最後の恋人(1)



明治三十五年、冬。
 
その夜、白河川修は自室の椅子に腰掛けて音もなく降る白い雪を眺めていた。

雪が降っている情景に結びつく思い出は、白河川にとっては芳しくないものばかりであった。
 35年前の戊辰戦争。一月に開戦だったがあの時も確か雪が降っていた。雪がもたらす効果といえば彼らの鮮血をより鮮明に浮かび上がらせることだった。一面の白。一面の赤。あのコントラストは今でも克明に思い出すことができる。
 7年前、清と戦争するために釜山に赴いたときも、白河川を歓迎したのは雪であった。港は凍てついておらず、入港は難なく行われたが、その吹雪に作戦を2,3日ずらすことになってしまい、その期間、清国側も兵力を増強し、最終的には日本は清を威海衛で破ることになるが、本来の作戦で予想された敵の被害数は跳ね上がった。
 
 誰であろうと、人が死ぬのは悲しいことだ。

 陸軍卿白河川修の根底はここにある。これには彼の恩師、かの維新三傑、木戸孝允の教えも咬んでいるものであるが、明治という近代国家を成しうるには必要不可欠な感情であると白河川は考えていた。国は、人がつくる。時代を動かすのは、人だ。60年近く生きてきて、その言葉の信憑性は確かなものと確信した。自身も身をもって体感している。
 
 あのひとが死んだのも、雪の日だった。
 あのひとは誰にも見取られずに一人で逝った。いや、誰かに見取られることを嫌ったのかもしれない。

 彼女の、日本人には無い特有の青い目や、錦糸のような金髪、すでに体温を失い、透き通るような白となっていたその肌をこの腕で抱いたとき、足の裏を通して伝わったあの雪の冷たさはこの世のものとは思えなかった。庭の雪化粧の桜の木下で、白河川は思った。


―――きれいだ。


 彼女は32歳で、白河川より4つ年下だった。あまりにも早すぎる死だった。

「白河川さん」

 声のした方を振り向くと、白河川の身の回りの世話をしている女性が扉に立っていた。

「すみません、ノックはしたのですが」
「いえ、どうしました、眞子さん」

 白河川と山城眞子の付き合いは瓦解の折からの古いものである。ただし、初めから順風な付き合いから始まったわけではない。白河川は官軍、眞子は女だてらに幕軍の一人であった。

「黒澤中尉が」

 白河川は立ち上がると、眞子に先導され玄関へと急いだ。

 黒澤周吾は白河川が目をかけている軍人の一人である。5年前に、白河川が上海に行ったときに接待をしたのが縁で、黒澤とは今でも親交が続いていた。白河川は元帥でありながら下士官将校達に気楽に話しかけ、彼らもよく白河川を慕っている。ただ大将の椅子にふんぞり返っている連中はこうはいかない。

 眞子が応接間のドアをあけると、黒澤は振り返った。その腕の中に何か白いものをもっていた。

「閣下、無礼を承知で参りました。どうか、どうか助けてください」

 白いものの正体は、布に包まれた赤ん坊であった。見ると額から出血がある。なのに赤ん坊は泣きもせず、ただぜいぜいと喘ぐばかりである。

「眞子さん、すぐに勝呂さんのところへ」

 眞子はうなずき、黒澤から赤ん坊を託されると、さっとドアの向こうに姿を消した。勝呂というのは、近くで小さな医院を開いている開業医だ。本来なら帝国大学勤務の業績すら持つ傑人なのだが、「ひとりひとり目の届くほうがよい」と甘んじて下町暮らしをしている。お互い、似たところもあったりで、たまに飲んだりする気の会った仲間のようなものであった。
 
 白河川はその真意を諮ろうと黒澤を振り返った。すると黒澤が先に口を開いた。

「一緒に、来ていただけませんか」

 黒澤の懇願の目は、焦りと焦燥が入り混じっていた。
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2010/08/10(火)
1、最後の恋人

最後の恋人(2)




