北条古巻(1)

 

 東京と京都が鉄道で結ばれたのは明治22(1889)年のことであるが、この二つの都市間を9時間と24分でつなぐ主要な幹線となった。京都駅では連日東京駅にも匹敵するような数の人がこの駅を利用している。

明治43年。その京都駅に、姉に伴われた非常に不機嫌な少年がいる。

 少年は名前を北条古巻。7つ年上の姉であるゆゑに背負われてプラットフォームにいた。母は来ていなかった。父はもっと先のほうで「誰か」の帰りを心待ちにしていた。古巻はゆゑに「おりる」とせがみ、絶対に姉のそばを離れないことを条件に下に下ろしてもらった。その右手は、しっかりと姉につながれている。
 
 古巻の父、古月は、一代で大きな商社を立ち上げた、いわゆる「財閥」の勃興者であり、貿易を兼業する日本の経済界を担う一人である。奉公していた豆腐屋を継いで、それを以外にも醤油や塩といった製品に次々と着手し、それで培った運輸力を貿易事業に拡大して、三井や古河に引けを取らない巨大な企業に成長していた。

 古巻はそんな古月の長男として1904(明治37年)に生まれた。母の名前は篠。長女、ゆゑが女であったため、待望の男児誕生であった。古月は

「こいつはいつかこの国に旋風を巻きおこすんや」

といって古巻と名づけた。

 古巻は今すぐに帰りたい気持ちでいっぱいだった。父に対して怒りの気持ちを抱いていた。なぜ父はここにいるのか。なぜ母を家に残してきたのか。古巻は見た。母、篠はつらそうな顔をしていた。どうして母はあんな顔をしていたのか。分からないけど、だったらなんで父はそんな母親を一人残してここにきたのか。久しぶりに大陸から帰ってきて、母よりも大事なものとは何なのか。自分はそれも許せない。
 今すぐ母のところに帰りたかった。古巻はゆゑの手を両手で引っ張って、「帰ろうよ」といってみた。ゆゑは曖昧な表情をして微笑んだ。ゆゑには古巻の気持ちも、父、古月の気持ちも理解できた。今日、ここに帰ってくる人物のことも知っていた。ゆゑは寂しそうな目で父のほうを見た。父は「誰か」の到着を今か今かと待ちわびているようだった。
 汽笛の音と同時に、黒い、どっしりと重量感のある体躯の汽車が、むせるような量の黒煙とともにプラットフォームに滑り込んできた。12両編成で東京から京都までを結ぶ快速便だ。やがて扉が開き、ゆったりと乗客が降り始めた。
 古月も目的の人物を探しているようである。古巻は倦厭の目を父に向けた。父のほうはそんな息子にまったく気付くことも無く、年がいなく身を乗り出して待ちわびている。最後のほうになって、両手いっぱいの荷物とともに降りてきた若い女が見えた。女はまだこちらに気づいた様子はなかったが、古月がそれを確認すると、ゆっくりと女のほうに歩み寄った。
 女は古月に気がついたらしく、大荷物を降ろし、それに掛けていた手をいったん休めると、古月のほうに顔を向けた。
 ふわり、とその場が華やいだような気がした。。やわらかい空気が女の周りにだけ存在しているようだった。古巻はなんだか女のことが悪いようには思えなくなって戸惑った。しかし、すぐに母親の顔を思い出して顔を顰めた。
 年の頃は古月と同じくらいか、少し若いくらいである。30前後かもしれない。

「桔華」

 女の一歩手前でたちどまった古月が、親しげに話しかけた。ゆゑも、顰め面の古巻をつれて父の後ろに従った。

「元気そうで何よりや」

 女――桔華の言葉を待たずに、古月が次の言葉を口にした。
 ふと、桔華の頬も緩み、俄かに、しかし力なく微笑んだ。

「ただいま戻りました。古月さん、ゆゑさん」
「桔華姉さん、お疲れでしょう、でも桜花様も姉さんに会えるのを楽しみにしています」

 古巻はやはり、この女に何か違和感を覚えた。

「ゆゑ、ちゃうやろ、今の桜花は桔華のことや」
「まあ、父上ったら。たった今自分で姉さんの名前を呼んだではありませんか」

 桔華は微笑んだままである。その顔を、ゆゑの後ろにしがみついたまま古巻はじっと見つめていた。

「では、桜花様のことはなんとお呼びすればよいのです?」
「『先代様』や。のう、新しい桜花様」

 古月が話題を桔華に振ったところで、古月もようやく、古巻の存在を思い出したらしく、嫌がる古巻をぱっと抱き上げて、

「長男の古巻や。おまえが帰ってきたら一番に紹介したかったよ」

そういって、顔を綻ばせた。

 桔華のほうは「桔華です」と名乗り、古巻に手を差し伸べたが、古巻はそれを力いっぱい振り払って、その衝撃に乗って父の腕から開放された。そして駅の出口に向かって全速力で走り出した。後ろで古巻を呼ぶ声がしたが、気にも留めなかった。気がつくと、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだった。ゆゑがすぐに後ろから追いかけたが、生来病弱な彼女は、追いつくことができずにすぐに古巻を見失ってしまった。

「なんやなんや」

ようやくプラットフォームの入り口までやってきた古月は、突然の息子の反発に怪訝なそぶりを見せた。ゆゑはそこで苦しそうに息を弾ませていた。

「大丈夫ですか、ゆゑさん」

 桔華がいたわりの声をかけた。そしてその場に蹲っていたゆゑに手を貸して立たせると、ゆゑは桔華の耳元で「ごめんなさい」と呟いた。すると桔華は、

「それはこちらの方です」

と謝辞を述べた。疑問の視線をゆゑが桔華に送れば、

「あの子には、何か見えてしまったのかもしれませんね」

とぽそりとひとりごちて、今日はじめて寂しそうな目をした。
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

北条古巻(2)



「桜花」とは、短歌「桜花流」を受け継ぐものに与えられる、相伝名である。
 
 平安時代中期、国風文化の時代に出た、橘氏の桜花を発端として、代々弟子にその名前が受け継がれてきた。桔華はその38代目を8年前に継いだ。
 
 37代目の桜花――つまり桔華の先代にあたる桜花は、室町以来300年水面下に潜っていた「桜花」の存在を世に蘇らせた実力者で、明治後期、文学の勃興のなかで、短歌同人誌「のはら」の主催にあたって各界の賞賛を受けた。先代は桔華にとっては祖母にあたる。高齢のため部屋から出られない生活をしているが、その人柄と、現役時代の人脈から、一線を遠のいた今でも、先代最上桜花を訪ねる人間は多い。
 
 先代、北条桜花は本名を廉、という。廉は21のときに古月の祖父に当たる北条華王と結婚し、3男2女をもうけたが、徳川瓦解の際に幕府側についた長男と3男が死亡、長女も病気で死亡しているので、桔華は廉からすれば二女の娘ということになり、桔華と古月は同じ祖父母を持った従兄妹ということになる。


***


 どのくらい走っただろうか。古巻は気がつくとよく見知った場所にいた。

 古巻の自宅からすぐ近くにある友人の家・・・大きな日本風の家と、その門の中に見知った顔を見つけた。

「古巻さん?どうしたのです!」

 顔を真っ赤にして走りこんできた古巻を見て、その少女は驚きの声を上げた。

 古巻はそのまま少女の胸に飛び込んで嗚咽を繰り返した。少女の絣の着物が古巻の涙に濡れていく。古巻は必死で何かを伝えようとするのだけれど、涙と定まらない呼吸が邪魔してうまく表現することが出来ない。

「孝子、どうかしたのか」

 すると奥から少女の父親がやってきた。一緒に、古巻と同じくらいの男の子が走ってくる。古巻は、このどちらの顔も知っていた。

「たくま」

 自分のほうに近づいてきた男の子にそう呼びかけると、男の子のほうも「こまき、どうしたの」といって手を出した。

「おかあさんが、ないてるの、おとうさんは、ちがう」
「ちがう?」
「おとうさんは、きっかだから」

 ようやく落ち着きを取り戻し始めた古巻は、少女――孝子の胸から埋めていた顔を上げ、その父親の顔を見た。

「コウのおじさん」
「うん、よくきたね、古巻君。お父さんがどうかしたのかい」

 そういうと、『コウのおじさん』は古巻を抱き上げた。

「孝子、拓真、すまないが北条のところまでいってこのことを伝えてきてくれないかな、きっと心配しているだろうから」

 二人ははっきりと「はい」というと、孝子は拓真に「いこう」といって手をとって門の向こうへ駆けていった。

 『コウのおじさん』は、しゃがんで古巻に視線を合わせながら話しかけた。

「今日は彼女の帰ってくる日だね。あの人にはあったのかな?」

 古巻は頷いて返事をした。

「そうか。篠さんは、一緒には行かなかったんだね」

 古巻はさっきと同じように頷いた。一回、袖で涙を拭った。

「お父さんは、お母さんを、つれていかなかった。お母さんも、一緒に行こうとしなかったんだよ」

『コウのおじさん』は優しく微笑んでいた。とても柔らかで、そしてどこか悲しい顔だった。古巻は父、古月よりもコウのおじさんがお父さんだったらどんなにいいだろうと思った。

「父上」

 ふと後ろから孝子の声がして後ろを向くと、そこには古巻の母の姿があった。

「ああ、篠さん」
「申し訳ありません、舎人さん、この子が」

 そういうと、篠は淑やかに一礼をした。その一挙動には、はっとするような眩しさがある。

「ほら、よかったね古巻君、お母さんが迎えに来てくださったよ」

 古巻はじっと『コウのおじさん』――舎人の方を見、それから母のほうへ駆け寄った。母はいいにおいがする。
古巻は篠が大好きだった。

「どうやら、一人で帰ってきたらしいのですよ」
「まあ、どうして・・・」
「立ち話もなんですし、どうぞ」

 舎人は自らの家に、篠と古巻を招き入れた。
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

北条古巻(3)




 門を入り、手入れされた松や鯉の泳ぐ池を左右に見ながら、奥まったところにようやく玄関を見つけることが出来た。北条家は古月の代より流行りだした洋式の屋敷に住んでいるが、古巻としてはこっちの方が居心地がいい。

 春である。
 緑のにおいがひどく心地がよい。

 玄関をくぐり、耕三郎先導に篠、古巻、そしてその後ろに孝子と拓真が続いている。応接間につながる曲がり角で、孝子が前に出て、部屋の障子戸を開けた。

「今、お茶をお持ちいたします」

 そういって篠に頭を下げて、孝子は廊下の奥に消えた。古巻がぼうっと母の後ろで見ていると、

「せっかく来てもらったのなら、拓真、古巻君にあれを見せてあげたらどうかな」

 と父が言ったので、拓真はうれしそうに「はい」といって古巻の手を引いた。古巻が篠をみると、にわかに眼が緩んだのを見て行ってもいいんだと理解した。うれしかった。
 耕三郎は篠に席を進めると、自らも向かい側に腰を下ろした。畳のにおいがする。行き届いた部屋の管理。

「今、使用人が外出していまして」

 娘の孝子がお茶と菓子を運んできたので、耕三郎はそういって娘の至らなさをわびた。

「いえ、いつもながら感心いたします。とてもしっかりされたお嬢様で」

 孝子は、一礼してその部屋を去った。

「気が強くて男勝りで。あれでは嫁の貰い手もありませんね」
「そうでしょうか」

 耕三郎の家には、実質、長女孝子と長男の拓真だけが住んでいる
 奉公として働いている使用人の夫婦は、家のことをさまざまに手伝ってくれているが、実質この家を預かっているのは長女の孝子。
 耕三郎の妻、つまり孝子、拓真の母に当たる人物は、今から3年前に他界している。
 名前を朝重(ともえ)、といった。

