「桜花往生」の世界へようこそ。
   このお話は、明治から平成まで、時代を生きた6人の主人公たちの物語です。

   第1章はこちらから→1、発芽―grow out―
最新章はこちらから→2-5、大陸の覇者
   登場人物を紹介します→登場人物紹介

  ※現在、本編「大陸の覇者」と番外「仮宿の楔」を同時連載中です。

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「めらんこりあ」(3)





 目が覚めた。ここが北条と名乗る男の家であること、隣で寝ている母娘はその妻子であることを思い出し、ため息をついた。すっかり厄介になってしまった。容易にこの家を出られない。明恵は義理深い。風呂と寝所の面倒を見てくれた篠と、朝重の袖をひいた由江を思うと、無責任にここを離れられないと思った。朝重を引き留める理由の中に、古月の存在は皆無である。
 
 まだ薄暗い。時間でいうと、6時より前であろう。上着を羽織り、二人を起こさぬよう、そろりと寝所を抜け、廊下を渡り、玄関へ出た。そういえば、亭主たる古月の姿が無い。

 外に出ると、日差しが真横から刺してきた。春の空気の匂いがした。肌寒いが、心地いい。下町の長屋街がずっと続いていて、すでにいくつかの家で人間が今日の営みを開始していた。明恵はそれをじっと見ていた。
 どうすれば、篠へ一飯一宿の礼ができるだろうか。己の力量を逡巡してみる。正直、料理には自信が無い。当たり前だが金もない。この家を出ていこうにも、次に当てもない。どう考えても、一向に答えが得られなかった。こういう問答は嫌いだ。明恵は自分の未熟さを突き付けられて、酷く恥ずかしくなった。

「なんや、早いのう」

 声の主は、北条古月だった。近頃の「さらりいめん」よろしく、黒のスーツに帽子、革靴を履いて、シャツの襟もとのボタンは二つ外していた。風体はくたびれていたが、本人はいたって元気なようだった。

「朝帰りですか」
「なんや、『おはようさん』の一つも言えへんのか。おはようさん、明恵」

 気軽に名前を呼ばれ、しかも自分の問いを無視され、果ては自分の存在すらないかのように自宅に入ろうとする古月に腹が立ち、明恵が一喝してやろうとしたところに、古月の人差し指が飛んできて、その唇を封じた。古月はにっと笑った。

「まあ待てや。顔洗って、篠の朝飯食うたら、次の作戦会議、しよう」

 家に入ると、篠がたすき掛けで台所に立っていた。古月が声をかけると、前掛けでを手を拭き、深々とお辞儀をした。篠が荷物を預かる旨を申し出たが、朝食の準備を優先するようにともうしつかり、また小さく頭を下げた。古月は宣言通り顔を洗いに向かったようだった。明恵はその様子を見ながら、これが古来より日本の美徳とされる空気なのか、と思った。
 
 由江が起きてきた。篠と明恵に立派に朝の挨拶をして、配膳の手伝いを始めた。そうしているうちに古月が戻ってきた。調達してきたらしい朝刊を手に、準備の進む膳の前前に腰を下ろした。朝恵も、篠に手伝ってもらいながら自分のものは自分で用意した。由江は、毎日そうしているらしい。ようやくみな席について、朝食が始まった。篠はごはんを配膳した。

「そういえば、由江、お前今日誕生日やんな。いくつになったん」
「はい、4つになりました」

 明恵が篠に目線を送ると、穏やかな眼差しが帰ってきた。

「何か、ほしいものあるか」
「ありません。お父さんに今日も早く帰ってきてほしいです」

 古月は茶碗をおいて由江を抱き寄せて頭をぐりぐりとかき回した。由江は、心からから喜んでいるようだった。これもそういうものなのか、と思った。もし自分が由江なら、反応に困るところだ。

 朝食が終り、篠や由江とともに台所に立とうとした明恵を古月が引き止めた。明恵は古月を一瞥したが、篠は明恵を見て微笑み、よろしくとばかりに頭を下げた。明恵は篠に恩義を感じている。彼女の異存を拒めない。

「さて、舎人雄一郎を引っ張り出す方法やが……」
「一応検めておきたいのですが、あなたは耕三郎様のなんなんです」
「なんや、馴れ初めから話さなあかんか。あれは10年前、日清の戦役でな」
「それは結構、友人、知人、顧客、商売敵、関係性は多様にありますでしょう」
「友人や」
「それは自称ですか」
「なんや、わかっとるやないか」
「寂しい男」
「おれはな、あいつを通じて、陸軍にこの会社の販路を開拓したいと思ってるんよ。あの男は若いが、おそらくこれから組織内で力を持つようになる。これから大陸と戦争するんやろ?そこに勝機があるとおもっとる」

 明恵は深くため息をついた。結局は商売のことか。国家の一大事に己が会社の利権を最優先し、しかもあまつさえ件の若い将校にどんな期待を抱いているやら。

「さすがの将校様でも、あの若さでは望みは薄いのでは。しかもあの場で「誰だ」とのたまわれたあなたですから、彼に拘らずに考えた方が効率的ではありませんか」

 私を巻き込まないでくれ、と心の中で毒付きながらあくまで彼女の正論を述べた。

「勘や」
「は?」
「せやから、勘なんやて」

 明恵は絶句した。今時女が男に惚れる際も、そんな突拍子の無い感情の冒険はしないだろう。

「惚れとるんよ、おれは、あの男に」

 ああなんだ。女が男に惚れる、あれと同じなのか。

「なんやその顔。お前もあの男に惚れてるんと違うんか?」


 
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「めらんこりあ」(2)


明恵は応接間につながる廊下から、障子に身を隠して部屋をのぞいていた。

その青年は非道く不機嫌な顔をしていた。
招いたのは時の陸軍元帥、内務卿である。普段から懇意の教官はともかく、耕三郎でないもう一人は、明恵から見てもその緊張が理解できた。単純に動きが硬かった。祖父は偉いのだから、その反応は間違いではないと思った。