 雪はわたしによい知らせを運んでこない。

 白河川は黒澤の運転する車の助手席でぼんやりとそんなことを考えていた。黒澤が白河川と以前あったのは約一年前。今日は一年ぶりの再会だというのにそれを慈しむ間もなく、何かよくないことが始まりそうな渦中に飲み込まれた気がしてならないのだ。それはもちろん黒澤自身が望んだものではなく、白河川が画策していたわけでもない。いうなれば時代が我々を召喚したとでも言えば表現がよいだろうか。これから何が始まるのしても、きっとそれを回避することはできないし、苦難無く終えることは不可能であろう。車の窓から見える横に線を引く吹雪に、言い様も無い不快感を覚えながら先の見えない将来に希望を持つにはいったいどうしたらよいものだろうと必死で考えている自分に気付き、「我ながら卑しいものだ」と自嘲した。
 街の電燈がリズムよく通り過ぎ、レンガ造りの建物の通りを向けると、大きな屋敷が立ち並ぶいわば高級な住宅街が姿を見せた。その奥の一角に少しだけ離れた家があって、門の前まで来ると黒澤は車を止め、ライトを消した。
 白河川も助手席から降り、黒澤に少し遅れてドアを閉め、強い風にコートを引っ張られながらその門に向かった。足はある程度積もった雪を踏みしめ、「ぎゅ」っとなる。

 うまく前が見えない。暗闇と、吹雪がその視界の幅を狭めた。
 門は開いていた。おそらく黒澤自身が出てくるときに閉めずに出たのだろう。
 
 黒澤に促されるままに門を入り、屋敷に向かうと、ついているはずの明かりはどの部屋からも漏れることが無く、闇の中にあった。さらに近づくと、白河川はその屋敷の異変に気がついた。
 
 窓ガラスが割れている。
 
 それも一つ二つではない。飛び飛びではあるが、かなりの数が明らかに内側から割られていた。

「盗人にしてはおかしな行為ですね」

 割られたガラスをみながら、吹雪の中前方を歩く黒澤に声をかけると、

「そのほうがまだ、私も手のつけようがあるのですが」

 と、その歩幅を広げた。と、そのときさらにガラスの割れる音がした。

―――女性の声?

 確かに聞こえた。喚くような嘆くような、少なくともその女性が正気を保っているようには到底思えなかった。
 黒澤がドアを開けようとした瞬間、内側からドアが開いた。

「だ、旦那様!」

 おそらく使用人だろう。女であったが、声が先ほどのものとは違った。

「大丈夫か、らくはどうなった」
「も、申し訳ありません、旦那様に言われた通り、奥様を落ち着きなされますようお努めいたしましたが・・・」

 使用人も相当格闘したのか、意気が上がっているのがわかった。白河川は惨状となっている屋敷の中に入った。直に降りかかっていた吹雪から耳から開放されたので、暗闇の玄関はひどく静かに感じられた。しかしそれは一瞬の感想で、すぐに見えない廊下の闇の中から先ほどの女の声がした。

 とりあえず音のほうに足を向けた。またガラスの割れる音がした。近くなってきたのか、女以外に男の声も聞こえた。白河川は視界の利かないその空間の中で、自らの五感を頼りに目標を探った。廊下の奥の階段を上ると、急に冷風に吹かれた。割れた窓から雪が舞い込んでいる。

 どさっと音がした。足元に人が倒れている。

 白河川は反射的にその人物を抱え起こした。男だ。男は少しうめいた後、「奥様」とつぶやいて、前を見やり、立ち上がろうとした。

「怪我をなさっています、無理ですよ」
「しかし奥様が」

 びゅう、とまた風が吹いて白河川は思わず目を瞑った。そして声を聞いた。


――――……さない。


 さっきの女の声だ。白河川はゆっくりと目を開けた。
 がしゃん、と音がして、また窓ガラスが割れた。外から吹いてくる風と、そのガラスを身に纏うような形で、その女は白河川の目の前に現れた。
 白い瓜実形のきれいな顔立ちが、一層その女を不気味に演出した。