 ふと、孝子が喧しい声を上げた。

「拓真!古巻さん!降りていらっしゃい」

 庭に出ると、桜の木の下で上に向かって叫んでいる孝子がいた。

「父上!拓真と古巻さんが」

 喧騒の孝子のいるところまでやってきて上を見ると、

「古巻に、あれをみせてあげるのです」

 と、上から声が降ってきた。木の上には、慣れた手つきでするすると上がっていき、途中で後ろを振り返り古巻に手を貸し、安定した場所へ誘導している拓真の姿があった。

 拓真の首には、真新しい双眼鏡が掛けられている。

「父上、何か言ってやってください!拓真!!」

 いつ弟が、そしてその幼馴染が地面に叩きつけられるかと気が気でない孝子は、必死で舎人を捲くし立てた。篠も心配そうに上を見上げている。

「拓真、今日はどっちの方角に見えるか、わかるか?」
「ええと、西北西です!太陽が南より少し左側にあるから」
「父上!」
「大丈夫だよ孝子、見ていてごらん」

 耕三郎は篠の方を向いて小さくうなずいた。すると今度は古巻の声がした。

「わあ」
「一番星だよ、よく見えるでしょ?」

 双眼鏡を手に、興奮した拓真と古巻の声が木霊する。孝子も篠もあっけに取られてしまった。
 
 耕三郎は目元を緩めてその木の上を見守っている。
 篠はそんなこどもたちの無邪気な姿を眺めつつ、その瞳に一抹の感情を入り混じらせていた。
 耕三郎は、その瞳の意味を理解している。
 しかし、これはあの男の問題なのだ。自分がしゃしゃり出る幕ではないことも承知している。
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

北条古巻(4)



 桔華が、先代桜花であり、自らの師匠でもある廉に帰還の挨拶に上がったのはその日の夜になってからのことであった。

 時は、今から10年前に遡る。
 桔華には、3人の姉がいる。
 
 上から八重、玉津、朔子という。桔華は4人姉妹の末っ子である。
 
 もともと「桜花」の名前は血で受け継がれるものではない。その代における「桜花」門下の中から、当代が認めた者が次の代を継ぐことになっていた。古来の伝統には珍しく、実力主義の世界である。
 
 さて、この37代目最上桜花、廉には30名ほどの門下生がいた。廉は寺子屋や塾のように人を集めていたわけではなく、京都の町の隅のほうに小さな庵を結び、そこで暮らし、発句していたところに彼女を慕う人間が集まって、その技法を学んでいたわけである。したがって門下、というのは少々語弊が生じるかもしれない。斉藤可六、吉瀬嘉といった後の文学界を担うような逸材も出入りしていた。廉の世間に対する影響力は、決して弱くない。

 話を戻そう。この4姉妹のうち、玉津と桔華は幼少の頃よりこの庵に厄介になっていた。

 玉津は女流独特の繊細で優美な表現、桔華は独創的で鮮烈な印象を残すことを得意とした。玉津の作品であるが、これは雑誌に掲載されるや否や各方面から賞賛を浴び、一時は桜花後継者最有力候補であろうと噂された。その後、少し遅れて桔華の作品も掲載される。発表された直後、大して気に留められることもなかった。しかし、この平凡な歌を、当の桜花は絶賛したのである。

「珠玉ですよ」

 ゆっくりと風にあおられた砂が空へ舞い上がるように、主に玄人の世界で桔華の歌は評価されるようになっていった。玉津は民衆に、そして桔華は歌界の常連たちに、それぞれ注目株としてその実力を期待させてきていたのであった。

 しかし、故あって桔華は、最上の家を、京都を出なければならなくなった。

「桔華、この家を出なさい」

 そういったのは、祖母、桜花だった。 
 そして紙と筆をとり、何かをサラサラと書きつけ、桔華の前に置いた。


 秋雅 咲き狂いにし 世の果ての いざたちゆかん 桜花往生


 桔華が京都を出たのは、しんしんと音もなく雪が降る寒い夜であった。


***


「答えをお聞かせ願えますか」

 暗闇から投げかけられた問いに、桔華は答えた。

「歌を、詠むためならば」

 そこで一度言葉を区切ったのは、この10年で自分が得たものと失ったものが、あまりにも大きすぎたからである。

 「私は、あらゆるものを厭いません」

 言い切った桔華に、桜花はすぐに返答をよこさなかった。暗闇の中にさらに闇と静けさが落ちて、何かに押しつぶされてしまいそうだった。それは自分自身の10年の成長と、変化と、そして、断ち切ったつもりでも断ち切ることがついにかなわなかったことへの、嫌悪でもあった。それを思うと、今ここで、すぐにでも舌を噛み切って死んでしまいたいような気持ちになる。何度、そう思ったことだろう。しかし、死ぬことは一時の苦しみ、生き続けることで苦しみ続けようと決めたのもまた、自分であった。

 「精進なさい」

 桜花はそれだけ言った。桔華も一礼してその場を後にした。

 廊下にでると、突き当りの角に人の影が見えた。こちらに気が付くと、その影はふと消えた。10年ぶりに京都に戻ってきて、出迎えてくれたのは従兄妹で幼馴染の古月だけであった。それが寂しいとか辛いというのではなく、ここはもう、とっくに自分の居場所ではないのだということを意味していた。
 
 ほんのりと電灯の灯った北条家の玄関を一人で出ると、そこには着流し姿の古月がいた。

「桜花様の御話はほんに、長いもんなあ」

 月明かりに古月はにやりとして、「祇園にでもいこ」と桔華の手をとり、ずんずんと歩き出した。

「こんな時間に?篠さんは」
「できた女房やて。心配ないよ」

 童心に返ったような古月の声は、静かな屋敷通りに木霊して、大阪弁と京都弁のごちゃ混ぜになったそのしゃべり口と相まって、桔華の心に直接響いた。

 「まってください!」

 ようやく引かれた手を掴んで古月の行く手を阻んだ。古月は驚いたような顔で振り向いた。始めてまともに見たその顔は、八年前の桔華の記憶の中の古月とまったく変らなくて、ずきりとした。

 「なんや」

 屈託の無い古月の言動は、愚直なほどに自分の女心に響いていた。そんなこの人が、ずっと好きだった。

「心配無い訳ないでしょう、古月さん、久しぶりにお戻りになられたのでしょう?」
「お前が帰ってくるって聞いたんや」
「尚更です。ご家族の有る身なのです。自宅にお戻りくださいませ」
「桔華、わいがどんだけお前に会いたかったか、この日をどんなに心待ちにしておったか、お前にはわからへんやろ」
「お戻りくださいませ!」

 思わず強く言ってしまって、桔華ははっとした。しまったと思った。本当は自分もとても会いたかった。古月の気持ちも痛いほど分かる。幼い時分から少なくない時間を、時には濃密な時間を共有してきたお互いの気持ちが、分からないはずなどない。まっすぐな物言いしか出来ないこの人は、当然のようにまっすぐと傷ついてしまう。

 しかたがないのだ。私たちは、

「もう、会いたくありません」
「なんや」
「所詮、私とあなたは同じ祖母を持つ従兄妹なのです」

 それは、自分に言い聞かせるために出た言葉だったのかもしれない。それは世間的に認められることの無い自分の感情に、区切りをつけられると思ったからであった。
 その考えは甘かった。自分に厳しくすればするほど、言い訳すればするほど、会えない時間の長いほどに、どうにもならなくなっている自分がいて、失望した。
 
 いっそ、篠が自分を正面から恨んでくれたら、もっと楽だったかもしれない。
 
 しかし篠は非常すぎるほどに優しかった。やがて二人の間にゆゑが生まれても、五つ年下の彼女は、自分を姉のように慕い、そのたおやかな振る舞いは女の自分にもはっとするようであった。自身の中の罪の意識が徐々に膨れ上がっていくのは明白だった。それでも正直な気持ちに抗えなかった。

 幼い頃より、最上の家の中で、当代の血を引きながらも妾腹の桔華は、ほぼ使用人同然の扱いを受けた。途中で才を見出してくれた先代桜花と、従兄妹の古月だけが、桔華に居場所を与えた。

「近いうちに、東京に移ろうと思います」

 古月は、桔華の手を握ったまま聞いていた。

「知り合いも出来ましたし、ほとんど場所も決めているんです」

 口を開こうとした古月に、畳み掛けるように言った。

「もう、ご迷惑はおかけしませんから」

 古月の表情は見えなかった。ただ次の瞬間に、強く引かれた手の勢いで、桔華は古月の胸に落ちた。

「桜花様、なんか言っとったんか」

 もう何度も感じた居心地のよさであったが、流れた年月か、少女のように胸が動悸を打っていた。

「精進せよ、と」

 ようやくそれだけ搾り出すと、古月は桔華を抱える腕に力をこめた。

「ずうっと、心配しとったんやで。桜花様も、わいも。篠だって。帰る場所なら、ここにあるやんか……」

 昼間、古月の息子にあからさまに嫌われたとき、自分の心の中を読まれたのだと思った。この人の知らない10年間。人間の業というものを、嫌というほど体感したこの身は、純粋なあの子には化け物のように映ったのかもしれない。

 古巻さんの瞳が、残してきたあの子のように見えたから・・・。

 それでも今、この瞬間に幸せを感じてしまっている自分に、ああ、ほんとうに救われないなと思った。
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

北条古巻(5)

 ***


 舎人拓真は、幼い頃父に尋ねたことがある。

「母上は、どちらにいらっしゃるのですか。」

 すると、夜の空の北を指差して、父は応えた。

「動かないように見える星だけど、本当は毎日毎日星の場所は変っているんだ。だけど、あの星だけは絶対にあそこから動かない。それは亡くなった人達がみんなあそこにいて、生きている人のことをずっと見てて、危ないことをしないように守ってあげているからなんだよ」

「たくまは母上の顔を知りません。それでも母上はたくまを守ってくださるのですか」

 父は微笑みながらうなずいた。拓真は「母上!」と叫んで北の星に向かって手を振ってみた。すると、近くで星が流れた。

「あっ」

 母上さまが返事をしてくれたんだ、拓真はそう思った。
 それ以来、夜が来るごとに拓真は星を見続けている。



 古月のおじさんが中国大陸から帰ってきたという知らせが舎人姉弟に届いたのは、桔華帰郷の三日前のことだった。それを聞くなり、孝子も拓真も駆け出して行って、北条家の西洋風建築の門をくぐり、よく見知った顔を見ると飛びついていった。

「古月のおじさま!お帰りなさいませ!!」

 そういって孝子が古月の腰にぴったりくっつくと、拓真ももっと低いところで同じようにしがみついて、真上にある古月の顔を見た。

「お嬢、ぼん、ひっさしぶりやのう、元気にしとったか?」

 自分の子息のように親しげな口調で二人を抱きかかえると、「お、重たくなったなあ」と嬉しそうな声を上げて、ひょい、と後ろの若い男に顎で促した。
 男は二つの箱を持ってきた。それを見た古月は二人を按配地上に降ろすと、青い包装の箱を拓真に、赤い包装の箱を孝子に渡した。

「上海の店で見つけたんや、あけてみい」

 拓真が青い包装の包みをあけると、真新しい双眼鏡がしゃんと収まっていた。本でしか見たことが無かったその実物に、声も上げずに拓真は古月の顔を見た。

「ぼん、星が好きなんやろ?」

 ぱっ、と表情を明るくして「こまきは?」とそこにいない当の息子の姿を探していたら、綺麗に等分されたカステラを持ったゆゑとグラスを盆に四つ携えて、篠が歩みよってきた。

「古巻なら桜花様のところにいくと言っていましたよ」

 とゆゑは拓真に教えた。拓真はたった今自分の宝物となったこの双眼鏡を今すぐ大事な友達に紹介できなくて残念だった。

「ちゃんとお礼は言ったのかな」

 と後ろから来たのは、白いワイシャツ姿の舎人耕三郎であった。孝子も拓真も声をそろえて「ありがとうございます」と古月に向かって深々とお辞儀をし、篠に促されるままにテラスの椅子に座ってカステラを食べ始めた。

