大正慕情(1)

 ***


 1914(大正3)年、7月。京都、山科。


 拓真は10歳の夏を迎えた。


 自宅の裏手西側に小高い丘があり、芝生を踏みしめて頂上までの道のりは、拓真の足で15分程度。時計の鐘が8つ鳴らしたころ、拓真は自分の身長くらいもある望遠鏡を背負い、スケッチブックと筆入れをショルダーバックに詰め込んで丘を登っていた。中腹まで上ったころに足を止めて振り返ると、暗い藍色の背景に祇園の町が橙色に光っている。どやどやと大人たちの声が聞こえる。拓真は肩からずり落ちていたショルダーをぐいと戻し、再び頂上へ向けて足を踏み出した。

 5年前の秋。

 日にちまでは覚えていない。朝、いつものように北条家の門をたたいても、親友である古巻は出てこなかった。
 しばらくしてから古巻の姉であるゆゑが、彼が東京へ行ったのだと告げた。なぜかと聞いても、ゆゑは教えてくれなかった。拓真の姉、考子が尋ねても同じ返事だったというから、おそらくゆゑは知らないんだろうと拓真は思った。同じころ、古巻が嫌いだと言っていた「あの女」--最上桔華も姿を見せなくなった。最上桔華は短歌の家元である「桜花」の称号を継いだとかで、もう家にいられなくなったのだとフクおばさんが言っていた。フクおばさんは拓真の自宅、舎人家の使用人だ。朝5時頃舎人家に来て朝餉を作り、昼間は部屋の掃除や買い物などをして夜は5時までに夕餉を拵えて帰っていく。フクおばさんは2年前までおじさんと共に舎人家に仕えていたが、おじさんが病気で寝たきりになったので、フクおばさんが一人で通うようになった。拓真には母親がおらず、父親である耕三郎は帝国陸軍の将校でなかなか家に帰ってこないので、家のことはほとんどフクに任せている。

 姉の考子は、12歳になった。

 矢絣の着物に、紺色の袴をはき、耳より上に髪を結い、尋常女学校へ通っている。学生ながら色白の美人で、着物からのぞく腕は細く、黒い髪は絹のように滑らかだった。女学校でも成績は優秀で学芸、芸事に秀でていたが、考子が最も得意としたのは剣道だった。近所では「あれだけの才女が、なぜ剣道など」と奇異の目で見られていたが、彼女が7歳で道場に通い始めたころ、拓真も剣道を始めた。古巻と考子についていってその流れではじめた剣道だったが、拓真は竹刀で人を打撃することがどうしても好きになれなかった。
 

 丘の上には大きな杉の木がある。
 その木の下にたどり着き、望遠鏡とショルダーバックをおろしてその重さから開放された後、拓真はううんと背伸びをした。下界に見える祇園の橙。その上に広がる、暗い空の海に白い月。それと疎らな星。

 『動かないように見える星だけど、本当は毎日毎日星の場所は変っているんだ。だけど、あの星だけは絶対にあそこから動かない。それは亡くなった人達がみんなあそこにいて、生きている人のことをずっと見てて、危ないことをしないように守ってあげているからなんだよ』
 
 古巻もこの星を見ているかしら。
 拓真はいつものように望遠鏡のレンズの焦点を北極星の方角に合わせた。

 ファインダーを覗くと、こぐま座の一等星を中心に下に二つ、さらにそこから一つ、明るい星が合わせて3つ。そして一等星のさらに右下側、きりんの頭部にあたる3等星が見える。拓真はスケッチブックを殴るようにめくり、白いページの右上に「NORTH」と書きつけ、今目に見た者を書き付けた。今日は月が明るい。いつもよりも手元が鮮明だ。
 織姫と彦星が織りなす夏の大三角は拓真のちょうど右の方に見えている。下界に祇園が望める方角、この位置に見えるようになった。通りで風が冷たくなってきた。
 拓真はぶるっと身ぶるいをし、大きく一つ息を吐いて、再び鉛筆を走らせた。今日はカシオペヤ星団がきれいに見えた。それを書き残さなければならない。二度と同じ星空はない。去年見えていた星が今年は見えないことがあることを、拓真は経験から知っていた。


 ***


「どこに行っていたのです」

 その日は急に振り出した雨が夕方まで降りつづいていた。すっかり遅くなってしまったと、白いショルダーバックを頭に載せ、雨の中帰路を急いでいた。家の門まで来ると人影に気がついた。拓真は足を止めた。それは姉の考子だった。
 拓真はその日、昨夜の星空の中で見つけた、「ミザール」という星について調べ物をしていた。結局見つけられずに、山岡という理科の教師のところに行き、教授を受けたのだった。この山岡が非常に講談好きで、年端のいかない拓真をつかまえては、本人の聞きたかったミザールのほかに自分でアルクトゥルスに興味を覚え、職員室の資料をひっくり返して持論を講じ、そしてそれをいちいち拓真に話すのだった。拓真も自分の知らない星の話を聞くのは興味深く、大きく相槌を打ちながら身を乗り出して話を聞いていたのだった。

 どのくらい待っていたのだろう。門の軒下にいたはず考子の足元は泥にまみれ、着物の袂が水に濡れていた。拓真が返答に窮していると、考子が拓真に歩み寄った。

「質問に答えなさい。こんな時間までどこに行っていたのです」
「ごめんなさい、今日は調べ物を」

 咎めるような眼を拓真に向けたまま、考子は拓真の右手をぐいと掴んだ。拓真は考子を怒らせてしまったと心臓がどくんと打つのを聞いた。半ば引きずるように拓真を家の中に入れた考子は、拓真を玄関に待つように言い、自分は汚れた着物のままずんずんと奥へいったかと思うと、手ぬぐいと着替えを持って拓真の前に膝をついた。

 考子は、拓真の汚れた顔や頭を手拭いで拭いながら、

「遅くなるときは先に言いなさい」

 といい、一通りを終えたところで替えの着物を拓真に渡し、自室へと引き上げていった。考子の背中を見送っていると、ぱたぱたとフクおばさんが廊下を渡ってきて、「おやおや」と言って汚れた手ぬぐいを預かり、夕餉をすすめた。夕餉の時間になっても、考子は自室から出てこなかった。

 いつの頃からか、姉を遠くに感じるようになった。

 剣道の稽古が終ると、男に交じって竹刀を奮っている考子に先輩たちが声をかける。大抵、考子は意に介せず、返答もせずに帰宅の準備をしていた。拓真は考子が道場を出てから帰宅しようとするのだが、道場を出ると必ず考子が待っており、「帰りましょう」と言って先立つのだった。

 姉が嫌いなのではない。学校の帰りに考子を見かけると、友人たちが騒ぐのも拓真は本当は好きではない。考子を見ていると胸がざわめく。かといって姉に話しかけられると、言葉に詰まり、声にならない。

 もしかしたら、自分は姉を避けているのかもしれない。だから考子も前よりも感情を外に出さなくなってしまったのだろうか。


 星が流れるのを一つ見た。また星の寿命が一つ終わったのだと拓真は思った。スケッチブックと鉛筆をショルダーバックに詰め込み、望遠鏡のファインダーに布の覆いを被せ、三脚をはずした。今日は収穫があった。カシオペヤの赤星を肉眼で確認できた。
 拓真は丘を下り始めた。心地よい夜風が頬を撫ぜる。祇園の方角で歓声が上がった。彼らの夜はこれからだ。


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2010/08/17(火)
4、はじまりの業火

大正慕情(2)

 ***

 孝子は北条家の門の前にいた。

 桜色の着物に、臙脂の袴。学校帰りなので、胸に風呂敷包みを抱えている。用事があるということはない。いや、無いわけではない。数年前に何も言わずに姿を消してしまった、弟の同級生がもしかしたら帰ってきているのではないか、そう思っては自宅から5分程度の近所にある北条家の門の中を覗いているのだった。

「孝子さん」

 後ろからたおやかな声をかけられた。北条家の長女、ゆゑだった。

「ゆゑさん」

 孝子はここまで辛うじて声に出して、はっと息をのんだ。用事を済ませた後らしい、若草色に金地の刺繍のある他所行きの留袖。ゆゑの後ろには帝国海軍兵学校の7ツボタンの黒い制服に少尉候補生の袖章をつけた青年が、軍帽を脇に抱えて控えている。青年は孝子に気がつくと引き締めていた表情を穏やかにゆるめた。

「孝子さんには、まだご紹介して居りませんでしたね」
 
 ゆゑは「中へどうぞ」と孝子を自宅へ招き入れた。


 ***


 青年は「藤原一春」と名乗った。

「ご結婚?」

 孝子は口に運ぼうとしていたコーヒーカップの手を止めた。ゆゑは穏やかにほほ笑みながら、「ええ、来月」と嬉しそうに口元をゆるめた。
 通された応接間は北条家の洋風の作りを踏襲していて、中央にガラスのテーブル、そして向かい合うようにソファが置いてある。ゆゑと一春が奥手ソファに座り、それに向かい合うように孝子が対面している。

「父同士が決めたものなのですが」
「でも、来月・・・」

 孝子は一春の袖章に気がついた。そういえば、父が言っていた。

「もしかして、任官後、南方へ?」

 ゆゑだけでなく、一春がその言葉に反応した。

「どうしてそう思うのかな」
「この時期に陸(オカ)にいる若い下士官は、長い航海の前の休息なのだと父に聞いたことがあります。あと、海軍は南方のドイツ領へ大規模な派兵をするのだと新聞の記事を読みました」

 一春は穏やかな眼差しを孝子に向けている。ジャケットを脱いだ一春は上半身が白いワイシャツで、糊のきいた袖口から細い手首。長い指。候補生ということは歳頃21、2といったところか。力強い意志を秘めたその白い額や、くっきりと陰影のついた首筋。孝子はその手に触れてみたいと感じている自分に気が付き、恥じた。一春と目を合わせて居られなくなった。

「君のお父上は陸軍の舎人中佐殿だったね」
「はい」
「なるほど、聡明なところはお父上譲りのようだ」

 一春の隣でゆゑがふふっと笑った。ゆゑをいたわるように一春が口元を緩める。お似合いの二人だ。父親の許婚とはいえ、お互い納得の上の祝言なのだろう。
 孝子は無償に、悲しい気持ちになった。整理のつかなくなった思考に戸惑い、コーヒーカップを持つ力が緩んだ。
 カラン、とカップがテーブルに落ちた。右手の小指と薬指にお湯を浴びた孝子は、ズキズキと痛む右手を左手で抑えた。

「大丈夫ですか」

 驚き、立ち上がったのはゆゑ。不意に火傷をした右手をつかまれた。一春は孝子の怪我の具合を確かめ、ゆゑに氷水を用意するように指示をした。ゆゑの用意した氷水に孝子の右手を浸し、一春は自らの白いハンカチを孝子の右手に巻いた。孝子はされるがままぼんやりとその様子を見ていた。

「よかった。痕は残らないよ」

 気のせいだろうか。とりあえずゆゑに自らの粗相を詫びたが、自分の声だというのに耳のずっと奥のほうでくぐもったような声に聞こえた。もう痛くないのに、孝子は一春に触れた右手がまた熱くなるのを感じていた。


 ***


 帰宅したときはすでに陽が落ちていた。
  
 舎人家の使用人、フクはすでに帰宅しており不在だったので、玄関からまっすぐに自室へ向かった。後ろ手で襖を閉めた。8畳畳張りの部屋は中央にフクの誂えた蒲団が敷いてあり、右手奥に鏡台がある。孝子は着替えもせずにふらふろと鏡台に向かい、ぺたりと座った。ふと力が抜けた。手元の小さな電気をつけ、闇にぼわっと橙の不安定な明かりが部屋に広がった。孝子はぼんやりと鏡台を眺めていた。

 いつもの見慣れた自分の顔。

 孝子の脳裏には、ゆゑの姿があった。すらりと伸びた手足。白い肌。うっすらと化粧をし、色づいた果実のような紅は思わず触れてみたいと思うほどだった。黒いしなやかな御髪を後ろに束ね、小さな深緑の翡翠の飾りがついた簪をしていた。襟元からのぞく鎖骨は細く、うっかり触れては壊れてしまいそうだった。

 それに比べて。

 自分はなんて子供なのだろう。黒い葡萄のような目が二つ。きつく一文字に結ばれた口。孝子は、先ほど怪我をした右手を見た。一春の白いハンカチが巻かれたままだ。左手でそこに触れると、一春の優しい声が聞こえてくるようだった。大丈夫かい。痕は残らないよ。

 ふと思い出して孝子は押入れを開け、埃だらけの化粧箱を取り出した。幸子の肩幅ほどの大きさの漆塗りの化粧箱だ。埃を手で払い、湿気できつくなっている木箱のふたを開けた。母が生前使っていたものだ。ちょっと黴臭いような気がしたけれど、白粉を品定めをしてみたらまだ使えそうだった。

 孝子はハンカチをはずすと、右手の中指と薬指で白粉を掬い、自分の頬に触れた。鏡の中で、触れた右頬だけが白く色ずいていた。孝子はもう一度白粉を掬い、左頬につけた。一度つけたものを、指で擦ったり伸ばしたりして顔全体に馴染ませた。鏡を見ると頬だけが白く、眼の下など皮膚が動くところがうまく塗れていない。何度もやり直してみたが、白粉は指でうまく馴染ませることができない。

 今度は紅を手に取る。さくらのような淡い色のもの。鮮やかな赤。そしてオニユリのようなニビ色のもの。孝子は鮮やかな赤色の紅の蓋を開け、小指で掬い、下くちびるをなぞった。鏡の中をのぞくが、まばらに塗られた白粉は見た目も美しくなく、下くちびるに無造作にひかれた紅は真白な頬を見事に対極をなして、まるで血液のようだと幸子は思った。さきほど見たゆゑの艶やかな装いには程遠い。孝子はひどく悲しい気持ちになった。


 母上。
 孝子は12になっても、白粉の仕方もわかりません。


 ふと、後ろで気配がして振り返ると、弟の拓真が襖から顔を見せていた。

「申し訳ありません、声はかけたのですが」

 孝子は拓真から顔を背け、「何か用事ですか」と告げた。背けた視線の下に、一春の白いハンカチがあった。幸子は消え入りたいような気持になった。心の動揺を弟に悟られたくなかった。堪え切れなくなり、涙が出てきたようだった。