「ゆ、る、さない」

 女はふらふらとこちらに向かってきた。素手でガラスを破っているからか、両腕、特に右腕からかなりの出血をしていることが確認できた。と、いうのも、暗闇中で白い雪が適当な明かりの代わりとなり、鮮明な赤を浮き立たせていた。

 また雪が、こうして苦しむ人を白河川に立ち合わせたのだ。

「らく」

 白河川の後を追ってきた黒澤が女の名前を呼んだ。女は顔を引きつらせ、廊下の飾り物の壷を黒澤に向かって投げつけた。

「きゃあ」

 難なくかわした黒澤の後ろで壷は粉々になり、後ろでさっきの使用人の女が声を上げた。
 女の左手には、刃渡り3寸ほどの短刀が握られていた。

「だめだ黒澤君、下がるんだ」

 白河川が叫ぶや否や、女は黒澤に短刀を突きつけてきた。本当なら男と女、しかも黒澤にいたっては軍人である。勝負は見えているものであるが、女は常識はずれの力で黒澤を圧倒している。白河川は自分の腕の中にいた満身創痍の男を使用人の女に頼み、立ち上がった。

「ゆるさない……ゆるさない……!」

女はなおも黒澤に襲い掛かる。その表情は確かに殺意に満ちていた。そこらじゅうに落ちているものを黒澤に投げつけ、自らは短刀を振り上げ、黒澤を襲う。かろうじて抵抗している黒澤も、相手があいてだけに反撃できずにいる。
 割れた窓から吹雪が女を襲った。女は一瞬動きを止め、その瞬間を白河川は見逃さなかった。白河川は女が振り上げた左の腕を掴んだ。女は一瞬ひるみ、その隙に白河川は脊髄の頭を叩き、一時的に脳と体の動きを遮断した。
 女はその場に蹲った。ぜいぜいと苦しそうに喘いでいる。

「らく……」

 黒澤がそうつぶやくと女は朦朧とした意識のなかで明らかに黒澤に敵意を示した。しかし体が言うことを利かない。女はさらに辛そうに喘いだ。呼吸が正常でない。
 白河川は女に自分の吐いた息を吸わせるように自分の手で女の口を塞いだ。

「大丈夫、ここにはあなたを傷つけるものは何もありませんよ」

 女は抵抗した。

「怖くない」

 女はさらに抵抗した。

「怖くない」

 女の、抵抗する力が弱くなった。

「ほら、私の言ったことは本当だったでしょう」

 女の呼吸がだんだん元に戻り始めた。やがて静かになると、女はそのまま気を失った。
 女の手から、短刀が落ち、からんとなった。
 
 割れた窓から冷たい風が吹き込んでくる。
 睫を伏せた女の顔は、まるで少女のそれのようだった。
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2010/08/10(火)
1、最後の恋人

最後の恋人(3)



***


 女は、すぐに勝呂のもとへと運ばれた。
 手当を終えると、女をベットに寝かせつけた。二人の使用人も軽い手当てを受けると、勝呂や白河川に丁寧に礼を言い、帰宅の途についた。これらの手当てをしたのは勝呂の妻であるしづである。勝呂はまださっき眞子が連れてきた赤ん坊の治療をしているとしづは告げた。

「輝也は助かるでしょうか」

 黒澤は力なくしづに問うた。

「ええ、親が子の無事を信用しなくてどうするのです、しっかりなさって」

 しづはそういって黒澤に声をかけた。
 白河川はというと、腕を組み相変わらず降りしきる雪を見ている。そして思いついたように言った。

「きれいなご内儀ですね、黒澤君」

 そこにいた黒澤もしづも、いきなりの白河川の話題に少し戸惑いを見せつつも、

「ありがとうございます」

と少々照れ気味に頭を掻きながらはにかんで、視線をずらした。

「失礼ですが、御年は?」
「今年で、確か18になります」
「まあ、お若いのね!」

といって素直に驚いたのはしづだった。白河川は女の寝顔を見た。先ほどの暗闇の中で見た印象より、ずっと幼く見えたのは黒澤に年齢を聞かされたせいだろう。

「あの子は……」
「輝也ですか。あれはそろそろ1歳になるくらいです」

 そうですか、といって白河川は近くにあった椅子に腰を下ろした。ベットの隣の机には、おそらくしづが誂えたものだろう花瓶に花が生けてあった。しづは黒澤にも椅子を勧め、隣の部屋から茶を運んできて二人に出し、自らは退室した。