向こうの4人とは離れたところに、古月と耕三郎は座った。




「いつ帰ったんや」

「一週間くらい前かな。まさかお前と帰国の時期が重なるとは思わなかった」

「わいも、五日後には戻らなあかんのや。久しぶりの京都や、ゆっくりすることもかなわんとは」

「そんなに忙しいのか」

「聞くまでもあらへんやろ。そっちが忙しいからこっちも忙しいんや」

 一呼吸置いて、古月も問うた。

「お前は、いつまでこっちにおるんや」

「白河川さんから連絡があるまでだよ。これからもっと忙しくなるだろうから、今のうちに子供たちの相手をしてやれ、と」

「そうか、あんたんとこの陸軍元帥さんは随分とお人よしなんやな」

 耕三郎は答えなかった。視線の先で、ゆゑが拓真の口に付いたカステラを拭っていた。孝子は楽しそうに篠と何か話しをしている。微笑みながらその一つ一つに相槌を打ってくれる篠に、耕三郎は心から感謝していた。

「なんや、えらい痩せたな」

 いきなりそんなことを言われて、驚いて古月の顔を見たら、当の本人はお構い無しで耕三郎の手首を掴み、「うわあ、これは男の手首や無いで」と本気で驚いた声を出した。

「ちゃんと食っとるんか、耕」

「日常生活が維持できる程度に栄養が取れていればいいんだよ」

 例の、力ない笑い方で古月に微笑んで、視線を再び篠に戻せば、「早すぎたよなあ」と、古月がひとりごちた。

「早すぎたよなあ。朝重はん」

「ん、」

「まだ、母親の恋しい年頃だろうに」

 そうだね、といって、次の言葉が見つからないので、思わぬ沈黙になってしまったが、耕三郎は久しぶりに平和な気持ちで、自分の愛した人のことを思い出した。

 こんな穏やかな木漏れ日の日であったとあとで聞いた。
 
 知らせを受けたとき、耕三郎は大連の軍司令部にいて、先のポーツマスに関する先方書類を内地中央に発信すべく、タイプライターを叩いていた。部下が自分宛の書状を持ってきたが、個人名義であることを確かめると、公務が先と封も切らずに机の中にしまいこんだ。それから、1ヶ月も過ぎた頃、思い出して机の中の隅に置かれた手紙の封を切ってみれば、自分の母親からの手紙だった。

 妻が死んだと、ただそれだけが簡素に書かれていた。

 それでも日本に帰れたのはもう少し後の話で、どうにか休暇をこじつけて京都の実家に帰ると、すべてが終わった後だった。印象に残ったのは、5歳になったばかりの娘が、あまりにも大人びた顔をいていたことだった。

 「おかえりなさい」と久しぶりに帰った父に頭を下げた。横にはそんな姉に付き従う3歳の拓真の姿もあった。「拓真、挨拶。」と姉に言われると、きちんと膝を突いて、頭をつけた。
 自分の母親の最後を、涙一つ見せずに帰ってすらこなかった父に話し、隣で拓真がこくり、こくりと眠たそうにすれば、「お待ちください」と拓真を寝かしつけに行く。それはもう姉というよりは母に近いような、そんな孝子の振る舞いだった。

「朝重を看取ったのは、孝子ただ一人だったそうだ」

 けったいな話やな、と古月は相槌を打った。

「俺は中国にいたし、母はちょうど出ていていなくて、拓真はまだ物心付く前だからな。朝重に最後に何を言われたのか・・・、本当に、あの子たち、とくに孝子には申し訳ないと思っているよ」

 先ほど篠も入れてくれたハーブティーを口に運びながら、耕三郎は言った。

「こうやって、あの子達の相手をしてくれる篠さんや、ゆゑや、古巻君には、言葉も無い。」

 ありがとう、と口にすれば、古月もふ、と笑いながら言った。

「なんや今更。あの子達がめったに帰ってけえへんぼんくら親父にほったらかされてるのがかわいそうであかんと、わいらの娘息子にしたろって狙ってんやで?」

 冗談じゃない、と男二人で笑えば、「何笑っているんですか、父上!」と孝子の声がして、見やればこぼれたカルピスを頭からかぶったらしい孝子が、三人の笑い種になっていた。「いやあ、派手にやったね」と後始末の手伝いに立ち上がった耕三郎の後ろから、古月がトーンを変えた声をかけた。

「『シャオジエ』が夫と離縁したらしい。これはホンマにあの男、わいらを敵に回すつもりかもしれへん、気ぃつけや」


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

北条古巻(6)

 古巻があの日以来元気が無い。

 そこで、拓真は夜、こっそりと古巻を連れ出すことにした。
 
 古巻の部屋は洋館の二階にある。しかしその窓のすぐ横に大きな木が立っていて、がっしりとした枝がその窓のすぐ横まで伸びていた。拓真はその木を上り、こんこん、と古巻の部屋の窓を叩いた。
 
 三回くらい叩いたところで、小さくカーテンが引かれ、古巻が眠たそうな顔を覗かせた。

 窓の外の拓真を確認すると、静かに窓を開けた。古巻が問うまでも無く、拓真が「いこう」と誘ったので、古巻は箪笥から上着だけを引っ張り出して、寝巻き姿のままで枝に飛び移った。二人はするすると木を降りて、北条家の大きな門を通りぬけ、いつも向かう丘の上の大きな樫の木を目指した。古巻は裸足だったが、むしろぺたぺたと足の裏が気持ちよかった。

 母が、寂しそうな顔をしたのはあの日だけで、それ以降はいつもの母だった。

 あの夜、父は夜遅くに帰ってきて、偶然厠に行くためにおきた古巻は、帰宅後に母と話す父を見た。

 母は、いつものままだった。父も、悪びれた様子は無い。

 でも父は酷く疲れた様子で、母の差し出した飲み物もいらないと断っていた。何事も無かったように父は自室へ引き上げていき、母もそれに従った。

 気のせいだったのだろうか。母のあの顔は。

 何度もそう思ったが、あの女をはじめてみたときに違和感と、女を目の前にした父の様子を思い出すと、腹の底から怒りがこみ上げてくるのだった。やりどころの無い怒り。ここ数日、拓真と遊んでいてもたまにそのことを思い出しては、どうしていいかわからなくなるのだった。

 三回目の角を曲がったときに、後ろから声をかけられた。古巻はびくっと肩を震わせ、動けなくなった。こんな時間に子供だけで出歩いていたら、怒られる。すると前方の拓真が古巻を庇うように前に出て、無言で声の主の様子を伺った。

「姉上」

 月明かりの下に出てみれば、確かにそれは姉の孝子であった。孝子のほうも、寝巻きに上に羽織物の姿で、息を切らしているところを見れば、後ろについてきていたのかもしれない。

「こんな夜に、あなたたちだけで危ないでしょう?」

 自分の上着を拓真に強引に着せ、抑えた声で二人を叱り飛ばした後、「どうしてこんなことしたのですか」と拓真に問い詰めた。

「こまきが、元気なくて・・・」

 ふう、と大きく肩で息をついて、孝子は幼い二人を見た。「でも、ごめんなさい」と頭をさげる拓真に、

「もう黙って出てくるようなことはしない、いいですね」

 といって、ぽん、と頭を叩いた。

 帰らなければならないのか、と古巻が期待を萎ませていると、孝子は自分の履いていたものを古巻に履かせ、

「さあ、私も連れて行ってくださいな。」

 と、弾んだ声で言った。拓真がどうしていかわからないような顔をしているので、古巻が分かったとばかりに

「こうこさんに言ったから、黙って出てきたわけじゃないよ、たくま」

 と捲くし立てた。

 齢千年を越える大木は、千年王城の都、京都では珍しいものではない。その中でも拓真と古巻が遊び場に利用しているこの樫は、地元の人々からはご神木として崇められていた。それほど霊験すら感じさせるような大きな木だった。その木のある丘に駆け上り、大樹の下に並んで座って、拓真は持ってきた双眼鏡を取り出して中を覗いた。いつもどおり「北の星」を見つけると、古巻に双眼鏡を貸し与え、「北の星」を指差してった。

「北極星って言うんだって。」

 ホッキョクセイ?と、聞きなれない言葉に古巻が聞き返すと、地球にはそれを中心に自転している地軸っていうものがあって、その延長線上にあるから、ずっと動かないように見えるんだよ、と、拓真が説明した。

「本で読んだ」

 なんだかよくわからないけど、すごいんだとおもった。双眼鏡からはずしていた目を再び二つの穴から覗き込ませると、いままで見えなかったところにたくさん星が見えてきた。

「もうすぐだ」

 あっ、と先に声をあげたのは孝子だった。みて、あれ!そういわれて古巻は示された方角の空を見たけれど、変わったものは何も無かった。

「古巻さん、ほら!」

 真上を見た。すると樫の枝と枝の間から、何かがたくさん落ちてくるように見えた。

 三人は樫の木の下から這い出て、三百六十度の夜空を見た。次から次へと星が落ちてくる。古巻も孝子も喚起の声を上げながら、ぐるぐるととめどなく流れる星を見ていた。

「きえちゃった星は、どこに行くの?」
「まって古巻さん、星はどこから来るのかしら?」

 そうだわ、私、聞いたことがありますと孝子が切り出した。

「流れ星に願い事をすると叶えてくれると先生がおっしゃっていたわ」
「何でもいいの?」

 古巻が聞けば、孝子はただし、と加えた。

「消えてしまうまでに、三回言わなければならないそうよ」

 そういうと、孝子は目を閉じて手を合わせた。拓真もその場に座ってじっと流れる星を眺めている。古巻は自分の願いはなんだろう、とちょっと考えた後、孝子をみならって目を閉じて手をあわせた。

 お母さんが、元気になりますように。

 しばらくして目を開けると、流れ星は一つとして見えなくなっていて、空は静寂を取り戻していた。孝子が残念そうな声を上げている。拓真はさっきのまままだ夜空を眺めていた。

「何をお願いしたの?」

 孝子にそう問われて、答えようとしたら、「あ、だめです」と自分で制してしまった。

「言ってしまっては、叶うものも叶わなくなってしまうそうなので」

 なんだか、お願いするのはいろいろ難しい約束があるんだな、と古巻は思った。拓真はまだ空を見ていた。孝子が帰りますよ、と声をかけるまで、拓真はずっと動かなかった。

「こまき、げんき、でた?」

 現世に戻ってきたようなうつろな目で拓真は古巻にそう問うた。古巻はうんとうなずいて、お母さんが元気になるなら毎晩星にお願いをしようと思った。


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

京、木漏れ日々(1)

 ***


 耕三郎が東京・市ヶ谷にある陸軍の参謀本部に出頭したのは、梅雨の季節が終わる頃であった。

 それまでは、本部のお達しで京都の自宅から通える程度の近距離にある地方練兵場でたまに顔を出していたが、自分の一任で中国・東三省の軍閥の動向を探るように派遣していた部下が帰ってくると連絡をよこしたので、長い休暇を終えることとなった。
 
 朝早くに出なければならず、孝子や拓真に別れの言葉も残せないと使用人に告げていると、眠たそうな目をこすりながら孝子が拓真の手を引いてつれてきて、

「お気をつけて、いってらっしゃいませ」

 と、丁寧に頭を下げた。拓真も、こくりこくりしながら姉に従った。

 耕三郎は二人の頭をなで、「おばさんに迷惑をかけないように」と優しく諭し、住み慣れた家を後にした。

 東京に向かう汽車の中で、この三個月ですっかり平和ボケしてしまった頭を何とか非常時に切り替えようととめどなく懸念事項をまさぐっていた。先に首相になった西園寺をよく思わない陸軍の首脳クラスが、陸相を出す出さないでもめているということ、派兵するだけの戦力もまともに持たないというのに、中国東北部の鉄道警備隊を増強するということ、六年前にほぼ時流になったような形で結んだ日英同盟のおかげで、火種のくすぶっているヨーロッパ方面の戦争に巻き込まれるかもしれないということ、そしてその混乱に乗じて、ドイツ領の委任統治を日本が狙っているということ・・・。
 