「姉上、夕餉はどうしますか」

 孝子はそっぽを向いたまま「食べたくありません」と答えた。涙声が悟られないように心掛けることで精いっぱいだった。拓真はそれ以上追及せず、「それでは、ごはんをおにぎりにしてお持ちします」といって襖を閉めた。しばらくすると、廊下に気配がして、すぐに消えた。拓真が夜食を置いていったのだろう。


 情けない。


 そんな気持ちが、孝子を責めた。女としての作法を知らず、客人の前で取り乱し、弟にまで乱心を悟られてしまった。


――孝子。母の言葉を聞きなさい。
  あなたは舎人家の長女です。父を助け、そして拓真を助けなさい。それが、この国への最高の奉仕となるのです。


 母上、孝子はこの気持ちをどうしたらよいのかわからないのです。


 その場に寝ころび、仰いだ天井は限りなく高く見えた。目指すものが遠ざかっていくのを感じた。母が言っていた通りだ。この国に女として生まれた以上、父に尽し長男に従い、嫁いだ後は子を生み、育て、夫に尽くす。母がそうしてきたように。そして孝子も、そうありたいと思っている。

 なのに。

 混乱した孝子の心と裏腹に、その左手には一春のハンカチが強く握られていた。その夜は、暗い暗いところで、あたたかい誰かの手を握っている、孝子はそんな夢を見た。


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2010/08/19(木)
4、はじまりの業火

兆しの老人(1)

***


 黒澤修吾は東京・本郷にある、帝国海軍将校・藤原一美の元を訪ねた。

 秋は深い。木造の門を少しかがんで入ると、緑の草木の中に、楓の赤や銀杏の木色が目に付いた。手入れがされている庭だ。

 玄関の呼び鈴を鳴らすと、年の頃50歳前後の女性が迎えてくれた。女性は「聞き及んでおります。藤原の家内です。ご案内いたします」といって黒澤をいざなった。紺の着物に、梳いた髪を後ろに一つに縛り、漆塗りの簪は髪と色がなじんでおり、目だたない。黒澤を先導するなかでも無言で、亭主を立て、自分は後方で支えるという彼女の徹底した意思なのだ、と黒澤は思った。

 通された部屋は藤原の自室だった。

「お初にお目にかかります。帝国陸軍関東都督府陸軍部所属 黒澤 修吾大尉であります」

 先ほどみた緑の庭を背に、藤原は椅子に腰かけている。逆光で顔がよく見えないが、上司である舎人中佐の話によると、1872年の生まれというから50歳前後。現在階級は大佐。細身の体に、鍛えられた筋肉を携え、和服の襟元やそでからのぞく肌は白くない。長年の艦隊勤務を思わせる。日露戦線では、04年2月に行われた旅順閉塞作戦の折、陸軍を後方支援する海軍部隊を指揮し、陸軍の舎人と顔見知りになったのだという。

「ああ、舎人から聞いているよ。どうぞ、掛けなさい」

 黒澤は、促された通り、藤原と反対側の応接イスに腰かけた。

 欧州戦線は、6月の開戦から世間の楽観をよそに諸国に拡大し、アジアに植民地の触手を伸ばしていた連合各国の利権をめぐり、アジアでも参戦の機運が高まっていた。日本が、ドイツに宣戦布告したのが2か月前の8月。時の内閣総理大臣大隈重信は、同盟関係にあったイギリスから参戦の要請を受けると、内閣の承認なしに派兵を決定、陸軍はドイツの租借地である青島を攻略した。
 舎人は今、青島占領後の統治部隊創設のため、ほかの高級参謀たちと組織づくりをしている。

 「その後、どうかね」

 藤原は立ち上がり、黒澤に背を向けて庭を見ながらそう問うた。黒澤は、先ほど藤原の家内が持ってきたお茶に手を付けた。

「10年前、ロシアとの戦争で旅順を手に入れ、そして今回の青島です。大陸進出に大きな足掛かりができたと勇み足をしているものもいます」
「ふむ」
「しかし、大戦への参戦は間違いではなかったのか、という意見もあります。日英同盟の締結が対ロ戦以後の世界情勢における日本の地位上昇なのだととらえるのは勝手ですが、韓国の併合以後、世界の日本に対する目は非常に厳しくなった。少なくとも今回の参戦には日本の「理」がない。他人同士の喧嘩に勝手に巻き込まれたのも同然です」

 チリチリと虫の声が聞こえる。開け放荒れた窓から入る風は心地いい。情報将校としての一面がある黒澤は、今日は黒いパンツにワイシャツ、ジャケットの姿でいる。9月末に大陸を出てきたときは汗ばむような暑さに不快感を感じていたが、やはり日本の秋はいいものだ、と黒澤は思った。

「『巻き込まれた』割には、陸軍は随分大きな拾い物をしたじゃないか」

 黒澤は「陸軍は」という言葉に海軍の陸軍に対する視点を感じ、眉をひそめた。

「君は大陸勤務のようだが、今大陸は清国が滅び、国をどう立ち上げるかについて明確な指導者がいない。列強に国を解体され、支那人は世界からの侵略者や各地の軍閥に恐れながら生きている。そこに遥か1000年以上も交易の歴史を持つ隣国日本までが権益を狙っている。世界情勢を鑑みればロシアの膨張は確かに脅威だ。しかしなぜそれに単独で立ち向かおうとする。10年前、われわれは本当にロシアに勝つことができたのかどうか、私はそれが疑問でならない。今の政府は戦勝国としての日本、列強としての日本が大前提に物事を進めている。だがいつまで、この領土も資源も乏しい国が彼らを相手に肩を並べ続けることができるだろうか」
「お言葉ですがそれならばなぜ、海軍は南方へ駒を進めようとしているのです。陸軍の方向性を否定するのであれば、海軍の行動もまた、非難されるべき行為です」
「南方へ兵をすすめることは、そこに住む人たちを蹂躙するためじゃない。彼らとともに国を興し、畑を耕して国力を増強する。欧米列強の支配から、われわれは同じアジア人として彼らを救うのだ。お互い小さな国同士、手を取り合い、武力をもたずに世界へ発信していく」

 陸海、どちらもやっていることは同じだと黒澤は思っている。

 結局のところ、お互いに自らの行為を「侵略」もしくはそれに近いものであるということを心のどこかで自覚しているのだろう。海軍が陸軍を、陸軍が海軍を批判することで、自分たちが進めようとしている軍隊は「侵略」ではなく、「解放」なのだと思い込みたいという表れなのだろう。

「ご子息を北条家に婿入りさせるという話をお聞きしました。北条財閥は、陸軍を関わりの大きい財閥。牽制のおつもりですか」

 庭を見ていた藤原は、黒澤を振り返った。

「ようやく本題に入ったようだね。今日はそれを聞きに来たのではなかったのかい」
「はい。舎人中佐に、あなたがどうして北条家の古月社長と知り合ったのか、探ってこいとのご指示です」
「君は情報将校だろう。上官の指示をそこまで私に漏らしていいのかい」
「隠しても」

 無駄だ、と判断した。舎人と藤原はお互いにその実力を認め、海陸の派閥を超えての付き合いがあると聞いているが、黒澤はそれだけの付き合いであると見ていない。お互いにお互いの目を通した、陸軍、海軍の動きを探る有効な「見えざる目」の役割としての立場なのだろうと感じている。

「社長は私よりも10ほども若いが、国内にとどまらない視野を持ち、そして軍部の働きを良く理解している。私は彼のビジョンの明確さとその行動力を評価し、彼も私の南方に関する意見をよく聞いてくれた。上海にある料亭で偶然に同席してね。共通の知り合いを通じて彼と顔を合わせる機会を得た」
「大佐こそ、そんなに簡単に馴れ初めを話してくださるとは思いませんでした」 

 表情は和らいだまま、藤原は淡々と事実を述べ、そして黒澤の前に腰かけた。上海。料亭。そこまでは調べは付いている。季節は昨年冬。藤原が公使館付き武官だったころの話だ。
 海軍がよく利用するという上海の料亭。共通の知り合い。舎人はそれを知りたがっている。黒澤も、舎人が北条財閥社長、北条古月と親しいことは知っていた。しかし、ここ数年彼の話に舎人は色よい顔をしないことも知っている。だからあえて舎人は北条社長本人に聞かず、自分を使わして海軍の動きを探ろうとしているのだ。

「黒澤大尉、奥方とはどうして知り合った」

 藤原の真意を探ろうと言葉を探していた黒澤は、急に話題が自分に向いたことに驚き、目を見開いた。

「そのことが今の話題に関係あるのですか」

 黒澤は漸くそれだけ口上に乗せた。

「いやいや、話題の一つだよ。最近二男が生まれたと聞いている」

 どくん、と心臓が鳴るのが聞こえた。舎人から黒澤の所に行くように言われたのが2週間前。そして面会の申し入れをしたのが3日前。妻が二男を出産したのが20日前。偶然とは考えにくい。おそらく、何らかの方法でこちらのことを伺っていたに違いない。

「名前は決めたのかい」
「それはこの場に必要な情報ですか」
「誰であろうと、子供が生まれるということはめでたいことだ。君を寿ぎたいと思うのだが、悪いかね」
「二男は『末次』です。末広がりの末に、次」
「長男は」

 黒澤は、輝也のことを思い出した。

「『一』(はじめ)です。」
「黒澤君、君は細君とどのように知り合ったのかね」

 藤原の目に、悪意や殺気がないことが、黒澤を彼の思うままに答えさせていた。もしかしたらこの男は知っているのかもしれない。自分のかつての妻、そしてその息子のことを。

 「上官の・・・、お知り合いに・・・」

 黒澤はそれ以上口を開けなくなり、沈黙した。藤原はその様子を眺めながら、ゆっくりと言葉をつなげた。

「そうだろう。縁というものは得てして他人から得られることもある。私の息子、一春も私が北条社長という縁を得られたからこそ妻を得ることができるのだ。そこに政治や思想は関係ないものだし、純粋なものであると私は思っている。君もそうだろう。どうだい。黒澤君」

 らくと輝也の失踪後、黒澤は当時の上官の紹介で華族の娘を妻とした。翌年には長男が生まれ、そして今年、二男が生まれた。妻の父親は枢密院の議員で、それを通じて政界へのつながりもできた。外から見れば完璧な「エリート将校」が出来上がっていることだろう。もちろん今の黒澤の家族は、らくや輝也のことを知らない。また同じ軍内でも、任官当時に黒澤が結婚していたことを知る者は少ない。

「そうそう、北条と会合した上海の料亭だがね」

 藤原は袂から一枚の紙を取り出し、黒澤の前に提示した。南京路裏手の一角に印がつけてある。

「外観は小さな店だが、中はなかなか小奇麗なつくりをしていてね。はじめ、ある筋から支那東北部に軍閥の当家、梁続山が出入りしているという情報が入った。私は商人のような形をしてそこを訪ねたんだが、中国生まれの女将はが日本にいたこともあったとかで、一見でも座敷を用意してくれたんだ」

 乗り出していた身を椅子の背に預け、藤原は足を組んだ。

「女将の中国名は仙 楽弥(チョン・ルーユエ)。日本での名前は吉岡らくというらしい」

 黒澤はナイフで心臓をえぐられるような感覚を覚えていた。


 らくが、生きている。

 しかも、中国で。


 藤原は相変わらず穏やかな口元のまま、顔面蒼白となっている黒澤の顔を見つめていた。


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2010/08/24(火)
4、はじまりの業火

兆しの老人(2)

  ***


 辺り一面、雪景色だ。
 盆地である京都の雪は水気を持って重く、しんしんと降りつもる。

 12月。銀世界に久しい日差しを見る。
 拓真は綿入りの上着に首にもマフラーを巻いて、学校から自宅への帰路を歩いていた。舎人家は山科のはずれにあり、街中を過ぎて右手に土手を見ながら南に15分程度。街を抜けて山科川が大きくみえ始めると、人影もまばらになってくる。

 拓真の足取りは重い。
 尋常小学校でのことである。

 3時限目は歴史。授業の話題は、日本の開国について。歴史の教師は、幕府の閉鎖性と日本開国の必然、そして近代日本が築いた対外関係について滔滔と説いた。

 「殖産興業、富国強兵の2つを推進したことにより、我が日本は大国ロシアを打倒するにいたった。日本人の勤勉実直さが証明されたうえ、民族の優位性を世界に知らしめた」

 おおよそこのような内容だったと思う。
 黒刷りの教科書には、旅順を攻略する日本兵の姿が勇猛に描かれていた。その横には、その日本兵に旗を降る中国人の姿がある。

 『あの戦争は、日本が勝ったわけではない』

 拓真は、父、耕三郎がそう言っていたことを思い出す。先の戦争では、耕三郎は陸軍大尉として大連に赴任している。そのとき父が言ったことの意味はよくわからなかったけれど、ロシアで革命が起こったことや、乃木大将の自決の話を聞いていたから、父の言うことでほぼ間違いないだろうと思っている。
 拓真は教科書の別のページをめくった。歴史の授業はあまり好きではない。先生はなぜ、そこまで教科書に書いてあることを信じられるのだろうか。新田義貞が悪党だと、誰が決めたのだろうか。あったこともないけれど、なんだかかわいそうだ。

 「舎人の御父君は、陸軍の将校として先の戦争でご活躍された」

 急に自分の名前を呼ばれ、拓真はどきッとした。驚いて教師を見れば、その眼は畏敬と自負を入り交ぜたような、そんな視線をこちらに投げかけていた。それは純粋に自分に対してではなく、「陸軍将校 舎人耕三郎を父にもつ自分」に向けられたものだ。教室がざわめき立つ。拓真は恥ずかしくなって下を向いた。とたんに、窓側に座る同級生の声がした。

 「自分の御父上も海軍将校であります!自分は父を見習い、勤勉し、士官学校に入って、御国のために船乗りになりたいのであります!」

 教室が喝采に包まれる。教師も「いいぞ!」といった調子で大きく手を打っていた。その同級生が敬礼ののちに着席すると、陸海軍の伯父や従兄をもつ同級生が2,3人立ち上がって、同じように将来を展望して見せた。そのたびに教室では拍手が沸いた。彼らはみな、このクラスの優秀者たちばかりだった。