だから余計、耕三郎を注視した。

祖父が来るまでの間に、教官が二人の生徒を導き、席に着き、祖父のことを二、三、述べた。確か人となりがどうだとか、その気性の荒さに昔は苦労したものだが、とか、そのような内容だったと思う。
「舎人」と呼ばれた青年がしかめっ面を指摘されたので、明恵はその名を知った。とねり。へんな名前。教官ともう一人の名前は、忘れた。

「やあ、待たせた」

祖父は明恵の背中から現れて、ぽんと頭に手を置くと、部屋に入るよう促した。明恵は多少抵抗したが、祖父の大きな手はその背中を押して、三人の前に対面し、明恵をその横に座らせた。祖父は最近、明恵が膝に乗るのを嫌がることを知っていた。

 用ということも無い、ただの雑談のようだった。祖父と面識のある教官が、無作為に教え子を引き抜いてきたという感じで、耕三郎をのぞいた三人で、昨今の社会情勢や、軍内の空気や、祖父の若いころの話などをしていた。

「舎人は、出奔してきたんですよ」

教官に話を振られ、陸軍元帥たる祖父の視線を受けても、「はあ」と言ったきりで、特段取り繕うこともしなかった。

「出奔とはいうものだな。どうした。両親と喧嘩でもしたのか」
「喧嘩ということではありませんが、家の考え方と、自分の考え方が大きく違ったもので」
「それで、家を出たのかい」
「軍人ならば、金もかからないかと」

明恵は呆れた。そのような不純な動機で、崇高なる帝国軍の将校になるというのか!恥を知れ!
まさにそう叫ばんとすると、隣で祖父が膝を打ちながら笑った。

「ああその通りだ、そういうことなんだよ。だれが好き好んで戦場へいくもんか。金の無い、働き口の無い連中に、無償で働き口を、住む場所を与えてやっているのが軍隊だ。貴様はまさに我々の意を汲んでいるというわけだな」

教官ともう一人の生徒は隣ではらはらとしていた。耕三郎は特段意に介することも無く祖父のことを眺めていた。そのときふと、明恵は耕三郎と目が合い、驚いて目をそらした。なぜそうしてしまったのか、下を向いて必死で考えた。体がかっと熱くなった。

「問おう、舎人耕三郎。貴様、今の陸軍をどう思う。ご一新以来、国内の内乱を意識して創設された陸海軍は、今や大陸へ進出するための先兵となりつつある。今度はどうやらどこか大きな国といくさをするらしい。この国は勝てるのか。この陸軍は国に勝利をもたらすことができるのか」

祖父はえらく楽しそうだった。今は内閣の閣僚である祖父は、政財界の連中とこの家で喧々諤々としているが、そのときの何かを諦めたような空気ではなく、この目の前の、えらく不機嫌な青年の次の言葉を、童心のように心待ちにしているようだった。
 耕三郎はちょっと困ったように小首傾げ、改めて祖父に対面すると、こんなことを言った。

「軍は国の一組織。組織は意思を持つべきではない。その意味において私が意見すべきことは何もないが、今後、ただの組織の意見がまかり通ることになるとすれば」

 耕三郎がふと顔を上げた。

「わが帝国陸軍は、根本から勘違いの組織となる。それが、国を滅ぼすことが無ければよいと、今はそう思います」


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「めらんこりあ」(1)


***

 明恵の祖父は、40年前の維新で大きな功績を上げた人物だった。
祖父は今の帝国陸軍の創設に深く関わり、西南の役から台湾出兵、日清戦争と兵を率いた。その後は日本の国家体制が整備されていく中で、国会や官僚制度にも一家言を持っていたし、内閣総理大臣を経験した後も、軍人として現場で兵を鼓舞する、そんな人物だった。
 
 祖父の名は、山方有信という。有信には息子がなかった。だから有信の姉の息子を養子に迎えた。朝重はその兄三人からなる長女に当たる。が、3番目の兄から、明恵は年齢が十離れている。年の離れた女孫は、日々多忙に過ごす祖父にこれ以上ないほど愛された。

 祖父は文化人でもあった。和歌、漢詩をし、茶を嗜み、そのため庭も作った。また、それらのためによく書を読んだから、私邸には豊かに書があった。朝重の兄たちが手習いをしているのを真似て、明恵は3歳で孔子を諳んじて見せた。5歳で新聞を読んだ。7歳で時勢を祖父らと語った。

 が、その弁があまりに闊達ゆえに、近くの大人たちが論破されるようになると、7歳の少女の可愛げは、苛立ち以外の何物でもなくなった。世間は社会や国政に敏感な時期であった。社会主義だ国家論だと常日頃飛び回る中、情報と価値観を獲得し、己の心情としている人間は、大人といえどそう多くは無かったからだ。そういう人間に、朝重の言論は的を射たように見えた。大人たちは、苦笑いした。

 10歳を超えてもこのようなままであった。白い肌に黒い髪はつややかで、目鼻立ちもはっきりとしている明恵は口を開かねば見目麗しい令嬢なのである。が、他人にも人にも厳しい朝重自身の「正しさ」は、もはや祖父以外受け止める人間はいなくなっていた。父も母も、兄たちも、そして女学校の同級生たちも、明恵から距離を置いた。
 自分が孤立していく様子は、理解できていた。しかし、自分の言動や考えが間違っているとは思わなかったし、嘘やおべっかを使うという「処世術」など、自分には必要がないと思っていた。明恵の話を唯一真向から聞いてくれる祖父は、「お前が男だったらなあ」とよく言った。祖父の膝に乗り、新聞を一緒に読みながら軍人勅諭を教わったりした。士官学校に進む若い士官が必ず覚えなければならないこの訓辞をつくったのは自分なのだと、祖父は教えてくれた。