「わたしは、らくが輝也を身篭ったと知って、身請けしたんです」

 どこから切り出していいのか分からないのですが、と前置きをして、黒澤は語り始めた。

「らくは新橋の芸者でした。大陸生まれだそうですが、8つのときに売られて日本に来たのだそうです。そして置屋での生活が始まった」

 白河川は黙って聞いていた。

「初めてであったのは確か3年前で、私が台湾から一時帰国したのを上官が労いのために新橋に連れ出したのが縁でした。らくはまだお付をしていましたが、その、」

 黒澤はそこでいったん言葉を区切って、

「わたしが、一目惚れしました」

と、恥ずかしそうに少し小さな声で言った。

「半年、日本にいたのですが、その間もわたしはらくのことを忘れることができずに、何度も新橋を訪ねようとしました。しかし、どうしても一人で行く勇気が無くて」
「おや」
「虚勢だけは一人前なのですが、どうにも小心者で」

 白河川は目で笑った。

「ああいう場所に部下を連れて行くのもなんとも気が引けましたので、舎人少佐に御随行賜ったんです」

 ここで意外な人物の名前が出た。舎人耕三郎。白河川のよく知る人物である。

 陸大出の天保銭組。さきの日清戦争では清王朝内においての講和会議の草案作成に従事したり、その才能を買われて高級参謀や政府高官とも付き合いのある、白河川の知る限りにおいて若手一番のホープであった。白河川自身が、舎人のその才能を見出したといってもよい。元皇室付きの侍従教育官舎人左右吉を祖父に持つ、家柄も毛並みも非の打ち所の無いような好青年だった。

「よく、舎人が了承しましたね?」

 舎人が5年も前に所帯を持っていることを白河川は知っていた。

「直接ではないのです。舎人少佐の所属の師団長が、どこかいい場所を探していると少佐にお聞きしましたので」
「ああ、それで」

 黒澤は少し狼狽した。

「その夜は師団長がらくを夜ともに過ごしたいと言い出しました。どうやらわたしにばかりかまっているのが気に入らなかったのか、強引に連れて行こうとするのでらくも嫌がっておりました。相手は上官ですし、わたしも強いことがいえませんでした。向こうは向こうで『少尉ふぜいがこの儂に意見するか!』という始末なのです。こうなったらわたしも除隊覚悟で意見しようと心に決めました。言葉を口にしようとしたときでした。」

―――その方、嫌がっているではありませんか。

「ゆっくりと、一人で飲んでいた舎人少佐が、緩やかな口調で師団長にそういいました。もちろん師団長も言い返します」

―――舎人、貴様人の行楽に文句つけるか!
―――いえ、わたしは閣下のために上奏しているのです。

「おそらく、師団長も舎人中佐の言葉で酔いが冷めたのでしょう。帰る、と一言残してらくを掴んでいた手を放し、その場を去りました。やれやれといった調子で舎人さんも立ち上がると、そっとわたしに言いました。」

―――実は賞に勝ります。ここで貴方を失うのはあまりに惜しい。

「舎人少佐はそういい残して師団長の後を追いました。その後は、女将がまた仕切りなおしてくださって宴会再開となりましたが、たいてい舎人中佐の話題で持ちきりでしたね」
「彼らしい」
「そうでしょう。わたしもそれ以来少佐にはいろいろお世話になるようになりました。台湾から支那に移ってからも彼に助言を求めたり、こちらにいらっしゃると聞いたときは家に招いたりしました。舎人少佐はわたしの憧れの人です。しかし、やはり事はうまくいかないもの」