 わかってはいても、なんだか遠い世界の話のような気がして、ぱっとしなかった。世界ばかり見ている。日本内部の話がまったく無いではないか。国内の基盤なくして、開国せいぜい五十年の島国の出来ることなどたかが知れていように。自分の謙虚なまでの現実思考に半ばあきれながら、仕官学校時代にある将校が言っていた言葉を思い出した。

「富める国は、兵が強くなくてはならない」

 反吐が出そうだ、思わずそんな意味の言葉を漏らしたら、「ああ、日本にはまだまともな精神をもたれた軍人がいたのですね」と、隣にいた白河川元帥が頷いていた。

「それは教官ですか、それともわたしですか」

 答えは明白だろうと、そう確信して聞いた問いではあったが、白河川は曖昧に微笑むばかりで「皮肉なら、よそでお願いします」とその場を後にしたのだった。
 
 無能な上官に付き合ってられるほど、私は暇ではない。

 それは白河川に向けた言葉ではなく、自分が見てきた数々の「愚将」に手向けた、確信だった。




「舎人中佐」

 聞き覚えのある声に、自分の執務室へ向かう廊下の途中で振り向けば、久しぶりに見る懐かしい部下の顔があった。


「やあ、黒澤」

 第二種のカーキ色の軍服に身を包み、背筋を伸ばしてそこに立っていた黒澤修吾は、以前に見たときよりも体中から逞しい気を発するような、雄雄しい青年だった。耕三郎が体ごと振り返ると、黒澤は「お久しぶりです、ただいま帰還いたしました」と脱帽して上官に敬意を表し、敬礼の後に、耕三郎の出した右手を握り返した。

「ご苦労だったね、大変だったろう」

耕三郎は、執務室の扉を開けた。



 このころ、中国大陸では、大陸分割とも言える権力勢力図が完成されつつあった。

 1911年に孫文が「三民主義」を唱えて、一応形ばかりの「中華民国」は成立したものの、清朝最後の皇帝、宣統帝溥儀はまだ北京の紫禁城の中にいたし、袁世凱が臨時の大統領に就任しても、それをよく思わない連中が彼を引き摺り下ろすといった事件もあったりで、とても統一国家の様有は見出すことが出来なかった。それをみこしたヨーロッパ各州が1898年に清が日本に負けたあたりから中国大陸の分割に乗り出し、日本もそれに倣って中国の東北部に鉄道を敷設する権利を、当の中国の以降を無視して、ロシアと協定を結んだのだった。こうした祖国の状況に鑑み、地方の有力者たちは独自に軍隊を編成し、「馬賊」とよばれる戦闘集団を形成していった。この馬賊が、大陸進出を目論む日本軍との対立を、徐々に深めていったのである。



「張作霖ですね」

 チャンツォリン、と黒澤は言った。

「華南の馬(マー)や、内陸部の趙(チャン)も大分大きくなってきましたが、張は北方に進出を考えている節がありますから、最前の懸念はこの男かと思います」

「政府は義和団以来の強硬姿勢を崩していない。地方豪族の相手をしている暇などないだろう」

「段祺瑞ということですか」

「王克敏という線もある」

 ワンコーシェン。辛亥革命後には段の直隷派軍閥の一翼として活躍している男であったか、と黒澤は記憶まさぐった。しかしその知名度は内外に広くはない。まさかこんな男の名前が出てくるとは、と、耕三郎の思慮深さを改めて思い知った。舎人はしばらくダンマリを決めた後、つぶやく様に黒澤に問うた。

「・・・黒澤、お前は梁続山という男を知っているか」

「リャン・・・?」

「いや、ならいい」

 耕三郎はすぐに遮り、立ち上がって陽の入る窓の外を見た。

 耕三郎は、声を低くしていった。

「『シャオジエ』が、夫と離縁したそうだ」

 後ろで、黒澤の感情が大きく動いたのが、耕三郎にもよく分かった。

「彼女の父親の経営していた公司を、あの男は元手に新たな貿易会社を立ち上げるつもりらしい。『シャオジエ』の方は・・・、彼女の一族唯一の生き残りとなってしまったからな。のこった人員をかき集めて、父親の公司を立て直しているとのことだ」

「あの男は、何を」

「議論するまでもない。あれが狙いだろう」

 耕三郎は、振り返ると上官として黒澤に下名した。

「黒澤、なんとしてでも守り抜いてくれ。これから行き場を失うであろう日本に、あれは必ず必要となるものなのだ。一個人でもって私欲に利用することは、言語道断。」


 黒澤は威厳をただし、承った。
 
 あんなものを守り抜け、とは。いつになく厳しい表情の自分の上官の顔をみながら、大変な事実をこの人と自分は共有してしまったのだ、と悟った。


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

京、木漏れ日々(2)

 ***

 
 昼下がりに篠が和菓子を手に訪れたとき、桔華は庭の水撒きをしていた。

「篠さん・・・」
「桔華姉さん、お久しぶりです」

 篠はそういって、はっとするような所作で頭を下げた。

「仮の住まいでしたら、うちを頼ってくださればよかったのに」

と、小さなたたずまいのおとなしい感じの部屋を眺めながら、お茶を運んできた桔華に篠は言った。

「お部屋代だって、馬鹿にならないでしょう?」
「ええ、でも最上の家にいるわけにはいきませんし、それなら当然、親戚である北条家にもご迷惑はかけられませんから」

 それに、すぐに引き払うつもりです。といった桔華に、そんなこと、と篠は続けた。

「そんなこと、古月さんがどうにでもしてくれますよ」

 篠の言動には深い意味はなかった。ただ、本当にそうすればよかったのに、と心の中から思っているのだ。

「ゆゑだってよろこびますよ。今日だって、来たいって言っていたのを、遠いからといってようやく置いてきたのですから」
「しかし、よく分かりましたね、ここが」
「骨を折りました。本家に行っても知らないといわれるし、古月さんには聞く前に仕事に行かれてしまいました」
「・・・きっと聞いても分からなかったでしょう、だって誰にもここの場所を教えていませんから」

 桔華はそういうと、座敷の前に広がるこじんまりとした庭を見た。

「もう、大分紫陽花も終わってしまいまして」

 篠は自分も見たかった、と告げた。

「ゆゑさん、前あったときは今の古巻さんくらいでしたか。ずいぶんお姉さんになりましたね」

 少々の沈黙の後に、篠は口を開いた。

「古巻がご迷惑をかけたらしくて。ごめんなさい」
「あ、いえ、確かに、いきなり声をかけられたのでは驚きもするでしょうから」
「あの子、」

 何を考えているのか、たまに分からなくなるのです、と篠は言った。

「男の子だからではないのですか」
「そうでしょうか、親の私が言うのもおかしい話なのですが、感受性が強いというのでしょうか・・・。じっと、何かを見ているかと思えば、急に何かを察したように私のところにきたりするのです。あと、どうも父親が苦手らしくて」
「古月さんを、ですか」
「ええ。先日帰ってきたときも、まともに顔も合わせようとしなくて」

 駅で古巻が自分に見せたあの目を思い出した。あれは、子供ながらに何かを察している目だった。

 純粋で、まっすぐな目。底知れない感情をその小さな二つの眼に凝縮したような、独特の光を放っていた。それは自分を見据える先代桜花のそれであり、帰る場所ならここにあるといった古月のそれでもあった。

 北条の目、か。

 力を持つものに特別に与えられた、見たいもの以上に自分たちには見えないものまで見えてしまう、諸刃の刃だ。

「桔華姉さん、古月さんは、笑っていましたか」

 ふと、篠にそう切り出されて、桔華は言葉に詰まってしまった。

「あなたが帰ってくるっていうんで、あの人、本当に嬉しそうで・・・。いつも仕事も大変ですし、楽しみといえば、あなたとの昔話をお酒を飲みながら話すことですから」
 
 私、嫉妬しているんですよ、と篠は穏やかに言った。

「私も、古月さんも、好きですとかそういう感情を一切関係なく夫婦になりましたから。確かに、今の私にとって、あの方はとても大切な方です。それは間違いありません。だからこそ、私はあの方には笑っていてほしいのです」

 桔華は、聞けなかった。彼は家の中では笑わないのか、と。おそらく、子供たちの前ではいい父親なのだろう。実際古月親子が4人そろえば、どこから見ても幸せな家族そのものである。篠の口調では、夫婦仲はやはり円滑に行っていなかったのか。

 いや、違う。桔華は咄嗟に思った。

「違います、それは」
「え?」
「違うんです、あの人は」

 話の辻褄が合わずに、相槌で返した篠に、桔華は諭すように言った。

「あなたたちは、お互いに気を使っているんだ、お互いが・・・大事だから」

 わからない、という顔をした篠に、桔華はさらに続けた。

「大事なのでしょう、古月さんが」
「でも・・・、あの人は、本当は、あなたと」
「古月さん自身も、あなたがそう思っていると思っている。でも、あの人は正直な人です。嫌な人間と、ずっと一緒にいられるような、器用な人間でもありません、それは私が保証します」

 傲慢な言葉だ。そんな気がしたけれど、初めて篠に嫉妬している自分に気がついた。

「古月さんも、あなたに幸せでいてほしい、自分があなたに気を使えば、あなただってそれに気がつくでしょう? あなたに変に辛い思いをさせたくない、そう考えたから、古月さんは私を隠すようなこともしなかった、無理してあなたの前で笑うこともしなかった、違いますか?」

 返事はなかった。

 篠は小刻みに震えていた。やがて嗚咽が聞こえ始めると、一言、「ごめんなさい」とつぶやいて、白いハンカチを取り出した。

 不思議と穏やかな気持ちだった。今、ようやく彼の心情が分かったような気がして、その中にいたのが自分ではなくて、篠であったのだと理解したはずなのに、いままでの後悔や嫉妬、罪悪などは微塵も感じなかった。

 桔華は篠の肩を抱いて、言った。

「もう、苦しまなくていいのです。幸せになってください」


 初夏の心地よい風が、夕暮れの部屋に吹きぬけた。
 篠はしばらくの間、桔華の腕の中で泣いていた。


***


 夕暮れ時、古巻はというと、先代桜花のところにいた。

「今日は、拓真とかくれんぼをしました」

 そんなことを、古巻は一人で延々と語っているのである。
 今日は、聞きたいことがあるのです、と古巻は言った。

「なんでしょう」
「桜花様は、もう桜花様ではないって、そんなこと、ないよね桜花様」

 桜花は、その独特の包み込むような口調で、答えた。

「古巻、何かが始まるのならば、それは終わりを迎えるということなのです」
「終わり?」

 桜花は、もうほとんど見えていない目を古巻に向けて、「そこの縁側に」とうつろに指差した。
 古巻が指示された場所を見やると、そこにはもう動かない蝶が羽を広げて落ちていた。

「生まれるということは、死ぬということ」

 ふわり、と風が吹くと、ほとんど重力をかえさない魂の抜けた蝶の体がひらりと舞い上がり、土の上に落ちた。
 古巻はそれをどきどきしながら見ていた。風に舞い上がった蝶が、今一度、桜花の言葉で蘇ったのかもしれないと思ったからだった。
 落ちた蝶はもう一度風に吹き上げられ、庭の池の中に落ちた。後ろから桜花の声が重なった。

「そして終わりは、新たな始まりなのです」

 蝶が水に揺られるのを見ながら、古巻は「あの女」の顔を思い出した。

「あの女が、始まるの?」
「そして、私は終わるのです」
「桜花様、死んでしまうのですか!」
「そうではない。けじめなのです」

 桜花の言葉はいつも難しい。だけど桜花の言っていることはどんなことでも正しいのだと古巻は思っている。

「あの女は、嫌です」

 そんな古巻の心情を、桜花も分かっているので、

「わたしが、彼女を選んだのですよ」

と付けた。古巻は困った。桜花の言葉は正しい。でもあの女は正しくない。
 言い返したいけど、桜花に口答えは出来ない。あの女は許せない。がんばっていろいろ飲み込もうとして苦渋が顔前面に出ている古巻に、桜花は「おいで」と言った。
 古巻は嗚咽を必死でこらえ、涙を袂でごしごしとこすりながら桜花のひざに座った。
 大きくて繊細で、でも長い年月を感じるような刻み込まれたしわだらけの手が古巻は大好きだった。頭をなでられるとどうにもたまらなくなって大声で泣き出してしまった。