 祖父と同じ場所で、生きていけたら。

どんなにいいだろうと思った。私の言葉を、私の思いを。全力に全力で議論ができる、そんな場所。祖父がいる場所がそういうところなら、私もそこで働きたい、そう思った。

 男に生まれたかった。
 女は不自由だ。誰かに望まれる人間にならなければならないから。そこに自分の意思は介在しないから。

 明恵、7歳の5月だったと覚えている。
 祖父が、陸軍士官学校の教官と生徒を自宅に招いた。士官学校の若い教官が一人、砲兵課の生徒が2名と、騎兵課が1名、そして歩兵課の2年としてここに招聘されたのが、当時17歳の舎人耕三郎だった。

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ちょっとだけ浮上


この人たちのことは飽きることも無く10年以上毎日毎日考えているのですが、
知れば知るほど、書けなくなります。
広がれば広がるほど、時代が下れば下るほど。
これは史実ではないのだから、作り話なのだから、少しぐらい人間離れしていたっていいだろうに、
いろんな資料に触れて、わたしがその時代にアクセスするときにその媒体となってくれるのが「彼ら」なので
どうしてもフィクションに抵抗があるのかもしれません。

なんてな!ただの怠惰だ!!!(開き直り)

私は今、イベント関係の仕事をしています。
高校生の時に演劇の地区大会で、この作品の原型「桜花往生」を上演した会場で、公演を開催することになりました。
その打ち合わせで担当が、
「kanayanoさんて、『桜花往生』のkanayanoさんだよね?」
と声をかけてくださいました。
私の本名は特徴があるので、名前ならまだしも、作品の名前まで憶えていてくださり、感涙。
ねえみんな聞いて!桜花の舞台を覚えていてくれる人がいたんだよ!
一緒に舞台を作ってくれてありがとう!いろいろあったけど、演劇部でみんなと一緒に舞台を作れて誇りに思う!

というわけで、もう少し頑張ろうと思いました。
改めて一から作り直したい… いやそれは一度書き終えてからの話だ
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大陸の覇者(7)




爛華は駆ける馬上から翔の背中を見ていた。後続は九騎、翔の進言通り爛華を入れて十騎が翔に従っている。
生高攬把は、爛華の部下が連れだって自宅を脱出。おそらく無事だろう。馬を叱咤する声が聞こえる。村人の居住していた家々を包む炎は、ますます勢いを増していた。そのすぐ横を、村を取り囲むように疾走している爛華たちも、すぐ隣にその熱気を感じている。

ここに来るまでに、いくつかの死体を見た。敵に撃ち殺されたもの、殴打されたもの、焼け出されたものこれらはすべて、村の非戦闘員。そして自分たちが討ち果たした敵と、討たれた仲間。呉風が爛華に馬を並べた。翔の背を追いつつ、呉風が言う。

「信用できるのか」

 爛華も、まだ確証を得られずにいた。生高がそうしろと指示をしたのだ、爛華の今、ここにいる理由はそこに等しかった。翔の戦闘員としての実力は知っている。三年前まで、いくつもの戦場を共にくぐり抜けてきた。そうしてあの事件だ。武器を持たぬ先代の家族はともかく、武勇名高き先代梁続山当家、そしてその有力な後継者とされた梁文秀をたった一人で討ち果たした男。
 だがそれは、非常時の話だ。爛華の知る翔は、普段はどこか体の栓が抜けていて、いつもぼんやりと空を見上げているような青年だった。中国語の勉強のために子供向けの本を眺めながら、放牧された馬を眺めながら、馬の機嫌の話などしていた。
 少なくとも、あんな事件をおこすような人間ではなかった。

「わからない、だが信用するしかない」

 呉風の答えを待つことなく、爛華は馬を進めた。翔は馬の速度を落とすことなく走り続けている。やがて指定の箇所に来た。高粱畑の手前、馬さんの家の角、四手に別れろという指示に、3、3、2、2の数で四方に散った。

 組み分けは、走り出す前に翔によって指示されている。翔の下に二人、爛華の下に二人、残った4人を二つに分けた。そうしてまた、ひたすら走り続ける。止まることなく、目の前の敵をなぎ倒す。

 集落は、谷にある。村への入口は3つ。北京へつながる幹線へ続く道が一本、村人たちが営む田や山へつながる道が一本、そして村人しか知らぬ細いけもの道が一本、森の中へ続いている。お椀のようなくぼみは天然の地下要塞のようになっており、あらゆる道は上から下へと続いている。

 翔は村を駆け巡り、その地形を頭に叩き込んだ。牢から出て初めてみる地形ではあったが、当初の想定で攻略は可能だと判断した。
 すれ違いざま、翔は爛華を呼び止めた。

「後続が入り始めた。数は五百程度まで膨れ上がるぞ」
「到着までの時間は」
「十分と言ったところか」

 そこまで言って、爛華は心中の焦りを部下に悟られないことに気をまわした。見方の騎馬は十。相手は直にその五十倍となる。
 味方の二騎が、敵騎馬に追われていた。爛華の部下は敵の馬上からの攻撃をかわし、なぎ倒した。そうしてまた後方へ駆けて行った。

「どうする」

 翔は、村で一番高い構造物を見やった。物見用の櫓。

「弾薬は残っているのか」
「残念ながら、倉庫に山ほど。あれを持ち出す時間があれば、もう少しマシに戦えたんだがな」
「だろうな」

 見越していたというふうに翔は弾薬倉庫に向かった。爛華と残りの四騎もそれに従った。
 翔が幽閉されていた牢のすぐ隣、冷え冷えとした混疑土の倉庫には、手付かずの爆薬が残されていた。翔は長銃を手に取り、弾を装填し爛華に渡した。

「できるだけ持ち出せるか」

 翔、爛華と部下でそれらを櫓の下に運んだ。櫓は村のほぼ中心、村の一番大きな入口の目の前に位置している。それを村の数か所に仕掛け、最後は翔が確認した。
 村の中を駆け巡っている敵騎馬はおよそ百といったところか。そのほとんどは訓練されたものではなく、いわば子飼いの私兵であろう。
 設置が終わると、あとは爛華の部下に遊軍として村を駆け回ってほしいと伝えた。敵を引き付けるためだ。爛華がそれに従おうとしたが、翔は止めた。