 嬉々として舎人のことを話していた黒澤の語調が、重くなった。

「あの一件以来、らくは舎人少佐を思い続けていました」

 白河川は黒澤の顔を見た。うつむき加減に下を向き、それかららくの顔を見ながら話を続けた。

「ようやく一人でらくの元に通うようになったのが2年前です。わたしは、らくの少佐に対する思いを知りながららくと逢瀬を続けました。これがらくの仕事と分かっていても、わたしはらくの優しさがうれしかった」
「そして、彼女は子を宿した」

 黒澤は辛そうに頷いた。

「それがわかって、また支那から帰ってきて……。わたしは正式にらくに身請けしたいと切り出しました。そして一緒になろうと」


―――ありがとうございます。らくは本当に、幸せ者でございます・・・



 そこまで言い終えると、黒澤は黙り込んだ。白河川はそのらくの言葉に偽りは無かったように感じた。むしろ本心から出た言葉であると。しかしそうだとすると残る疑問は、「許さない」と夫に殺意すら持ってしまったらくの心情である。

「輝也が生まれて、しばらくはわたしたちは普通の幸せな家族でした。しかし次第に、らくの様子がおかしくなってきたのです」
「おかしくなってきたとは」
「夜中に急に奇声を発したり、物にあたったり。初めは極軽い症状だったのですが、だんだんそれが激しくなってきて……。しかし、この異常な状態である時の記憶がらくには無いのです。目が覚めればいつもの彼女に戻ります。舎人中佐への強い思いが、彼女に行動させているのだと思います。わたしのせいです。わたしが、強引に彼女を身請けしたから……」

 黒澤は膝の上で拳を強く握った。

 窓の外を見た。雪はちらほらと舞う程度にまで止んでいた。
 眞子が寝室の扉を開けた。ほっとした顔で「無事、手術が終わったみたいです」と告げた。
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2010/08/10(火)
1、最後の恋人

最後の恋人(4)



***


「気がついたかい」

 らくがゆっくりと目を開けると、そこには見慣れた顔があった。

「あなた……」
「いや、まだ無理に体を起こさないほうがいい。体に障るよ」

 夫の、そんな気遣いがうれしくて、らくはその助言に従うことにした。

「いつ、お帰りになられたのですか」

自分が帰宅した記憶も無いらしい。

「2日前だよ。しばらくこっちにいられる」
「そうですか」

 そういって、らくは微笑んだ。

 らくの意識が戻ったのは、担ぎ込まれてから一日過ぎたお昼過ぎの事だった。
 黒澤はまず軍に帰隊を報告しに一回陸軍省に顔を出したあと、すぐに戻り、らくの近くにずっと付き添っていた。しづが気を使って「かわりましょうか」と申し出たが、黒澤は自分の妻だから、と丁寧に断った。

「輝也は」

 らくは自分の子供の名前を口にした。

「輝也はどこですか」

 今はまだ、傷ついているわが子を見せるのは得策ではないと考えた黒澤は、

「ああ、少し体調を崩していてね。隣の部屋でしづさんが看ていてくれているよ」

 といって誤魔化した。
 そう、といってらくは天井を見た。

「とても、怖い夢を見ました」
「夢?」
「あなたを、殺したいと思う夢」

 黒澤はどきりとした。らくがこうしてあの事実に自ら触れたのは初めてだった。

「どうしようもなかった。成す術も無く、彼女に従うしかなかった」
「彼女、とは」

 らくはすぐには答えなかった。言葉を捜しているようだった。

「らく」

 黒澤は、自分の妻の名前を呼んだ。

「すまない」

 そして、頭を下げた。
 驚いたらくはゆっくりと上半身を起こし、黒澤に

「どうしてです、どうしてあなたが謝るのです」

と問い詰めた。

「君は、わたしと一緒になるべきではなかったのかもしれないな」

らくは辛そうな顔をした。

「愛しています」

 絞り出すように、微かな声で黒澤にいう。

「愛しているよ」

 なんだか無性に、悲しい気持ちだった。お互いの気持ちが真実だからこそ、お互いの幸せを願うように、ただただ、ひたすら悲しい気持ちになった。
 黒澤は、らくの頭を抱いた。