「いやだあ、桜花様いやだあ」

 自分のなかでも何がなんだか分からなくなってしまっていた。だけど一つだけ確かなのは、今自分を包み込んでくれている桜花様がいなくなってしまうことだけは、何が何でも嫌だということだけだった。

 桜花様は桜花様だ。ただ一人だけなんだ。


 わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁露に わが立ち濡れし


 朗々と、歌うように万葉集を読み込んだ桜花も、言い訳のように一言、

「いえ、わたしの袖も、あなたの涙に濡れてしまったということですよ」

と、漏らした。


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

京、木漏れ日々(3)

***


 俄かに、北条家が騒がしくなった。

 古月が予告も無しに帰ってきたかと思えば、毎日毎日古月に面会という客がやってきて、篠もゆゑも接客にてんてこ舞いであった。使用人もフル動員で、朝から晩まで始めてみる顔の相手ばかりしていた。

 8月の始めのことであった。

 夏休みなので学校もない。家では父始め姉も母も古巻をかまってやれず、そんなわけで古巻はほぼ毎日拓真か孝子とともにいた。孝子の習い事がないときは3人で川辺に行ったり、また、この夏からは剣術の道場に3人で通い始めた。

「こうこさんもやるのですか」

と、古巻が問えば、とうの本人は、

「これからは、女だって強くなければなりません」

といって、男顔負けに竹刀を振り回す日々を送っていた。
 剣術をしたいと言いだしたのは古巻だった。最近は調子が悪いらしくて桜花に会えないでいるが、体調を崩す前に、桜花が

「剣術は、武士の誇りなのです」
 
 といっていたことを思い出して、自分も始めようと思ったのだった。桜花が回復したら、武士である自分をほめてくれるかしらと、そう思えばきつい稽古にも耐えていけるのであった。
 最初に頭角を現したのは拓真だった。相手をじっと見据え、自分からは動かずに向こうの動きの隙を突く、そう師範代から評価されていた。孝子も古巻も、拓真に負けじとその才能を開花させていった。
 日が暮れる頃に稽古が終わり、竹刀に稽古偽を引っさげて三人で帰宅の途につくと、きまって古巻を迎えに来る、若い無愛想な男がいた。
 いつも、舎人家の正面玄関のある道に曲がる一つ前の角の隅に立っていて、古巻の姿を見ると、きまったような礼をした。すると古巻のほうが、「帰るね」といって男のほうへ駆けてゆく。黒いすらっとしたズボンに、白いシャツ、その上からねずみ色の上着を着ていた。身なりはしっかりしていたけれど、孝子も拓真も一度もその男が話すところを見たことがなく、明日古巻に聞いてみようということになるのだけれど、そのたびに忘れてしまうのだった。

 お盆も過ぎた頃、稽古が休みの日に、3人は北条家の敷地内で遊んでいた。

 北条家の敷地は、異常に広い。舎人家も狭いほうではないが、日本庭園を意識しているために木や池や石などが配置してあるので、広さを感じない。一方古巻の家はがばっと開かれた門から玄関に続く中央の大通りの横に計算されたレンガのガーデンに色とりどりの花、テラスには白い椅子や、車が何台も止められるようなスペースと、時代を何年も先取りしたようなつくりになっている。
 しかし、その裏にひっそりとたたずむ、場に明らかにそぐわない古い江戸の蔵屋敷のような建物がある。ここは古巻も使用人も決して近づいてはいけないと古月からきつく言われている場所であった。

「なのにね、昨日たくさんの人が、おっきい荷物をいっぱい運んできて、あの中に入れたんだよ」

 そう話すのは、古巻である。
自分や姉は近づくことすら出来ないのに、見たこともない人たちが大勢であの蔵の中に何かを入れていったのだ。

「しかも、真夜中に」

 興味深げに拓真と孝子は古巻の話を聞いていた。そんな大切な場所に、人目に付かないような時間に一体何を入れたのだというのだろう。3人の好奇心は、見る見るうちに膨らんでいった。

「見に行きましょうか」

 と、はじめに言ったのは孝子だった。顔を上げた拓真は「いいの?」という目を孝子に向けていたが、孝子はにやりと笑って、肝の据わった目で古巻を見据えて諾否を問うた。

「行く」

 古巻は大きく深呼吸をして答えた。腹を決めた、という風である。「さすが古巻さん」と孝子もその覚悟に敬意を評した。

 決行は、今夜。


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

京、木漏れ日々(4)

 日付が変わる頃、北条家の門前に、何台も車が停まり始めた。

 車から降りてくる男たちは、みな両手に大きなトランクケースを携えている。門前には例の無愛想な若い男がいて、一通り車から客人が降りたところを確認すると、門を開き、中の蔵へと案内した。

 横の茂みに隠れているのが、三人である。

「そうだ、古巻さん、あの男の人は」
「桧山の事?」
「檜山?」
「お父さんが、中国から連れてきたんだって」

 古巻の声が少しくぐもった。そういえば、古巻は父親との楽しい話をあまりしない。
 一行が蔵の方へと移動したので、3人ともこっそりと蔵の近くに移動した。
 慣れた手つきであの無愛想な男―――桧山が鍵を開け、重たい門が開かれる。中にぞろぞろとトランクケースの男たちが入っていき、彼らが出てくるときは両手には何も持っていなかった。
 最後の男が出たところで、桧山がいったん姿を消し、変わりにいつも挨拶をしてくれる北条家の使用人の男が、何かを男たちにつぶやいていた。男たちは使用人の言葉を聴き終えると、自分たちの乗ってきた車のほうへと歩き出した。
 その瞬間に、拓真はぱっと、茂みから飛び出して蔵の入り口に向かった。「拓真っ」と孝子も追おうとしたが、使用人がこちらを向いたので古巻が孝子を押さえ込んで再び茂みに戻った。

 二、三回頭上を電灯の明かりが通過した。すぐ後に静寂が来た。

 孝子と古巻はそっと頭を上げた。あたりに拓真の姿はない。使用人が蔵の中にいるであろう桧山に何かを告げ、自分は屋敷へと戻っていった。

「拓真、あの中にはいったのかなあ」
「そうかもしれませんね、いってみましょう」

 歩みだした瞬間に、蔵の中から大きな音がした。
 


 つい、飛び出してしまった拓真は、何事もなく蔵の中に入ることに成功していた。
 あの厳重なトランクは無理でも、無造作に積まれた荷物に布がかけてあるだけのこれなら、中を見られるかもしれない。
 
 前方に桧山の姿が見えた。言ったり来たり、荷物を確認しているのだろう。

 桧山が後ろを向いたのをしっかりと見届け、靴の音が遠くなったのを感じてから、自分の背より高いところにあるものを見たいために、近くにあった箱を踏み台に、届いた布にてをかけた。ひらり、とめくってみると黒い、ごつごつした物体が夥しいほどの量とともにそこにあった。

 いけない、と思った。
 これは、銃だ。

 拓真の気が緩んだ一瞬だった。桧山が「誰だ」とランプをこちらに向けた。驚いた拓真はそのままバランスを崩して後ろに倒れた。
 ごつ、と何かを頭に押し付けられて、ゆっくりと目を開けたら、桧山が自分の頭に銃口を向け、引き金に指をかけていた。拓真は何が起こったのかわからなかったが、これはとても危ないのではないかと思った。

 きちゃだめだ、姉上、古巻。

 そう思った次には、自分の名前を呼ぶ二人が、蔵の入り口に姿を現しているのが分かった。桧山は気付くより早く、拓真の頭に押し付けていた銃口を入り口に向けて二発、打った。甲高い銃声が蔵の中に響いた。暗闇の中、咄嗟に拓真は桧山の腕にしがみつき、反動で次の一発は見当違いの方向へとび、桧山のほうも拓真を振り払おうと必死だった。


 一方、入り口の二人は何が起きたのか分からず、その場に立ち尽くしていた。
 そしてその後ろから、高い声が二人を呼んだ。

 「・・・古巻? 孝子さん・・・!?」

 そこには、夜着に上着を羽織っただけの、篠の姿があった。
 その声にびくりと反応して、桧山は拓真ともみ合う手を止めた。自分にも力がこもっていたから、そのまま拓真は後ろに吹っ飛んで、しりもちを付いた。

 「おかあさん」
 「こんな時間に、こんなところで何をしているのです!」
 
 当然の反応だった。しかし、篠も普段めったにあくことのない屋敷の蔵の入り口が開いていることに気がつくと、怪訝そうに入り口につながる階段を上り始めた。
 
 しりもちの痛みが全身を駆け巡っていて、拓真は動けなかった。しかしその前方で、桧山が新たなカートリッジを銃身に装填しているということは分かった。
 壁にぴたりとついて、息を殺し、外の様子を伺っている。もし篠が入ってきたら、打つ気なのだろうか。
拓真は声が出せなかった。全身を貫く痛みと、恐怖。とにかくきちゃだめだ、来たら撃たれる・・・!!

 「奥様っ」

 篠はその声に呼び止められ、後ろを振り向いた。見慣れた使用人の顔だった。

 「おんやあ、すいません、門の扉、開けっ放しだったんだねえ」

 そういうと、篠をすらりと追い越し、せかせかと扉を閉め始めたので、「ま、待って」と孝子は叫んだ。

「中に、拓真がいるの」

 孝子は見た。そういった瞬間に、使用人の目がまるで獲物を狩るみたいな恐ろしい動物のような目をしていたのだ。

「あんれ、迷い込んでしまったっけかな?ちょっと待っててね、中はいろいろ危険だから、おじさんが見てくるからね」

 そういって、おじさんは暗闇に消えた。改めて篠が「だめじゃないの、こんな夜中に何をしていたの」と古巻を責め始めた。

「なんだかいっぱいここに荷物が運ばれてたから、それで・・・」
「ここにはきてはいけませんって、しゃちょうさんもいってらしたでしょう。さあ、帰りましょう。詳しいお話は、明日お聞きしますよ」

 そんなことを言っているうちに、使用人のおじさんが拓真を抱いて蔵から出てきた。拓真をおろすと、扉を閉めて鍵をかけ、「そういえば・・・」と篠に切り出した。

「奥様こそ、こんな時間にどうなさったのです?」
「え、ええ、なんだかこちらのほうで、明かりを見た気がいたしましたので」

 使用人は「そうですかあ」といった。

「それなら、私に言ってくださいよ。こんな時間に奥様を外に出したなんて旦那様に知られたら、私の首が飛んでしまいます」

 使用人はからからと笑った。
 
 その使用人に背中を押されるように屋敷に向かう道のりの途中で、孝子はふと、思い出したことがあった。

 桧山。

 そういえば、あのとき。

 古月が、上海のお店で買ったというお土産を自分たちにくれたとき。

「おじさまの後ろにいて、赤い箱と青い箱を持ってきてくれた人だ・・・。」

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

篠(1)

 ***


 それからしばらくは、静かな日々が続いていた。

 9月に入り、学校が始まった3人は朝早くから登校するようになり、尋常小学校で拓真と古巻を見送った後に、孝子も自分の女学校へと踵を向かわせるのであった。

 しかし、拓真の心中は、とても穏やかなものではなかった。

「どうかしたの」

 授業中に先生に指名され、珍しく答えることが出来なかった拓真に不審を感じた古巻が、帰り道で拓真に問うた。

「ううん」

 そして拓真の返答も決まりきったものであった。
 
 あの日以来、拓真はあの蔵の中で起こったことを誰にも話していないのだった。中にあったたくさんの銃や、桧山のことだとか、使用人のおじさんが迎えにきたときに実はこっそり裏門から桧山を逃がしたことだとか、何一つ、誰かに漏らすようなことはしなかった。

