたるほど、怒気に満ちた深い呼吸をしている。生高を見据え、何度も刀身を持ち上げようとするが、そのたびに持ち上がらず、体勢を崩しては持ち直し、また生高に視線を戻す。生高は青龍刀を引きずりながら、翔を中心に円を描くように歩いており、その度に翔は生高を視界から逃さぬよう、呼吸するのが精一杯の体をよたよたと振り向かせていた。

「文秀的眼确实。你是能干的这个村战士(文秀の目は確かだった。お前は有能なこの村の戦士だった)」

 傍に横たわる文秀の体に躓き、翔はぐしゃりと地面に倒れこんだ。必死で体を起こそうとするが、腕に力が入らない。何度も何度も試みて体を少し起こすたびに、彼の体からおびただしい量の血液が地面を染めた。しかし再び地面に落ちた。文秀は薄らぐ意識の中でそれでも生高を狙う翔の、そのおぞましい表情を見ていた。

――翔。

「那个真实,至极,遗憾(それが真実であるから、至極、残念だ)」

 自由の利かない体に、翔は苛立って大声を発した。それは人間のものとも、獣のともいえない声だった。
 そのとき、生高の後ろに、村の訓練を受けた男たちが、銃を構えて1列に並んだ。その数、八名。生高は右手を軽く上げて、彼らに待機を下命する。

――翔、もういい。

「架起(構え)」

 八つの銃口が、地面から起き上がろうともがく翔を捉えた。それでもなお、翔は満足に顔を上げることも出来ない。

――お前は、十分苦しんだんだ。だから、…

「射击」

 乾いた空気に銃声が鳴り響く。土埃が一面に舞い、人々の視界から翔も、文秀も消してしまう。

 *** 


『われわれは見せしめか』
 兄の声が聞こえる。でも正確にはそうではない。俺たちは見せしめにすらならなかった。

『助けてください、この子だけでも!』
 義姉さん。知っていたんだ。そうやって健気な女を演じて、文秀に自分も助けてもらおうって思ったんだよね。
 でも信じていたんだ。姉さんは兄さんを裏切るようなことはしないって。そう信じたかったんだ。

『お前は日本を恨んだことは無いのか』
 文秀。本当は恨んでいるのかもしれない。輝也の父親に真相をぶつけたときに、はっきりと自覚したんだ。俺は国の利権とかそんなものは良く分からない。だけど、日本は俺たちを見殺しにしたんだ。身内にすら省みられなかったんだ。

 だけど、一番許せなかったのは自分自身だ。
 そうやってこの境遇を誰かのせいにして、何もしなかったのは俺自身なんだ。
 そんな当たり前のことを、俺はとっくに知っていたはずなのに、俺はそれを認めたくなかった。

『本当は分かっている。このままではいられない。このままずっと、ここにいるわけにはいかない』
 輝也。ああ、そうだ。お前はその小さな体で、しっかりと自分の未来を見据えていた。
 
「いつか、俺がお前を迎えに行ってやる。お前を必要としてやる。だからお前は」

 本当は、俺は


 ***

 土煙が晴れ、視界が開けてきた。
 
 生高が翔の生死を確かめるために、煙の中の黒い影に近づいた。
 
 様子がおかしい。
 そこにあるはずの、文秀の遺体が無い。
 生高はその瞬間に理解した。理解して、身を引こうとした、そのほんの一瞬の間隙だった。
 動かない文秀の体の下から、兼元の刃が薙ぎ払われた。

 ギリギリでその剣線を外す生高。しかし左脇から肩口にかけて切り上げられた傷口から、どぱっと鮮血が宙に舞った。
 文秀の体を銃弾の盾にした翔が、手負いの生高の、青龍刀を握る右手首に向けて兼元を振り下ろした。

 そこまで、ほんの一瞬の出来事だった。土煙の中から、青龍刀を握ったままの生高の手首が転がってきたことで、人々は事態を理解した。やがて煙が引くと、彼らが目にしたのは右手を失った生高に翔が襲い掛からんとする、まさにその瞬間だった。

 銃撃隊の再装填も間に合わない。 


「やめな文山!!」

 
 翔の動きがぴたりと止まった。人々の視線が、その女の声に集中した。
 人垣が開く。

 その眉をきりりと引き上げ、口を一文字に結んだチウが、ずんずんと広場の現場に向かってくる。

「妈妈(マーマ)」

 チウは美花の横を通り過ぎるとき、その頭に手をぽんとのせたが、立ち止まることなく現場に足を進めた。
 先ほどまで微塵も見せなかった戸惑いの色を湛えて、翔の目はかの女を見つめている。



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2010/10/30(土)
6、「傾城傾国」

血に染まる村(5)

 ***

 <ご注意>
 一部に暴力的、流血などの表現を含む話となります。
 ご了承いただいたで読み進めていただきますようお願いいたします。
 
 