「日ごとに、自分が壊れていくのが分かります」

 らくは、その瞳に涙を浮かべながら言った。黒澤の胸の中で小刻みに震えていた。

「もう一人の私が、異常なほどにあなたを憎んでいる」

 黒澤は黙ってうなずいた。

「憎まれて、当然だ。君はコウさん・・・いや舎人少佐を」
「いわないで」

 らくが言葉をさえぎった。

「私はあなたをお慕いして一緒になったのです。耕三郎様は関係ありません」

 らくが、黒沢に懇願するように、その胸に強く顔をこすり付けた。黒澤もらくの頭に口付けて、さらに強く抱いた。

「私の、片思いなんだよ、らく」
「愛していますわ」
「らく」
「私を」

 お互いに唇を探り合う。息がもつれ、苦しくなってはなれて、近いところで目が合った。らくは黒澤の耳たぶを口に軽く含み、そこで囁いた。


―――殺してくださいませ。


 黒澤は驚いてらくの顔を見た。らくも辛そうな顔をして、もう一度、同じことを言った。

「もう一人の私は、どんどん私を駆逐していく。いずれ、私は私でなくなる」

 そうなる前に。らくは黒澤の手をとって、自分の首に持ってきた。

「何をする、やめるんだ」

 黒澤はその手を払って、らくの小さな体を抱いた。

「あなたを愛しているからこそ、その愛故、私の憎しみは深く深く、あなたへの殺意に変わるのです」
「いいんだ、憎みたいだけ憎めばいい。殺したいなら狙えばいい。君にはその資格がある」
「あなたを、失いたくありません」
「俺は死なない」
「本当に?」
「本当さ」

 二人は唇を重ねた。深く深く、息が止まるほどに、真実を確かめ合うように。

「あなたが向こうに赴任して、寂しくて、どうしようもなくなるときがありました」


――そんなときに、あろうことかわたしは耕三郎様のことを思い出してしまうのです。


「愚かなのはわたしです。わたしは、同時に二人の人を愛してしまった」

 泣きじゃくりながら、らくは続けた。

「ねえ黒澤様。こんな最低の女でもよろしいのですか。わたしのような酷女でも、あなたは妻として望んでくださるのですか」

 黒澤自身も、自分の涙を見たのは久しぶりだった。腕の中のらくはひどく弱弱しく感じた。ああ、自分は本当にこの人を愛しているのだと知った。

「君がたとえ俺を忘れようとも、どれだけ憎もうとも、俺は君だけを愛しているよ。だから心配しなくていい。いつまでも待ってるから」


 最期の瞬間まで、信じているから。
 だから、いつか本当の意味で夫婦になろう。


 らくは静かに「はい」といって目を閉じた。

 

***



 それから半年が経過したころ、眞子が黒澤の執務室を訪ねた。

「白河川さんに頼まれて御家に伺ったのですが、ご不在でしたので」

 黒澤は眞子の来訪を労い、応接間のソファーに座るように勧めた。

「ええ、今あの家には誰も住んでいませんから」
「そうなのですか」

 では、どちらに、そう眞子が問うと、

「今は軍の宿舎に住まわせてもらっています」
「らくさんや、輝也君も?」

 黒澤は、微笑したまま言葉を止めた。
 眞子は白河川の用件を話すことにした。

「らくさんのご様子を伺ってくるようにと、仰せ使いまして。あまり芳しくないようならこれを置いてこいといわれました」

 そういって、薄紫色の風呂敷の中から、2、3の薬瓶を取り出した。
 あいかわらず、黒澤は黙ったままである。

「黒澤君?」
「らくは、いないのです」
「え?」
「一ヶ月ほど前でしたでしょうか。わたしが帰宅したら輝也とともに姿を消していました」


***


 すべては、ここから始まる。
 黒澤とらくが再会するのは、約十年後のこととなる。
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2010/08/10(火)
1、最後の恋人

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