 しゃべったら、きっとまた怖い目に会う。

 それは本能的に思ったことであった。そして、しゃべった人にも。そう思えば、自分の内部に溜め込むしか方法はなかった。

 桧山も、あの日以来姿を見せなくなった。

 古巻に聞けば、「お父さんが中国にお使いにやったんだって」と返事が返ってきた。ちょっと安堵したような、でもあの男には、姿が見えなくても得体の知れない恐ろしさがあったのでやはり口は開かないことにした。

「でも、一体なんだったんでしょうね、あの中は」

 たまにそんな会話になる。下校の途中で、今日は早めに授業が切り上がったらしい孝子と鉢合わせて3人で歩いているときに、孝子が思い出すように切り出した。

「拓真、何か見た?」
「ううん」
「でも、あの中に入ったのでしょ」

 そういえば、と、拓真は思った。

「姉上と古巻は、何も見なかった?」

 孝子と古巻は目を見合わせたが、

「暗くて、よくわからなかった」

 と、古巻が言った。

「大きな音がしたと思って入り口にきたら、パンパンって何かが響いて。そしたら、後ろから篠おばさまが来たのよ」

 いきなり、古巻が立ち止まった。不意だったので、拓真はぼうっとしたまま、古巻の背中のカバンにぶつかってしまった。痛む鼻を押さえ、視線を上げれば、そこにはゆゑと拓真は知らない女がいた。

「おかえりなさい、今日は早かったのね」

 と、ゆゑが先にこちらに気がついて話しかけてきた。

「ただいま帰りました、ゆゑさん、・・・えっと」
「こちらは最上桔華さん。桔華さん、こちらは舎人さんの御家の」

 そこまで言うと、ああ、と桔華は言って、

「孝子さんと、拓真君ですね」

 と、穏やかに目を細めた。にわかに親近感を覚えた孝子は、「よろしくお願いします」と頭を下げ、桔華の携えていた花束が綺麗だと告げると、「ありがとう」と桔華のほうも微笑んだ。
 そんな姉をみて、場の和むのを感じた拓真が、古巻のほうを見やれば、こらえるように奥歯をかみ締めて、何かに耐えているようであった。見かねたゆゑが、「古巻、挨拶くらいしなさい」といえば、今にも泣き出しそうな目を桔華とゆゑに向け、一人で走り出していってしまった。

「古巻さん?」

 驚いた孝子が声をかけても、古巻は振り返ることすらせずに視界の奥へと消えていった。拓真は取りあえず、3人にぺこりと頭を下げて、大急ぎで古巻の後を追った。
 
何があったのかしら、と怪訝の目をゆゑに向ければ、ゆゑも困り果てたような顔をしていた。

 振り返って、「本当に、ごめんなさい、桔華姉さん」と丁寧に頭を下げると、桔華のほうも気にしないで、といった風に

「しかたありません」

 と簡素に言った。



***


 古巻に追いついた拓真は、いくら声をかけても止まろうとしない古巻に腰に組み付いて、ようやく古巻の行く手を阻んだ。反動で、古巻は組み付かれたまま、拓真は組み付いたまま横の河川敷から転げ落ちてしまった。川一歩手前でようやく止まった。拓真は体中がずきずきするのを感じながら、よろめき、頭を上げると、古巻は立ち上がろうともせず、そこに蹲ったままだった。

 さらさらと、隣で清流の流れる音がする。

 拓真は、その場に体育座りをして、古巻が自分で起き上がるのを待つことにした。

 秋だ。

 少し前までは具合が悪くなりそうなほど暑かったのに、今はこんなに走っても、汗をかくこともない。熱風ではなく、穏やかな風が、耳元を過ぎていく。目を凝らしてみれば、川には鮭も上がってきているようだ。ンボが飛んできて、横たわったままの古巻の肩に止まった。拓真はそれをじっと見ていた。トンボは何回か頭をひねり、一回空中に戻った後に、また同じところに着陸した。二匹目が飛んできて、一匹目の向かいに止まった。尻尾が赤いトンボだった。何事もないように2匹は古巻の上で座談し、むっくりと古巻が起き上がったところで、ようやく空の青へと帰っていった。

 古巻は一回鼻をすすった。

 むっつり顔に、転がった際についた草や土が付いていた。拓真が手を伸ばせば、ふいとそっぽを向いた。

「たくま、顔に土ついてる」

 古巻に言われて、きょんとした拓真は、自分の顔を水面に写してみた。古巻にも負けないような汚れぶりだった。

「こまきも」

 ふと振り向いて、不機嫌そうに水面に照らせば、真っ黒な顔の二人が、にこりともせずにこちらを見ていた。それならばと二人そろって水面を睨んでいたが、やがて耐え切れなくなって、どちらからともなくばしゃばしゃと顔を洗い始めた。落ち着いて、もう一度水面に自分の姿を見る。拭うものがないので顔の輪郭をなぞった水滴が、顎からぽとぽとと滴っていた。

「お母さんが、寂しい顔をする」

古巻も拓真も、水面に視線を落としながら話していた。

「あの女がきてから」
「さっき、ゆゑさんと一緒にいた」
「うん」
「悪い人じゃない」
「そんなの、わかんない」

 古巻は、近くにあった小石を投げた。水面が、水面に移った二人の顔をゆがめた。 
 拓真が、口を開いた。

「篠のおばさんに、聞いたの」
「・・ううん、何も」
「じゃあ、それもわからないね」
「?」
「篠のおばさんが寂しいのは、あの人のせいじゃないかもしれない」

 古巻はばっと立ち上がって、叫んだ。

「違う!あの女のせいだ、あの女さえ返ってこなかったら」
「違わない、古巻は人のせいにしてるだけだ」
「違う!」
「違わない」
「違う!!」

 泣き出しそうな古巻に、拓真は水面に視線を戻して言った。

「聞けばいい」

 一気に跳躍した感情を、かろうじて抑えながら古巻は聞き返した。

「何を」
「どうして、そんな顔するのって、篠のおばさんに」
「できないよ」
「できるよ、古巻のお母さんだもの」

 拓真の口調はいつもと変らなかった。でも、古巻は忘れていたことを思い出した。
 拓真には、お母さんがいないんだ。

「なんにもないのに、人を悪く思ってはいけませんて、姉上が言ってたよ。こまき、姉上にも怒られちゃうよ」
「・・・なんて、聞けばいいのかな」
「本当に聞こうと思えば思いつくよ」
「そうかな」
「うん」

 少しだけ、心の中のわだかまりが小さくなったような気がした。隣で、拓真は水の中に手を浸して、その温度を楽しんでいた。この前星を見に連れて行ってくれたときも、今こうして話を聞いてくれたことも、自分は何も言ってないのに、拓真が導いてくれたものだった。

「拓真」
「なに」
「お母さんいないの、寂しい?」

 拓真は驚いたような顔で古巻を見た。

「寂しくないよ」
「いないのに?」
「いるよ、あそこに」

 拓真は、いつか自分に教えてくれた「北の星」を指差した。いつもあそこから見ていてくれるから、寂しくないのだと告げた後、「暗くなるから帰ろう」と言った。

「ごめんなさい、しなきゃ」

 後ろから拓真の声がしたが、古巻はそれに返事をすることはなく、どうやって母に聞こうかと、そればかりを考えていた。


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

篠(2)

 その夜、父、古月はまだ帰っていなかった。

 外は嵐で、閉めた雨戸もぎしぎし音を立てていた。雷の苦手な姉のゆゑが、閃光と轟音のたびに顔を顰め、母、篠もそのたびに「大丈夫ですよ」と声をかけていた。古巻はというと雨とか雷とか帰ってこない父よりも、どうして母に切り出そうか、頭の中はそのことでいっぱいだった。

 夜九時を告げる時計の鐘が屋敷の中に響き渡り、ゆゑも古巻も寝室に移ることになった。

「おやすみなさい」と先に自室へ引き上げていった姉を見たどけた後、篠は古巻の手を引き、寝室へと向かった。お風呂上りの程よい体温と、母の手より伝わる安心感が、古巻を眠りの世界へと引き込んでいく。掛け布団を上にかけ、ぽってりと熱を持った古巻の額にひんやりとした母の手が触れる瞬間が、一日で一番好きな瞬間だった。母が自分だけを見ていてくれる。母が自分だけのものになったような気がするからだ。

 いつもは一緒に寝てくれる母が今日はその気配がないので「寝ないのですか」と聞くと、

「もう少し、起きていますから」

 と、答えた。「今日は、何のお話にしましょうか」と、いつも眠る前に聞かせてくれる昔語りを思案している母に、古巻はもう一度聞いた。

「どうして、お父さん帰ってこないの」

 先ほどまでの穏やかな表情に少し翳りが見えた。古巻はそれを見逃さなかった。

「お母さんは、最近なんだか寂しそうです」

 古巻は、じっと母の顔を見ていた。つながれた右手から母の心臓の音が聞こえてくるような気がした。母の目は、自分を見ていなかった。自分の知らない母の顔だった。

「あの女が帰ってきたから・・・?」

 少ししてから、篠は厳しい顔で言った。

「あの女と言ってはいけません」
「お母さんは、あの女が来てから、辛そうです」
「古巻、桔華さんはすばらしい人です。あなたも、彼女とお話してみれば」
「嫌です、母さんを苦しめる人とかかわりたくありません」

 篠は、古巻が以前に見た寂しそうな顔をした。

「古巻、あの人を恨んでいるのですか」
「はい。父さんも同じです」
「そうですか、それでは母の言うことも聞きなさい」

 篠は古巻の頭を抱いて、優しく、しかしはっきりと言った。

「あの方たちを恨まないでください。私も恨んでいませんから」


 意外な言葉だった。

 古巻はその言葉を理解できないまま、母の胸の中で心地よい眠りに落ちた。


 そして、それが母と交わした最後の言葉となった。



***



 季節はずれの雨が降り続いていた。

 豪雨ではなく、しとしとという雨が、絶え間なく地面をぬらしていた。そして、北条家では、静かに事件の幕は開がっていた。
 篠がいないことに最初に気がついたのはゆゑだった。始めはどこかに出かけているのだろうと、ゆゑも、古巻も、使用人ですら気にも留めていなかったのだが、その日の夜になっても自宅に戻らず、しかも行き先も告げていないということに、人々は一抹の不安を胸の中に抱かざるを得なかった。

 もう、一週間になる。

「ちゃんと隈なく探したんか!? 友人とか、篠はんの実家のほうとか!!」
「停車場にも問い合わせしてみたけど、在来は名簿もあがらへんし、それらしい人を見た言うこともありまへんでしたえ」
「他にどっかないのか、あの人の行きそうなところとか!」
「古月はん!」

 近所の知り合いや、地元の警察たちも躍起になって篠探しに奔放していた。そんな人たちをねぎらいながら、指示し、自分もあちこち探し回っていた古月にも、かなり疲れた表情が滲み出ていた。古巻は、舎人家に預けられていた。学校から帰れば、拓真とともに古巻も母を捜しに走り回っていた。雨が降っていたが、傘をかぶっている余裕などなかった。古巻は一刻も早く母に会いたかった。

「桔華さん!」

 町外れまで母の捜索に来ていたゆゑは、桔華の姿を見つけて叫んだ。

「ゆゑさん、まあ、走っては・・・」

 雨の中、虚弱な身体を押して走ってきたゆゑは、桔華の前まで来ると、息をするのもままならないくらい咳き込んだ。桔華はゆゑの背中をさすり、自分の着ていたものを差し出すと、ゆゑは自分でそれを断り、ようやく口を開いた。

「今日は、萩のほうまで行ってみようと思います。母が昔、あそこの菖蒲の花を見てみたいと言っていましたから」
「萩!いけませんゆゑさん、あんな遠くへ行くなんて、あなたの体が持ちません、私が行きます」
「行かせてください、母が心配なのです、こんな雨の中、お財布だって置いていってるのに・・・」

 ゆゑは泣きながら桔華に訴えた。無理して走ったせいか、何度も咳き込み、その激しさに、かぶっていた傘を落とし、地に膝をついた。ごほごほと肩を震わせながらなんども咳き込むゆゑの肩を抱いて、断られた上着を強引に着せて、自分の傘の下にゆゑを入れた。冷たい雨だった。この一週間まともに眠れていない桔華の肌に、無常に突き刺してくる針の様でもあった。