「おまえには別の仕事がある」

それを見ていた呉風が、「指揮は任せろ」と言って、にっと笑った。戦場では爛華の部下であるが、普段は兄貴分である。爛華は心強かった。「すまない、任せる」といってほっとしたように力なく笑った。「帰ったら酒盛りだぞ!お前のおごりだ!」そう言って呉風は仲間を追った。

それを無言で見届けて、翔は馬を駆った。敵の指揮官が近くにいるはずだった。村の入口に、それらしき人物を見つけた。爛華もそれに気が付いたらしかった。爛華は手持ちの銃を装填した。翔はそれを止めた。
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大陸の覇者(6)

 
 生高が声をかけるより早く、翔は膝をつき、頭を垂れた。右肩からぼたぼたと血が落ちた。

「罪人である自分が、村を総べる梁攬把の前に、許しなく参上したこと、お許しください。お願いがあります」

 生高は完全に不意を打たれた形になった。どんな敵が来ようと、迎え撃つ心は決めていたが、まさかここで一族の敵が現れようとは。しかもその敵は、打ち損ねた自分の「敵一族」を前に、武器もなく、無防備に頭を下げ、まるで敵意は無い。
 この男を殺さず、生かしておいてのは自分だ。それでも、互いに互いの家族を殺しあった以上、これ以上歩み寄ることはできないことも理解していた。ならばなぜ、生かしておいた。秀でた弟がそうしろと言ったからか。否。

 翔の右肩からはとめどなく血が流れ続けていた。片膝をついて意識を保っているのも辛いはずなのに、まるで痛覚を失った人形のように、翔はそこを動かない。あのときと一緒なのか、と生高は思った。普段の大人しい翔ではなく、まるで正気を失い、人間としての情を失い、鬼神の如く怒りを爆発させた、あの時と。

「なんだ」
「あなたはここを離れてください。あなたがいなくては、この村を再建できない」

 いきなり何を言うのだ。貴様は、この混乱に乗じて俺を殺しに来たのではないのか。

「わたしがここを抑えます。そのために騎馬を十騎ください」
「十騎で何ができる。爛華の軍も、直にこの村を離れる。今更殲滅など」
「この兵をここに残したままで拡散して逃げたところで、東北王の追撃から村人すべてを守りきることなど不可能です。ならば、追撃の無意味さを知らしめてやればいい。先遣軍を壊滅させ、敵の戦意を挫く。あの男ほどの戦術家なら、先遣隊の全滅に追撃の意味を再考するでしょう。あなたは、東北王の攻撃をかわし、村を救った英雄になる。英雄は新たな地で、来るべき日に備え戦力を蓄えてください」

 正気か、と生高は思った。まず、五百はいるだろう張攬把の先遣軍を壊滅させようということ。そのことによって張攬把は自分たちへの評価を改めるだろうということ。そしてなにより、この状況を作り上げた自分に、もう一度村を総べろと、この男は言うのだ。

 さすがに血の気を失ってきたのか、膝をついたままの翔の体がぐらりと揺れた。そこに駆け込んできたのが爛華。すんでのところで翔を抱きかかえた。
 翔は、子杏の行方を聞いた。

「安心しろ、すでに村を出した。お前はこんなところで何をしているんだ!行こう、ここももう危ない」

 爛華はそこまで言って、あらためて生高に向き直り、片膝をついて戦況を伝えた。村人の退避は完了、村内の敵兵三百程度、時期に三百ほどが合流するだろうということ、こちらの残存勢力は五十機程度。

「十分だ」

 翔はそう呟いた。やがて立ち上がって、生高の顔を見た。
 生高はあのときのことを思い出していた。父を殺され、母と兄弟を殺され、瀕死の文秀を前に、鬼神の如く自分を見つめる、翔の黒い瞳を。

「迷っている時間は無い、命令を、攬把」

 翔は生高を攬把と呼んだ。憎むべき、親の仇を。
 そうして生高は思った。この男は、正気だ、と。あの時とは違う、心を見失った人形ではない。
 生高は翔の要求通り、爛華に騎馬を出すよう伝えた。爛華は意図を掴めずにいたが、「現場に出たら、文山の指示に従え」とさらに指示を加えられ、「明白了」と、拳を手に当てた。
 
「俺はどうすればいい」
「逃げてください。あなたは必ず、生きて」

 それだけ言うと、翔は出血が続いている右肩を抑えてようやく立ちあがり、階段を下りて行った。爛華は自分の部下をこちらに寄越しますとだけ生高に伝え、翔を追いかけた。
 
 なんだというのだ、あの男は。

 だがしかし、この状況であの男に頼るしか、この村を守る術を、私は持ちえないのだ――。

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大陸の覇者(5)

子杏が覚悟を決めるより早く翔が子杏の体を庇い、刹那、目の前の銃口がその体もろとも視界の右方へ吹っ飛んだ。状況を理解しようと思考を巡らす前に、聞きなじんだ声がした。爛華だ。

「無事か!」

子杏を庇っている翔の体は、先ほどの落馬で背中を強打している。うまく動けないの、と子杏は爛華に懇願するように言った。爛華が気遣うように翔を見やると、翔はもう自分で体を起こしており、立ち上がろうとして、倒れた。

「当たり前だ、3年も牢獄に繋がれたままだったんだそ、体中の筋肉が使い物にならないことくらい自覚しろ」

このときようやく子杏は気が付いた。そうだ、日も当たらない堅い石塀の牢獄で長く暮らしてきた翔が、なぜここまで自分を連れてこられたのだろう。自分を引く手、乗馬、ここにくるまでに、自分たちを殺そうとする敵を何人も倒してきたのだ。