 「舎人。お前も陸軍士官学校に行くんだよな」

 どこからかそんな声が上がった。
 冗談じゃない。そう喉まで出かかったが、寸でで飲み込んだ。姉、孝子の顔が浮かんだ。

 「ぼくは・・・」

 拓真は、孝子が弟に父親と同じ道を歩んでほしいと切に願っていることを知っていた。多くの日本人がそう思っているように、幼年学校から士官学校、任官を経て大学校へ進学し、将校となって軍を率いていく、それが日本男児として生まれたものの幸せなのだと信じている。教室の雰囲気はそれを否定することを許していなかった。拓真は下を向いたまま黙ってしまった。結局その場では肯定も否定もできないまま、教科書の新田義貞だけが拓真を凝視していたのであった。 


 ***


 自宅の前まで来た時、拓真は一人の老人が玄関の門の前いいることに気がついた。

 白髪混じりの黒髪は散切り頭。黒い絣の着物に厚手の上着を着込み、毛糸のマフラーが肌を覆うように前で束ねられている。腰は曲がっていないようだが、手には杖。ちらほら降り始めた雪が老人の頭にわずかに積っている。どうやら、フクおばさんも、姉・孝子もいないようだ。

 「あの、何か御用ですか」

 拓真が声をかけると、老人がこちらを振り向いた。背格好や白髪から老人だと思ったが、拓真が思っているよりもずっと若い顔立ちをしている。

 「ああ、舎人に貸していた本があるんだけど、急に読みたくなってしまってね。失礼とは思ったが訪ねさせてもらった」

 声にも艶があった。60歳前後といったところか。

 「父は今、北京に赴任中です。ぼくでよければ、その本をお出しします」

 雪が降り始めていたので、拓真は老人を自宅へ招き入れ、門の扉を閉めた。 


 

 老人の探してる本は、父の書棚には無かった。
 応接間の机を挟んで、老人と拓真は向かい合って座布団に座っている。

 「構わないよ、赴任先に持って行っているのかもしれない」

 拓真は、改めて父の非礼を詫びた。老人は、目当ての本がなかったことをさして気にする様子もなく、拓真の淹れた緑茶を啜っている。

 「父には早急に申し上げておきます。よろしければ、ご連絡先を教えていただけませんか」
 「いや、それには及ばない。近いうちにあっちに行くことになるだろうから、その時に直接話すことにするよ」

 実は拓真は先ほどからこの老人に不信感を抱いている。老人は自分の身元を始め名前すら明かさないのだ。

 「ところで拓真君、どうやら気落ちしているように見えたのだけど」

 なぜ、ぼくの名前を知っている。

 「そんなことはありません」

 「いや、恐らく何かあったのだろう。私の息子も、何かあった時に限ってそうして強がったりしていたものだ。得てして、そのようなときには家族には話しにくいという心証が働くもの。どうだい。ここはひとつ、私にその悩みの種を打ち明けてみないか」

 得体のしれないこの老人は、自分の正体は語らないくせに拓真には胸の内を明かせという。拓真はしばらくその老人の顔を見ていたが、どうやら老人に悪意は無いらしい。確かに、家族に話をできる内容でもない。深く考えず、拓真はありのままを話すことにした。

「なるほど、御父上のように軍人にはなりたくないというのだね」

 老人は、先ほどから父、耕三郎を「舎人」と呼び捨てにしたり、軍人であることを知っているようだった。もしかしたら父の上官かもしれない。大佐である父の上官ということは軍部でも有力者ということになる。しかし老人は軍服を着ていなければ、特有の威圧感も感じない。やはり得体の知れない人物だ。

「ふうむ」

 老人は少し考え込むようなそぶりを見せた後にゆっくり瞼を閉じ、思いついたように瞼をあげた。

「それでいいんじゃないのか」

 拓真は、次の言葉を待った。

「やりたいことがあるんだろう」
「はい。ぼくは 天文学者になりたいと思っています。だから、士官学校へは行きません。高等小学校の後は、東京帝国大学を目指します」

 老人はにこにこと拓真の言を聞いている。意外だった。もし、父の仕事の関係者なら、この拓真の言動に反論を講じるはずだ。やはり軍の関係者ではないのかもしれない。だったら、やはりこの人は何者だろう。

「いいことだ。近世以降、天文学は、日本独自の文化に加え、世界の観察的知識が入ってきてこれからどんどん日本で必要な学問となるはずだ。拓真君、ベルヌの『月世界旅行』は読んだかい」
「はい。大砲で月に行くというのは随分乱暴な旅行だとは思いましたが、人間が星に行くという発想はとても興味深いものだと思います」
「絵空事ではなくなるよ。拓真君、人類は、そう遠くない将来に月に行くんだ」
「大砲で、ですか」

 老人は、あはは、と笑った。そうだなあ、どうやっていくのかまでは考えたことなかったな。老人はそう言うと、もう一度拓真に向き直った。

「御父上が嫌いかい」
「父上が嫌いなのではない、軍隊が、好きではありません」
「どうしてかな。君は、国における軍隊の役割を知っているね」
「国防です。だけどロシアとの戦争の後くらいから、日本の軍隊は『国防』が目的では無くなった。強い軍隊という後ろ盾が、日本を変えてしまったような気がするのです。人を殺して、何が国益なのですか。ぼくは」

 そこまで言って拓真は我に返った。父を侮辱するつもりはない。老人は見定めるような眼でこちらを見ていた。しゅんとなった拓真が、「ごめんなさい」というと、老人はその表情を和らげた。

「だけどぼくは、たとえ国のためであろうと、人を殺すのはいやなのです」
「それでいい。そしてその気持ちを忘れてはいけないよ。拓真君、この国は今、「強国」という偽りの熱に侵されている。これを誰かが止めてやらねばならない。さもなければ、この国は」

 老人はそこまで言いかけて、立ち上がった。障子をあけ、廊下を渡って雨戸をあけた。とたんに白い光に目がくらんだ。庭は雪で真白くなっていた。

 「眞子さん」

 拓真が後ろから老人に追いつくと、はらはらと降る雪の中に一人の女性が控えていた。

 「たった今、岡陸相が京都入りしたと連絡が入りました」

 老人が拓真に振り返った時は、先ほどのように笑顔だった。

 「君とお話ができて、楽しかったよ、拓真君」

 そう言うと、老人は拓真から上着とマフラーを受け取り、女性とともに去って行った。 


  
 岡陸相。
 今年4月の大隈内閣の陸軍大臣は、確か岡市之助という名前だったはず。

 
 拓真はしばらく老人の素性について思いを馳せた後、姉の帰ってきたらしい気配に気が付き、出迎えのためにぱたぱたと玄関へ駆けて行った。


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2010/08/28(土)
4、はじまりの業火

友の帰京(1)

 ***
 

 明けて大正4年、3月。

 仁和寺の桜のつぼみが膨らみ始めたころ、近代短歌の大家、北条桜花が86歳の天寿を全うした。

 正月以降昏睡状態が続いていた桜花は、息子夫婦、孫の八重、玉津、朔子、そして孫の北条古月、その長女ゆゑ、娘婿の一春が見守る中、静かに息を引取ったのだった。その日は、一つだけ桜が咲いていた。そこにいた誰もが誰もが桜花の黄泉への旅路の案内なのだと思った。

 「桜花」の称号を受け継いだ、孫の桔華、そして古月の息子である古巻はその場に現れなかった。古月が知らせなかったし、桜花がそれを拒んだからであった。


 通夜の日、孝子は台所で、拓真は座敷の座布団を並べたりして北条家の手伝いに来ていた。父、耕三郎にも知らせを出したので、葬式には間に合わないけれど帰朝するという知らせが入っていた。開け放たれた襖から、廊下をせわしなく行き来するフクおばさんや、北条家の女中の姿が見える。桜花の長男は戊辰戦争で死亡しており、現在の当主は二男。古月はその3男に当たる。喪主はこの二男が務めた。まかないどころの一切は二男の妻が務めている。桜花二男には3男があるが、長男は小説家、二男は東京に出たっきり音信不通であったが、この葬式を機に家族がそろっていた。拓真は絞った雑巾で畳を拭きながら、廊下の女中が話すのを聞いていた。北条家の次の当主はきっと3男の古月さんよ、だって今や北条財閥の社長さんよ、奥様だって亡くなられてしばらく経つのだし、そろそろ新しい奥様を迎えられたりするのかもしれないわ。

 機会があれば自分が、と彼女たちがその会話に含蓄させていることに気がつく年齢に拓真はなっていた。汚れた雑巾を乱暴に木桶に放り込み、ばしゃりと水がはねると、廊下で話をしていた女中たちは声をひそめていそいそと持ち場に戻って行った。拓真は桶に浮かぶ汚れた水と雑巾を少し眺めた後、胸の中の得体のしれないもやもやを打ち消したくてごしごしと雑巾を洗った。水がはねて畳にシミになりそうだったので絞った雑巾で拭いた。黒い着物に埃がつき、膝が白くなった。

 5年前のあの日。
 古巻とともに篠の自殺現場を見てしまった、あの日。

 数日前から元気のなかった古巻は、「母が元気がないのはあの女のせいだ」と言っていた。あの後、古巻はちゃんと母、篠と話ができたのだろうか。そのすぐ後に母が自殺してしまった大切な友人に何もしてあげることもできないまま、サヨナラもせずに別れることになってしまった。星空を見上げるたびに、同じ星を古巻も見ているのだ、といって自分を納得させた。あの北の星には自分の母も、亡くなった篠もいる。ちゃんと自分たちを見ていてくれる。

 だから怖くない、さみしくないんだ。

 人の気配がして顔を上げると、姉の孝子だった。その手におにぎりが2つ、竹皮に包まれていた。「少し休憩しましょう」と孝子が言ったので、拓真は再び雑巾をたらいに戻し、襷を解いた。

 「さっき、女中さんが御話しているのを聞いたのですが」

 孝子は持っていた手拭いで拓真の手をぬぐい、おにぎりを渡した。

 「古月のおじさんが、新しい奥さんを迎えるというのは、本当ですか」

 2人は部屋の後方にある柱を背に並んで座った。孝子は、もくもくとおにぎりを法張りながら、聞いている。拓真は姉から答えがほしくて、――きっと否定してほしくて、おにぎりには口をつけずにいた。孝子はひととおり噛み終わり、飲み込んで、拓真を見ずにまっすぐに前を見据えている。孝子の横顔は、まつ毛が長く上を向いており、肌が白く、艶やかな唇がほのかに赤い。前方を見据えるその鋭い視線すら、拓真は美しいと思う。世の男子が孝子を噂をするのも、拓真は弟ながらわかるような気がする。

 「それは、おじさまの決めることです」

 「もしそうだとしたら、古巻がかわいそうです」

 「なぜ貴方がかわいそうだと思うのです」

 拓真は次の言葉が見つからなかった。古巻が大切な母を二人も必要とするだろうか、と単純に思ったからであるが、感情論が姉に通用しないことは弟である拓真はようく知っていた。

 「・・・もし、父上が新しい母上を迎えられたら、素直に喜べないと思うのです」

 孝子が拓真に目配せをした。拓真はちょっとだけ感情が躍動したが、孝子がすぐに視線を戻し、おにぎりを食べ始めたので自分もおにぎりをほおばり始めた。中身は梅だった。

 「決めるのは父上です。もしそのようなことになっても、嫌な顔をしてはいけません。いいですね」

 

 廊下に人の気配がした。拓真ははっとした。孝子もそこにいた人物を見て驚きを隠せないでいる。

 こちらに気がついた少年が、じっとこちらを見つめていた。黒っぽい着物に、おそらく書物であろう荷物を胸に抱えている。伸びた髪を後ろでゴムでまとめていて、拓真が知っているよりもずっと大人っぽい出で立ちとなっていたがそれは間違いなく、親友の北条古巻だった。

「・・・ただいま」

 ぎこちない笑顔を無理やり作って、先に沈黙を破ったのは古巻だった。
 古巻が拓真と孝子のほうへ向かおうとするその後ろで、女の声がした。

「古巻、早くこちらへ」

 古巻の後ろには、亡くなった桜花の孫であり、今の桜花の姉である朔子の、凛とした喪服姿があった。古巻は拓真にちょっと困ったような目配せをした後、「今参ります、朔子叔母上」といい、

「明日、お前ン家、行くから」

 といたずらっぽく左手で「ごめん」と表して、朔子の後ろをついて行った。拓真は親友の突然の来訪に、結局一言も何も言えないままだった。思考が定まらず、そのまま動けないでいた拓真に声をかけたのは孝子だった。

「古巻さん、ずいぶん大きくなりましたね」

 台所に戻るといって孝子もその部屋を出た。



***



 古巻は朔子の後ろをついて歩いている。

 京都には先ほどついたばかりだ。

 先代桜花が亡くなったという連絡が、東京にいる古巻と桔華にもたらされたのは、その死の翌日だった。古巻の父、古月が電報で葬儀日程とともに知らせてよこした。電報を受けとった古巻がその知らせに立ちすくんでいると、桔華が後ろからやってきて「どうしました」と声をかけた。古巻がその事実を告げると、「そうですか」といい、京都行きの支度を古巻に指示した。
 

「先生は明日にはこちらに来れるとのことです」

 へえ、と朔子は言ったが、古巻の言葉を聞いているのか聞いていないのか、古巻には判断ができなかった。桔華ら4姉妹の不仲は人知れず聞いていたが、随分大人げないものだなと古巻は思った。とりあえず、桔華の連絡事項は伝えた。義務は果たした。古巻はそういうふうに納得した。

 桜花の遺体と対面し、焼香したあとに、古巻は奥の部屋に通された。そこには桔華の長姉、八重に対面して古巻の父、古月が坐しており、その隣に座布団を用意し、古巻を座らせたあと、先導していた朔子はどちらにもつかず、手前の縁に背を預けた。

「桔華は一緒ではかったんか」

 5年ぶりに再開したというのに、息子の自分の安否ではなく、従妹を気に掛ける父、古月に、古巻は別段腹を立てることもせず、事情を話した朔子が口を開くのを待っていたが、その気配が一向にないので、

「先生の到着は明日になります」

 と最低限の言葉のみを並べた。そのやり取りを見ていた八重は、正座をただし、背筋を針金でも入れたようにぴんと伸ばして、2人を上から見下ろした。

「お時間はとらせませんよ、古月。事情を説明なさい」

 八重は耳に残る甲高い声で舞台女優のような台詞を口にしたのだった。八重は今年御年50。10年前の戦争で夫を亡くした。子供がいない。常に着物の折り目は正しく、針金のような背筋はぴんと伸びていて、顔は隙のない白粉に上向きの鋭い眉。その赤い口紅も相まって、傍目に10歳は若く見られることが多い。しかしその自尊心は宇宙のそれよりも高く、妹である玉津夫婦に最上家の家督を譲らねばならないかもしれないことが嫌で仕方がない。夫のいない八重よりも、玉津の夫に分家の家督を継がせるべきだ、という話が出るたびに、