 目の前に車が泊まった。傘の下から覗けば、古月であった。

「桔華、ゆゑ!」

 桔華が、さあ、とゆゑをたたせて、古月の乗ってきた車の後部座席にゆゑを押し込めると、ゆゑは自分も行くと嫌がって、なかなか素直に車に乗ろうとしなかった。古月が「お前、そのまま無理して死んでしもたら、それこそあいつも帰ってこなくなるやないか!」と、強引に中に入れようとした。

「半分は、あなたのせいでしょう!!」

 聞いた事のない、ゆゑの非難の声だった。

 呼吸もままならない今のゆゑが、空気の「溜め」を必要とするような叫びを、父に対して発したのは初めてだった。しかしゆゑはすぐにそのことを後悔するかのようにおとなしくなり、古月から顔を背けて後部座席に収まった。

「そうですよ古月。今回のことは、あなたの責任でもあるのです」

 後ろから甲高い女の声がした。桔華の姉―――八重であった。

 使用人に傘を持たせ、高級そうな衣服に身を包み、こちらに対する嫌悪感の塊のようなオーラを発す女であった。八重は、見下すようにずぶぬれの桔華の姿を一瞥し、古月に視線を戻して言った。

「たいへんなことになりましたね。これが何を意味するのか、おわかりかしら」
「・・・えらいすんまへん八重姐、今みんな総出できばっとるもんや、篠見つけたらちゃんとしますよって」
「頼みましたよ、一族から不幸など出さぬよう・・・」

 八重は桔華を見据えていった。

「ほんに、誰のせいでこないなことに」

 それだけいうと、八重は後ろに止めてあった自分の車へと戻っていった。雨の音と、車の去る音が耳に残った。

「何しにきたねん、あいつ」

 そう吐き捨て、古月は桔華に車に乗るよう勧めた。

「・・・結構です」
「桔華、あいつの言うことなんか気にせえ」
「結構です」

 はやくゆゑさんを休ませてあげてくださいと、それだけいうと、桔華もその場を後にした。古月はなんだかすっきりしない心持のまま、むしゃくしゃする気持ちをかなぐり捨て、車に乗り込むと、「出せ」と運転手に声をかけた。


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

篠(3)

***


 古巻は、母と手をつなぎ、歩いていた。

 青い空の下、古巻はとてもわくわくしていた。あたり一面新緑の光で満ちていた。大好きな母も、楽しそうに鳥のさえずりなんかを聞いているようだった。

「どこにいくの」

 古巻が母に聞いても、母は答えなかった。しばらくしてもう一度聞いても答えてくれなかったので、古巻はなんだか不安になった。

「お姉さんは?」

 ゆゑの姿はなかった。父も、拓真も、孝子も、・・・あの女さえいなかった。ここには自分と母しかいない。しかもその母は自分の問いに答えてくれない。「帰ろうよ」と、古巻は母に言った。母は相変わらすだんまりのまま歩き続けている。さっきまでの楽しい感情は、一気に下降していった。寂しくてたまらない。母が、母ではないみたいだ。そう、あの寂しい顔の、自分の知らない母だった。さっきまであんなに晴れていたのに、気がつくと一面真っ黒だった。
 
 まもなく、雨も降り出してきた。
 母は立ち止まり、つないでいた古巻の手を離して、振り返って言った。

―――――――あの方たちを恨まないでください。私も恨んでいませんから。



 ***



 目が覚めると、夢の中と同じ雨が降り続いていた。連日町中を走り回っているおかげで、拓真も孝子も相当疲れているらしく、隣でぐったりと眠っていた。時計を見たら朝の5時少し過ぎくらいだった。朝だというのに、厚い雲のおかげで回りはまだ大分薄暗かった。
 布団から這い出て、とりあえず寝巻きから着替えはじめた。するとその気配に気がついたのか拓真がむくり、と起きだして、眠い目をこすっている。

「古巻」
「母さんが、早く来てって」

 着替え終わるや否や、古巻は早朝の雨の中へ駆け出していった。

 別に根拠があるわけではなかった。心の中で母の声が聞こえたわけでもなかったし、これから自分がどこに向かっているのかさえわからない。しかし、駆け出した足は止まることなく、確かにどこかに向かっていた。そしてきっと、その先に母がいるのだと、古巻は確信していた。
 いつの間にか後ろから拓真が追いついてきていた。古巻に声をかけるでもなく、ただもくもくと、古巻の後ろにしたがっている。

 恐怖はなかった。
 それよりもはやく、母に会いたかった。

 気がつけば、古巻は自分の知らない道を走っていた。それはもう道とはいえない道で、乱雑に育った雑木林の中を、掻き分けるようにして進んでいた。枝が古巻や拓真の肌を容赦なく傷つけた。古巻はそれすら気にせずに、目的地を目指した。いつの間にか雨もやみ、雲間から細い光が見え始めていた。眩しさをこらえながらさらに進めば、雑木林がひらけて、今度は竹林が目の前に現れた。古巻はここで足を止め、辺りを見回した。拓真も古巻の後ろからついていった。

 ふと、強烈な太陽の光に目がくらんで、古巻は腕で顔を覆った。
 眩しいその先に、黒いものが視界に入った。
 拓真は、じっとそれを見ていた。やがて古巻も、慣れてきた目で、黒いものの正体を見た。


 ***


 大人たちが二人に追いついたのは、それから15分も後のことだった。

 拓真が、行きがけに孝子に声をかけてきたので、その孝子が、拓真の後を追いながら周りの大人を先導してきたのだった。

 人々は言葉を失った。

 そこには、目的の人物が竹に縄を括り、自らの首をつないで、力無い体はだらしなく宙に放り出されていた。
 十何人といた大人のなかでも、叫び声をあげるものや、呆然と立ち尽くしてしまうもの、この有様を見せるまいと、孝子の顔を手で覆うものもいた。
 古巻も拓真も、目を離さずにずっとそこにいた。まるでそこだけ時間が止まってしまったような空間だった。

「・・・しの」

 ようやく古月が到着した。自分の妻の変わり果てた姿に、しばらくは呆然と、立ち尽くすだけであった。
 遅れて桔華とゆゑが姿を現した。一言「お母さん」とだけ漏らすと、ゆゑは桔華にしがみついて大声で泣き出した。

「だれか・・・、だれか、篠さんをおろしたってや」

 ようやく意識を取り戻し始めた大人たちが、誰からとも無くそんなことを言い出し、近くの農家から借りてきた鎌で竹と彼女の首をつないでいたロープを切ると、重力に逆らわず、主を失った体が、地面に落ちた。
 地に落ちた篠を古月が抱き上げると、既に人間の体温は無く、氷のように冷たかった。生前に感じたあの柔軟な肌も、命尽きたあとはまるで鋼鉄のように硬くなっていた。

「篠、篠、なんでや・・・なんでなんや・・・」

 古月がとめどなくもう二度と動くことの無い自分の妻に話しかけているのを、古巻は自分でも驚くほど平静に眺めていた。大好きな母が死んだのに。もう、寝るときに自分の頭をなでてくれることは無いのに。

 悲しくない。なんでだろう。

 後ろで、泣きじゃくるゆゑとともにいる桔華を見た。視線を戻せば、無責任な涙を流す父、古月がいた。

 お前たちが、母さんをころしたんだ。

 ざわざわと、竹が揺れるたびに、眩しいほどの太陽の光が刺すように入り込んできた。
 世間では新しい一日が始まろうとしているのに、古巻の中で、今日という一日の始まりはついに訪れなかった。

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

篠(4)

***


 耕三郎が北条家に着いたのは、篠の通夜の夜であった。


 いつもは出迎えてくれるはずの孝子が、今日はいなかった。変わりに拓真がひょい、と出てきて、「おかえりなさい」と言った。

「古月は」

 厳しい表情のまま拓真の頭にふれ、そう訪ねれば、「挨拶に来る人の相手をしている」と拓真は答えた。弔問客の相手ということだろう。耕三郎も急いで陸軍のコートを脱ぎ、箪笥の奥から黒いスーツを引っ張り出した。ひどく黴臭いにおいがした。そういえば、朝重のときに着ることも無かった。耕三郎は、拓真の手を引いて家を出た。

 北条家の前まで来ると、黒い服を着た人々が門を出たり入ったりしていた。中からは読経の声も聞こえてくる。花輪が軒を連ね、線香のにおいが鼻を掠めた。連絡を受けてからここにいたるまで、実はあまり人が一人死んだということに実感が無かったのだが、耕三郎は、ここまできてようやく心の中にずっしりとしたものを感じた。
北条家の洋風建築には、日本風の葬式形態は酷く不似合いであった。焼香を済ませ、手をあわせて横にいたれば、そこに喪服姿の古月の顔があった。
 舎人はとにかくその場は一礼をして過ぎ去った。すれ違う瞬間に、「よかったら、待っとったってや」と古月がぽそり、と言った。

 その横に、桧山の顔があった。

 以前見たときと変らぬ、鋼のような面立ちだった。人一人死んだというのに、何事も無かったように主人の後ろに控えるその姿は、普段なら軍人とはこうあるべきなのだろうと感心するところであろうが、今日は妙に引っかかるものがあった。

 拓真も、あの日以来見る顔であった。

 ちらりと桧山を見れば、一瞬だけ視線が合ったが、気のせいだったかもしれないと思うほどすぐに桧山は所定の場所に視線を戻した。父に手を引かれながら、拓真は首が回らなくなるまで桧山の顔を見ていた。
 会場隅の目立たぬところに2時間近く待っていただろうか。腕の時計は午後9時をまわっていた。弔問客の足も大分遠のいてきたところに、古月が近くに歩み寄ってきた。
 舎人はまず立ち上がり、「お悔やみ申し上げます」と述べ、慇懃に礼をした。「えらい、すんまへん」と古月も憔悴しきった顔で、返答の礼をした。拓真が隣で眠たそうに頭をもたげていた。耕三郎はそれを抱いて、古月も来客用の椅子に腰を下ろした。

「何があったんだ」
「わからへん、なんにもわからへんのや」

 うつろな目で、会場前にある妻の遺影を眺めながら、古月はつぶやくように言った。
 遺影の中の篠は、色も無いのにひときわ美しく見えた。
 もう二度と、言葉を交わすことも無いのだと、あらためて思った。

「どうしたらええんや、情けないけど、なんにも、見えんようになってしもた」

 耕三郎も、黙って聞いていた。中途半端な返答は、この場では何の意味を成さぬ。
 古月も、ここまでずいぶん思いつめたのだろう。普段快活なこの男は、外見の荒っぽさとは裏腹に、内部にはるか繊細な部分を併せ持った、おそらく、自分で自分を制御するにはもっとも困難な部類の人種であると耕三郎は思っている。それだけに、ここで自分の発した言葉がどんな形で彼を傷つけるか分からないと、口を開けずにいたのだった。

「耕」
「うん」
「お前、こんな気持ちに耐えていたんやな」

 皮肉なものだった。あの頃の自分の感情を、このような形で共有することになってしまった。
 しかし、耕三郎は、直接、妻の死に顔を見ていない。帰ってきたときにはすべてが終わっていたのだから。
 目の前でうなだれるこの男は、自分の妻の、もっとも残酷な姿を凝視したのだ。おそらく、自分とは比べ物にならない絶望感を内に秘めているのだろう。

「古巻君は、」
「お嬢が付きっ切りでそばにおる」
「孝子が?」
「今の古巻の心情を一番理解してやれるのは、お嬢だけやからな」

 わずか6歳で母親を失った古巻は、どれだけの心の傷を負ったのだろうか。純粋な子供だけに、大人の想像を絶するものであるのかもしれない。
 今更そんなことを。自分の妻を失ったときは、娘の気持ちまで考えてやれる余裕が自分には無かった。