「今部下を呼ぶ。先導させるから、先に逃げろ」

翔はなおも立ち上がろうとした。爛華の手を払って、その時初めて、翔は目の前の人間と意思を通じようとした。

「生高は」
「自宅だ。ここを片付けたら、俺は攬把のところに戻る」
「数は」
「敵先遣隊が千、現状我々は三百前後。村の人間を逃がす方に兵を裂いてる。向こうは張攬把の軍だ。本隊の数はおそらく……」

 それを聞くと、翔は手近な馬の手綱をとり、跨った。先ほどまで立つことすら難しかった男の身のこなしでは無い。

「子杏」

 翔が子杏の名前を呼んだ。子杏はそのことに驚いて肩を竦めた。

「ここを離れろ。お前は生きろ。必ず生きろ」

 そうして翔は馬の腹を蹴った。爛華はそれを制すべく翔の名前を呼んだが、馬上の後ろ姿は、燃え盛る民家の煙にまかれ、すぐに見えなくなってしまった。


 ***


 生高は椅子に座り、村内の諍いの音を聞いていた。
 爆音がするたびに壁が揺れた。生高の自宅兼軍議所は2階、先ほどの爆撃で窓ガラスが割れ、直接月の光が部屋を刺していた。兵士の声が聞こえる。生きる力の漲る怒声と、消えゆく命の断末魔。ようやく気付いた、村の人間の安息がことごとく踏み荒らされていく。やはり自分には、ひとつの集団を収めるほどの力はなかったのだ。初めから理解していた。だが仕方なかったのだ。

 父である先代、梁続山は武に秀でた男だった。小さな村から身を立て、やがて一代で村一つを守護するようになった。やがて村の女との間に生まれたのが生高。女は生高を生んですぐ亡くなり、上海の料亭の女将を自分の妾にした。その女との間に生まれたのが二男文秀。やがて隣村から新しく正妻を迎え、三男と四男が生まれた。妾との間にもう一人女の子。その他に、敵地から文秀が拾ってきた孤児が、兄弟に加わった。孤児は「文山(ウェンシャン)」と名付けられた。

 すぐ下の弟、文秀は文武ともに優れた人物だった。父の軍の参謀も務めた。生高もまた非凡ではなかったために同じく参謀職を奉じていたが、文秀は当家の長男である生高を立てるように、自ら進言することも無く、人知れず生高と次の作戦を話し込み、立案はあくまで生高のものであると皆に知らしめた。戦場においても現場指揮を執るのは文秀。かれは天性の才で人心を集めた。文秀の指揮に、軍の指揮は上がった。生高自身は、次の当家は文秀だと思っていた。文秀はそのつもりは無いといった。

「日本人に、その任は務まらない」

 当家の妾は日本人だった。
 そしてその文秀が拾ってきた孤児も、純粋なる日本人だった。
 その日本人に、血のつながらない末弟に、生高は右手を奪われた。
 文秀も、先代も殺された。
 齢十八の少年を相手に、先代一族は成す術もなかったのだ。



 ぎし、ぎし、と、階段を上がる靴の音が聞こえた。
 家の前を守る兵もいたはずだが、それをまた、儚くなったということか。

 さて、ここに至るものが将のクラスであってほしいものだ。少しでも話ができれば、逃げるものどもの力になることもできるのだが。

 鼻で自嘲した。文秀、貴様ならこの局面、どう乗り切る。自らの兵をこれだけ殺して、せいぜいできることが時間稼ぎ程度とは。
 張攬把は襲撃した村の人間を根こそぎ殺害するのだという。禍根を残せば、その人間が張攬把の命を狙いに来るからだ。その非情さがかの強さを形成し、一方私は、この程度の戦術しか見いだせぬ。ここで時間を稼いだとて、足の遅い女子供、老人は取って返したかの軍に皆殺しにされるだろう。せめてもの護衛に兵力を裂いた。なんと中途半端な。
 非情になりきれぬ将は、いずれ淘汰されよう。その時が来たのだ。

 靴の音が扉の前で止まった。
 生高が意を決して眼前を見据える。

 来訪者は足元もおぼつかず、壁に手をついて歩いていた。肩で深い息をしている。衣類に血液が付着しているが、右肩以外は彼のモノではないらしい。

 生高は記憶をゆっくりと底から引き揚げた。
 忘れるはずもない、だがまさか、いまここで目にするとは露程もも思わなかった。

 来訪者がゆっくりと顔を上げた。その顔が、生高を捉えた。
 
 あの日、以来だ。
 あの日、父を殺し、義理の母と弟たちを殺し、生高の右腕を奪い、
 そして、文秀を殺したあの日。

「文山」

 翔は生高の部屋に不自由な足を踏み入れた。
 割れたガラスの向こうで、いまだに砲撃は続いている。
  
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大陸の覇者(4)

***


爛華は馬上である。
軍議解散の後、攬把生高を席上に残して孤軍奮闘している。爛華軍、数八十。すでに張軍の先遣団が村の中に入り始めている。逃げ遅れたものを見つけては部下を附けて外を逃がしてやり、敵とぶつかれば果敢に銃剣を取った。村への初弾から約2時間、爛華の軍の損耗率は1割に満たない。

馬上で一人切り倒し、首筋に流れている名も知らぬ敵の返り血を袖で拭った。ぐるりと村を見渡す。方々から火が上がり、敵味方双方の剣戟だのモーゼルが銃撃音を響かせている。爛華の軍にも弾装填の効率のいいかの銃を使い始めていたが、張軍のような潤沢な資金の無いこの村の重火器の装備で、敵の火力には遠く及ばない。
爛華は耳を澄ませた。熱く荒んだ空気の中に、女子供の声は聞こえない。部下が伝令に来た。非戦闘員の避難はほぼ完了、わが軍の損害戦死8、負傷10、敵軍本陣は半刻以内に到達せんと予測せり。爛華は自分よりも年上の部下に「明白(わかった)」と呟いた。