 ***

 生高が後ろに倒れるのを、銃撃隊のうち二人が後ろから支えた。

「我别好,这个以上加牺牲(俺はいい、これ以上犠牲を増やすな)」

 チウのことを言っているらしい。生高を支えた男のうち、髭面の体格のいい男が生高に止血のための応急処置を始めた。
 チウは翔の目の前で仁王立ちとなり、がくりと膝をついて肩で息をしている翔を見下ろしている。
 翔の後方に、チウには背を向ける形で文秀の体が横たわっていた。その左方に、当家。そしてその奥に正妻と大昌。それらを取り囲むように百名前後の村人たち。

「是不是怎样的,结束?还我和生高留存着(どうした、お終いか。まだ私と生高が残っているぞ)」

 チウは敢えて中国語で語りかけた。翔がぴくりと反応する。切れ切れの息から、なにやら単語のようなものが聞こえてくる。構わずにチウは続ける。

「你被我们杀了父母和哥哥。生高与与父母弟弟,并且我也丈夫被你杀了儿子。这样的话是平局。从互相远虑没有是。那么,试着杀死我们。令人懊悔吧!简直想要杀可憎!!(お前は両親と兄を我々に殺された。生高は両親と弟を、そして私も夫と息子をお前に殺された。これでイーブンだ。こっからはお互いに遠慮は無しだ。さあ、私たちを殺してみろ。悔しいんだろう!殺したいほど憎いんだろう!!)」

「あああああ!!!」

 容赦なく翔へと浴びせられるチウの怒号に、翔が感情に身を任せたまま体を持ち上げ、剣線がうねりを描くように刀身を頭上へ持ち上げた。取り囲む人々の悲鳴のような声。生高が「不成,止住(いかん、止めろ)」と近くの二人に叫ぶが、間に合わない。

 チウは武器を何も携帯していない。兼元を振りかざす翔に、自らを防御する様子も無い。

「妈妈(マーマ)ぁ!!」

 美花の悲痛な叫び。そして翔は懇親の一刀を振り下ろす。


 ***


『ずうっと、我慢していたんだろ。辛いも、痛いも、悲しいも、全部自分に押し込めて、そうやって生きてきたんだろ』

 ああ、そうだ。だがそれにも疲れてしまった。俺はもう、楽になりたい。もう、苦しいのは嫌だ。

『よく頑張ったな。文秀も私も、ずっとお前を心強く思っていた』

 文秀は、優しかった。文秀のように、強くなりたい。

『なれるさお前なら。なんせ、私の自慢の息子がお前を認めたんだ』

 帰りたいよ。みんながいるところに。もう誰も失いたくないんだ。

『強くなれ、翔。その為になら、私は』


――またこうして、みんなで新年が迎えられた。それが嬉しい。 


 母さん?
 いや、チウの声が聞こえる。

 チウが近くにいる。俺は今、何を


 ***
 
 翔が刀を振り下ろすよりも早く、チウは翔の傷だらけの体を強く抱いた。
 チウは左手で翔の頭を押さえ、自分の胸に押し付けた。右腕でその背を抱いたら、翔の鮮血がチウの腕を濡らし始めた。
 翔はガタガタと震えていた。チウは彼を強く抱いたまま、どくどくと波打つ、翔の脈動を感じていた。やがて翔は全身から力が抜けて、兼元がその右手からずるりと落ちた。刀身は地面に落ちるとカランと鳴った。翔が膝を突くのに逆らわず、チウも膝をついた。翔は抵抗しなかった。血だらけの顔面に、やがて涙の筋が伝った。

「辛いなら、辛いと言えばいいんだ。お前は頑固者だから、私たちにそれを一言でも漏らした事は無かった」

 チウは日本語で語りかけた。翔はそのチウの声を聞いていた。涙がとめどなく溢れてきた。

「チウ…、俺は、何を…」

「私たちは報いを受けた。お前の家族を殺した報いだ。だが同時に、お前も、私たちの家族を殺した報いを受ける理由が出来てしまった。覚悟はいいか。仇を討つということは、お前自身が、誰かに仇を討たれるかもしれないということだ」

 翔は、密着したチウの体温を感じながら、心の中の靄が晴れていくのを感じていた。
 一人ではなかった。そんなこと、とっくに知っていたはずなのに。

 俺は、差し出された手を自ら払いのけてしまった。その行いの代償が余りに大きすぎ、すぐに実感できない。チウの大切なものを、この村の主を、そして何より、自らの命の恩人を、この手に掛けてしまった。

「すぐには答えは出ないだろう。だが、その為に生きるのも悪くは無いさ」

 そう言って、チウは翔に笑いかけた。


 ぱあん、と一つ、銃声がした。
 銃撃隊の一人が、翔に止めを刺そうと放ったものだった。

 生高がすぐに止めろと指示を飛ばす。発弾した隊士はすぐに取り押さえられた。村人の視線は、チウと翔に集まった。

 翔の体から剥がれる様に、ずるりとチウの体が落ちた。そのまま彼女の体が動くことは無く、翔はただぼんやりと、次第に青ざめていくチウの顔を見ていた。  


――ああ、俺は、この光景を、知っている。


 翔はそのとき、ぽつねんとそんなことを考えていた。
 血の海に足が浸かり、呆然と立ち尽くすしかない自分の姿が、あの時の自分と重なった。

 
 中華民国四年、三月。
 翔、十八才の春のことだった。


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2010/10/31(日)
6、「傾城傾国」

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