「篠さんに、何か懸念事項でも」
「考えられるのはひとつや」

 自明だ。耕三郎は、古月の言葉を聞くまでも無かった。

「・・・篠さんは、そんなに賎しい人間じゃない」
「わいかてそう思っとる、でも確かに、桔華が帰ってきてからあいつは少しかわっとった」
「篠さんは知っていたはずだ。あなたと最上さんのことは。それを今更」
「せやかて、それ以外には思いつかへんねや!!」

 行き場の無い悲しみ。自分への怒り。いっそ自分も消えてなくなることが出来たらと、苦しみから逃れるための結論しか出てこない今の古月の心情を、耕三郎もかつて体験したことがあった。

 それでも、生きなければならない。
 家族のためにも。
 死んだもののためにも。
 そのゆるぎない結論に至るまでには、まだまだ時間が少なすぎると、耕三郎は思った。


 ***



 古巻は、孝子の胸の中にいた。

 この3日間、一点を見つめたまま、ろくに眠ることさえなかった古巻が、さすがに疲れたのか、うつらうつらしている。孝子は、古巻を起こさないようにそっと立ち上がると、隣の部屋から毛布を持ってきて、自分と古巻をくるむように毛布をかぶった。

 夜の風は冷たい。

 線香のにおいが充満するから、と、お手伝いのお姉さんが襖戸を開けたままにしておくので、風が容赦なしに吹き込んでくる。隣の部屋の読経の声と、弔問客の嗚咽とが、ここの小さな部屋にまで届いていた。そんな重たい空気から古巻を守るように、孝子はひたすら古巻の体を抱き続けていた。

 古巻は、泣かなかった。

 篠の遺体が、竹林の中から自宅に移され、棺の中に安置されるのを確認した孝子は、そこに古巻の姿が無いことに気がついた。古巻の寝室や、舎人家や、先代桜花のところなど、おもいつくところを散々さ探しても見つからず、そういえば、と思い出したのだった。

 北条家の一角にある、和室の部屋。

 洋風のつくりの中に、篠が古月に頼んだとかでその一角だけが畳張りの小さな和室になっている。夏には涼しい風が吹きぬけ、風鈴をそこにつるした篠が、孝子や拓真をよんで、よく4人で夕涼みをしたのだった。

 思ったとおり、古巻はそこにいた。泣きもせず、口を噤んだまま、そこに体育すわりをして視線を斜め下に落としていた。がらり、と障子戸をあけた孝子に気を向けることも無く、穿たれた彫刻のように、そこを動かなかった。孝子もその様子を睨むようにずっと眺めていたが、ずかずかと座敷に上がりこんで、古巻の頭を抱いた。古巻は嫌がらなかった。それをいいことに、孝子は篠がそうしていたように、古巻の体ごとこちらに抱き寄せて、壁にもたれて落ち着いた。ほぼ三日、この状態である。たまに厠に行くときには古巻の手を引き、帰ってくればどちらからとも無く寄り添った。使用人が気にかけて持ってきてくれた食事には二人とも箸をつけなかった。ずっとお互いの心臓の鼓動を感じるような距離の中で、お互いにしか分からない感情を、体温ともども共有していた。

 古巻が安らかな寝息を立てる音を聞いた孝子は、ほっと、安堵の息をついた。ようやく、深い眠りに着いたようだ。この3日、たまに目を瞑ることはあっても、思い返したようにふと目を開け、またどこか一点を見つめていた。このままでは古巻の身体のほうが持たぬと、古巻を抱く孝子の腕にも、思わず力がこもってしまうのだった。

「孝子」

 後ろで開いた障子の影から、父、耕三郎が眠った拓真を背負っていた。「ここにいたのかい」と優しく微笑むと、ゆっくりと障子を開け、拓真を前に抱え直し、孝子の隣に席を取った。
 手のつけられていないお膳と、孝子の中で寝息を立てている古巻を見て、耕三郎は孝子の顔を見た。
 孝子は、その視線を振り払った。
 娘の思いがけない反抗に、耕三郎はわずかな動揺を覚えた。

「怒っているかい」

 孝子は答えなかった。変わりに纏っている毛布に顔を埋め、深い呼吸を始めた。

「すまない」

 すまない、朝重。孝子をこんなに早く大人にしてしまったのは、わたしの責任なんだろうな。
 篠は、母親のいない孝子や拓真にとっても母親同然の存在だった。この子達は、母親を2回、失ったのだ。

「父上」

 思いがけない孝子の声に、耕三郎は「なにかな」とかろうじて答えた。
 毛布に顔を埋めたままの孝子は、悲しい声で告げた。

「今日は、帰ってきたんですね、ちゃんと」

 それ以上、孝子は口を開かなかった。

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

篠(5)

 ***


 残酷なほど、空は晴れ渡っていた。
 

 耕三郎が、篠が発見されたという竹林に足を伸ばしたのは、通夜の夜から二日後のことであった。

 その場には、おそらく近所の顔見知りが手向けたのであろう花束が無造作に積んであった。故人を偲ぼうと、耕三郎も持参した花束をそこに手向け、手をあわせた。

 ふと、人の気配がして振り向くと、女のほうが、驚いた顔をした。

「と、ねりさん?」

 誰だ、と耕三郎も記憶を弄ってみた。ゆっくりと蘇ってくる記憶なのかに、この女の顔があった。

「ああ、最上さん!」
「お久しぶりです、こんなところで、またお会いできるなんて・・・」
「もう10年にもなりますか」
「そうですね、私も、久しぶりにこの街に帰ってきましたから」

 そうだ、この人だったと、耕三郎は思い出した。健在だった朝重と、まだ新婚だった古月と篠、そしてこの最上桔華と5人で、何度か飲みにいったことがあった。
 桔華もその場に花を手向け、手をあわせた。それを後ろから見ていた耕三郎は、結い上げた後ろ髪の首もとに、確かに綺麗な人だ、と思った。

「麗しい方でした」

と、桔華は言った。

「嫉妬していたのは、むしろ私のほうなのに」
「あなたも、篠さんのことは、ご自分のせいだと」

 桔華は、目を伏せた。

「人を愛するということは、命がけなのですね」

 さらさらと竹の、笹の葉のこすれる音がして、空に向かってまっすぐに伸びている竹が撓った。桔華も乱れた髪を耳の後ろで束ねながら、竹薮の中をじっと見つめていた。

「舎人さん、私は、古月さんにも言ってないことがあるのです」
「言ってないこと」
「聞いてくださいませんか、よろしければ」

私でよければ、と桔華の顔を見れば、向こうもこちらをじっと見ていた。

「子供がいるのです、・・・いえ、私自身は親といえる立場ではありません。その子を捨ててきたのですから」

 言葉を失ったのは舎人のほうだった。だって、あなたは、いえ、古月だって、あなたを愛していたのではないのですか・・・?

「すててきた?」

かろうじて聞き返せば、桔華はさらに言葉を続けた。

「生まれた子供を、そこで知り合った女性に託してきたのです」
「誰の子です」
「愛した人の子です」

違うと分かって、聞いた。

「古月の?」

 案の定、桔華は首を横にふって、否定した。

「もう二度と、古月さんに出会うことの無いように」

 私は明日、東京へ発ちますと、桔華は言った。


 そんな二人の様子を、桧山が離れた場所から冷ややかに見ていた。





―――9月16日 晴  

     早朝ヨリ 逝去セリ 北条社長ノ細君ヲ思フ
     篠自裁ニ関シ 幾ツカ疑問を生ズ・・・


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

篠(6)

***


 古巻は、父親に手を引かれて歩いていた。

 薄い、淡い、朝靄がかかっていた。古巻はまだ眠たい目をこすりながら、半ば古月にひきづられるように歩いていた。

 寒い。

 どこに連れて行かれるのかも分からなかった。肌を刺すような早朝の冷え込みは、既に繋がれている手の感覚すら失っていた。蝋人形のような父の手を感じながら、もしかしたら母に負いに行くのではないかと、ぼんやりとした頭で考えた。

 ふと、頭上で父親の声がした。目の前に、女が一人、光を背負っていた。

 お母さん。

 間違いない、古巻は確信した。

「・・・古、月さん・・・?」

 女のはっとするような声、いや、声というよりは感嘆に近いような呟きが、古巻の耳元を掠めた。
 古巻は、女の顔を見て、驚いた。
 白い肌に、ぱっと明るい紅を差し、くっきりと見開かれた黒い瞳。
 あの女だ、そう思ったけれど、古巻に抵抗の力はなかった。朝駆けと、相当な距離を父親に歩かされていたためである。ついでにこの寒さも相まって、意識すら朦朧としていた。

「どうして」
「聞いたんや、今日、行くって」

 二人は、その後言葉を発することなく、ただお互いの目を見つめていた。女の顔は、いつか見た寂しそうな母と同じ顔をしていた。もう二度と会うことの出来ない母の姿を思い出し、古巻は辛くなって二人から目を背けた。

 そこで、古巻の目はあるものに釘付けになった。

「もう、きっと会わへんな」
「そう思います、そう思って、今・・・」
「最後に会いたかった。最後に、もう一度・・・」

 二人の中に、篠の面影が見え隠れしていた。愛した女性。そして、親しかった女性。それぞれの重要な部分に開いた穴の代償は、果てしなく大きいものであった。

「篠は、誰かを恨むような人間や無い」
「あなたに感謝していました。篠さんは、私のせいです」
「だから出ていくんか」
「それだけじゃない、けじめなのです」

 ああ、いつの間にか、桜花様と同じようなこと言うようになったんや、と古月は思った。
 もう以前の桔華ではない。目の前にいるのは、あの先代が認めた「桜花」なのだと。

「・・・さくら」

 古月の隣にいた古巻が、ぽ、と言葉を落とした。

「桜が、さいてる」

 古月と桔華が振り向けば、垣根を越えて伸ばした枝に、満開の桃色の花が咲き誇っていた。
 ひらひら、そこだけまるで雪が降るように花弁が待っている。心の中は春を感じているのに、肌は寒いと認識している。その場にいた三人が、感じたことの無い矛盾を確かに共有していた。

「なんや、これは」
「御会式桜」
「なんやて」

 桔華は、呆然とするようにその桜を見上げて、語った。

「東京で、一度だけ見たことがあります。日蓮和尚の入滅の日の頃・・・つまり秋に咲く桜、狂気の桜です。でも、こんなに、春のような」

 一筋の風が通り過ぎた後、日が昇り始めたのか、あたりの霞みが大分和らいできた。女はまるで自分の意思とは関係の無いというふうに、一つ、歌を詠んだ。


 秋雅 咲き狂いにし 世の果ての いざ立ち行かん 桜花往生


 古巻にはよく分からなかったけれど、ああ、この桜のことだと思った。枝の隙間から、星が一つ流れるのが見えた。

「桔華、古巻を連れて行ってほしい。お前にこの子を頼みたい。」

 桔華は、一瞬目を見開いた。それは古巻も同じことで、二人はそろって古月の顔を見た。

「こいつは、篠の忘れ形見や。わいもお前も、このままではずっと、篠に取り付かれたままや。お前が言うなら『けじめ』や。こいつを」

 古巻は、父の前に突き出され、背中を押された。

「古巻を、頼む」

 桔華は、じっと古巻の顔を見つめていた。吸い寄せられるように、古巻も桔華の顔を見ていた。この女は、母さんを殺した。父さんだって同じだ。なのに、なのに何でだろう。どうしてだろう。女を憎いとは思わなかった。
 桔華が搾り出すような声で「わかりました」と答えると、古月は古巻を巻き込んで桔華を抱きしめた。それはとても強い力で、古巻は思わず、窒息しそうになった。

「好いた女も、俺は、満足に・・・」

 父は泣いているのだろうか。声が震えていた。
 桔華のほうから古月の身体を離れ、古巻の手をとった。

「桜花様に、宜しくお伝えください」



 古月は、愛した女の名前を呼んだ。



 古巻には、父は一体誰を愛していたのか、分からなかった。



にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
web拍手 by FC2

2010/08/10(火)
2、北条古巻

| ホーム |
Page Top↑
▲ Page Top