「連中が来る前に撤退する。攬把をお連れしろ」
「当家、残るおつもりですか」
「ばか、しんがりを務める。伝令次第おれに付き添え」

 部下は微かに顔に喜色を浮かべて、馬の腹を蹴った。かの男、名を呉風(ウーフェン)という。齢30。爛華は今年25になる。戦闘時は爛華の立場が上であるが、人生の経験は呉風が上である。平時では、爛華は呉風を兄として慕っている。呉風は爛華の気質を理解し、上のような気を使った。
 
 燃え尽きた家屋が音を立てて崩れた。その陰から騎馬兵が二人向かってきたので、モーゼルを左手に持ち替え、剣を抜きがけに一頭を切り倒した。もう一人は、爛華の別の部下が相手をした。その決着を見ぬ間に、月を背にして馬を走らせた。村はずれの牢獄。友人が長く、そこで暮らしている。語弊を許せば、そこに存在し、ただ息をしているのだ。
 
 飾り気もない混凝土の建物が、友人が捕えられている牢獄であったのだが、そこはすでに砲弾によって壁も屋根も粉々に吹き飛ばされていた。爛華はゾッとして馬を降り、混凝土の瓦礫をかき分けたものの、それらしき人影はなかった。安堵の溜息。すぐに息を吸い込み、馬に飛び乗った。3年も牢獄につながれたままの友人が、この混乱の中を逃げ切ることなどできるわけがない。
 部下たちは引き上げを始めている。遭遇した敵をなぎ倒しながら見方を叱咤し、一方で友人を探した。友人は先代当家の一家を殺害した犯罪人である。本人の事情を酌量したとしても、到底許される罪ではない。とはいえ、ここで見捨てられたまま死んでいい理由もない。

***

 月光が味方している、と子杏は思った。先ほどまでほとんど息をする粘土のような存在であった翔が、子杏の手を引いて全力で走っていた。子杏の手を握る力は信じられない程強く、この状況でなければ痛いと主張したいほどだった。目指す先はおそらく、子杏の家だ。ただし、人の足で全速力で走ったとしても、ここからでは半刻はかかる。
 子杏は翔に安全な場所に逃げよう、とは言わなかった。頭上では弾丸は飛び交っているし、行く手にもすでに何度か、敵の襲撃を受けた。馬上から銃口を向けられると、まるで弾丸を見切れているかのように体を逸らし、子杏を守った。建物が崩れ落ちた残骸から木材を掴みだし、馬上の兵を叩き落とした。翔は表情を変えず、次々と目の前の脅威を排除していく。まるで鬼神だ、と子杏は思った。しかし、自分が命の危険にさらされるような状況であるというような恐怖は、嘘のように感じなかった。ただ、翔に掴まれた左手首が、熱を持ったように熱かった。

 子杏がふと家のことを考えた瞬間、どおっと爆風に巻き込まれ、翔とともに吹っ飛んだ。翔は子杏の腕を引いて抱きかかえ、衝撃から彼女をかばい、背中を強打した。子杏がそれを気遣おうとするより速く、二人を目がけてきた敵兵を翔は殴り倒した。その敵兵が持っていた青竜刀をまだ煙のたちこめる場に投げ込むと、男の悲鳴が聞こえた。子杏はまた手を強く引かれ、そうして翔は、青竜刀を胸に食らって転倒した男の乗っていた馬をいなし、先に子杏を乗せ、自分も乗り、馬の腹を蹴った。たずなを握ると、馬は始め抵抗したが、すぐに翔のいうことを聞いた。そういえば、翔は昔からよく馬に好かれていたな、と子杏は思った。

 馬の足で、10分もしないうちに子杏の家についた。人の姿は無く、建物は無残にも炎に包まれ、なじみの壁がガラガラと崩れ落ちていた。

「妈妈!」

 子杏は馬上から叫んだが、反応は無かった。祖母と、妹の名前を呼んだ。同時に、家の支柱が折れ、翔は馬を引いた。その瞬間銃声がして、子杏が自分が被弾したと思った。痛みが来ないので翔に振り向くと、子杏をかばう形で、翔が右肩に被弾していた。

 翔の体が一瞬、後方へ揺らいだ。子杏は翔が落馬しないよう、その体を抱きとめようとしたが、一瞬間に合わず、二人で地面に体をたたきつけた。

 ようやく子杏が顔を上げると、目の前に銃口を見た。なんとか翔だけでも助けたい、動かない翔を庇うように、子杏は身を乗り出した。

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大陸の覇者(3)


***

 翔の獄舎は、村のはずれにある。
 中心から南西、切り立った崖を眼前に、掘っ建てた小屋は半地下の状態で風通しも悪い。混疑土で固めた床と、鉄格子が翔を拘束している。
 もうほとんど自発的な行動をとろうとしない翔は、寝ることにも食べることにも興味を失っている。さまざまな体の不調にも意識が回らず、ただ薄らぼんやりと鉄格子の外を見やるだけだ。普段は小屋の扉も閉まっていて何が見えるわけでもない。が、彼女がやってくるときだけその扉が開かれる。特に朝。彼女が「早好!」と声をかけながら扉を勢いよくあけると、季節に応じた新しい空気とともに、差し込む陽の光が、翔への唯一の刺激となる。まぶしくて目を閉じると、鉄格子をがちゃりとあけた彼女が、あらためて「おはよう」と翔に声をかけ、抱き起す。陽の光によって強制覚醒された翔は、ようやく瞼をあけて彼女のことを思い出そうとする。

 楊和(ヤン・フー)。

子杏(シーチュアン)と呼ばれている。翔がここに幽閉されてよりずっと、彼女が翔の面倒を見ている。朝はこうして朝餉を運び、小屋の掃除をして翔の排泄物もかたずける。昼飯の後は子杏は鉄格子の前で縫い物など家内作業をしていて、思いついたように翔に話を振ったりする。翔は何も答えない。それでも子杏は会話をする。やがて夜になる前に翔の体を拭いてやり、夜飯を用意し、そうして家に帰る。
 子杏は翔よりも2つ年上で、齢23。翔がチウのもとで暮らしていた時からの知り合いで、翔の叛乱の前に村の男と結婚。しかし、旦那はここにいたるまでの戦闘で死んだ。その後は結婚もせず、幼馴染である翔の面倒をせっせと見ているのである。
 3年たっても翔の状態は良くならなかった。子杏は知っている。カケルは苦しみ続けているのだ。おのれの所業を。大切な人を自ら手にかけてしまったことを。かれが彼自身を呪い続ける限り、翔が立ち上がることは無い。だけどこの子は、あの文秀が守ろうとしたんだ。生高攬把も、彼を生かしている。カケルは生きなければならないんだ。それに、早く気が付いてほしい――。