「この最上を支えてきたのは私です。何か問題がお有りなのですか」

 といって北条の本家をはじめ親類に一本筋を通してきている。『桜花』称号の最有力継承者だった二女の玉津は、普段は温和で、それこそ古今集などを繰りながら歌を詠んでいるのだが、内心では最上は多かれ少なかれ自分の夫のものになると思っており、八重を対して相手にしていない。4女の桔華も、もとより自分の居場所ではないと自覚しており、「最上家督争い」には加担せず、己の道を進んでいる。この姉妹に共通しているのは、よくも悪くもその「芯の強さ」であった。

「へえ、八重姉、説明と言われても」

 ばん、と畳をたたいた八重は、語気を強めた。

「とぼけるではない!なぜ古巻を桔華の元に預けるなどという愚かなことをしたのかと問うておるのだ!」
「お言葉ですが八重姉、桔華は亡くなった先代桜花が認めた正統な『桜花』様や。歌の技量だけで桜花を名乗れるものではないこと、よう知っとるのは商売人のわいよりも、あんたたちのほうやろ」
「そんなことを聞いているのではない!古巻は北条本家の大事な跡取り。それを妾腹のあの女の元へなど気が触れたとしか思えぬ!しかも私たちへ何の相談もなく決めおって!それでも次代北条家の当主か!」
「北条の名前なんか、欲しければいくらでもくれてやりますよ。しかし八重姉、今の言葉を取り消していただきたい。桔華はあんたたちの言うような女やない」
「惚れた弱み、でっしゃろ」

 最高の軽蔑と侮蔑をこめて、京ことばで古月を牽制した八重。古月はこの目の前にいる、この女が、自分の愛した女と本当に姉妹なのだろうかと思いを巡らせていた。思考は驚くほどに静かに渦を巻いており、体に蓄積される負の感情をある程度制御しているようだったが、古月の体の中では、心臓が破裂するほどに大きな音をとどろかせていた。体にこもった熱が、思考の制御をフリーズさせるまでは、時間の問題だった。

「私からよろしいですか」

 2人の熾烈な攻防に、横槍を入れたのは、先ほどまで大人しく話を聞いていた古巻だった。

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2010/09/01(水)
4、はじまりの業火

友の帰京(2)

 八重も古月も、古巻の顔を見ている。古巻に気負いはなかった。

「八重叔母上のおっしゃる通りです。5年前、母の葬儀後間もなく、叔母上方にご相談の無いまま私は東京へ行くことになりました。東京への出立を誰にも知らせなかったのは、最上桜花が最上や北条の家に迷惑をかけぬよう、という配慮があってのこと。先ほど申された通り、最上桜花は最上家の正統な血筋ではないということを自覚しているからです。父、古月の言うとおり、最上桜花は見識豊かで思慮深く、そして人間としての分別の付く人間。先代桜花様の見たてに間違いはないと確信します。確かに、父との不義は親族間の密通であり、許されぬこと。しかしだからこそ最上桜花の人柄を最も理解していたのであり、母の無い幼い私が誰のもとで人間性を磨くのが一番よいのか、父なりの考えがあってのことなのです。」

 古巻はそこまでを淡々と語り、一息ついて付け加えた。

「あれ以来、父と最上桜花は顔を合せておりません。けじめをつけたのです。私は先生の元で、日々人間としての研鑽を積んでおります」

 八重は針金の入った背中を相変わらずぴんと伸ばしているが、上からめでつけた古巻きを見つめたまま、あいた口がふさがらないというような有様だった。次第に腿に乗せられた手が震え始め、「ひっ」とか「あの女狐めが」とか意味不明な言葉を何度かつぶやいたのちに、「ああ」といって顔を覆った。相変わらず「あの女が、あの女が」と言っていたが、ばっ、と顔をあげて、古巻に向き合った。

「お、お前も、桔華に絆されたか!!」

 ヒステリックな八重の声は、ところどころで裏返り、その感情の乱れを古巻は全身で感じていた。怖いとは思わない。自分で間違っていることを言ったつもりはないからだ。何も言わずに八重を見据えていると、その視線に耐えきれなくなったらしい八重が、その矛先を古月に向けた。

「だいたい、あの泥棒女は、自らの師である先代北条桜花の葬式にも顔を出さないではありまへんか!師の葬儀以上に大切なことって何がありますのん!」
 
 それは、と古月が返答に窮していると、古巻が答えた。

「月例の歌会です」

 八重は我や至れりといったふうに、ぐにゃりとその表情を歪めた。気味の悪い笑みだった。

「そやなあ、歌会なら仕方あきまへんな」

 桔華の内外の評価を下げる良い材料を手に入れた。子供が、欲しがっていたおもちゃを手に入れたような、そんな単純な理由だった。古巻はそんな叔母の姿をあさましく思い、古月は哀れにすら思った。桔華――現最上桜花が先代の葬式よりも月例会を優先したのは、それが桜花との誓いだったからだと古月はすぐに思い至った。確かに、世間には師の葬儀に出ないことを不義とされるかもしれない。しかしそれは自らの死を桔華に伝えるなと先代桜花自身が言ったのであり、それが「桜花」の称号継承者としての覚悟なのだ。
 
「いい加減にしいな、八重姉」

 それまで、3人の会話には興味がないといったふうに、障子の淵に背を預け、正座を崩して庭を見ていた3女の朔子。この得体の知れない女のゆるりとした声が室内に響き、そして彼女はだらりと八重に向き直った。

「朔子」
「桔華は、『桜花さま』なんや。自らの主宰する歌会を休んでまで先代様の葬式に出たら、それこそ先代様がお怒りになるのと違いますのん」

 意外だった。まさか朔子が、桔華の肩をもつとは、古月、古巻も考えていなかった。

「お前まで、あの女の味方をするのか!」

 八重のヒステリックな追及に、朔子は不快感を顔に露わにした。

「あては自分の姉がそんな先代様のお心も察することができないことに情けのう感じとります」

 朔子がすくっ、と立ち上がり、古月と古巻を眼で合図した。この場を切り上げよう。そう朔子は告げていた。

「朔子!」

 3人は八重の言葉を聞き入れることなく、その部屋を後にした。


***


「朔子、朔子」

 古月と古巻きを意せず、ずんずんと廊下を渡っていく朔子に、古月が後ろから声をかけた。

「へえ、なんでっしゃろ」

 ようやく立ち止り、顔だけこちらに向けて機嫌とも不機嫌ともとれない表情の朔子。

「さっきは、助かった。わいらだけやったら、あのまま八重姉の説教を鶏が鳴くまで聞いとらなあかんとこやった」

 朔子はその美しい白い顔の目を細めて体ごとこちらを振り向く。その一投足に古巻は胸の動悸を覚えた。

「お礼なら、古巻に言うとくれやす。あて、さっきのその子の言動に感心したのん」

 そう言って朔子はその切れ長の美しいまつ毛を古巻に向けた。古巻を見定めた朔子はまたふっと笑った。

 最上家の3女、朔子。桔華の2つ上のこの美しい女は、4女のなかでももっともつかみにくい人物だ。
 18の時に嫁入りしたが、3年後に最上家に戻った。その才女故か、常に男の影はある。どれも長く続かないが、朔子自身にその気が無いことが一番の原因だ。長く、艶やかな黒髪を後ろでやんわりと束ねてお団子に琥珀の髪留めをしている。小さな顔にうす付きの化粧は人間の肌の柔らかさを匂わせ、切れ長の目のまつ毛が長い。細く、小さい体は、その首も、手首も、触れれば壊れてしまいそうな繊細さを持つ。着物や帯に派手さはないが、その布地や刺繍にきている人物の拘りが現れている。顕示欲の強い長女八重、甘え上手の二女玉津、意志の強い4女桔華。朔子はそのいずれにも属さず、部屋の隅でぼんやり庭を眺めていては、急にいなくなったり、気がつくと後ろにいたり。そして話の核心をついては、それを掘り返すこともなく興味なさげに去っていく、そんな人物だった。

 朔子は古巻の前まで来ると、目線を彼に合わせるためにその場に膝をついた。伏し目がちのまつ毛から、黒く、大きな目が古巻の顔を覗く。

「大きくなったねえ、古巻。前に会うた時は、屈んでもあてが古巻を見降ろしとった」

 古巻の頬を撫でながら、朔子は愛おしそうに古巻を眺めている。廊下に春の風が吹きこんでいる。桔華といるときのような、いや、それに似た、全く違う何かを古巻は感じていた。
 なんだろう。背筋がぞくぞくする。

「桔華は、息災か?」

 口元に穏やかな笑みを浮かべたまま、しかし朔子は古巻から視線をはずし、そう問うた。

「はい。毎月の歌会では先生に歌を学びたいと毎回20名前後が集まります。吉瀬先生や青薙先生とも親交が深く、日々、短歌に没頭されています」

 へえ、と朔子の例の気のない返事が聞こえた。最上家の中で桔華に味方してくれる人物かと、俄かに親しみを覚えていただけに、その自分の感情に疑問を抱いた。
 朔子は立ち上がり、今度は古月に向き直った。

「古月、どうして、そこまであの女に入れ込むん」

 朔子は古月の頭一つ分身長が小さく、朔子が古月を下からのぞきこむような格好だった。彼女の胸が、古月の腕に触れてしまいそうな距離だった。

「せやから、あれ以来あっとらん」
「あっとらんことと、想い合うことは違います。まだあの女に気があるんやろ?」

 朔子の声が徐徐に小さくなっていき、途中から古巻には聞こえなくなっていた。朔子はゆるりと古月の隣を位置取り、自らの左腕を古月の右腕にぴったりとつけ、その右上腕部に朔子の右手が着物越しに触れた。朔子はうっとりと官能的に、古月の二の腕をさすりながら続ける。

「かわいそうになあ、古月。ほんにかわいそうに・・・」
「桔華はけじめをつけたんや。わいがまだたらたらしとるのは、わいの不甲斐なさや。かわいそうだとは思っとらん」
「なあんにも知らないんやね、あの女が、とっくにあんさんを見限っていることも」
「せやから、けじめやと」

 その瞬間、朔子は古月の首に抱きつき、その右の耳たぶを柔らかく噛んだ。朔子はそこで甘い吐息をひとつ古月に残し、すぐに離れた。

 
―――あの女、子供がおるんよ。あんさん以外の男との間に、女の子がいるんよ。


 その赤い紅を左手の薬指で撫でながら、何かを楽しむように朔子は言った。

「桔華は、男を見る目だけはありそうやね」

 くるりとその場を去っていく後ろ姿は、2人が恐ろしいと思うほど、桔華のそれに似ていたのであった。



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2010/09/04(土)
4、はじまりの業火

友の帰京(3)

 ***


 桜花の葬式の翌日午前、北条古巻は一人の女性を伴い、友人、舎人拓真を訪ねた。

 出迎えたのは拓真。友人の伴ってきた見知らぬ女性に、連れてきた古巻の顔を見る。「ああ、こちらは」そう古巻が言いかけたが、女性が先に口を開いた。

「舎人大佐はいるかい」
「父は只今外出中ですが」

 後ろから声をかけたのは拓真の姉、孝子。拓真は孝子に道を譲る。孝子は「娘の孝子です。御用向きがあれば申し伝えますが」と女性に伝えた。

「今日、帰国予定と聞いているが」
「ええ、今朝帰りまして、北条家へごあいさつに上がっています。失礼ですが、どちら様ですか」

 ああ、すまない。そう言って朗らかに笑う女性は、血色の好い肌に黒い短めの髪を後ろで無造作にまとめ、前髪を2つに分けている。着物は薄紫に松の刺繍。友禅だろうか。20歳前後、孝子はそう思った。

「私は窪塚時子。『上海王海运公司』のシャオジエがこちらを訪ねたと大佐につたえてくれるかな」
「わかりました」と頭を下げる孝子の頬に触れ、時子は驚く孝子に穏やかに声をかけた。
「孝子ちゃんだっけ。あんた、きっと美人になるよ。私が保証する」

 じゃあね、といって女性は春風を纏いながら去って行った。


 ***

 
 孝子は2人にお茶を入れるべく台所に立っている。
 この場には拓真と古巻の2人は縁側に腰かけている。どちらともなく話しかける時期を伺い、孝子が去ってから無言のままだ。穏やかな春の気配がゆるりと2人の間を抜ける。弥生の香り立つ庭にはスミレやカタクリが重い蕾をもたげている。
 
 古巻はちらりと拓真を見る。自分に気を使っているのかとも思ったが、どうやら縁石のアリの行動に興味があるらしい。重力が無いかのように縦横無尽に動き回るアリ。黒い三つの玉が連なり、それが縁石の側面に見えなくなったかと思うと、すぐに姿を現す。拓真は自分の足でそのアリを追っているが、決して踏みつぶしたりしない。拓真はそういう男なのだ。自分を殴った男の腕が痛くなかっただろうか、そういう考え方をする男なのだ。

 この5年、東京での暮らしは初めから順風というわけではなく、京都のゆるりとした時間感覚とは違う、何かにせかされるような学校の授業や、効率的なモノの考え方に居心地の悪さを感じ、だから友達と打ち解けることもなく、学校が終わればすぐに帰宅し、桜花の書庫で和歌集を括ったり、武者小路実篤や夏目漱石を読んで時間を過ごした。拓真が星が好きだと言っていたのを思い出して、神田の古本屋で桜花に買ってもらった、ベルヌの「月世界旅行」を読んだりもした。大砲に人間をつみこみ、打ち上げるという発想は、保守思考の自分には絶対無理だけど、先日みた浅草の見世物屋に同じようなものがあったから、火薬量を調節したらなんとかなるのだろうと思った。

 部屋中に読み散らかした本が散乱している。資事通鑑、和漢朗詠集、帝大人文論集、ベルヌ、福沢諭吉、モンテスキュー、三木清、伊藤若冲、東京朝日新聞、桜花主宰の雑誌「のばら」、大日本史。そのどれもを闇の落ちた部屋にほおったまま、古巻は部屋の中心で大の字になり、天井を見つめている。耳には不快な重低音が残っている。拓真。拓真はどうしているだろうか。もう5年も前の話だ。自分のことなんか忘れているかもしれない。古巻の思考はゆるりと鈍りだす。大砲に人間を積んで月に向けて発射する。そこには人類初の月面到達の夢やそれを見上げる聴衆の希望が充満しているに違いない。轟音とともに人々の希望が打ち出される。歓声。粉々に砕けた人間の破片が彼らの頭上に降りかかる。あるものは呆然とし、あるものは悲鳴を上げて逃げまどい、あるものはなぜ失敗したのかと冷静に考えるだろう。だが辺り一面はキャパシティ以上の夢や希望を背負わされた人間の、血や肉片が散乱しているのだ。それが現実だ。 気がつくと古巻は拓真の首を絞めている。拓真を仰向けにし、自分がその上に覆いかぶさって、必死でその細い首を握りしめているのだ。拓真は抵抗しない。ただ古巻を憐れむような、悲しそうな目で見ている。ばきっと骨の砕ける音がして、拓真の体から力が抜ける。古巻は我に返り、拓真を揺さぶって起こそうとする。拓真はさっきの憐れみの目で古巻を見つめたまま、暗い暗い闇の中に沈んでいく。




 「古巻?」

 古巻は現実に引き戻された。自分の中で何度も「殺された」拓真が、その黒い純粋なままの瞳で古巻を覗きこんでいた。拓真の中に、悪人はいないのだろうと、敵ばかり作ってしまう自分を呪って、愛しく、壊してしまいたい衝動に何度も駆られたその瞳。自分の記憶のまま、5年前の拓真がそこにいた。

 酷く非現実的な気持ちになって、拓真の問いかけに「ああ」と答えても、どこか遠くに自分の声を感じた。

 「あのね、何度か会いに行こうと思ったの」

 でも、結局行けずじまいだった。東京の桜花と古巻の居場所を北条の家人に聞いても分からないと言うし、なら東京に行って誰かに聞けばいいと思い、列車に乗ろうとしたが、ことごとく連れ戻されてしまった。

 「桔華さんと、ちゃんと仲良くやれてる?」

 そういえば、桜花のことで母がつらそうなのだという話をしたことがあった。

 「うまくやれているかは別として、いつも勉強させてもらってるよ」

 そっか。拓真は嬉しそうに足元のアリに視線を戻した。アリは相変わらずせわしなく動き回っているようだが、拓真の足はそれに関係なくふらふらしているようった。

 「おれさ」

 何、と拓真が問い返す。古巻は久しぶりに穏やかな心で、何か熱いものを感じていた。

 「将来、文筆家になろうと思って」

 文を読むのも好きだし、いろいろ考えるの、楽しかったり、辛かったりするけど、それをうまく表現できたらって思うようになったんだ。拓真は隣でうんうんと聞いている。その眼に好奇の色を感じる。その感情がうれしかった。桜花以外にこのことを話せない。恐らく、北条本家を継ぎ、会社を継ぐのだろうと、多くの人がそう考え、そうあるべきだとされているからだ。

 「だから、高等学校を卒業して、東京帝大に入る。フランス文学を専攻したい。福沢先生も、西洋に目を向けることは知見が広がることだとおっしゃっていたから」

 「ぼくも、帝大に行く。また一緒に学校に通えるね」
 「お前、まだ星を見てるのか?」
 「うん。古巻と同じ空見てると思うと、がんばろうって思えるから」

 自分もそう思っていた、とは古巻は言わなかった。そして軍の高級将校を父にもつ、成績優秀で心根の優しいこの親友が、将来をどう嘱望されているかについても見当がついた。拓真はそれ以上語らない。母が亡くなってからは実の母以上に弟を大切に思っている、姉の孝子が、弟の入営を何よりも希望しているに違いない。自分は、北条と縁を切ってでも自分のやりたい道へ行けるだろう。だけど拓真はおそらく、その道を選ぶことはできまい。

 「孝子さん、美人になったよなあ」
 「姉上も、古巻のこと、大人になったって言っていたよ」

 そうだ、と古巻は言った。

 「おれ、孝子さんと結婚する。そうすればおれは、お前の兄になれるだろ。兄は、弟の意思を尊重するよ。弟は、自分の意思を尊重すればいい」

 拓真は目を見開いて驚いた。「何バカなことを言っているのです」という声が後ろから聞こえて、孝子が3人分のお茶と茶菓子をお盆に載せて運んできた。

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2010/09/07(火)
4、はじまりの業火

友の帰京(4)

 盆に並べられた3つの湯飲みから、ふんわりと湯気が上がっている。
 3人は桜の形をした、桃色の砂糖菓子を一つずつ手に取り、ほぼ同時に口の中に入れた。

「結婚するのであれば、女癖を直していただかなければいけません」

 孝子は拓真の隣に腰かけた。ああ、そうでしたと古巻は言う。

「時子さんの父親とおれの父が知り合いとかで、先代様の葬儀にその娘である時子さんがお悔やみに来てくださったんです。あそこの上海の貿易会社は前進が西太后のお抱え貿易商だったとかで、イギリスやオランダとも交易があるんです。時子さんは父親が中国人、母親が日本人ですがイギリスに長期留学していたとかで向こうの文化にも造詣が深いんですよ」

「詳しいんだね」

 と拓真。

「昨日の夜、彼女と姉さん、義兄さんといろいろ話をしたんだ」

 一春の話題に、孝子がぴくりと反応する。拓真は何も感じていないようだが、古巻はそれに嫌というほど気がついた。もしかしたら思いすごしかもしれないと思ったが、話を続ける。

「義兄さんもイギリスに留学していた時期があるから、2人とも話が合うみたいでさ。ロンドンの街並みがどうとか、あそこの港が船が出入りしやすいとか、でも食べ物はおいしくないとか。そんな話をしながらみんなで笑っていたんだ」

 興味深く話を聞いている拓真を見ているふりをして、その隣で砂糖菓子を口に運ぶ孝子の不機嫌さを古巻は見逃さなかった。古巻は、孝子の気持ちを察しながら、自分の胸の深いところがざわついていることに気がついた。

「イギリスでは何を勉強していたの」
「ケンブリッジで支那の政治史を学んでいたみたい。あ、支那ではなくて中国な。時子さん、自分は日本で過ごした時間の方が長いけれど、中国人としては日本の属国になるつもりはないって言ってた」

 古巻は続ける。

「『和をもって尊しとなす』が日本人の心なら、どうして中国に喧嘩を売るんだろう。どうして地球の反対側でおきた戦争なのに、アジアで戦争が起きてるんだろう。日本が世界の各国と必死で歩調を合わせようとして、本当は大切にしなければならない隣国との関係を台無しにしてしまってるんじゃないかって、時子さんが言ってた。おれも、そう思う」

「ずいぶんたくさんお話をしたんだね」
「ああ、寝る直前まで話をしていたからな」

 拓真は訝しげに聞いた。

「・・・一緒に寝たの」

 隣で孝子が噴き出す。古巻はあわてて否定する。

「馬鹿、なんでそうなるんだよ」

 だって、あんまり時子さんに心酔しているようだったから、と拓真は事もなげに言い訳をした。
 改めてお茶を啜り、孝子は咳払いを一つしてから古巻に聞いた。

「一春さんは、いつ立たれるのですか」

 やっぱり義兄さんのことを気にしているのか、と古巻は一種の確信と胸のざわめきを同時に覚え、極力それを出さぬように心がけながら返答した。

「明後日の朝です。大阪から船で佐世保まで向かうそうです。そこで辞令をもらうと」

 そうですか、とわずかに肩を落とした孝子。春の柔らかな風が頬を掠め、何となく浮き立ったような気持ちになる。古巻はこの気持ちの揺れも春のせいだろうと思いたかった。俯く孝子の首筋も、袖からのぞく細い白い手首の艶めかしさも、今の彼にとってはただ邪念でしかないのだった。


***


 わずかな沈黙を破ったのは、話題の人物だった。
  
「おや、古巻ここにいたのか」

 紺色の着物姿をした、古巻の義兄、一春だった。孝子はあからさまに驚き、こぼしそうになったお茶を何とか防いで立ち上がった。「ああ、気にしなくもいいよ」と孝子を制した。代わりに拓真が立ち上がってお茶を入れるためにぱたぱたと廊下を駆けて行った。古巻が自分が座っていた場所を立ち上がり、義兄に席を進めた。一春はそこに腰かけると、その庭を眺めた。

「きれいな庭だ。よく手入れされている」

 孝子ははにかみながら「ありがとうございます」と俯いて言った。

「ゆゑを芝居小屋まで送って行ったんだ」

 その帰りに、孝子と拓真の父親である、舎人大佐へあいさつに伺ったらしい。玄関で声をかけてもだれも応対しなかったが、こちらから声がしたので回ってみたということだった。
 拓真が盆にお茶を持ってきた。どうぞ、と両手で拓真が湯飲みを差し出すと、「ありがとう」と一春は片手で受取り、ずっ、と日本酒でも飲むように豪快に一飲みした。やっぱり海軍のお人だ、拓真はそう思った。
 
「拓真、ずいぶんと鍛錬しているようだな」

 きょとんとした拓真の左手首を掴み、孝子や古巻にも見えるように掌を上にした。拓真の左手は、指の付け根が膨れ上がり、薬指と人差し指のところは肉刺が潰れて白い皮がめくれている。

「古巻、お前も向こうで剣道は続けていたんだろう」

 はい、と古巻は答えた。京都で拓真と孝子が通い、古巻もかつて通っていた剣術道場は北辰一刀流。現在古巻が東京で通っている道場は神道無念流だ。

「どうだい。これから行って、手合わせをしてみないか」

 そういうことになった。 


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2010/09/08(水)
4、はじまりの業火

届かぬ思い(1)

***


 古巻もかつては孝子や拓真と共に通っていた、二条にある剣術道場までは片道30分程度。斎藤道助という歳の頃70を過ぎた師範代が近所の子供たちを相手に北辰一刀流を教えている。
 道場は常に開いており、拓真たちが訪ねた午後3時ごろは20名ほどの子供剣士が10組になって打ち合っており、威勢のいい声が外まで響いていた。一春は「ほう」といって道場の様子を見物しており、古巻は以前世話になった、懐かしい道場の空気が妙にくすぐったい。道場の門を開け、孝子と拓真が「おはようございます!」と声を張りげた。履物をそろえて上がり、孝子が一春と古巻を道場の中へ促した。

 古巻に気がついたのは、斎藤道助の長男で、道場の師範、君路だった。

「やあ、北条じゃないか」

 お久しぶりです、と頭を下げる古巻。孝子が状況の説明をする。

「古巻さんは先代桜花様の葬儀に帰ってらしたのです。こちらは、ゆゑさんの旦那さまで」
「まだ籍を入れていないよ、孝子さん」

 一春は自分の名前を名乗り、君路に右手を差し出した。一瞬とまどった反応をみせた君路だったが、「ああ、シェイクハンドやな」と急に笑顔になり、一春の手を力いっぱい握り返し、ぶんぶんと腕をふった。

「師範、今日は古巻さんに一式お借りしたいのですが」

 孝子はそう言って君路から許可を得ると、拓真に古巻を連れていくように指示をして、自分も道着に着替えるために奥に姿を消した。
 一春は君路に先導されている。横目に汗だくで打ち合う子供たちの姿を見た。無心に竹刀を振るその姿を見ていると、かつて海軍士官学校での厳しい訓練に何度も挫けそうになった懐かしい自分を見ているような気持ちになるのだった。どうやって今日の稽古をサボろうかと仲間とひたすら考えていたなと振り返り、人生というものは分からないと少し笑った。

 一春は道場の上座に通された。向かって右が師範、左側の座布団を進められた。

「活気がありますね」

 一春は素直に自分の感想を述べた。

「ありがとうございます。しかし、一時期に比べたら剣を習いたいという子も減りました。御一新の時も、時勢から生徒の数が減ったんですが、日清、日露の戦いの前後にはそれでもかつてのような賑わいを見せた時期もあったものです」

 自分の左腕を握る君路の右手に力が入る。君路は道場の子供たちを見据え、どこか物哀しそうに語っていた。一春はああ、と思った。

「師範、従軍の経験がお有りなのですね」

 もともと日本には「握手」の文化が無く、それを一般化するのに海軍の西洋化が一役買った。徴兵卒にも常識として教育される伝統がある。一春もつい”くせ”で握手を求めてしまったのだが、答えた君路にもこれで合点がいく。
 君路は笑う。

「はは、この左腕は勲章みたいなものですよ」

 その笑顔とは裏腹に左腕には力が無い。ロシアとの戦いで負傷したのだろう。しかし、君路に気負いはない。続けて君路は語る。

「船の上ではまったく役に立たなかった私ですが、こうして子供たちに剣を教えることはできるのです。おかしな話です。戦争は嫌だと思うのに、子供たちには強くなってほしい。日本はおそらく、これからも戦争をするでしょう。でもそうなったときに、相手を傷つけるのではなく、自分や家族を守れるだけの『強さ』を身につけてほしいと思うのです」


 ***


 孝子が道場の隅で膝をつき、甲手をした手で上手く面紐を結えている。拓真と古巻は面を外しているが、つければすぐに相手と対峙できる状態だ。君路師範が手をたたき、子供たちに休憩と手合い開始を伝えた。子どもたちは畳の枠外にでて、思い思いに面を外す。孝子や拓真と同年代の顔つきが並ぶ。わずかながら女子の顔もある。

「北条、向こうに行ってもしっかりと鍛錬に励んでいたな」

 はい、と澱みなく答える古巻。君路は笑顔で場内に古巻を誘った。
 面紐をきつく結び、竹刀を左手に携え、向こうから孝子が入場する。

「孝子は今、この道場では一番の使い手だ。北条、手を抜いていると右腕の一本も簡単に折られてしまうぞ」

 君路師範の活が古巻の緊張感を高ぶらせる。面紐を締めて古巻は自分の気持ちに区切りをつけた。お互いに一礼し、左に控えていた竹刀を正眼に構え、立ち上がる。
 面金越しに孝子の顔が見える。その美しい切れ長の目が、まっすぐと古巻を捉えている。自分が彼女の瞳に映っているのを感じる。できればもう少しだけこうしていたいと古巻は考えている。