「カケル!」

 夜半、子杏が翔の幽閉されている扉を勢いよくあけた。月明かりが暗い小屋に入る。翔に特に反応は無い。それでも子杏は鉄格子にすがりついて状況を伝えようとした。

「大変なの、村が馬賊に襲われてる。チャンの軍だとみんなは言っているわ。ここは危ない、早く逃げましょう」

 切迫を告げても、翔の表情に変化はない。子杏は鉄格子を空け、腕をつかみ、翔をそこから引きづり出そうとした。翔は起き上がろうとしなかった。

「今ならだれも咎めはしないわ。攬把にだってあたしが掛けあうから」

 小屋の外でドオンと音がした。たくさんの馬の蹄の音、そして男たちの声が聞こえる。銃声が重なり、それらは地面を振るわして翔と子杏にも伝わった。子杏は様子を見に外に出て、すぐに引き返してきた。小屋の壁にも銃弾が当たり始めている。
 その時初めて、翔の手が動いた。焦点の定まらぬ目は、子杏を見てはいなかった。長く自分の意思を持たなかった腕は、ゆっくりと子杏の手に触れて、そして自らの腕をつかむ子杏の腕を引きはがした。
 カケルがおのれの意思を見せた――!そのことに子杏は驚き、そして嬉しく思い、しかし事の急をすぐに思い出して、素早く強く翔の腕をつかみ、先ほどよりも本気で、翔をそこから引き出そうとした。それよりも強い力で子杏は振り払われ、後ろに吹っ飛んで壁に背中を打った。ほぼ同時に、子杏のよく知る女が、真っ青な顔で飛び込んできた。

「大変だよ子杏!」
「何しているの、早く逃げて、ここは危ない」
「あんたの妈妈(母さん)が逃げ遅れて」

 子杏の背筋に冷たいものが走った。奥歯を噛みしめ、女が共に来るよう促すのを見ていた。底知れぬ絶望感。今行ったら間に合うだろうか。行かねばならないだろう、しかし、子杏は腰が抜けてその場から動けなくなった。外では銃弾の音が絶えず響き、その跳弾が女の頬を掠めた。女は短く悲鳴を上げてその場に尻もちをついた。
 女はすぐに立ち上がって子杏の腕を引いたが、子杏は立ち上がることができなかった。先ほどまで一緒だった母親のすがたが脳裏に浮かんでいた。祖母と祖父はどうしただろうか。10歳になる妹は、無事に逃げられただろうか。そのすべてが、自分の理想の状況に結びつかなかった。 

「帮助(助けて)」

 掠れた声で、子杏は呟いた。

「帮助妈妈(お母さんを助けて)」

 子杏は涙を流しながらそうつぶやいた。その瞬間、大きな爆風が小屋の壁を吹っ飛ばした。子杏も女も、したたかに体を打ちながら、かすり傷で済んだ。子杏ははっとして鉄格子を振り返った。カケルは大丈夫か。鉄格子はその上半分が吹っ飛んでいた。屋根ごともぎ取られた小屋を、月光が照らした。
 ガラガラと瓦礫を落としながら、翔が上半身を起こした。隣で女が恐ろしいものを見たように、息をのんだ。子杏は翔に駆け寄ろうとしたが、どうやら足を深く傷つけたらしく、動くことができなかった。

 その時、喉から空気が漏れ出るような言葉で、翔は子杏を呼んだ。子杏は聞き違いかと思った。翔の目は、いまだ光を映していない。子杏は「什么?(なに?)」と聞き返した。翔は再び口を開いたが、子杏には聞こえない。動かない足を引きずり、ようやく翔にたどり着くと、翔の上半身がぐらりと揺れた。子杏はそれを抱きとめた。

「カケル」
「――。」

――生高に会わせてほしい。

 子杏の腕の中で、翔はそう、呟いた。

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大陸の覇者(2)

伝令は、張軍の侵攻を伝えている。

夜半過ぎに、この村は射程範囲に入るだろう。張軍は、斥候という名目で1度に百に近い騎馬隊を送り込むことを連日行っており、その対応に生高の軍の戦力は徐々にすり減っていた。もと5千超あった生高の軍だが、今から近隣の有効戦力を集めてもせいぜい1千騎馬。対する張軍は8千と伝令は伝えている。戦場の摂理は数でなく戦略とは言うが、さすがに村の女子供を守りつつ、奇跡の逆転を願うことはできない。先手を打つことも、守りに徹するのも、今の生高の理解では、この村に勝ち目はない。張軍は、その後の報復を根絶するため、村の女子供も根絶やしにするという。凄惨な情景だが、生高には理解できる。自分らに家族を殺された少年が、生高の家族を討ち果たした。しかも、たった一人の少年が、だ。

「攬把、南西の角然の一軍は、張の幕下に下りました。数150。進軍を開始しています。張の本軍とほぼ同時刻に村の境界にいたりましょう」
「角然が寝返っただと!?あれは先日、春節の祝賀と称して、攬把に貢物を献上したばかりではないか!」
「許平兵に続いて3例目か。この情勢においては、想定できない事態ではなかったが」
「攬把、打って出ましょう。現時点において後手に回ることは、もっとも攻勢に出にくく、陣形も組めません」

 生高の周りにいるのは6人。それぞれが当家と呼ばれる部隊長で、同時に生高の軍の参謀でもある。彼らが、張軍に対する対抗策を議論している間にも、生高は口を閉ざし、村を中心とした地形図を眺めている。生高の指示で当家たちが3年をかけて作り上げた、軍用地図である。地元の人間しか知り得ぬ抜け道や、散会後の集合場所、奇襲の際の陣形配置などがこまかに記されている。伝令によると、張軍は北西の方角からやってくる。崖下に広がる生高の村の、唯一の入口である。生高を裏切った角・許の軍は、おそらく東南からくる。ここは崖のもっとも傾斜の甘い地域であり、熟練の騎馬隊であれば下ることは可能。この村の地形を理解している人間にしかとり得ない進路である。
 兵を分散させるわけにはいかない、と生高は考える。張本軍を迎え撃つには、現勢力のすべてをぶつけても勝機は望み薄なのだ。死ぬための戦はしたくない。

「非戦闘員を避難させろ。地点は分散。5人程度の家族に1人、騎馬の護衛を付ける。その際、村正面、そして後方「登亀壁」からの脱出を避けること。半時で完了しろ。出たあとも、張本陣からの早駆が索敵していることも考えられる。注意を怠るな。戦闘終了後、『亞』の地点にて合流する」

 馬と呼ばれる当家が力強く返事をし、部屋を出て行った。張軍侵攻まであと3時間程度。守りながらの戦闘は圧倒的に不利だ。守る側、守られる側双方に被害が出る。
 さあ、ここからどう出る。

「攬把、われわれも逃げましょう」

 残った4人の当家も、そして生高も思わず顔を上げた。それは当家の中でも最も若い、李爛華(ランホア)であった。生高が下した馬賊の頭領がここの当家となることが多い中で、爛華は生まれも育ちもこの村で、まだ先代が生きていたころから生高を共に馬を並べていた人物である。
 その爛華が逃げるという。あるものは落胆し、あるものは怒号を上げた。爛華、貴様の武勇は見かけ倒しか。窮地に陥った今、本性を現したな!
 爛華はじっと生高の顔を見ていた。周囲の怒号は、爛華の耳には入っていないらしい。生高は「聞こう」と応えた。

「勝つことは無理です。特攻して守備隊が全滅すれば、散会した村の人たちが指定地区にたどり着く前に索敵に捕まります。どちらにしろ全滅です。張軍はおそらく、真正面からこの村を落としに来ます。いずれにしろ、この土地は連中の手に渡ります。ならばいっそ、この村を、この土地を、囮に使います。われわれは少人数、ここに残り、時間を稼ぎます。みなさんは、脱出した村人を一人でも多く、遠くに逃がしてあげてください。私たちは、張軍を少しでもここに留めます」
「爛華、あれだけの敵勢を前に、戦いもせずに逃げろというのか。馬賊にも、われわれにも貫くべき道というものがあるのだぞ」
「あなたがたは攬把の幕下に下った時点で、馬賊でも匪賊でもない。はき違えるな。貴様らを統率するのは、梁生高攬把、その人だ」

 なにやら呑み込めぬ当家たちを意に介することなく、爛華は生高の反応を待った。この村が武力を持つ根拠は、外敵から村人の生活を守ることであり、領地争いではない。この土地がなければ、また新たな場所で村を構成すればいいのだ。その大元をたどるなら、今回の戦争に勝たなければならない理由は無い。ならばこの村の持ちうる武力は、村人を一人でも多く生き残らせることに目標を変更すべきだ、爛華はそう言ったのである。

「ここには私が残ります。攬把、今のうちに」

 爛華のまなざしに迷いはない。残り4人も、この場ではそれが最善と納得するものもいる。納得がいかぬ血の気の多い当家の一人は、「俎上之鱼!(どうにでもなれ!)」といってタバコをふかし始めた。態度に差こそあれ、大方爛華の進言が妥当だと、皆理解したのだろう。当家たちも一軍を率いる統率者なのだ。戦の引き際を理解している。
 村内に残る爛華の隊は約2百。先の指示で村人の護衛に出たのが150。村外に出る生高軍の主力は650となる。
 方針が決まった。張軍の予想侵攻時刻まで2時間。あとは村内に張軍を迎え撃つ準備をするだけだ。

 そのとき、轟音と共に猛烈な風圧が部屋のガラスを内側に吹っ飛ばした。事態をすぐに呑み込んだ当家らは自らの持ち場に走り出す。爛華はひしゃげた窓枠から外の様子をうかがった。村人はいない。馬の蹄の音が聞こえる。距離は千。砲弾を撃ち込まれる可能性は否定できないが、急げば準備も間に合うかもしれない。

「攬把、行きましょう!」

爛華ははっとして振り向いた。生高はまだそこにいた。当家の一人が、腕を引こうとしている。だが生高はそこを動こうとしない。

「予定よりずいぶん早かったな」
「ええそうです。これから連中を迎え撃つ準備に入ります。攬把、あなたも劉当家とともに、脱出を」
「悪いが残らせてもらう。劉、貴様は先に行って本隊と合流、村の連中を援護しろ。爛華」

 爛華は名前をよばれ、背筋を伸ばした。生高はこの想定外の非常事態においても動揺している様子はなかった。
 ふと、先代当家を思い出した。そうだ、こうして、物言わず人を従わせる力を持った人だった。
 その先代を殺したのは、無二の友人だった。咎を犯した友人をかばったのが自分で、そうして先代は友人に殺されたのだ。
 先代の幻影に、爛華は反射的に「到(はい)」と返事をした。

「いざという時に俺を使え。足止めくらいにはなる」

 爛華は劉当家に行け、と指示をした。まだ躊躇っている劉に「こちらは任せろ」と言ってやった。劉も爛華も同じ当家である。同じ戦場を駆けた誼、それ以上の後腐れは無用だった。
 この村の指導者を戦場に残すという判断は、決して肯定されるべきものではないと、爛華も自覚している。だがこの場において、もっとも優先されるべきものを顧みたときに、生高自身の判断は、確かに妥当であるのかもしれない。

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