「はじめ!!」

 師範の声が道場に響く。孝子は踏み込んでこなかった。わずかにその竹刀の先を揺らしながら、古巻の出方を見ているのか。古巻が現在通っている神道無念流は、技術を重視する北辰一刀流とは違い、渾身の一撃のためにその機会を伺う。現在は他流派との試合も許されているが、一時はその力故に他流試合を禁止されていた時期もある。
 右に左に、摺り足をしながら間合いを詰めていく。道場はしんと静まり返っており、衣擦れの音だけが耳に障るようになっていた。孝子の切っ先が徐々に振れ幅を小さくする。そろそろくるか。さあ来い。古巻きが狙うのはその大振りの一瞬。

 途端、孝子の体が跳躍した。左。古巻は下円を描くように竹刀を捌いた。踏みとどまった孝子の体が反応する。

左肩に降りかかる竹刀を、自らの竹刀を以て首筋でかわし、古巻と孝子の竹刀ば「バシィン」という音を響かせてぶつかった。孝子が若干古巻を押しのけ、その反動を利用して2、3歩後ろに引こうとする。古巻は自分が前に進む勢いを利用して正面に仕掛けた。孝子も後ろ右足を軸に、古巻の打撃を正面から受け止める。続けて右上段、左下段、どちらも孝子は上手く捌いた。

 古巻は間合いの外に出て、呼吸をそろえる。見据える孝子は肩で息をしている様子もない。そうだ。そうこなくちゃ。古巻は「ヤア」と気合を入れる。
 孝子もそれに応える。「ヤア」「ヤァ」「ヤア!」3度目のやり取りで古巻が動いた。孝子がその動きを見きろうと一歩前に足を出す。

「ほう」

 2人の試合を見ていた一春が驚嘆の声を上げる。

「孝子が女であることが惜しいと思うことがありますよ。あれは度胸も技術もある。だが力の面が難点だ。押し技で男には勝てない」
「しかし力を技でカバーできている。相手が力押しで来るのなら、却って孝子さんもやりやすいのではないか」
「そうとも言えます。しかし北条も随分冷静に相手を分析できるようになったようだ。孝子も戦いにくい相手だろう」

 拓真もこの2人の横で、眼の前の試合を凝視している。孝子のしなやかな竹刀捌きの機微を捉え、古巻の次の思考を読む。孝子の甲手狙いに見せかけたフェイク、受け止める古巻、鍔競りの後、古巻が大振りに仕掛けるが孝子が竹刀で受け止める。古巻が続けて左下段を打ち込むがこれも孝子にかわされ、2人は間合いの外に出た。流石に2人とも肩で呼吸をしているようだ。

「ヤア」
「ヤアァ!」

 孝子と古巻の気合が道場を占める。

「次で決まりますかな」
「さあて」
「いや見事」
「見事だ」

 一春と君路師範の声は、場内の2人には届いていない。古巻は汗に塗れたの面中から孝子を見やる。本気で古巻を破ろうとするその眼は、どうしようもなく愛しく見えた。さっき拓真に言ったことは冗談ではない。幼心にずっと抱いていた、孝子への思慕――古巻はこの瞬間に思いを確信を得る。
 先に仕掛けたのは古巻。真正面の面打ち。孝子に空中で捌かれ、古巻の体はぐらりと左に傾いた。その瞬間を孝子は見逃さない。正眼対正眼に貫き胴。


古巻には為す術がない。


『古巻!後ろ!!』


 その声に、古巻は無意識に一歩、左足を後ろに引く。すると姿勢が低く安定を保ち、竹刀を握る腕に余裕ができた。柄尻に力を込め、孝子の竹刀に自分の鍔をぶつけ、そのまま孝子の胴を抜いた。「一本!」と君路師範の声が響く。歓声に沸く場外。古巻の勝ちだ。
 古巻は振り返り、拓真の方を見た。拓真もほっとしたような表情をしている。あの友人は剣の技術は人よりもずっと優れているのに、自分は剣を握りたくないという。しかしその炯眼は確かだ。
 師範の「礼」の声に、孝子と古巻はお互いに礼をした。すたすたと場外にでた孝子は面をとるなり、「くやしい!」と叫んだ。

「ああ、もう少しで古巻さんの面をとれましたのに!あの体勢から持ち直すなんて反則です!」
「おれも、あの拓真の一言が無ければ」

 きっ、と拓真を見た孝子。拓真はどきっとする。すると一春が後ろから手ぬぐいを差し出した。

「お疲れ様。孝子さん、驚いたよ。その物事を捉える目もさることながら、剣の腕も相当のもののようだ」

 孝子は受け取った手ぬぐいで顔を拭うふりをして、汗だくで真っ赤になっている顔を隠した。「ありがとうございます」とようやく言った。拓真は桶から水を汲んできており、古巻に与えている。古巻は受け取った柄杓でぐい、と水を飲み干した。

「拓真、今度は貴方の番です。姉の敵をとりなさい」

 孝子から差し出された竹刀。できれば拓真はそれを受け取りたくはなかったが、こういうときの姉は大人げないくらい本気なこともまた、拓真はよく知っている。古巻もやれやれといった目をしている。古巻が桶に柄杓を戻し、立ち上がるのと同時に、拓真は孝子から竹刀を受けた。


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2010/09/09(木)
4、はじまりの業火

届かぬ思い(2)

***

 拓真の正眼を前に、古巻は攻め手を決めあぐねている。
 すでに始めの号令はかけられている。拓真はその姿勢で動かない。面金から見えるのその瞳も、普段と変わらない、何の殺気も感じられない無垢な拓真のそれであった。

 相変わらずだ。古巻はそう思った。

 竹刀の先で牽制しても拓真はまったく誘いに乗ってこない。「ヤァ」と気合をこめても拓真は姿勢を伸ばしたまま、静かな正眼は保たれたままだ。

 どうした拓真。おれがお前を傷つけてもいいのか。
 お前ならこう考えるだろう。「古巻に自分を攻撃させたくない」と。

 古巻は自分の中に焦りが生まれていることに気づく。竹刀を握る手が震え始めた。相変わらず動かない拓真がじれったくて仕方が無い。なぜだ。お前はどうしたいんだ。震える両手に力をこめる。自分の忍耐がもうじき限界になるだろう。そうすれば近接戦は不利だ。集中力が無ければ近距離での攻撃を読み、かわすことができない。

 じりじりと間合いをつめ、古巻は動に転じた。狙うは左袈裟。ここまできても拓真は動かない。そうか。お前はやはり、人を傷つけたくないというんだな。ならばこの場は、おれがお前を破らせてもらう。


 ぱあん。


 一瞬の出来事だった。「面あり!」と君路師範の声が響く。古巻は自分が拓真の胴をとったのだと思った。しかし実際は、拓真が真正面から面の一撃を加えていたのだった。
 会場が大いに沸いた。孝子も一春も思わず立ち上げる。古巻は自分の置かれた状況をいまいち把握できず、最後の礼に立ち会った。君路師範が拓真に有効があった旨を宣言した。しかし何度思い返してみても自分が面を打たれたような自覚はないし、そもそも、拓真にそんな殺気を感じなかった。

 状況を把握できずにそこに佇む古巻を尻目に、場外で面を脱いだ拓真は、さっきと変わらない飄々とした表情で、汗をかいた額をぬぐい、「ふう」と一息ついている。隣で孝子が無邪気に弟の勝利を喜び、拓真の両腕をつかんでぶんぶんと振っている。なすがされるのまま拓真は頭がふらふらしているようだ。序序に古巻も状況がつかめてきた。どうやら自分は、何もしないまま拓真に負けたらしい・・・。

「北条、完敗だったな」

 君路師範がそこに立ちすくむ古巻に声をかけた。師範は古巻の面紐を解いてやる。「あの、俺、負けんたんですか」と古巻がいうと、「ああそうだ、手も足も出なかったな」と師範は言った。

「拓真が、あんなに強いなんて」

「あれを知っている人間ならだれもがそう思うだろうな。あれは一種の天才だよ。だけど本人が剣道をあまり好まない。試合もなかなか自分から名乗り出ないんだよ。逆に孝子はなんにでも出たがる。本人の実力もあり、目立つ孝子が内外の評価を一番に得ているんだ」

 古巻は改めて拓真の方を見た。孝子をはじめ、道場の同輩、後輩たちにもみくちゃにされている拓真。古巻の視線に気がつくと、その瞳がちょっとだけ潤んで、「ごめんね」と言っているように見えた。拓真のことなら自分はすべてを知っているんだ、そういう自負のあった古巻は、拓真の見知らぬ一面を見せ付けられ、焦りに似た嫉妬のようなものを感じていた。


 *** 


 日が大きく傾き、橙が横からさしている。
 さわさわと穏やかな風が火照った3人の頬を掠めている。一春、孝子、古巻、拓真は、道場からの帰路の途中、山科川の河川敷に腰を下ろした。拓真が川に入りたいと草履を脱ぎ始めたので、古巻がそれに同調した。草履を投げ捨てるように川に駆け出した2人は、孝子に「きちんと草履をそろえなさい!」と叫ばれたが、どうやら聞こえていないようだった。2人は水に入ると着物がぬれることも気にせずにばしゃばしゃとお互いに水をかけ始めた。

「まったく、聞いているのかしらあの二人」

 孝子がそうボヤキながら2人の脱いだものを拾っていると、一春もそれに手を貸してくれた。一春は拓真の分を孝子に手渡す。受け取るときに孝子は一春と近いところで目が合った。思わずその目をじっと見つめてしまう。一春は優しく微笑んで、「座ろうか」と孝子を促した。

 二人で土手の上の方の草の上に腰掛けた。道場帰りらしい子どもたちや、帰宅の会社員たちが上の道路に長い影を引きずりながら歩いていく。孝子は急に、今一春と二人でいることが意識されて、体が熱くなった。何か話さなくちゃ、そう思うほど、気の利いた言葉が見つからず、そんな自分に失望した。

「孝子さん」

 一春に呼ばれた自分の名前に、孝子は上ずった声で返事をした。驚いた一春が「どうした、驚かせてしまったかな」と言ったが、孝子は精一杯首を横に振って否定した。

「寂しくなかったかい」

 その言葉に、孝子は一春の顔を見上げた。一春の目は、まっすぐに孝子を捉えている。孝子の胸は高鳴る。母の言葉、強くあらねばと思い続けた日々。なんだか、いままで張り詰めていたものが一気に堰を切って流れ出してきたような、そんな気がした。

 眼下では拓真と古巻は川魚を素手で取ろうと奮戦しているようだった。よおく狙いを定めて、一気に川へ手を突っ込む。魚もそう簡単に捕まってくれないが、拓真もあきらめるつもりは無いらしい。古巻もそれに負けじと川に手を突っ込んでいる。

「母は、最期まで父の帰りを待っていたのです」

 一春と孝子の間に流れていた沈黙を破ったのは孝子だった。それは一春に対する返答ではなく、孝子の心をさらいながらひとつずつ言葉をつむいでいくといったような作業だった。

「母が亡くなったのは私がちょうど5つになるかならないかのころでした。拓真を生んですぐに体を壊して、それからはずっと寝たきりですごしていました。父はロシアとの戦後処理のために大連にいたのですが、父も母もどうやら本家と縁を切って結婚したのだとかで、母の面倒は使用人のフクさんと古巻さんのお母様・・・亡くなられた篠おばさまが見ていてくださいました。私も何かしなくちゃと思ってあれこれ思いを巡らすのですけれど、思いつくものはもうすでにフクさんや篠おばさまが面倒を見てくれていて。拓真もちょうど歩き始めたころでしたから、私は拓真を背負って、母上の額に乗っている手ぬぐいを替えたり、布団を直してやるくらいしかできなかった。それが、悔しかった」

「悔しい?」

「私は何もできなかった、母が、どんどん弱っていくのに」

 孝子は自分の声が震え、かすれていくことに気がつく。手や足が震え始めて、それを一春に悟られまいと自分の肩を抱いた。

「母はうわごとの様に父の名前を呼んでいました。そして『ロシアと全面戦争をしてはいけない』と言っていました。私は何とか父と連絡がとりたくて、陸軍省に掛け合ってみるのですけれど、掛け合っていただけません。父は情報将校ですから、今考えれば当たり前のことなんですよね。そこで私は、あったことの無い私の祖母に・・・父の母を探したのです」

 たった4歳の娘の、母を思うゆえのその行動力。一春は改めて孝子の聡明さに関心をした。孝子は続ける。

「父の本家は代々天皇陛下の侍従をしているお家柄なのだとかで、御所の東側の大きなお寺の隣に、お屋敷のようなお家がありました。私が訪ねていくと、父の母だという女性が玄関まで出向いてくださった。幼い拓真の手を引く私をーー初めて見る孫を、祖母はどう思ったのでしょうか。私は必死で祖母に訴えました。母が危篤なのだということ。父と連絡を取りたいが、軍にとりついでもらえないということ。すると祖母は私たちに『ここで少し待ちなさい』と告げて、出かける準備をされた。山科にある私のうちまで、車を引かせ、祖母と3人で連れ立ちました。祖母を見た母は、起き上がれない体を必死で起こそうとしましたが、祖母が厳しい口調でそれを制しました。私は聞いたことがありませんでしたが、縁を切ったとはいってもきっと婚姻の際などに顔を合わせていたのだと思います」

――ふざまない。この舎人の人間に啖呵を切った割には、なんですこの醜態は。


「弱りきった母に向けた祖母の第一声。私は耳を疑いました」


――後悔はしておりません。私は、耕三郎様の子供たちを生むことができたのだから


「祖母はそれ以上何も言わず、ずっと母のそばについていてくださいました。母はその日からこん睡状態に陥り、お医者様からももう長くないだろうということを言われました。祖母はまるでそこに根付いたかのように母の枕元に座り、金剛様のような厳しい表情を母に向けておりました。祖母がうちに来てから5日目の朝、フクさんが出仕する前の早朝、母は息を引き取りました」

「辛いなら、もういい」

「いいえ、続けてもいいですか」

 一春は頷いた。

「葬式の指揮はすべて祖母が取りました。近親者のみの密葬。すべてが一段楽したころ、ようやく父上が帰ってきた。父は祖母から手紙を受け取ったのだといっておりました。祖母が父に連絡を取ってくれたのです。しかし祖母は私にこういい含めておりました」

――私がここにいたことは、耕三郎には黙っておいでなさい。あの男と私たちはもはや、縁もゆかりも無いのです。

 堪えきれなくなった涙が、孝子の頬を伝った。一粒、二粒。嗚咽が言葉を飲み込み、孝子は堰を切った涙をどうしようもできずに、泣きじゃくった。
 一春が、孝子の肩を抱いた。孝子が嫌がるとわかっているので、その涙が見えないようにその胸に埋めてくれた。一春のその優しさが触れた肌から伝わってくる。孝子は初めて、人目を憚らずに、声を出して泣いた。一春の胸元が、孝子の涙に濡れていく。

――家族が、ほしい。

 拓真は私が守らなくちゃいけない。でも、私も強くない。誰か、強くない私を叱ってほしい。強くない私に手を差し伸べてほしい。強くならなくちゃ、拓真を守れない。母のように、最期まですべてを賭けて信じられる誰かがいるなら。


 そしたら、きっと。

 私は強くなれる。


 孝子を抱く、一春の腕に力が篭る。ああ、夢に見たことがある。この腕を。このぬくもりを。でも孝子は同時に理解する。この人を纏うこの優しい強さも、すべて婚約者であるゆゑがいてこそのものであることも。「守るべき誰か」のために、人はこんなにも強くなれる。強さは優しさなんだ。だけどそれは、私が望んではいけないものなんだーー。


 ***


 古巻は、人前で涙を流す孝子を初めて見た。

 拓真は相変わらず川魚を捕まえるために奮闘している。膝まで使った着物に、水面が穏やかにゆれている。川魚を捕らえる手を止めて、古巻はその場に立ちつくす。古巻の知っている、強く、正しい孝子。先ほど竹刀をあわせたときに感じた、冷え冷えとするその美しい視線も、自分だけが知っている、大切な人。一春にだけ見せるその弱さは、決して自分には見せてくれないんだろう、そう古巻は思う。

「古巻?」

 古巻が手を休めていることに気がついた拓真が声をかける。「ああ」といって古巻は無造作に川に手を突っ込んだ。
 熱を持つ手が、水の冷たさを感じている。

「やっぱ網持ってこないとなあ」

 魚ぜんぜんとれないじゃないか、と無理やり笑う古巻に、拓真も川に手を突っ込みながら言う。

「姉上は、強くなんか無い。だけど僕じゃだめだから」

 ぱしゃっ、と水のはねる音がして、川魚が腹を見せた。

 

 春の夕焼けは早く、赤い太陽が地平線に見えなくなりそうな位置にある。
 青黒い闇を伴って、もうすぐ夜がやってくる。


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2010/09/12(日)
4、はじまりの業火

届かぬ思い(3)

 ***

 夕食後、拓真は姉、孝子の部屋を訪ねた。

「どうしたのです」

 孝子は帰宅後は普段と何も無かったようにフクの作りおいた夕食を食べ、部屋に戻った。父耕三郎は、夕食のときに北条家の弔問から帰宅したが、方面司令部に急用ができたとかですぐに出かけて行った。
 拓真は夕方のことをちらりと思い出したが、姉はそのことに触れてほしくないだろうと思い、「お時間よろしいですか」とだけ聞いた。

「よろしいですよ」

 孝子は何かを書いていたらしい帳面から拓真に向きかえり、正座の姿勢を改める。拓真は襖戸をしめて、孝子の前に正座した。
 部屋は、仄明るい橙色のランプが灯る。薄暗いが、拓真から孝子の表情は見て取れた。いつもと変わらない、背筋を伸ばし、拓真にも自分にも厳しい瞳の姉。

「進路のことです」

 拓真は孝子から目を離さずにそう言った。孝子の反応を見たかったが、孝子は「続けなさい」と言った。

「天文学者になるために、僕は、東京帝大を目指そうと思っています」

 孝子は何も言わなかった。その沈黙が拓真にはつらかったが、拓真はその沈黙に耐えた。

「自分が何を言っているのか、わかっているの」

 語気に、鋭利な刃物のような冷たさを感じた。怖がらないで。正直に話さなくちゃ。拓真は奥歯を食いしばった。

「僕は、陸軍幼年学校には行きません」

 そこまで言い切って、拓真はごくりと唾を飲み込む。目の前の姉を包む空気が、ばちばちと音を立てているような錯覚を覚えた。孝子はその美しいまつげを伏せ、言葉を捜しているようだった。それは拓真の望む、将来への許諾の言葉ではない。

「あなた、舎人家の長男でしょ。この国を守り、この家を守る。それが長男としてのあなたの務め。父上も、亡くなられた母上もそれを望んでおいでです」
「承知しています」
「それを承知の上で、そんなことを言っているの」

 夕方、孝子の泣いている姿を見た拓真は、まず自分の不甲斐なさを責めた。いつまでも姉が自分を一番に立てようとするのは、身なりも自覚も未熟な自分を庇ってのことなのだ、そう考えた。

 自立、しなくては。

 年少者として庇護される立場から。頑なに「姉としての勤め」を果たそうとする孝子から。いつまでも回りに流されるままの自分から。自分は舎人家の長男だから、これからは自分が姉を守る。そのためには、姉に自分を認めてもらいたい。自分のやりたいことに、逃げずに立ち向かう。これが自分なりの自立の一歩なのだと信じている。

「父上にはこれから伝えます。まずは姉上に伝えたいと思って」
「そんなことは私が許しません。父上に心労をお掛けするつもりですか」

 拓真はそんなことは無いと思っている。父上ならきっと、自分の意思を理解してくれる。

「考え直しなさい、拓真。天文学者になどなって、どうやってお国に尽力するつもりなのですか。星を見ながら国が守れるとでも思っているのですか」
「国を守ることがすべてじゃない。僕は、目に見える僕の大切なものを守れればそれでいい」

 姉上。きっと今のあなたにはわかってもらえないと思う。学校で教えられる皇国への忠誠や家制度の保持なんて、僕はなんの魅力も感じない。僕は古巻を、姉上を、そして僕を取り囲むすべてのものを大切にしたいんだ。

 途端、拓真の頬に激痛が走った。何が起こったかわからず、拓真はその力にされるがまま、体を左方へぐらつかせた。
 弟を平手打ちした姉の瞳は、感情を精一杯に詰め込み、たっぷりと熱をもっているようだった。必死で何かをこらえる孝子は、よろめいた体を戻す拓真と視線を合わさないうちに、搾り出すように弟に告げた。

「出て行きなさい、あなたの顔なんて見たくない」

 心のどこかではわかっていた結末。だけどきっと、どこかで孝子を信じたい、わかってくれるという期待があったのだと拓真はこのときにになって気がついた。

 そのまま姉弟は顔を合わせることも無く、拓真は「失礼します」と正座のまま礼をして、孝子の部屋を出た。


 月の明るい夜だった。拓真は草履も履かずに、舎人家の門を出た。


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2010/09/14(火)
4、はじまりの業火

届かぬ思い(4)

***



 古巻は、窓の鳴る音で目を覚ました。

 時計を見ると日付の変わる時刻。恐怖というよりはその音に導かれるようにカーテンを開けた。月明かりに目がくらむ。ようやく慣れてくると、友人の拓真がガラスに手をぺったりとつけて、こちらを見ている。
 古巻は正気を取り戻しつつある。ここは2階。時刻は0時。

「・・・何してんだお前」
『お願い、入れて』

 ガラス越しに拓真の声が聞こえ、古巻は明かり取りの窓の鍵をはずした。拓真が外側から押しやって窓を開ける。古巻の部屋のすぐ隣にある大きな樫の枝を起用にのぼり、拓真はここまでたどり着いたのだ。枝から窓辺に降り、汚れた足の裏をほろう。友人が裸足であることに気がついた古巻が自分の手ぬぐいを貸してやる。
 古巻は誰かに見られていないか外を覗いてから、静かに窓をしめた。
 明かりはつけなかった。月の明かりが、窓のフレームをかたどって部屋の中に落ちていた。

 心なしか、拓真の左頬が赤く腫れている事に気がついた古巻は、右手でその患部に触れた。拓真の息遣いが聞こえる。自分の心臓の音が聞こえてしまいそうな距離だ。大きな満月を背負って、いつも心優しい友人は、昼間とは違う、まるで別人のような目をしている。

「何かあったのか」

 触れた右手から、その頬を通じて拓真の熱を感じる。その目が、その体が、この瞬間にたまらなく愛しい。やはり姉弟だ。そのまっすぐに見据える瞳が、孝子のそれに限りなく似ていた。

「出て行けって、もう顔も見たくないって」

 古巻の右手に、拓真の流した一筋の涙が触れる。古巻もはじめてみた、友の涙だった。

「言ったのか、孝子さんに、将来のこと」

 答える代わりに、拓真は大きく息を吸い、鼻をすすった。触れた右手に、絶え間なく涙のしずくが流れた。
 古巻は、抑えきれない感情に打ち震える拓真の細い体を抱いた。拓真は抵抗しなかった。拓真の両手が、古巻の背中を抱いた。
 鼓動を打つ、拓真の脈動と、ぽってりと熱を持ったその体温を古巻は肌で感じた。腕の中の拓真は、必死で嗚咽をこらえながら、尚も泣いているようだった。

「よくやったな」

 よくやった、拓真。古巻は何度もそういって、拓真を抱く腕に力をこめた。拓真はそれに答えるように強く古巻の着物を握り締めた。

「お前、強くなった」
「強くなんかない、僕はまた姉上から逃げてしまった。姉上にあんな顔をさせてしまった」
「ばか、そんなんじゃない」

 拓真は腫れぼったくなった瞼を上げた。近いところで目が合った。まだたっぷりと水分を堪えた瞳だった。

「お前、ちゃんと孝子さんと向き合って、自分の意思を伝えたじゃないか。俺の知っている以前のお前なら、孝子さんや周囲が望む『いい子』であったはずだ」

 古巻は、指で拓真の涙を拭ってやる。拓真が鼻をすすり、ごしごしと涙を拭いた。いつものあの純粋な瞳が、古巻を見ていた。

「ここに来る前に、考えてた」

 久しぶりに会った古巻がずいぶん大人びていたこと。姉に初めて自分の意見を言ったこと。そして、自分はこれから何をしなければならないのかということ。

「でもね、気がついたらまた星を眺めていて、それで気がついたらこんな時間になって」
「お前、この寒い中ずっと外で星見てたのか」

 えへへ、と拓真はここで初めて笑った。古巻は半ばあきれた様な、しかしこの目の前の友人の、変わらない素朴さがどうしようもなく愛しかった。
 
「うし、これから裏の杉山にいくぞ」
「寒いよ?」

 ばか、上着はちゃんと着ていくよ。古巻は拓真の手を引いた。古巻は拓真と一緒に星を見たいと思った。


 そういえば、いつか拓真が自分にそうしてくれたことを思い出した。


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2010/09/15(水)
4、はじまりの業火

届かぬ思い(5)

***


 3月の夜風は冷たい。祇園の華やかな橙の明かりと雑踏を10歳の少年二人が駆け抜ける。途中、人にぶつかったりして叫ばれたが、古巻はそれを無視して走り続けた。
 祇園を抜けると、静かな紺色の暗闇が広がった。やがて耳に届く音は二人の息遣いと地面を蹴る足音だけになった。山の斜面を駆け上がるのは少々難儀したが、急ぐ気持ちも相まって、ほとんど休むことなく駆け上がった。拓真もそれによくついてきた。
 頂の杉に手をついて息を整え、西側を見下ろせばさっき駆け抜けてきた祇園の橙。その奥が京都御所。あとはまばらに電灯の光が見えて、大部分を重い紺が空気を制している。
 ぐるりとあたりを見渡して、古巻はぺたりと座り、杉に背を預けた。拓真もそれに習い、古巻の横に並んだ。首が痛くなるほど夜空を見上げれば、上限の月と満天の星空が頭上に広がっていた。

 2人は互いに言葉を交わさなかった。その必要が無かったからだ。

 どうしてだろう。古巻は東京で、いつも孝子や拓真のことを考えていた。あいさつもせずにいなくなってしまった自分を、彼らはどう思っただろう。もう5年も前の話だ。もしかしたら自分のことなんて忘れてしまっているかもしれない。手紙でも出そうか、いやでも、もし自分が彼らに嫌われていたら。無礼なやつと思われていたら。
 
 会いたい。話がしたい。おれはお前たちが嫌いになって出て行ったのではない。そう申し開きたい。

 ずっとそう思ってきたはずだったのに、昨日5年ぶりに再会した孝子と拓真は驚くほど当時のままで。目を見た瞬間に理解した。ああ、孝子さんも拓真も、自分を忘れたりなんかしていなかったんだって。この人たちを少しでも疑ってしまった自分が、なんて浅はかだったんだろうって。

 隣に座る拓真の呼吸が聞こえる。夜空に散らばる点のひとつひとつを見極めて、その生命に思いを巡らせているのだろう。古巻も改めて夜空を見上げてみる。見上げた南の空には、南中に近いところに金星の赤い光と、その西側にそれよりもさらに明るいボルボックスの不気味な光、そして南西にむかってプロキオンとシリウスの一等星が見えた。

「今日は、お月様に恋人がいる」

 拓真の口から、異性に関する言葉など聞いたことの無かった古巻は、思わず目を丸くして問い返す。

「何」

 拓真は、南東の星を指差して、言った。

「お月様の右下に、白い星が見えるでしょ。ほら、スピカの上の、おとめ座の先端」

 古巻はよくわからなかったが、上弦の月に右下に目立つ白い星の輝きを見つけて、それだと思うことにした。

「ああ」
「あれは土星。春のこの時期になると、土星が月の軌道にぶつかって、こういう風に見えるんだ。ずっとずっと昔、藤原京の時代に、あの星は不吉な星だとか、夫婦星だとかいわれていたみたい」

 見方によって、違った意味合いを持たされる星。人間も同じなのかもしれない。「母を殺した」と思い込んでいた桔華を、今は「先生」と本当の敬意をもって呼べるのも、そのせいなのだろう。拓真の小さな反乱を、孝子は「忠義に反する」と評価した。だけど「弟の自立」と解釈できたら、もしかしたら和解の道を探れるかもしれない。

「なあ拓真」
「なに」
「明日、おれもついていくから、もう一回孝子さんに説明してみよう。天文学を本気で学びたいって、ちゃんと孝子さんに伝えよう」
「できるかな」
「できるさ。だって孝子さん、お前には頭が上がらないんだから」

 目を丸くする拓真。自覚が無いのか。古巻は、そういって自分と孝子だけの秘密を共有しているような気になって、わくわくした。孝子は、弟である拓真を大切に思うあまり、素直になれないのだ。自分と同じ。大切なものだからこそ、何かしてやりたい。拓真にも孝子にも、お互いを理解してほしい。

 あっ。

 拓真が声を上げた。流れ星だった。

「願い事を3回言えば、叶うんだっけ」
「うん、そうだね」

 拓真は少し寂しそうな目をした。流れ星が流れる、その短い間に願い事を3回言うくらいの気持ちがあれば、きっと願いは叶うんだよね。拓真はそういって、膝を抱えて姿勢を崩した。

「あーあ、おれも孝子さんに平手打ちされてみたいなぁ」
「なにそれ」

 本気で理解できない、という視線を、古巻に送る拓真。古巻がふふっと笑って、後ろ手にして草むらに寝転んだ。続けて、拓真も寝転ぶ。 

「なあ、おれお前のこと好きだわ」
「僕も古巻のこと好きだよ」

 違うんだよなあ、古巻はそう思ったが口には出さなかった。見上げた北の空に、こぐま座の北極星を見つけた。今、見上げている空を拓真と共有している、この広い宇宙全部が、自分と、拓真だけのものになったような、そんな錯覚を覚えた。



 ***



 異変に最初に気がついたのは拓真だった。

「どうした?」
「ねえ、あれ」

 それは現在の小高い山の頂から北西の方面だった。祇園と少し離れたところに、もうひとつぼんやりと橙が見える。

「あれは…」
「ウチの方だ」

 言うなり、拓真は駆け出した。古巻はすぐに現状を把握しようとしたが、納得したくないのか、「そうではない」理由を必死に探し、なかなか現状を認識できなかった。
 半鐘の鐘の音が聞こえ始める。

 古巻は焦る気持ちを抑え、すぐに拓真の後を追った。


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2010/09/16(木)
4、はじまりの業火

はじまりの業火(1)

 ***


 案の定、炎に包まれているのは舎人家であった。

 拓真と古巻が家の前に走りついたときはすでに人だかりが出来ており、近隣住民による火消しが始まっていた。威勢のよい、大人たちの掛け声が聞こえる。燃える邸宅を不安そうに見上げる群集の中に、見知った顔を見つけた。

「義兄さん、姉さん!」

 寝巻きにストールを羽織っただけの古巻の姉、ゆゑと一春の下へ、古巻と拓真が近寄った。ゆゑは深夜に弟の姿を見つけて一瞬驚いたようだったが、その横に拓真の姿を見つけて安堵したようだった。

「拓真さん…!よかった、無事だったのね」

 ゆゑは膝をつき、拓真を体ごと抱きしめた。本当に強く抱きしめられ、何度も「よかった」とつぶやくゆゑにされるがままになった。
 しかし、一春が厳しい表情で拓真に問う。

「孝子さんは一緒ではないのか」

 一瞬で空間を支配する凍てついた空気。ゆゑが怯えた瞳を一春に向け、古巻の背筋に冷たいものが走り、緊張する。
 次の瞬間に、拓真が燃え盛る家に向かって走り出す。一春はそれを止めようと拓真に声をかけるが、その声が届かない。体の小さい拓真はうまく人垣を抜けていくが、一春は人垣に押し戻されてしまった。古巻も拓真を追おうと走り出そうとした瞬間、強い力で着物の首元を掴れ、軽々と体を持ち上げられた。

「離せ、拓真が!!」
「貴方が行って何になるんです、身の程を弁えなさい」

 聞きなれぬ声に、古巻が自分を抱えている人物を見上げる。
 人垣に押し戻された一春が、その人物を見上げて、声を失った。

「白河川、閣下…」

 白河川は一春を一瞥すると、燃え盛る舎人家を見据えた。

「藤原一春少尉。貴様がここにいることは、偶然なのか?」
「おっしゃる意味が…」

 白河川は後ろに控えている眞子に指示する。眞子は音も無くその場から立ち去った。

「いよいよ宣戦布告ということですか」

 燃え盛る炎に、陰りの様相は未だ見えない。



 ***



 孝子はいつの間にか眠っていたらしい。

 心の陰りを残したままの目覚めは最悪だった。部屋の明かりはついたまま。右手にはまだ拓真をぶった余韻が残っていた。握り締めても、後悔の念は消えることは無い。いや、後悔などしていない。 自分は間違ったことなど言っていないのだから。そう頭を振って納得しようとするが、拓真の自分を見るあの目が、消えない。

 そうか、あの子が自分で何かしたいって言うの、初めてなんだ。

 もしかしたら、昼間、一春に胸を借りて大泣きしてしまったところを、あの子は見ていたのかもしれない。不甲斐ない姉を、自分のせいだと感じたのかもしれない。いや、そうに違いない。あの子はそういう子だから。優しい子だから。
 ふと、家の様子がいつもと違う気がして、孝子は顔を上げた。木の燃える匂いがする。障子戸を開けると、猛烈な黒い煙が、孝子を取り巻いた。
 思わず咳き込み、孝子はその場に座り込む。何とか息を整え、低い姿勢のまま強引に状況を確認した。炎は、玄関からこちらに向かって広がっており、そちら側からの退避は不可能。庭はまだ引火していないようだが、塀を越えての脱出は自分ひとりでは無理だろう。だとしたら、家の裏手にまわり、襖戸をこじ開けて勝手口から出る。今のところ考えられるのはそれしかない。しかしそれより前に。

「拓真!いたら返事をしなさい!」

 大きく息を吸い込むと煙を巻き込んでしまうので、あまり吸い込むことも出来ない。小刻みに息を吸っては、拓真の名前を呼んだ。返事は無い。もしかしてもう先に避難したのではないかしら。一瞬脳裏を掠めたが、すぐに取り消した。


――あの子が、私を一人残して自分だけ逃げるなんて、ありえない。


 炎は、孝子の部屋にも移り始めた。仕方なく、孝子は廊下に出る。こんな時間だ、今頃起きだして、部屋に蹲っているかもしれない。孝子はまだ炎の上がっていない奥の部屋の襖を空け、反対側から拓真の部屋へと急いだ。
 3枚目の襖を開けると、そこはもう炎の海となっていた。これ以上は進めない。だけど、拓真がいないと限らない。孝子は額ににじむ汗をふき取り、必死で自分の勇気を振るい立たせた。待っていなさい、拓真。今私が助けに行きますから。

『出て行きなさい、あなたの顔なんてみたくない』

 ふと、自分の声が頭に蘇る。弟が始めて見せた、姉への反抗。その瞳。役目を果たさんと、言い分も聞かずにその頬をぶってしまった自分。何も言い返すことなく、部屋を出た拓真の背中。拓真は素直に従い、とっくに自分を見限って一人で行ってしまったのではないのか。

 ああ、私、ひとりだ…

 炎の影から一人の男が現れた。男は孝子を認めると、孝子にその銃口を向けた。孝子は現状を理解しようとする。しかし、弟への仕打ちが孝子の思考を妨げ、その場で膝から落ちてしまった。


―――この人、確か…


 孝子に、成す術は無い。スロットルに銃弾が装填される金属音。


―――北条の檜山さんだ…


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2010/09/17(金)
4、はじまりの業火

はじまりの業火(2)

 黒煙と炎が充満する部屋に、くぐもった銃声が響いた。

 男――檜山の視界が煙にまかれ、消失する。3歩進んで、孝子のいた場所を確認すると、そこには誰もいない。
 刹那、右方に人の気配を感じた。

「わああああ!!」

 煙の中から現れたのは拓真。思わぬ至近距離からの突進に、檜山は辛うじて左腕で防ぐが、勢いは拓真が勝り、そのまま後ろへ後ずさる。再び2人の間を隔てる煙。檜山は、ゆっくりと姿勢を戻しながら、標的のもう一人を探す手間が省けたと内心で思った。
 檜山の放つ銃口の直線から、身を投げ出して姉、孝子をはずした拓真。本当に間一髪だった。驚いた孝子が、背を畳に預けたまま拓真の名前を呼ぶや否や、拓真は檜山に向かって行った。煙で何が起こっているのか分からなかったが、孝子が上半身を起こしたところで、再び拓真が戻ってきた。

「姉上、立てますか」

 そういって手を差し出す拓真。その手は煤に汚れ、黒くなっていた。顔や着物にも汚れや、軽いやけどの様な痕が見える。孝子は弟の手をとった。すると驚くほど強い力で持ち上げられた。
 拓真は、自分が入ってきた道順で脱出を考えているらしく、姉の手を握ったまま、先行く歩みを進めている。繫がれた手に力が篭る。孝子がこちらに向かってきたときよりも、火の勢いが増していた。普通に立っていると煙で息が出来ないため、2人は少し姿勢を低くして、着物の袂で口を覆った。
 あと一部屋抜ければ台所。そこの勝手口から出られるというところで、部屋を仕切る大きな柱が轟音とともに倒れてきた。拓真の機転で、2人はその倒壊に巻き込まれなくて済んだ。しかしこれ以上前に進むことは出来ない。考えている暇は無い。どこか出口を探さなくては。拓真が振り返った、そのときだった。

 パンパン、と2発の銃声が聞こえ、拓真は反射的に孝子を庇い、床に伏せた。大きく息を吸っての動作だったので、思わず咳き込む。被弾はしていない。低い姿勢のまま、煙の下から檜山の足が見えた。なぜ自分たちが狙われなければならないのか。今はそんなことを考えているときではない。拓真は、自分の下にいる孝子に、静かに言った。

「あの男の注意を姉上から逸らします。その間に、正面に回ってください。消火活動をしてくれている皆さんがいるから、もしかしたら火の勢いが弱くなっているかもしれない」

 孝子は頭を振った。

「馬鹿なことを言わないでください、相手は銃を持っているのよ」
「大丈夫、なんとかします」

 待ちなさい、拓真にそう叫ぶ孝子の声が届いたか否か、炎の燃え盛る中、拓真は檜山へと向かっていく。

 孝子は思った。ああ、いつの間にこの子、こんなに大きくなっていたのだろう。

 檜山は拓真の気配に気がつくと、視覚では確認できないために、その方向に2発発砲した。拓真は、倒れてきた柱の陰に逃げ込み、その兆弾を免れた。もし、全弾装填されていて、さっき姉上に向けて発砲したものが初弾だとしたら、今ので5発。いつか、北条社長が上海で購入したという短銃の薄らぐ記憶を手繰りながら、拓真は次の手を思案する。向こうからこっちは見えないはずだ。だったら、体が小さい僕のほうが有利。姉上があの場所を離れるまで時間を稼げたら、あとはうまく逃げればいい。大丈夫。きっとなんとかなる。
 じりじりと迫る炎に、恐怖を感じている余裕は無かった。ぶわっ、と横風が吹いて、急に視界が開けた。途端に、檜山の視線が拓真に集中する。ガン、と音がして拓真の耳を掠めた。迷っている時間は無い。拓真はその場にあった廃材を檜山に向かって投げつけた。檜山はその怜悧な表情を顰めることもせずに廃材を手で押しのけ、もう一度拓真のほうへ銃口を向けた。そこに拓真の姿は無い。
 檜山の後ろ側に回り込んだ拓真は、その腰にしがみついて銃を握る左手を捕らえた。勢いのついている拓真が若干有利。そのまま体重をかけて、炎の海のほうへ押し出していく。しかしやがて檜山が拓真に力で圧倒し、拓真はみぞおちに檜山の膝蹴りを受けた。呼吸が出来なくなり、拓真はその場に蹲る。

 そうだ、もしかして。

 拓真はかつての記憶を思い出した。古巻と孝子、3人で北条家の古い倉庫に忍び込もうとした夜のこと。
 拓真だけが侵入に成功した倉庫の中には無数の銃弾が山積みにされていた。その中にいた、この男。そして今と同じように、こうして銃弾を向けられたが、古巻の母、篠が現れたことでその状況から救われた。

 その篠は、直後に自殺した。
 どうして、僕と姉上が…?

 拓真は、一つの結論に至った。いけない。もしこのまま僕がやられてしまえば、次は姉上が狙われる。そしてその次は・・・

「!」

 檜山は自分の右足を、拓真につかまれていることに気がつく。尋常ではないその力に、銃口を向けるその意思に揺らぎが生じた。その瞬間を拓真は見逃さない。今度は蹲った姿勢から檜山の腹めがけて拓真が頭突きをする。檜山は「ぐふっ」と声を上げて、後ろへ吹っ飛んだ。燃え盛る廃材の中にガラガラと落ちた檜山。それを確認した拓真は、息を整えながら、安堵した気持ちで眺めていた。

 さあ、姉上の後を追わなくちゃ。

 拓真が檜山に背中を向けた、その時だった。
 パン、と空気を劈く音が部屋に響き、拓真は振り返った。自分が撃たれたのだと思った。
 檜山が、崩れ落ちた姿勢のまま、拓真に向けて銃口を向けていた。その銃口からは、硝煙が小さくあがっているのが見えた。
 拓真は、何かに押し倒されるように背中から落ちた。自分の上にいたのは、孝子だった。

「姉…うえ?」

 拓真は何が起こったのか理解できなかった。いや、起こった事実を事実として認めたくないという心理が働いたのだろう。自分に覆いかぶさったまま動かない姉の下からもぞもぞと這い出て、その状況をようやく確認する。うつ伏せの孝子の背中に銃弾の痕があり、その黒い穴を中心にどくどくと生き物のような赤い血が流れだしていた。
 感情が上向くのが分かった。拓真は孝子を抱え起こすと、必死でその名前を呼んだ。

「姉上、姉上!!」

 貫通した孝子の腹からは、堪えることなく鮮血があふれ出し来る。拓真はその流血を止めようと傷口を強く抑えるのだけれど、拓真の指の間から孝子の血はとめどなく滲み出てきた。いやだ、姉上、絶対いやだ!血の気が失せていく孝子の顔に、拓真は尚も叫び続ける。炎はやがて、2人を取り囲んだ。もう逃げ場はない。

 力無い孝子の唇が微かに動いた。拓真は涙でぐしょぐしょになった顔をその顔に近づける。


―――ごめんなさい、拓真。貴方は、自分の、道を


 2人の体を、無常な炎が纏いつく。
 拓真は決して、孝子のそばから離れようとしなかった。その手をずっと握ったまま、崩れいく住み慣れた家の中、睫を伏せた姉の美しい顔を見ていたのだった。



 そして舎人家は全焼した。焼け跡のみが明け方の日の光を浴びて、黒く鈍く、光っていた。



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2010/09/18(土)
4、はじまりの業火

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